ビルマの民族問題と現状(アウンサンスーチーさん来日を機に)
以下は難民講座で報告した文章である。アウンサン将軍、スーチーさんの写真、産業別GDP、GDPの変化、産業別輸出構成の表もあるが、データ処理が面倒なので、割愛した。
ビルマの民族問題と現状(アウンサンスーチーさん来日を機に)
By流広志
アウンサンスーチーさんの来日を機に,日本で圧倒的に難民認定率が高いビルマ難民がなぜ発生しているのかを考えてみたいと思います.いろいろとテーマ設定はできますが,前回少数民族の方たちのお話を伺ったこともあり,民族問題に重点をおいて,見ていきたいと思います.
ビルマ諸民族史
ビルマには,政府の発表で135民族がいるという.ビルマ族が最大で約65%,人口で,シャン族,カレン(カイン)族,アラカン(ラカイン)族,モン族,チン族,カチン族,カヤー族の順に多い(『アウンサンスーチー』(角川書店126頁).ビルマ共産党とビルマ人民革命党の連合を軸とする抗日統一戦線(反ファシスト自由人民連盟),ビルマ独立義勇軍による武装蜂起によって政権を掌握,イギリスから独立を達成した後,アウンサンは,少数民族問題の解決を図ろうとする.少数民族代表との会議で,パンロン協定が結ばれた.
〈パンロン(ピンロン)協定〉
「新生ビルマが英連邦の一部となるべきか否かという問題以外に,少数民族地区がどうなるかという問題があった.例えば,カレン族は,日本軍敗退後,カレン族の独立国家を望み,アウン・サンを首席とするビルマ行政参事会代表団とは別に,独自にカレン族指導者ソウ・バウジー氏率いる代表団を英国に派遣しカレンの独立を要求していた.アウン・サン=アトリー協定では,“辺境地区(高原・山岳地帯を中心とした地域で,英領ビルマ政庁による間接統治がなされていた行政区域)の少数民族については,彼らの自由な意思に基づいて管区ビルマ(平野部を中心とした地域で,英領ビルマ政庁が直接的に統治責任を負った行政区域)と,辺境地域との統合を認める.”と取り決められた.
ロンドンから帰国したアウン・サンは,1947年2月,シャン州の州都タウンジーのやや東方にあるピンロン(シャン語でパンロン)で,辺境地域(管区ビルマ外)の少数民族の代表らと会談する.この会議において,独立後少数民族に自治権を与えることを約し,辺境地域と管区ビルマを合わせた英領ビルマ全域を,連邦制国家として独立させる方向で合意が成立した.こうして1947年2月12日,23人の出席者全員が賛成するパンロン協定が調印された.調印者23名の内訳は,シャンの代表者は,各地の小藩の世襲的藩侯(”ソーブア”,シャン語で「サオパ」)をはじめとした14名と最も多く,カチンの代表者が5名,チンの代表者が3名,それにビルマ族代表のアウン・サンである.(シャン代表の一人には,1948年1月4日独立と同時に初代 ビルマ大統領に就任するも1962年3月のクーデターで逮捕され後に獄死したニャウンシュエ藩サオパのサオ・シュエタイが加わっている)
しかしながら,調印者の内訳でもわかるように,このパンロン会議に出席して協定に調印した少数民族の代表は,シャン,カチン,チンの3民族に限られ,カヤー,カレン,モン,アラカンからの出席は,カヤーとカレンからの数名のオブザーバー以外なかった.この後,1947年4月の制憲会議選挙をカレン族がボイコットするなどもあり,カレン州の設置がないまま,ビルマ本州と少数民族州からなる連邦制民族国家が,1948年1月4日誕生する(独立後のビルマ連邦は,ビルマ本州のほか,シャン,カヤー,カチンの3自治州とチン特別区から構成され,カレン自治州は1951年になって設立された).尚,1947年6月の制憲議会,1947年7月アウン・サン暗殺,1947年10月ヌ=アトリー協定,1947年12月英国両院でのビルマ独立法案可決を経て1948年1月4日のビルマ独立は,英国王を国家元首とするコモンウェルス(英連邦)内の自治領としてではなく,独自の国家元首(大統領)を有する共和制国家としての完全独立であった.
一方,パンロン会議後に制定された1947年憲法で,シャン,カヤーについては独立後10年目以降の連邦からの離脱権を認める条項が加えられていたが,その後,パンロン協定で保障された諸民族の自治権も失われ,シャン,カレンニーに認められた連邦離脱権も剥奪されている」(現代史ビルマ篇http://www.mekong.ne.jp/directory/history/panglong.htm).
ビルマ諸民族の歴史を見ると,その複雑さには驚かされるが,アウンサンスーチーさんは,『自由』(角川文庫)第2章「わたしの祖国,そしてビルマの人々」の中で,ビルマの歴史を描いている.
「ビルマの歴史が始まったのは,中央アジアからモン族が入りこんで来たとき,おそらく紀元前2500年から前1500年の間だと言っていいだろう.モン族はタイの一部そしてテナセリム沿岸,イラワジ河のデルタ上に定住した.初期のモン族文明は,インドの影響を強く受けていた(同書97頁)」.
このようにビルマはインドから大きく影響を受けている.アウンサンスーチーさんも,ベンガル(バングラディッシュとインド西ベンガル州)・ルネッサンスの影響を受けている.ネルー家とは,母親がインド大使となってインドに住んでいた時からの付き合いで,この交際からガンディーの影響を強く受けたと言われている.さらに,現在のバングラディッシュはイスラム教徒が多数を占めていて,ビルマにもイスラム教徒がいる.そして,3月22日には,中部のメティラで,仏教徒とイスラム教徒との衝突が起き,10人が死亡した.メティラの人口10万人のうち,約3万人がイスラム教徒だという(2013年3月22日 産経).
ちなみに,紀元前2500年頃,日本列島は縄文時代前期である.
モン族の次に,チベット=ビルマ語族の人々が南下してきた.5世紀から9世紀にはその一派のピュー族が都市を作った.同じチベット=ビルマ語族のビルマ人が850年頃パガンに都市を築いた.1044年に王位に就いたと考えるパガン朝の王の時代,モン,アラカン,西部シャン,北部アラカン,北部テナセリムを支配した.また,彼は上座部仏教を広めた.1287年,モンゴル(元)の侵攻により衰退,タイ民族が元に押されて南下,シャン族はパガン朝を攻撃し,13世紀から16世紀までビルマ中央部を支配する.14世紀末から15世紀にかけて,べグーを都とするモン族の王朝が興った.16世紀初頭からポルトガル人が交易のために訪れるようになる.1347年にタウングー王朝が成立し,バインナウン((在位・1551年 - 1581年)の代に,モン,シャンを支配し,現在のビルマの大部分を支配下に置いた.
ビルマの歴史
驃国 (前200-835)
モン王国 (825?-1057)
パガン王朝 (849-1298)
ピンヤ朝 (1313-1364)
アヴァ王朝 (1364-1555)
タウングー王朝 (1510-1752)
ペグー王朝 (1740-1757)
コンバウン王朝 (1752-1885)
イギリス統治下 (1824-1948)
英緬戦争 (1824-1852)
ビルマ国 (1943-1945)
現代 (1948-現在)
ビルマ連邦 (1948-1962)
社会主義共和国 (1962-1988)
ミャンマー連邦 (1988-2010)
ミャンマー連邦共和国 (2010-現在)
次にビルマを統一したのは,ビルマ族のコンバウン朝である.しかし,アッサムとマニブール地方をめぐってインドを植民地化していたイギリスと戦争をして敗北を繰り返し,ついに,英領インドの一部に編入され,植民地化される.1930年代「ドバマ・アスィアオン」(われらのビルマ協会)が結成される.かれらは「タキン(主人)党」と呼ばれた.スーチーさんの父アウンサンはタキン党に入り,最左翼のマルクス主義研究会,1939年創設のビルマ共産党支部の書記長となった.同年,バモオのスィンイェダー(貧民党),ドバマ・アスィアオン,学生,政治家による同盟で,バモオがリーダーとして,「自由ブロック」が結成され,アウンサンが書記長になった.当局側はこれを弾圧,バモオを逮捕した.逮捕状の出たアウンサンは地下活動に入る.その頃のアウンサン の考えをスーチーさんは引用している.
個人的には,われわれの運動を世界に知らしめて支持を得ることも必要だと考えたが,民衆を民族闘争に駆り立てるという最も大事な仕事は,ビルマ国内で実行しなければならないとわたしは思っていた.
わたしの計画の概要は以下のようなものだった.
まず,イギリス帝国主義に対する民衆の抵抗運動がビルマ全土で展開される.それは世界および国内の流れとも歩調を合わせ,産業・農業労働者による各地での散発的なストライキがゼネラル・ストライキや地代不払い運動に発展し,また民衆のデモなどあらゆる形での闘争的プロパガンダや民衆の行進が大規模な民族抵抗運動につながるようにすることである.さらにイギリス帝国主義に反対する経済キャンペーンが,英国製品の不買運動という形であらわれ,最後には納税拒否運動に発展していく.
そして,この計画は軍部,官僚,警察機構の各機関や情報網を攻撃するゲリラ活動の展開によってさらに勢いを増し,その結果,わがビルマにおけるイギリス人の統治が終焉を迎えるという筋書きだった.その時こそ,世界情勢の変化に同調しながら,ついにはわれわれが権力の掌握を宣言できる時だったのである.さらには,英国政府に帰属する軍隊の中で,とりわけイギリス人以外で編成された部隊が,われわれの側に寝返ってくれることをわたしは期待していた.
計画の中でわたしは,日本がビルマに侵攻してくる可能性について考えはした.しかし,この時点でそれを明確に想定することはできなかった(53~54頁)
「「自由ブロック」のメンバーの意見は,日本の援助を受けるべきかどうかで分かれた.共産主義者たち(シュエやバフェィン,タントゥン,テェィンペなどが力をもっていた)は,日本のファシスト政府と協力する考えに反対だった.しかしアウンサンは,援助を差し伸べてくれる所からはどこからであれ援助を受け入れ,事態の推移を見守るべきだという現実的な考え方をしていた」(55頁).
鈴木敬司大佐が機関長を務める対ビルマ謀略機関の南機関の下で,「三十人志士」と呼ばれるビルマ人たちが選抜され軍事訓練を受け,ビルマ独立義勇軍が発足し,日本軍のビルマ侵攻に合わせてビルマに入った.日本の目的は,中国の抗日戦線に物資を送っていた連合軍の援蒋ルートを断つためである.日本の支配に反発を強めていったかれらは,1945年8月「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成した.
「1946年9月,アウンサンは新しい行政委員会の副委員長に任命された.国防と外交を担当することになった.残りの委員のなかには,AFPFLのメンバーが彼のほかに5人いた.行政委員会の共同責任を負い(名目上は総督の諮問機関だった),実質的に,彼らが熱望してきた臨時国民政府に相当する機関だった」(75~76頁).
AFPFL内部の共産党が分裂する(シュエの率いる「急進派」とタントゥンとテェィンペ率いる「穏健派」).1947年1月の「アウンサン=アトリー協定」で実質的な独立を勝ちとり,2月,ピンロン協定を結ぶ.4月制憲議会選挙でAFPFLが圧勝.アウンサンは,7月19日,行政参事会(臨時内閣)閣議の最中に暗殺される.
アウンサン後,ウ・ヌが後を継ぐ.
「アウンサンは,社会主義ビルマのイメージをもち,「……反帝国主義・反資本主義の立場を明確にし,独立ビルマは究極的にすべての土地の国有化と,農業を含む重要産業すべての段階的国有化を目指すべきであることを述べ,そうしてこそ「最大多数の最大幸福」と「真の民主主義」が実現されると主張した」(ibid.:195).もっとも,ビルマはまだ資本主義の段階にも達していない状態だから,当面は資本主義を認めるが,憲法には資本家による労働者の搾取を防ぐ条項が必要だとした(『ミャンマー経済の新しい光』 勁草書房 17頁).
ウー・ヌ政権下では共産党が武装闘争,CIAの支援を受けた中国国民党軍の東北部への侵入などがあった.ウー・ヌの支持母体のAFPFL(パサバラ)は農林業重視の清廉派と農業・工業の同時推進を唱える安定派に分裂する(1958年6月).ウー・ヌは,マルクス主義を指導原理とすることを拒否し,仏教社会主義を主張する.1961年8月,「仏教国教化法案」が議会を通過した.
国政は混乱した.そして,1962年3月2日,軍部がクーデターを決行する.軍事政権のネ・ウィンは,1964年ビルマ社会主義計画党を創設する.その綱領には,「いっさいの物質および精神が「輪廻の法則」によって有為転変し,老いたる者は廃れ死に,新しき者が興り生成する無終なる恒常的流転をするが,そのように人間社会も永遠なる変異性のうちにある.……〈不易の〉社会体系や,〈正当な〉経済体系(奴隷制度,封建制度,資本主義制度など)も冷酷なる変化の法則に逆らうことはできない.大衆の利益を推進しようとする者はかかる社会・政治体系,およびそれを擁護する階級に依存してはならない.社会の利益に奉仕する農民や工業労働者のような働く者たちに拠ってたち,彼らを前提にして考える必要がある」(生野1973:127に引用)(同23頁)」と書かれているように,仏教とマルクス主義の折衷のようなものになっている.これをネ・ウィンは「ビルマ式社会主義」と称して,1988年まで堅持し続ける.農業以外の国有化と外資と外国人商工業者が追放された.また,非同盟方針をとった.これによって,民族主義の基盤である民族資本の発展の道も閉ざされたという(同24頁).
同書にある輸出品目の構成比の表を見ると,1995年に,農畜産物の輸出日が46.2%と圧倒的だったのが,1999年に突然,前年の7%から30.4%に縫製品が急増し,2001年には天然ガスの輸出が前年の9.1%から24.8%に急増している.天然ガスの輸出による外貨収入が大きな比重を占めるようになっていることがうかがえる.1990年代半ばまでに,貿易自由化が進められた.外国投資法(1988年),民間工業企業法(1990年),ミャンマー国民投資法(1994年),1995年工業団地への投資を促進するミャンマー工業開発委員会設置.1997年アジア通貨危機.97-98年成長率減速.2003-2004年不況.2005年以降,資源輸出依存型で回復.
民間部門の自由化によって,1996年度GDP比で24.6%を占めていた国有部門が,2007年度には,7.8%にまで比率を下げている.それに対して,民間部門は同じく68.6%(ただし,これには集団化されなかった農業が民間部門にカウントされている)が90.7%に増えている.
「ビルマ式社会主義」についてネ・ウィンも明確な説明をしておらず,何をもって社会主義というのかが曖昧だった.それについて,前掲書第6章の筆者の工藤年博氏は,「ビルマ式社会主義への道」の冒頭の部分(「人の人による搾取を根絶し正義にもとづく社会主義経済制度を樹立する」)を引用している.これは社会主義としての具体的な中身を明確に示すものではない.その後,革命評議会が行った国有化がその具体的方策だとすれば,軍政側は,搾取の根絶=国有化と捉えていたと思われる.つまり、これだけで、資本主義や社会主義を規定することには無理だし,不可能であることは言うまでもないことである.資本主義を人による人の搾取と規定しただけでは,根底から資本主義を批判したことにはならない.それに国有化を対置することを社会主義と称してもそれを社会主義と規定することはできないのである.
1988年3月12日夜,ヤンゴン工科大学の学生と地区人民評議会議長の息子との喧嘩の処理をめぐって,学生側が翌日から抗議行動に出た.それに対して治安部隊が学生に発泡し,学生一人が死亡した.ヤンゴン大学の学生たちは以下の呼びかけをした.
① ネ・ウィン(Ne Win)を歴史の法則に従い下層にしなければならない.軍政に終止符を打たねばならない.
② 我々の友人が殺されたというのに,我々は何をなすべきか.革命をあきらめて,学業を続けて良いのか.それは,たいへんな誤りである.
③ 我々は,現政府を国外に追放し,我々学生の手でこの国を再建する.
④ 学生を組織し,全国で革命を開始する.
⑤ 我々は,意義のあるそして豊かな新しい社会主義社会のために闘う.
(『アウンサンスーチー演説集』(みすず書房 11頁)
当局は,ヤンゴン大学とヤンゴン工科大学を閉鎖.学生は街頭に出るが,夜間外出禁止令で対抗した.5月30日の大学再開から,学生の反政府運動が高揚する.6月中旬「ヤンゴン大学学生連盟」は以下の要求を掲げた.
① 各大学の学生連盟とその連合の結成承認.
② 3月16日,17日に銃と銃剣で殺された学生,17日夜に治安警察によって強姦された女子学生のための合法的な調査委員会の設置と責任者の処罰.
③ RITとその周辺の住民との衝突に関する,先般の発表とは別の真相調査とその結果の公表.
④ 拘留中の学生の釈放.
⑤ 人権侵害行為の禁止.
⑥ 62年,74年,88年の学生殺戮を指揮したセインルインの処罰.
⑦ ネーウィンがスイス銀行口座を持っていることの事情説明.
⑧ 以上に対する6月17日迄の回答.
そして,もしこの要求が受け入れられなかった場合には,「我々には,赤い血と勇気があることを示す」と闘争継続が宣言された.(同上13頁)
もう一つ同書に引用されている学生側の声明をあげておこう.アウンサンスーチー氏の意見と違う点があるからである.
ヤンゴン大学学生連盟とマンダレー大学学生連盟連署の「抑圧された国民,労働者,国軍兵士,学生」宛ての声明文.
① 26年におよぶ現政権支配のもとで,経済,社会,政治は最悪の状態となった.物価は上昇し,国民は生活苦にあえぐ一方,一部の権力者は社会主義体制のもとで,甘い汁を吸っている.
② ネーウィンは,国民から収奪した金を外国の銀行に預金し,その総額は4億ドル以上にのぼり,世界的な大富豪の仲間入りをしている.他方かつては東南アジアで最も豊かな国が,いまでは世界で最も貧しい国の一つとなってしまった.
③ 軍の独裁支配体制のため,労働者の意識と能力は低下している一方,殺人政府の御用組合である労働者評議会は労働者のために何もしていない.
④ 経済的に行き詰まった政府は,農民を欺き,ひどい目にあわせている.ネーウィン政権のもとでは,農民の生活は何ら改善されておらず,植民地時代と全く変わらない.
⑤ 国民から生まれた国軍は,いまや,ネーウィンの私兵となっており,少数の特権階級の権力を永続させるために働いているにすぎない.国家財政の多くが,ネーウィン軍隊のために浪費されている.
⑥ このようなひどい状況下,労働者,農民,兵士,学生は,団結して革命を組織すべきである.国民の政府を樹立するため,我々はあらゆる方法を用いて闘わなければならない.闘いにすでに身を投じている学生たちに合流せよ.1988年は我々の闘争元年だ.ファシスト政府に反旗を翻せ.国民を抑圧することは火に油を注ぐようなものだ.(同13~14頁)
労働組合が労働者の立場に立っていない時に,学生が,労働者の解放を呼びかけ,革命への参加を促す先駆性を発揮している.
訳者の伊野憲治さんは,1988年3月から1990年までのこの運動過程を参加主体と主な要求とスローガンをあげた表を作っている.学生側はこの過程を革命と意識していた.1988年8月8日,学生のデモ,そして10万人規模の反政府集会が開催された.12日,セインルインは党議長,大統領を辞職した.19日,マウン・マウン政権発足.20日,「複数政党制導入」を要求するデモが行われる.学生側の要求は,一党制の廃止,暫定政権樹立,民主主義の獲得であった.9月18日,ソーマウン国防省率いる国軍がクーデターを決行,国家法秩序回復評議会(SLORC)を創設した.
NLD(国民民主連盟)は,「大多数の国民が同意しない命令・権力すべてに対して,義務として反抗せよ」という「権力への反抗」をスローガンとした.7月20日,アウンサンスーチー氏は自宅軟禁された.
アウンサンスーチーの少数民族問題に関する基本的見解は次のようにまとめることができる.彼女においては,「連邦の精神」といった言葉で諸民族の融和・協調・団結が重要視され,基本的には少数民族の自決権,自治権を認める方向性が打ち出されている.しかし,それを保障する具体的制度・方法は自宅軟禁以前には打ち出されていない.その代わりに,民主的な政府を樹立したあかつきには,各民族の代表者からなる諸民族会議を招集し,そこで諸民族の合意に基づいた新たな憲法を作成することを約束している.その上で,少数民族の諸権利を保障する政治体制の創出のために,勇気をもってともに民主化闘争へ参加するように呼びかけている.
このように,少数民族の諸権利に配慮は見ることができる.つまり現存の国家の枠組み自体への疑問は根本的には提起はされてはいない.それゆえ,少数民族の自治権・自決権といっても,分離独立権までは念頭に置かれていないように思われる.(『アウンサンスーチー演説集』みすず書房 275~276頁)
1990年5月,複数政党制による総選挙実施.NLD圧勝,定数485中392議席,得票率約60%.制憲国民会議が,軍政が指名した701名の議員で開催(1993年1月).1996年から長期休会.2004年再開.1088名.2007年9月,憲法草案決定.2008年憲法.1991年10月ノーベル平和賞受賞.1989年7月自宅軟禁.1995年7月自宅軟禁解除.2000年9月2回目の自宅軟禁.2002年5月解除.2003年5月自宅軟禁.2010年11月解除.
2008年憲法の特徴.
……ミャンマー連邦共和国憲法と呼ばれるこの憲法は,大統領を国家元首とする共和制と,少数民族に限定的な自治を認める連邦制を基本とし,民族代表院(上院)と人民代表院(下院)の二院制から成る議会の設置を定めている.しかし,両院とも議席の25%は国軍が議員を指名できる「軍人の指定席」となっており(それも入れ替え自由),選挙で選ばれるのは各院総議席の75%に限られる.大統領と副大統領は議会から選ばれる仕組みになっているが,大統領には軍事に通じていることが「資格」として義務づけられている.また,内務大臣,国防大臣,国境担当大臣の3ポストに関しては,大統領に任命権がなく,国軍最高司令官が任命されることになっている.国家統治の中枢を担う三つの大臣ポストを軍がコントロールできる仕組みになっているわけである.国軍が非常事態に直面したと判断した際は,大統領は全件をこく軍最高司令官に委譲することができるという規定もある.この規定を恣意的に利用すれば,「合法的」に軍がクーデターをおこなえることになる.(同上28~29頁)
2008年憲法に基づく総選挙は,NLDの政党登録できないように仕組まれた上で実施され,当然,軍関係与党の圧勝に終わった.2011年1月31日連邦議会が開催され,テインセイン大統領が選出された(3月30日,民政スタート).8月19日,セインテイン大統領とアウンサンスーチー氏の会談.9月,国家人権委員会設置.事前検閲緩和.政治犯解放(2011年10月12日,2012年1月13日).政党法改正.NLD政党登録容認.2012年4月1日,政府公定為替レート廃止(二重為替状態解消,市場レートに基づく管理変動相場制へ移行).2012年4月1日補欠選挙で,NLD圧勝.アウンサンスーチー氏も当選(小選挙区制).
ビルマは「親中国」に誤解されることがあるが,現実はそうでもなく,特にビルマ国軍の抱くナショナリズムの中では中国は常に要注意対象とされてきたことを知っておくべきである,(同40頁)
2011年11月オバマ政権のクリントン国務長官がビルマ訪問.アジア開発銀行5億3000万ドル,世銀7億8000万ドルの債務残高.対外債務総額,110億ドル以上.日本,バルーチャウン水力発電所改修工事の再開,ヤンゴンの人材育成センター開設プロジェクトの再開決定.ビルマの対日債務5024億円.元利合計1274億円の債務免除.延滞損害金1761億円の2013年を目途に免除,この2つで債務合計の60.4%の3035億円が帳消し.残りの1989億円(39.6%)は,長期の円借款をプログラム・ローンとして供与し,債務整理を促す.
ビルマの課題.衛生状態の改善,幼児死亡率,妊婦死亡率が高い,マラリア死亡者が多い.教育環境改善.カチン独立軍との戦闘.公務員の汚職腐敗の一掃.
アウンサンスーチー氏の思想の特徴
ナショナリズム,国家,民族の団結と統一を最優位に置く.目的と手段の適正な関係を強調する.非暴力不服従のガンジー主義の影響.思想と行動の一致.規律や秩序を重んじる.上座部仏教,修養による悟り,仏陀を目指す生き方.道徳主義.徳治.知性,教養の重視.民主主義をよい国家に必要な民族の大義としてとらえる.
長期的に見て,アウンサンスーチーがビルマで果たすことができる大きな役割のひとつは,少数民族問題の解決へ向けた行動である.少数民族問題の克服なくしてビルマの本当の民主化はあり得ない.ビルマは独立後,今日に至るまでこの問題に苦しみ,かつ解決方法を誤ってきた.アウンサンスーチーとNLDにとって,この問題を避けて通ることはできないし,彼女自身,避けて通るつもりは全くなく,積極的に関わっていく姿勢を示している.
ビルマはさまざまな民族が住む多民族国家である.政府によれば国内には多数派のビルマ民俗を含め全部で135民族がいるとされている.いうまでもなく,民族分類は鳥や昆虫の分類などと異なり,国家による政治的恣意性がからむので,この135という数字は絶対のものではない.一番多いのはビルマ(バマー)民族で,総人口の約65%を占める.彼らはビルマ語を母語にし,その多くが上座仏教を信仰している.残りは少数民族に分類され,主な民族だけで7つある.人口の多い順に紹介すると,シャン民族,カレン(カイン)民族,アラカン(ラカイン)民族,モン民族,チン民族,カチン民族,カヤー民族となる.彼らの居住地域は主に高原地帯や山岳地帯であるが(アラカン民族は沿岸部),ヤンゴンやマンダレーなどの都市部にも住んでいる.
多民族が住む国家の場合,各民族が自民族への強い所属意識(アイデンティティ)を持ち,「国民」としての意識をなかなか持てない傾向が見られる.そうした傾向が一定の度合いを超えると,少数民族による中央政府に対する抗議や抵抗運動が生じ,それに対する中央政府の抑圧や強圧を引き起こすことになる.最悪の場合は国家の分裂危機を迎える事態に至る.独立後のビルマは,まさにそのような危機の可能性を秘めた深刻な少数民族問題を抱えてきた.
1948年1月に英国から独立したビルマは,最初の14年間こそ主要少数民族の自治権を一定程度認めた連邦制を採用したが,1962年からは「連邦」の名称を国名に残しつつ,政府による中央集権的な支配に切り替えている.政府は多数派のビルマ民族の宗教(上座仏教)と彼らの母語(ビルマ語)を基準にした「ビルマ国民」のイメージをつくりあげ,教育や文化政策,観光政策を通じて国内外に広めてきた.
しかし,少数民族の中には上座仏教徒のほかにキリスト教徒やムスリムも多くいて(それぞれ総人口の5~8%程度),彼らの言語もビルマ語が母語ではない人々がほとんどなので,政府がつくりあげた「ビルマ国民」のイメージに抵抗を感じる人がたくさんいた.また,少数民族の多くが高原地帯や山岳地帯などの「辺境の地」に住んでいることから生じる問題もある.「辺境の地」には地下資源が豊かにあり,ダム開発に向いた河川も豊富にある.さらに中国やタイ,バングラディシュなど隣国との国境が近いため,陸上の貿易ルートとしても価値が高い.それらの利権を目当てに政府が少数民族への支配力を強めようとしたため,地元の反発が強まることもよくあった.
少数民族の中には政府への不満を強め,武装闘争を始めるグループが多く現れた.そのため,少数民族武装勢力とビルマ国軍(政府軍)との間で戦闘が起こり,それが長期化し,戦乱に巻き込まれてしまう一般の人々の多くみられた.ビルマ国軍が少数民族の村々を武装勢力とつながりがあるとみなして,焼き討ちにしたり,村人の強制移住をさせたりすることも頻繁に生じた.村人を連行して武器や弾薬の運搬人として使役することも起き,ときに武装勢力が敷設した地雷の上を兵士より先に歩かせるような非人間的なこともさせた.特にカレン州(対カレン民族同盟=KNU)やカチン州(対カチン独立機構KIO),シャン州(対シャン州軍=SSAなど)で深刻な状況が生じ,1980年代移行,万単位の難民をタイ側や中国側に流出させる要因となった.また「見えにくい難民」といわれる国内避難民も大量に生み出した.こうした犠牲者を少しでも減らすことがビルマの大きな課題となっている.2011年3月に「民政移管」がおこなわれて以降,テインセイン新政府と少数民族武装勢力との間で停戦や和解交渉が進んでいるとはいえ,現実は楽観的な状況に至っているわけではない.
アウンサンスーチーはビルマの政治や経済の問題を考えるとき,少数民族が置かれているこうした立場を常に重視してきた.彼らの状況や立場に関心を抱き,配慮する姿勢が,ビルマ政治の舞台に登場した当初から彼女の発言や行動のなかに見受けられる.ビルマ独立前の1947年2月に,彼女の父アウンサンが少数民族代表とのあいだで行ったパンロン会談というものがある.そこではパンロン協定というものが結ばれ,ビルマがビルマ族とそのほかの諸民族から構成される連邦国家として独立することへの合意がなされた.その協定に含まれた精神をアウンサンスーチーは重視する.パンロン会談では多数派のビルマ民族とそのほかの少数民族とのあいだの関係の平等性が強調され,相互の協力と連帯が謳われた.
しかし,独立後の現実は,パンロン会談の精神とは逆の道を歩み,ビルマは東南アジアで一番深刻な少数民族問題を抱える国と化し,1980年代後半からは難民流出大国になってしまった.こうした現実にあって,アウンサンスーチーは国民に対し,将来「第二のパンロン会議を開く」という表現を用い,徹底した話し合いに基づく問題の解決を約束している.ナショナリストであるアウンサンスーチーにとって,これまで政府が掲げてきた「民族の団結と連邦の強化」という国家目的については「正しい目的」として共有することが可能である.しかし,政府が治安維持を最優先し国軍の武力を活用して少数民族の主張を封じ込めてきたことに対しては,その手段を「正しい」とは認めていない.多数派のビルマ民族と少数民族それぞれが相互にリスペクトしあう平等な関係を築くために,徹底した話し合いを行う「正しい手段」を用いてはじめて,問題解決への道が切り開かれると彼女は考えている.(同上125~130頁)
『南部アジア』第Ⅳ部 社会の「開放」と「民主化」の行方 第9章 ビルマ(ミャンマー)・カンボジア からの抜粋(165~181頁)
1948年1月の独立は,連邦制に基づく多民族国家の統合と複数政党制に基づく議会制民主主義の船出となるはずであった.しかし,独立直後から共産党勢力や少数民族の武装蜂起に直面した脆弱な民主主義体制は,ビルマ族内部の対立も民族間対立も有効に制御できぬまま,62年の軍事クーデターで崩壊した.
ビルマにおける民族紛争の原点は,イギリスの植民地支配下でビルマ族が占めるビルマ本州と山岳少数民族が居住する辺境地域とが分割統治されたことに遡る.ビルマ本州では王制の廃止と議会制に基づく自治が導入されたのに対し,辺境地域では族長による伝統的支配が温存された.第2次世界大戦では,民族解放運動を主導したビルマ族が日本軍に協力する一方,大戦末期になって全民族が抗日運動に結集したが,社会的亀裂はすでに深刻な対立構造を形成していた.
イギリスからの早期独立を実現するため,1947年2月のパンロン会議でビルマ族と少数民族諸派は連邦制による民族融和をめざす歴史的合意に達した.しかし,民族の平等を謳ったパンロン合意の精神に反して,47年憲法は,多数派ビルマ族の絶対的優位と少数民族間の差別とう二重の不平等性を抱えた非対称な連邦制を導入した.
シャン,カレンニー,カチンの3民族には州の地位が,チン族には特別区の地位が付与されたが,10年間の猶予期間を経て連邦から離脱する権利を保証されたのは前2州だけだった.パンロン会議と制憲議会を欠席したカレン族,モン族,ラカイン族の連邦内の地位は明記されず,州の地位を付与された少数民族の自治権と自決権も制約されたものだった.ビルマ族は国民議院と民族議院の双方で多数派を占め,二院制国会の抑制均衡は期待できなかった.しかも,大統領は州議会で可決された法案に拒否権を有志,首相が民族州知事の任命権をもつことで,ビルマ族主導の中央政府は民族州の行政に介入できた.
1948年3月のビルマ共産党(CPB)による蜂起に続き,49年1月にはカレン,カレンニー,モン,パオ,ラカインの少数民族組織が武装闘争を開始した.これにより,国軍将兵の約4割が離脱し,政府の実効支配地域は一時国土の3分の1程度にまで縮小した.連邦にとどまったシャン,カチン,チンの穏健派指導者は,他の少数民族諸派にも呼びかけて対称的な連邦制を求める改革運動を展開した.しかし,61年に仏教国教化に反発したシャンとカチンの急進派が武装蜂起し,改革運動が連邦離脱権を行使する構えを見せると,国家分裂を懸念する軍部は正当政府の妥協的対応に不信感を募らせた.
……
第1に,ビルマ族・少数民族双方の指導者たちは,民主主義の理念を必ずしも受容していなかった.ビルマ族の軍・政党指導者は,1930年代に反英独立運動に参加した民族主義者で,植民地宗主国の理念である民主主義に根強い不信感を共有していた.他方,植民地時代からの権威主義的支配を継続してきた少数民族の指導者も,分離独立闘争を勝ち抜くために民主主義よりも民族への忠誠と結束を優先した.
第2に,ビルマに導入された民主主義は,多数派総取りの多数決民主主義(ウェストミンスター・モデル)であった.これは,同質社会における中央集権的政府を形成するには適しているが,多民族連邦制の運営には不向きであった.独立当初は,大統領,首相,軍参謀長を民族間に割り振る工夫も見られたが,内戦が始まると全権をビルマ族が独占した.
……
(1962年軍事クーデター)……ネー・ウィン政権は,少数民族から一切の自治権を剥奪し,徹底した軍事攻勢とビルマ化を行なった.……
……
1974年憲法は,ビルマ本土を7つの管区に分け,7つの民族州(シャン,カレンニー,カチン,カレン,チン,モン,アラカン)と併置することで連邦制の外観だけを維持ししつつも,一院制に基づく事実上の単一国家制を構築した.また,一切の自治権を剥奪された少数民族への同化政策が強化された.ビルマ民族の文化をビルマ連邦の国民文化とすべく,少数民族語教育を制限し公用語であるビルマ語教育を推進した.同時に,徹底した軍事攻勢の一環として,少数民族武装勢力と地元民との連携を断ち切るために,食料,資金,情報,兵士調達を妨害する「4つの分断」作戦が実施された.
しかし,軍政が意図した同化による国民統合は,逆に内戦を激化させ国家を分裂へと導いた.国軍の侵攻を食い止めることに成功した国境山岳地帯では,少数民族武装各派が解放区をつくった.同寺院,ビルマ化は従来反目しあってきた少数民族間の連携を促す結果にもなった.ビルマ族の反体制勢力と一部の少数民族諸派が結集した民族民主戦線(NDF)が創設された.NDFは,ビルマ族の参加がない点で真の民族統一戦線ではなく,構成組織間にはCPBとの連携の是非をめぐる路線対立に加え,支配領域をめぐる軍事衝突も絶えなかった.しかし,84年頃までに,分離独立ではなく連邦国家の樹立を基本路線に据えることで少数民族各派は合意した.
……
(1988年からの民主化運動)
民主化運動が挫折した原因は,長年にわたる市民社会の破壊によって,暴徒化した大衆を統制する社会団体も反対政党も存在しなかったことにある.アウンサン・スーチー女史を担ぐ民主化勢力は大規模な大衆動員に成功したが,急進化した未組織大衆を統制できずに,国軍の治安出動に口実を与えてしまった.さらに,民主化勢力内の結束の弱さに加えて,少数民族勢力などの既成の反体制勢力との連携も実現しなかった.民主化勢力との連携に関して,武力攻勢による側面支援に徹するか,武装闘争を一時凍結して政治的連携を強化するかをめぐってNDFの方針はまとまらなかった.結局,民主化勢力と少数民族組織は軍事支配体制の打倒という目標を共有しながら,民主化と民族融和という2つの争点を連動させることはできなかった.
……
2008年5月,軍政はサイクロン被災のなかで国民投票を強行し,新憲法を成立させた.第1章「連邦の基本原則」で「連邦の分裂阻止」や「民族の団結」と並んで「複数政党制民主主義」が国家目標に掲げられたが,それは草案通りの国軍が支配する権威主義体制であった.
……
……軍部は著しい兵力増強と少数民族に対する分断工作を通じて,内戦の鎮静化には成功してきた.中国からの経済・軍事援助を受けて,SLORC発足から10年間で,国軍の総兵力は18万6000人から35万人へと劇的に拡大した.1989年のCPB崩壊を契機に,SLORCは少数民族武装勢力との停戦協議を開始する一方で,停戦に応じない勢力に対しては増強された軍事力を背景に容赦ない攻撃を加えた.
その結果,1995年末までに15の少数民族武装組織が停戦協定を締結した.そのなかにはNDFの中核を担ってきたカチン独立機構もあった.停戦協定はあくまで軍事面の取り決めに過ぎなかったが,協力の見返りとして広範な自治と国境地域開発計画に基づく物質的支援が約束された.また,90年総選挙に参加した35を超える少数民族政党のうち8つを合法政党として認可した.その結果,NDFの団結は急速に弱体化し,国民会議に招聘された諸政党と停戦協定に応じた武装組織とが連携する一方で,カレン民族同盟(KNU)のように武装闘争を継続する組織は孤立した.
国民会議において,軍政は連邦制の復活を提起し,ビルマ族が多数派を占める7つの管区域と7つの少数民族州に平等の地位を付与することを約束した.州と地域は自前の議会をもち,各州・地域に居住する少数民族には自治行政区や管区を設立する権利を与えた.また,人口比率で選ばれる人民院と,14の州管区域に堂数議席が配分される民族院からなる二院制を復活させるとした.これに対し,少数民族政党の草案は,民族州の分離独立権は認めず,あくまで連邦内の自決権と自治権の強化をめざす点では軍政に歩み寄った.しかし,連邦の構成を8つの対等な民族州とし,民族院におけるビルマ族と各少数民族州の権力配分を政府案の7対1から1対1とするよう求めた.
国軍が全権を掌握した後,少数民族勢力とビルマ族民主化勢力との連携は一定の進展を見せた.1988年11月,軍の弾圧を受けて少数民族解放区に逃走したビルマ族学生運動家とNDFとの間でビルマ民主同盟(DAB)が結成された.89年2月には少数民族政党18党の連合体として連邦諸民族民主連盟(UNLD)が結成され,NLDとの間で民主化と少数民族問題が協議された.90年2月,NLDとDABはビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)を設立,92年7月,民主的なビルマ連邦の樹立をめざすマナプロー合意に調印した.
しかし,軍政による停戦協議によって,NDFは分裂状態に陥った.武装闘争を続ける少数民族組織には,開発を優先して政府との停戦協定に応じた組織への不信感が醸成され,麻薬栽培の利権や支配地域をめぐる少数民族組織間の伝統的対立も助長された.また,国民会議が開催されると,少雨数民族政党とNLDとの立場の相違が浮き彫りになった.民主化と民族問題の同時解決を求める少数民族政党に対して,NLDは民主化を優先し,連邦制の導入や少数民族の自治権拡大はあくまで2次的な課題と位置づけた.こうして民主化勢力と少数民族勢力は強力な統一戦線を構築できないまま,国軍に対する交渉力を弱めていった.
2008年憲法は,少数民族政党の要求を無視して,7管区域・7州と6つの自治地区・自治地域からなる非対称な連邦制を採用した.立法府は,人民院と民族院の二院制で,どちらも総議員の4分の1は軍人議員である.また,人民院の定数は民族院の約2倍で,民族院は管区域と州から各12名,自治地区や自治地域から各1名が選出されることになっており,ビルマ族に優位な地位が保証されている.
……
ビルマでは,民族,宗教,言語,文化など帰属的特性に由来する社会的亀裂に,植民地時代の分割統治がもたらした領土性が伴った.独立後ビルマの国民統合にとって,こうした領土性を伴う複合社会構造が,他の分断社会よりも深刻な障害となってきたことは否めない.大虐殺を引き起こしたとはいえ,クメール民族同士の権力闘争とイデオロギー闘争が招いたカンボジアの国民分裂とは異質であった.国民統合は民主化を実現するための重要な前提条件であると言われるが,民主的移行の兆しすら見えないビルマと,民主主義の定着段階にあるカンボジアとの相違は,こうした社会的亀裂の質的な相違によって説明することが可能である.
しかし,国民統合が民主化の前提であるとしても,制度としての民主主義が国民形成の未熟な国家に与える影響は一定ではない.事実,独立後のビルマにおいて,民主主義は国民統合に対する遠心力として作用し,内戦終結後のカンボジアでは民族和解の求心力として作用した.民主主義が国民統合に与えたベクトルの相違は一体何であったのか.
複合社会を抱えるビルマにおいて,民族という永続的なアイデンティティに対する強制的な同化政策が有効でなかったことは,1962~88年までの軍事支配体制下で採用された単一国家制とビルマ化政策が,少数民族の結束と内戦の激化を招いたことで実証された.89年以降,軍部は国民統合の実現を再び連邦制に求めようとした.しかし,48~62年まで採用された連邦制と民主主義体制の組合せが,一部少数民族の武装蜂起と連邦離脱を阻止できなかったばかりか,ビルマ族内部の対立を有効に制御できなかったばかりか,ビルマ族内部の対立を有効に制御できなかった経験から,軍部は民主主義体制への移行に反対してきた.
しかし,民主主義が連邦制による国民統合を阻害したという単純な図式で理解されるべきではない.民主主義も連邦制も,多様な制度的バリエーションがある独立直後のビルマで採用された制度は,多数派とビルマ族の優位を保証する非対称な連邦制と多数派総取りの多数決民主主義であった.同質社会における多数決民主主義は多数派と少数派の固定化を回避できるが,ビルマのような複合社会では少数民族を常に統治権力から排除することになった.民主主義が国民統合に対する遠心力として作用した原因は,こうした制度の組み合わせにあった.そして,1962年以降のビルマ族と軍部の接待支配を保証する単一国家制と間接・直接軍事支配体制の組み合わせを経由した後,2008年県の右派ビルマ族と軍部の相対優位を保証する非対称な連邦制と「真の規律ある民主主義」と軍政が呼ぶ権威主義的体制との組み合わせを選択した.
……
ビルマの抱える今後の課題は,国民統合と民主主義への移行を同時に実現させることにある.長期軍事支配体制への国際社会の批判もさることながら,ビルマ族に有利な非対称な連邦制であれ,少数民族に有利な対称な連邦制であれ,連邦制に内在する不平等性を調整するにせよ制度的装置として民主主義制度は不可欠である.そして,非対称的連邦制を合意民主主義で調整するにせよ,対称的連邦制を多数決民主主義で調整するにせよ,軍部,民主化勢力,少数民族の三者が新たな制度設計について政治的妥協をはかる必要がある.
ビルマの民主的移行を実現する鍵は,国軍が政治の舞台から兵舎へと退場することにあるが,国軍の政治関与を保証した新憲法の下で,「規律ある民主主義」が「真の民主主義」へ近づいていくには,政務を担う軍部(「制度としての軍部」)とが,機能的にも分離される必要がある.その試金石は,当面はSPDCを離脱した退役軍人中心の連邦団結発展党が,軍部から自律性を獲得できるかにかかっている.同時に,「規律ある民主主義」のなかで民主化勢力や少数民族組織を代表する諸政党が,議会の場でUSDPとの協議を可能にするだけの政党支持者を動員し,かつ統制し得る力をもつことができるかにかかっている.
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