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『イモと日本人』

 坪井洋文氏の『イモと日本人』(未来社)の「一民族と国家」で、氏はまず次のように言う。

 日本人の間に民族や国民の意識が芽ばえたのは近代西欧との出会いによるものであり、それ以前は日本民族と日本国民の区別を明確にすることは少なかった。近代以降においても、民族と国民の区別を明確に認識することは少なかった。近代以降においても、民族と国民を意識的に区別しうる日本人は限定されていたといってよかろう。このような民族=国民の観念は、日本人のおかれた自然的・地理的環境や歴史的事情に加えて、水田稲作農耕を基盤にした文化の日本的特性によるものであるが、何よりも日本人総体が、異なった民族や国家の総体と接触する経験を、長い間もたずに経過してきたことによるといえよう。それでは、日本民族=日本国民観成立の基盤は、日本にとって所与のものであったかというと、なお多くの問題に検討を加える必要がある。(10ページ)

 この間、佐々木高明氏や中尾佐助氏や赤坂憲雄氏や網野善彦氏などの著作を読んでみて、こうした点については、戦後ずっと研究・議論が進められてきたことがわかった。その長い蓄積の上に、柳田国男のような水田稲作中心主義イデオロギーの批判や相対化が行われてきたのである。

 柳田国男は、「第二次世界大戦後になって、日本人、日本文化の核ないしは心性の基盤を水田稲作農耕においた」(44ページ)が、「日本文化をイコール稲作農耕文化とする単一文化論的史観は、なにも柳田に限ったものではなく。第二次大戦前における日本人の常識的史観であったが、柳田の影響力を強く受けることの多かった日本民俗学会にあっては、稲作を基盤とした民俗の分析と体系化こそが、日本民俗学の主要課題とされた。だから、稲作農耕民である日本人の深層に潜む、価値観とか世界観とかいうものは、稲作とのかかわりにおいてのみ理解されるというのが、これまでの日本民俗学の前提であった」(同)。

 このような前提を内在的批判にかけることで、赤坂憲雄氏の提唱する「ひとつの日本」から「いくつもの日本」へのベクトルが、平行四辺形の合力線として、あるいは立方体の合力線として、力を描くようになるのである(これは、ドゥルーズの言う「線」でもある)。たんなる矢印ではなく、力を持つ線として。

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