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ビルマの少数民族

難民講座に提出した資料の一部です。ビルマの少数民族問題は複雑で入り組んでいることがわかる。それから、アウンサンの「多様性の中の統一」という思想が、こうした民族的多様性と統一を同時にどのように実現するかというビルマの課題に対する基本理念としてあることもわかる。日本の場合、琉球処分以後の沖縄・北海道の植民地化が、近代的国民形成の時期にあったために、同化が行きすぎるまでに強力に進み、「ひめゆり」の悲劇をもたらしたように、ヤマトへの「統一」(=併合)が表面的にはかなり実現されたかのようになったのに対して、世界史が「ポスト・近代」へと向かう過程の中で、ビルマが日本と同じ道を辿る可能性は低いように見える。ビルマの現政権はその道を強引に推し進めているようだが、それは失敗する可能性が高いと思われる。

沖縄の場合、「国内植民地」という状態からの解放ということを、世界に広がっている沖縄出身者の国際ネットワークと結合しつつ展望するという一部の動きもあり、旧態依然とした近代ナショナリズムからする石原都知事みたいな「尖閣列島」領有問題への対応とはまったく違う発想が育ちつつある。石原は旧い近代帝国主義の抑圧民族の立場に立っているだけなのだ。石原のように近代をやり直そうなどという後向きのナショナリズムで、この地の人々の多数を幸福に導くことはできないし、それはもはや有害な妄想に過ぎないと考える。沖縄、アイヌなどを含めた具体的な多様性、差異に向き合い、「多様性の中の統一」という弁証法的な思想を深め、具体的にどう適用するかを考え、議論するべきだ。まずは、そこに向き合うことである。

『ビルマの少数民族』(明石書店)より

歴史的背景

一九八八年のSLORCの政権掌握以降激しさを増している政治的な利害対立に呼応して、ビルマの歴史と伝統の統制をめぐる争いも激化している。それでも、確固たる史実の不足や、多様な歴史観の存在にもかかわらず、ビルマの複雑な民族の歴史をつなぎ合わせることは不可能ではない。

モン族と、モン族と遠縁の関係にある山岳民族でシャン州に住むワ族とバラウン族が、一般に現存する諸民族のなかではビルマ最古の住民だと考えられている。おそらくカレン族とチン族が、次に中央ビルマに南下してきたのだろう。それは九世紀か一〇世紀になってビルマ北部へのビルマ族の移住が盛んになる前のことだった。シャン族もほぼ同じころに東南アジアへの移住を開始し、その後、カチン族やラフ族を含むチベット・ビルマ系の山岳民族が移動してきた。

一般的にいって、チン族やカチン族のような山岳民族は焼き畑農業を、そしてビルマ族、モン族、シャン族、ラカイン族のように河川流域や平野に居を定めた民族は、より大きな村落を形成して定住型の水稲農耕をおこなった。多くの戦乱や頻繁な権力交代の後、一八世紀後半になってようやく、ビルマ族の支配アラウンパヤーが、後に英領ビルマを形作る地域のほとんどを支配下に置くことに成功した。

しかし、多くの戦乱にもかかわらず、民族、文化間の交流は続いていたので、ビルマの歴史を人種や民族の観点からあまりに狭義に解釈しようとすると、その根拠や妥当性はかなり疑わしくなる。歴史的に、地方の生活共同体や社会の多くが多民族により構成されていた。このことは、民族間の寛容性や相互理解に関して、今後の合意のために参考になる重要な先例が多く存在したことを示している。

一九世紀のイギリスによる介入が、民族間の調和をすっかり乱してしまった。一八二四年と一八八六年の間に起きた三つの戦争の結果、ビルマはイギリスに併合された。今日のビルマがイギリス領だったのは六〇年程だが、この間、植民地政府がおこなった「分割統治」による分断は、民族間の歴史的な緊張をひどくあおる結果になった。

イギリス政府は、多数派のビルマ族によって占められる「ビルマ本州」と、少数民族のほとんどが居住していた「辺境地域」からなる二段階の行政システムを作り上げた。このような厳密な区分によって、各民族は非常に異なった政治的、経済的進展の道を辿ることになった。その結果、一九四八年に最終的に独立を勝ち取った新ビルマ連邦は、歴史上のいかなる国家とも趣を異にした。

ビルマ本州では、伝統的な君主制は廃され、一九二〇年代には限られた形ながら、議会制による自治が導入された。それでも、一九三七年までビルマは英領インドの一州として統治され、ビルマ人の増大する不安をよそにインドから一〇〇万人以上の移民が流入し、ヒンディー語がビルマ郵政公社の公用語になったりもした。

一九二〇年代から三〇年代にかけて、学生、労働者、仏僧らによって続けられた民族主義運動は、ビルマ人の大部分がイギリスの支配を望んでいなかったことを明らかにしている。しかし一九三〇年から三一年までと、一九三八年にはビルマ人内部で紛争が発生している。西欧型の多党制民主主義が一九四七年の憲法で取り入れられたが、はたしてどれだけビルマに根を下ろしたかは疑わしい。

反対に、少数民族によって構成される辺境地域はビルマ本州とはほとんど分割して統治され、たいていの場合、それまでの支配者や族長による支配形態が温存されたことは多数派のビルマ族を憤慨させた。このことからビルマ族の歴史家たちは、少数民族をひいきにしたとイギリスを非難してきたが、植民地支配は少数民族の希望を摘み取るような暗い影も投げかけられていた。少数民族の土地の多くがばらばらの政治区域に分割され、民族別の行政が実施されたことは一度もなかった。

このように不利な領土的立場に加えて、ほとんどの少数民族が経済的支援の欠如といいう一層の重荷に耐えなければならなかった。イギリスはビルマ本州での米の生産増加と、石油と木材を中心とする産業の拡大をすみやかに実施したが、辺境地域はおおかた忘れ去られていた。山岳地方のインフラストラクチャーの整備や経済発展に投資がおこなわれることはほとんどなかった。

イギリスによる分割支配にもかかわらず、一九三〇年代の後半になるとビルマ国内の民族間の関係には改善の兆しがみられた。しかし第二次世界大戦によって、それ以上の期待は崩れ去った。独立時に爆発した民族間の敵意の大部分は、大戦中の多くの悲惨な出来事に起因するといえる。破滅的状況の中で何万人もの人命が奪われたが、その状況が現在完全に修復されているとはいい難い。

アウン・サンの民族解放運動が、最初は日本側について戦ったのに対し、カレン族、カチン族、そしてイスラム教徒を含む少数民族はイギリスへの忠誠を守った。その結果、戦時中に多くの血なまぐさい民族間の衝突や、報復のための殺し合いが起き、少数民族にとって状況はますます不になっていった。戦時中の虐殺が、独立後自分たちの政治的要求が受け入れられなかった場合に武器を取る決意をさせたのであると、少数民族の指導者たちは繰り返し述べてきた。

悲しいことに、一九四七年七月のアウン・サンの暗殺と、ビルマからのイギリスの慌ただしい報道は、民族間の問題が結局は完全に解決されずに終わったことを意味した。今でも国の祝日として祝われている一九四七年二月の歴史的なバンロン会議で、ビルマ族と辺境地域の指導者たちは、ビルマの新憲法に関するいくつかの原則について性急な合意に達した。平等と自発的な合意による国家統一の象徴として、アウン・サンが「ビルマが一チャットを受け取るならば、あなたがたも一チャット受け取るだろう」と約束したのは有名である。しかし、カレン族、モン族、ラカイン族などいくつかの少数民族グループの代表が会議に参加しなかったのを、イギリス人も、ビルマ最初の独立政府を形成することになる反ファッシスト人民自由連盟(Anti-Fascist People's Freedom League: AFPFL)の構成メンバーも問題にしなかったのは、数あるあやまちのなかでも決定的であった。

バンロン会議の原則が、憲制議会の選挙の後に成立した一九四七年九月の憲法に盛り込まれた。この憲法は基本的に連邦主義の立場から起草されていた。新憲法によって民族議院(Chamber of Nationalities)の二院制の国会が設立された。しかし、民族の権利に関しては、この憲法は例外ずくめだった。シャン族とカレンニー族が一〇年間の試行期間の後、自発的な離脱権を与えられたのに対して、モン族とラカイン族っは離脱権を与えられずに終わった。また、カレンニー州とシャン州では、伝統的な王侯支配者であるソーボワに封建的な権力の維持がほぼ許される一方、国会では複雑な代表制の規定によりビルマ族が両院で多数を占めることが初めから決められていた。創設が派手に約束されていたカレン州の協会が未定だったことや、「民族州」、国会の「共同議席」。それに特殊な「少数民族権」の是非をめぐる議論が独立寸前まで続いたこともちぐはぐな結果を残した。

アウン・サンの「多様性の中の統一(Unity in Diversity)」(コラム参照)の思想にならい、和解の意思表示として新連邦の名目上の役職は民族間で分配された。ビルマ族のウー・ヌが首相に選出された後で、シャン族のサオ・シュエ・タイが大統領に、またカレン族のスミス・ドゥンが陸軍参謀長に任命された。しかし、このような措置も手遅れだtった。一九四七年の終わりには、NHKや他のいくつかの民族グループはすでに政治参加をボイコットし初めていた。またビルマ族の間でも、ウー・ヌのAFPFL政府に同じように不満を抱いていた共産主義陣営と軍を中心に、国中の明らかに動乱の兆しが見え始めていた。

ビルマの独立は流血から生まれた。第二党だったビルマ共産党(Communist Party of Buruma:CPB)が一九四八年三月に地下に潜行し、一九四九年にはKNUがそれに続いた。続いて国軍内ではビルマ族とカレン族の部隊の多くが同調して蜂起し、政府の勢力範囲は一時ラングーンから半径わずか一〇キロメートル以内にまで狭まってしまった。AFPFLは都市部の支配権を徐々に回復していったが、一九四〇年代の終りから五〇年代になると、カレンニー、モン、パオ、ラカイン、そしてイスラム教徒のムジャヒッド党など、いくつかの民族グループが地方で蜂起した。

このような動乱の時代を通じて首相だったのはウー・ヌだった。一九五八年にネー・ウィン大将が「軍による暫定政府」を組織して政権を一時掌握するが、一九六〇年の民主的選挙でウー・ヌが権力の座に返り咲いた。しかしこのウー・ヌの政権は一年しか続かなかった。

コラム

「多様性のなかの統一」と「ビルマ式社会主義への道」

ビルマで生まれた二つの理念が、過去五〇年間ビルマの政治体制を支えてきた。ひとつはアウン・サンの「多様性のなかの統一」で、もう一つはネー・ウィンの「ビルマ式社会主義への道」である。

アウン・サンは『自由なビルマへの青写真』のなかで民族主義と、共産主義、そして議会制の発想を織り混ぜ、国家統一の最善の方法として、すべての民族による同時独立と平等な経済発展を主張した。しかし、公には幾つかの少数民族の独立を承認したものの、アウン・サンは正式に「国家」という呼称を持ち得るのはシャン族だけだと考え、他のグループには程度の異なる地域自治権を与えようとした。アウン・サンはスターリンにならい、「少数民族」権の獲得には、その民族が少なくとも総人口の一割を占めていなくてはならないと考えた。アウン・サンは、タッマドーと呼ばれる近代ビルマ軍の創始者であったが、文民政治を信じ、政界にはいるときには軍を辞任している。

反対にネー・ウィンはビルマのような民族的に多様な国をまとめられる機関は軍隊しかないと考えた。「ビルマ式社会主義への道」は仏教、マルクス主義、民族主義の理念を適当に混ぜ合わせた中央集権的な発想だが、「人間とし人間を取り巻く環境の相互関係」という短い文章を除くと、ネー・ウィンが「ビルマ式社会主義への道」を詳しく説明したことはなかった。一九七四年の憲法は「民族、宗教、地位、性別によらず」すべての国民に明確に基本的人権を保障していたが、同時に厳格な一党制の下での「社会主義社会」建設が国家目標として掲げられた。

(同書3339ページ)

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コメント

沖縄はさっさと独立しろよ屑
そんで中国に占領されればいいww

投稿: | 2012年6月19日 (火) 16時44分

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