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柳田国男『海上の道』、『日本残酷物語5』

 柳田国男『海上の道』読了。『日本残酷物語5』(平凡社)と『忘れられた日本人』(岩波ワイド文庫)に入る。柳田の『海上の道』は、沖縄のことが中心だが、もっと広く、常世(トコヨ)の世界のことを扱ったものである。柳田は最初に童謡で有名な椰子の実の浜辺への到着のことから始めている。海岸に打ち寄せられる漂着物を寄物と言ったそうである。山の方の育ちなのでそういう言葉は聞いたことがない。『日本残酷物語』の方には、難破船の積荷を盗む海辺の村の話がある。目の前の海(磯)で難破して沈んだ船の荷物は、古来はその海浜の村のものとなったが、だんだんにそれは盗賊行為とされるようになったという。面白いのは、ネという言葉で、例えば、根の国と言えば、地下の国と思い、それは古墳の構造と関係があるという解説がなされてきたが、柳田の説はまったく違って、それは海の彼方の方のことだという。確かに、今日でも、根には、地下に張る植物の根という地下に通ずる意味もあれば、根本などという場合のように、元のところという意味もある。それから、言葉の変化もあれば、物語の変化もあり、それがどのように、また、どうして変わったかなどが追求されている。また、比較が重要であるとも言われている。そして推測という方法が重要であるとも言われている。仮説を積極的なものとして提示せよという。柳田は、まるで、ヘーゲル論理学が推理を重要としているのをなぞっているかのようだ。そして、一国民俗学の形成の必要性がなんどか指摘されている。この点が、批判の的となっている。その際に、水田稲作中心主義が基本となっていると思われるのは、「稲の伝来は、私は国史の第一章をなすべきものと思っている」(297ページ)というようなところであろう。

 解説で大江健三郎氏は、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の「おもろさうし」研究を継ぐ外間守善氏の琉球尚真王時代の大改革の意義を述べた文章を引用しつつ次のように言う。

 古代と民俗の古層にむけて想像力を働かせる。それを漫然たる空想におちいらせぬためには、想像力にダイナミックな力と指向性をあたえるための基盤がなければならない。そのような基盤として誰の眼もそれをとらえるのは、あらためていうまでもなく、神話と歴史のあいかさなる転換期の、それも歴史の側から科学的な確かめをおこなうことが可能な時期、わが国では天皇制国家の支配体制の確立期であろう。柳田はたとえば次のように書く、それはこの微妙な時期についての、科学性をもつ表現というにふさわしいものだ。《皇祖天皇が始めて中つ国に御遷りなされた時には、すでにそれ以前からの来住者の、邑里を成し各々首長を戴いている者が少なくなかった。国津神の文化のやや低級であったことは、大祓の祝詞からでも窺われるが、おそらくは語言はほぼ通じ、したがって相互の信仰は理解し得られ、烈しい闘諍をもって統一を期するまでの、必要はなかったかと思われる》。このような基盤をまず置いて、そこからわれわれの想像力が古代と民俗の古層にむかう時、そのようにつくられる思考の、「仕組み」は、想像力に指向性とダイナミズムをもたらすだろう。(322~3ページ)

 実際には歴史学が明らかにしたように、「烈しい闘諍をもって」統一が行われたのだが、ここで大江の言っているのは、そういうレベルのことではない。

 ……柳田のいう「なつかしさ」が、民俗の古層を指向して強く跳ぶ、心のあり様を示す言葉なのはあきらかだが、現在、自分がいる時間・空間の場所、その限界に閉じこめられている現状から、それを超えるところへ向けて跳ぶ、そのような指向性をそなえた心の動きに誘うことにおいて独特である。そのようにしてわれわれを民俗の古層へと、われわれの閉じこめられている時・空の限界を超えてゆかしめる勢いにおいて、独特に想像的である。(326ページ)

 このように想像力の問題として、柳田の言葉をとらえているのである。

 この度、極めて想像力に欠ける安倍自民党政権が誕生した。彼の選挙演説は、俗物趣味に溢れ、即物主義的で、それに「美しい国」などという無内容な飾り言葉を貼りつけただけのものであった。今度の選挙結果は、石破自民党幹事長が、あるNHK番組の中で認めた通り、「消極的な選択」の結果でしかなかったのであり、ただ安倍が公約したインフレ策が投資家に受けて株価をいたずらに引き上げたのはむしろ近々の失望の発生を予示しているに過ぎない。ちょうど、日本の一人あたりGDPがOECD諸国中昨年と同じ14位であるが、それは円高でドル換算するとそうなるだけだということを報じた記事を見たが、安倍政権はそんなようなものである。物価を政策によって完全にコントロールなどできようか。できるなら、とっくに他の国々でもやってるだろうに。

 いずれにしても、バブルを頂点とする戦後日本経済のピークは終わっているのであり、その後、20年もの間、停滞が続き、総中流幻想はとっくに破れ、階層分裂は進み、下層は拡大している。そうすると、『日本残酷物語5』は「近代の暗黒」というタイトルだが、それもリアリティを増している。ただし、ここには、マルクス主義者の一部に受け継がれた封建遺制の残存の強調(講座派)や悪の暴露にとどまりかねない傾きもあることには注意が必要である。そこから可能性をも見出し目的意識性を持たねばならない。そのためには、そこでの共同性のあり方や内容をつかむことが重要である。そして、想像力。例えば、「女工哀史」もあるが、1920年(大正9年)の富士ガス紡績の1800人の友愛会紡績労働組合押上支部の「組合権擁護」を掲げたストライキの話もある。逆に、柳田は、米の栄養源としての重要性よりも、それを人々が、常食とせず、ハレの日の食べ物として信仰と結びつけていた面を『海上の道』で強調して、水田稲作中心主義を唱えているように見えるのは、イデオロギッシュである。『日本残酷物語5』の方は、それを「女工哀史」を再生産する農村の封建制の基盤と見ている。

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