« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月

福島テーゼをめぐって

 『別冊東北学』を今揃えつつあり、同時に、柳田国男の東北論である『北国の春』を読み始め、宮本常一の本も入手した。

 ここまできて、ようやく、福島テーゼを書けるような気がしてきた。テーゼの大きなヴィジョンは、大雑把に言えば、福島の脱原発根拠地化、社会変革の根拠地化、つまりは革命根拠地化である。

  それを考えるために、少し柳田の考えを見ていく。例えば、『遠野物語』に一緒に入っている「山の人生」は衝撃的な事件の記録の紹介から始まっている。

  三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り落としたことがあった。
 女房がとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合のコメも手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を撃ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくてやがて捕らえられて牢に入れられた。(93~4ページ)

 次に生き残った女性の似たような話が続く。こちらは子供を道連れに無理心中しようとして自分だけが助かって刑務所に入れられた女の話である。一家三人が紐で体を結んで一緒に川の淵に飛び込んだが、気がつくと、夫は死にきれず木の枝に首を吊って死んでおり、赤ん坊は滝壺の上の梢に引っかかって死んでいたという。柳田はどうしてこんな悲惨な話を最初に持ってきたのだろうか。

 柳田は「自序」で、このような研究の意味を、新知識を求めること、その手段としてこれまで顧みられなかった面が多々あり、それに「今われわれが手を着けているのだということと、天然の現象の最も大切なる一部分、すなわち同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、実地をもってこれを例証しているつもりである」(88ページ)と述べている。おそらくは、社会改造の必要を訴える例証なのだろう。

 3・11後、痛切に感じるのはそのことであり、人々の3・11体験が記録されず、あるいは風化させられ、いつの間にか忘れ去られていくのではないかという恐れを抱く。それで、「原子力ムラ」の責任逃れが意図的に行われていることに抵抗し闘っていかなければならないという決意を強めるのである。責任追及。これが今福島での大きな課題であり、それが3・11体験を風化させないことになるのである。

 柳田国男が「山の人生」冒頭で山の民の悲惨な事件を紹介して導入部としているのは、このような「同胞」の体験を記録し、それが社会改造の課題のありかを示すものだからであろう。柳田は民俗学を「経世済民」の学、すなわち経済学と考えている。しかしその経世済民の方向が、稲作の普及による富の増大としているところに問題があったというのが赤坂憲雄氏の柳田批判である。それは、今日、9・11テント一周年(とつきとおか完了日)で経産省包囲で福島県会津のかんしょ踊りを踊っていた三春町の武藤頼子さんの『福島からあなたへ』(大月書店)という本の中で、森の中で木の実を拾って料理して食べる生活のことを語っているが、そういう森の木の実や動物、魚や虫、あるいは焼畑などの畑作を組み合わせながら、自然の多様性と食の多様性を結び合わせて生きる生き方、生活様式を、稲一色に単色化してしまう。これは民族的であると同時に普遍的である。武藤さんが言っているように、それは縄文的である。狩猟採取民的、原始共同体的であり、それは日本列島だけにあったものではない。赤坂憲雄氏もそういうふうに歴史学や民俗学をやっていこうとしているのだが、上野千鶴子氏は、「わたし」主義歴史観で歴史をなで切るので、近代以降の歴史にしか射程が届かない。そういう立場から赤坂氏の「いくつもの日本」の試みを「しょせん新国学か」とレッテル張りして片付けようとした。『東北学』vol.6では、赤坂氏・上野氏・姜尚中氏・三浦佑之氏の対談「〈新しい歴史〉とは何か 国民国家の帰趨と戦争の記憶」を行っているが、これも国民国家=近代明治国家以降の話である。

 福島テーゼのもう一つの課題である技術論については、近代的分業批判の文脈で、モリスというイギリス人マルクス主義者の考えが参考になるかもしれない。福島県当局も浪江町などの復興計画も脱原発を前提としたエネルギーの地産地消を掲げていて、それは小コミュニティー単位での発電を想定したものだ。大電力を安定供給するために大規模発電設備を必要とするのは、大工場や高層ビルなどの電気を大量消費する施設があるためだ。それは大規模な分業と協業によって大量生産するためで、モリスはそれに反発して職人的生産を対置したのである。そのモットーは芸術と生活の一致であったという。それに宮沢賢治も影響を受けたという。小規模発電の組み合わせによるエネルギー生産体制は、従来の生産様式とはマッチしないで、別の生産様式への移行を促すかもしれない。

 また、技術論では、武谷三男氏が「人間の自然に対する問題において、技術論はまた認識論であると共に、実践を解明するものである。認識と実践の論理が一致する事がマルクス主義の特徴という事が出来る」(『理論』昭和23年12月季刊第7号 89ページ)としてカント主義を批判し、さらに「……現在の大部分の哲学が何ら役に立つ総括を行う事が出来ないのは、まさに具体的な問題と取つ組まないからである」(同91ページ)「具体的問題と取組まない概括は解釈哲学なのであり、変革には何の役にも立たないのである」(同)」と述べていることは、基本的には継承すべきである。「現実問題と取組まない限り、哲学の総括は解釈にすぎない。そしてその様な総括はマッハ主義でも、その他の観念論によっても何によっても行いうるものである。哲学自身の有効性を問題にし、それを失敗と成功に於いて鍛えるとき初めて、解釈からぬけ出す事が出来るのである」(91ページ)というのも継承すべきだ。ポスト・モダン哲学は失敗したので鍛えないと復活は望めないのだが、そういう学者はアカデミズムの世界の恩恵に浴しそれを怠ってぬるま湯につかったままなので、それができないでいる。甘えるんじゃない! 自らを千仞之谿に落として這い上がってこい! と言いたくなる。思想・理論は実践の指針として実際にちゃんと働くものでなければその名に値しない。今の多くの学者は、主人に奉仕する限りにおいて多少の特権を与えられている存在にすぎなくなっている。

 それから、認識に対する実践の優位ということも継承されなければならない。そして、歴史の原動力が無名の民衆であることの確信を固く持つこと。民衆と共に歩む時にのみ、インテリは歴史形成の主体となるということを肝に命ずることである。天狗党、中国共産党の長征の成功、キューバ革命の成功、いずれも、それが成功の原因であり、民衆からの略奪・収奪を行わず、民衆に支えられながら進んだのである。逆に末期の体制は、腐敗やモラル低下などによって、半分は自滅のようにして滅びていく。まさに今の西欧諸国のように。そして日本もそれに追いつきつつある。原発事故の責任を誰も取らない。まさにモラルが崩壊している。井戸川双葉町長が、「日本の国が壊れている」(「情況」所収「双葉郡民を国民と思っているのですか」)と言っているように。毎日のように警官がハレンチ事件、女性差別事件で捕まったりしている。話が飛んだ。技術論は具体的に語らないといけないので、まだ時間がかかるということがわかったということである。

 とにかく、3・11で責任を取るべきものが責任を取らないのは許すことができない。これが現在の福島の主要課題である。そして被ばくの問題、医療の問題がこれから重要になってくるということ。地震大国日本には54基もの原発があるので、全国各地に原発事故による被ばくの可能性があるということを忘れてはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『遠野物語』

 図書館で読んだだけの『遠野物語』を入手して改めて読んだ。岩波文庫版なので、「山の人生」も入っている。

 遠野は意外と海に近く、峠を越え下ると、釜石に出る。田の浜というところに婿に行った福二という男が、大海嘯(おおつなみ)で妻と一人の子供を亡くした後、ある夜、妻と男の二人連れの霊を見る。男は結婚前に妻と親しかったという者である。彼は、妻を追いかけて呼び止めたが、「今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり」(99 63ページ)というのである。山の民と海の民の間の交流を物語る話だ。彼は、津波での家族の死に対して、「死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば」(63~4ページ)という具合に、相手を死者とは認識しないで悲しんでいる。100は、船越村の漁師が吉里吉里からの帰り道に狐に化かされた話である。その前、98は、「路の傍に山の神、田の神、塞の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峰山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し」(63ページ)とあるが、なぜそうなのかは書かれていない。なぜ、山の向こうから浜の家に婿を取るのか。海と山のネットワークの実際はどういうものだったのか。

 『遠野物語』は最初の方から、地名のアイヌ語由来の注が出てくるなど、「いくつもの日本」のベクトルを感じさせるが、それも曖昧なまま投げ出されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »