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2012年5月

プロレタリア国際主義で、改定入管法と対決しよう!

プロレタリア国際主義で、改定入管法体制と対決しよう!
流広志

 201279日、改定入管法が施行される。すでに、難民(政治亡命者)支援団体などから反対の声が上がっている。そもそも日本の入管体制は治安管理主義に貫かれた差別・排外主義的な国家主義を基本に成り立っている。それは、在日外国人の分断・差別・支配・管理によって、プロレタリアートを分断・支配するシステムでもある。そもそも、在日外国人管理を治安を担当する法務省が行うということが、在日外国人問題を治安マターとして扱うことを基本にしていることを示している。

改定入管法の狙い

 今次改定では年来のその狙い通り、在留カード導入で、在日外国人管理の法務省一元化が強められることになる。それは、「新しい在留管理制度は、外国人の適正な在留の確保に資するため,法務大臣が、我が国に在留資格をもって中長期間在留する外国人を対象として、その在留状況を継続的に把握する制度です」(法務省パンフレット)と述べていることに明瞭に示されている。すなわち、これまで、外国人登録制度によって総務省によっても管理されていた在留情報を、在留カードを入管が発行し管理することで法務省が一元的に把握することになるのである。それにともなって、外国人登録証は廃止される。そして、外国人登録制度は、住民基本台帳制度に組み込まれる。

在留カードは、空港や港湾などで、日本上陸の際に発行され、常時携帯義務が課せられている(違反の場合、20万円以下の罰金。提示拒否の場合、1年以下の懲役または20万円以下の罰金。懲役刑なら退去強制)。その他、居住地の変更届を14日以内にしないと20万円以下の罰金が課せられるなど、罰則が強化されている。

また、「配偶者として「日本人の配偶者等」、「永住者の配偶者等」の在留資格で在留する方が、正当な理由がなく、配偶者としての活動を6か月以上行わないで在留すること」が認められる場合、在留資格が取り消されるという「偽装結婚」対策と思われる不可解な処分まで規定されているのである。

入管体制の歴史的性格

 19475月の外国人登録令で日本は旧植民地人民の国籍を一方的に外国人にしたが、それは在日朝鮮人・台湾人などの歴史的具体的な関係のありようによって、その一般外国人化は未だに実現していない(「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」に基づく旧植民地出身者=特別永住者とその他の一般永住者の2者がある。ただし、特別永住権は在留資格の一つであって権利とされてはいない)。しかし、その狙いは、1952年サンフランシスコ平和条約発行の際の「平和条約の発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理」(昭和27419日民事甲第438号民事局長通達)で、「(一)朝鮮及び台湾は、条約の発効の日から日本国の領土から分離することとなるので、これに伴い、朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含めてすべて日本の国籍を喪失する」「(五)条約発行後に、朝鮮人及び台湾入が日本の国籍を取得するには、一般の外国人と同様、もつぱら国籍法の規定による帰化の手続によることを要する」と示されている。そして、この年、外国人登録法が制定された。同時に入管令(1951年ポツダム政令第319号)が公布・施行され、サンフランシスコ平和条約発効(1952428日)後、法律としての効力を持つ政令となる。この原型は、GHQのポツダム政令第二百九十九号「出入国の管理に関する政令」にあり、この時は、入管は、「外務省管理局に、入国管理部を置く」とされ、外務省の担当となっていたが、入管令では、法務省になった。以後、在日外国人管理は治安担当の法務省の管轄となり、1982年の難民条約批准に合わせた法改正で「出入国管理及び難民認定法」に変わってもその基本は変わっていない。

改定入管法の問題点

 今次入管法「改正」の問題点について、難民支援団体などから指摘されている。例えば、「改定入管法中長期滞在者のためのQ&A日本語改訂版2012・2(移住労働者と連帯する全国ネットワーク・入管法対策会議・在留カードに異議あり!NGO実行委員会)では、「新しい在留管理制度の下では、外国人ひとりひとりの最新で詳細な個人情報が、継続的に法務省入管局に集中されます。また、法務省はこのほかに、これまでの退去強制歴など出入国情報、入国・再入国した際の指紋・顔画像の個人識別情報、さらにブラックリスト情報も持っています」「その上、今回の改定法では、外国人の個人情報を継続的に把握するため、法務省に広範囲な事実調査権を付与し」たことを取り上げている。同パンフは、結局のところ「この改定法」は、「在留期間の最長が3年から5年に延長され、また「みなし再入国」を新設するという改善点があるものの、結局のところ「外国人いじめ法」となっています」と批判している。すなわち、「改定入管法は、外国人に対してさまざまな義務規定を設けて、その義務違反に対しては刑事罰、在留資格取消しという制裁を科す――その脅しによって、外国人にたくさんの義務を遂行させる、というものです。このような制度は、外国人ひとりひとりの尊厳と自由を奪うものです。この改定法は、日本人と外国人との「共生」を阻む悪法です。しかし、この日本社会に住む私たちは、次のことを想起しなければなりません」として、「自由権規約委員会『一般的意見151』」から次の規定を引用している。

「外国人は、ひとたび締約国の領域内に入ることを認められると、規約(国際人権自由権規約)で定められた権利を享受することができる。外国人は、法律による平等の保護を受ける権利を有する。これらの権利の適用に際しては、外国人と市民の間に差別があってはならない」。

日本の入管行政が在日外国人管理で実際に行なっていることは、これに反することが多く、入管職員の現場での適当な裁量権行使によって、在日外国人の生活や尊厳、人格が傷つけられる事例が数多く発生している。

難民問題への影響

 日本政府が難民条約を批准して入管法を改正し、難民認定法を加えて30年になるが、昨年の難民認定申請者数1,867人で、前年の1・6倍に増えて、過去最高になったが、難民認定したのはなんとたったの21人である。過去4年の難民認定数は、41→57→30→39人である。国籍別では、ビルマ(ミャンマー)18人、他2国で3人である。難民認定しなかったものの、仮滞在許可を出して、人道的な配慮が必要なものとして、特に在留を認めた者は248人であった。それも以前の4年で、88→360→501→363人であり、2年連続で減少している。
 難民条約加盟後の累計では、598人。国別では、ビルマ(ミャンマー)307人、イラン69人、ベトナム59人、カンボジア50人、ラオス48人である。日本の人口の約8分の1のオランダ515人、人口5,987万人で経済危機と言われるイタリアでも1,785人が難民認定されている(2008年)。

それに対して日本の昨年の21人という数字はほとんどゼロに等しい数字である(0)。これで難民条約締結国と胸を張って言えるわけがない。だが、法務省は、上の数字を堂々とホームページに掲げている。まるで、法務省は難民の保護などしなくて当然、難民の人権などどうでもいいと開き直っているかのようだ。

世界の難民発生国のトップは米帝の「対テロ戦争」の最前線のアフガニスタンである。政治的思想的等の理由で、祖国で迫害され、あるいはそのおそれのある外国人が庇護を求め、政治亡命を求めてくるのを、日本政府はこうして事実上シャットアウトしているのだ。

特に、難民申請者は一切の登録がなくなり、公的住民サービスもなくなる。また、先にあげた難民認定申請をして仮滞在が許可された外国人=仮滞在許可者は、住民票には記載されるが、在留カードは出さない。そのために、難民申請後の裁判が長期化している中で、生活のために労働せざるを得ない仮滞在許可者が生活の資が得られなく可能性もある。

ブルジョアジーの狙い

 今次入管法改定のもとになった「新たな在留管理制度に関する提言」の中で、日本経団連は、「外国人が我が国で快適に働き、生活し、年限がきたら本国に戻るというローテーション型の外国人材受入れを進めていくべきである。その前提として、在留管理、企業の就労管理はきっちりと行い、外国人に対し、日本では不法就労はできないということを明らかにする社会基盤を作っていく必要がある」と中長期在留者というカテゴリー創設とその管理のための在留カード導入を求めている。それに対して全国中小企業団体中央会は「入国管理局というと「取締り」のイメージが強く、市区町村は行政サービスの提供主体という色彩が強いという印象を持っている。今回の新たな在留管理制度では、入管に情報等を一元化し、取締りの強化ばかりが強調されている点が気がかりです」として、「不法」滞在外国人労働者の雇用に対する雇用主への罰則強化に懸念を示している。

そもそも、高度な技術を持つ外国人労働者の雇用を積極的に進めようとする大企業と「不法」滞在労働者や研修生の名目や「不法」滞在者も含む低賃金非熟練労働者を雇用したい中小企業との利害の違いが入管制度への要求の違いとして現れている。改定入管法は、明らかに前者の利害を強く反映している。

プロレタリア国際主義を貫徹し、改定入管法との対決を!

 今回の改定入管法は、外国人労働者を分断・管理・支配を容易にするための法制度を整備するものであり、その過程で、難民制度の不備を放置して矛盾を拡大するもので、施行後に様々なトラブルが発生することは目に見えている。

現状では、差別・排外主義による分断支配によって、日本の労働者で、同じ労働者でありながらも、その人権状態や労働条件などへの関心は低められてしまっている。しかし、このような非人道的に扱われる外国人労働者の劣悪な労働状態こそが、自らの労働条件や人権状態を下に引っ張っているのである。その関連を明確に理解し、それを改善することが、自分の状態を良くすることになるのは明らかである。

また、他国の労働者大衆の政治状況を理解し、圧政に苦しむ人民を支援し、連帯するのは、プロレタリアートの国際主義的任務である。それに対して支配階級は、互いを分裂させ分断支配することを利益としている。かかる支配階級の策動に対抗し、他国の同胞の境遇を理解し合い助け合い、プロレタリアートの国際的な団結を強めていかなければならない。まずは、他国の同胞の境遇を知ること、理解することから始め、そして互いに友愛の絆を持って交流し、連帯の実践を積み上げていくことである。それは、新たな国際的に開かれた共同体を形成することである。

改定入管法は、外国人労働者同士を細かく分断し、管理を強め、同時に日本人労働者との間の溝をも深めるものだ。これに対抗し闘う戦線を構築する運動を発展させなければならない。

それは、歴史的な帝国主義植民地支配の清算を果たす闘いでもある。

そして、ビルマのアウンサンが強調した「多様性のなかの統一」という言葉に含蓄されている多様な共同体の連合としての共産制社会の実現を目指すコミュニズム運動にも結びつく闘いである。

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ビルマ主要年表

5・20難民講座で提出した資料の一部のビルマの年表です。『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(田辺寿夫 根本敬著 角川書店)という本の年表に、2003年以降の分を足して作成したものです。

ビルマ主要年表

1044 パガン朝成立

1057 アノーヤク-王、モソの都タトンを攻略(上座仏教の受容)

1531 タウングー朝成立(以降そソやタイ王朝との戦いをくりかえす)

1752 アラウソパヤー、王朝を興す(コンパウン朝。以降、タイ、アラカソ、マニプールなどへも出兵~1885)

1824 第一次英緬戦争(1826)。テナセリウム、アラカソをイギリスに割譲。

1852 第二次英緬戦争(下ビルマのすべてが英領となる)

1885 第三次英緬戦争。コンパウン朝滅亡。

1886 ビルマ全土が英領インド帝国の-州となる。

1906 青年仏教徒連盟(YMBA)結成。

1911 ブローム県パウソデーでネウィン生まれる。

1915 マグウェ一県ナッマウでアウンサン生まれる。

1917 この年を境にYMBA急速に政治化していく。

1920 YMBAを基盤にビルマ人団体総評議会(GCBA)設立(10)。ラング-ン大学設立と同時に第一次学生ストライキ発生(12)

1923 両頭制施行される。

1930 サヤ-・サンらが率いる農民反乱起こる(32)、タキン党結成。反英独立をめざす。

1936 ラングーン大学第二次学生ストライキ(2月~5月)。下院総選挙実施(11)

1938 反インド人暴動発生、油田労働者ストライキなどから全国的な反英運動広がる( 39年)、ビルマ暦1300年国民運動に。

1939 アウンサンら、タキン党幹部逮捕される(1月)。マンダレ-で僧侶ら14人が軍の発砲で死亡(2)。バモオ内閣不信任案可決、ウー・プ内閣発足(2月)。この頃、タキン党に党内党のようなものとして人民革命党と共産党がつくられ、アウソサンは共産党の書記長に名を連ねる。コックレイン総督、英国が(将来のある時点で)ビルマを自治領とすることを言明(11)

1940 ビルマ防衛法公布。反英運動への弾圧強まる。ビルマ防衛法の適用により自由ブロック関係者の逮捕始まる(8月にはバモオも逮捕される)。日本陸軍大佐・鈴木敬司がラングーンに入る(6月)。アウソサンが同志とビルマを密出国するが、憲兵に捕らえられる(8月)。アウソサン、東京に着く(11)

1941 日本軍、南機関を設置(2月)。「三十人志士」が誕生しビルマを脱出(4月)、ビルマ独立義勇軍結成(12)。大日本帝国、対英米に宣戦布告。

1942 ウ一・ソオ、ティべリアスで逮捕され首相職から解任、日本軍とビルマ独立義勇軍、ビルマ進軍開始(1) 3月にはラングーン占領。全土に軍政を布告し(6月) 7月に南機関を解散させる。ビルマ中央行政府発足、長官にバモオ就任(8月)

1942 日本軍、ビルマ独立義勇兵と共にビルマ侵攻。全土を「平定」。ビルマ植民地政府、シムラへ撤退。日本は軍政施行。

1943 東候英機内閣、ビルマに「独立」を許容(国家元首兼首相バモオ、国防相アウンサン)

1944 日本軍、インパール作戦に失敗(7月)連合軍の反撃強まる。反ファシスト地下組織(のちのAFPFL、パサパラ)結成(8月)

1945 パサパラ、ビルマ国軍とともに対日反乱に決起(3月)。英軍ラングーン奪還(5月)。大日本帝国、ポツダム宣言を受諾(8月)。イギリス植民地統治復活。

1946 パサパラ(総裁アウンサン)、英国に早期独立要求。公務員ストライキなど広がる。

1947 「アウンサン―アトリー協定」調印(1月) 制憲議会はじまる(6月)。アウソサンと閤僚計7名らが暗殺される(7)

1948 ビルマ英国から主権を回復。 「ビルマ連邦」を国名として独立(1)。共産党武装闘争に突入(3)。カレン民族機構蜂起(7)。人民義勇軍の一部武装反乱へ( 7月)

1949 ネウィン、ビルマ国軍総司令官に就任(2)。ビルマ等、ラングーン北郊でカレン軍と交戦(1~4)

1951 第一回総選挙

1954 日本=ビルマ平和条約、賠償および経済協力協定調印(11)。翌年批准。

1956 第二回総選挙、パサバラ過半数を確保するものの、民族統一戦線(NUF)に得票率で追られる(4)。ウー・ヌ、一時首相職を退く。

1958 与党パサパラ二派(清廉派と安定派)に分裂(4)、ネウィン選挙管理内閣成立(604)、国軍の政治介入始まる。

1960 第三回総選挙、ウー・ヌ率いる「清廉派」(連邦党)大勝(2月)、ウー・ヌ、首相に返り咲く(4)

1962 ネウィン、クーデターで政権奪取(3月)、革命評議会結成。革命評議会「ビルマ社会主義への道」綱領を発表(4月)。軍がラングーン大学学生同盟会館を爆破、学生運送が非合法化される(7月)。単一政党・ビルマ社会主義計画党発足(7)、議長にネウィン。以降、企業の国有化などビルマ式社会主義経済済政策が実施される。

1964 ビルマ社会主義計画党を除く全政党に解散命令が出される(3) 1回目の高額紙幣廃貨令実施(5)

1965 4月に改正小作法施行、小・中・高校の国有化始まる(66年3月)。

1967 ラングーンで反中国人暴動が起る(6月)。

1971 新憲法起草委員会設置される(9月)

1974 新憲法公布、ビルマ連邦社会主義共和国となる(1)。ネウィンはビルマ社会主義計画党議長のまま大統領に。米不足から暴動発生(5月)。ウー・タン前国連事務総長の遺体の取り扱いをめぐって、学生たちが反政府運動を盛り上げる(12)

1975 学生・労働者による反政府ストライキ発生。

1976 タキン・コウドオフマイン生誕100年記念を機に学生たちの反政府運動(3月)。ネウィン暗殺計画に関係した青年将校らを処分( 7月)

1980 仏教全宗派会議開催。

1981 ネウィン大統領引退(党議長は継続)、後任にサンユ (11)

1983 殉難者廟爆破事件で韓国閣僚ら17人死亡(10)、ラングーン事件。ビルマ政府はその後北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)政府と国交断絶。

1985 2回目の高額紙幣廃貨実施(11月)。

1987 3回目の中、高額紙幣廃止令で学生運動高まる(9)

1988 学生たちによる本格的デモを軍が弾圧(ダダービュー事件=3)。ネウィン議長とサンユ大統領辞任(7)、ネウィンによる「次は当たるように撃つ」発言、新大統領にセインルウィン大統領就任(党議長兼任)。アウンサンスーチー民衆の前で初演説(8)9月に国軍クーデター、国家法秩序回復評議会(SLORC・議長ソオマウン国防相)全権掌握。国民民主連盟(NLD)結党(9月)アウンサンス-チーが書記長に。以降、政党がつぎつぎと誕生。民主化運動に参加した人びとへの抑圧、強制退職、逮捕などが続く。外国投資法制定(111月)、以降、ビルマ式社会主義から、市場経済へ。

1989 日本政府、ビルマ軍事政権を承認(2月)。以降、ODA継続案件順次再開へ。軍事政権が英語の国称をミャンマー(首都=ヤンゴン)に変更(6月)すると発表。アウンサンスーチー、自宅軟禁される(7月)。

1990 総選挙実施、NLD圧勝(5月)。軍事政権は政権委譲を行わず、NLDなどへの弾圧強化、支持者の大量逮捕を始める(6月~7月)。カレン解放国「ビルマ連邦国民連合政府」(NCGUB)樹立(12月)。

1991 アウンサンスーチーにノーベル平和賞授与される(決定10月、授与12月)。

1992 SLORC議長、ソオマウンからタンシュエに交代、政治犯の釈放始まる(4月)。

1993 国民会議始まる(1月)。このころから「民族和解」をめざす少数民族武装組織との交渉盛んになる。カチン独立機構との停戦協定成立(10月)。

1994 日本の経団連使節団、ビルマ訪問(6月)。ASEAN外相会議にオウンジョー外相出席(7月)。SLORC、アウンサンスーチーと対話(9、10月)。李鵬中国首相が訪緬(12月)。

1995 アウンサンスーチー、6年ぶりに自宅軟禁から解放される(7月)。NLD、国民会議をボイコット、軍事政権は全員を除名(11月)。米国・オルブライト国連大使訪緬(11月)。

1996 タンシュエ議長ら中国訪問(1月)。NLDの議員総会開催を阻止するため、軍事政権が議員・党員を260名以上逮捕・拘束、NLDは党員総会に切り替えて開催、独自に憲法草案づくりを進めることを宣言(5月)。タンシュエ議長らASEAN加盟申請のためマレーシア訪問(8月)、続いてカンボジア、(10月)、シンガポール、インドネシア(11月)訪問。国際観光年開幕(11月)。

1997 日本・高村正彦外務政務次官訪緬(8月)、軍政が国家平和発展評議会(SPDC)に名称変更(11月)、日本・橋本龍太郎首相、アセアン+3首脳会議に出席していたタンシュエ議長と会談(12月)。

1998 タンシュエ議長、フィリピン訪問(2月)、ベトナム訪問(12月)。

1999 タイでミャンマー大使館占拠事件(10月)。フィリピン・マニラで日本・小渕恵三首相とタンシュエ議長首脳会談(11月)、橋本龍太郎元首相訪緬(11月)。

2000 ラザリ国連事務総長、特使に就任(4月)。日本・深谷隆司通産省ASEAN+3経済閣僚会議のため訪緬。ウインアウン外相訪日し、高村外相と会談(5月)。日本・河野洋平外相がバンコクでASEAN+3外相会議時ウインアウン外相と会談(7月)。アウンサンスーチー再び自宅軟禁(9月)、10月頃から軍事政権と対話始まる。

2001 日本・田中眞紀子外相、ハノイでASEAN+3外相会議時にウインアウン外相と会談。ILOの訪緬団ヤンゴン入り(9月)。タンシュエ議長マレーシア訪問(9月)。アウンサンスーチーと軍事政権との対話再開(9月)。ウー・ソータ国家計画・経済開発相訪日(10月)。日本・小泉純一郎首相、ブルネイで開かれたASEAN+3首脳会議時にタンシュエ議長と会談。ウインミン第三書記ほか六閣僚解任(11月)。ヤンゴンでアジア開発銀行主催大メコン流域会議開催(11月)。中国・江沢民国家主席訪緬(12月)。

2002 軍事政権、ロシアに対して研究用原子炉の建設など原子力平和利用技術の供与を要請していると発表(1月)。アウンサンスーチー、軟禁中の自宅で国連人権委員会のピネイロ特別調査官と会談(1月)。KLO調査団、強制労働の実態調査のためヤンゴン入り(2月)。軍事政権に対するクーデター未遂事件発生、ネウィン元大統領の孫ら数人の将校を拘束(3月)。アウンサンスーチー、訪緬中のドイツ国会議員団と会見(4月)。ラザリ国連特使、数回にわたって訪緬、424日にアウンサンスーチーと、26日にはタンシュエ議長と会談。春以降、通貨チャットの下落急に。アウンサンスーチー軟禁状態から解放(5月)、前後して政治犯の釈放も行なわれる。米国・ブッシュ大統領がアウンサンスーチーの自宅軟禁解除について「解放がミャンマーの夜明けになることを期待する」と述べ歓迎の意向を表明。日本の外務省、田中均アジア大洋州局長をミャンマーに派遣。

 タイ・ミャンマー国境で軍事衝突(5月)。ヤンゴンの高級ホテルの一室で三菱商事ヤンゴン事務所所長刺殺、ホテル従業員が逮捕される(5月)。アウンサンスーチー、5月29日に日本の資金援助を受けたヤンゴンの病院を視察、6月14日にはカイン(カレン)州、22日以降は地方で遊説、ビルマ第二の都市・マレーシア・マハティール首相をはじめ、各国首脳がヤンゴン入り。3月に摘発されたクーデター未遂事件の判決公判が開かれ武装蜂起を共謀したとして、ネウィン元大統領の娘婿と3人の孫ら死刑判決、被告は控訴(9月)。オーストラリアのダウナー外相が訪緬、タンシュエ議長、アウンサンスーチーらと会談(10月)。NLDがアウンサンスーチーが訪れた西部ラカイン(アラカン)州で支持者と軍事政権とが衝突したと発表(12月)。

2003 タンシュエ議長訪中、中国・江沢民国家主席と会談、江主席はミャンマーの経済建設のため、2億ドルの特別優遇借款の供与を表明(1月)。ヤンゴン市内を中心に金融不安が高まり、銀行に民衆が殺到、取り付け騒ぎに。軍事政権は預金の引き下ろし制限を強制。

2005 11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始。

2006 10月、行政首都ネピドーへの遷都を公表。

2007 仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト長井健司を含める多数の死傷者を出した(9月)。1011日、国連安全保障理事会は、僧侶や市民らによるデモに対する軍事政権の実力行使を強く非難する議長声明案を、全会一致で採択した。民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任(1024日)。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。

2008 5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタンシュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している。

2010、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) 20035月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した(2月13日)。同年215日、国連人権理事会のキンタナ特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた。426日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日に連邦団結発展党を結成。国旗を新しいデザインに変更すると発表(1021日)。2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った(117日)。11月に政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除される。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ。新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された(117日)。軍事政権の翼賛政党連邦団結発展党 (USDP) は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) の分派である国民民主勢力 (NDF) は、140人にとどまった。NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された。総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得、NDFの議席は少数にとどまった。

2011 ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕(131日)。テイン・セインはミャンマー大統領に就任(330日)。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意。政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された(1012日)。テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認(1114日)。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した(1125日)。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。

2012 ミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された(41日)。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った。日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区の上下水道、道路、光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負った(2月)。実際の開発はミャンマー側が日本の企業を誘致し行う。ミャンマー側もかねてから日本に開発をゆだねたいという意思をテイン・セイン大統領が示していた。

 2008年に制定された新憲法により、二院制の連邦議会が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が44。議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。

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5・20難民講座終了

 難民講座は無事終了しました。

 ビルマ難民の方たちのお話はいずれもビルマの現体制の人権侵害状況をリアルに伝えるものであった。長老の方の話には、紀元前にはローマとの交易もあったというビルマの歴史的蓄積を感じさせるような深さを感じた。現在の急激な開発の波の中で、政治体制の変化も当然起るものと思うが、現政権の民主化が、少数民族には及ぼされておらず、早期の帰国は難しいということもわかった。シャン族に対しても最近、暴力的同化政策(国軍によるレイプなど)が取られるなどしており、少数民族の多くが自衛のために武装している。停戦合意は簡単に繰り返し反故にされているということだ。だから、日本の投資をひかえて欲しい、ビルマの民衆のためになるように考えた投資をして欲しいということを言われた人もあった。

 ビルマには歴史的地理的文化的民族的多様性があり、平野部においては、「アジア的生産様式」が認められる。そこからいきなり近代化がもたらされたことで、多くの問題が生まれていて、さらにイギリスの植民地政策(平野部の直轄支配と山岳地帯の間接統治―旧来の支配体制をそのままにした上で統治するという形態)の影響も残っている。このような多様性を持つ国の統一は軍事的暴力的統治によってしか実現できないと考えたのが、ネーウィン独裁政権だった。他方で、ビルマ共産党の創設者の一人であるアウンサン将軍(アウンサンスーチーさんの父)は、ビルマの詩人の言葉とされる「多様性のなかの統一」を理念として掲げたという。この「多様性のなかの統一」という言葉は実に深みのある言葉で、多様性というのは普通に考えれば、分散・分裂をもたらすものだが、そのなかに統一があると考えるのは、弁証法的である。その場合の媒介が何かがビルマの政治の鍵となるだろう。「多様性のなかの統一」を媒介するものが見出されねばならないわけだ。それが軍事独裁ではないということは歴史が明らかにしているとおりで、だからこそ、日本に多くのビルマ難民が存在しているのである。その時に、アジア性ということが一つの重要な概念となるのだろう。それから、ビルマは、東南アジアに属すが、それは、アジアの東の南であり、より大きくは東アジア史の中にある。ビルマのカレン族の人は、そのルーツは今のモンゴルのあたりにあり、そこから南下した民族だと語っていた。チベット系の諸民族もいる。そして、古くから、中国人、インド人もいる(最近、これらの人の数が増えているという)。ビルマの民族数は、政府によって操作されている可能性が高く、信用できないということであった。シャンの人の話では、ビルマ族と他の少数民族の比率はだいたい半々ぐらいだという。

 東アジアという視座をとって、改めて、ビルマや東南アジアの位置や歴史的情勢と今日の課題、その解決の仕方、関わり方などについて、考えてみたいと思った。

 なお、7月9日施行の改定入管法については別に書いたものがある。これは施行後、様々な問題が生じ、トラブルが起きることは間違いないもので、それに対する運動・闘争が起きることが今から確実に予想されるものである。

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5・20難民講座 どうなるビルマの民主化?

以下、訂正があります。開始時間は2時30分ですので、お間違いなく!

5・20難民講座
         どうなるビルマの民主化?
            ――在日ビルマ難民に聞く―

  日本で圧倒的多数割合で難民認定されているのはビルマ難民です。

  最近、ビルマ政府は「民主化」を開始し、例えば、長年弾圧してきた民主化運動のリーダーのアウンサンスーチーさんが国会議員になることを許容するなどしています。しかし、少数民族が多く住む多民族国家ビルマでかれらがどうなるかはよくわかりません。日本で最大のビルマ難民がどうなるかは、難民問題全体にも大きな影響を及ぼします。

 7月9日の改訂入管法施行と共に難民問題をめぐる大きな変化の兆しなので、今のビルマの「民主化」を当事者がどう捉えているのか、それが難民問題に与える影響はどういうものなのか、等々のことを、ビルマ難民の方から直接伺い、共に考えていきたいと思います。是非とも、ご参加下さい。

日時:520日(日)午後2時30分〜

場所:新宿区立元気館第1洋室(東京都新宿区戸山3-18-1  TEL 03-3202-6291

資料代:500(難民の方は無料)

内容:〈お話〉サイシーワンさ(在日シャン民族民主主義会)ゾーミンカインさん在日ビルマ少数民族協議会 議長)マイチョーウーさん(国民民主戦線(ビルマ)議長)、難民のアピール、等

           難民を支援し連帯する会

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