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原発再稼働阻止、ネグリ・シンポなど

 4月17日、5月5日までの大飯原発再稼働阻止行動のリレーハンストに突入する経産省前テントひろばが、記者会見をするそうです。

 大飯現地ではすでに関西の反原発団体などがテントを設営して、再稼働阻止の現地闘争に入っています。福島の人たちも再稼働阻止の闘いに入っています。世論調査では改めて約8割の圧倒的多数が脱原発を求めているという結果が出ているし、自民党も再稼働には慎重論を唱えています。それでも、野田政権は再稼働を急いでいます。この再稼働阻止の行動を支持し、支援したいと思います。

 15日のネグリ・シンポは盛況でした。『戦略の工場』(作品社)は、いろんな論点があるし、論点を作れるので、しっかりと読もうと思いますが、残念ながら時間不足で、きちっと読んでしっかりとしたレジュメを書くことができませんでした。しかし、最初のあたりを中心にいくつかの断片的メモは書けたので提出し、提起しました。会場は集中し熱気があり、それは2次会まで続きました。驚きました。この本のサブタイトルは、「レーニンを超えるレーニン」で、今では否定的に語られることが多く、過去の人、「死んだ犬」(ヘーゲル)と見なされてきたレーニンがテーマだったからです。ずいぶん前から、レーニンの再生があると書いていたのですが、まるでそのとおりになったかのようです。新たな運動が次々と立ち上がってきて、大量の活動家がどんどん登場してくるという3・11後の大きな変化のせいかもしれません。3・11はすでに世界を変え、人々を変えています。他方で、改定入管法施行期日が迫っており、それは難民問題にも変化を及ぼしそうなので、それを分析することも必要です。いろいろと課題があり、それらを包括的に解決するためのテーゼも必要だし、その主体も必要です。同書を読んで、そのことを痛感したので、もっときちんとした文書を書きますが、とりあえず、ご参考までに、シンポで提起したメモをちょっと書き換えたものを貼っておきます。

 『戦略の工場』についてのメモ

 ネグリの『戦略の工場』を読んでみて、まず、これが講義の形式で行われたものであり、したがって、自ら繰り返しているように、マルクス・レーニンの思想が「学知」という形態を取るというふうになっている。それが、なにかの配慮によるものなのかどうかはわからない。ネグリは、「序文」で、イタリア共産党トリアッティ派(多数派)が、レーニン主義の「正統派的に執着し、文献学的に忠実であればあるほど、政治的にはますます日和見主義的であるように思われた」(p7~8)し、グラムシ路線は、改良主義とプロ独に代わる「同意調達の理論装置」(同)と解釈されていたという。マルクス・レーニン主義を名乗る部分は、レーニン主義をスターリニズム的に使っていた。それに対して、ネグリは、当時、ボルディーガ派(彼はその中にアラン・バディウを入れている)とフェイシング・リアリティ派の主体性論に興味を持ったという。他方、イタリアのオペライズモは、「レーニンの仮説との関係では全面的にこれを見直す立場をとると同時に、彼がめざした革命については徹底的にその権利回復を求める立場をとった」(p8)。マリオ・トロンティがその立場を代表していた。「レーニンは階級の新たな現実と向きあうことで生きている」というトロンティの仮説の革命的修正主義は、「プロレタリアートの政治構成と対応するプロレタリアートの技術的構成の変化への着目」だったが、それは4つの源泉を持っている。第1に、レーニンは、革命過程の持続性を認識するための理論装置であり、組織化するための道具であった。第2にスターリン批判によるマルクス主義の革新、第3に、スターリン主義のテロルとレーニン主義の継承関係が否定された。第4に、レーニン主義の中に新しい組織化の起点を見出した。イタリアが当時直面していた移行とは、「大衆的労働者からなる階級のヘゲモニー、そして外部的な知識人による組織化におけるヘゲモニーから、社会的労働者の組織化と知的生産に内在する労働力の組織化の新たな諸形態への移行だったのである」(p12)。しかし、ネグリたちにとって、レーニンは階級闘争の変容の分析のための方法論文であり、「諸主体の変容を通じた革命の持続的な再創設のための」(同)合言葉だったそうだ。全体を貫くネグリの基本テーゼは以下のところに要約されていると思われる。

 この講義のなかで、搾取される者たちの組織化をめぐって控えめに論じられていた政治的な移行、すなわち労働者階級からポスト近代のマルチチュードへの政治的な移行は、いまでは随分と先に進んだ。しかしながら、それ以上のなにかがある。それは、レーニンの認識論が自らに課した確認、すなわち歴史過程において革命の証言者がある主体から他の主体に移行することは、本当にまったく認識可能であり万人によって理解されうるということの確認であるのだが、それだけではなく、この移行がいまや〈帝国〉に抗するグローバルな革命とマルチチュードの織り成す編成体として提起されているという事実である(p16)。

  様々な論点があり、それらをここで尽くすことができない。その原因について、ネグリはこう指摘している。

  レーニンは革命の現実性なのです。レーニンは、一定の情勢の内部で、すなわち歴史的な主体(ロシア・プロレタリアート)とその主体が立ち向かう総体的で資本制的な権力構造とのあいだいに広がる一定の階級関係の内部で、あの瞬間、あの局面において、世界プロレタリアートが提示する一連の諸問題すべてを解釈しているのです。マルクス的な意味で、抽象的なものが具体的なものになる、言い換えれば、あらゆる現実的な諸規定の総計になるのです。したがって、ロシアにおける革命の問題のレーニン的解決は、単に(ロシアの革命的プロレタリアートと、生産諸関係や支配の諸関係の半封建的な条件とのあいだの)関係の規定に結びついているようなひとつの解決なのではなく、レーニン的解決とは、包括的問題の解決としてある限りにおいて、そしてその限りにおいてのみ、包括的問題の解決でもあるのです。すなわち階級関係の分析であり、解釈であり、一定の実践的解決であって、さらには、一定の時代におけるあらゆる情勢に対する革命の企ての構築への、包括的で全般的な貢献なのです。資本制の最終局面への移行とは、専制政体とプロレタリアートの闘争(「この国の命運を決する瞬間」)をプロレタリアートに有利なかたちで、全人類の救済のために、展開する可能性のことなのです(p26

  ここに、レーニンの、あるいは弁証法的唯物論者としての主体としてのレーニンの思考の基本的特徴が示されていると思う。ここにはわたしが長年思ってきたレーニンの思考の特徴と同じものがある。「抽象的なものが具体的なものになる、言い換えれば、あらゆる現実的な諸規定の総計になる」ということ、レーニンが『哲学ノート』で書いているように、具体的認識が進むと、概念はどんどん多様になり、それを弁証法的に包括すればするほど豊かな規定となっていき、総体的となっていく。社会諸関係の連関を把握すればするほど生き生きしたものになる。それは、弁証法的に、移行し、飛躍し、転化し、新たな規定へと変化、「とんぼ返り」する。それは、現実の諸関係の頭脳への「反映」である。資本制社会諸関係が頭の中だけではなく現実においても「とんぼ返り」する。それを思想が「反映」するということ、そして、その逆転(反転の実践、「とんぼ返り」)がある。それが意思となり、現実を「反転させる」。そこにプロレタリアートの意思の塊としての党の実践の意味が出てくる。プロレタリアートの自然発生的な闘争においてはそれは純粋に表現されず、意思として純粋ではない。だから、プロレタリアートの自然発生的な意識を純粋なものとして発展させることが必要となる。それが目的意識性である。それは自然発生性の内部に萌芽として含まれているが、その中では完全には展開できないというのがレーニンの見立てだが、自分の経験でもそうだと思う。ネグリは、それを1970年代のイタリアの運動の中で「成長にともなう病」として経験したようである。

  ネグリが、組織を「自然発生性の完成」と言っているのは、ネグリ的なレーニン解釈であろう。ここにネグリのしくじりがあり、彼が『哲学ノート』を参照し、レーニンのヘーゲル弁証法の解釈を肯定しながら学び取りきれなかった部分が示されているのではないだろうか。それは、量から質への転化という規定である。自然発生的運動の量から質への転化を媒介することなく、つまり目的意識性の介在なしに、自然発生性の直接延長上に階級闘争の高い次元への転化・発展を実現することはできないというのが、レーニンの含意であったと思われる。

  少なくとも、日本の場合、主体性論については独自の歴史があり、その分析と総括があり、それと比較する必要があるということは明らかである。それから、現代資本主義論においては、国家独占資本主義論、帝国主義論などの問題もある。その評価抜きに、ネグリ的「帝国」論に乗り移りすることはできない。日本の運動史の総括も必要である……などの課題への取り組みがより必要だということに気づかされた。

  他方で、グラムシにあった南部問題やレーニンの農民問題、民族・植民地問題がない、などの不満がある。この本を読んで、帝国主義論が、この時点ですでにネグリの中に欠けていたことがわかり、それでは、具体的な世界分析、階級階層分析、先進国と後進国との具体的な関係が消えて、そこから具体的なプロレタリアートの総体的な認識と戦術が導き出せないという限界があることがわかった。そこが朝鮮半島・中国・東南アジアなどとの戦後処理、戦争責任が問われ、植民地主義の清算が今なお大きな課題として存在し続けている日本との違いなのだろうか。運動としてもそうした領域を担う部分があり、それは現在の国際関係の大きな課題となっている。日本国内においても、沖縄、アイヌ、都市と地方の格差、東北問題(赤坂憲雄)などがあり、階級構成でも、社会的労働者の中にも格差・非正規労働などの問題を抱えており、それらの「総計」の認識と包括的な階級闘争の構成という課題がある。それら諸問題の包括的解決の主体としてのプロレタリアートの構成と戦術が求められていると思う。これら諸問題の包括的解決主体が政治構成としてのプロレタリアートの任務だとしたら、それには、原発、エネルギー問題も含めなければならない。そうした課題の多さ、大きさを認識させられたというのは、この本の大いなる意味であると思う。論点が多く、内容が豊富だとも思う。

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