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2012年6月

徐京植氏『半難民の位置から』について

 徐京植氏の『半難民の位置から』(影書房)を読み始めた。

 そこで、氏は、「在日」を半難民と規定している。しかし、「在日」の中には、難民そのものがいることは明らかである。日帝からの解放後、朝鮮半島は分割統治、朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国という分断国家が並立し、朝鮮戦争にまで至る内戦状態があった。米帝の後押しを受ける南の大韓民国李承晩政府は、国内の反体制派を徹底的に弾圧した。4・3済州島蜂起に際しては、「共産主義者の手先」とみなした住民を情け容赦なく殺した。住民の中には、半島へ逃げたり、日本に逃げた者もいた。政治的迫害による亡命者(難民)となったわけだ(国内に避難する国内難民もある。そして、ディアスポラという概念がある。それが、今、福島からの避難民の状態を表す言葉になりつつある)。この時、GHQも日本政府も、難民を人道的に保護することはなかった。戦時中には、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人難民を保護することが行われた。それが難民条約の元になる。

 帰国運動については、テッサ・モーリス・スズキ氏の『北朝鮮のエクソダス』(朝日新聞社)に詳しい。この時の帰国者には、南の出身者が多いことが指摘されているが、その背景に、この時代の日本及び朝鮮半島(韓国軍事政権の弾圧、経済的困難など)の状態があったことを踏まえておかなければ理解できないということが、わかった。

 徐京植氏の上記の本には、花崎皋平氏とのいわゆる徐・花崎論争の当該文書がある。花崎氏が、『みすず』(みすず書房)に書いた批判とそれに対す徐氏の反批判である。これは、1990年代後半に行われた歴史認識論争、あるいは歴史主体論争の一部をなしていて、戦後責任の主体をめぐる『敗戦後論』(加藤典洋)の評価や批判も載っている。この論争の決着は未だについていないように見える。そこに、現在の右派の跳梁跋扈の思想的背景があるのではないだろうか。

 花崎氏の批判が、「糾弾型」か「対話型」かというコミュニケーション・モードの対立というプラグマティックな方法論の次元で終わっているとしたら、この問題が解けないのも当然という気がする。高橋哲哉氏が責任編集した『「歴史認識」論争』(2002年 作品社)を読んだが、そこで、戦後責任に応答する主体としての「日本人」の政治的構築ということが言われていた。植民地主義の未清算、残存、あるいは現代思想風に言えば、「痕跡」の作用が続いているということだ。言い換えれば、それは、帝国主義の未清算ということだ。それが、「ダーバン宣言」が指摘、批判し、その清算を旧宗主国に求めたものだと考える。

 徐京植氏が1980年の難民条約締結後の出入国管理法(入管法)の出入国管理及び難民認定法への改定後の入管体制の変化を受けて、自らを「半難民」と位置づけたのには現実的根拠がある。

 これから、これらのことを少し詳しく考察していくつもりだ。

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亡命者という歴史認識の立場=共産主義インターナショナリズム

 イタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグは、『糸と痕跡』(みすず書房 上村忠男訳)の中で、「ミクロストリア」という概念の系譜を辿り、意味を明らかにしていく過程で、アナール学派のフュレ、ピエール・ショーニョがポスト近代歴史学のポイントして指摘している内容の違いを止揚しようとしている。フュレは、「民族学を一服盛ることで近代化理論の自民族中心主義的抽象性を打破しようと提案していた」(180ページ)の対して、シーニョは、「近代化理論とともに、啓蒙主義に結びついた近代のさまざまな理想をも海に投げ込んでしまうよう、示唆していた」(同)という。

  前者は、歴史家の仕事道具を議論に付す方向へ向かったが中途で止まってしまい、後者はそもそもそれを放棄するものだった。

 両者の収斂点は、19世紀からわたしたちのもとに伝えられてきた歴史学の特徴をなしている(とフュレが指摘する)自民族中心主義と目的論を拒否しようとしている点に求められる(181ページ)。

 この前に、ギンズブルグは、クラカウアーが写真と歴史主義のアナロジーをしていることについて、次のように述べている。

 クラカウアーが強調するところによれば、異邦人、マージナルな存在、「この家の者でない」人物は、より多くを、より深く、知ることができるのであった。自分が目にしているのがだれであるかわからないでいる瞬間こそは、傍観者の距離を置いたまなざしに、認識の啓示への道を開くのである(148ページ)。

 もっとも、これで終わりというわけではない。「まなざし」は運動であって、それ自身が歴史的である。そして、それは物語るのである。そこに弁証法がある。微視的―巨視的などの「まなざし」の弁証法的運動があり、反復を含む変化がある。この点で言えば、アメリカの歴史学者ヘイドン・ホワイトの以前の懐疑主義的歴史観は、変化を捉える点が弱いと言える。ギンズブルグは、相対主義・懐疑主義、あるいはポスト・モダンに対して批判的である。かれは、イタリアの新左翼のオペライズモのポテーレ・オペライオ(アントニオ・ネグリたち)と分かれたロッタ・コンティーヌワ(アドリアーノ・ソフリたち)に近い人物である。

 第一インタナショナル(国際労働者協会)には、イタリアの統一戦争指導者のガリバルディが参加していた。19世紀後半、統一イタリアはまだなく、小国が並び立っていた。イタリアにも多かったバクーニン派などの無政府主義者たちとの対立が、1871年パリ・コミューンの後、抜き差しならないものになった。そこで、マルクスとエンゲルスたちは、以下の回状を回して、かれらと対決しようとした。パリ・コミューンの敗北の後、第一インタナショナルは、亡命者(難民)の受け入れと支援を決定し、そのために活動した。以下はそれを示している。

 亡命者(難民)の「まなざし」に、自民族中心主義の限界を超える歴史的な「まなざし」を見出すことができる。そこに、「ポスト近代」への移行の視点(viewpoint)がある。マルクスは亡命者であったが、亡命者が必ずそうした視点を持つわけではない。意識的にそうした視点を持つように、それを習得するように、訓練を積む必要があるのだ。日本人の間に、支配階級と被支配階級があり階層格差・差別があり、それが拡大しているのに対して、自民族中心主義による民族内平等を要求し、他民族への差別・排外主義へと向かうナショナリズムでは、その階級差別・階層間格差は打ち破れない。このような洞察を基礎に、他民族の権利と自分たちの権利を同時に要求していくことが必要なのである。自民族中心主義で自己のエゴだけを押し出していくと、支配階級によって、簡単に分裂させられ、分断され、力を弱められて、いいように利用されるだけの惨めな状態になる。つまり、他から規定されるだけの受動的な存在にされてしまうことになるのだ。そうならないように、以下の第一インタナショナルの思想や活動をしっかりと教訓にすることだ。

国際労働者協会総評議会の非公開回状

……。
 パリ・コミューンの崩壊後にとった総評議会の最初の行為は、『フランスにおける内乱』についての宣言を発表し、コミューンのあらゆる行動への連帯を表明することであった。……

  コミューンからの亡命者が多数ロンドンに到着したことにより、総評議会は救援委員会を設けて、8ヵ月以上のあいだ、まったくその正規の権限外のこの機能を果たさなければならなかった。いうまでもなく、打ち負かされた亡命してきたコミューンの戦士たちは、ブルジョアジーにはなにひとつ期待できなかった。労働者階級についていえば、救援の要請をうけたのは困難な時期においてであった。スイスとベルギーは、すでに亡命者の割当をうけており、彼らを支援するか、あるいはさらにロンドンに逃げてゆくのを容易にしてやらなければならなかった。ドイツ、オーストラリア、スペインで集められた醵金は、スイスに送られた。イギリスでは、9時間労働日のための大闘争がおこなわれ、その決定的なたたかいはニューキャスルでおこなわれたが、労働者の個人的な寄附や労働組合トレードユニオンの組織した基金を吸収してしまった。なおこの基金は、その規約そのものによって、その職業の闘争以外には転用できないものであったが。しかし、総評議会はたえまない申入れと通信によって、少しずつではあるが金を集めて、毎週分配することができた。アメリカの労働者は総評議会の訴えにもっと大きな額でこたえてくれた。恐れをなしたブルジョアジーは、気まえよくも数百万の金がインタナショナルの金庫にあると想像してくれたが、それだけの金はまだこれから総評議会が集めなければならないのだ!(『マルクス・エンゲルス全集』より)。

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米人種間の資産格差が22倍に 不況で拡大

 以下は、欧州経済危機が深まる中、気になる記事である。

  「スペイン政府は21日、銀行部門の資本不足が最大で620億ユーロ(約6兆2千億円)に達すると発表」(6月23日 日経)したが、5月に決定したEUの支援額は42億ユーロ(現在の為替レートで約4200億円)でしかなく、全然足りない。また以下の記事は、資本主義・帝国主義は、人種差別をなくせないし、再生産している構造的問題があることを示している。

  一方では、平等や民主主義というたんなる言葉の上だけの虚しいスローガンや部分的改良があり、かれらは、それを誇大に宣伝して、人々を騙している。このようなイデオロギー空間内に置かれているわれわれが、それから頭だけでも解放されるためには、別のイデオロギー空間に入る必要がある。それは脱イデオロギーということではない。あるいは、脱イデオロギーというイデオロギー空間に入ることではない。それでは、自分はイデオロギーとは無縁であるという妄想に陥るだけである。

 また、イラクやアフガニスタン戦争の際に、米国内では、人種差別的で排外主義的な宣伝・扇動が行なわれた。差別と戦争は繋がっている。

米人種間の資産格差が22倍に 不況で拡大

  ニューヨーク(CNNMoney) 米国勢調査局が最近発表したデータによると、米国の白人は黒人の22倍の資産を保有しており、その差は昨今の大不況で約2倍に拡大した。

  2010年の人種グループ別の世帯純資産の中央値は、白人世帯が11万729ドル(約890万円)だったのに対し、黒人世帯は4995ドル(約40万円)、ヒスパニック系世帯が7424ドル(約60万円)だった。

  白人とその他の人種グループとの貧富の差は不況の間に拡大しており、白人は他のグループに比べ、不況をうまく切り抜けたといえる。白人以外の3つの人種グループの世帯純資産の中央値は2005年から2010年までに約60%も減少したのに対し、白人世帯のそれはわずか23%しか減少しなかった。

 人種間の貧富の差は今に始まったことではない。これまでも黒人やヒスパニック系は白人に比べ、低所得、高失業、低学歴だった。しかし、昨今の大不況で状況がさらに悪化した。例えば2005年の純資産の差は今ほど大きくはなく、白人は黒人の12倍、ヒスパニック系の8倍だった。

  黒人やヒスパニック系が不況をうまく乗り切れなかった主な理由は、総資産に占める住宅資産の割合が白人に比べて大きかったためだ。住宅バブル期に黒人やヒスパニック系の持ち家率は上昇したが、彼らは白人に比べ、より多くの住宅購入資金を高コストのサブプライムローンに依存していたため、不動産バブルの崩壊で、より壊滅的なダメージを負った。

  また黒人やヒスパニック系は、保有資産を預金や株といった金融システムに回す確率が低く、さらに白人に比べて高い失業率も貧富の差を拡大する要因となっている。

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ビルマの少数民族

難民講座に提出した資料の一部です。ビルマの少数民族問題は複雑で入り組んでいることがわかる。それから、アウンサンの「多様性の中の統一」という思想が、こうした民族的多様性と統一を同時にどのように実現するかというビルマの課題に対する基本理念としてあることもわかる。日本の場合、琉球処分以後の沖縄・北海道の植民地化が、近代的国民形成の時期にあったために、同化が行きすぎるまでに強力に進み、「ひめゆり」の悲劇をもたらしたように、ヤマトへの「統一」(=併合)が表面的にはかなり実現されたかのようになったのに対して、世界史が「ポスト・近代」へと向かう過程の中で、ビルマが日本と同じ道を辿る可能性は低いように見える。ビルマの現政権はその道を強引に推し進めているようだが、それは失敗する可能性が高いと思われる。

沖縄の場合、「国内植民地」という状態からの解放ということを、世界に広がっている沖縄出身者の国際ネットワークと結合しつつ展望するという一部の動きもあり、旧態依然とした近代ナショナリズムからする石原都知事みたいな「尖閣列島」領有問題への対応とはまったく違う発想が育ちつつある。石原は旧い近代帝国主義の抑圧民族の立場に立っているだけなのだ。石原のように近代をやり直そうなどという後向きのナショナリズムで、この地の人々の多数を幸福に導くことはできないし、それはもはや有害な妄想に過ぎないと考える。沖縄、アイヌなどを含めた具体的な多様性、差異に向き合い、「多様性の中の統一」という弁証法的な思想を深め、具体的にどう適用するかを考え、議論するべきだ。まずは、そこに向き合うことである。

『ビルマの少数民族』(明石書店)より

歴史的背景

一九八八年のSLORCの政権掌握以降激しさを増している政治的な利害対立に呼応して、ビルマの歴史と伝統の統制をめぐる争いも激化している。それでも、確固たる史実の不足や、多様な歴史観の存在にもかかわらず、ビルマの複雑な民族の歴史をつなぎ合わせることは不可能ではない。

モン族と、モン族と遠縁の関係にある山岳民族でシャン州に住むワ族とバラウン族が、一般に現存する諸民族のなかではビルマ最古の住民だと考えられている。おそらくカレン族とチン族が、次に中央ビルマに南下してきたのだろう。それは九世紀か一〇世紀になってビルマ北部へのビルマ族の移住が盛んになる前のことだった。シャン族もほぼ同じころに東南アジアへの移住を開始し、その後、カチン族やラフ族を含むチベット・ビルマ系の山岳民族が移動してきた。

一般的にいって、チン族やカチン族のような山岳民族は焼き畑農業を、そしてビルマ族、モン族、シャン族、ラカイン族のように河川流域や平野に居を定めた民族は、より大きな村落を形成して定住型の水稲農耕をおこなった。多くの戦乱や頻繁な権力交代の後、一八世紀後半になってようやく、ビルマ族の支配アラウンパヤーが、後に英領ビルマを形作る地域のほとんどを支配下に置くことに成功した。

しかし、多くの戦乱にもかかわらず、民族、文化間の交流は続いていたので、ビルマの歴史を人種や民族の観点からあまりに狭義に解釈しようとすると、その根拠や妥当性はかなり疑わしくなる。歴史的に、地方の生活共同体や社会の多くが多民族により構成されていた。このことは、民族間の寛容性や相互理解に関して、今後の合意のために参考になる重要な先例が多く存在したことを示している。

一九世紀のイギリスによる介入が、民族間の調和をすっかり乱してしまった。一八二四年と一八八六年の間に起きた三つの戦争の結果、ビルマはイギリスに併合された。今日のビルマがイギリス領だったのは六〇年程だが、この間、植民地政府がおこなった「分割統治」による分断は、民族間の歴史的な緊張をひどくあおる結果になった。

イギリス政府は、多数派のビルマ族によって占められる「ビルマ本州」と、少数民族のほとんどが居住していた「辺境地域」からなる二段階の行政システムを作り上げた。このような厳密な区分によって、各民族は非常に異なった政治的、経済的進展の道を辿ることになった。その結果、一九四八年に最終的に独立を勝ち取った新ビルマ連邦は、歴史上のいかなる国家とも趣を異にした。

ビルマ本州では、伝統的な君主制は廃され、一九二〇年代には限られた形ながら、議会制による自治が導入された。それでも、一九三七年までビルマは英領インドの一州として統治され、ビルマ人の増大する不安をよそにインドから一〇〇万人以上の移民が流入し、ヒンディー語がビルマ郵政公社の公用語になったりもした。

一九二〇年代から三〇年代にかけて、学生、労働者、仏僧らによって続けられた民族主義運動は、ビルマ人の大部分がイギリスの支配を望んでいなかったことを明らかにしている。しかし一九三〇年から三一年までと、一九三八年にはビルマ人内部で紛争が発生している。西欧型の多党制民主主義が一九四七年の憲法で取り入れられたが、はたしてどれだけビルマに根を下ろしたかは疑わしい。

反対に、少数民族によって構成される辺境地域はビルマ本州とはほとんど分割して統治され、たいていの場合、それまでの支配者や族長による支配形態が温存されたことは多数派のビルマ族を憤慨させた。このことからビルマ族の歴史家たちは、少数民族をひいきにしたとイギリスを非難してきたが、植民地支配は少数民族の希望を摘み取るような暗い影も投げかけられていた。少数民族の土地の多くがばらばらの政治区域に分割され、民族別の行政が実施されたことは一度もなかった。

このように不利な領土的立場に加えて、ほとんどの少数民族が経済的支援の欠如といいう一層の重荷に耐えなければならなかった。イギリスはビルマ本州での米の生産増加と、石油と木材を中心とする産業の拡大をすみやかに実施したが、辺境地域はおおかた忘れ去られていた。山岳地方のインフラストラクチャーの整備や経済発展に投資がおこなわれることはほとんどなかった。

イギリスによる分割支配にもかかわらず、一九三〇年代の後半になるとビルマ国内の民族間の関係には改善の兆しがみられた。しかし第二次世界大戦によって、それ以上の期待は崩れ去った。独立時に爆発した民族間の敵意の大部分は、大戦中の多くの悲惨な出来事に起因するといえる。破滅的状況の中で何万人もの人命が奪われたが、その状況が現在完全に修復されているとはいい難い。

アウン・サンの民族解放運動が、最初は日本側について戦ったのに対し、カレン族、カチン族、そしてイスラム教徒を含む少数民族はイギリスへの忠誠を守った。その結果、戦時中に多くの血なまぐさい民族間の衝突や、報復のための殺し合いが起き、少数民族にとって状況はますます不になっていった。戦時中の虐殺が、独立後自分たちの政治的要求が受け入れられなかった場合に武器を取る決意をさせたのであると、少数民族の指導者たちは繰り返し述べてきた。

悲しいことに、一九四七年七月のアウン・サンの暗殺と、ビルマからのイギリスの慌ただしい報道は、民族間の問題が結局は完全に解決されずに終わったことを意味した。今でも国の祝日として祝われている一九四七年二月の歴史的なバンロン会議で、ビルマ族と辺境地域の指導者たちは、ビルマの新憲法に関するいくつかの原則について性急な合意に達した。平等と自発的な合意による国家統一の象徴として、アウン・サンが「ビルマが一チャットを受け取るならば、あなたがたも一チャット受け取るだろう」と約束したのは有名である。しかし、カレン族、モン族、ラカイン族などいくつかの少数民族グループの代表が会議に参加しなかったのを、イギリス人も、ビルマ最初の独立政府を形成することになる反ファッシスト人民自由連盟(Anti-Fascist People's Freedom League: AFPFL)の構成メンバーも問題にしなかったのは、数あるあやまちのなかでも決定的であった。

バンロン会議の原則が、憲制議会の選挙の後に成立した一九四七年九月の憲法に盛り込まれた。この憲法は基本的に連邦主義の立場から起草されていた。新憲法によって民族議院(Chamber of Nationalities)の二院制の国会が設立された。しかし、民族の権利に関しては、この憲法は例外ずくめだった。シャン族とカレンニー族が一〇年間の試行期間の後、自発的な離脱権を与えられたのに対して、モン族とラカイン族っは離脱権を与えられずに終わった。また、カレンニー州とシャン州では、伝統的な王侯支配者であるソーボワに封建的な権力の維持がほぼ許される一方、国会では複雑な代表制の規定によりビルマ族が両院で多数を占めることが初めから決められていた。創設が派手に約束されていたカレン州の協会が未定だったことや、「民族州」、国会の「共同議席」。それに特殊な「少数民族権」の是非をめぐる議論が独立寸前まで続いたこともちぐはぐな結果を残した。

アウン・サンの「多様性の中の統一(Unity in Diversity)」(コラム参照)の思想にならい、和解の意思表示として新連邦の名目上の役職は民族間で分配された。ビルマ族のウー・ヌが首相に選出された後で、シャン族のサオ・シュエ・タイが大統領に、またカレン族のスミス・ドゥンが陸軍参謀長に任命された。しかし、このような措置も手遅れだtった。一九四七年の終わりには、NHKや他のいくつかの民族グループはすでに政治参加をボイコットし初めていた。またビルマ族の間でも、ウー・ヌのAFPFL政府に同じように不満を抱いていた共産主義陣営と軍を中心に、国中の明らかに動乱の兆しが見え始めていた。

ビルマの独立は流血から生まれた。第二党だったビルマ共産党(Communist Party of Buruma:CPB)が一九四八年三月に地下に潜行し、一九四九年にはKNUがそれに続いた。続いて国軍内ではビルマ族とカレン族の部隊の多くが同調して蜂起し、政府の勢力範囲は一時ラングーンから半径わずか一〇キロメートル以内にまで狭まってしまった。AFPFLは都市部の支配権を徐々に回復していったが、一九四〇年代の終りから五〇年代になると、カレンニー、モン、パオ、ラカイン、そしてイスラム教徒のムジャヒッド党など、いくつかの民族グループが地方で蜂起した。

このような動乱の時代を通じて首相だったのはウー・ヌだった。一九五八年にネー・ウィン大将が「軍による暫定政府」を組織して政権を一時掌握するが、一九六〇年の民主的選挙でウー・ヌが権力の座に返り咲いた。しかしこのウー・ヌの政権は一年しか続かなかった。

コラム

「多様性のなかの統一」と「ビルマ式社会主義への道」

ビルマで生まれた二つの理念が、過去五〇年間ビルマの政治体制を支えてきた。ひとつはアウン・サンの「多様性のなかの統一」で、もう一つはネー・ウィンの「ビルマ式社会主義への道」である。

アウン・サンは『自由なビルマへの青写真』のなかで民族主義と、共産主義、そして議会制の発想を織り混ぜ、国家統一の最善の方法として、すべての民族による同時独立と平等な経済発展を主張した。しかし、公には幾つかの少数民族の独立を承認したものの、アウン・サンは正式に「国家」という呼称を持ち得るのはシャン族だけだと考え、他のグループには程度の異なる地域自治権を与えようとした。アウン・サンはスターリンにならい、「少数民族」権の獲得には、その民族が少なくとも総人口の一割を占めていなくてはならないと考えた。アウン・サンは、タッマドーと呼ばれる近代ビルマ軍の創始者であったが、文民政治を信じ、政界にはいるときには軍を辞任している。

反対にネー・ウィンはビルマのような民族的に多様な国をまとめられる機関は軍隊しかないと考えた。「ビルマ式社会主義への道」は仏教、マルクス主義、民族主義の理念を適当に混ぜ合わせた中央集権的な発想だが、「人間とし人間を取り巻く環境の相互関係」という短い文章を除くと、ネー・ウィンが「ビルマ式社会主義への道」を詳しく説明したことはなかった。一九七四年の憲法は「民族、宗教、地位、性別によらず」すべての国民に明確に基本的人権を保障していたが、同時に厳格な一党制の下での「社会主義社会」建設が国家目標として掲げられた。

(同書3339ページ)

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6月30日 2012世界難民の日・東京集会

6月30日 2012世界難民の日・東京集会

入管法が変わる! 難民の子供たちの未来は?

English Announcement

賛同者の募集

日時:6月30日(土) 1時開場 1時30分~4時

場所:早稲田奉仕園 リバティホール
〒169-8616 新宿区西早稲田2-3-1
東西線早稲田駅 徒歩5分
http://www.hoshien.or.jp/map/map.html


参加費:500円(カンパ歓迎)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

7月から入管法が変わります、在日難民の皆さんは、不安でいっぱいです。
難民の子どもたちはどうなるのでしょうか?
私たちには縁遠いと感じられる入国管理法ですが、日本にいる移民や難民の方々にとっては、その運用次第で運命が大きく変わるほどのものです。

日本の企業はいま、海外での生産や販売を増やすことに活路を求め、政治も国際社会の一員としての存在感を目指しています。つまり日本は今後、国際社会の一員としてやっていくほかないということです。
しかし日本は、世界から見て「難民鎖国」といわれるほど、特殊で片寄った難民行政をやってきました。
そのため、これまで多くの在日難民が悩み苦しんできました。

さ て、この7月から、60年ぶりに改定された新しい入国管理法が施行される予定です。しかし残念ながら、とくに難民申請者の方たちにとっては「良い方向」へ の改正ではなく、さまざまな問題を引き起こしそうです。なかでも最大の犠牲者は、何の罪もない難民申請者の子どもたちでしょう。

皆さん、この改定入管法の中身を、ちょっぴりでも知っておいて下さい。
そして、難民の子どもたちがどうなるのかを考えてください。
日本人の人権感覚が、国際社会から問われています。

賛同者の募集

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全体の流れ

1時開場 1時30分開演

第1部 講演 民主党 今野東議員

     難民の証言

休憩 

第2部 子供たちのリレートーク

     演劇

     全体に関しての質疑応答

     歌(子供たちと参加者)

16:00終了

17:00完全撤収

難民の方々の手作りアクセサリーなども販売しております。


連絡先
酒井 042 998 5501
nankirensato@jcom.home.ne.jp

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