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最近のこと

 人々の脱・反原発意識は根強いものがあるが、民主党野田政権はそれに応えることがまったくできないことがますます明らかになっている。

 10月19日付『福島民報」の1面トップは「仮の町 26市町村受け入れ意向 分散型14、集中型5など」という記事である。すなわち、「東京電力福島第一原発事故で避難している自治体の町外コミュニティー(仮の町)整備で、福島民報社は十八日までに、仮の町構想を掲げる四町を除く五十五市町村の意向を確認するアンケートを実施した。約半数に当たる二十六市町村が「受け入れの意向がある」と回答。整備形態については十四市町村が「分散型」、五市町村が「集中型」、四市町村が「どちらでも可能」、三市町は「未定」とした。受け入れる理由として、避難自治体を県全体で支えるべきとする答えが目立った」(同1面)というものである。被ばくについての県民調査を県は進めているが、回収率が悪いということが問題になっている。その際に、この調査の目的として、被ばくによる症状の治療のために役立てるということは、山下県立医大副学長の言葉としてひとつも出てこない。「安全」という前提があるために、治療が必要になるという想定が表向きは取られてないためである。しかし、実際には、子供の医療費無料化や各種の検査が実施されており、また、「自主避難者らの「がん検診」 県内全域で可能に 県が推進計画 来年度にも体制整備」(同)という記事が載っているように、健康被害が今後出てくることを想定した対策を取っている。山下をはじめとする県医療界に、福島の人々の命を守る、命を救う、真剣に治療するという姿勢や熱意が感じられず、医療不信を強く感じさせるような態度しか見えない。これは、メタボリック・シンドローム対策や喫煙対策などが規定されている健康増進法は、「「健康は国民の義務」をスローガンとして行っていた『ナチス・ドイツ政権の反タバコ運動』に酷似するものであるとして、健康ファシズム・禁煙ファシズムなどと揶揄され、一部有識者などによって批判もされている」(ウィキペディア)というもので、そもそも国家=厚生労働省と結託している官側の医者の言うことなどとうてい信用できないということをも示している。山下が福島の人々の健康と命を真剣に守ろうとしていることを信用できるような材料は今のところまったく出てきておらず、その逆に、福島の人々の健康や命をまったく真剣に考えていないということを示す言動しかしていない。かつて原爆投下直後に広島に入って研究データだけを集めていって、それをまったく治療に役立てなかったアメリカのABCCの研究者たちと同じことをやっているようにしか見えない。彼は福島に研究者としてきているのであって、真摯な治療者、真剣に人々の命を救う医者としてきているとはとうてい思えない。山下が福島の医療界を牛耳っている限り福島の人々の命は危ないと見ざるを得ない。

 他方、孫崎享氏(元外交官)の、尖閣諸島などの領土問題を仕掛けているのは、アメリカであり、それによってアメリカのプレゼンスを示しているという仮説がある。つまり、アメリカは沖縄の米軍基地の存在意義を示しているというのである。ちょうどこのタイミングでオスプレイ配備があったことを考えると、それももっともと思える。しかも、まるで実験飛行でもしているかのように好き勝手に沖縄上空を飛び回っている。実験飛行というのは正解なのではないか。あるいは示威行動である。そして、またしても米兵によるレイプ事件が起こり、それを森本防衛大臣は「事故」と言っているという。当然沖縄からそれに対する抗議の声が突きつけられている。これは犯罪であり事件である。加害者と被害者がいる。それをごまかす発言をする大臣を任命した野田には任命責任がある。また、尖閣列島問題での日本共産党志位の発言は、「固有の領土論」という政府と同じ見解に立つもので、「狼どもの国際法」を容認しているのだから、領土問題の武力解決をも許容するということになってしまい、もし中国軍なりが島を軍事占領したら武力で反撃する以外にないということを認めることになる。かつてフォークランドの領有をめぐってアルゼンチンとイギリスが戦争をしたことがある(フォークランド紛争)。それは、遠い過去のことではなく、サッチャー政権時代の1982年のことだ。領土問題を強硬に主張することは、戦争を呼び起こす可能性があり、それに対する備えとして、軍事力強化への圧力を強めることになる。その覚悟なしに、こういうことを言うことが理性的で冷静なことだとはとうてい思えない。

 先週は慌しく、福島と京都へ行ってきて、疲れ気味だが、ポストモダン派というか、現代思想派の政治、権力闘争というものについて、このところ、考えざるをえない出来事が起きている。それは、たとえば、ミクロ権力とかいう概念を駆使しつつ、権力闘争を仕掛けていたポストモダン派の学者たちが、今や、若手ではなくベテランになり、権威となってきているので、それをどう考えたらいいか、あるいはどう対応したらいいかというようなことを真剣に考えざるを得くなっているということである。そこで、子安宣邦という人の『日本近代思想批判』(岩波現代文庫)という本を入手して読んでみたのだが、これがあまりにも内容がないので驚いた。これは、ある種の概念を作って、それを対象に当てはめて批判するというだけのもので、自らの積極的主張もなければ、内容の対置もない。ただ批判だけしている貧相な文書ばかりなのだ。たとえば、ある種の問題のある視線を指摘して、それを柳田国男に当てはめて、一国民俗学だと決め付ける。ところが、それに代わる氏の考える「常民像・史」がない。先の戦争についても、暗い部分を見るのを忘れてはならないというのみで、一体氏がどういうところを暗い部分と見ているのかは書かれていない。民衆史は、「常民」の記憶の語り、物語の中で記録され継承されるものがなければ、まったく存在し得ない。そうしたら権力側の記録からしか民衆の姿は見えなくなってしまう。それでは、民衆というものが存在しないようになってしまう。あるのはただ抽象的な視線とやらとそれによって見出され構成されたイメージとしての学的構築物のみである。だから、全体的な印象としては、この人は、民衆というもの、あるいはその概念を抹殺しようとしているとしか見えないのである。具体的な個人すら、「視線」というものに抽象化されているが、それは、方法的な概念であり、抽象物でしかないということをすっかり見失っている。そんなものを万能の道具化して振り回しているのだ。それにどんな意味があるのか理解できない。こういう上から目線には単純に感覚的にカチンとくるが、それは正しい感覚であると思う。内容がなければ、ただ権威が残るだけである。あれはお偉い先生が書いたものだから大したものであるに違いないというような。しかし、この手の先生方はそういうものと闘ってきたはずではなかったか。

 ポストモダンな思想家と言われるミッシェル・フーコーは監獄という国家暴力装置と現実に闘った人、国家権力と闘った人である。ところが、日本でフーコーをやたら振り回す知識人のなかに、国家権力と闘っている人がいるだろうか。いそうもない。それどころか、逆に、国家権力の側に立っている者がいる。これは、師の生き方とはまったく反対の、師に対する裏切りであり、冒涜以外の何ものでもない。こういうことは子供でもわかるようなことで、それをいくらレトリックで覆い隠そうとしても隠せるものではない。バレバレである。フーコーを振り回して国家権力と闘わない者と闘うことはフーコーに忠実なことである。かつて権威と闘った青年知識人も今や自ら権威となっている。長老政治の弊害も、議会政治の中では多少は問題にされているが、知識人世界の中でももっと問題にされてもいい。そこにどっぷり浸かっている若手も同じである。

 「転向」は恥であるという感覚を保持すべきである。保守派や右派は「転向」を現実的態度と称するが、そう言いながら、かれらは自己の人格が薄汚れ曲がっていったことを多少は自覚する場合がある。かれらは自己の人格がおかしくなっていくことを少しは嘆いてもいる。年をとってからその歪みを正そうとする者もいる。それには、まだあまりねじ曲がっていない人格の若い者から学ぶ必要がある。そうでなければ、歪んだ人格が周りに悪影響を与えないようなところに引っ込むべきだ。そうして、この方面で、よき社会への前進の道が整えられるようになるのである。

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