« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月

4-6月期経済予測

 三菱総合研究所が、2011年4-6月期GDP速報値予測を発表した。

 それによると、同期のGDPは、名目で、前期比マイナス1パーセント(季節調整済 年率マイナス4パーセント)、実質で、前期比マイナス0・5パーセント(季節調整済 年率マイナス2パーセント)である。

 2010年7-9月期からの変化を見ると、10-12月期にはマイナス0・7パーセント(年率マイナス2・9パーセント)に落ち込んでいて、三期連続マイナスとなる見通しである。10-12月期のマイナスの内容は、民間最終消費マイナス1パーセントと公的固定資本形成がマイナス6パーセントで、公私の消費が落ち込んでいた。

 2011年1-3月期は公的資本形成はやや改善しているが、それでもマイナス1・4パーセントでマイナスだったが、4―6月期は、一転してプラス3・1パーセントと予測されている。これは復興需要によるもので、民間最終消費はマイナス0・5パーセントと予測されている。前期がマイナス0・6パーセントでほとんど変わらない。相変わらずデフレが続いている。

 世界経済的には、ギリシアの債務危機再燃からヨーロッパ経済の混乱が起きているが、それに続いて、アメリカで債務デフォルトが起きた場合の金融・経済的影響の方にエコノミストの関心が向いている。大量のアメリカ国債を持つ日本にとっても大きな問題である。しかし、その一部の議論を見ていると、結局、債務デフォルトが起きた場合の期経済的影響について正確な予測を立てられるエコノミストはいないようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

福島県「脱原発」宣言の大勝利

 福島県が「脱原発」を宣言した。これで、世論の多数が「脱原発」になったことで、趨勢的に「脱原発」は確定的な傾向となった。「脱原発」派の大勝利である。3・11からわずか4カ月のことで、それだけ3・11は大事件だったということだ。

 もちろん、原発事故は終息したわけではなく、放射能汚染問題も、これから低レベル放射線の長期的影響の問題が重みを増してくることは言うまでもない。この勝利をてこに、全原発の廃炉へのプロセスを具体化させていかなければならない。

 

 福島県「脱原発」を宣言 被害拡大、共存を転換

 東日本大震災で被災し、東京電力福島第1原発事故による甚大な被害が続いている福島県は15日、東日本大震災復 旧・復興本部会議を開き「脱原発」を基本理念に掲げた「復興ビジョン」を取りまとめた。1971年の第1原発1号機の営業運転以来、第2原発を含め10基 と共存してきた福島県が正式に原発との決別を宣言した。

 菅直人首相も「脱原発」を表明してエネルギー政策の転換を主張。福島の復興ビジョンは国の原子力政策や原発関連施設を抱える他の自治体にも影響を与えそうだ。

; 資源エネルギー庁の立地担当者は「原発立地の自治体が脱原発を掲げたのは聞いたことがない」と話した。 2011/07/15 【共同通信】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

原発事故と知の問題

 原発事故をめぐって、「原子力ムラ」の垂れ流す安全神話がずいぶん暴露されてきたが、その際に、認識論的側面というのがあって、それについてきちんと考えないといけないと思っている。認識論などという哲学的な問題について、原発事故という現実的な問題とどう関係があるのかとか、そんなことよりも被害を食い止めるのが先だとかいう意見があるかもしれないが、神話を真実と認識させる認識構造や専門知・科学知の権威の働きとか構造とか、そういうことまで分析・解明していかないと、また、同じ事を繰り返すことになるのではないだろうか。例えば、たばこの健康被害についても似たようなことがあると思う。

 データの信ぴょう性は、確率論的に言われているのだが、それが固いかゆるいかということは、一般の人にはよく判断がつかない。そのようなデータの読み方に馴れてないということもあるだろう。例えば、放射能の危険性についての数字だと、何ミリシーベルトで、発がんの確率どれくらいとかいうことが出てくるし、それも、いくらかの基数(ガンマー線、アルファ線とか放射線の種類によって異なる)を乗じるとかいろいろあって、面倒だ。それで、どれがどれぐらい危険なのかをなかなか直観的につかめないということになる。おそらく、専門家でも直観的にはあまりわからないのだろう。原子核内部の量子的世界に入ると不確定性が出てくる。中沢新一氏が言うように、それまでの原子核の外側を回る電子を使ったエネルギーの取り出し方とは違う力の世界がある。弱い力、強い力、電磁力、重力、4種類の力が存在するのだが、それらを統一する理論はない。よくわかっていないままで、そこからエネルギーを取り出しているのが原子力発電である。でも、最終的にはお湯を沸かして蒸気を作ってタービンを回して電気を起こすというのは他の発電方法と同じだ。太陽光発電だけは、光エネルギーで電子を飛ばして、熱エネルギーへの転換なしに電気を起こすので、それとは違う発電の仕方である。核分裂で出るエネルギーの量は、アインシュタインの相対性理論でE=MC。物質の持つエネルギーは、質量×光速の2乗という巨大なものだ。量子の種類は新しく発見され続けて、どんどん増えている。粒子加速器を使って、粒子同士をぶつけたりすると、新しい粒子が出てきたりする。4つの力を統一する理論というのが統一場理論で、アインシュタインなども懸命にそれを構築しようと努力したが未だに出来ていない。頭ではわかっても感覚的につかみにくい超微小な世界である。量子の波動性と粒子性を同時にイメージする事は出来ないなど、視覚的なビジョンでは写せないことが多い。

 しかし、社会にとって、科学知の持つ意味や認識や判断について解明することは出来る。物理的な現象についての知のあり方を問うことは出来るし、ましてや、それが持つ社会的意義について理解することは可能である。例えば、何々は真であるという言明について、その意味を考えることが出来るし、また、こうした知の権威によって、重大な問題が起きたことを考えるとなおさらそうしなければならない。例えば、『思想』(岩波書店)の「帝国」特集に、『帝国主義論』を書いたホブスンについての論文があるが、その中で、帝国主義を批判するホブスンが、帝国主義を支持する大衆の批判を浴びたというエピソードがあり、そこから、帝国主義が持つ排外主義に人々を熱狂させる力(神話的力)について、彼が考えるようになったということが指摘されている。同じ特集には、それと、アーレントの問題意識の類似性を指摘する論考もある。排外主義に熱中する大衆の姿は、アーレントにとって、ナチスの人種主義を支持するドイツの大衆の姿とオーバーラップしていたのである。

 「原子力ムラ」の問題に戻ると、専門知・科学知は別に「真」というわけではなく、そういう知の一形態であるということを踏まえないと専門家が取る特殊な権威の力に負けてしまうと考える。「真」という概念が持つ意味や判断についてつきつめて考える必要がある。

 あるいは、「事実」の事実性についても同じような問題があり、それについては、ヘイドン・ホワイトという人の議論が参考になるのではないかと思っている。何々は事実であるという言明が何を意味しているのかということをよく考えてみなければならない。それによって、歴史修正主義の登場によって露わになった「歴史は物語なのか、事実なのか」などの相対主義や実証主義などの問題も有意義に考察し直す事が出来るようになるのではないだろうか。沖縄戦の集団自決問題をめぐって争われ被告勝訴が確定した大江・岩波裁判もそうした点から考察してみることが出来るだろう。

 その他、『思想』(6月号 岩波書店)の特集は、専門知・科学知と一般知・大衆知との関係を社会学的に考察した論文を集めていて、これも参考になりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

九電やらせとレーニン

 以下の記事は、すでに死んでいるこの国の「なれの果て」を象徴する出来事である。

 対照的なものを示しているのが、アクセリロードとスターリンによるレーニン評である。

 今、レーニンの『なにをなすべきか』をその前後の文章と共に読み直しているところであるが、そこで、従来のレーニンの『なになす』を意識性=計画性の強調と読むだけでは見逃されてしまっている単純なことがそこに明確に言われているということに気づいた。なんのための意識性=計画かという点で、レーニンは、自然発生性を発展させるという目的を明確に述べているということである。その方法をめぐって、「過程としての戦術」か「計画としての戦術」か、「経済闘争そのものに政治性を与える」のか「政治意識を外部から持ち込んで政治闘争を発展させる」のか等々の対立が生じたのである。それは、自然発生性を高め、人民の闘いを発展させる方法をめぐる対立だったのである。どちらが正しかったかは、歴史が証明する通りである。レーニンが正しかったのだ。経済主義の行きつく先を今、われわれは「連合」労働運動の姿に見ることができる。経済主義的に労使一体となって原発推進をする電力労連を見よ!

 レーニン25歳の時。アクセリロードは20歳年長であった。アクセリロードは、こう書き残している。


 私のまえに腰かけていた若い同志と、私がスイスでたまたま交渉をもったことのある人々とのあいだに深い差異のあることが、おのずから眼にうつったのである。グロソフスキー某などはなんの学識もなしにヴィルナからやってきたが、学ぶことは自分の威厳をさげることだと考えていた。ところがウィリヤノフ(レーニン)は、うたがいもなく才能をもち、自身の思想というものをもっていながら、同時にその思想を吟味し、学び、他人がどのように考えているかを知ろうとする用意のあることをもしめしていた。
 彼には、うぬぼれや虚栄心の気配はみじんもなかった。彼は、ペテルブルグでの文筆活動が相当にうまくいっており、すでに革命的サークルのあいだで、いちじるしい影響をもつようになってることについては、私に話さえしなかった。彼は、事務的に、まじめに、同時にまた謙虚に身を持していた(レーニン全集第5集「研究のしおり」10ページ)。

 スターリンのレーニンとの初対面の時の印象である。
 

……私はわが党の山鷲にあうのに、偉大な人間に、政治的にばかりでなく、必要とあらば、肉体的に偉大な人間にあうように期待していた。……だが、中背よりもひくく、文字どおりになに一つとして普通の人間とちがっていない、ごくありふれた人間をみたとき、私の幻滅はどんなだったであろう……
 あとになってやっと、私は、レーニンのこの質朴さと謙譲さ、目だたないようにあろうとする努力、いずれにせよ、目につかず、自分の高い地位を強調しまいとする努力、―この特徴が、新しい大衆の、すなわち人類のもっとも深い『下層』の素朴なごく普通の大衆の、新しい指導者としてのレーニンのもっともすぐれた一面をあらわしていることを理解したのである(邦訳『スターリン全集』第六巻、六九―七〇ページ)。(同11ページ)

 自惚れ屋で、威張っていて、目立ちたがりで、「自己中」のレーニン批判者をいろいろ見てきたような気がするが、かれらを信用する気にならないのは、こういう性格がレーニンの書いたものにはっきりと刻みこまれているからだろう。

 九電には、それと正反対の性質が刻み込まれているのを、誰もが感覚的に掴むことができる。「お前はすでに死んでいる」と外から教える「外部注入」が必要だ。

九電やらせ指示2300人閲覧、子会社4社で

  原発
  九州電力玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の再稼働を巡る「やらせメール」問題で、九電から県民向け説明会に、再稼働に賛成するメールを送るよう指示された子会社4社(いずれも福岡市)の社員計約4400人のうち、少なくとも約2300人が指示メールの内容を閲覧していたことが7日、九電の社内調査でわかった。九電は、3事業所(玄海原発、川内原発、川内原子力総合事務所)の社員を含めて、実際に何人が説明会に投稿したのか、調査を進めている。

 九電によると、原子力発電本部の課長級社員が6月22日と同24日、子会社4社の原子力部門担当者に対し、再稼働への賛成メールを送るよう指示。担当者は自社の社員に呼びかけ、計約2300人に届いたという。この担当者はいずれも九電本体の出身者だった。

 子会社の一つ、西日本プラント工業によると、社内のイントラ掲示板で呼びかけ、23~24日の2日間に、全社員の6割に当たる1404人が閲覧したという。同社は「九電から指示を受けたという認識はなく、当社も社員に対するお願いとして掲示しただけ。仮に社員が自分の意見を説明会に送ったとしても、『やらせ』と言われるのは心外。ただ、お騒がせしたことは反省したい」としている。
(2011年7月8日 読売新聞)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高江ヘリパッドお断り! 辺野古新基地お断り! 7.1防衛省ど真ん前デモ

 3・11後、福島原発事故をめぐっては、汚染水を扱えば水漏れするなど、あいかわらずひどい状態である。あれだけの大地震の揺れやら臨界による高温の発生とか、いろんなことが複合的にダメージを与えれば、コンクリートであれなんであれ、構造物が傷つき、弱り、損壊し、傷んでいることは、誰が考えても明らかで、劣化し、弱くなっている状態の物には、同じ衝撃の力でも、与えられるダメージが大きいということも、常識に属することである。ところが、今や、海江田経産相は、もっとも老朽化が激しいと言われる佐賀県の玄海原発の再稼働を積極的に働きかけ、それに自治体を応じさせようとしている。

 今年の夏は、けっこう暑いように感じる。早めに入った梅雨の時期も、けっこう蒸し暑かったと思う。それでも、電力不足によって大きなダメージがあったということはきかない。そこで、うがった見方かもしれないが、経産省は、原発なしでも電力は足りているという事態になって、「原発なくても大丈夫」ということが人々にわかってしまって、脱原発のリアリティが証明されてしまうのを恐れて、原発再稼働を急いでいるのではないかと思う。

 いずれにしても、原発がなくても電気は賄えるのである。そこで、放射能の汚染を防ぐと共に放射能の健康への悪影響を減らし、なくすという方策を早急に取る必要があるということと、脱原発の具体的な方策を策定することと、それを確実に実行していくことが必要だということは明らかである。脱原発が、脱資本主義となるという中沢新一氏の議論もあるが、それについては私は現段階では確実なことは言えない。確かに、氏の言うように、福島原発事故は、資本主義の行きつく先を示す事態であったというのはうなずける。その前に、リーマン・ショックが、資本主義の最高段階である金融資本主義の行きつく先での破綻を示しているのに続いて、文明的な破綻を示したという点で、資本主義そのものの内部的崩壊の兆候を露わにしたということは言える。大きなところで、資本主義は多くの人々を不幸にするということが明確に示されたのである。もう一発、原発大事故が発生すれば、日本の原発はお終いだということは明らかであるのに、海江田は、もっとも老朽化している玄海原発を真っ先に再稼働させようというのだから、自滅への道を自ら選んで進んでいるとしか思えない。海江田が沼地へと自ら進んで行くのは自由だが、我々を道連れにするのは止めて欲しいものだ。我々には沼地に行かない自由がある! 沼地派は、ベルンシュタイン主義者ばかりではなかった。かつての学生運動の闘士も、今や、政権の中で、沼地派へと転落してしまったのだ!

 同じ沼地派に高江ヘリパット建設工事を強行しようとしている防衛省がある。7月1日、「高江ヘリパッドお断り! 辺野古新基地お断り! 7.1防衛省ど真ん前デモ」があったので、行って来た。神楽坂デモという画期的なデモ・コースである。今はどうか知らないが、かつては、政府高官や政党幹部や財界大物が「料亭政治」を繰り広げたと言われるところで、沖縄の基地撤去を要求するデモが行われたのである。もしかして、その時、神楽坂のどこかの料亭で、防衛関係者と民主党政治家とかの会合が行われてたりして…。

 緊急的な行動であったにもかかわらず、多くの人々がデモに参加し、防衛省前では、警察の執拗な嫌がらせを受けつつも、高江ヘリパット建設中止を求める要請文を読み上げ、防衛省職員に手渡した。それにしても、この問題で、警察は中立を装っていて、自分の意思というものをごまかしている。この問題に賛成なのか反対なのか、態度を明確にせず、中立を装いながら、デモの自由を規制し制限し続けた。警察公務員たちは公共の意思を体現するのだから、かれらが中立などということはあり得ないことで、この場合も防衛省側に立っていることは明らかであった。

 しかし、感動的だし、情況の変化を強く感じるのは、沿道から拍手が来たり、支持の声がかかったり、ビルの窓から手を振る人々の姿を何度も見たことである。かつてはあったと伝え聞いてるが、これまで、自分は経験したことのないことだ。「冬来りならば春遠からじ」だが、あまりにも長い冬が終わろうとしているのか? 雪を割って黄色い花を咲かす福寿草のように、春の到来を告げているのではないか。それは、冬に慣れ過ぎて、もはや春を夢見ることすら諦めてしまって、屈折して心がねじ曲がってしまった活動家の「心の中に花を」咲かせるものなのか。沿道からの人々の注視する視線の強まりを感じつつあったが、それが声になり、表情になり、手を振る行為になり、表現が明確になってきたのは喜ばしいことだ。

 沖縄の米軍基地を撤去せよ!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »