主体を考える
フェイスブックにはまってブログの更新を怠っていたら、無料広告を増やされてしまった。
この一月の間も、世界の動きは慌ただしく、シリアの内戦への軍事介入の可能性が高まってきたり、オリンピック東京開催が決定したり、福島第1原発で汚染水漏れが判明したりと、ビッグ・ニュースはひきもきらさず、流れてくる。冷戦後、「平和の配当」なる言葉が一時広く言われたことがあったが、とんでもない! 1990年以降、戦争は常にあり、しかもアメリカが関わっているものが多い。現代資本主義はグローバル化していて、国家の再配分機能は縮小され続けていて、貧富の格差が拡大し続けている。それに対応して、新たな運動のうねりが拡大しているが、まだ分散状態にある。この間は、主体の問題を考え続けている。
ひとつは東北主体。3・11という世界史的事件を受けたもので、これは歴史総括に関わり、同時に未来社会に関係する。これは具体性を持った主体として考察されるべきものである。プロレタリアートの解放の民俗的要素、側面としてである。この面から、民族間関係の領域と国際主義の一面と繋げて考えるという方向である。
第2に、生産諸関係での位置と存在からの解放の主体という側面である。これを社会諸関係へと拡大していく、ネグリが言う方向で、主体の問題を考察することも含めて。
第3に、他の階級・階層との社会的関係としての解放主体の側面。グラムシやレーニンが語ったヘゲモニーの概念と関係するような方向。世界との関係で、世界史の総括(真の世界史の開始を実現する主体という側面)。
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