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2013年12月

ブントにあらずば人にあらず?

 

 「ブントにあらずば人にあらず」は、もちろん冗談だが、しかし、今日、脱原発、特定秘密保護法案反対で、数万単位の人々が国会を取り囲むことが続いている情勢に対応しようとするなら、ブント(共産主義者同盟)という言葉に象徴されるようなラディカルな変革運動ということを意識するのが当たり前である。

 革命と言ってもいいが、そういうところからは、ブントか知識人・学者かとかいう類の答えは、全てブント、イエスである。ブント主義、運動のラディカルな推進とそれに対応する主体性を形成しつつ、それとマッチし、発展させる組織の形成、ということになる以外にない。異性かブントか? ブント。家族かブントか? ブント。生かブントか? ブント。……
 いずれにしても、全て、「ブント」ということになる。

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ハーヴェイ『コスモポリタニズム』

 以下は、イギリスの地理学者のデヴィッド・ハーヴェイが、哲学者のカントの『人間学』からの引用している部分である。ハーヴェイは、地理学と人間学・人類学の関係を執拗に問うているが、カントの言っていることは、今の自由主義が差別主義と一体であることをすでに示しているもので、それを見逃さないハーヴェイはさすがである。
 もっとも、国家は地縁で成立するのだが、カントは、血統をネーション(国家)の結合原理と看做している。ネーションとステイツの違いについては議論がある。地縁→国家説は、エンゲルスとか今読んでいるローウィの『国家の起源』などで説かれている。
 自由主義者は、なるほど、自由とか平等とかを抽象的かつ普遍的なものとして主張し、それを所有権の平等から導き出すのだが、もちろん、実際には、所有は不平等であるから、それは権利の平等という観念の上での抽象的な平等でしかない。
 カントは、「市民社会の諸法の埒外に置かれている」者を、「賎民」と呼ぶ。それは、そうした集団の市民社会からの「排除」、つまりは差別を当然とする差別主義と一体の市民社会の構造を正当化するものである。それは、帝国主義の論理、すなわち、とりわけイギリスのインド支配などに表れた、文明化されていない「遅れた人々」は「子ども」であり、「大人」としての先進国は、かれらを啓蒙・教育して、良き被統治者(主体)として訓育する使命があるとする観念を強化する。市民社会は、「進んだ」国においてのみ存在するからである。かくして、カントの人間学は、市民社会と「賎民」社会、民族的その他の従属的社会の二元的社会論となっている。そして、後者を前者へ引き上げるという運動を伴っているが、それは解決不能の堂々巡りに帰着する。そうした例として、ミルトンとトーマスという両フリードマンの主張をハーヴェイは検討している。

 「人民ピープル(populus)とは、一定の地域に多数の人がいっしょに暮らしそれらの住民が一つの単位を構成しているかぎりでの、この多数の住民のことを意味する。これらの住民の全体ないしその一部が、共通の血統を通じて市民社会に結合していると自認するとき、それを国民ネーション(gens)と呼ぶ。その一部がその市民社会の諸法の埒外に置かれている場合(これらの人民のあいだにおける不法集団)、それを賤民(vulgus)と呼ぶ。彼らが非合法に団結した場合、それを暴民モッブス(agere per turbas)と呼び、彼らはその振るまいゆえに市民としての諸特権から排除される。(『コスモポリタニズム 自由と変革の地理学』作品社 52ページ)

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都市の主体者とは

 日本都市問題会議編『都市は誰のものか 都市の主体者を問う』(清文社)は、このサブタイトル「都市の主体者を問う」に惹かれて読んだもので、たまたま、福島県三春町の伊藤寛元町長の文章が載っていた。首長では、他に、竹内謙元神奈川県鎌倉市長、原田敬美元東京都港区長、元静岡県掛川市長も書いている。

 論者たちは、都市の主体を問題にしているが、中に、武谷三男の『弁証法の諸問題』で説かれた「三段階の方法論」や羽仁五郎の『都市の論理』の影響を受けたという人がいる(「情報都市へのアプローチ」菊竹清訓(日本建築士会連合会名誉会長))。都市とは何かということも曖昧ならその主体が曖昧であることも当然のことである。もちろん、行政は都市の主体者ではない。
 面白いのは、中に引用されている石原慎太郎元東京都知事の東京への見方である。
 「ゲロに似てる、この街は。都知事として言いたくないけどね、この街はね、もういかに都市計画がなかったか」(2003年10月14日江戸開府400年 記念の国際シンポジウムの基調講演)(「美しい都市こそサスティナブルである」稲垣道子(株)フェリックス代表『都市は誰のものか』清文社 159ペー ジ)。
 言い方は不適切だが、東京に都市計画はあまりなかったし、あっても頓挫したのは確かである。

 尾島俊雄(早稲田大学建築学教授)は、「都市の主体を問う」と題しながら、最初に、「町や都市の主体者は、日本国家と同様にその存在が見えない、した がって、家や都市を評価するにしても、また、町づくりにあたっても、主体者の要求性能が確かでないため、良し悪しの判断ができない」(53ページ)と言う。「社会の主体者が明確でないまま都市や環境の評価ができないのが、日本の昨今の現況である」(同)とも言う。「町づくりの主体者」がないのであれば、 自然発生的に、成るようになっていくしかなく、それが今の東京の街のでき方の基本である。2020年東京オリンピックに合わせた開発もそうなるだろう。埋め立てた土地が余っている湾岸地域に施設やインフラ整備が集中する。そこには、容積率という観点中心で高層ビルが建てられる。等々。という具合に。
 外岡豊氏は、「環境理想都市構想から21世紀社会構想へ」という文章で、「緑地確保という点からも、「土地の私有と占用から脱却しビルの構造体までを開 発業者が所有管理し、内装は入居者が行うとしても、エネルギーや通信系の各種サービスが付いた床の利用権だけを私有する仕組みにする」(同127~8ペー ジ)という提案を行っている。

 昔から、グリーンベルト論、田園都市論、など、自然環境と調和した都市像が描かれてはきたが、東京の現実は、高いビル、あるいはスカイツリーに上って、 眺めてみれば一目瞭然だが、ただただ街がどこまでも拡がっているだけで、ところどころ、ビルの山が尖っているという味気ない景観となっている。もちろん、 下を歩いてみれば、特徴のある街並みというのも見られる。歴史を想像しながら歩けば、例えば、台東区合羽橋通り商店街の下を、暗渠化された新堀川が流れる水のイメージを想像することはできる。

 都市の主体者は誰か? それは住民であるべきだろうが、同書に登場する港区のように、「夜間人口は約20万人(うち1割は外国人)、昼間人口は約90万 人」(同39ページ)というような街の主体者は誰かというような問題もある。それと、企業のよう法的人格(法人)は主体者なのかということもある。この間 の都市開発が、汐留開発や六本木ヒルズのように森ビルといった大手ディベロッパーによって行われているというのもどう考えたらいいのか。住民登録されている人という行政的定義だけでは、都市や町の主体者といっても、具体的な内容が明らかでない。都市というからには、地理的な内容がなければならない等々というこ とがあるのだ。

 脱線するが、石母田正氏の国民的歴史学運動論の入った本を読んでみると、占領統治の転換・反動、朝鮮戦争特需から景気上昇期に入り、サンフランシスコ条約締結、不完全講和の道を歩み始めた戦後日本の危機の時代の主体として、日本人の発見と民族主体の形成を歴史学の目的とするという石母田氏の考えは、危機意識がその解決主体の形成を求めるというものとなっており、東京都の街の現状は、そういうパターンを描かざるをえないところに、人々を追い立てているのではないだろうか?

 なお、全国総合開発計画は、四全総の次の全国総合開発計画として、五全総にあたる「21世紀の国土のグランドデザイン」(1998年3月31日閣議決定)を出している。国土交通省のHPで公開されている。現在、『新たな「国土のグランドデザイン」構築に関する有識者懇談会』(第1回会議、2013年10月28日)が開かれている。座長は寺島実郎氏である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/全国総合開発計画

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