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亡命者という歴史認識の立場=共産主義インターナショナリズム

 イタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグは、『糸と痕跡』(みすず書房 上村忠男訳)の中で、「ミクロストリア」という概念の系譜を辿り、意味を明らかにしていく過程で、アナール学派のフュレ、ピエール・ショーニョがポスト近代歴史学のポイントして指摘している内容の違いを止揚しようとしている。フュレは、「民族学を一服盛ることで近代化理論の自民族中心主義的抽象性を打破しようと提案していた」(180ページ)の対して、シーニョは、「近代化理論とともに、啓蒙主義に結びついた近代のさまざまな理想をも海に投げ込んでしまうよう、示唆していた」(同)という。

  前者は、歴史家の仕事道具を議論に付す方向へ向かったが中途で止まってしまい、後者はそもそもそれを放棄するものだった。

 両者の収斂点は、19世紀からわたしたちのもとに伝えられてきた歴史学の特徴をなしている(とフュレが指摘する)自民族中心主義と目的論を拒否しようとしている点に求められる(181ページ)。

 この前に、ギンズブルグは、クラカウアーが写真と歴史主義のアナロジーをしていることについて、次のように述べている。

 クラカウアーが強調するところによれば、異邦人、マージナルな存在、「この家の者でない」人物は、より多くを、より深く、知ることができるのであった。自分が目にしているのがだれであるかわからないでいる瞬間こそは、傍観者の距離を置いたまなざしに、認識の啓示への道を開くのである(148ページ)。

 もっとも、これで終わりというわけではない。「まなざし」は運動であって、それ自身が歴史的である。そして、それは物語るのである。そこに弁証法がある。微視的―巨視的などの「まなざし」の弁証法的運動があり、反復を含む変化がある。この点で言えば、アメリカの歴史学者ヘイドン・ホワイトの以前の懐疑主義的歴史観は、変化を捉える点が弱いと言える。ギンズブルグは、相対主義・懐疑主義、あるいはポスト・モダンに対して批判的である。かれは、イタリアの新左翼のオペライズモのポテーレ・オペライオ(アントニオ・ネグリたち)と分かれたロッタ・コンティーヌワ(アドリアーノ・ソフリたち)に近い人物である。

 第一インタナショナル(国際労働者協会)には、イタリアの統一戦争指導者のガリバルディが参加していた。19世紀後半、統一イタリアはまだなく、小国が並び立っていた。イタリアにも多かったバクーニン派などの無政府主義者たちとの対立が、1871年パリ・コミューンの後、抜き差しならないものになった。そこで、マルクスとエンゲルスたちは、以下の回状を回して、かれらと対決しようとした。パリ・コミューンの敗北の後、第一インタナショナルは、亡命者(難民)の受け入れと支援を決定し、そのために活動した。以下はそれを示している。

 亡命者(難民)の「まなざし」に、自民族中心主義の限界を超える歴史的な「まなざし」を見出すことができる。そこに、「ポスト近代」への移行の視点(viewpoint)がある。マルクスは亡命者であったが、亡命者が必ずそうした視点を持つわけではない。意識的にそうした視点を持つように、それを習得するように、訓練を積む必要があるのだ。日本人の間に、支配階級と被支配階級があり階層格差・差別があり、それが拡大しているのに対して、自民族中心主義による民族内平等を要求し、他民族への差別・排外主義へと向かうナショナリズムでは、その階級差別・階層間格差は打ち破れない。このような洞察を基礎に、他民族の権利と自分たちの権利を同時に要求していくことが必要なのである。自民族中心主義で自己のエゴだけを押し出していくと、支配階級によって、簡単に分裂させられ、分断され、力を弱められて、いいように利用されるだけの惨めな状態になる。つまり、他から規定されるだけの受動的な存在にされてしまうことになるのだ。そうならないように、以下の第一インタナショナルの思想や活動をしっかりと教訓にすることだ。

国際労働者協会総評議会の非公開回状

……。
 パリ・コミューンの崩壊後にとった総評議会の最初の行為は、『フランスにおける内乱』についての宣言を発表し、コミューンのあらゆる行動への連帯を表明することであった。……

  コミューンからの亡命者が多数ロンドンに到着したことにより、総評議会は救援委員会を設けて、8ヵ月以上のあいだ、まったくその正規の権限外のこの機能を果たさなければならなかった。いうまでもなく、打ち負かされた亡命してきたコミューンの戦士たちは、ブルジョアジーにはなにひとつ期待できなかった。労働者階級についていえば、救援の要請をうけたのは困難な時期においてであった。スイスとベルギーは、すでに亡命者の割当をうけており、彼らを支援するか、あるいはさらにロンドンに逃げてゆくのを容易にしてやらなければならなかった。ドイツ、オーストラリア、スペインで集められた醵金は、スイスに送られた。イギリスでは、9時間労働日のための大闘争がおこなわれ、その決定的なたたかいはニューキャスルでおこなわれたが、労働者の個人的な寄附や労働組合トレードユニオンの組織した基金を吸収してしまった。なおこの基金は、その規約そのものによって、その職業の闘争以外には転用できないものであったが。しかし、総評議会はたえまない申入れと通信によって、少しずつではあるが金を集めて、毎週分配することができた。アメリカの労働者は総評議会の訴えにもっと大きな額でこたえてくれた。恐れをなしたブルジョアジーは、気まえよくも数百万の金がインタナショナルの金庫にあると想像してくれたが、それだけの金はまだこれから総評議会が集めなければならないのだ!(『マルクス・エンゲルス全集』より)。

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