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アフリカの植民地支配の問題など

 この間、『インド史』(山川出版)をざーと読み、インドの多様さに驚かされたけども、さらに、次回「難民講座」で、アフリカでなぜ難民が大量に発生するのかの理解を深めたいと思い、出たばかりの勝俣氏『新・現代アフリカ入門』(岩波新書)を読んだ。そこでも驚くべき多様性にぶつかり、めまいを感じた。ある時から、こういう多様なものに触れるのが好きになり、抽象的なもの、単純なものに対する興味が後退した。現象学的な抽象的なものへの還元というものに興味がいった時期もあったが、やはり現実的なものに対する興味の方が今は強い。『東北学』もそうで、表面的には似たり寄ったりになってきたかに見える東北の表層を探っていくと、思わぬ差異、多様性、豊かな具体性にゆき当たるということがある。これがマルクスが言う顕微鏡的方法なんじゃないかと思ったりする。だから、いま運動圏で流行りの「市民」という抽象物はあまり好きじゃない。そこでは抽象的な連帯性しかなく、生き生きとしたものをあまり感じないからである。「日の丸」も嫌いである。あんなマル印に価値を感じることは、自分の感性の豊かさをないがしろにするものでしかないと思う。俺は、あんな程度のデザインを愛でる程度の貧弱な感性の持ち主ではないんだという反発を覚える。右翼でも左翼でもないという抽象も嫌いである。右と左のどっちでもないという抽象的立場よりも、右と左という差異があるだけ豊かで具体性があるんだと思う。どっちでもないという抽象的立場はそれよりも後退していると思う。右でも左でもないというのは、元左翼(転向者)が転向という立場変化を自己表明し、総括した上でないと素直に聞けない言葉である。そうでなければ、かつて言ってきたことを思い出してもらって、その責任をとってもらわなければならない。

 ただ、並行して、ネグリが来日したこともあり、ネグリ、ドゥルーズなんかの現代思想も読みなおしているが、それには、岩波書店の雑誌『思想』で國分功一郎氏のドゥルーズ論がわかりやすくて、なるほどと思ったことがあった。最新号で完結したのだが、最後のところで、フーコーの権力論とそれへのドゥルーズの批判のことが書いてあり、さらに、根本的なところで違いがあるというのもわかった。それはコトとモノという古典的とも言えるテーマに関わる。物自体というテーマについては、カントの折衷的立場、物自体はあるかもしれないが、われわれは現象しか認識できないというもの、レーニンが不可知論への妥協的立場として批判したものがある。レーニンの『唯物論と経験批判論』はそれを主張したものだが評判がよくない。しかし、そこで、物は実在するという唯物論的立場を貫くことは、確信、態度の形成ということとして言われていた。最後のところで、それは党派的立場、党派の形成と実践的態度の形成の課題として提起されたのである。レーニンは、マルクスが『フォイエルバッハ・テーゼ』で言ったように、観想的立場ではなく、実践的態度で、理論・哲学・認識論の問題を扱ったのである。中身が多少お粗末であっても、この基本的立場と態度を貫き通したことが重要であり、これこそ継承すべきものである。理論は感性的活動の成果であって、感情、感覚、心理的態度、幻想、イメージ、意志、情熱、等々と切り離せない実践的主観(主体)としての人間活動なのである。主観か主体か、この点も議論があり、ここでは加藤正に従って、どっちもあまり違いはないということで、主観としておく(理論の党派性論争については、以前に、『情況』に2度書いている)。日本共産党は、それができず、絶えず、セクト主義的な党派性を基本にして、ブルジョアジーや帝国主義に屈服し続けている。唯一絶対正しい日本共産党は、傷つけたり、潰されたりしてはならないという自党派防衛(セクト主義的エゴ)が優先され、人民闘争の利害、階級闘争の利害、大衆運動の利害は、それに奉仕すべきもの、従属すべきものとされてしまうのである。そして、共産党一般党員は、ただ動員に従い、機関紙を配り、金を集めるだけの存在であればよく、歌って踊って、人集めをしていればいいというだけの存在におしとどめられるのである。社会矛盾を感じて大衆運動に参加してくる人は、そこで感じたものや得たものをさらに伸ばそうとし、知識も増やし、経験を積んで成長しようとするが、それが党の限界をはみ出すと、後ろから闘う者の足を引っ張ってきたのが、日本共産党の歴史なのである。かれらは、現存の社会関係を超える高い水準の社会関係を作ることはまったくなく、せいぜいがそれを現存のブルジョア的恋愛関係という低いレベルの社会関係に押しとどめる。その点では、フォイエルバッハと同じ限界を持っている。フォイエルバッハは、恋愛関係を最高の人間関係に祭りあげたが、マルクス・エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』でそれを乗り越えて、さらなる高度な社会関係の立場へと飛躍している。共産主義者は絶えずそれを超えようと努めようとしている。その努力をしない者は共産主義者ではない。

 アフリカ諸国の多くが、先のアルジェリアの人質事件でも明らかになったように、宗主国が親宗主国的で傀儡的な政権を軍事的や謀略的な方法でも常に維持し続けてきた相変わらずの植民地状態にあるということが顕になってきた。第2次世界大戦後の独立運動弾圧で、大虐殺もやっている。それが、ヨーロッパでの移民差別とつながっていることは、先日、日仏会館で観た映画『スカーフ論争~隠れたレイシズム~』やピエール・デヴァニアン氏の講演からもうかがえた。映画の中で、フランス共産党長老のレイシズム的発言が引用されていた。映画では、教職員組合員も含まれると思われる学校教師たちから、スカーフを着用しているという理由で、別室に隔離され、一方的に退学させられた元生徒の証言があった。イスラム原理主義=テロリズム=フランスの「進歩的」「民主」社会への脅威という図式、イスラム=家父長制=女性差別の象徴としてのスカーフというイメージは、左翼にも浸透し、フェミニズムも分裂したという。しかし、このことは、帝国主義を、明確に、批判・暴露し、解明し解くことが、インドでもそうだが、アフリカを理解する鍵になっていることを意味しているとしか考えられない。ポスト・コロニアルは、実際に帝国主義と植民地支配がなくならないと始まらないのである。

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