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12・1福島の女性たちの経産省前テント村座り込みが始まった

 12月1日、ついに福島の女性たちの「十月十日」の座り込みが始まった。午後、女性たちのテントを訪ね、インタヴューを行った。やはり、表情、言葉、雰囲気に、緊迫感、切迫感、怒りが感じられ、それがひしひしと伝わってくる。私は、東京の脱原発運動にかかわる人たちに、それをあまり強くは感じない。朝日新聞の北海道の記者も取材に来ていた。

 それから、「福島老朽原発を考える会(フクロウの会)」の人から福島の子供の放射能被曝状況について教えてもらった。福島県南相馬市の調査で半数の小中学生からセシウム137が出ているが、その数値は、通常の30~100倍である。買ったパンフレットを見ると、子供たちの被曝のかたちは様々で、合格発表を見に行った時とか、自転車で買い物に行った時とか、いろいろなケースがあるのがわかる。この問題はこれから出てくる問題である。すでに、関東で、子供たちに被曝の影響と見られる症状が出て来ているという情報もある。

Imgp0002_2(写真は、福島の女性と全国の支援者が座り込みを始めたテント)

 この間よくわかったのは、放射性物質は政府などが当初描いていたように、同心円のようには拡がっていかず、気流や地形などの影響で、遠いところの方が近くより放射能濃度が高かったりするということだ。それと軽い粒子と重い粒子では飛ぶ範囲が違い、軽い放射性物質はかなり遠くまで飛んでいる。それと雲と共に遠くまで行って、雨とともに地上に降ってくるものだということである。チェルノブイリで欧州全域に放射能汚染が広まったのはそのためだ。岩波書店『思想』科学社会学特集で、ウィンという学者が調べて論じているのは、イギリスのカンブリア地方が、チェルノブイリからはるか遠くに離れているのに、雨が降ったことによって、放射能に汚染されたというケースである。しかし、その前に、この地にあるウィンズケール(現セラフィールド)核施設の火災事故(1957年)による放射能被害があった。そこに、チェルノブイリ原発事故による放射能が雨と共に降ったのである。そこで、イギリスの「原子力ムラ」の専門家は、この地の放射能汚染を、すべてチェルノブイリ事故のせいにしようとしたのである。

 そこで、科学社会学の「第3の波」(コリンズらによる)の提起をめぐる科学社会学者の議論が起きている。それは、専門家と素人の関係についての議論である。同じ様な問題が3・11をめぐって起きている。専門家とされる東京電力・経産省原子力安全・保安院、原子力学者などが間違いを犯した時に、それを正し、責任を明確にさせ、責任を取らせるのは誰かということがその一つである。それを議論するメンバーには何が必要かということだ。この間、ほぼ、これまで通りのメンバー、専門家と呼ばれる人たち、「原子力ムラ」の面々が、そのまま議論していて、当然のことながら、自らの責任を自ら正すということにはなっていない。逆に、責任逃れの議論ばかりをしていて、それで逃げおおせると思いこんでいるようだ。もちろんそうはいかない。それを許さないのは、福島をはじめとする大衆運動の力である。今、大衆は急速に学んでいるが、大衆側が信頼する「原子力ムラ」の外の学者などの専門家から学んでいるのである。

 そこで、責任問題を追求する場に、どれだけ大衆参加が必要で、それにはどういう内容を持たなければならないのかを考える必要がある。もちろん、裁判の場というのも責任追求の場の一つである。そして、この議論の重要な点の一つは、科学や技術が中立ではなく、社会諸関係の一部として階級性などの社会的性格を持っていて、それとの関連抜きに存在しているわけではないということが前提になっているということである。専門性を要する科学・技術に関わる政策決定の問題をめぐって議論がなされているのである。大衆知と専門知の関係をめぐる、そしてそれぞれの知の形態の吟味ということも同時にありつつ、それが社会的に影響を及ぼすということが前提にあるのだ。それは、科学の中立性を基本として成立した戦後の日本の科学政策・技術政策のあり方を問うものでもある。日本学術会議が1954年10月の第18回総会で採択した原子力問題に対する三原則は、核兵器研究を拒否し軍事利用は否定したが、①研究の民主的な運営、②日本国民の自主的運営、③一切の情報の完全公開、という核の平和利用の三原則の確立を求める声明を出した。しかし、核兵器開発という軍事利用だけではなく、脱・反原発で核の平和利用の否定が必要になっていて、歴史的に前提条件が変化してしまった「自主・民主・公開」の三原則は根本的に問われざるをえないのである。

 運動面で見みると、3月末に1万5千人を集めた高円寺「素人の乱」があって、6・11新宿デモを頂点に、夏ぐらいまでの脱原発運動をけん引したが、秋以降、9・11、9・19明治公園6万人という空前の規模の脱原発集会が実現した頃から、原発、放射能問題を学んできた大衆知のレベルが高まってきて、運動は、団地デモ、地域デモ、ミニ集会、映画、講演、シンポ、学習会などの蓄積された力が底力となる「草の根」の運動になってきている。9・11後の経産省前「テントひろば」(福島の女性たちは、「テント村」と呼んでいる。これは、主に高齢の男たちが主体の「テントひろば」と区別するためだろうか?)は、こうした全国的な「草の根」を交通させる媒介の場となっていて、それによって支えられもしている。「テント日誌」はそうした様子を日々伝えている。全国からテントを人々が訪れ交流している。

 しかし、この運動の大きな、そして重要な力は、10月27日からの福島の女性、それに続く全国の女性の座り込み運動へと拡大した10日間行動に示されたような福島現地との結びつきにある。今また、その福島の女性たちが、テント座り込みを再開した。「十月十日」の長期・持久戦である。これを支えるには、多方面の力の結集が必要で、総合力が問われることは言うまでもないことだ。物質力も精神力も必要だ。思想的な支えもいる。情報の力も。しかし、なによりも、よき未来を求めて立ちあがっている福島の闘いと結びつき、そういう人々と未来への意思を共有することが力となる。つまり、福島現地の実際を知り、福島の人と繋がり、福島の闘いを支援し、共に闘い、共に物語ることが、力となる。それが底にあって、その上で全国との運動の交通があるという構造によって大きな力が生まれるのである。福島の主体性があって大きな力が出てくるのだ。これは事態そのものの歴史的社会的性格が指示する運動構造のあり方である。それは主観主義でもなくヒロイズムでもなく代行主義でもない「草の根」的な運動のスタイルとして表現されるのである。

未来を孕む女たちのとつきとおかのテント村行動

生活時間 2011,12,1~2012,9,11のとつきとおか AM10:00~PM3:00
                                     (原則として上記。夜や夕方の企画も随時)

◎再び繋がります。続けます。・・・縫う、唄う、踊る、書く、描く、紡ぐ・・・

◎テント村で熱く語ります。

◎とつきとおか、いのちを守り、いのちを張ります。

  経産省テント村行動へご参加下さい。どなたでも!!!

  原発いらない福島の女たち

世話人    椎名千恵子

呼びかけ人  大賀あや、黒田節子、千脇美和、佐藤幸子、佐々木慶子、

事務局    高橋幸子

ウィキペディアより

ウィンズケール

 1947年、核兵器の材料となるプルトニウムの生産を行うため、ウィンズケール原子力研究所が着工された。近くにあるプレストン市のウラン処理工場 Springfields と名前が似ていることから、混乱を避けるためにセラフィールドではなくウィンズケール (Windscale) の名前を採用した。こちらも付近の村の名前に由来する。

 1954年、英国原子力エネルギー機構 (UKAEA: United Kingdom Atomic Energy Authority、現在は AEA Technology plc.) が設立されるとともに、ウィンズケール原子力研究所より所有権が移動された。

 1956年10月17日、ウィンズケールに隣接するコールダーホール原子力発電所が、マグノックス炉の方式で世界初の商用発電を開始し、名称も「ウィンズケール・アンド・コールダー研究所」 (Windscale and Calder Works) となった。なお、世界初の原子力発電所は旧ソビエト連邦のオブニンスク発電所である。

 1957年10月10日、ウィンズケール火災事故が起きる。この事故は世界初の原子炉重大事故となった。英国北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィールド核燃料再処理工場)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により火災が発生、16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。避難命令が出なかったため、地元住民は一生許容線量の10倍の放射線を受け[要出典]、数十人がその後、白血病で死亡した。現在の所、白血病発生率は全国平均の3倍である。当時のマクミラン政権が極秘にしていたが、30年後に公開された。なお、現在でも危険な状態にあり、原子炉2基のうち一基は煙突の解体が遅れている状態にある。2万キュリーのヨウ素131が工場周辺500平方キロを汚染し、ヨウ素(ヨード)の危険性を知らせたことで有名である。また水蒸気爆発のおそれから、注水に手間取った。

 1971年、核兵器の研究および生産拠点としての操業終了に伴い、新たに設立された英国核燃料公社 (BNFL: British Nuclear Fuels Limited) に生産部門が吸収統合され、ウィンズケールの施設の大半が BNFL の管理下となった。

 1973年、天然ウラン燃料生産用B204棟で大規模漏洩事故が発生。31名の労働者を被爆させ閉鎖となる。
セラフィールド

 1981年、ウィンズケール・アンド・コールダー研究所は施設の再編成に伴い、セラフィールドと改名した。

 UKAEA に残された施設は、戦後の核兵器の開発のために構成されたもので、現在もウィンズケールと呼ばれている。また、ウィンズケール原子炉は、改良型ガス冷却炉の原型となった。

 2003年、施設自体が老朽化していたこと、また英国内における電力自由化などの影響で採算が取れなくなっていたことも重なり、閉鎖が決定となる。

 2007年9月29日、コールダーホール原子力発電所の4つの冷却塔が爆破解体された。

 セラフィールドは当初より、使用済み核燃料の再処理工場も多く保有していた。再処理が施されることにより、例えば日本の高速増殖炉もんじゅなどに利用されるMOX燃料の製造にプルトニウムを用いることが出来る。他にも、ガンマ線照射用の線源としてセシウム137の抽出を行うなど、核分裂生成物を再利用するための努力も行なわれてきた。

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