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アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)②東・北東アフリカ

東・北東アフリカ                                                             

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 「現在の国名で、スーダン、エチオピア、エリトリア、ジプ、ソマリア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、ルワンダ、ブルンディを含む。さらに、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の東部とチャドも隣接地域として言及されることになろう」(『アフリカ史』山川出版40ページ)。アフリカの国境は、あまり固くない場合が多く、人々が国境を越えて移動したり、交通しているので、隣接地域とも強い関連がある。例えば、ルワンダ軍がコンゴ民主共和国側に越境して居座り、干渉したりする。東岸は、紅海とインド洋に面し、ナイル川と大地溝帯が走る。白ナイル川の源流はブルンディ領内で、アフリカ最大の湖ヴィクトリア湖をへて、スーダンを貫流する。青ナイルの源流はエチオピア高原のタナ湖で、ハルトゥームで、白ナイルと合流する。流域は、ブルンディ、ルワンダ、ウガンダ、スーダン、エジプトの大部分、エチオピア西部、ケニア、タンザニア、コンゴ民主共和国の一部が含まれる。

 東部地溝帯は、ジプチからエチオピア、ケニア、タンザニアに至る。西部地溝帯は、ウガンダ北西部からルワンダ、ブルンディ、タンザニアとコンゴ民主共和国の国境をへて、マラウィ、モザンビークにいたる。多数の湖があり、地溝の幅は3040キロ。深さは、推進1435メートルのタンガニーカ湖で、海抜マイナス653メートル。東西に高い山脈が連なっている。アフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5895メートル)などの高峰がそびえる。

 「私たちは、大地溝帯は人類の進化と深くかかわり、またナイル川は古代エジプト文明をはぐくんだことを知っている。本章とのかかわりでは、両者は人々が移動する際の障壁であったと同時に回廊の役割をはたしていたことが重要である」(同
42ページ)。

 東・北東アフリカの特殊性は、古代エジプトとエチオピアという「文明」が存在したことだが、これらの文明の担い手は、ニグロ(黒人)ではなく、広い意味の白人に属するハム系の人々と考えられた。こういう近代ヨーロッパの人種観は、たんに研究のレベルだけでなく、植民地統治のあり方や脱植民地期の政治にも大きな影響を与えてきた」(同54ページ)。セレブマンの人種説の「ハム仮説」は、アラビア半島のハムが、古代エジプト、牧畜民ハムが、優秀な軍事力によって石器時代にあったニグロの農耕民を征服したとする説である。ハム系諸王国として、ニョロ、アンコーレ、ルワンダなどが考えられた。さらに、セムとの混血で、鉄器文化を持ったバントゥ系の人々が、サンやコイコイなどの原住民を征服し、東武、中部、南部に拡大したというのである。「近代ヨーロッパ人は、アフリカに高文化や文明の証拠をみいだすと、アフリカ人の手による自生的な発展の結果ではなく、「外部」からもたらされたものとみなす傾向があった。「未開」の部族が住む「暗黒大陸」では、そうした発展はありえないという先入観があったからである」(同56ページ)。

 「セムとハムは旧約聖書に由来する名前である。「創世記」によれば、ノアにはセム、ハム、ヤベテという三人の子があり、全世界の民は彼らの子孫である。ハムが父ノアの裸を見たために、ノアはハムの息子カナンを呪った。「カナンは呪われよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[「創世記」第
9章、日本聖書協会]。ユダヤ人とアラブ人はセムの子孫と考えられたが、ハムという概念の内容は時代とともに揺れ動いた。近世ヨーロッパでは、すべての黒人は「呪われた人々」の子孫と考えら(55ページ)れ、それは「劣等人種」としての黒人の地位とうまく整合した。近代になると、黒人一般をさすのではなく、身体的特徴が黒人的ではなく、ヨーロッパの基準からすると顔立ちの整った(鼻筋のとおった高い花と分厚くない唇をもつ)北東アフリカの人々を意味する語として用いられるようになった。そして、セリグマンのように、ハム系の人々は黒人という意味でのアフリカ人ではなく、むしろ白人であるとみなされるようになったのである。後述のように、現在ではハムという用語は、その人種主義(レイシズム)的な偏向のゆえに、言語学的にも人類学的にも死語となっている」(56ページ)。

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 「ルワンダは、1994年の大虐殺をはじめとして、ツチ人とフツ人のあいだの「民族紛争」が独立以降、繰り返されている国である。この国は、植民地化以前はツチを支配階層とし、フツを被支配層とする王国を形成していた。国家の起源は、北方から移動してきたハム系牧畜民ツチが、バントゥ系農耕民のフツを征服したことにあると考えられていた。植民地化以前の支配・被支配の関係、および搾取の形態については議論の余地があるが、植民地化以降にツチとフツの境界が固定される一方で、ヨーロッパ人の「ハム仮説」をルワンダ人自身が受容したことが、独立後の紛争の主要な原因のひとつであると指摘されている。つまり、ツチは身体的にも美しい優等人種であり、フツは劣等人種であるという認識をルワンダ人が自らのもととしたことが、独立後の政治史を方向づけることになったのである。

 エチオピアの文明を担った人々は、のちにハム系、つまりユダヤ人やアラブ人と同系の「白人」と認識されるようになったが、その起源がアフリカ大陸の外部に求められたことにはかわりがない。後述のように、エチオピアの歴史研究は「セム史観」に大きく傾斜しつつ発展してきた。その結果、非セム系の人々がはたしてきた歴史的役割が十分に評価されなかったばかりでなく、エチオピア史をアフリカ史の文脈に位置づける試みもないがしろにされた。また、セム史観は、近代のエチオピアにおける民族(
57ページ)紛争の主要な原因のひとつにもなった。

 ヨーロッパ中心史観のもうひとつの側面は、時代区分である。前世紀の前半、考古学的調査が進展するにつれて、西アジアとヨーロッパで用いられてきた、旧石器時代―新石器時代―鉄器時代といった時代区分がアフリカにも適用されるようになった。しかし、現在ではこうした区分の妥当性には大きな疑問が呈されている。既存の外来の物差しをあてはめるのではなく、実証的な調査研究を積み重ねて、アフリカの各地域における発展を解明することが、第一の課題であると考えられるようになったのである。(
58ページ)

 エチオピア人の「セム的歴史観」は、ヨーロッパ人のエチオピア観と相互補完的な関係にある。
156世紀のヨーロッパ人は、エチオピア(アビシニア)を、失われた伝説上の東方のキリスト教王国「プレスター・ジョンの国」とみなした。また、近代欧米のエチオピア研究者たちも、2000年以上におよぶ国家と文字システムの歴史を有し、4世紀からキリスト教の伝統があるエチオピアを、他のアフリカ地域とは異なる「文明国」であると考えた。そしてこの文明は、土着で自生的なものではなく、非アフリカ的で外来的なものととらえたのである。 エチオピアは、たしかに独自の歴史と伝統を有する国である。近代においてヨーロッパ列強による植民地化をはねつけて独立を維持した事実とあいまって、「セム的歴史観」は、近現代のエチオピア人に自信と誇りを与えてきた。しかし、このイデオロギーは、エチオピア正教徒であるセム系エチオピア人(主としてアムハラ人ティグライ人)以外のエチオピア人には受け入れがたいものであった。現在では国民の過半数を占める、クシ系やオモ系、さらにナイル・サハラ語族の人々、および人口のほぼ半数を占めるといわれるムスリムは、エチオピアの偉大な歴史と伝統から排除されたばかりでなく、しばしばその敵対者と(82ページ)みなされてきたのである(83ページ)。

 北東アフリカは、紅海を隔ててアラビア半島と隣接している。したがって、
7世紀以降、アラブ人とイスラームの拡大の直接的な影響を受けた。現在、この地域の国々の人口の多数はムスリムである。……それにもかかわらず、白ナイル上流から東アフリカの内陸部にいたる広大な地域では、19世紀になるまで両者の直接的な影響はほとんど存在しなかったことに注意しておくべきである(84ページ)。
 ヌビアのアラブ化とイスラーム化。13世紀、アラブ系遊牧民が南下、母系制によって、それが推進された。「ヌビア人の女性と結婚したアラブ人の息子は、土地、財産、地位にたいする正統な権利を獲得した」(85ページ)。「アラブ人、およびアラブ化した、ヌビア人をはじめとする土着のスーダン人は、南方だけでなく、西方のコルドファン地方、ダルフール地方、さらに現在のチャドやナイジェリアにまで拡大していった。これらの人々は、アラブ人としての正当性を主張するため、アラビアに起源を求める出自を名乗った。代表的なものに、ジュハイナと、アッバース朝との血縁を主張するジャアリーンがある。それぞれ、さまざまな氏族と部族を含む、「超部族」のようなカテゴリーであり、現在のスーダンでアラブ人としてのアイデンティティをもつ人々のほとんどは、いずれかに属している(86ページ)。

 「
16世紀から17世紀にかけて、スーダン北部では2つの王国が形成され、19世紀まで存続した。青ナイル河畔の都市センナールを中心に、白ナイルと青ナイルの流域を支配したフンジ王国(スルタン国)と、西部のダルフール地方に本拠をおいた警ら王国である」(92ページ)。「15世紀から16世紀初頭にかけて、ヌビア地方はアブダッタラ―・ジャンマーというアラブ人の勢力下にあった。アブダッラーは交易ルートを支配していたと考えられる。前の時代に引き続き、ヌビアは、金、ゴム、乳香、麝香(じゃこう)、犀角、ラクダおよび奴隷などの供給地として国際交易のなかで重要な位置を占めていた。これらの交易品は、アラビアとエジプトに輸出された。/16世紀初頭、南方からアマーラ・ドゥーンカスという指導者に率いられたフンジと呼ばれる人々が登場し、青ナイル沿岸のアルバジーの戦いでアブダッラーの軍隊を打ち破ってフンジ王国を建国した。1504年のことであった。アマーラ―の勢力圏は、ヌビア北部のドンゴラ地方ばかりでなく、当時国際的な貿易港として繁栄していた紅海沿岸のサワーキー(スワキン)までおよんだ(92ページ)。イスラーム化が進んだ。1821年エジプトに降伏、滅亡。

 ケイラ王国は、ダルフール地方のマッラ山の山麓に中心をおく王国で、ケイラは王を輩出した、フール人の氏族の名称である。王国の由来は詳らかではないが、
17世紀中期には資料に登場する。ムスリムであった王はスルタンと称した。もともとは、サヘル地域の諸王国に共通する神聖王権であったものが、スルタン国に変質していったもんと考えられている。ケイラ王国は、18世紀前半には勢力を拡大し、東方のコルドファン地方の詩は危険をフンジ王国と争うようになった。そして18世紀前半には勢力を拡大し、スルタン、ムハンマド・タイラブの指揮下、フンジの勢力を駆逐して、コルドファンを支配下におさめた。/ダルフールは、東のナイル河谷と、西のサハラ・サヘル地企図を結ぶ要衝であった。また、北方のエジプトとは、ナイル川経由ではなく、砂漠を縦断する「四十日路」によって直接結びついていた。南方の南部スーダンとの境界あたりから供給される奴隷は、エジプトとの交易における重要な交易品であった。1916年植民地に。

 大湖地方(アルバート湖、エドワード湖、キブ湖を擁する地域)は、北部のアルバート湖周辺に西ナイル系、中央スーダン系の人々、西部のコンゴ民主共和国との境界付近にはピグミー族がいる。全体にバントゥー系の世界になっている。
19世紀後半に、ナイルヨーロッパの探検家が、ガンダ王国やニョロ王国に出会っている。その前にキタラ王国があり、ニョロはその後継と考えられている。「キタラ複合体の南方、ヴィクトリア個西方の地域には、ルヒンダ複合体と総称されるウコーレ王国やカラグウェ王国があり、さらにその南方にはルワンダ王国を中心とするルワンダ複合体があった。ルヒンダとは、複合体の諸王国の始祖とされる王の名前で、15世紀前半に実在したとされている。彼も富裕な牧畜民ヒマであった。ルワンダ王国の成立について、近年の新しい説を要約すれば以下のようになろう。すなわち、牧畜民ツチが集団で来訪し、農耕民フツを征服することによって突如国家が形成されたのではなく、15世紀末と考えられる強力な国家の成立以前に、複数の小国家がすでに存在しており、牧畜民と農耕民の関係も、支配‐被支配という単純なものではなかったのである(98ページ)。

 「東はスワヒリの世界であった東アフリカのインド洋沿岸部、西は大湖地方に挟まれ、北は南部スーダンにいたる地域では、南クシ系、東クシ系、南ナイル系、東ナイル系、西ナイル系、そしてバントゥ系のさまざまな集団が移動と接触を繰り返し、せめぎあい、共存するなかで集団と文化の形成がおこなわれた。この地域では中央集権的な国家の形成はみられず、小規模な首長制国家や、国家なき平等主義的な社会が多数存在した。考古学的資料は乏しく、主として言語学的資料と口頭伝承に基づいて過去の再構成がおこなわれてきた」(
99ページ)。

 「東部地溝帯とその両側のサバンナは、乾燥地帯であるがゆえにバントゥ拡大の舞台とはならなかった。この地域は、北方から南下する牧畜民、半農半牧民の回廊であった(100ページ)。移動の要因としての大干ばつと飢餓。割礼と年齢組織。異なる言語=民族集団に属する人々のあいだには、共通する年齢組織のほかにも、境界を越えるさまざまな紐帯が存在した。複数の集団にまたがる氏族はそのひとつである。つまり、氏族へのアイデンティティーは、集団を横断しているわけである制度化された友人関係や結婚による姻戚関係も重要な紐帯である。/経済的には、塩や鉄といった産地や生産者が限られた基調で必須の物資の交易が、異なる集団を結びつけていた。また、集団が生業的に特化している場合、農耕民、牧畜民、狩猟採集民のあいだには、経済的な相互依存関係が存在する」(104ページ)。

「現代の東・北東アフリカは、慢性的な「民族紛争」の舞台となっている。スーダンの内戦(19832005年)の犠牲者は250万に達したといわれており、ルワンダでは、1994年に「ジェノサイド」といわれる大量虐殺が発生した。ウガンダ、ブルンディ、エチオピア、ソマリアも長期の内戦を経験している。紛争の主要な原因のひとつは、植民地時代に「創造」された部族=民族集団のあり方に求められる。植民地化以前は、流動的で柔軟な、ソフトな存在であった民族集団が、植民地化以降は統治の必要上、固定されたハードな実態に変化したばかりでなく、国家権力との関係によって階層化された。特定の民族集(104ページ)団の出身者が行政の末端を担う役人や兵士・警官として登用される一方で、他の民族集団は国家のなかで周辺化された。独立後は、植民地時代に中・下級官僚であったアフリカ人エリートが国家のヘゲモニーを掌握し、こうした構造は一層強化されると同時に、ヘゲモニーをめぐる争いも激化したのである。現在のような民族紛争は、けっして伝統的なものはない。2003年にスーダンのダルフール地方で発生し、2008年の時点でも継続している「民族紛争」も、2007年、ケニアの大統領選挙後に生じた「民族紛争」も、適切な理解のためには、まず、歴史的文脈のなかに位置づけられる必要がある。紛争の原因を理解し、殺戮によって生じた傷を癒し、あらたな民族集団と集団間の関係のあり方を構想しようとするとき、私たちが過去から学ぶことは大きい。歴史の現代的意義はそこにあるといえる」105ページ)。

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