« 記事の補足 | トップページ | 差別・排外主義 »

左翼の弱点の克服のために

 今日の左翼の問題点が出てきて数年で多少わかった。そのひとつで大きいのは日和見主義が広まっていることだ。その源泉の一つがポスト・モダニズムにあり、その影響を受けた部分がいるということである。左翼圏のヘゲモニーがポスト・モダン派のインテリに一時移った時期もあった。今ではそうしたことは少なくなりつつあるが、言論界ではまだその力は多少は残っている。これが運動を後ろに引っ張っているので、すでにポスト・モダニズムは無力なおしゃべり化しているのだから、幕を下ろす儀式を済ませてもいいはずだ。時代状況は急速に変化しており、戦後世界秩序の守護神=アメリカ帝国主義の力の衰えは激しく急である。ヨーロッパはそれに先んじて、ギリシア危機に明らかなように、もはや没落の坂道を転がり落ちている。そして、リビアへのフランス軍などによる空爆が6000回に及んだことに示されているように、フランスは帝国主義的性格をむき出しにしている。このような攻撃はもはや懲罰的とか警察的とかいう性格を大きく超えており、まさに侵略戦争の攻撃と言うしかない。リビア新政権はフランスなどの傀儡でしかなく、新たに利権を握った徒党にすぎない。これに対して、フランスの知識人は明確に帝国主義と規定してそれに反対しただろうか? それが問題である。3・11がなければ、北アフリカに始まった「民衆革命」の波の中で起きたリビアの事態に対して、もっと注目しなんらかの運動が組まれたはずである。むき出しの帝国主義という言葉がこの事態をぴったりと規定している。帝国主義概念を使わないとしたら、それはごまかしにしなからないとさえ思う。

 それから、なんといっても、アメリカ帝国主義がいよいよ世界恐慌の震源地になる可能性があり、その時期もそう遠くないという感じが強まっているということがある。世界恐慌になれば、3・11の衝撃を上回る世界規模のショックが起こるだろう。それは日本にも大打撃を与えるだろう。そこで、今の延長での10年後の日本を想像したら、地獄という言葉しか思い浮かばなかった。そうしたイメージに対して、今、盛んに企業やら政府が垂れ流している「がんばろう日本」なるスローガンは空々しく聞こえる。夢や希望が描けないところで、どうやって、がんばればいいのか? そして、ポスト・モダニズムは、夢や希望を語る形式である物語を消そうとした。それによって、物語る力を国家に独占されてしまい、ナショナリズムに対抗する力を弱めてしまったのだ。罪深いことに。ものを語ることによって主体を形成し、その主体によって、国家物語を語る国家主体への取り込みを防がなければならなかったのに、そうするための武器を自ら捨て去り、そうするように人々を誘導してしまったのだ。それはまさに階級概念を否定したことによって、階級主体という物語的主体が、対立するものとして、抑圧主体と被抑圧主体という異なる物語の主体の違いとして、表現されることを妨げたのだ。そしてその結果、解放主体としての被抑圧主体の転化の物語による生成を抑圧することになったのである。

 そういうことに加担し続けるインテリゲンチャを批判・暴露して、そうではない解放主体を形成するヘゲモニーを創造する革命的インテリゲンチャが今はたくさん必要である。そういうインテリゲンチャが大勢欲しいのだ。そういう意味でのインテリゲンチャは不足している。「ポスト」・ポスト・モダニズムの思考が必要になっているのである。私とは異なる思考からそのことを指摘しているのはホロウェイである。しかし、私と考え方がまったく違うのは、例えば、「権力の獲得を通じて社会を変えるという考え方は、こうして、もともと達成しようとして始めたものとは反対のものを達成することに帰結してしまいます」(『権力を取らずに世界を変える』 45ページ)というような考え方である。そもそも、ホロウェイは「考え方」を問題にしているのであり、これは「考え方」が現実を規定するという観念論的な逆立ちした思考である。「考え方」から現実が生まれるのではなく、現実から「考え方」が生まれるのである。それともうひとつは、確かに、言語は社会的思考の現実形態であるが、「ある」が「する」を常に従属的に含んでいるというのは誤りである。つまり、存在が行為を従属的に包含しているというのは西洋的思考に特有のものであって、ローカルな思考にすぎない。別な歴史的な社会、例えば日本ではそうではない。「ない」が「する」を含むようなことはわれわれの社会では普通にある。「ない」(無)の積極的な規定性ということを西洋的思考は理解出来ないのである。それから、ホロウェイは、行為と労働を明確に区別しておらず、この点も納得いかない。労働は行為一般とは違う概念であり、マルクスを論ずるならその点を曖昧にすることは許されない。マルクスは、「労働の哲学」を問題にしているのであって「行為の哲学」を問題にしているのではない。

 ポスト・ポスト・モダニズムを考えるにあたって、つまらない駄洒落を思いついた。「デリダってデリダ(誰だ)?」

 不破共産党が投げ捨てた「資本主義の全般的危機」が深まりつつあり、帝国主義が露骨に侵略と戦争を拡大しつつある。ここまで書いてみて、自分で驚いた。いつの間にか、自分の出発点に回帰しているじゃないかと。しかし、時代がそういうふうになっているのだ。それをまっすぐに見てみると、どうしてもこういうことを言わざるを得ないのである。「資本主義の全般的危機と帝国主義的侵略と戦争の時代」と。これは現実分析から得られる避けがたい結論である。その時に、帝国主義という概念を使わないで現実認識をしようという怠惰なインテリが圧倒的だというのも現代の危機の症候なのである。それは帝国主義がマルクス主義的な概念だからというわけではない。帝国主義の概念は別にマルクス主義だけの概念ではない。レーニンの『帝国主義論』の以前に、すでに帝国主義という概念はあったし、レーニンもホブスンの『帝国主義』から学んでいるのである。

 差別・排外主義は帝国主義に付随するものであるから、「在日特権を許さない市民の会」などの動きは、今では小さいものであるとはいえ、その時代傾向を反映する一勢力であると言える。したがって、差別・排外主義との闘いは、引き続き重要なものであって、手を緩めることは出来ない。9・23新宿デモはその一ステップとして位置づけなければならない。それを警察が不当弾圧したことは、権力もまたそうした差別・排外主義の加担者であるということを示したものである。ネットで観られる弾圧の様子では、Aさんは、警察官に布を軽くかぶせただけで、それからすぐに取り押さえられ現場から連れ去られている。その後の警察との押し合いなどの混乱の中でおそらく知らぬ間に胸で押したようなこともあったはずだが、それでも誰も持っていかれなかった。明らかにAさんを狙ったのだ。

 9・11脱原発新宿デモでの12名の不当弾圧については、柄谷行人氏、鵜飼哲氏、小熊英二氏らによる弾圧への抗議声明が出されている。この間、警察は、デモに対してきわめて恣意的な強い規制をかけてきており、憲法に規定される表現の自由の権利を狭くしようとしている。それは、交通の自由の権利を表現の自由よりもウェイトを重く解釈しているためである。しかし、多少交通の自由の権利を狭めることよりも、表現の自由を拡大する方が多数の利益を大きくする。なぜならば、交通の自由の権利を表現する場合にも有利になるからである。しかし、表現の自由といっても、社会的に規制されており、それは人権に関わる場合は、特にそうである。多数者の権利は、少数者の権利を擁護する場合にもっともよく守られる。権利の相対的性格は、他者の権利を守ることによって自分の権利も守られるということに示されている。他者の権利を侵害すると自分の権利が損なわれる。通常は特権は長持ちしない。少数者の権利は特権ではないので、その限りではない。多数者の中の特権者の場合は違う。そのことは階級概念がないと解けないし、理解出来ない。階級・階層分析が必要なのだ。

 こうして、驚くべきことでもあるが、冷戦終焉から20年という年月は長いものであったことがわかる。ポスト・モダニズムが消そうとした帝国主義や侵略や戦争や階級やらという死んだはずの概念がリアルな意味を持って目の前に「再帰」しているのである。多数者は階級・階層に分かれていて、上層は形式的には同権のはずであるが、実際には特権を持っている。そして、在特会などはそのことを無視しているが、かれらはそれを知っているに違いない。そこで、被抑圧者の権利を剥奪することによって、真の特権者の方に向かって、媚びへつらい、その忠実な臣下であることをアピールしているのだ。かれらの中には、若年非正規労働者もいる。しかし、そこからの解放は、被抑圧者・被差別者などの権利を奪うことによってではなく、以下の記事のようなアメリカの若者たちのようにするべきなのだ。

米国:「ウォール街デモ」各地に飛び火

2011年10月3日(毎日新聞)

 【ニューヨーク山科武司】世界金融の中心地、米ニューヨーク・マンハッタンのウォール街周辺で経済格差の拡大に抗議する若者らのデモは700人以上が逮捕された翌日の2日も続き、1500人以上が集会に参加した。行き過ぎた市場主義に異を唱える運動はボストンやシカゴ、西海岸ロサンゼルスなど全米各地で拡大している。

 デモ隊の拠点であるマンハッタン南部のズコッティ公園は2日、警官が取り囲み、通行人が様子をうかがおうとして立ち止まろうとすると「交通の邪魔 になる」と立ち去るよう促した。集会の参加者は「たとえ1人が逮捕されても、2人が(運動に)参加する」などと書かれたプラカードを掲げ、警官と無言でに らみ合った。

 周辺では、米経済紙ウォールストリート・ジャーナルをもじった自前の新聞「オキュパイド・ウォールストリート(占拠されたウォール街)・ジャーナ ル」が配られた。「革命が始まっている」との見出しの記事は、今回の運動を1960年代の平和運動や中東の民主化運動「アラブの春」になぞらえ、「米国も 歴史の節目にある」と指摘。「2500万人以上が無職で、5000万人以上が健康保険を持っていない」「我々のシステムは壊れている」と訴え、大企業や富 裕層による富の独占を批判した。

 抗議運動はインターネットの会員制交流サイト・フェイスブックや簡易ブログ・ツイッターなどを通じて賛同者を増やしている。デモ参加者の一人はAP通信に「私たちの活動を伝える動画を見ている視聴者は3万人以上いる」と語った。

 ボストンでは連邦準備銀行の近くに若者が集まり、テントを張って抗議。米メディアによると、ロサンゼルスなどでも抗議運動が行われたという。

|

« 記事の補足 | トップページ | 差別・排外主義 »

思想」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 左翼の弱点の克服のために:

« 記事の補足 | トップページ | 差別・排外主義 »