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原発推進者IAEA、大衆運動の原則等々

 白川静氏『中国の神話』(中公文庫)、沖浦和光氏編の『被差別部落一千年史』(岩波文庫)に入る。

 松浦玲氏が『日本人にとって天皇制とはなにか』(辺境社発行)で、日本人の歴史認識を司馬遼太郎の歴史観にみているのは興味深かった。学者が形成している日本人の歴史認識というのは、大衆のものになっておらず、かけ離れていることが多いのである。大衆の歴史認識を見るためには、司馬遼太郎の歴史小説を読まねばならぬというのが松浦氏の主張だが、参考になる。司馬遼太郎を学問的に批判するのは簡単なのだが、問題はイデオロギーなのである。松浦氏は、イデオロギーはなくせないものだと言っているが、それは正しい。イデオロギー批判はできるが、それでイデオロギーをなくすことはできない。ちょうど、『ドイツ・イデオロギー』(マルクス・エンゲルス)の勉強会をやっているので、ド・イデを読み直してみると、以前読み飛ばしていたようなところにも目がいくようになるが、その一つで、ド・イデには、共同幻想は最初は真実だがその後虚偽イデオロギーになるというようなことが書かれている。

 また、あらゆるイデオロギーを否定するシュティルナーをマルクスは「聖マックス」と呼んで批判するが、それもそのはずで、シュティルナー的な孤立無援の個人の自由は、「あなたは、どうやって飯食ってるの?」という子供でもわかる疑問に、まともに答えられない貧相なものなのである。自分で作らなきゃ、誰かが作ってるんでしょ! ということで、生きるためには、したがって個人を個人として再生産し、維持するためには、生活の必要を満たさねばならない。したがって、生産、分配、社会なしには、批判も文句も言うこともできないということがわかる。だから、シュティルナー的個人は、永遠の体制内反対派、ただの文句言い、批判的批判家にしかなりえない。後は自給自足でもやるほかないが、それならインドの聖者や一部の仏教徒のような前例がある。それでも、誰かが、シュティルナー的隠遁者の命を再生産するために働いている。キリスト教の修道院なら、共同生産・共同分配、共同生活で、共同で他者と結びあい、関係し合っている。『ドイツ・イデオロギー』で再確認したのは、歴史観のところで、かれらは、やはりヨーロッパ人だから、ギリシャ→ローマ→ゲルマンというヨーロッパ史を、世界史をイメージする際の土台としているので、日本史や中国史などとはずいぶん違いがあるということである。それから、宇野理論では、19世紀イギリスを純粋資本主義の典型として資本主義像を描くので、その他の地域の歴史と合わないということを再確認した。

 脱原発運動への結集も、去年に比べるとずいぶん減ってきているのは誰の目にも明らかである。それから、いろんなものが見えてきたが、例えば、セクト主義、セクトのために運動があるという転倒した立場をとるものがあったり、総括は他者に理解されてこそ、はじめて総括としての役割を果すということを忘れて、時間さえたてばなんとかなると思っているあまい考えの無総括。党派性は、党を名乗らないものにも存在する。ノンセクト・セクトなど。共産党のセクト主義は昔と変わっていない。三派全学連排除の主張をし、運動を分裂させ、大衆運動の中で、独自組織・独自行動に走った時と同じなのである。闘う者への敵対と妨害を行い、権力と闘う者を平気で権力に売り渡す。「歌って踊って」「学生の本分は勉強だ」と体制べったり。唯一絶対正しい共産党という独善性。闘う者、意識の高い者ほど共産党をやめ、離れていく。

 大衆運動の原則は、上野千鶴子氏が強調する当事者主権(ただし、これは当事者独裁でもなければ、当事者独善でもない。また、他にも留保すべき点があるが……)、統一・団結のできるだけの優先、一切のセクト主義的分裂策動の拒絶。何のためのセクトか、何のための運動かが曖昧化し、セクトのためのセクト、運動のための運動となったら、それは悪しきセクト主義にしかならず、歴史的にそんなものが一時的成功以上のものをなしたことはなく、自ら身を滅ぼしてきたのである。そんなものは小グループに縮小せざるをえないことは明らかだ。

 『共産党宣言』での共産主義者の定義、ちょっと先を見通せて、運動の絶えず推進するプロレタリアートの一部分というのは正しい。運動の総体の利害を代表し、部分を代表するのではない。プロレタリアートの統一と団結の発展を利益とし、運動内の特定の党派の部分的な利害を代表することはない。それは闘いの目的のためであり、革命のためである。党はその手段の一つである。手段は目的に適う場合にのみ、有意義であって、そうでないなら、無用である。間違いを正せないなら、それは無用の長物であり、役に立たないし、大きい支持を長期間得ることは不可能であり、その報いは必ずくるのだ。それがわからない連中と深く付き合うとこっちもだめになり、腐敗し、力がなくなってしまう。それを洞察できる人、気づいたら早く直せる人が、ほんとうに頭の良い人である。福島主体の広く深い統一と団結を! これが福島の運動の大衆運動上の大原則である。そして、少数の例外。臨時的一時的例外。臨機応変、しかし、原則は失わず。……。難しいが、やれる人、やろうとする人はすばらしい活動家である。

 IAEAの基本的立場を端的に示しているので、載せておく。

 「東京電力福島第1原発の事故で揺らいだ原子力の安全性への信頼の回復に重点を置き」と、原子力は安全であるというのが基本的立場である。これは、基本的に原子力に安全性はないと考える、反原発の立場と正反対の相容れない考えである。IAEAは、安全な原子力を推進する原子力推進機関であり、福島原発廃炉を宣言し、県議会でも決議している福島にIAEAの事務所を設置することは、それに反することになると考える。かれらの福島入りを容認した福島県当局の態度は間違いである。

原子力の信頼回復に重点=民生向上に必要-IAEA事務局長(2013/03/07時事ドットコム)

 【ウィーン時事】再任が決まった国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長は6日、記者会見し、2期目はイランの核兵器開発疑惑の解明のほか、東京電力福島第1原発の事故で揺らいだ原子力の安全性への信頼の回復に重点を置きつつ、核兵器の拡散防止や原子力の平和利用促進にバランスを取りながら取り組む方針を表明した。
 天野事務局長は「多くの開発途上国が原子力技術を民生向上に使おうとしている」と指摘。原子力の信頼回復はどの国にとっても「非常に重要だ」と語った。 
 イラン核問題では、外交解決を目指す考えを強調。イランに協力を促すとともに、「具体的な結果を出さなければならない」と述べ、停滞する核協議の打開に意欲を示した。(

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コメント

「個人を個人として再生産し」って
再生産されえるのは人間であって個人ではないでしょう。

投稿: しゅてぃるなーかじり | 2013年3月12日 (火) 21時04分

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