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2012年12月

民衆の力と物語の力

 『日本残酷物語5』、『忘れられた日本人』読了。中国、あるいは東アジア問題に入る。そして、『東北学』へ。また、『季刊三千里』も集めている。

 『日本残酷物語5』の解説は、ガヤトリ・スピヴァクのサバルタン論などを学んだカルチュラル・スタディーズ系の学者の人で、民衆は自己を語れるかという問いを立てている。ここに採取されている話は、膨大な聞取りの一部であり、それを編集したものである。当然、聞き手の問題関心や編集者の問題関心が反映したものとなる。記録そのものとそれから作られたものは当然違う。宮本常一は、物語を語り伝える人は、できるだけ聞いたままをそのまま覚えて伝えようとし、文書を使う人は、どうしてもそういうものから影響されて話を変えてしまう傾向があるという。しかし、語り継がれてきた物語も変化したり、伝承が絶えたりすることがある。例えば、『古事記』には、稗田阿礼という者が物語を沢山記憶していて、その語りを書き記すことで『古事記』が成立したように書いてあるが、実際には、朝鮮半島で書かれたものを参照にしていることが書かれている。

 3・11を人々はどう体験し、それを物語るか、福島第一原発事故の体験をどう物語るか、そこにこそ、これからの民衆の闘いの内容が生み出されているのであり、それと、安倍自民党が語っている「復興」物語との闘いが今後本格化するのである。安倍復興物語への拒否は、投票率の大幅低下として突き出されているのである。宮本常一からは、方法を含めて、民衆の力を発展させるものを学び取ることができると考える。

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柳田国男『海上の道』、『日本残酷物語5』

 柳田国男『海上の道』読了。『日本残酷物語5』(平凡社)と『忘れられた日本人』(岩波ワイド文庫)に入る。柳田の『海上の道』は、沖縄のことが中心だが、もっと広く、常世(トコヨ)の世界のことを扱ったものである。柳田は最初に童謡で有名な椰子の実の浜辺への到着のことから始めている。海岸に打ち寄せられる漂着物を寄物と言ったそうである。山の方の育ちなのでそういう言葉は聞いたことがない。『日本残酷物語』の方には、難破船の積荷を盗む海辺の村の話がある。目の前の海(磯)で難破して沈んだ船の荷物は、古来はその海浜の村のものとなったが、だんだんにそれは盗賊行為とされるようになったという。面白いのは、ネという言葉で、例えば、根の国と言えば、地下の国と思い、それは古墳の構造と関係があるという解説がなされてきたが、柳田の説はまったく違って、それは海の彼方の方のことだという。確かに、今日でも、根には、地下に張る植物の根という地下に通ずる意味もあれば、根本などという場合のように、元のところという意味もある。それから、言葉の変化もあれば、物語の変化もあり、それがどのように、また、どうして変わったかなどが追求されている。また、比較が重要であるとも言われている。そして推測という方法が重要であるとも言われている。仮説を積極的なものとして提示せよという。柳田は、まるで、ヘーゲル論理学が推理を重要としているのをなぞっているかのようだ。そして、一国民俗学の形成の必要性がなんどか指摘されている。この点が、批判の的となっている。その際に、水田稲作中心主義が基本となっていると思われるのは、「稲の伝来は、私は国史の第一章をなすべきものと思っている」(297ページ)というようなところであろう。

 解説で大江健三郎氏は、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の「おもろさうし」研究を継ぐ外間守善氏の琉球尚真王時代の大改革の意義を述べた文章を引用しつつ次のように言う。

 古代と民俗の古層にむけて想像力を働かせる。それを漫然たる空想におちいらせぬためには、想像力にダイナミックな力と指向性をあたえるための基盤がなければならない。そのような基盤として誰の眼もそれをとらえるのは、あらためていうまでもなく、神話と歴史のあいかさなる転換期の、それも歴史の側から科学的な確かめをおこなうことが可能な時期、わが国では天皇制国家の支配体制の確立期であろう。柳田はたとえば次のように書く、それはこの微妙な時期についての、科学性をもつ表現というにふさわしいものだ。《皇祖天皇が始めて中つ国に御遷りなされた時には、すでにそれ以前からの来住者の、邑里を成し各々首長を戴いている者が少なくなかった。国津神の文化のやや低級であったことは、大祓の祝詞からでも窺われるが、おそらくは語言はほぼ通じ、したがって相互の信仰は理解し得られ、烈しい闘諍をもって統一を期するまでの、必要はなかったかと思われる》。このような基盤をまず置いて、そこからわれわれの想像力が古代と民俗の古層にむかう時、そのようにつくられる思考の、「仕組み」は、想像力に指向性とダイナミズムをもたらすだろう。(322~3ページ)

 実際には歴史学が明らかにしたように、「烈しい闘諍をもって」統一が行われたのだが、ここで大江の言っているのは、そういうレベルのことではない。

 ……柳田のいう「なつかしさ」が、民俗の古層を指向して強く跳ぶ、心のあり様を示す言葉なのはあきらかだが、現在、自分がいる時間・空間の場所、その限界に閉じこめられている現状から、それを超えるところへ向けて跳ぶ、そのような指向性をそなえた心の動きに誘うことにおいて独特である。そのようにしてわれわれを民俗の古層へと、われわれの閉じこめられている時・空の限界を超えてゆかしめる勢いにおいて、独特に想像的である。(326ページ)

 このように想像力の問題として、柳田の言葉をとらえているのである。

 この度、極めて想像力に欠ける安倍自民党政権が誕生した。彼の選挙演説は、俗物趣味に溢れ、即物主義的で、それに「美しい国」などという無内容な飾り言葉を貼りつけただけのものであった。今度の選挙結果は、石破自民党幹事長が、あるNHK番組の中で認めた通り、「消極的な選択」の結果でしかなかったのであり、ただ安倍が公約したインフレ策が投資家に受けて株価をいたずらに引き上げたのはむしろ近々の失望の発生を予示しているに過ぎない。ちょうど、日本の一人あたりGDPがOECD諸国中昨年と同じ14位であるが、それは円高でドル換算するとそうなるだけだということを報じた記事を見たが、安倍政権はそんなようなものである。物価を政策によって完全にコントロールなどできようか。できるなら、とっくに他の国々でもやってるだろうに。

 いずれにしても、バブルを頂点とする戦後日本経済のピークは終わっているのであり、その後、20年もの間、停滞が続き、総中流幻想はとっくに破れ、階層分裂は進み、下層は拡大している。そうすると、『日本残酷物語5』は「近代の暗黒」というタイトルだが、それもリアリティを増している。ただし、ここには、マルクス主義者の一部に受け継がれた封建遺制の残存の強調(講座派)や悪の暴露にとどまりかねない傾きもあることには注意が必要である。そこから可能性をも見出し目的意識性を持たねばならない。そのためには、そこでの共同性のあり方や内容をつかむことが重要である。そして、想像力。例えば、「女工哀史」もあるが、1920年(大正9年)の富士ガス紡績の1800人の友愛会紡績労働組合押上支部の「組合権擁護」を掲げたストライキの話もある。逆に、柳田は、米の栄養源としての重要性よりも、それを人々が、常食とせず、ハレの日の食べ物として信仰と結びつけていた面を『海上の道』で強調して、水田稲作中心主義を唱えているように見えるのは、イデオロギッシュである。『日本残酷物語5』の方は、それを「女工哀史」を再生産する農村の封建制の基盤と見ている。

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宮本常一4

 『日本残酷物語4』(平凡社ライブラリー)を読み終え、柳田国男『海上の道』(ワイド版岩波文庫)に入る。『日本残酷物語4』は、「保障なき社会」というタイトルがついていて、社会保障などなかった時代の残酷な物語が次々と描かれている。共同体の相互扶助や保障というものもあったが、それは明治以降の私有制度の浸透、商品経済・貨幣経済の浸透によって崩れ去り、老人たちから「貧しくとも平和だった昔の方がよかった」という嘆息が聞かれるほどに庶民の零落は激しかった。同じような嘆きは、ソ連崩壊後のロシアでも聞かれたという。

 明治政府の零落者への救済策とは、北海道開拓などの開拓地や海外移民であり、それには「棄民」に等しいものが多かった。それと並行して、場所請負制の下で搾取・収奪され、抑圧され、人口も減少せしめられ、滅亡の危機に瀕したアイヌが、明治の「旧土人保護法」でさらに差別扱いを受け、さらなる苦難を強いられていた。他方、薩摩の琉球支配以来、琉球国府と薩摩の二重の重い搾取・収奪に苦しめられてきた沖縄の多くの人々が、海外移民になり、海外へ活路を求めていく。そこでは本土出身者(ヤマトンチュー)から差別を受けたという。最初の方には、山の所有権の明確化という明治政府の措置で、大きな土地を持つのは税金が多くかかって負担となるだろうから、国有地とするようにという役人の温情主義によって山の多くが国有化された場合があったが、たいてい逆の結果となって、かえって、後のち、山村の村人を苦しめることになった例が紹介されているが、今日も教訓として十分活かされるものと思う。一部右翼に見られる温情主義は、お上の温情にすがり、民の苦しみを軽減しうるかの幻想をふりまくものだが、結果はかえって庶民を苦しめることになることが多いのである。あくまでもそれは人々の権利として獲得すべきであり、権利として大事にすべきことである。唐の基礎を築いた二代目李世民を描いた中国の歴史ドラマを観ていたら、「天とは民である」と太宗李世民が述べるシーンがあった。天=民なら、天の声は民の声であるということになるのだが……。

 かつての自然条件の厳しさは半端なものではなく、例えば、青森県斗南地方は、官軍に敗れた会津藩旧士族が移住・開墾させられた地だが、ほとんど生計を立てるだけの作物の収穫もなく、多くの命が失われた。奈良県十津川郷が大水害に見舞われた後、再建不可能として、その地から多くの人々が北海道へ移住した。その北海道へ渡った移住者たちには、未開の原野での開墾で苦汁をなめつつの厳しいサバイバルを余儀なくされた者が多い。それをしり目に開拓利権をめぐる官僚や政商の争いが繰り広げられたのは、あさましい話である。もちろん、北方から南下しつつあったロシアへの国防上の備えということが明治政府の北海道開拓政策では強かったから、江戸期に水戸派の会沢正志斎が『新論』で主張した北辺の備えを兼ねた開拓農民である屯田兵が明治最初の北海道移住開拓者であった。こうした日本資本主義原始的蓄積物語は、今日の利ざや稼ぎに奔走する金融資本主義の姿とどこか似ているものがあるような気がする。   

 『宮本常一 旅の手帖〈庶民の世界〉』(八坂書房)に、東通原発の村の1963年の姿が書き留められている。

 下北の北部、とくに東通村は部落と部落の間の間隔がひろい。近くても一キロあまり、遠いところでは二〇キロもある。それに一つ一つの部落の戸数が少ないので、一つ一つの部落は孤立しがちであった。道の改修なども部落の力ではどうすることもできなかった。それに民有林は巨木がびっしりと茂って道はその中を細々と通っていたのである。まずクリの木が多かった。ひとかかえもあるようなクリの純林が何キロというほどつづいており、マツの大木の林があった。そうした林をぬけると牧野がひらけていたのである。原始林の中には獣も多かった。わけでもクマが多くて、それがときには牧野の牛を何頭もたおした。また、イノシシも多かったし、カモシカも多かった。イノシシは畑作をあらした。野獣の被害が大きくてどうにもならないときは恐山西麓にある畑というマタギ部落からマタギをまねいて狩をしてもらうこともあった。
 それほど生えていた巨木が明治、大正、昭和と時代を経て来る間にすっかり刈りたおされて、あとは雑木山になってしまった、そしてこのあらあらしい天地が妙に明るくなって来た。と同時に広い道も通ずることになった。それにしてもこの波野の樹海の中にある部落の一つ一つは今もなおいろいろの荷を背おわされている。学校をたてるのも、道をつけるのも、その費用の大半は部落自身での負担を要求される。部落がひろい共有林をもたねばならぬのもよくわかるのである。
 部落をしばり部落を統一し、また部落がきびしい掟の中に生きなければならなかったのは、その環境のきびしさによることが多かった。
 道がよくなり人の往来にエネルギーをそれほどつかわなくなると、人びとは村のうちのきびしい紐帯をといて次第に村をすてるようになってきはじめた。(同79~80ページ)

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宮本常一3

 『日本残酷物語Ⅱ』『日本残酷物語Ⅲ』『旅の手帖〈庶民の世界〉』を読了。『日本残酷物語Ⅳ』に入る。琉球弧の話が出てきたので、前から読もうと思っていた柳田国男の『海上の道』も読むことにした。Ⅲの解説は、京都部落史研究所の所長を長く務めた師岡祐行氏が書かれている。氏が亡くなってずいぶん時日が経つ。京都にいた頃、何度もそのお話をうかがったことがある。氏の『部落解放論争史』全5巻は、記念碑的な仕事としてある。たまたま友人が修士論文で使ったのをもらい受けたのを持っている。

 師岡氏の解説は、「希望の芽のなかに」と題されている。書かれたのは、この本が平凡社ライブラリーで再刊された1995年である。1995年は、2011年3・11が記したような時代の転換期を示した年である。師岡氏の解説は、以下のように始まっている。

 1995年。3月が終わったばかりだ。だが1月17日の阪神・淡路大震災、それに円高、さらに3月20日の東京の地下鉄におけるサリン事件、オウム真理教にたいする連日の捜査、同月30日の警察庁長官狙撃事件など、思いも寄らぬできごとが、つぎつぎと起こり、かつてない不安がこの国をつつんでいる。50年代末、このシリーズの編者たちが、はっきりと認めていた「異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱」の行き着いた先がこれであった。これが始まりでなければよいのだが、21世紀を前にして不気味な悲劇が私たちをおそっている(578ページ)。

  2011年3月11日、このシリーズの編者たちが指摘したことの行き着く先の「不気味な悲劇」が再びわたしたちを襲った。師岡氏があまりにも的確に今日の事態を予想していたことに驚く。しかも、わたしたちをさらなる「不気味な悲劇」に導きかねない選挙結果が出たことに二重に驚かされた。人為的なインフレ政策をとって、「異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱」を加速させることを公言する自民党安倍が大勝したのである。民主党野田も自民党安倍も共通して醸し出している楽天的ムードは被災地に「復興」話としてばら撒かれているが、根拠の薄いもので、師岡氏が95年の諸事件に感じたニヒリズムを基調としているように思われる。師岡氏は、部落に関する史実の誤りを指摘しつつも、60年安保闘争に示されたロマンティシズムをこの書に見出し、「その再現は望むべくもないにしても、少なくとも歴史をどのように捉え直すかの鋭い問いを発していることだけは受け止めたい」(同385ページ)と述べている。それは、実証主義批判としてあり、「歴史叙述とはいかなるものかを問いただすものになっている点は見逃せない」(同)と評価している。この書が刊行された1960年から30年たった時点で、氏は、「部落の生活はこの30年で大きく変わった。劣悪だった状況は改善された。そのなかから部落差別は解消しつつあるという主張もみられる。だが、いぜんとして差別事件はあとを絶たないのであり、新たな条件のもとで「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という「部落の民」の冒頭に引かれた全国水平社創立宣言の結びの言葉の実現をめざすことが求められる」(同)と述べている。そして時代を診断して次のように言う。

 世紀末、私たちは荒涼としたニヒリズムの世界のまっただなかに立ちつくしている。本巻が主題においた鎖国の時代とはちがって、国際化が市場の課題とされ、欲望の無限の開放を是とする市場原理が讃えられてきた。物質中心の世界、心は荒廃にまかされ、環境の破壊は列島ばかりか、地球をおおいつくしてなすすべもない。悲劇はこの絶望的状況のなかに生じており、かつての時代のそれよりも一層に深い。(586ページ)

 氏は希望を阪神大震災の際のボランティアや相互扶助で活動した若者たちに見出そうとしている。宮本常一もまた武蔵野美術大学で教えるようになって、「地理とか歴史とか、さらにこまかく美術史とか生活史とか、学問をこまかく分類してそれを身につけていく、いわゆる論理的であることにはそれほど興味を示さず、どうしたら人間の本質を知ることができるか、人間のエネルギーとは何であるか、人間の英知とはどういうものであるかを知りたがった。ただ衝動的にではなく秩序をたて実践を通して知りたがった」(『民俗学の旅』講談社学術文庫 201ページ)学生たちに希望を見出している。それから、彼にはこういう弁証法的な文明観もある。

 文明の発達ということは、すべてのものがプラスになり、進歩してゆくことではなく、一方では多くのものが退化し、失われてゆきつつある。それをすべてのものが進んでいるように錯覚する。それが人間を傲慢にしていき、傲慢であることが文明社会の特権のように思いこんでしまう。そういうことへの疑問は、現実の社会のいろいろのことにふれていると、おのずから感得できるものである。そして生きるということはどういうことか、また自分にはどれほどのことができるのか。それをためしてみたくなる。ところで今の日本ではそれすら容易にためすことができない。自分自身の本当の姿すら容易にみつけることができないのである。(同203ページ)

 「原子力ムラ」は傲慢で、自分自身の本当の姿をみつけることができていない。さらに。

 日本の古い支配者の中には「自分だけは別だ」という意識が強かった。今もその意識は強い。その中からほんとうの連帯感は生まれるものではない。しかも、その連帯感は、人間はみんな平等なのだ、生きるということ、生きなければならないということ、生きのびなければならないという共通の意識の上に立っていることによって生まれる。(同208ページ)

 「原子力ムラ」は、こういう連帯感をまったく欠いている。そういうことへの批判や疑問は古くから存在してきた。

 青森県上北地方の農家の主婦の手紙を読んだことがある。上北地方が開発されるということになって、その計画図を見せてもらった。その地図には地元住民の知らぬ間にたくさんの赤線がひかれてそれによって開発がすすめられようとしていた。そういうことが許されていいのか、自分たちが東京の町へ赤線をひいて改造計画をたててもそれはゆるされるのかという意味のことが書いてあった。なぜ地方は中央の言いなりにならねばならぬのか、なぜ百姓はえらい人の言いなりにならねばならぬのか、という主婦の訴えに対して正しく答えられるものがどれほどいるのだろうか。(同214~5ページ)

 福島第1原発事故後、再び鋭く問われたのはこのことではないだろうか。かつて成田空港反対闘争の中で、「三里塚を緑の大地へ」というスローガンが出されたことがある。それなら、今、「首都圏を緑の大地へ」というスローガンが掲げられてもよいのではないか。宮本常一は、「私は地域社会に住む人たちがほんとうの自主性を回復し、自信を持って生きてゆくような社会を作ってもらいたいと念願してきた」(同215ページ)という。これは未だに願望に留まっている。これは佐藤栄佐久元福島県知事の願望でもあった。

 宮本は、中央政府への地方自治体の依存が強まったのはシャウプ税制の実施以後だと指摘している。

 ……税収の中のもっとも大きい所得税を政府が掌握してこれを地域社会に分配するようになると地方自治体の責任者たちはその配分の多いことを求めて、眼が中央を向かざるを得なくなる。いま一つ地方自治体は住民税・固定資産税・事業税などによって運営されているが、税収をふやそうとすれば、大企業を誘致して固定資産税を取りたてることが一番安易な方法になる。しかし企業の経営主体は多く東京・大阪などの大都市にあって地生えの資本であるものは少ない。そのことが、地域社会に対して配慮の少ない経営をとることになる。乱開発といい、公害たれ流しといったような現象がいたるところに見られ、地域社会はかつての植民地そっくりの有り様になり、地方自治体は大企業の利潤のおこぼれで運営される部分が大きくなっていった、それが地域住民の自主性を失わせていった大きな原因の一つになるのではないかと思った。それを地域住民の自覚と実践力を主体にした振興対策がとられないであろうかと思った。(同216ページ)

 こうしたことが早くに実現していたら福島第1原発事故など起こらなかっただろうし、たとえ事故が起きたとしても、今のような「棄民」と呼ばれるような事態にはならなかっただろう。

 宮本は最後に以下のように述べている。

 私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。
 進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらが鈍っているように思うことが多い。
 多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかしなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。  
 大事なことを見失ったために、取りかえしのつかなくなることも多い。猿の調教を見ていて、今日の人間の教育にすら、何かが失われているように思えることがある。人間は人間であるとともに動物であるのだということを考えさせられた。 これからさきも人間は長い道を歩いてゆかなければならないが、何が進歩であるのかということへの反省はたえずなされなければならないのではないかと思っている。(同235ページ)

 「原子力ムラ」には「何が進歩であるのかということへの反省」が欠けている。これとレーニンの「アメリカ労働者への手紙」の一節を比べてみよう。

 ブルジョアジーとその下僕(わがメンシェヴィキやエス・エル右派をもふくめて)が世界中にむかってわめきたてているわれわれの誤り100にたいして、偉大な英雄的な行為は1000にものぼっている。しかもそれらの行為は単純で、目に見えず、工場地帯や片田舎の日常生活のなかにうもれており、成功のたびにそれを世界中にわめきたてることになれていない(またその機会もない)人々によっておこなわれたものだけに、ますます偉大で英雄的なのである。(レーニン全集 第28巻 大月書店 64ページ)

 レーニンは、無名の労働者や農民など民衆が実践する日常生活の変革行為を「偉大で英雄的」と述べている。宮本常一が、故郷の島(山口県周防大島)の対岸の光市で、猿回しの復活に力を入れたのは、人々の日常生活の変革という偉大で英雄的な行為をそこに見出したからだろう。宮本は、自らの農業経験を聞き取りに役立てると同時に農業技術の伝播・改良にも努めた。学ぶものが多い。

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宮本常一2

 宮本常一の3冊読み終え、次に、『塩の道』(講談社学術文庫)、『日本残酷物語Ⅱ』『日本残酷物語Ⅲ』(平凡社)、『宮本常一 旅の手帖 〈庶民の世界〉』(八坂書房)を読んでいる。『塩の道』は3時間ほどで読んだが、そこには、塩づくりの技術、運搬・流通、文化などが書かれている。西武・国土の創設者の堤康次郎が軍用地の払い下げを受けて作った塩田の跡地に、福島第一原子力発電所が作られた。『民俗学の旅』(講談社学術文庫)では、とくに、「16 雑文稼業」、「17 若い人たち 未来」というところで展開される宮本の思想は興味深いものであった。『日本残酷物語Ⅰ』もそうだし、『聞書 忘れえぬ歳月 東日本編』(八坂書房)もだが、固定観念が次々とひっくり返されていって、とても面白く楽しい。快=好(ハオ)。

 例えば、それらでは、米中心の食生活が昔から中心であったという固定観念が否定され、アワという作物が古くは多く食されていたことや、魚、木の実、畑作物、焼畑作物、獣肉など、多様なものを食していたことが明瞭に浮かび上がってくる。それから、善良なる「子羊」的な農民像や漁民像など、近代以降に作られた民衆像は、『日本残酷物語』ではひっくり返され、残酷であらざるをえなかった民衆の姿が明らかにされている。江戸時代の三大飢饉(享保、天明、天保)の際の飢餓のすさまじさは、身にせまるものがあるが、そこに人災の要素が強く働いているということも指摘されている。そもそも、年貢の負担が重いということがある。さらに、飢饉の救済を妨げ、拡大させた要因には、余裕のある藩が自藩内から食料が外へ出るのを防ぐ措置を取ったこともあった。

 また、『聞書 忘れえぬ歳月 東日本編』でも青森県下北の地の村の聞書で浮かび上がってきたことがあり、その土地に人が定住したのは比較的新しく、しかも鉱山仕事で来た人々は鉱山の閉鎖などによって他所へ行ってしまうなど、人の出入りもけっこうあったということである。土地所有制度、自然条件、生産物の変化などによって、住居の移動もあったという。むつ市、東通村など、現代の原発立地にいたる歴史的背景というものも垣間見えた感じがする。この本では、福島県白沢村(現本宮市)のことも書かれている。白沢村は、三春町と接していて、阿武隈山地の中にある。ここの村が開けるのも比較的新しく、養蚕農家が多い。養蚕業の盛衰は、自由民権運動と関連が強い。それは色川大吉氏が明らかにした三多摩自由民権運動の歴史からもうかがえることである。

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宮本常一

 宮本常一の本3冊を読み始める。『民俗学の旅』(講談社学術文庫)、『日本残酷物語Ⅰ』(平凡社)、『聞書 忘れえぬ歳月』(八坂書房)である。『日本残酷物語』は再読である。まず、『民俗学の旅』から読み始めた。

 冒頭から引きこまれ感動するところが多い素晴らしい本だ。自伝的なものだが、その中に、宮本の思想とその形成過程、そして民衆の姿が鮮やかに浮かび上がる。『神聖家族』でマルクスは、批判的批判者たちが、大衆の上にたち、自らにとって都合のいい民衆像を作り上げ、その絵に従って民衆を改造しようと企てたことを批判しているが、それとまったく違った歴史を作る民衆の主体的な生き様、生活が生き生きとつかまれている。それには、祖父・祖母、父・母の影響があり、貧困生活の中での労働や暮らしから形成されたものがある。とりわけ、祖父から物語を聞かされて育ったことは、後の民俗学の調査・研究に活きている。いろいろと心ひかれる話があるが、最初の方では、大阪に行く前に彼の父親が語り聞かせたという話があって、それには自分がこれまでやってきたことといくつか似ているところがあり、不思議な感じがする。しかし、以下の8.のようなところはちょっと意味がわからない。1.のようなところはわかる。東海道線で西に向かうと、関ヶ原を境に瓦屋根ばかりに変わる。

  1.  汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
  2.  村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上がってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
  3.  金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
  4.  時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
  5.  金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
  6.  私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
  7.  ただし病気になったり、自分で解決のつかないことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
  8.  これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
  9.  自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
  10.  人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。(『民俗学の旅』講談社学術文庫37~8頁)。

 これは二日で読み終わって、『日本残酷物語Ⅰ』に入っている。並行して、中国の歴史ドラマをいくつか観た。それらは『史記』を元にしているが、『史記』を読むと違っているところもけっこうある。日本の歴史ドラマもそうだが、ナショナリズムを基調にしたものが多い。

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