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蝦夷、安倍、歴史と3・11

 2013年1月1日『福島民友』1面トップは「甲状腺検査医師ら「認定」」という記事である。4面には、福島県立医科大学長菊池臣一氏のインタビュー記事が載っている。医療の人材不足が最大の課題だという。県民健康管理調査は、回収率が2割強のままにとどまったままで、原発に近いところほど回答率が高いという。そこで、方針転換して、原発周辺地域を重点的に調査していくという。しかし、県立医大は、「チェルノブイリ原発事故の後、4~5年後に現地で小児の甲状腺がんが増加したことから、現在の選考検査を「子どもたちの甲状腺の状態を診る検査」と位置付けている。その後の本格検査は、20歳までが2年ごと、それ以降は5年ごとに、生涯にわたって検査を継続する」(4面)という。このように、県立医大は、子供の甲状腺がんが4~5年後に増加する可能性があると考え、対策を進めている。

 他方で、先日誕生した安倍首相は、こんなことになんら配慮を示すことなく、原発新設を示唆する発言をした。それについての県内の反応が『民友』5面に載っている。

 首相の原発新設容認発言 「なぜ今」「まず廃炉、賠償」県内首長から不満の声 「真意見極め」意見も

 安倍晋三首相が30日、テレビ番組で現在停止中の原発の再稼働にとどまらず、新規の原発建設を容認する姿勢を示した発言について、東京電力第1原発事故で住民が避難している県内の首長からは31日、「今の時期、なぜこんな話が出てくるのか」などと不満の声が相次いだ。一方で、「真意を見極めたい」と冷静に受け止める反応もあった。

 松本允秀葛尾村長は「避難している立場からすれば、(衆院選直後の)今の時期に、なぜこんな話が出るのかという思い。経済を優先する姿勢に映る」と話した。馬場有浪江町長は「国のエネルギー政策破綻を理由に、原発の再稼働、新設は認められない。まずは原発の廃炉や賠償、除染などを確立させる必要がある」と批判。桜井勝延南相馬市長は「首相が言うからには、少なくとも福島第1原発事故の後処理を全て終えてからだ」と指摘した。
 菅野典雄飯舘村長は「どのぐらいエネルギーが必要なのか、今後の日本に必要なのかなどの議論がなされないまま、『原発ありき』という考え方をすることに疑問を感じる」と首をかしげる。渡辺年綱大熊町長は「政権が代わったからといっって、(新設に対する)考え方が急旋回するのは考えにくい。もう少し真意を見極めたい」と話した。
 安倍首相は、TBSの番組で、今後の原発政策をめぐり「新たにつくっていく原発は、事故を起こした東京電力福島第1原発とは全然違う。国民的理解を得ながら新規につくっていくということになる」と発言。原子炉や安全対策の違いに着目すべきだとの認識を明らかにした。安倍首相は29日、民主党政権が決めた2030年代の原発ゼロ目標を転換する考えを重ねて示していた。(5面)

 今のところ、安倍政権に対しての評価はあまり聞かれず、本格的な反応はこれから出てくるだろう。それは参議院選挙に反映されることになろうが、少なくとも安倍総理の原発政策については批判的な声が多いようだ。われわれは、この間の民主党3年有余の政治が、アメリカの強い介入に屈する様を見せつけられ、特に外務省はすっかりアメリカの手先機関でしかないということを痛感させられた。安倍政権がそれを覆すなどまったくありえないことで、この国に主体性がないので、当然その「国民」にも主体性がなく、原発を止める力も勇気もないという情けないことになっている。長いものにはまかれろとばかりの事大主義は権力中枢に深く根付いており、自分の足で立つこともできない。安倍政権は、アメリカのポチ政権と化す。「武士は食わねど高楊枝」などという意地もなく、お坊ちゃんには他人の痛みもわからない。同じ坊ちゃんでも夏目漱石の貧乏教師の『坊ちゃん』は、強きをくじき弱きを助ける正義感があり、さわやかなもんである。

 福島県は2013年を福島復興元年として、復興を最大課題とすることを表明している。それに合わせるかのように、NHKで福島県会津を舞台とした大河ドラマ『八重の桜』を放映する。県内ニュースでもその話題が繰り返し取り上げられていた。歴史認識は急速に変化しており、教科書などはまったくそれに追いついていない。例えば、大和王朝と並行して、東北北部から蝦夷地にかけて、別の王朝があったという説がある。これは安倍比羅夫から安東氏、そして秋田氏へとつながる俘囚系(蝦夷系)の王統である。

奥州藤原氏登場前史 (ウィキペディア)

 東北地方は弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が北海道から南下して住み着くなど、関東以南とは異なる歴史を辿った。中央政権の支配も関東以南ほど強くは及んでいなかったが律令制の時代には陸奥国と出羽国が置かれ、俘囚と呼ばれた蝦夷(えぞ)系の人々と関東以南から移住して来た人々が入り混じって生活していた。

 11世紀半ば、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していた。安倍氏、清原氏はいずれも俘囚の流れを汲む、言わば東北地方の先住民系の豪族であった。このうち安倍氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年に渡って戦われたのが前九年の役である。前九年の役はその大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていたが、最終局面で清原氏を味方に付けた源頼義が安倍氏を滅ぼして終わった。

 この前九年の役の前半、安倍氏の当主であったのが頼時である。頼時は天喜5年(1057年)に戦死し、その息子の安倍貞任は康平5年(1062年)に敗死したが安倍頼時の血統が絶えたわけでは無かった。頼時の娘の1人が前述の亘理郡の豪族・経清に嫁いでいたのである。経清もまた安倍氏の滅亡の際に頼義に囚われ斬首されたが、その妻(つまり頼時の娘)は頼義の3倍の兵力を率いて参戦した戦勝の立役者である清原武則の長男・武貞に再嫁することとなった。この時、頼時の娘が連れていた経清の息子(頼時の外孫)も武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。

 永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生する。この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあって一旦は清原氏の内紛は収まることになった。ところが義家の裁定によって清原氏の所領の6郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。

 真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。

 この系譜に繋がる安東氏がある。    

安東氏家系(ウィキペディア)

 安倍貞任第2子の安倍高星を始祖とする系譜を伝え、津軽地方を中心に西は出羽国秋田郡から東は下北半島までを領した豪族である。その実際の家系については、『保元物語』に登場する信濃の安藤次、安藤三との関係などを指摘する説、『吾妻鏡』に登場する三沢安藤四郎との関係などを指摘する説がある。なお『安藤系図』には、源頼朝の奥州攻めに際して安藤小太郎季俊が先導をし、その子季信は幕府から津軽の警護を命じられたとある[4]。

 安東氏の後裔である旧子爵秋田家には、長髄彦の兄である安日の子孫という伝承が残っており、このため安東氏を蝦夷とする見解と蝦夷ではないとする見解の対立がある[5]が、家系伝承については蝦夷の祖を安日に求めた室町期成立の『曽我物語』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は低いと考えられている。ただし、自らを「朝敵」であった蝦夷の子孫であるとする系図を伝えてきたことが、北奥地方に独特の系譜認識を示すものとされている。

 近年の研究では、陸奥国一宮鹽竈神社の社人であり当神社の神領管理をしていたこと、「津軽山賊」と記載された史料があることなどから、海民、山民としての性格を持つ豪族であったとも推定されている。

 安倍氏、安東氏、清原氏、奥州藤原氏は血縁があり、姻戚関係でつながっている。現総理安倍氏もその系譜に連なっているはずである。NHK大河ドラマ『炎立つ』はこうしたことを下敷きにしていた。

 年末風邪を引いたため、ほとんど寝正月になり、そのためテレビばかり観ることになったのだが、まず、面白かったのが、NHK教育の「日本人は何を考えてきたか」という番組で、特に「南方熊楠と田中正造」の回と「大逆事件 幸徳秋水と堺利彦」の回が面白かった。それから、前回の「大本教」も。現在、歴史認識は底辺から大きく変わっていて、それと「維新の会」などの歴史認識の間には大きなギャップがある。日本人像が底辺から変わりつつあるのに、「維新の会」の橋下などの歴史認識はまったく古いままである。先に上げた3者を見るにも、民俗学と歴史学の知を併せ持つような認識を持たないと理解できない。大逆事件は、当時の検事平沼騏一郎(後総理大臣)が最初から思想弾圧を意図した冤罪事件であることは明らかである。幸徳の故郷四国高知県の四万十市に、幸徳秋水顕彰会ができて、今では慰霊式に市長も参加するようになっている。官軍と壮絶な戦いを繰り広げた会津の話が、今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』で、その宣伝が繰り返し放送されていた。もっとも、三春は安東氏の流れをくみ、神武東征軍が奈良盆地に入るのを一度は撃退した安日王長脛彦を祖とする系図を持つ秋田氏が幕末の領主で、郷士河野広中らが官軍に降伏する交渉をし、奥羽越列藩同盟を真っ先に脱盟したところである。

 別の話で、もう一つ、東北の独自性を示しているのが、義経観である。正月に、『義経千本桜』「河連法眼館の場」を観た。福島県福島市飯坂温泉のあたりを根拠地にした佐藤一族の出で、義経の家来として活躍した佐藤兄弟(継信・忠信)の弟の忠信に化けた狐の孝行話で、義経人気の中には、奥州藤原氏とのつながりということもあると思った。話は、壇ノ浦の戦いで戦死した兄佐藤継信の敵討ち話や海に沈んだはずの安徳帝を守る平維盛などの平家の武将が登場するなど荒唐無稽なもので、宙乗りなどのケレンが見せ場をなすという派手なものだが、そのもとになった『義経記』は、物語られるなかで変形されていったもののようである。そこにも庶民の作った義経像があり、人々の愛着の深さが感じられる。「判官びいき」とは、日本人の心の特性を表すとされる言葉だが、小泉政権時代は「強い者はより強く」というそれと正反対の価値観が顕揚された。ホリエモンのような欲深き者が賞賛され、ヒーローとされた。しかし、元々、日本的ヒーローは義経の方であり、義太夫節の歌舞伎3大人気は、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、「仮名手本忠臣蔵』で、九州大宰府に流された菅原道真、兄頼朝に討たれた義経、お取り潰しとなった播州赤穂浪士が主人公で、全て敗者である。しかし、歴史上、敗者は後に勝者となっている。関ヶ原の敗者の薩摩は、明治維新で勝者となる。平家に敗れた源氏は鎌倉幕府を開く。

 とりとめがなくなったが、歴史は弁証法的であり、このようにジグザクした動的過程をたどっており、一方から正反対へと反転し、さらに反転しと留まることなく変化しているということをつかむことが大事だということを確認したい。そこに歴史感覚、歴史的感情、感慨が生まれ、物語の情感が醸し出されるのであり、それを人々は感受し楽しみ味わうのである。そして、共感が生まれる。深い連帯の情が湧く。

 3・11前、2008年の『季刊東北学』冬号は、「東北の森一万年の旅」という特集を組み、東北の自然を取り戻すための試みを行なっている。そのためには、自然との適切な関係を人為的に作る必要があり、そういう場としての里山の形成ということも課題にのぼっていた。しかし、3・11後の原発事故は、その試みを頓挫させてしまった。森も自然もすでにずいぶん壊れていて、動物も昆虫も減少していた。植林されたままの杉林が崩落しやすいことは、熊野の那智での水害でも示された。その様子は、NHKのさだまさしの番組で元日に放送された。さだは、那智へ水害の義援金を届けに行ったが、那智の人たちから東北の被災者へ義援金を渡すように頼まれたのである。水害の被災者が地震・津波の被災者へ義援金を送ったのだ。那智の水源地帯で植林された杉林は地面ごと崩落し、川には新しい土砂が堆積し、泥水が下流に流れていっている。それは、南方熊楠が守ろうとした熊野の森を壊したことの結果であった。天然林での複雑で多層多様にからみ合って相互依存しあって出来上がっている生態系のバランスを、南方熊楠は曼荼羅として描いた(それを南方曼荼羅というそうだ)。ノートに記されたその図は、いたずら書きにも見えるが、何本もの曲がった線が錯綜して走っているものである。非対称であり、微妙である。以下の記事では、無我夢中で記憶がないというような特異な体験もあり、そこからする認識体験も生まれている。自然も人間もそうした特異なものを受けているということをより深く考えなければならないと思う。

 ベクレルの嘆き2 放射線との戦い(『福島民友』2013年1月4日 1面)
 第1部安心の尺度

 池田美智子(39)のノートには、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が起きた平成二十三年三月十一日からの記録がびっしりと書き込まれている。間もなく、一年十カ月がたつが、ページをめくると記憶が鮮明によみがえる。
 震災当時、美智子は双葉町の特別養護老人ホーム「せんだん」に勤務していた。東京電力福島第一原発からは約3・5キロしか離れていなかった。入所するお年寄りと何気ない会話を交わす日常は、「3・11」を境に一変した。

 経験したことのない大きな揺れが施設を襲った。美智子は、利用者を置いて逃げるわけにはいかなかった。「避難しよう」。一夜明けた十二日朝、誰からともなく声が上がった。だが、利用者をどこに連れて行けばいいのか、見当もつかなかった。
 同日午後二時ごろ、施設に一本の電話がかかってきた。受話器を取った美智子の耳に届いたのは、双葉町長・井戸川克隆の怒鳴るような声だった。「なぜ逃げないんだ。もう駄目だぞ!」
 ただならぬ気配を感じ、施設長岩本善一(65)に電話を代わった。利用者を双葉高に運び、ヘリコプターで避難させることが決まった。
 岩本は「無我夢中だった。所々、記憶がない」と当時の混乱ぶりを振り返る。
 美智子は身元が分かるように利用者全員にガムテープを張って名前を書き、双葉高を目指した。午後三時半すぎ、双葉郵便局を通り過ぎようという時だった。美智子の耳に「ボン」という音が聞こえた。後から分かったが、第一原発1号機の水素爆発だった。

 双葉高のグラウンドに到着すると、大量のほこりが降り注いでいた。自衛隊や警察が慌ただしく動き回る。「ここから逃げてください!」。防護服を着た警察官が駆け寄ってきて大声で叫んだ。

 

爆発、どこに逃げる…

 「今逃げてきたばかりなのに、どこに逃げるの…」
 行く当てを失い、再び施設に戻った。たまたま通り掛かった自衛隊員に助けを求めた。隊員がどこかに連絡を取ると、施設に何台ものジープが来た。「双葉町は川俣に向う」。美智子は、井戸川が話していたのを思い出した。利用者と共に川俣町に向かった。

 利用者の受け入れ先にめどが付いたのは一週間後の三月一九日だった。「ようやく家族と会える」。先に避難していた夫幸司(38)と長男幸矢(21)が待つ栃木県那須塩原市へ急いだ。家族と暮らすことで安堵(あんど)の気持ちも芽生えてきた。
 約四カ月後の七月五日。避難先での生活に慣れ始めた美智子の元に、岩本から電話がきた。「千葉県の放射線医学総合研究所で検査を受けることができるか」。対象は原発事故後も避難せずに双葉郡内などに残っていた住民五十二人だった。(文中敬称略)

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