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2014年8月

階級闘争の復権を!

 日本では、21世紀に入って反貧困運動が高揚、中国では、都市下層の暴動が頻発している。その中で、階級が主体としてその姿を鮮明に現してきていることは今や誰の目にも明らかである。ブラジルでは、高成長を続けているが、2014年サッカーのワールド・カップを前にファベーラなどの貧民街で暴動が起きている。ゲリラ出身の左翼系大統領が誕生したブラジルだが、BRICSの一員として経済成長を続ける中で階級矛盾が激化しているのである。中国でも、鄧小平の「改革開放路線」の下で高成長を続けてきたが、農民工などの暴動が頻発している。このように、世界的に、貧富の差の拡大、富の少数者への集中が起きている。これらのことは、階級の消滅というような言説が虚偽であることを示している。 

 橋本健二氏は、『階級社会 現代日本の格差を問う」(講談社選書メチエ)で、階級という言葉はほとんど死語扱いだったが、明らかに階級という概念がないとリアルに現実を理解できない状況が今はっきりと現れつつあるというようなことを述べている。今では、「格差社会」という言葉は普通に使われているが、それは当然、階級社会という概念と結びついている。日本では、1990年代に入り、バブルが弾けると、その後の「失われた十年」と言われた経済停滞の長期持続の間に、非正規雇用の拡大が進行するのに伴って、格差の拡大、下層の増大が、進んでいった。その結果、世帯所得格差は、戦前では1937年の0・547%がピークだったが、1956年0.313%、1962年0.382%、1980年ごろまでは、0.35から0.38%程度、2001年にはほぼ0.5%と、1920年代の水準に達した(同書23頁)。(ただし、こうい

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う統計の数字には、元データの問題などがあって、単純に結果を導き出すことは難しいということに注意)。

   『日本の経済格差』(橘木俊詔 岩波新書 1998年)が出版されると、「格差社会」という言葉が流行するようになったが、2006年1月内閣府は「格差の拡大は高齢化が原因で見かけの問題に過ぎない」とする見解を公表し、議論を呼び起こした。内閣府と同じ格差「見かけ説」を唱えたのは、大竹文雄や八代尚宏などである。いずれも新自由主義的な自由市場論者である。すなわち、ハーヴェイが『新自由主義とはなにか』の序文で与えている「新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利を最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持することである」(同010頁)作品社)という簡潔な定義に当てはまるイデオローグである。大竹文雄は、この間の格差拡大の特徴について、「所得格差の主要要因は人口高齢化であり、年齢内の所得格差は小さい」(『日本の不平等』日経新聞社 35頁)と述べ、高齢化→単身世帯化→高齢者内の格差の拡大と世代間格差の拡大が主因と捉えているが、これは一部の現象の性格を全体にまで直接当てはめようというものである。それは八代も同じである。大竹は高齢化を大きく見てそれを全体を基本的に規定する要因とみなし、八代は、若者とその上の世代の間の世代間格差を主要な問題とみなしている(「急速に進展する少子高齢化社会では、年金や医療の社会保障制度の下で、高年齢者の高い給付を維持するために若年世代が大きな負担を担う「世代間格差」が生じているが、これは企業内の労働市場についても同様である」(『労働市場改革の経済学』東洋経済新報社145頁))。八代の解決策は、新自由主義的なもので、自由市場を活性化するための規制を調整して「神の見えざる手」を自由に動かせるようにするというものである。「市場神」信仰を強化し、神の力を増すこと、神に「どうかうまく解決してくれますように!」と祈りをもっと捧げることである(『新自由主義の復権』(中公新書 2011年)。その方策の一つが、終身雇用・年功序列の正社員の日本型雇用と企業内労働市場を廃止して企業外労働市場に一本化して労働市場を自由市場化すれば、高すぎる賃金が下がり、平準化して、平等が進むというのである。そうなれば、企業は賃金コストが低い労働者を雇用しようとするから、高賃金の労働者の賃金は下に引っ張られるようになるのは確実である。そこで、世代間格差が縮小するというわけだ。非熟練労働の場合、特にそうなることは明らかである。もちろん、現実には、労賃はその社会の生活水準や文化レベルも含むので、価格だけで評価し決定できることではないことは明らかだ。したがって、こういう考えは非現実的である。しかも、彼は労働者の抵抗や反発などのことを排除しているので二重に非現実的である。彼は、労働組合などは自由労働市場の邪魔者でしかないと考えているのだ。かつてのブルジョア経済学は一応全体の幸福の増進ということを掲げたしそれを追求はしていたのだが、八代の議論に見られるように、今の新自由主義は、一部の利益のために他を犠牲にすることを平気で主張する。新自由主義は、金融資本主義的で帝国主義的な性格を持つイデオロギーなのである。だから、構造改革論者の小泉元首相は、「格差はあって当然」と階級社会を公然と認めたのである。また、橘木氏は、2006年出版の『格差社会』(岩波新書)で、「格差見かけ論」を、高齢単身者の貧困者の数が増えているという現実を見ていないなどと批判している。「見かけ論」は、こうした貧困の増大の事実を無視して、そこから別の一面を誇張して、それを見えないようにするものなのである。 

 日本では格差社会化が進行していることは今や誰の目にも明らかになっているが、それは、階級とどう関連しているのであろうか?   
 橋本健二氏は、『新しい階級社会 新しい階級闘争』(光文社)で、階級を「同じような経済的地位を占め、このために同じような労働のあり方、同じような収入水準のもとにあるような人々のグループ」(同107頁)と定義している。ただ、橋本氏は、プーランザスやライトの議論などを踏まえて、資本家階級と労働者階級の中間に、「旧中間階級」に加えて、労働者階級を搾取している「新中間階級」という新たな階級ができているという見解を示している。さらに、労働者階級の下には「下層」が存在する。氏によれば、現代の階級は4つある。資本家階級は、従業員規模が5人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業者、旧中間階級は、従業員規模が5人以下のそれら、新中間階級は、専門・管理・事務職に従事する被雇用者、労働者階級は、それ以外の被雇用者である(『階級社会 現代日本の格差を問う』(講談社新書メチエ 38頁)。また、現代資本主義は「純粋資本主義ではなく、前近代的な要素や脱近代化的な要素を含み込んだ複合的な経済だ」(光文社118頁)という氏独自の資本主義観を提示する。この場合の前近代的な要素とは、自営業者や農民のことであり、脱近代的要素とは、「高度な技能や才能、新しい発想などの重要性が増す傾向」(同120頁)などを指す。いずれにしても、氏の言うように、今の格差の拡大を社会科学的に表現するには階級概念が欠かせないということが誰の目にも明らかになってきているのである。橋本氏によれば、階級とは、社会科学的には、「同じような経済的な位置を占め、このために同じような労働のあり方、同じような生活水準、同じようなライフスタイルのもとにある人々の集群のこと」(講談社選書メチエ 六頁)である。ところが、1970年代から90年代ごろにかけて、日本では、「日本は階級社会である」と言うと、「とんでもない変人か、あるいは極端な政治思想の持ち主とみなされかれなかった」(同12頁)というのである。当時、「経済学者や社会学者の間でも、現代日本には階級がないか、あっても小さな意味しかもたないというのが、大方の合意となっていた」(同)。当時から、社会学者の間で、例えば、盛山和夫(『社会階層』東京大学出版)や富永健一(『日本の階層構造』東京大学出版会)は、階級(class)という概念ではなく、社会階層(sociao stratification)という概念を使っている。盛山は、同書で、その理由を、高度経済成長によって「豊かな社会」となって「貧困」がなくなったので、階級という概念は有効性を失ったと述べている。その際に、彼は、「階級とはむしろ貧困という階層的問題を政治的な言説にのせるための想念であった」(同書 213頁)として、「貧困」が、階層問題を階級という政治言説化する想念にするのだと、階級関係が「貧困」の原因ではなく、「貧困」という現象が階級の原因であるというふうに、原因と結果を逆転させているのである。つまり、高度経済成長と所得再分配によって豊かで平等な社会になって「貧困」が消えれば、それが階級という想念と結びつかなくなるというのである。そういうことを、渡辺雅男は、『階級!』(彩流社)で、階層論者は、階級論が本質理論であり、全体理論であり、実体理論であることを否定して、現象論、部分論、機能理論としての階層論を対置していると批判している(同67頁)。それから、氏は、階層論者の狙いは、「マルクス主義批判というイデオロギー的動機こそ、実体論排斥の政治的意図だった」(69頁)と述べている。確かにそういう面もあろうが、それに対して、マルクス主義側がしっかり対抗できなかったということもあるので、渡辺氏のこの指摘は、マルクス主義側の弱点をどう克服するかという問題意識がないと、ただのイデオロギー的反応になってしまう危険性がある。   
 他方、橋本氏は、「欧文の本や論文には「class(階級)」という言葉がひんぱんに出てくるのだが、研究者たちはこれを「階級」と訳することを嫌い、「階層」と意訳したりしている」(『階級社会』13頁)と述べているが、少なくとも、リーダー的な研究者には、「階層」を使い「階級」を使わないのには、高度経済成長と福祉国家化や渡辺が指摘するような政治的な意味が込められていたと思われる。また、三浦展氏は、格差拡大を「中流社会」から「下流社会化」への変化と捉え、階層概念を使い、階級概念を使わないで、もっぱら階層意識別の消費行動の違いを分析して、下流社会化が進んでいるという結論を下している(『下流社会』光文社文庫 六頁)。しかし、統計数理研究所の坂本慶元氏は、「階級帰属意識」の場合には財産、地位、収入などのいわば客観的な地位を直接示す項目が上位を占めるのに対して、階層帰属意識」の場合にはくらしむきの主観的な評定や満足度といった感覚的な項目が上位を占めている」(『階層帰属意識の実像』 統計数理第35巻第2号〔1985年〕所収http://ismrepo.ism.ac.jp/dspace/bitstream/10787/1435/1/TS35-2_004.pdf)と、階層意識と階級意識との間には規定要因に違いがあることを指摘していることから明らかなように、階級意識の方を一切無視しているのは主観的すぎる。   
    
 最後に、ここまでの簡単な結論として、格差が拡大している現在、階級概念の復権は、今日の社会認識において欠かせないものになっており、早急に研究を進める必要があるということを強調したい。   
 また、本稿では論じられなかったが、アンリ・ルフェーブルによる空間論・都市論を継承している空間地理学者のデヴィッド・ハーヴェイによる空間論と都市空間の分析は、「都市とは、階級構造と空間構造の複合なのだ」(『階級都市』ちくま新書 011頁)という橋本健二氏の「階級都市」論やそこで紹介されているサスキア・サッセンやカステルの格差拡大のおグローバル・シティ論やマイク・デイヴィスの「都市貧困のグローバル化」を論じた『スラムの惑星』(明石書店)などが提示する階級と都市の関係(資本=Capital問題)については稿を改めて論じることにする。

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