« アベノミクスは大衆収奪、近代史その他 | トップページ | 革コンのお知らせ »

民族問題など

 沖浦和光氏『瀬戸内の民俗誌』(岩波新書)、『戦後部落解放運動史』(河出ブックス)、スコット『ジェンダーと歴史学』(平凡社)に入る。

 松浦玲氏の『横井小楠』で、もう一つ面白かった点は、日本の武士と中国の士太夫が違うという指摘である。中国の士は、科挙によって選ばれた官僚で、受験資格に限定はあったが、かなり広く開かれていた。途中で自分の意志で辞めることもできた。それに対して、日本の武士は、生まれつきの身分であって、世襲の武官である。それが平和時には官僚仕事をしていたのである。江戸時代、けっこう複数の藩を渡り歩くなどする武士がいたというのを改めて認識した。

 中国の民族問題は複雑であり、微妙なところが多くて、理解するのも大変である。加々美さんの『中国の民族問題』はその点いろいろと理解が進んで、大変参考になった。アメリカは、インディオ対策で完全に民族問題対処の失敗例を示している。アメリカは、自分がうまく対処できない民族問題の解決を他国に求めるということをしているのである。日本の場合もそうで、アイヌ新法を制定し、アイヌという先住民族の存在を国際的にも認めながら、右派の言うことを聞いていると、未だに日本民族単一説を前提にものを考え、言っている。また、政府は積極的に複数民族国家であることを人々に広めていない。アメリカが、先住民のインディオに対してやったことと中国がチベットに対してやったことと日本がアイヌに対してやったことは、大雑把には、似ているところがある。

 もう一つ、加々美さんの本で、民族問題については、やはりマルクス主義者の議論が実践的な意味が極めて大きいし、学術研究的な意味ではなく、政治思想的に大きな意味を持っているということを中国の民族問題についての議論の紹介を読んでて感じたのが大きかった。コミンテルン第三回大会での、民族・植民地問題についてのテーゼ(草案)とロイの補足テーゼの提起したものは今でも大きな意義を持っているということを改めて認識した。それに対して、日本での右翼の民族、民族という叫びは、無内容で、民族の概念も曖昧で、何を言っているのか理解できない中身のない貧相なものにすぎない。人々から血税を貪りとって生活しながら人々を上から差別的な視線で見下ろす吸血鬼たちの立場に立って、人々の立場で闘う者たちに薄汚い罵声を浴びせる。支配階級が内心で思いながら表立って言えないような下品で差別的な言葉を大声で撒き散らす。三島由紀夫が日本文化の本質をみやびと言ったが、みやびなどかれらのどこにもない。

 それに対して、他者の痛みをわが痛みのように感じ、虐げられた人々の立場に立ち、自分の利害だけではなく、被差別者、被抑圧者の要求をも理解し、そういう他者の解放のためにも闘う全人類の解放者としてのヘゲモニーを形成して、そうした人々の連帯の糸を紡ぐ者がプロレタリアートである。自己を解放するためには他者の解放をも実現するために闘う必要があることを理解するのがプロレタリアートなのである。自分の解放を他者の解放と結びつける力を持ち、全人民解放の先頭に立って闘うのがプロレタリアートなのである。支配階級から搾取・抑圧・差別されている人々の立場や境遇を理解し、その解放のために忍耐強く闘うのがプロレタリアートなのである。それが結局は自己の解放につながるのであり、そのことを理解し、行動で示すのがプロレタリアートなのである。自分の利益ばかり追求するとかえって痛い目にあい、マイナスの結果になるのだ。もちろん一時的な例外はあるにしても、中長期的に見れば、そうなるのである。自分の目の前の利害だけを追っていると、後で必ず痛い目にあうのである。そのことはホリエモンを見ればよくわかるはずだ。もっとも彼は今はすっかり反省してやり方を変えているようだが。

 今読んでいるものも、そういうことを改めて確認させてくれるものが多い。

|

« アベノミクスは大衆収奪、近代史その他 | トップページ | 革コンのお知らせ »

「雑文」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/57588/49539593

この記事へのトラックバック一覧です: 民族問題など:

« アベノミクスは大衆収奪、近代史その他 | トップページ | 革コンのお知らせ »