主体について、スピヴァクから学ぶ
アフリカ問題についての本をいろいろ読んでいた時に、まず考えたのは、アフリカの解放運動の主体はどういうものかということと、解放の条件はどうか、ということであった。『アフリカ史』の編者川田順三氏は、人類学者で、その立場を踏まえて、書いている。特に、「言語論的転回」を踏まえられているようで、言語への強いこだわりが見られる。序文では、漢字学の成果も取り入れていて、表意文字と音声文字の違いにも言及されている。そして、アフリカの場合、無文字時代が長く、文字を持ってから短いこともあり、口唱による伝承も重要であることを指摘している。それから、太鼓言葉のようなものまであることを指摘している。他方で、古代エジプトでは、ヒエログラフという絵文字が古くから用いられている。ナイル川上流部の文明も古く、クシ王国などは、エジプトを征服し、王朝を築いているということもある。人の移動も活発で、バントゥ系集団は、四方八方に長距離移動している。そして、海の交通である。インド洋沿岸では、中国や東南アジア、インド、アラブなどのものが多く出てくる。マダガスカルは、それらが独特の形態で混じりあっている。それらは、変形しつつ保存されており、現在まで伝えられ、残されている。
『スピヴァク みずからを語る』(岩波書店)を読み終えた。そこには、サバルタンの簡潔な定義がある。
最初のショポン・チョクロボルティ(ジャドプル大学教授)によるインタビュー「家」では、生い立ちのことや故郷のことなど自伝的なことが中心に語られている。スピヴァクは、彼女にとって、家とは、方向のようなもので、名前もなく、空中のようなものである(23ページ)と言う。つまり、本拠地となる家は、家と名づけることにあり、それは想像力を育てるものだというのである。「ですから、想像力が文学を読む者になにかをなすとすれば、それは、その人の想像力を鍛え、他の人々の世界に入らせるのだと思います。本とはそういうもの、詩とはそういうもの、過去とはそういうものです。そしてその観点からすると、家という概念は無限に拡大が可能です」(26ページ)。
インタビューは2003年に行われているが、彼女は、「脱構築主義の流行は終わったと、私は思っています」(27ページ)と述べている。そして、政治論である。「政治とは、変化を計算することにいやおうなく組み入れられる場です。つまり、法がどう変化するのかを計算し、立場は変化するにもかかわらず、なんらかの立場を取るとどうなるかについて計算することに、いやおうなく巻きこまれてしまう場なのです」(28ページ)。しかし、その政治が長い目で見て効果をもたらす道は、ただ「長いスパンでの教育、すなわち、強制力をともなわずに欲望を再配置することが同時進行してはじめて、政治の変化は長続きします」(同)。その教育とは、発話の可能性という人間を人間たらしめるものを育てることである。それは、「教師の身についてしまっている精神構造を変える}(47ページ)ことで実現できる。
2001年9・11後のアメリカでの愛国主義の熱狂に対しては、「愛国心」とは「悪党の最後の逃げ場」であるとし、「パトリオティズム」の語義が「パトリア」(父)と「主義」(イズム)の組み合わせてあり、父祖の土地といった意味であること、それは、デシュプレム(自分の国(カントリー)にたいする愛)とはまったく違うことを指摘して批判する。
スザーナ・ミフレスカ(ジェンダー研究センター講師)のインタビュー「抵抗として認識され得ない抵抗」では、最初に、グローバル化について語っている。
強国が弱小国家に結局はあまり関心がないことに、弱小国は気づいていません。強国の関心はむしろ、新興の市場をいかに分配するかにあるのです。分配するには新興市場の経済は「安定させられ」かつ停滞させられねばなりませんし、アフリカの市場経済の場合だと、グローバル資本にしたがって構造化しなおされてはじめて、興りうるのです。支配的な国家は、ナショナリズムの紛争を軽蔑視するか、同情を装って資本主義の視線で見ます。(69ページ)。
そして、彼女の出した有名なサバルタンについて語る。『サバルタンは語ることができるか』のもとになった講演は、「女が抵抗を行なっても、社会基盤がないために抵抗が人々に認識されないのであれば、抵抗は実を結ばないということでした。講演の主眼はそこにあって、たとえ階級が上であっても女であれば同じことだという事実を無視しては、この社会問題は解決しない」(70ページ)という趣旨だったという。サバルタンとは、「社会を自由に移動できない人のことです。これは男の場合、階級が低ければ当てはまります。もちろん、家父長制はつねに、なにがしかの移動する力を男に担保します」(同)。
「労働する人体の特徴は、必要以上のものを作りうることです。この差異のことを、私はこれまで主体の過充足(自分が必要とするより多くのものを作り出すこと)と呼んできました。この差異をもとに、不等価交換をつうじて剰余価値が引き出されます」(85ページ)と、ここでは、マルクスの概念が出てきて、それにジェンダーの千年単位のスパンでの特徴として、、経済的政治的ばかりではなく、倫理的な規範があることが指摘されている。
最後のインタビュー(タニ・E・バーロウ(ワシントン大学教授)「知識人としてきちんと答えたとは言いがたい回答」では、彼女は、「国際NGOに取りこまれるよりは、国家と批判的な関係でありたいと、いまでも思っている」(103ページ)「新しい社会運動に慎重」(同)だと述べている。そして、「でも私は昔風の共産主義者ですよ、悪いけど」(107ページ)とさらりと言う。それから、彼女が取り組んでいる貧しい者たちへの教育活動のことで、彼女は貧しい土地の学校教師に、「彼らが受けてきたような教育と、上位階級の子どもたちが受けるような教育とのあいだの差によって、富める者と貧しき者の差が、そのまま維持される――このことを教師に気づかせる」(118~119ページ)と述べている。大事なのは、「強制でない欲望の再配置」であるという考えからそうしているのである。こういう思想も、レーニンと似ている。レーニンは、「強制によらない諸民族の融合」と言う。それには、そういう欲望を適切に配置しなおさなければならない。支配民族の譲歩(民族序列の下位への移動)という欲望の再配置が必要だというのである。これによって得られる交換物は、被支配民族の民族主義の譲歩である。それで、平等へ近づける。レーニンの民族問題の政治思想はそういうものである。
教育が階級階層差別を再生産するのは、同じ本が使われていても上流階級の学校では、「子どもたちが理解するように教えられているのにたいし、ここでは綴りと暗記しか教えていない」(119ページ)からである、とスピヴァクは言う。これも素晴らしい! そして、西ベンガル州は、中国に次ぐ世界第二の共産圏であるが、そこで共産主義が失敗しているのは、共産党が社会を動員することしかせず、人々の認識を変化させられなかったからだと言う。そのことは、国際的な共産主義が失敗した理由でもあるという。
国際的な共産主義が失敗した理由は、認識の変化がなく、ただ社会が動員されただけだったからなのです。集団性は人為的で、長続きせず、あまりにも拙速で作られます。だからこそ、人々が悪しき資本主義を欲するように仕向けるのは、実に簡単なのです。(125ページ)
彼女は、人々が悪しき共産主義を欲したのではないと言う。「進歩を急ぐあまり、上から人々に押し付けられた」(同)というのだ。そのために、悪しき資本主義であっても、共産主義をつぶすのは簡単だったというのである。そして、「国際的な共産主義が失敗した最大の理由の一つは、サバルタンの主体性にかかわらなかったからだ」(126ページ)と言う。動員だけして、主体性を創造できなかったというのである。その場合の主体性は、「主体形成、つまり、みずからを参照する足場を作り、そこから、みずからを意識する社会の行為体(エージェンシー)へと向かわせるという主体形成」(127ページ)のことである。
かつての日本での主体性論争でも、こうした主体性ではなく、精神、知識、意識の内容に論議が集中して、精神構造的な領域についての議論が希薄であった。もちろん、それを、封建的主体性から民主主義的な市民的主体性の形成という形で問題にした丸山真男のような人もいた。市民的主体性の形成が戦後民主主義を支え発展させるものと思われたのである。しかし、その場合に、サバルタンは置き忘れられ、形成された市民社会は、サバルタンの入れない、入りにくい仕組みを持つものとなり、それに無自覚でそれを直そうとしなかったため、70年代以降、市民による差別、市民の差別性が、障害者解放運動などからつきつけられることになる。去年、川崎市でバスターミナルを占拠した障害者たちの闘いの記録映画を観たが、その中で、市民と称する女性が、市民に迷惑をかけるようなことをしないで、要求があるなら、国会に行ってやればいいじゃないとマスコミのインタビューで語るシーンがあった。この一般市民は、障害者たちが国会に行くためには、バスが乗車拒否をしないで、バスに乗れないといけないということを想像できなかったのだ。映画が終わった後、講演した障害者団体の幹部の人は、「市民が差別する」と言った。良き市民像は、健全なる精神を持つ合理的思考が可能な男性健常者をモデルとして形成されている。スピヴァクは、マルクスが「フォイエルバッハ・テーゼ」の第3テーゼで述べたことを実践しているが、それは、自らの市民的立場を対象化し、批判して、自己改革することを怠っている市民主義者に当てはまる。
環境の変更と教育とについての唯物論的学説は、環境が人間によって変更されなければならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、わすれている。したがってこの学説は社会を2つの部分――そのうちの一つは社会のうえに超越する――にわけなければならない。
環境の変更と人間的活動あるいは自己変更との合致は、ただ革命的実践としてのみとらえられそして合理的に理解することができる。(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳 岩波文庫 236ページ)
もちろん、民主的市民主義者が、サバルタン性を理解して、それと適切な連帯関係を作れるように自己変更をすることができれば、農村=遅れた人々=保守基盤というステレオタイプなイメージから解放され、自己の解放にも役立つのである。実際のところ、福島の農村部はそんなに保守的ではない。東電と対立して知事辞職を余儀なくされた佐藤栄佐久元知事もけっこうリベラルであった。彼の知事時代に県立高校は全て男女共学になった。返り咲いた郡山が地盤の根本匠復興大臣も自民党内リベラル派の加藤派所属だったし、前々回の衆議院選挙では民主党が圧勝している。社民党の地方議員もけっこういる。三春はリベラルな教育改革をやり、その世界ではモデルとして有名だ。武藤類子さんの父親が教育長として教育改革をやったのである。
インドの共産党が長く政権に入っている、世界第2の共産圏の西ベンガル州で生まれ育ち、ニューヨークに住み、サリーを着て歩き、BMWを運転し、「昔風の共産主義者」を自称し、3回結婚し離婚したフェミニストであり、世界各地を飛び回り、中国の奥地で教育改革に取り組みもするガヤトリ・スピヴァクが「社会を自由に移動できない人」と規定したサバルタンは、福島の農村部にも都市部にもいる。それがよくわかった。
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投稿: 村石太キッド&ジージョ | 2013年7月 5日 (金) 16時27分