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ハーヴェイ『コスモポリタニズム』

 以下は、イギリスの地理学者のデヴィッド・ハーヴェイが、哲学者のカントの『人間学』からの引用している部分である。ハーヴェイは、地理学と人間学・人類学の関係を執拗に問うているが、カントの言っていることは、今の自由主義が差別主義と一体であることをすでに示しているもので、それを見逃さないハーヴェイはさすがである。
 もっとも、国家は地縁で成立するのだが、カントは、血統をネーション(国家)の結合原理と看做している。ネーションとステイツの違いについては議論がある。地縁→国家説は、エンゲルスとか今読んでいるローウィの『国家の起源』などで説かれている。
 自由主義者は、なるほど、自由とか平等とかを抽象的かつ普遍的なものとして主張し、それを所有権の平等から導き出すのだが、もちろん、実際には、所有は不平等であるから、それは権利の平等という観念の上での抽象的な平等でしかない。
 カントは、「市民社会の諸法の埒外に置かれている」者を、「賎民」と呼ぶ。それは、そうした集団の市民社会からの「排除」、つまりは差別を当然とする差別主義と一体の市民社会の構造を正当化するものである。それは、帝国主義の論理、すなわち、とりわけイギリスのインド支配などに表れた、文明化されていない「遅れた人々」は「子ども」であり、「大人」としての先進国は、かれらを啓蒙・教育して、良き被統治者(主体)として訓育する使命があるとする観念を強化する。市民社会は、「進んだ」国においてのみ存在するからである。かくして、カントの人間学は、市民社会と「賎民」社会、民族的その他の従属的社会の二元的社会論となっている。そして、後者を前者へ引き上げるという運動を伴っているが、それは解決不能の堂々巡りに帰着する。そうした例として、ミルトンとトーマスという両フリードマンの主張をハーヴェイは検討している。

 「人民ピープル(populus)とは、一定の地域に多数の人がいっしょに暮らしそれらの住民が一つの単位を構成しているかぎりでの、この多数の住民のことを意味する。これらの住民の全体ないしその一部が、共通の血統を通じて市民社会に結合していると自認するとき、それを国民ネーション(gens)と呼ぶ。その一部がその市民社会の諸法の埒外に置かれている場合(これらの人民のあいだにおける不法集団)、それを賤民(vulgus)と呼ぶ。彼らが非合法に団結した場合、それを暴民モッブス(agere per turbas)と呼び、彼らはその振るまいゆえに市民としての諸特権から排除される。(『コスモポリタニズム 自由と変革の地理学』作品社 52ページ)

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