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2013年6月

たばこは肺がん原因の多数ではないこと

   よくわかっていなことの一つの原因がわかると、全部それのせいにして、すます、ということがある。それは、われわれの思考が陥りやすい罠の一つであると思う。そして、それは判断を誤らせる。その時、見えていなかったものが突然目の前に現れて、パニックを引き起こしたりする。デリダの言う、「マルクスという亡霊」もそうやって現れるのだろう。「死んだはずだよ、お富さん」というのもそれか。共産主義は忘れた頃にやってくるのである。

 たばこが問題になったのは、発癌性が指摘されたからで、それがいつの間にか肺がんの主原因と決めつけられた。それに、「健康増進促進法」で公的なおすみつきが与えられ、上からも半ば強制的に世間一般に押し付けられてきた。健康になることは義務か権利かと言えば、明らかに権利である。戦時中、徴兵逃れのために、しょうゆを大量に飲んで、不健康を装ったという話がある。病気は、軍国主義への抵抗の手段となったわけである。健康で剛健な兵士を出さないということである。ブラック企業に健康で優秀な企業戦士を供給しないというのも、一つの人間的な抵抗である。ブラック企業は人間的な社会性に反するから。

 たばこの場合はどうか。たばこさえ吸わなければ減って行くと思われた肺がんが、非喫煙者でもなる人が多いことが問題になっている。たばこ以外の原因、特に女性の場合、非喫煙者で肺がんになる人が8割もあり、肺がんを減らすには、そっちの原因を明らかにして、対策を取らなければならないということが、NHKの「ためしてガッテン」という番組で取り上げられている。たばこさえ規制すればいいというのではなく、肺がんを減らすには、たばこ以外の原因にもっと注意を向け、対策をしなければならないということである。肺がんを減らすのが、禁煙運動の目的だったはずで、それがいつの間にか自己目的化してしまっているのである。こんなことはいちいち指摘したくもないのだが、思考停止して、考えるのではなく、信仰している人がいるので、言わざるを得ないのである。レーニンが指摘しているように、物ごとのできるだけ多くの面、多様な面を見て、それで、考え、判断を形成するようにしないといけないのである。このことを指摘しただけでも、レーニンの功績は偉大なものなんだけども、学ばないで、切って捨ててすまして平気な愚鈍な人が多いようだ。あれだけのことをやった人だから、学べるものはいっぱいある。学んで上で、どうこう言えばいいだけのことだ。

 たばこさえ吸わなければ、と、そればかりに目を向け意識を集中している間に、別の原因の肺がん対策に目が向かなくなってしまっている。被曝問題でもそれに似たことがあり、総合的に物事をとらえ、考え、解決していくということを難しくしている面がある。思考を訓練して、総合的なものの捉え方を身につける必要がある。一面に目を奪われて、別の面を見忘れる。そうすると、そっちに対して無防備となり、そっちから病に侵されやすくなるということである。

 生の充実、生の意味、人生観、哲学、そういうものを基礎にして、それとも関連させて考えて、なんのための健康かを考えた上で、こういうことについて判断しなければならない。その点で、ミッシェル・フーコーやレヴィ・ストロース、あるいは白川静氏などの言うように、今、病や障害とされていることが実は人類の一般的性格であって、今正常とされていることが実は非一般的な性格で、それが逆立ち、逆転したのが、近代以降であるというのは正しいのではないか。誰しもちょっとは病いであって、人はそれと一生付き合っていく存在であり、理念として描かれる完全な健康人なる絵をイコンのように信仰して、それを基準にして右往左往するのは見苦しく、不幸な生き様と言えないだろうか。日々充実した生を生きられていれば、恐怖に怯えることなく、「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(『論語』)という意味に溢れた幸福な生を得られるのではないだろうか。少なくとも、私は、生の充実を日々感じるし、幸福感を味わいつつ、生きている。

「ためしてガッテン」http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20091125.html

肺がんは「たばこ吸ってる人だけがなるんでしょ?
と思われるかも知れませんが、それは大きな誤解!!
実は女性の場合、喫煙は肺がんの原因のたった2割なんです。
そして残りの8割は・・・なんと不明!
(男性の場合、7割が喫煙 3割が不明)

たばこを吸わない女性に多い肺がんは、自覚症状がないことが多い上に、X線にもがんが写りにくいため、見つかった時はすでにがんが進行している場合もあるんです。

たばこを吸わないのに肺がんになった方の中には、医師にも原因を告げられず、理不尽な思いを感じていらっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。
そんな中、最近ある物質が、女性に多いこの「謎の肺がん」に関与している可能性があることがわかってきました。

今回はメカニズムから早期発見法まで
謎の肺がんにできる限り迫ります!
                           

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番組ディレクターからのひとこと

                               
                               
                                    

誰でもなる可能性があるから・・・

非喫煙者で肺がんと診断された方のお話を今回、たくさん伺うことができました。
みなさんが共通におっしゃることは、
「なんて家族に説明していいかわからない・・・」。

たばこを吸っていないのに、
周りにたばこを吸っている人がいないのに、
自宅の周辺に工場も、当然大気汚染もないのに、
何で肺がん?

このタイプの肺がんは確かにまだわからないことがたくさんあります。しかし、患者さんが強く感じている理不尽な思いを番組を通して、一人でも多くの方に知って頂きたいと思っています。

この肺がんは、誰でもかかる可能性があるからこそです。

                               
                                                           
                                                    

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主体について、スピヴァクから学ぶ

 アフリカ問題についての本をいろいろ読んでいた時に、まず考えたのは、アフリカの解放運動の主体はどういうものかということと、解放の条件はどうか、ということであった。『アフリカ史』の編者川田順三氏は、人類学者で、その立場を踏まえて、書いている。特に、「言語論的転回」を踏まえられているようで、言語への強いこだわりが見られる。序文では、漢字学の成果も取り入れていて、表意文字と音声文字の違いにも言及されている。そして、アフリカの場合、無文字時代が長く、文字を持ってから短いこともあり、口唱による伝承も重要であることを指摘している。それから、太鼓言葉のようなものまであることを指摘している。他方で、古代エジプトでは、ヒエログラフという絵文字が古くから用いられている。ナイル川上流部の文明も古く、クシ王国などは、エジプトを征服し、王朝を築いているということもある。人の移動も活発で、バントゥ系集団は、四方八方に長距離移動している。そして、海の交通である。インド洋沿岸では、中国や東南アジア、インド、アラブなどのものが多く出てくる。マダガスカルは、それらが独特の形態で混じりあっている。それらは、変形しつつ保存されており、現在まで伝えられ、残されている。

 『スピヴァク みずからを語る』(岩波書店)を読み終えた。そこには、サバルタンの簡潔な定義がある。

 最初のショポン・チョクロボルティ(ジャドプル大学教授)によるインタビュー「家」では、生い立ちのことや故郷のことなど自伝的なことが中心に語られている。スピヴァクは、彼女にとって、家とは、方向のようなもので、名前もなく、空中のようなものである(23ページ)と言う。つまり、本拠地となる家は、家と名づけることにあり、それは想像力を育てるものだというのである。「ですから、想像力が文学を読む者になにかをなすとすれば、それは、その人の想像力を鍛え、他の人々の世界に入らせるのだと思います。本とはそういうもの、詩とはそういうもの、過去とはそういうものです。そしてその観点からすると、家という概念は無限に拡大が可能です」(26ページ)。

 インタビューは2003年に行われているが、彼女は、「脱構築主義の流行は終わったと、私は思っています」(27ページ)と述べている。そして、政治論である。「政治とは、変化を計算することにいやおうなく組み入れられる場です。つまり、法がどう変化するのかを計算し、立場は変化するにもかかわらず、なんらかの立場を取るとどうなるかについて計算することに、いやおうなく巻きこまれてしまう場なのです」(28ページ)。しかし、その政治が長い目で見て効果をもたらす道は、ただ「長いスパンでの教育、すなわち、強制力をともなわずに欲望を再配置することが同時進行してはじめて、政治の変化は長続きします」(同)。その教育とは、発話の可能性という人間を人間たらしめるものを育てることである。それは、「教師の身についてしまっている精神構造を変える}(47ページ)ことで実現できる。

 2001年9・11後のアメリカでの愛国主義の熱狂に対しては、「愛国心」とは「悪党の最後の逃げ場」であるとし、「パトリオティズム」の語義が「パトリア」(父)と「主義」(イズム)の組み合わせてあり、父祖の土地といった意味であること、それは、デシュプレム(自分の国(カントリー)にたいする愛)とはまったく違うことを指摘して批判する。

 スザーナ・ミフレスカ(ジェンダー研究センター講師)のインタビュー「抵抗として認識され得ない抵抗」では、最初に、グローバル化について語っている。

強国が弱小国家に結局はあまり関心がないことに、弱小国は気づいていません。強国の関心はむしろ、新興の市場をいかに分配するかにあるのです。分配するには新興市場の経済は「安定させられ」かつ停滞させられねばなりませんし、アフリカの市場経済の場合だと、グローバル資本にしたがって構造化しなおされてはじめて、興りうるのです。支配的な国家は、ナショナリズムの紛争を軽蔑視するか、同情を装って資本主義の視線で見ます。(69ページ)。

 そして、彼女の出した有名なサバルタンについて語る。『サバルタンは語ることができるか』のもとになった講演は、「女が抵抗を行なっても、社会基盤がないために抵抗が人々に認識されないのであれば、抵抗は実を結ばないということでした。講演の主眼はそこにあって、たとえ階級が上であっても女であれば同じことだという事実を無視しては、この社会問題は解決しない」(70ページ)という趣旨だったという。サバルタンとは、「社会を自由に移動できない人のことです。これは男の場合、階級が低ければ当てはまります。もちろん、家父長制はつねに、なにがしかの移動する力を男に担保します」(同)。

 「労働する人体の特徴は、必要以上のものを作りうることです。この差異のことを、私はこれまで主体の過充足(自分が必要とするより多くのものを作り出すこと)と呼んできました。この差異をもとに、不等価交換をつうじて剰余価値が引き出されます」(85ページ)と、ここでは、マルクスの概念が出てきて、それにジェンダーの千年単位のスパンでの特徴として、、経済的政治的ばかりではなく、倫理的な規範があることが指摘されている。

 最後のインタビュー(タニ・E・バーロウ(ワシントン大学教授)「知識人としてきちんと答えたとは言いがたい回答」では、彼女は、「国際NGOに取りこまれるよりは、国家と批判的な関係でありたいと、いまでも思っている」(103ページ)「新しい社会運動に慎重」(同)だと述べている。そして、「でも私は昔風の共産主義者ですよ、悪いけど」(107ページ)とさらりと言う。それから、彼女が取り組んでいる貧しい者たちへの教育活動のことで、彼女は貧しい土地の学校教師に、「彼らが受けてきたような教育と、上位階級の子どもたちが受けるような教育とのあいだの差によって、富める者と貧しき者の差が、そのまま維持される――このことを教師に気づかせる」(118~119ページ)と述べている。大事なのは、「強制でない欲望の再配置」であるという考えからそうしているのである。こういう思想も、レーニンと似ている。レーニンは、「強制によらない諸民族の融合」と言う。それには、そういう欲望を適切に配置しなおさなければならない。支配民族の譲歩(民族序列の下位への移動)という欲望の再配置が必要だというのである。これによって得られる交換物は、被支配民族の民族主義の譲歩である。それで、平等へ近づける。レーニンの民族問題の政治思想はそういうものである。

 教育が階級階層差別を再生産するのは、同じ本が使われていても上流階級の学校では、「子どもたちが理解するように教えられているのにたいし、ここでは綴りと暗記しか教えていない」(119ページ)からである、とスピヴァクは言う。これも素晴らしい! そして、西ベンガル州は、中国に次ぐ世界第二の共産圏であるが、そこで共産主義が失敗しているのは、共産党が社会を動員することしかせず、人々の認識を変化させられなかったからだと言う。そのことは、国際的な共産主義が失敗した理由でもあるという。

 国際的な共産主義が失敗した理由は、認識の変化がなく、ただ社会が動員されただけだったからなのです。集団性は人為的で、長続きせず、あまりにも拙速で作られます。だからこそ、人々が悪しき資本主義を欲するように仕向けるのは、実に簡単なのです。(125ページ)

 彼女は、人々が悪しき共産主義を欲したのではないと言う。「進歩を急ぐあまり、上から人々に押し付けられた」(同)というのだ。そのために、悪しき資本主義であっても、共産主義をつぶすのは簡単だったというのである。そして、「国際的な共産主義が失敗した最大の理由の一つは、サバルタンの主体性にかかわらなかったからだ」(126ページ)と言う。動員だけして、主体性を創造できなかったというのである。その場合の主体性は、「主体形成、つまり、みずからを参照する足場を作り、そこから、みずからを意識する社会の行為体(エージェンシー)へと向かわせるという主体形成」(127ページ)のことである。

 かつての日本での主体性論争でも、こうした主体性ではなく、精神、知識、意識の内容に論議が集中して、精神構造的な領域についての議論が希薄であった。もちろん、それを、封建的主体性から民主主義的な市民的主体性の形成という形で問題にした丸山真男のような人もいた。市民的主体性の形成が戦後民主主義を支え発展させるものと思われたのである。しかし、その場合に、サバルタンは置き忘れられ、形成された市民社会は、サバルタンの入れない、入りにくい仕組みを持つものとなり、それに無自覚でそれを直そうとしなかったため、70年代以降、市民による差別、市民の差別性が、障害者解放運動などからつきつけられることになる。去年、川崎市でバスターミナルを占拠した障害者たちの闘いの記録映画を観たが、その中で、市民と称する女性が、市民に迷惑をかけるようなことをしないで、要求があるなら、国会に行ってやればいいじゃないとマスコミのインタビューで語るシーンがあった。この一般市民は、障害者たちが国会に行くためには、バスが乗車拒否をしないで、バスに乗れないといけないということを想像できなかったのだ。映画が終わった後、講演した障害者団体の幹部の人は、「市民が差別する」と言った。良き市民像は、健全なる精神を持つ合理的思考が可能な男性健常者をモデルとして形成されている。スピヴァクは、マルクスが「フォイエルバッハ・テーゼ」の第3テーゼで述べたことを実践しているが、それは、自らの市民的立場を対象化し、批判して、自己改革することを怠っている市民主義者に当てはまる。

 環境の変更と教育とについての唯物論的学説は、環境が人間によって変更されなければならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、わすれている。したがってこの学説は社会を2つの部分――そのうちの一つは社会のうえに超越する――にわけなければならない。

 環境の変更と人間的活動あるいは自己変更との合致は、ただ革命的実践としてのみとらえられそして合理的に理解することができる。(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳 岩波文庫 236ページ)

 もちろん、民主的市民主義者が、サバルタン性を理解して、それと適切な連帯関係を作れるように自己変更をすることができれば、農村=遅れた人々=保守基盤というステレオタイプなイメージから解放され、自己の解放にも役立つのである。実際のところ、福島の農村部はそんなに保守的ではない。東電と対立して知事辞職を余儀なくされた佐藤栄佐久元知事もけっこうリベラルであった。彼の知事時代に県立高校は全て男女共学になった。返り咲いた郡山が地盤の根本匠復興大臣も自民党内リベラル派の加藤派所属だったし、前々回の衆議院選挙では民主党が圧勝している。社民党の地方議員もけっこういる。三春はリベラルな教育改革をやり、その世界ではモデルとして有名だ。武藤類子さんの父親が教育長として教育改革をやったのである。

 インドの共産党が長く政権に入っている、世界第2の共産圏の西ベンガル州で生まれ育ち、ニューヨークに住み、サリーを着て歩き、BMWを運転し、「昔風の共産主義者」を自称し、3回結婚し離婚したフェミニストであり、世界各地を飛び回り、中国の奥地で教育改革に取り組みもするガヤトリ・スピヴァクが「社会を自由に移動できない人」と規定したサバルタンは、福島の農村部にも都市部にもいる。それがよくわかった。

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アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)③東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界、マダガスタル、バントゥ・アフリカ

東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界

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 ソマリア南部(北緯2度付近)からモザンビーク北部(南緯12度付近)までの約2000キロの東アフリカ沿岸部。「この地域は、広大なインド洋の最西端に位置し、象牙や金、あるいは奴隷の積み出し地としてアラビア半島からインド亜大陸をへて中国までを包摂する長い交流史の一端を担ってきた」(106ページ)。担い手は主にアラブ人、ペルシア人、インド人。「スワヒリ」の語源は、「縁」や「水辺」を意味するアラビア語のサワーヒル(単数サーヘル)。

「スワヒリの夜明け」は、イスラームが島嶼部に受け入れられ始め、交易が定期的に行われるようになった8世紀から10世紀頃。

 スワヒリ語は、アフリカの言語であるバントゥー諸語の一分枝である。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマ率いるポルトガル船団が来航。ポルトガルの支配。しかし、1698年オマーンがポルトガルからスワヒリ沿岸から駆逐。象牙や奴隷貿易の交易地、奴隷労働力の移入、農園経営、大陸内陸部との交易。アラブ系地主やインド人仲買人。19世紀スワヒリ社会に生まれた新しい文明観、「ウスタアラブ(アラブ人のようになること)」化が進む。

 「19世紀末、スワヒリ史におけるウスタアラブ時代は、奴隷貿易禁止運動と一体となったキリスト教宣教団や探検家を尖兵とする西欧列強の侵略によって終止符を打たれ、「植民地時代」に取ってかわられた。以後、スワヒリ沿岸部は、イタリア(モガディシュ、ソマリア)、イギリス(ラム、マリンディ、モンバサ、ザンジバル)、ドイツ(バガモヨ、キルワ・キヴィンジェ――第一次世界大戦後はイギリス)。フランス(コモロ)の支配下におかれ、あらたな歴史を歩み出すことになる」(143ページ)。ウスタアラブ時代は奴隷貿易が最も拡大した時期。家内労働力や農業労働力として奴隷が使われた。1897年ザンジバル、1907年モンバサやマリンディ、で奴隷制廃止。奴隷制廃止による労働者不足でアラブ人地主階級が没落。

 「スワヒリ社会の奴隷は、内陸から連行された第一世代の奴隷(ムジンバ、またはムシェンズィ)、沿岸部生まれの第二世代以下の奴隷(ムザリア)、ポーターなどの賃労働に貸し出される奴隷(キバリア)、逃亡した奴隷(ムトロ)の
4つに区別されていたが、解放後、生活手段に困って社会的な問題を起こしたのはムジンガ層であり、ムザリアはもとの主人の家を離れず、キバルアは容易に賃労働者に移行した。とりわけキバルア層は、それまで禁じられていた自由民の衣服を身につけ、経済的にもさまざまな分野に進出し、積極的にスワヒリ社会に同化していった」(147ページ)。その後、内陸部からの出稼ぎ労働者がスワヒリ沿岸部都市に到来するようになり、第2次大戦後の労働運動の担い手となる。しかし、このことは、「1950年代の独立運動のなかで、ザンジバルの住民は、内陸のアフリカ人を主体とした政党との協調路線に踏み切れず、結局、王制を擁護するアラブ系の政党に独立後の政権を擁護するアラブ系の政党に独立後の政権を委ねてしまった。それが、1963年の独立後一カ月をへずして勃発し、アラブ系支配層を王もろとも追放したザンジバル革命(1964年)の原因となっている」(148ページ)ように、新たな問題を引き起こすことになる。また、スワヒリ世界においては、女性が果した重要な役割として、①姻戚関係をとおして、移民男性に支配の正当性を与える役割 ②調停役や支配者の役割 ③「地母神」としての役割 ④「奴隷」

マダガスタルとインド洋西域島嶼世界

 マダガスタルは独特の歴史的ルーツを持っている。マダガスタル語は、オ―ストロネシア語族ヘスぺロネシア語派に属している。水田・稲作、高床式米倉、竹琴など東南アジアと共通するものが多い。8世紀以降アラブ人。バントゥ系。189525000人の兵士と軍夫によるマダガスタルの軍事征服、同年10月イメリナ王国政府代表者による保護領化承認文書への署名、966月のフランス議会によるマダガスタル全島の併合決議、86日の植民地領有化宣言。1947年独立蜂起。フランス軍の鎮圧で死者10万人以上。1956年フランス国民議会で、「海外領土基本法」可決。58928日、第4共和政憲法国民投票、マダガスタルは独立を支持、1014日、マダガスタル併合議決の廃止宣言、1960年マダガスタル共和国独立宣言。コモロ諸島(グランド・コモロ島、モエリ島、アンジュアン島、マイヨット島)のうち、前3島はフランスからの独立を求める住民投票で後ウ的多数が独立を支持したが、マイヨット島住民が独立に反対した。75年、アーメド・アブダラー大統領は4島の独立を宣言した。

西アフリカ(略)

 バントゥ・アフリカ 

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 カメルーン、ガボン、赤道ギニア、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国(旧ザイール)など、赤道を挟んだ中央アフリカ地域。

ディオゴ・カンの率いるポルトガル船がコンゴ川河口に到達、コンゴ王国を発見。「脆弱な王権の基盤、キリスト教の導入、ポルトガルが接触後ほどなく開始した奴隷の捕獲と移送、内戦などによって、15世紀以後、混乱が続くコンゴ王国は名目的な王朝は継続したものの18世紀をまたず事実上崩壊した」(286ページ)。「コンゴ王国の故地である大西洋沿岸から約100キロほど内陸にはいた現コンゴ民主共和国カサイ・オリエンタル州にクバ王国がある。1980年代後半、筆者がフィールドワークをおこなっていた時点で、王は独裁者モブツの政権のもとで「伝統首長」という資格で、一党独裁政党の中央委員として一定の政治的プレゼンスを与えられていた」(292ページ)。

 「群生する首長制社会のなかから王権は台頭し、予期せぬ外からの強力な勢力の介入で解体したコンゴ王国、移動ののち定住化し、近隣のいわば王権の発生を未然に抑制する社会とは対照的な王権形成の過程をたどったクバ王国、自然発生的な社会の複雑化しが考古学的に裏づけられ、神話によっていわば内側から王権意識の形成をたどることができるルバ‐ルンダ王国群、これらはバントゥ集団の1000年ごろから植民地化直前までの多様化の過程の、ある幅を示している。これあの例は同時に、きわめて断片的ではあるが、バントゥ集団の歴史人類学研究の方法の多様性も垣間見せてくれる。それぞれが古文書、調査に基づく歴史、考古学と神話学を基本的な手法として探究されている。また、それぞれが王権の基盤の弱さと対外関係、王権の再生産のメカニズム、王権を支える伝承の力といった、王権をめぐる多彩な側面のいずれかに光をあてている」(307ページ)。

 

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 「竹内 ……/ルワンダは、アフリカでは比較的珍しく、植民地化以前の政治社会の政治社会の領域的な単位がほぼそのままのかたちで近代国家に移行したのですが、この過程でエスニシティが極端に政治家し、結果として国家の統合が危機にひんすることとなりました。19世紀ヨーロッパの人種思想に影響を受けた植民地当局は、ルワンダにおける三つの機ア的カテゴリー(ツチ、フツ)、トゥワ」について、言語や宗教上の最がないにもかかわらず、異なる「人種」として分別し、それらを統治体制のなかで支配従属的関係に位置付けました。これら3つの集団、とりわけツチとフツのあいだに緊張関係が生じるのは、植民地化以降の国家機構におけるこうした配置が契機となっています。20世紀初頭には曖昧だったツチとフツの境界は、植民地統治の過程で明確化、固定化し、それが政党政治における投票行動や政治エリートの権力闘争など、近代国家の統治とかかわる場面で政治化されていきました。1994年に起こった大虐殺は、エスニシティ政治化の悲劇的帰結ですが、それはけっして伝都的な「部族対立」ではありません。

 他方、西ヨーロッパ全域に匹敵する広大なコンゴは、ヨーロッパ人の接近が遅れたアフリカ中央部が、領土的野心をもつベルギー王に植民地化されたことで成立した国家です。換言すれば、この領域内に存在する数多くの政治社会は、植民地化という事実以外に、コンゴ国家に統合される理由をなんら有していませんでした。アフリカに典型的な国家の成り立ちともいえますが、コンゴほど人口や資源が分散し、遠心的な性格をもつ国はまれです。したがってこの国では、領土的統一性や統治のあり方が今日までつねに問題となっています。それはまず、独立直後から1960年代なかばまで継続したコンゴ動乱というかたちで噴出したのです。
 
 1965
年にクーデタで政権を掌握したモブツは、欧米諸国の支持をえて政治的混乱を収拾すると、鉱産物など国内の資源を私物化し、それによって国内の政治的有力者とのあいだに親分、古文関係(パトロン‐クライアント関係)を結んで国家を統治しました。こうした統治のあり方は、経済危機や冷戦終結にともなう国際環境の変化によって立ちゆかなくなっていきました。1990年代以降のコンゴでは、モブツ政権の崩壊やその後の内戦など政治的混乱が続いていますが、これは従来の略奪型統治にかわるべき統治原理がまだ見つかっていなことを示しています。

 近年、内戦の頻発に示されるように、政治経済的混乱が続くアフリカ諸国が多くなりました。その原因を考えるうえに、国家の問題はきわめて重要です。従来の国家統治のあり方が立ちゆかなくなり、長期的な混乱を引き起こしている場合が多いからです。

 
 冷戦期のアフリカ国家を考えてみましょう。政治的にも経済的にも比較的安定していたといわれるこの時代、アフリカでは強権的な政治体制をとりつつ、国家の公的資源(鉱物資源、農産物資源、外国からの援助など)を私物化し、それを自分の取り巻き(クライアント)にばらまくことで政権を維持する政治家が少なからずみられました。構造的な汚職と抑圧的政治を指摘されながら、
31年間にわたってコンゴの権力を掌握したモブツはその典型です。

 国民国家の理念型から著しく逸脱したこれらの国家は、欧米のアフリカ研究では、新家産制国家(
Neo Patrimonial State)あるいは収奪国家(Predatory State)などと呼ばれてきました。こうした特異な国家が出現した理由は、たんに特定の政治エリートの資質に帰せられるものではありません。その理由はむしろ、アフリカの政治エリートが国民のなかに確たる支持基盤をもたぬまま、恣意的な国境線で区切られた国家の統治を余儀なくされたこと、そして先進国側が自陣営の政治エリートにたいする支援を、彼らの国内的な正統性に目をつぶりつつ、戦略的な理由で継続したことに求めるべきでしょう。
 
 しかしこうした国家のあり方は、
1980年代以降、危機に瀕することになります。公的資源の略奪的利用の結果、経済発展を主導すべき国家はむしろ低開発の原因となりました。資源が生産的投資にまわらず、もっぱら権力者の消費財購入にあてられ、経済の破綻を招いたのです。1970年代以降アフリカで長期化した経済危機は、国家の性格に由来する構造的なものであったといえるでしょう。

 また、冷戦の終結により、先進国の対アフリカ政策が転換したことも大きな影響を与えました。東西陣営の争いが消滅し、戦略的理由からアフリカの指導者を支援し続ける必要もなくなりました。逆に、評判の悪い国への支援は援助国内から反発を招く可能性がでてきました。冷戦終結後の先進国では、民主化を援助供与の条件とする政策が一般化し、それに対応してアフリカ各国で民主主義的な政治制度が導入されていったのです。こうした状況下、独裁的権力者を頂点とする従来の統治が立ちゆかなくなり、政治エリート間の権力闘争が激化したことで、今日の混乱が引き起こされています。その混乱を契機として内戦に突入する事例も少なくないのです」。(
479482ページ)
 
 「竹内 家産制的な国家の破綻は、市場経済化のグローバルな流れとも重なり合っています。
1980年代以降、市場にたいする国家の介入を抑制し、経済の調整機能を市場機構に委ねる思想が世界的に一般化します。世界銀行などの国際金融機関は、アフリカ諸国にたいしても、構造調整政策という市場原理優先政策を課し、その結果、公企業の民営化、補助金の撤廃、為替の自由化といった措置があいついで実施されました。これによって、従来国家が有していた機能は大幅に削減されたのです。

 ただし、現在アフリカ国家にみられるさまざまな「民営化」現象は、この市場経済化政策だけに由来するわけではありません。むしろ、新家産制国家の破綻にともなう機能不全から、本来国家が担うべき分野まで「民営化」される状況が生まれています。たとえば、
1990年代のアフリカの紛争で顕著な特徴だったのは、国軍の能力が低下する一方、民兵や外国の民間軍事会社(傭兵会社)の影響力が増大したことです。ルワンダやコンゴ共和国の紛争では、政権側が民兵を組織し、それが暴力の主たる行使主体となりました。アンゴラやシエラレオネの政権は、外国の民間軍事会社に依存することで、ようやく反政府勢力に活動を抑止しました。暴力装置が内外の民間部門にアウトソーシングされたわけです。安全保障分野のほかにも、教育や保健・衛生など、国家のはたすべき役割が大きいはずのところで、外国NGOの活動だけが目立っています。これは民営化というよりも公的な領域にかかわる国家機能の瓦解といえましょう。

 こうした現象が極端なかたちであらわれたのが、「ウォーロード」(
warlord)や「犯罪国家」です。「ウォーロードとは、国家の一地方を実効支配し、そこに産出する資源を販売するなどして資金を稼ぐ武装勢力の領袖のことです。ダイヤモンドの違法取引で国連から非難されたUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)のジョナス・サビンビやRUF(シェラレオネの革命統一戦線)のフォディ・サンコーがその典型です。「犯罪国家」とは、政権の中枢が、麻薬取引やマネー・ロンダリングを通じた資金稼ぎなどの犯罪的行為に従事する国家をさします。2003年に崩壊したリベリアのテイラー政権は、その典型といわれていました。

 「ウォーロード」は、国家の統治がおよばない地域で私的利益を追求します。「犯罪国家」では国家機能の私物化が極端に進展し、国益が特定権力者の私的利益と同一視されます。両者の行動原理は、私的利益の追求という点で本質的に似通っています。また、いずれも統治領域内の住民から強い支持を受けてではなく、武力に依存した強権的な支配のうえに成立しています。軍事技術が進展し、武器価格の下落が著しい今日、住民の支持は――少なくとも短期的には――統治に不可欠の要素ではなくなっています。これらは、長期化する内戦のなかで、新家産制国家の論理を極限まで推し進めた統治形態といえましょう。


 家産制的な統治との関係で、インフォーマル・セクターについてふれておきたいと思います。インフォーマル・セクターは多義的な概念であり、いかなる経済活動がそこに含まれるのか必ずしも合意があるわけではありません。公式な機関(国家)による捕捉のうぬ、零細性、違法性など、インフォーマル・セクターを定義する基準もさまざまです。そのためこの概念は、時代と文脈に応じて、肯定的にも否定的にも使われてきました。当初その零細性のために、発展から取り残された貧困層の活動とみられていたインフォーマル・セクターは、
1970年代のILO報告書などを契機として、むしろ活力ある発展の担い手とみなされるようになります。その考え方は、民間部門を発展の主軸におく80年代以降の経済思想とも合致し、今日にいたるまで、インフォーマル・セクターという言葉には肯定的な意味合いが付与されています。ここでこの言葉は「中小企業」に近い意味合いで使われています。

 他方、先ほどお話しした「ウォーロード」や「犯罪国家」もまた、インフォーマル・セクターに深く依存しています。ダイヤモンドの違法取引を考えてみましょう。ダイヤモンドは、採掘人が川底の砂利を掬って鉱石を選別するという単純な方法で生産されます。反政府武装勢力の制圧地において、それは中間商人の手をへて有力者にわたり、彼らが外国の買い付け商に転売することで国際市場へ流れ込むのです。個々の採掘人によるダイヤモンド生産は、単純かつ零細な、まさにインフォーマル・セクターの経済活動ですが、こうした違法取引から反政府勢力や国際的なダイヤモンド買い付け商が手にする富派巨額なものです。ここでは、アフリカのインフォーマル・セクターに、世界各国(多くの先進国)の違法かつ犯罪的な「闇経済」が結びついています。


 アフリカのインフォーマル・セクターによせられた「期待感」は、しばしば国家の無能力さから導かれた、いわば消去法的なものでした。国家に期待できないから、インフォーマル・セクターに期待するというわけです。しかし、こうした論理からインフォーマル・セクターに期待することは、経済のグローバル化という時代状況を考えれば、ややナイーヴな印象をまぬがれません。「犯罪国家」の麻薬取引やマネー・ロンダリングにしても、違法性という点でいえばインフォーマル・セクターの経済行為です。先進国の経済主体がアフリカの国家の脆弱性を利用し(あるいはアフリカの政治エリートが先進国の犯罪組織と結託し)、違法行為を通じて巨額の富をえているのです。経済のグローバル化が進むなかで、先進国の「ヤミ経済」がアフリカにアクセスしやすい環境が成立しています。


 インフォーマル・セクターは経済発展との関連で議論されてきたわけですが、先の事例が示しているのは、国家を視野の外においたまま、ある「セクター」に発展の担い手としての役割を期待することなどできないという事実です。小規模零細な経済主体が活力に満ち、その活動信仰が重要なことは事実ですが、経済発展のために国家がはたすべき役割もまた大きく、法制度の整備など国家にしかできない機能もあります。国家とインフォーマル・セクターを二分法的に考えず、発展にはたすべきそれぞれの役割を結びつけて論じる必要があると思います。


 アフリカの国家は脆弱であり、破綻国家といわれることさえありますが、その存在感は大きいものです。一般人の日常生活においても、軍人や警官にハラスメントを受けたり、役人から些細なことで呼び出されたりなど、いわゆる国家権力と接触する機会が多くあります。それは多くの場合、不愉快な経験です。しかし、その一方で、自らの窮状を救う能力をもつものとして、人々が国家に言及する場面も目につきます。私の限られた経験からいえば、コンゴ共和国(首都ブラザヴィル)でも、ガボンでも、ルワンダでも、「レタ(
L’Etat)という「国家」を意味するフランス語が現地語化しており、農民なども「レタがなにもしてくれないから私たちは貧しい」といった文脈で、頻繁にその言葉を口にします。彼らが「レタ」というとき、イメージとしているのは国家機構の上層に位置する「パトロン」なのかもしれませんが、国家にたいする期待は総じて強いものがあります。実際、国家の統治や「ガヴァナンス」と呼ばれる問題は、アフリカの発展を考えるうえで決定的に重要な意味をもつとわたしは考えます」。(507511ページ)

ここまでで時間切れです。南部アフリカも取り上げられませんし、到底、アフリカは広いし、多様で、これは小さな出発点でしかないのは言うまでもありません。

 さらに、最近のことや多国籍資本問題、植民地主義のこと、そして、帝国主義のこと、つまり、世界支配構造の中でのアフリカのこと、日本との関わり、植民地主義の問題として「ダーバン宣言」に示された旧宗主国の植民地支配の清算問題もあります。そして、脱植民地主義、「ポスト・コロニアリズム」が取り上げる問題も。様々な矛盾の中で、アフリカで難民問題が発生し、その一部が日本にやってこざるを得ないことが少しは浮き彫りになったかと思います。でも、まだまだです。

 参考文献

『アフリカ史』(山川出版)

『シリーズアフリカ史』数巻(山川出版)

『新・現代アフリカ入門』(岩波新書)

『アフリカ史を学ぶ人の理解のために』(世界思想社)

『アフリカ革命のために』(F.ファノン)

『新書アフリカ史』(講談社新書)

など。


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アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)②東・北東アフリカ

東・北東アフリカ                                                             

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 「現在の国名で、スーダン、エチオピア、エリトリア、ジプ、ソマリア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、ルワンダ、ブルンディを含む。さらに、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の東部とチャドも隣接地域として言及されることになろう」(『アフリカ史』山川出版40ページ)。アフリカの国境は、あまり固くない場合が多く、人々が国境を越えて移動したり、交通しているので、隣接地域とも強い関連がある。例えば、ルワンダ軍がコンゴ民主共和国側に越境して居座り、干渉したりする。東岸は、紅海とインド洋に面し、ナイル川と大地溝帯が走る。白ナイル川の源流はブルンディ領内で、アフリカ最大の湖ヴィクトリア湖をへて、スーダンを貫流する。青ナイルの源流はエチオピア高原のタナ湖で、ハルトゥームで、白ナイルと合流する。流域は、ブルンディ、ルワンダ、ウガンダ、スーダン、エジプトの大部分、エチオピア西部、ケニア、タンザニア、コンゴ民主共和国の一部が含まれる。

 東部地溝帯は、ジプチからエチオピア、ケニア、タンザニアに至る。西部地溝帯は、ウガンダ北西部からルワンダ、ブルンディ、タンザニアとコンゴ民主共和国の国境をへて、マラウィ、モザンビークにいたる。多数の湖があり、地溝の幅は3040キロ。深さは、推進1435メートルのタンガニーカ湖で、海抜マイナス653メートル。東西に高い山脈が連なっている。アフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5895メートル)などの高峰がそびえる。

 「私たちは、大地溝帯は人類の進化と深くかかわり、またナイル川は古代エジプト文明をはぐくんだことを知っている。本章とのかかわりでは、両者は人々が移動する際の障壁であったと同時に回廊の役割をはたしていたことが重要である」(同
42ページ)。

 東・北東アフリカの特殊性は、古代エジプトとエチオピアという「文明」が存在したことだが、これらの文明の担い手は、ニグロ(黒人)ではなく、広い意味の白人に属するハム系の人々と考えられた。こういう近代ヨーロッパの人種観は、たんに研究のレベルだけでなく、植民地統治のあり方や脱植民地期の政治にも大きな影響を与えてきた」(同54ページ)。セレブマンの人種説の「ハム仮説」は、アラビア半島のハムが、古代エジプト、牧畜民ハムが、優秀な軍事力によって石器時代にあったニグロの農耕民を征服したとする説である。ハム系諸王国として、ニョロ、アンコーレ、ルワンダなどが考えられた。さらに、セムとの混血で、鉄器文化を持ったバントゥ系の人々が、サンやコイコイなどの原住民を征服し、東武、中部、南部に拡大したというのである。「近代ヨーロッパ人は、アフリカに高文化や文明の証拠をみいだすと、アフリカ人の手による自生的な発展の結果ではなく、「外部」からもたらされたものとみなす傾向があった。「未開」の部族が住む「暗黒大陸」では、そうした発展はありえないという先入観があったからである」(同56ページ)。

 「セムとハムは旧約聖書に由来する名前である。「創世記」によれば、ノアにはセム、ハム、ヤベテという三人の子があり、全世界の民は彼らの子孫である。ハムが父ノアの裸を見たために、ノアはハムの息子カナンを呪った。「カナンは呪われよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[「創世記」第
9章、日本聖書協会]。ユダヤ人とアラブ人はセムの子孫と考えられたが、ハムという概念の内容は時代とともに揺れ動いた。近世ヨーロッパでは、すべての黒人は「呪われた人々」の子孫と考えら(55ページ)れ、それは「劣等人種」としての黒人の地位とうまく整合した。近代になると、黒人一般をさすのではなく、身体的特徴が黒人的ではなく、ヨーロッパの基準からすると顔立ちの整った(鼻筋のとおった高い花と分厚くない唇をもつ)北東アフリカの人々を意味する語として用いられるようになった。そして、セリグマンのように、ハム系の人々は黒人という意味でのアフリカ人ではなく、むしろ白人であるとみなされるようになったのである。後述のように、現在ではハムという用語は、その人種主義(レイシズム)的な偏向のゆえに、言語学的にも人類学的にも死語となっている」(56ページ)。

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 「ルワンダは、1994年の大虐殺をはじめとして、ツチ人とフツ人のあいだの「民族紛争」が独立以降、繰り返されている国である。この国は、植民地化以前はツチを支配階層とし、フツを被支配層とする王国を形成していた。国家の起源は、北方から移動してきたハム系牧畜民ツチが、バントゥ系農耕民のフツを征服したことにあると考えられていた。植民地化以前の支配・被支配の関係、および搾取の形態については議論の余地があるが、植民地化以降にツチとフツの境界が固定される一方で、ヨーロッパ人の「ハム仮説」をルワンダ人自身が受容したことが、独立後の紛争の主要な原因のひとつであると指摘されている。つまり、ツチは身体的にも美しい優等人種であり、フツは劣等人種であるという認識をルワンダ人が自らのもととしたことが、独立後の政治史を方向づけることになったのである。

 エチオピアの文明を担った人々は、のちにハム系、つまりユダヤ人やアラブ人と同系の「白人」と認識されるようになったが、その起源がアフリカ大陸の外部に求められたことにはかわりがない。後述のように、エチオピアの歴史研究は「セム史観」に大きく傾斜しつつ発展してきた。その結果、非セム系の人々がはたしてきた歴史的役割が十分に評価されなかったばかりでなく、エチオピア史をアフリカ史の文脈に位置づける試みもないがしろにされた。また、セム史観は、近代のエチオピアにおける民族(
57ページ)紛争の主要な原因のひとつにもなった。

 ヨーロッパ中心史観のもうひとつの側面は、時代区分である。前世紀の前半、考古学的調査が進展するにつれて、西アジアとヨーロッパで用いられてきた、旧石器時代―新石器時代―鉄器時代といった時代区分がアフリカにも適用されるようになった。しかし、現在ではこうした区分の妥当性には大きな疑問が呈されている。既存の外来の物差しをあてはめるのではなく、実証的な調査研究を積み重ねて、アフリカの各地域における発展を解明することが、第一の課題であると考えられるようになったのである。(
58ページ)

 エチオピア人の「セム的歴史観」は、ヨーロッパ人のエチオピア観と相互補完的な関係にある。
156世紀のヨーロッパ人は、エチオピア(アビシニア)を、失われた伝説上の東方のキリスト教王国「プレスター・ジョンの国」とみなした。また、近代欧米のエチオピア研究者たちも、2000年以上におよぶ国家と文字システムの歴史を有し、4世紀からキリスト教の伝統があるエチオピアを、他のアフリカ地域とは異なる「文明国」であると考えた。そしてこの文明は、土着で自生的なものではなく、非アフリカ的で外来的なものととらえたのである。 エチオピアは、たしかに独自の歴史と伝統を有する国である。近代においてヨーロッパ列強による植民地化をはねつけて独立を維持した事実とあいまって、「セム的歴史観」は、近現代のエチオピア人に自信と誇りを与えてきた。しかし、このイデオロギーは、エチオピア正教徒であるセム系エチオピア人(主としてアムハラ人ティグライ人)以外のエチオピア人には受け入れがたいものであった。現在では国民の過半数を占める、クシ系やオモ系、さらにナイル・サハラ語族の人々、および人口のほぼ半数を占めるといわれるムスリムは、エチオピアの偉大な歴史と伝統から排除されたばかりでなく、しばしばその敵対者と(82ページ)みなされてきたのである(83ページ)。

 北東アフリカは、紅海を隔ててアラビア半島と隣接している。したがって、
7世紀以降、アラブ人とイスラームの拡大の直接的な影響を受けた。現在、この地域の国々の人口の多数はムスリムである。……それにもかかわらず、白ナイル上流から東アフリカの内陸部にいたる広大な地域では、19世紀になるまで両者の直接的な影響はほとんど存在しなかったことに注意しておくべきである(84ページ)。
 ヌビアのアラブ化とイスラーム化。13世紀、アラブ系遊牧民が南下、母系制によって、それが推進された。「ヌビア人の女性と結婚したアラブ人の息子は、土地、財産、地位にたいする正統な権利を獲得した」(85ページ)。「アラブ人、およびアラブ化した、ヌビア人をはじめとする土着のスーダン人は、南方だけでなく、西方のコルドファン地方、ダルフール地方、さらに現在のチャドやナイジェリアにまで拡大していった。これらの人々は、アラブ人としての正当性を主張するため、アラビアに起源を求める出自を名乗った。代表的なものに、ジュハイナと、アッバース朝との血縁を主張するジャアリーンがある。それぞれ、さまざまな氏族と部族を含む、「超部族」のようなカテゴリーであり、現在のスーダンでアラブ人としてのアイデンティティをもつ人々のほとんどは、いずれかに属している(86ページ)。

 「
16世紀から17世紀にかけて、スーダン北部では2つの王国が形成され、19世紀まで存続した。青ナイル河畔の都市センナールを中心に、白ナイルと青ナイルの流域を支配したフンジ王国(スルタン国)と、西部のダルフール地方に本拠をおいた警ら王国である」(92ページ)。「15世紀から16世紀初頭にかけて、ヌビア地方はアブダッタラ―・ジャンマーというアラブ人の勢力下にあった。アブダッラーは交易ルートを支配していたと考えられる。前の時代に引き続き、ヌビアは、金、ゴム、乳香、麝香(じゃこう)、犀角、ラクダおよび奴隷などの供給地として国際交易のなかで重要な位置を占めていた。これらの交易品は、アラビアとエジプトに輸出された。/16世紀初頭、南方からアマーラ・ドゥーンカスという指導者に率いられたフンジと呼ばれる人々が登場し、青ナイル沿岸のアルバジーの戦いでアブダッラーの軍隊を打ち破ってフンジ王国を建国した。1504年のことであった。アマーラ―の勢力圏は、ヌビア北部のドンゴラ地方ばかりでなく、当時国際的な貿易港として繁栄していた紅海沿岸のサワーキー(スワキン)までおよんだ(92ページ)。イスラーム化が進んだ。1821年エジプトに降伏、滅亡。

 ケイラ王国は、ダルフール地方のマッラ山の山麓に中心をおく王国で、ケイラは王を輩出した、フール人の氏族の名称である。王国の由来は詳らかではないが、
17世紀中期には資料に登場する。ムスリムであった王はスルタンと称した。もともとは、サヘル地域の諸王国に共通する神聖王権であったものが、スルタン国に変質していったもんと考えられている。ケイラ王国は、18世紀前半には勢力を拡大し、東方のコルドファン地方の詩は危険をフンジ王国と争うようになった。そして18世紀前半には勢力を拡大し、スルタン、ムハンマド・タイラブの指揮下、フンジの勢力を駆逐して、コルドファンを支配下におさめた。/ダルフールは、東のナイル河谷と、西のサハラ・サヘル地企図を結ぶ要衝であった。また、北方のエジプトとは、ナイル川経由ではなく、砂漠を縦断する「四十日路」によって直接結びついていた。南方の南部スーダンとの境界あたりから供給される奴隷は、エジプトとの交易における重要な交易品であった。1916年植民地に。

 大湖地方(アルバート湖、エドワード湖、キブ湖を擁する地域)は、北部のアルバート湖周辺に西ナイル系、中央スーダン系の人々、西部のコンゴ民主共和国との境界付近にはピグミー族がいる。全体にバントゥー系の世界になっている。
19世紀後半に、ナイルヨーロッパの探検家が、ガンダ王国やニョロ王国に出会っている。その前にキタラ王国があり、ニョロはその後継と考えられている。「キタラ複合体の南方、ヴィクトリア個西方の地域には、ルヒンダ複合体と総称されるウコーレ王国やカラグウェ王国があり、さらにその南方にはルワンダ王国を中心とするルワンダ複合体があった。ルヒンダとは、複合体の諸王国の始祖とされる王の名前で、15世紀前半に実在したとされている。彼も富裕な牧畜民ヒマであった。ルワンダ王国の成立について、近年の新しい説を要約すれば以下のようになろう。すなわち、牧畜民ツチが集団で来訪し、農耕民フツを征服することによって突如国家が形成されたのではなく、15世紀末と考えられる強力な国家の成立以前に、複数の小国家がすでに存在しており、牧畜民と農耕民の関係も、支配‐被支配という単純なものではなかったのである(98ページ)。

 「東はスワヒリの世界であった東アフリカのインド洋沿岸部、西は大湖地方に挟まれ、北は南部スーダンにいたる地域では、南クシ系、東クシ系、南ナイル系、東ナイル系、西ナイル系、そしてバントゥ系のさまざまな集団が移動と接触を繰り返し、せめぎあい、共存するなかで集団と文化の形成がおこなわれた。この地域では中央集権的な国家の形成はみられず、小規模な首長制国家や、国家なき平等主義的な社会が多数存在した。考古学的資料は乏しく、主として言語学的資料と口頭伝承に基づいて過去の再構成がおこなわれてきた」(
99ページ)。

 「東部地溝帯とその両側のサバンナは、乾燥地帯であるがゆえにバントゥ拡大の舞台とはならなかった。この地域は、北方から南下する牧畜民、半農半牧民の回廊であった(100ページ)。移動の要因としての大干ばつと飢餓。割礼と年齢組織。異なる言語=民族集団に属する人々のあいだには、共通する年齢組織のほかにも、境界を越えるさまざまな紐帯が存在した。複数の集団にまたがる氏族はそのひとつである。つまり、氏族へのアイデンティティーは、集団を横断しているわけである制度化された友人関係や結婚による姻戚関係も重要な紐帯である。/経済的には、塩や鉄といった産地や生産者が限られた基調で必須の物資の交易が、異なる集団を結びつけていた。また、集団が生業的に特化している場合、農耕民、牧畜民、狩猟採集民のあいだには、経済的な相互依存関係が存在する」(104ページ)。

「現代の東・北東アフリカは、慢性的な「民族紛争」の舞台となっている。スーダンの内戦(19832005年)の犠牲者は250万に達したといわれており、ルワンダでは、1994年に「ジェノサイド」といわれる大量虐殺が発生した。ウガンダ、ブルンディ、エチオピア、ソマリアも長期の内戦を経験している。紛争の主要な原因のひとつは、植民地時代に「創造」された部族=民族集団のあり方に求められる。植民地化以前は、流動的で柔軟な、ソフトな存在であった民族集団が、植民地化以降は統治の必要上、固定されたハードな実態に変化したばかりでなく、国家権力との関係によって階層化された。特定の民族集(104ページ)団の出身者が行政の末端を担う役人や兵士・警官として登用される一方で、他の民族集団は国家のなかで周辺化された。独立後は、植民地時代に中・下級官僚であったアフリカ人エリートが国家のヘゲモニーを掌握し、こうした構造は一層強化されると同時に、ヘゲモニーをめぐる争いも激化したのである。現在のような民族紛争は、けっして伝統的なものはない。2003年にスーダンのダルフール地方で発生し、2008年の時点でも継続している「民族紛争」も、2007年、ケニアの大統領選挙後に生じた「民族紛争」も、適切な理解のためには、まず、歴史的文脈のなかに位置づけられる必要がある。紛争の原因を理解し、殺戮によって生じた傷を癒し、あらたな民族集団と集団間の関係のあり方を構想しようとするとき、私たちが過去から学ぶことは大きい。歴史の現代的意義はそこにあるといえる」105ページ)。

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アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)①

アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)(2003616日)by流広志

  201361日から3日にかけて、日本政府外務省が主導する「アフリカ開発会議」(TICAD)が横浜市で開かれた。2011 311の東日本大震災と福島第1原発事故で、アフリカへの関心は表面上は薄れた。

 今年61日から3日にかけて、横浜市で、外務省が主導する第5回「アフリカ開発会議」(TICAD)が開催された。20年目の節目の年ということで、今回のテーマを「躍動のアフリカと手を携えて――質の高い成長を目指して」としている。全体として、TICADは、アフリカを「開発」対象と位置付けている(以下の図は、外務省第5回アフリカ開発会議パンフレット(外務省HP)にあるもので、会議の目的が開発(資源)にあることを露骨に示している。

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 冷戦体制崩壊後、アフリカは、債務累積問題、IMF・世界銀行からの借り入れ、それと引き換えに強いられた「構造調整プログラム」による格差拡大、福祉・教育の後退などが問題となっていた。この時期、「破綻国家」が次々と発生し、農村→都市スラム→移民という貧困層の人の流れができた。そして、2000年代になると、「世界経済の構造変化から、アフリカに再び資源ブームが到来した」(『新・現代アフリカ入門』勝俣勝 岩波新書 Ⅴ)のである。勝俣氏は、それを、「援助のアフリカ」から「資源のアフリカ」への回帰と呼んでいる(同)。

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 外務省パンフレットによると、このように、サブサハラ地域が世界経済成長率より高率で成長すると予測しており、そのことが、開発促進への誘因である。

このように、外務省は、2010年のフローでの直接投資額が5倍になったとして、今後もアフリカを有力な投資先として描いている。

パンフでは、アフリカでは多くの紛争地があり、主な域紛地が図示されている。それと並べて、以下のような自衛隊の活動を紹介している。見ての通り、「アフリカの平和と安定のために汗を流す日本人」というタイトルがつけられている。

安倍首相は、開会挨拶で、「TICADを通じて、一貫して、訴えたのが、「自助」「自立」の重要性です。そして、あくまで、「成長」を、重視する発想です。/貧困は、成長によって克服できると考えることは、私たち日本人には、当初から、自明でした。それは、アフリカの潜在力を、疑わなかったからでもあります。/自助・自立、成長重視。いまや力強い前進を続けるアフリカから、この2つを熱望する声が、澎湃と上がるのを見るにつけ、私は、TICADの行き方は、間違っていなかった、TICADが夢見た未来は、いまや実現しつつ

Photo_6あるのだと、誇りをもって、宣言したいと思います」と述べ、成長がアフリカの貧困問題を解決すると「誇りをもって、宣言」した。この思想は、会議で採択された「横浜宣言2013」「横浜行動計画」に貫かれている。

宣言の30 TICAD V戦略的方向性」は、「我々は、「躍動のアフリカと手を携えて」を基本コンセプトとし、成長を加速化するとともに、持続可能な開発を促進し、貧困を削減するために協働することを決意する」と述べている。続いて、「この目的のため、我々は、衡平性と包摂性を追求しつつ、インフラ整備や人づくり、経済の多角化、広範な分野における民間セクター主導の成長の促進を通じた開発の経済基盤を強化する。これは、アフリカ大陸における貧困削減に大いに奇与するものであり、裾野の広い中間層の創出を後押し、アフリカ大陸を世界成長の原動力に変容させる」としている。行動計画では、農業が重視されている。

Photo_7 また、こうした民間主導の開発・投資と共に、インフラ整備、教育、衛生、女性の役割の増大、リップロダクションヘルス、気候変動対策などが謳われているが、特に、平和と安定という秩序面の対策が強調されている。安倍首相の開会あいさつでは、特に派遣している自衛隊の意義が強調されている。安倍首相は、「いまさら申すまでもなく、アフリカ発展にとってすべての基礎をなすのが、アフリカの、平和と安定です。/日本は今後一層、アフリカの平和構築に、力を注ぎます。/すでに、ジブチでは、海賊対策のために、そして南スーダンでは、国家建設の一助となるために、自衛隊の諸君が、本日も、奮闘しています。また、平和の定着支援や、開発・人道支援を強化し、平和の土壌を育みます。/我が国が先頭を切って進めてきた「人間の安全保障」の取り組みに、今後とも力を緩めないのは言うまでもありません」と述べている。

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 変化するアフリカ像 

アフリカと言えば、かつては、「暗黒大陸」などと呼ばれ、未開・野蛮などのイメージが西欧を中心に作られてきたが、それも近年の研究の中では変わりつつある。岡倉登志氏は、『アフリカ史を学ぶ人のために』(世界思想社)の第1章世界史とアフリカで、まず、「時代区分」について、「アフリカ史の時代区分を試みるとき、最初に突き当たる困難は、「世界史」における古代、中世、近代という時代をとらえる概念をそのまま用いることができないこと」(同4ページ)を指摘している。そして、ヨーロッパ中心史観を批判している。ヨーロッパ中心史観は、ハンガリー科学アカデミーのE・シークが書いて1962年に刊行された『黒アフリカの歴史』に始まるという。その時代区分は、ソ連の研究を基にし、『資本論』に依拠しているという。すなわち、「(1)ヨーロッパ人の侵入以前、(2)原始的蓄積時代(1618世紀)、(3)産業資本主義の勃興期(17891870年)、(4)帝国主義への過渡期(18701900年)」(同56ページ)である。これをケニアの歴史家A・オゴットは、「マルクス主義によるヨーロッパ中心主義」と批判した(同6ページ)。それに対して、ドイツ史の上原専禄は、「アフリカ人の生活と社会というものから見たアフリカ史像の形成の必要を主張」(同)したという。17世紀の奴隷貿易拡大期以前のアフリカを、「古王国時代」とか「アフリカの古代」、あるいは「黄金貿易時代」(イスラム商人と黄金の王室独占)と一括する時代区分が一般的だったが、この時代を8世紀を境に2つに区分する時代区分が近年主張されるようになったという。岡倉氏も同意する人類学者川田順三氏の時代区分は、

(1)  アフリカ諸文化の基層形成の時代(人類の始原から紀元後1000年くらいまでを含む)

この時代は、農耕、鉄加工などの基本的な生活技術の成立と伝播によって特徴づけられ、西アジアとの接触を大きな刺激としていた。また、ローマ時代を中心とする環地中海、東南アジア、インド、アラビアからの影響をもたらした環インド洋の、2つの環大洋文化交渉も大きな意味をもっていた。

(2)  大規模な通商国家および都市の発達と、長距離交易を媒体とするアフリカ大陸内部の広範な文化交流の時代(8世紀ころから16世紀末くらいまで)

 北アフリカにイスラム・アラブが進出し、サハラ以南ではサハラ縦断交易を基礎とする通商国家(初期国家)が形成された。また、東アフリカではインド洋を媒体としてスワヒリ文化が形成された時期である。

 以下、(3)は「黒人帝国」と植民地化の時代として15世紀後半から19世紀前半までの「奴隷貿易時代」であり、いままで見られなかった環大西洋交流が脚光を浴びたことを当然ながら指摘している。それと同時に、16世紀以降のオスマン帝国の北アフリカに与えたインパクトの指摘も怠らない。(4)はヨーロッパによる植民地化(19世紀後半)から現代までをくくり、ヨーロッパの侵略とアフリカ社会の変容の関係、アフリカの国境の問題、独立後もヨーロッパの影を引きずっている現状に触れている(同78ページ)。

要するに、アフリカ内部といっても外界から隔離されているわけではなく、環大洋との関係も重要だということである。先に、フランスが軍事介入したマリ共和国も内陸国だが、北部に、国境を超えて住み、行き来するトゥアレグ人の独立運動があり、また古くからのアラブ商人の隊商の往来もあった。リビアのカダフィ政権は、長らくトゥアレグ人を優遇していたため、その後ろ盾を失ったことも、マリでの事態と関連がある(『情況』201334月号所収、「アルジェリア人質事件の背景を探る」竹沢尚一郎、「サハラ砂漠の政治人類学」嶋田義人 参照)。

現在のアフリカの国境線の多くが帝国主義国が植民地分割戦で勝手に引いたもので、その線引は、帝国主義列強同士の交渉によって決められたものである。したがって、西洋の民族国家モデルはそのまま当てはまらない。独立運動では手を握っていた諸民族や諸部族が政治的独立後に対立することもあった。その後、分離・独立したところもある(南スーダンなど)。また、現在も独立運動を続ける民族もある(西サハラのベルベル人、トゥアレグ人、あるいは、ナイジェリアのビアフラ共和国独立運動など)。マダガスカルには、古くから東南アジア系の居住者がおり、それとインド人、アラビア人、黒人奴隷などの子孫がいる。アフリカにおけるアイデンティティーは複雑かつ多様で、植民地解放―独立運動の時代には、民族主義が基調となったが、その複雑で多様なアイデンティティーはなくならなかった。

それに対して、現在のAU(アフリカ連合)につながる汎アフリカ主義という理念もある。独立運動のリーダーの中では、今日のネグリの言う解放の主体=マルチチュードと似ているネグリチュードという主体概念がサンゴール・セネガル初代大統領によって唱えられた。

広大で多様なアフリカをひとまとまりに見ることは難しく、一応、地域的に区分して見ていくほかはないが、その区分の基準が問題であり、議論のあるところである。とりあえず、『アフリカ史』(山川出版)の章立ての区分に従うことにする。

①東・東北アフリカ

②東アフリカ沿岸部・スワヒリ世界

③マダガスタル・インド洋西域島嶼世界

③西アフリカ(サヘル地域を含む)

④バントゥ・アフリカ

⑤南部アフリカ

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6.16難民問題とアフリカ―難民講座の御案内―

難民問題とアフリカ難民講座の御案内

「横浜宣言2013」を採択して第5回アフリカ開発会議TICADが終わりました。これから世界最大の市場となるアフリカに、日本の政財界は熱い視線を送り、3兆2千億円の資金拠出を決めました。

 アフリカには54もの国があり、民族や資源その他をめぐる紛争も多く、難民を生み出しています。昨年日本で難民申請をした人も、ナイジェリア118人、ガーナ104人、カメルーン58人など、アフリカ各国が増えています。

今回の難民講座は、こうしたアフリカ難民問題を理解する一助として、在日コンゴ人の方などから報告していただきます。ぜひご参加ください。

★616日(日) 13時半~16

★新宿区立元気館(:0332026291)

副都心線西早稲田駅エレベーター口すぐ。高田馬場駅から徒歩10分。都立戸山高校となり。明治通り。

★報告

・七充子(ななみちこ)さん(夫がコンゴからの難民)

Eric Kimpiobさん(コンゴから留学、長く日本でビジネスをされている方)

・ブルンジ難民ベルトランドさん(予定)

・事務局からのアフリカ情勢の報告

★資料代400

★主催:難民を支援し連帯する会(0429985501さかい)

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レーニンの女性解放論

 6月16日の難民講座の内容は、コンゴとブルンジの難民のことになった。それで、アフリカ関係のことを調べている。アフリカ史も昔とはずいぶん変わったことがわかったが、その中で、帝国主義・植民地主義と女性というテーマを論じるガヤトリ・スピヴァクの『スピヴァク 自らを語る』(岩波書店)という本を読んだ。その前に、ウォーラーステインを読んだが、そこで、ポスト・コロニアリズムという概念が登場するので、本橋哲也氏の『ポスト・コロニアリズム』(岩波新書)を読んだ。先に紹介したF・ファノンの『アフリカ革命に向けて』やA・カブラルの『アフリカ革命と文化』(亜紀書房)でも、レーニンが評価されている。そこに共通するのは、反帝国主義民族解放闘争においては、政治的軍事的闘いと同時に文化闘争が重要だという観点である。

 F・ファノンは、アフリカの植民地住民に、白人への劣等感から、「白い仮面」を被ろうとする欲望が生み出されていることを問題にし、植民地解放―独立革命の中でそれからの解放も成し遂げなければならないことを指摘している。それと女性解放運動を合わせて考えると、運動の主体が、男性化する(男の仮面をかぶる)ということが一時あったように思われる。両方を併せ持つのが、ライス前国務長官のように見える。能力主義のことを考えると、特に障害者問題を見てるとわかるのは、現在の能力主義が、男の健常者の能力を基準としていることである。何が生産的で何が非効率的か等々の基準、ものさし自身が男性健常者を基準に立てられている。ものさし自体を問題にすることが、障害者解放運動やフェミニズムの一部にはある。橋下発言が問題になったが、米軍には女性兵士がいて、軍隊内のレイプ事件の被害者になることが時々報道される。ややこしいことに、欧米ではホモセクシャルの男性による男性へのレイプ事件が時々起こるのだが、それはさておき、そういう事件は戦場だけで起こるのではない。それは、現在の米軍に帝国主義軍隊としての他民族蔑視があり、それが女性蔑視にもつながっているからだろう。『人種・国民・階級』(大村書店)でのバリバールの人種主義と性暴力の関係の指摘から考えるとそういうことになる。ファノンの指摘からも、相手を劣等視しないと、そういうことはできないと思わざるをえない。また、このことからは、階級差別が階級支配と一体であるということも引き出せる。したがって、階級闘争は労働者差別からの解放であり、差別との闘いであるということも言える。レーニンは、そこから目をそらせるようなもの、闘いの矛先を鈍らせるものを批判する。そういうものとして、彼の女性解放論がある。レーニンは、ドイツ共産党の女性活動家のクララ・ツェトキンとの対話で、ドイツ共産党内での女性たちの議論のあり方について、苦言を呈している。

 ……きくところによると、ドイツの婦人の党員の間でおこなわれている読書と討論の夕べでは、性と結婚の問題が、主な題目だというではありませんか。それらの問題に興味があつまり、政治指導や教育の中心をしめているというのです。わたしがそれをきいたとき、わが耳をうたがうばかりでした。プロレタリア政権による最初の国家ソ同盟は、げんざい資本主義の反革命国家にとりかこまれています。ドイツ自身の情勢をみても、たえず勢いをもちかえす革命反対派を撃退するために、プロレタリアートを中心とする革命的勢力を最大限に集中しなければならない……(『レーニン青年婦人論』青木書店18ページ)。

 さらに、レーニンは、その頃流行していたフロイト理論を批判している。

 ……わたしはあの性の真理をとりあつかった論文や研究やパンフレットを信用しない。要するに、それらはブルジョア社会の泥土のなかにおいしげる特殊文献なのです。ちょうどインドの聖者がヘソのことばかり考えつづけているように、四六時中、性の問題ばかり考えている人たちをわたしは信用できない……(同19ページ)。

 そして、クララに、コミンテルンのテーゼの基本思想を示す。

 テーゼで明確に指摘せねばならない点は、婦人の真の自由はだた共産主義を通じてのみ可能であるということです。そして婦人の社会的ならびに人間的地位が低いことと生産手段の私的所有が許されていることが不可分に結びついている関係を強く出すことです。そうすれば、わたしたち共産主義者とフェミニスト〔女権拡張論者〕との間に明瞭な境界線が引かれるでしょう。またこれによって、婦人問題を社会問題、労働問題の一部分として考える土台があたえられ、婦人運動をプロレタリア階級闘争およびプロレタリア革命にしっかりと結びつけることができます。共産党の指導する婦人運動は、それ自体大衆運動の一つ、つまり全般的な大衆運動の一部分とならなければならない。それはただプロレタリアートの運動であるばかりでなく、すべての搾取される者、抑圧される者の運動、資本主義制度および不合理な社会関係のギセイ者のための大衆運動でなければならない。以上のべた党の中にこそ、プロレタリアートの階級闘争ならびにそのたたかいからうみ出された共産主義社会にとっての婦人運動の意義が横たわっているのです。わたしたちが自慢してよいことは、わが党のなかに、第3インターナショナルの中に、婦人革命家を豊かにもっているという事実であります(同33~4ページ)。

 組織論。

 なるほど婦人のために特別な組織は必要ない。たしかに婦人党員も男子の党員と全く同様に党の一員です。両者は同等の権利と義務とをもっています。その点について異論はありません。しかし、ここに無視しえない事情があります。党には欠くことのできない機関として、活動グループ、委員会、特別委員会、専門部などがあり、その特別な任務として婦人労働者大衆の眼をさまし、これらを党に結びつけ、党の影きょう下にガッチリと彼女らをつかまねばならない。もちろん、この事は婦人の間で系統だった仕事をするためであります。一たび眼ざめ組織された婦人大衆をわたしたちは訓練し、共産党の指導のもとでプロレタリア階級闘争に彼女らをそなえなければならない。……わたしたちは婦人のあいだで活動をすすめるための適当な機関、煽動の特別な方法、特別な組織形態を必要とします。これは何もフェミニズム〔女権拡張主義〕ではない。それは実践的な革命的な方策であります(同34~5ページ)。

 こういうレーニンが示した思想は、コミンテルンのテーゼに、クララ・ツェトキンによって、取り入れられた。興味深いことに、スピヴァクは、レーニンの言う家内奴隷制に拘束されている女性をサバルタンに入れている。家庭という狭い空間に閉じ込められ、移動しにくく、狭い範囲での生活を余儀なくされているのがサバルタンだというのである。つまり、レーニンの言っていることは、時代遅れでもなんでもなく、格差拡大する資本主義諸国やとりわけ第三世界に広範に存在する今の現実を表現しているだけなのである。フロイト主義は、そこから目をそむけ、別な方に人々の目を過剰に向けさせることで、こういう現実を覆い隠すのに都合よく支配階級によって利用されているわけだ。もちろん、それを解放の武器へと作り直し、支配階級に向けることもできるわけだが、それは、主にイデオローグがする仕事であり、プロレタリアートは、そうでないものは信用することなく、大衆的な解放闘争に取り組むことが大事だということになる。スピヴァクは出身地のインドのベンガル州でサバルタン女性解放のための活動をやっている。レーニンが言うのもそういうことなのだろう。

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ポスト・アベノミクスの新しい政治と運動

 アベノミクスは、参議院選を待たずに失速し、株価が急落した。この現象は、行き先を探し求めて世界を駆け巡っている投資マネーが、アベノミクスの金融緩和政策を呼び水に日本の株式市場に向かっていたにすぎなかったことを示している。通貨に投資するか、金に投資するか、商品先物・取引に投資するか、などは状況次第である。ただ、改憲を狙う安倍としては、参議院選で改憲発議に必要な改憲勢力3分の2を確保したいという野心があって、選挙までは株高が続くことを願っていただろう。しかし、その願いも虚しく潰えた。これで、橋下維新の急失墜と合わせて、自民党安倍政権などの右派勢力の凋落が見えてきたので、緑の党やリベラル派や左派がようやく選挙戦をまともに戦える状況が出てきたことは疑いない。これまで、これらの陣営にはあまりの安倍人気と橋下維新ブームの風が強くて、あきらめムードが漂っていた。しかし、今やムードが変わってきつつある。

 しかし、アベノミクスも駄目だとなると、後はどのような政策があるのだろうか。もはや手はない、もうほっとくしかないと、新自由主義化をさらに進めることになるのか。それとも社民化して多少の延命を図るのか? もう一つの可能性は、価値を外から移転させることである。近年の差別・排外主義、人種主義、の一部での台頭は、そのような社会的欲望が生み出されている証拠ではないのか。フランツ・ファノンは、『フランツ・ファノン著作集4 アフリカ革命に向けて』で、人種主義を次のように規定している。「人間を奴隷化するには、論理一貫してその人間を劣等視しなければならない。そして、人種主義は、この劣等視の感情的、情緒的な、時には知的なあらわれにすぎない」(42頁)。これは、まさに、今の日本の差別排外主義者たちに当てはまる。また、ファノンは次のようにフランスの非共産主義左翼と共産主義左翼を批判している。

非共産主義左翼は、植民地体制が、消滅すべきものであることを容認する。しかし、植民地体制の清算――この場合、集団内部の階級闘争は残るが、より好ましい体制に引き戻される――及び、フランスから独立したアルジェリア民族の承認との中間に、この左翼は、数多くの段階、下層段階、独自の解決法、妥協、等々をはさみ込むのである。
 明らかに、こういった左翼にとっては、アルジェリア戦争の終結は、一種の内的連邦制度と改良〈フランス連合〉をもたらすものでなければならない。したがって、このようなフランス世論とのわれわれの不一致は、何人かが主張するような心理学的種類のものでも、戦術的種類のものでもないのである。急進党左派、ならびに人民党共和派左翼は、アルジェリア独立の思想を受け入れなかった。それゆえ、「われわれは基本的には一致している、が、方法においては一致しない」といった立場は根底的に誤っているわけである。

 他方、共産主義左翼は、植民地諸国が独立国へ発展することは歴史的必然であると公言しておきながら、フランスとの特殊な関係の維持を要求している。このような立場は、いわゆる極左政党でさえもが、フランスはアルジェリアにおいて諸権利を有しており、支配緩和が必然的に全関係の消滅をともなうものであってはならない、と考えていることを明確に示している。このような精神構造は、合理主義的温情主義の形、ないしは、後退の危険をふりかざしての威しという形をとって示される。
 フランスとの関係なくして、諸君は、いったいどうするというのか、と予測が下される。
 諸君は、技術者や通貨や機械を必要としている……。
 砂漠に侵食され、沼地に荒らされ、疫病の猛威に襲われるアルジェリアの終末図さえもが、われわれを考えなおさせるために動員される。
 植民地主義者は、そのプロパガンダの中で、フランス人民に語る。フランスは、アルジェリアなしには生存できない、と。
 フランス反植民地主義者は、アルジェリア人民に語る。アルジェリアは、フランスなしには生存できない、と。
 フランス民主主義者は、彼らの態度の植民地主義的性格、あるいは、新概念を使えば、新植民地主義的性格に、いつも気づいているわけではない。
 フランスとの特殊な関係を要求することは、植民地構造を間接的に維持しようという欲望に照応する。ここで問題になっているのは、一種の必然性のテロリズムであり、それを根拠に、アルジェリアにおける価値あるいっさいのものは、フランスの枠外では、生み出されることも、実現されることも不可能だと決め込まれてしまうのである。事実、フランスとの特殊な関係を要求することは、アルジェリアを、未熟な保護国の段階に置くことで、永久に維持していこうという意志に一致するのである。そのうえ、それは、アルジェリア人民のいくつかの搾取形態を保証することでもある。それが、民族闘争の革命的展望への深刻な無理解を証明するものであることは、異論の余地がない(同上83~4頁)。

 ここで指摘されている思想と同じものは、今でも様々なヴァリエーションをもって繰り返されている。私もいろいろとそういうものを何度となく聞いているが、そのような戯言などをまともに聞くことはない。なんてつまらないことを言うのだろうという表情で聞き流すか、議論できそうなら議論してきた。ファノンは、『アフリカ史を学ぶ人のために』(岡倉登志篇 世界思想社)の第2部第8章「仏領アフリカの独立」で取り上げられているフランス領植民地で「従属民」議席を得てフランス国民議会議員となり、後に独立したコートジボワールの首相となったウフエ・ボワニを批判している。それは興味深いが今はここまでとする。

 他方で、世界システム論のウォーラーステインは次のように述べている。

民族性(ピープルフッド)は、史的システムとしての資本主義の主要な制度的構築物(コンフリクト)である。それは史的システムとしての資本主義の本質的な支柱であり、また、そのようなものとして、史的システムが濃密化するにつれてますます重要となっている。この意味で民族性(ピープルフッド)は、主権国家の構築と似ている。主権国家の構築もやはり史的システムとしての資本主義の本質的な支柱として、ますます重要なものとなっている。われわれは、資本主義世界経済という世界史的社会(ゲゼルシャフト)の内部で形成される、これらの基本的な共同体(ゲマインシャフト)への帰属を弱めるのではなく、むしろ強めつつある(『人種・国民・階級』大村書店 147頁)。

 当然、ここで言う民族性と階級性は別の構築物であって、共同体の種は異なるが、その間の矛盾・対立は、社会内的であって、相互に関連していることが混乱を引き起こす要因になっている。これも興味深い論点だが、今は置いておく。共著者のバリバールが、性差別と人種主義の関連を指摘しているのも、橋下発言がモロそうだったこともあり、重要なことだが、それも置いておく。このことは、戦時性暴力問題を追求したフェミニズムからも指摘されていることである。

 もともと、民主党の大敗は、鳩山・小沢民主党に期待した人々に応えられず、どんどんそこから後退していったことに原因がある。自民党の大勝は、民主党への失望から反民主票が出たことによるものであり、その多数がリベラル支持や脱原発を変えたとは思えない。選択肢を失った有権者の多くが棄権したとみられる。問題は、それをきちんと政治表現できる運動が、社共や勢いで押し上げられた脱原発運動では、これ以上発展・前進させられないところにきていることである。そのヘゲモニー、それを創出できる政治勢力を左派の改革を通じて大きく登場させなければならない時がきたのである。

 なお、6月31日、金曜日の平日の昼間であるにもかかわらず、1000人(主催者発表)もの人々が結集した福島原発告訴団の集会と東京地検前行動、東電前行動の中で、全国に散り散りに避難した福島の人たちが集まり、それぞれのブロックからの代表者が発言していた。これらの人々は、山下俊一前福島県立医大副学長やIAEAなど、意図的に放射能被害を過小に見積もって安全を強調する勢力や未だに責任をきちんと取っていない東電、自民党政府、学者、官僚などに対する鋭く内容ある批判、告発を語ることができるようになり、強いられたものとはいえ(福島第1原発事故がなければ避難することもなかったのだから)、立派な運動家に成長しているのがわかり、感無量であった。3・11以降、慣れないことを始めて、言葉も少なめであり、大人しかった被災者たちが、1000人を前に見事なアピールができるようになったのである。参議院選挙に出馬するという人もいた。そもそも原発をこんなにたくさん作り続けてきたのは自民党政権であり、その責任も取らず、反省もなしに、またぞろ原発推進→再稼働促進を言う安倍自民党政権は退場させなければならない。

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