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『産経』は皇軍信仰を貫いてないが、こっちの共産主義は貫かれている

 これは、フェイスブックに投稿したものを元にしている。

 『産経新聞』の社説は、いわゆる「従軍慰安婦問題について書いている。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130804/plc13080403180002-n4.htm
 「いわゆる「従軍慰安婦」の強制連行を認めた河野洋平官房長官談話の発表から20年たった。この間、事実誤認が明らかになり、強制連行説は破綻した」。事実誤認と断定→「談話は「従軍慰安婦」という戦後の造語を使い、その募集について「官憲等が直接 これに加担したこともあった」と日本の軍や警察による強制連行を認める内容だった。河野氏も会見で「強制連行」があったと明言した」。造語、新しい概念を使うことには別に問題はない。例えば、「哲学」も明治時代に作られた造語である。

 「宮沢内閣が約1年半かけて内外で集めた二百数十点に及ぶ公式文書に、強制連行を裏付ける資料は1点もない」。そんなことを公式文書が記録する可能性は低い。軍の実態については、後の兵士・軍属などの証言で明らかになった。靖国神社では死者と対面し語れることになっているはずだから、死者の証言が聞けるはずだと皮肉りたくなる。

 「戦時中、山口県労務報国会下関支部動員部長だったという人物が「自ら韓国の済州島で慰安婦狩りを行った」と述べ、国連人権委員会の報告に取り上げられたが、現代史家の済州島での現地調査で、「告白」は嘘と分かった」。秦邦彦氏は、実証主義歴史家として、沖縄戦での集団自決で軍の強制があったかなかったかをも争点に含む「大江健三郎・岩波裁判」で、偽証人をたててでっち上げ証言をさせた人で、吉田証言についての彼の調査にも疑念が出てきていて、再調査が必要ではないかということになりつつあるようだ。

 「戦地慰安所の生活条件は、当時の遊郭とほとんど変わらなかったことが、学問的にも確かめられている。慰安婦は決して「性奴隷」ではない」。当時の日本 の遊郭を基準にしてどうこうというのはそもそもどうかという反省がないのはおかしなことだ。合法性と同時に道徳性・倫理性も問題にしないといけない。軍隊=規律という点も含めて。現代における労働力の自由で平等な売り買いと労働の提供と対価の支払い(健康で文化的な生活を営める水準の)、労働時間・労働 強度、適切な労働内容等などというような点も含めて、総合的に、人間的な扱いと言えるのか?

 「多くの教科書に慰安婦をめぐる自虐的記述が登場している」。自虐的か否かという価値観を人々に迫るのは妥当なことではない。 

 結語:「日本の未来を担う子供たちに間違った不名誉な歴史を伝えないためにも、河野談話の誤りは正す必要がある」。

 不名誉という価値観も付け加えられているが、「間違った歴史」を伝えないというのは当然だ。この点で、麻生太郎副総理の発言は、ワイマール憲法をナチスが改憲したと「間違った歴史」を伝えてしまったわけで、そもそも副総理という職責にある人が歴史を間違ったこと自体、恥ずかしいことで、産経的な価値観からする と、これは「不名誉」ということになる。「日本の未来を担う子供たち」には、「不名誉な歴史」も「名誉な歴史」(そんなものがあったとしたら)も伝えてい くべきだ。福島第1原発事故の「不名誉な歴史」もしっかりと伝えるべきなのである。

 「産経」は、もし歴史に責任を負うべきジャーナリズムの一翼を担う気があり、その名誉心(プライド)があるなら、是非ともそうしなければいけないと思 う。3・11から間もない頃、原発推進は日本の国益、エネルギー政策見直しは慎重に、などと述べていた「産経」のオピニオン欄に、元「新しい歴史教科書をつくる 会」の保守派の西尾幹二氏と長谷川三千子氏の二人が、はっきりと脱原発を主張していたのを見て驚いたことを思い出す。「産経」さんは、もっと志操堅固で高 い倫理性を持つべきだと思う。

 戦前における日本帝国軍隊というのは、軍神として神扱いになるのだから、規律は絶対であり、私欲に負けるなどは絶対あってはならないことで、「聖人君子」たるべきものという理想をはずしては、成り立たない。軍人も人間だから欲望を合法的になら満たす必要があるなどと情けをかけることは不必要である。軍紀違反は厳格に処罰すべきであったのであり、それができないなら、そんな駄目軍隊をもって戦争などすべきではなかったのである。徴兵制は、広範な人々を軍隊に引き入れるから、どうしても軍紀を維持できなくなり、甘くなっていくのだ。『産経』は、軍人を甘やかすと、ろくなことはないし、命取りになるということを歴史から学んでいない。『産経』は、あまちゃんだ。安倍もあまちゃんで、麻生をかばっている。しかし、麻生発言が世界に広まってしまい、あの『マルコポーロ』という雑誌を廃刊に追い込んだと言われるユダヤ・ロビーの「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が取り上げた以上、ただではすまないことぐらいわからないようでは、政治家としてはどうしようもない低レベルである。

 歴史は、現代の価値観から見る他はなく、『産経』だって、明治維新を近代化の夜明けとしてプラス評価する視点からその時代を眺め評価しているのに、この問題に関してだけは、当時の法律上合法か否かなどという特殊な観点で評価するように世間にもとめているのはおかしなことだ。われわれの観点では、現代の階級闘争の観点から歴史も評価されなければならないことは明らかである。客観主義的な歴史、実証主義的な歴史というものはなく、それらの歴史観によって構成された歴史像があるだけである。この領域における階級闘争があり、現代の歴史認識はその反映としてあり、その中間性を映しているので、部分を見れば、われわれが勝っているものもあるが、全体としては、支配階級の正当化の方が勝っている。明治=近代化=資本主義化バンザイというのが基調としてあるのだ。皇軍神話は、そうした線の上に描かれており、だから、われわれはこのような神話を基準にして、この問題を再構成し、批判しなければならないのである。それは、「野生の思考」(レヴィ・ストロース)のような思考を、われわれの思想として階級闘争の武器へと転換させることなどによって、である。

 参議院選挙での大勝によって安倍自民党はたがが緩んできていることを、麻生発言は示している。そうやって、自民党政権は、またしても自滅の道を進んでいるのだが、その破綻の傷がこれまでより大きく深くなることは間違いない。そうした沼地へ入ることは、もちろん望まないし、そこから脱却する道を早く見出して、それを明確に提示しなければならない。それは、共産党のように、個別の「悪」の告発だけでは無理なことである。社会民主主義、福祉国家というオルタナティブもほぼ消えたので、それも無理である。名前だけにしろ「共産主義」を掲げる政党に投票する有権者がそれなりに増えていることからは、少なくとも、言葉の上だけであっても、「共産主義」への拒否感が少なくなっているということぐらいは言える。その信念を捨てなかったことを、今や誇りに思えるし、よかったと思える状況が少しは現れてきたということを素直に喜ぶべきだと思う。

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