日記・コラム・つぶやき

『産経』は皇軍信仰を貫いてないが、こっちの共産主義は貫かれている

 これは、フェイスブックに投稿したものを元にしている。

 『産経新聞』の社説は、いわゆる「従軍慰安婦問題について書いている。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130804/plc13080403180002-n4.htm
 「いわゆる「従軍慰安婦」の強制連行を認めた河野洋平官房長官談話の発表から20年たった。この間、事実誤認が明らかになり、強制連行説は破綻した」。事実誤認と断定→「談話は「従軍慰安婦」という戦後の造語を使い、その募集について「官憲等が直接 これに加担したこともあった」と日本の軍や警察による強制連行を認める内容だった。河野氏も会見で「強制連行」があったと明言した」。造語、新しい概念を使うことには別に問題はない。例えば、「哲学」も明治時代に作られた造語である。

 「宮沢内閣が約1年半かけて内外で集めた二百数十点に及ぶ公式文書に、強制連行を裏付ける資料は1点もない」。そんなことを公式文書が記録する可能性は低い。軍の実態については、後の兵士・軍属などの証言で明らかになった。靖国神社では死者と対面し語れることになっているはずだから、死者の証言が聞けるはずだと皮肉りたくなる。

 「戦時中、山口県労務報国会下関支部動員部長だったという人物が「自ら韓国の済州島で慰安婦狩りを行った」と述べ、国連人権委員会の報告に取り上げられたが、現代史家の済州島での現地調査で、「告白」は嘘と分かった」。秦邦彦氏は、実証主義歴史家として、沖縄戦での集団自決で軍の強制があったかなかったかをも争点に含む「大江健三郎・岩波裁判」で、偽証人をたててでっち上げ証言をさせた人で、吉田証言についての彼の調査にも疑念が出てきていて、再調査が必要ではないかということになりつつあるようだ。

 「戦地慰安所の生活条件は、当時の遊郭とほとんど変わらなかったことが、学問的にも確かめられている。慰安婦は決して「性奴隷」ではない」。当時の日本 の遊郭を基準にしてどうこうというのはそもそもどうかという反省がないのはおかしなことだ。合法性と同時に道徳性・倫理性も問題にしないといけない。軍隊=規律という点も含めて。現代における労働力の自由で平等な売り買いと労働の提供と対価の支払い(健康で文化的な生活を営める水準の)、労働時間・労働 強度、適切な労働内容等などというような点も含めて、総合的に、人間的な扱いと言えるのか?

 「多くの教科書に慰安婦をめぐる自虐的記述が登場している」。自虐的か否かという価値観を人々に迫るのは妥当なことではない。 

 結語:「日本の未来を担う子供たちに間違った不名誉な歴史を伝えないためにも、河野談話の誤りは正す必要がある」。

 不名誉という価値観も付け加えられているが、「間違った歴史」を伝えないというのは当然だ。この点で、麻生太郎副総理の発言は、ワイマール憲法をナチスが改憲したと「間違った歴史」を伝えてしまったわけで、そもそも副総理という職責にある人が歴史を間違ったこと自体、恥ずかしいことで、産経的な価値観からする と、これは「不名誉」ということになる。「日本の未来を担う子供たち」には、「不名誉な歴史」も「名誉な歴史」(そんなものがあったとしたら)も伝えてい くべきだ。福島第1原発事故の「不名誉な歴史」もしっかりと伝えるべきなのである。

 「産経」は、もし歴史に責任を負うべきジャーナリズムの一翼を担う気があり、その名誉心(プライド)があるなら、是非ともそうしなければいけないと思 う。3・11から間もない頃、原発推進は日本の国益、エネルギー政策見直しは慎重に、などと述べていた「産経」のオピニオン欄に、元「新しい歴史教科書をつくる 会」の保守派の西尾幹二氏と長谷川三千子氏の二人が、はっきりと脱原発を主張していたのを見て驚いたことを思い出す。「産経」さんは、もっと志操堅固で高 い倫理性を持つべきだと思う。

 戦前における日本帝国軍隊というのは、軍神として神扱いになるのだから、規律は絶対であり、私欲に負けるなどは絶対あってはならないことで、「聖人君子」たるべきものという理想をはずしては、成り立たない。軍人も人間だから欲望を合法的になら満たす必要があるなどと情けをかけることは不必要である。軍紀違反は厳格に処罰すべきであったのであり、それができないなら、そんな駄目軍隊をもって戦争などすべきではなかったのである。徴兵制は、広範な人々を軍隊に引き入れるから、どうしても軍紀を維持できなくなり、甘くなっていくのだ。『産経』は、軍人を甘やかすと、ろくなことはないし、命取りになるということを歴史から学んでいない。『産経』は、あまちゃんだ。安倍もあまちゃんで、麻生をかばっている。しかし、麻生発言が世界に広まってしまい、あの『マルコポーロ』という雑誌を廃刊に追い込んだと言われるユダヤ・ロビーの「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が取り上げた以上、ただではすまないことぐらいわからないようでは、政治家としてはどうしようもない低レベルである。

 歴史は、現代の価値観から見る他はなく、『産経』だって、明治維新を近代化の夜明けとしてプラス評価する視点からその時代を眺め評価しているのに、この問題に関してだけは、当時の法律上合法か否かなどという特殊な観点で評価するように世間にもとめているのはおかしなことだ。われわれの観点では、現代の階級闘争の観点から歴史も評価されなければならないことは明らかである。客観主義的な歴史、実証主義的な歴史というものはなく、それらの歴史観によって構成された歴史像があるだけである。この領域における階級闘争があり、現代の歴史認識はその反映としてあり、その中間性を映しているので、部分を見れば、われわれが勝っているものもあるが、全体としては、支配階級の正当化の方が勝っている。明治=近代化=資本主義化バンザイというのが基調としてあるのだ。皇軍神話は、そうした線の上に描かれており、だから、われわれはこのような神話を基準にして、この問題を再構成し、批判しなければならないのである。それは、「野生の思考」(レヴィ・ストロース)のような思考を、われわれの思想として階級闘争の武器へと転換させることなどによって、である。

 参議院選挙での大勝によって安倍自民党はたがが緩んできていることを、麻生発言は示している。そうやって、自民党政権は、またしても自滅の道を進んでいるのだが、その破綻の傷がこれまでより大きく深くなることは間違いない。そうした沼地へ入ることは、もちろん望まないし、そこから脱却する道を早く見出して、それを明確に提示しなければならない。それは、共産党のように、個別の「悪」の告発だけでは無理なことである。社会民主主義、福祉国家というオルタナティブもほぼ消えたので、それも無理である。名前だけにしろ「共産主義」を掲げる政党に投票する有権者がそれなりに増えていることからは、少なくとも、言葉の上だけであっても、「共産主義」への拒否感が少なくなっているということぐらいは言える。その信念を捨てなかったことを、今や誇りに思えるし、よかったと思える状況が少しは現れてきたということを素直に喜ぶべきだと思う。

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たばこは肺がん原因の多数ではないこと

   よくわかっていなことの一つの原因がわかると、全部それのせいにして、すます、ということがある。それは、われわれの思考が陥りやすい罠の一つであると思う。そして、それは判断を誤らせる。その時、見えていなかったものが突然目の前に現れて、パニックを引き起こしたりする。デリダの言う、「マルクスという亡霊」もそうやって現れるのだろう。「死んだはずだよ、お富さん」というのもそれか。共産主義は忘れた頃にやってくるのである。

 たばこが問題になったのは、発癌性が指摘されたからで、それがいつの間にか肺がんの主原因と決めつけられた。それに、「健康増進促進法」で公的なおすみつきが与えられ、上からも半ば強制的に世間一般に押し付けられてきた。健康になることは義務か権利かと言えば、明らかに権利である。戦時中、徴兵逃れのために、しょうゆを大量に飲んで、不健康を装ったという話がある。病気は、軍国主義への抵抗の手段となったわけである。健康で剛健な兵士を出さないということである。ブラック企業に健康で優秀な企業戦士を供給しないというのも、一つの人間的な抵抗である。ブラック企業は人間的な社会性に反するから。

 たばこの場合はどうか。たばこさえ吸わなければ減って行くと思われた肺がんが、非喫煙者でもなる人が多いことが問題になっている。たばこ以外の原因、特に女性の場合、非喫煙者で肺がんになる人が8割もあり、肺がんを減らすには、そっちの原因を明らかにして、対策を取らなければならないということが、NHKの「ためしてガッテン」という番組で取り上げられている。たばこさえ規制すればいいというのではなく、肺がんを減らすには、たばこ以外の原因にもっと注意を向け、対策をしなければならないということである。肺がんを減らすのが、禁煙運動の目的だったはずで、それがいつの間にか自己目的化してしまっているのである。こんなことはいちいち指摘したくもないのだが、思考停止して、考えるのではなく、信仰している人がいるので、言わざるを得ないのである。レーニンが指摘しているように、物ごとのできるだけ多くの面、多様な面を見て、それで、考え、判断を形成するようにしないといけないのである。このことを指摘しただけでも、レーニンの功績は偉大なものなんだけども、学ばないで、切って捨ててすまして平気な愚鈍な人が多いようだ。あれだけのことをやった人だから、学べるものはいっぱいある。学んで上で、どうこう言えばいいだけのことだ。

 たばこさえ吸わなければ、と、そればかりに目を向け意識を集中している間に、別の原因の肺がん対策に目が向かなくなってしまっている。被曝問題でもそれに似たことがあり、総合的に物事をとらえ、考え、解決していくということを難しくしている面がある。思考を訓練して、総合的なものの捉え方を身につける必要がある。一面に目を奪われて、別の面を見忘れる。そうすると、そっちに対して無防備となり、そっちから病に侵されやすくなるということである。

 生の充実、生の意味、人生観、哲学、そういうものを基礎にして、それとも関連させて考えて、なんのための健康かを考えた上で、こういうことについて判断しなければならない。その点で、ミッシェル・フーコーやレヴィ・ストロース、あるいは白川静氏などの言うように、今、病や障害とされていることが実は人類の一般的性格であって、今正常とされていることが実は非一般的な性格で、それが逆立ち、逆転したのが、近代以降であるというのは正しいのではないか。誰しもちょっとは病いであって、人はそれと一生付き合っていく存在であり、理念として描かれる完全な健康人なる絵をイコンのように信仰して、それを基準にして右往左往するのは見苦しく、不幸な生き様と言えないだろうか。日々充実した生を生きられていれば、恐怖に怯えることなく、「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(『論語』)という意味に溢れた幸福な生を得られるのではないだろうか。少なくとも、私は、生の充実を日々感じるし、幸福感を味わいつつ、生きている。

「ためしてガッテン」http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20091125.html

肺がんは「たばこ吸ってる人だけがなるんでしょ?
と思われるかも知れませんが、それは大きな誤解!!
実は女性の場合、喫煙は肺がんの原因のたった2割なんです。
そして残りの8割は・・・なんと不明!
(男性の場合、7割が喫煙 3割が不明)

たばこを吸わない女性に多い肺がんは、自覚症状がないことが多い上に、X線にもがんが写りにくいため、見つかった時はすでにがんが進行している場合もあるんです。

たばこを吸わないのに肺がんになった方の中には、医師にも原因を告げられず、理不尽な思いを感じていらっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。
そんな中、最近ある物質が、女性に多いこの「謎の肺がん」に関与している可能性があることがわかってきました。

今回はメカニズムから早期発見法まで
謎の肺がんにできる限り迫ります!
                           

                                                                次へ                            

                           
                               
                                    

番組ディレクターからのひとこと

                               
                               
                                    

誰でもなる可能性があるから・・・

非喫煙者で肺がんと診断された方のお話を今回、たくさん伺うことができました。
みなさんが共通におっしゃることは、
「なんて家族に説明していいかわからない・・・」。

たばこを吸っていないのに、
周りにたばこを吸っている人がいないのに、
自宅の周辺に工場も、当然大気汚染もないのに、
何で肺がん?

このタイプの肺がんは確かにまだわからないことがたくさんあります。しかし、患者さんが強く感じている理不尽な思いを番組を通して、一人でも多くの方に知って頂きたいと思っています。

この肺がんは、誰でもかかる可能性があるからこそです。

                               
                                                           
                                                    

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橋下発言と大阪、沖縄

 以下の琉球新報社説は、橋下の資質を見事に言い当てている。橋下発言は、基本的なところがおかしいので、釈明すればするほど、しゃべればしゃべるほど、言い訳を重ねることにしかならなくなるのである。

 社説は、「……差別的な発想や女性を「モノ」として扱うような人権感覚に、……無自覚……」であることを指摘しているが、そのとおりで、その基本を変えていないから、言えば言うほど、見苦しいソフィスト的な言い方になり、それが人々を橋下嫌いにさせていくのである。また、「問題解決への向き合い方が問われている自身の責任は棚に上げ、「他も同じことをやっている」と反論を繰り返していることが、海外の日本批判をさらに強めている」のだから、それに真摯に答えるつもりがあCimg0042るなら、こちらはしっかり反省して二度と同じことを繰り返さないよう努めている、あなたたちもそうしなさいと言えばいいのである。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」は、ジョークなら笑えるが、ほんとうにやったらしゃれにならないのである。たまたま、土日は、大阪にいたが、橋下があんなことになったせいか、心なし街ゆく人々がいつもの大阪らしい元気がなかったように見えた。それは気のせいだろうか。通天閣は相変わらず派手で元気に夜は輝いていたのだが。ただ、暑かったし。

 それから、大阪市営地下鉄は、バリアフリーが東京より進んでいて、券売機に福祉切符ボタンがついていて簡単に買えるようになっている。東京の地下鉄、ことに都営地下鉄では、子供切符を買えと言われるので、何度も駅員に人権侵害だと抗議している。しかし、大阪の地下鉄の券売機には、東京のJRの券売機にある領収書ボタンがない。JRの駅では改札の係員に手書きで書いてもらわないといけない。この違いはなんなのか、わからない。不思議である。それから、大阪では、車いすの障害者がホームに降りると、来た電車にすぐに乗れるが、東京の場合は何本も待たされる。この違いは何かとか、違いがあって、気にかかる。福島では、そもそも、車いすの障害者が外を歩いているのには滅多にお目にかからない。大阪の地下鉄の駅では次々と車いすの障害者が乗り降りする。3・11からしばらく駅で車いすの障害者の姿を見るのが減ったような気がした。今はよく見かけるようになった。それに対して、昔はそのへんで普通に見かけていたチョゴリ姿は相変わらずみかけない。

 『クララ・ツェトキンの婦人論』(啓隆閣)というのを読んで、中にいくつかクララ・ツェトキンの文章があり、なかなか熱い人だと感じたし、また、今読んでもリアルだし、まだまだ女性解放は進んでいないということがわかった。第2インターナショナルの創立大会での演説というのもあり、当時のインターナショナルが女性解放ということに意識が高かったことがわかる。すでに第1インターナショナルの執行委員に女性が入っていたということもわかった。組織論では、女性が共産党組織内のあらゆる部署で男性と共に活動することを基本にしていて、女性だけの組織を作ることは否定している。戦争と女性というテーマも当時リアルに問われていて、それについてもコミンテルンでの報告では強調されている。橋下は米軍に女性兵士がいることなど眼中にないようだが、イラク戦争の時に、アブグレイブ刑務所での収容者男性の虐待(性的虐待を含む)をやったのは米軍女性兵士だった。橋下は自らの差別性を肯定するようなタイプの物語ばかりを信じようとしているのである。そして、それに反するようなタイプの物語には耳をかそうとしないのだ。

 また関連して、かつて従軍慰安婦論争において、上野千鶴子氏が、実証主義批判に傾きすぎて、実証レベルでも十分右派に勝っているのに、「言語論的転回」なる学問上の改革論議に議論を変容させようとしたことは、あまり意味のあるものではなかったことが今回の件でも明らかになった。沖縄戦での集団自決問題をめぐる「大江・岩波裁判」での勝訴確定もそれを証している。上野氏が、それを、夾雑音、雑音、クリックとしたとしてやったとしても、クリックにしては真面目でアカデミックすぎたと思わざるをえない。もちろん、上野氏が、その中で、「フェミニズムは国境を超えられるか?」という重要な問題を提起したことには大きな意義がある。プロレタリアートは相変わらず国境によって分断されており、まだ真に国境を超えられていない。おまけに、帝国主義的な民族差別・抑圧がある限り、民主主義的課題として、被抑圧民族の民族自決権を無条件に承認しなければならないというレーニンの受け継ぐべき政治思想がある。だから、今後新たな国境を作ることをプロレタリアートは認めなければならないかもしれない。それは、表面的にはプロレタリアート間を分断させるように見えるが、実際にはそうではなく、被抑圧民族の民族的抑圧に反対しそれと闘うことによって、抑圧民族のプロレタリアートと被抑圧民族のプロレタリアートの関係は深まり強くなるのである。その絆をもとに、民族間の同権・平等を達成し、世界革命を共に推進する中で、そうした国境は必要がなくなり、世界革命成功のあかつきには、もはやすべての国境を廃止する条件ができてくるのである。そこに至るまでの複雑で多様な道のりをできるだけ容易に進めるために、共産主義者が分析・判断しなければならないことがたくさんある。

 橋下に地域の地盤沈下からの浮上を期待したのであろう大阪の人々の希望の灯を自ら消したことに橋下は早く気づくべきだが、それは無理だろう(「なにわのことは夢のまた夢」(by豊臣秀吉)か?)。参議院選は目の前で、あわてて女性政策なるものを急ごしらえしたことに、維新の会の女性差別体質が露骨に現れている。アベノミクスは株価急落で危うくなりつつあり、参議院選を前にして、安倍政権の支持率も下がり始めた(日経世論調査)。今の内閣支持率は、上がるのも下がるのもあっという間に大きく動くので、これから約1カ月の間に、安倍人気もどうなるかわかったものではない。だとしても、今の議会に真の労働者の党は存在せず、よりましな候補という選択肢しかないのが現状である。ブントは、当面、実力闘争を軸にする他はないが、いずれは議会闘争にも進出することになろう。それまでは、よりましな議員を議会に持つことで満足する他はない。参議院選では、安倍などの憲法改悪を狙う改憲勢力が3分の2議席を上回るのを阻止することが大きな課題である。

 

橋下氏会見 政治家としての資質を疑う(『琉球新報』社説 2013年5月28日)

 日本維新の会の橋下徹共同代表が日本外国特派員協会で一連の発言について釈明した。自らの見解を英語と日本語で公表。海外メディアに「真意」を訴えて事態の収拾を図ったようだが、その人間性があらためて問われたのではないか。
 橋下氏は在沖米軍に風俗業活用を求めた発言について「米軍、米国民を侮辱することにもつながる不適切な表現だった」と正式に撤回すると表明。「謝罪を米軍と米国民の皆さまが受け入れてくださいますことを願います」とわびた。
 だが県民や女性たちへの謝罪はついに聞かれなかった。米軍犯罪の防止を沖縄の風俗業に求める差別的な発想や女性を「モノ」として扱うような人権感覚に、今後も無自覚であり続けるのだろうか。
 「米軍の犯罪被害に苦しむ沖縄の問題を解決したいとの思いが強すぎて誤解を招いた」と、沖縄のためを思っての発言だったというが、苦しい弁明だ。「県民の基本的人権が尊重されるよう、米軍が実効性ある取り組みを開始することを切に望む」とも述べたが、大型連休中に来県した際、県などが長年求めている日米地位協定の抜本改定を「市民運動的」と酷評していたことを指摘しておきたい。
 一方、橋下氏は旧日本軍の従軍慰安婦制度は「必要だった」との発言は撤回せず、「真意と正反対の報道が世界中を駆け巡った」と説明。「一つのワードを抜き取られて報じられた」とマスコミ批判を展開したが、果たしてそうか。
 最初の発言は「精神的に高ぶっている猛者集団に慰安婦制度が必要なことは誰だって分かる」だ。翌日のツイッターには、自身に批判的な新聞も「発言を比較的正確に引用してくれた」と書き込んだが、非難が殺到すると態度を一変。「大誤報」「日本人の読解力不足」と責任を転嫁するさまは見苦しく、政治家としての資質さえ疑う。
 発言の修正を重ねて臨んだこの日の会見では「女性の尊厳と人権を普遍的価値として重視している」と最初とはまるで別人だったが、慰安婦に関しては、「利用」した日本は悪かったとしつつ、外国軍も同様のことを行ったと重ねて主張した。
 問題解決への向き合い方が問われている自身の責任は棚に上げ、「他も同じことをやっている」と反論を繰り返していることが、海外の日本批判をさらに強めていることにもいい加減気付くべきだ。

橋下氏:会見、言い繕い2時間半 「女性虐待」と質問続出(毎日新聞 2013年05月27日)

 日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は27日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見した。沖縄県の在日米軍司令官に風俗業活用を求めた発言は「不適切な表現だった」として、撤回して謝罪したが、旧日本軍による従軍慰安婦をめぐる発言については「私が容認していると誤報された」と主張し、撤回しなかった。

 橋下氏の発言を巡り、維新は政党支持率が急落し、参院選を前に厳しい状況にある。橋下氏が発言の意図を説明することで批判をかわす狙いがあったが、会見では厳しい質問が続き、約2時間半に及んだ。

 橋下氏は冒頭、文書を読み上げ、旧日本兵が慰安婦を利用したことについては「女性の尊厳と人権をじゅうりんする決して許されないもの」と指摘。元慰安婦に対しては「誠実な謝罪とおわびを行うとともに、悲劇を繰り返さない決意をする」と強調した。内外から「女性蔑視」「人権侵害」などの批判が相次いだため、元慰安婦への配慮を強調する狙いがあり、「女性蔑視である等の報道が続いたことは痛恨の極みだ」とも述べた。

 しかし、質疑では最初から「多くの女性が虐待された」と慰安婦制度の非人道性への認識を問う質問が出た。橋下氏は「日本の過去の過ちを正当化するつもりはない」と釈明せざるを得ず、「旧日本軍の一定の関与があった」と繰り返した。さらに「外国から(女性蔑視の)懸念をもたれたことには政治家として責任がある」と追及されると「私の今回の発言に対して国民がノーと言えば、次の参院選で維新は大きな敗北になる。その結果、代表のままでいられるのか党内で議論が生じると思う」と責任論に発展する可能性も認めた。

 また、旧日本軍が一定の関与をしていた点についての見解を尋ねられると「今日皆さんに問いたいのは、戦場の性の問題。世界各国は、過去を直視していない」と一般論でかわした。さらに「米英も現地の女性を利用した。ドイツも韓国にもそういう施設があった」と列挙したうえで、「戦場の性の問題は今まさに議論しなければならない」と述べ、一連の発言は世界共通の問題に対する問題提起だったと位置付けた。

 一方で、従軍慰安婦についての政府の公式見解である河野洋平官房長官談話については「否定するつもりはない」としつつ、内容に疑問を呈した。

 橋下氏は「国家の意思として組織的に女性を拉致、人身売買した点を裏付ける証拠はないのが日本の立場だ」と説明し、拉致・人身売買については日韓両国の歴史学者による事実解明を主張。「この核心的論点について河野談話は逃げている。これが日韓関係が改善しない最大の理由だ」と述べ、日韓間の慰安婦を巡る対立は河野談話に起因しているとの主張を展開。河野談話に「表現はもっと付け足さないといけない」と述べた。

 これに対し、河野談話が元慰安婦の証言などをもとにしていることを踏まえ、「元慰安婦の証言は信用できないのか」などと追及されると「最大の論点は人身売買を国家の意思として組織的にやったかどうかだと思う」などと主張し、明確には答えなかった。【阿部亮介、林由紀子】

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難民、移民、アフリカなど

 アフリカでなぜ難民が発生するかの理解を深めるための難民講座を、6月16日1時半から新宿元気館でやります。詳細は未定ですが、今回は、ブルンジについて、そしてアフリカ問題一般をやります。まず、ブルンジがどういう国かなどということは多くの人にはわからない。やってる方もおおまかなことしかわからないまま、エチオピアやナイジェリアやブルンジなどからの難民が日本にきて、難民申請をしているので、とにかく支援しなければ、ということでやっている状態である。アフリカ大陸全体となると、あまりに広く、多様なので、部分部分について断片的な知識がある程度でしかない。それでも、南アフリカ共和国でワールドカップがあり、2010年末から2011年にかけて、「アラブの春」と呼ばれる北アフリカでの民主化運動が高揚し、さらに、アルジェリア人質事件で、日本人10人が殺害される事件が起った際などには多少関心が広がるということもあった。また、6月1日から3日にかけて、横浜市で、外務省が主導する「アフリカ開発会議」が行われ、それに合わせたイベントなどが行われている。この会議そのものは、その名のとおり、開発中心主義であり、投資・貿易の促進、開発が中心テーマである。役員には、経済同友会副会長が入っている。開発によってアフリカ問題が解決しようはずはないし、これまでも、これが利権となって紛争の種をまくことにしかならなかった(以下のフランスの原子力企業アレバ社の鉱山が武装勢力に襲撃された記事を見よ!)。

 そもそも日本での難民問題への関心は極めて低く、政府も微々たる数の難民認定しか行っていない。それに対して、難民申請者数は、昨年度、過去最高になった。票にならないせいか、政治家・議員の関心も低い。だいたい、難民問題など、票にも、金にも、売名にもならない。ただ、難民支援団体といってもいろいろあり、一部のNPOなどは、企業などから寄付金を集めて、お助け程度のことをやっているところもある。前回難民講座でビルマの民族問題を取り上げたが、そこで、少数民族の多くが現政権から迫害される恐れが相変わらず大きいということがわかったが、それでも、少数民族をビルマに帰還させる運動を呼び掛けているNPOがある。

 国家がある限り、国境管理、出入国管理業務はなくならないが、少なくとも日本の場合、現入管を解体し、新たな入管に生まれ変わらせる必要があることは歴史的に明らかである。移民政策、在留外国人政策で比較的うまくやっていたと思われていた社民国家スウェーデンでも、以下のように差別排外主義が広まっている。アフリカでは、周辺国・地域からの難民受け入れに積極的だったケニアで、難民・移民排斥の動きが強まっている(『情況』2013年3・4月合併号所収 佐々木優(明治大学教員)「ケニアに波及したソマリアの混乱」参照)。歴史的に、アフリカの国家形成のあり方というのは、日本の場合とは違っていて、そこから、国境管理・入管のあり方も日本とは違ってくるということを考慮しなければならない。しかし、それを一つ一つ具体的に明らかにするには多くの時間と労力を要することは明らかである。国家と共同体・民族集団・部族集団などとの関係や権力のあり方も日本とは違うということが、『アフリカ史』(山川出版社)を読んででわかってきたので、なおさらそう思う。しかし、大まかにでも、アフリカで難民がなぜ発生するかをつかめれば、そこから先に進みやすいと思うので、やっておきたい。とにかくなんとかしなければ、というのは出発点で、人道上、助けたいというのは端緒だけれども、難民が世界各地で次々と発生(最近では、シリアで100万人が難民化しているという)し、その一部が日本にもやってくる状況を真に解決するには、そもそもの難民発生の原因をなくすことが根本であることは明らかなので、そういう解決策を見出すのに少しでも役立つような知識や経験や知恵や手段、方法を探っていくことは、必要なことである。

 昨日、日経平均株価が大幅に下がった。アベノミクスの化けの皮が剥がれて来た。安倍政権は、参議院選まではなんとしても株の下落は避けたかっただろうが、そうは問屋が降ろさなかった。慰安婦問題発言で、「日本維新の会」の橋下の政治生命は終った。女性戦犯法廷を担ったフェミニスト・グループをはじめ、フェミニズムは息を吹き返し始めている。クララ・ツェトキンを読み始めた。

 仏アレバ社のウラン鉱山襲撃される…ニジェール(2013年5月24日 読売新聞)

  【ヨハネスブルク=黒岩竹志】ロイター通信によると、西アフリカ・ニジェール北部で23日、軍施設と仏原子力大手アレバが開発するウラン鉱山をイスラム過激派武装集団「西アフリカ聖戦統一運動(MUJAO)」が襲撃し、ニジェール軍兵士20人と武装集団のメンバー3人が死亡した。

 MUJAOはAFP通信に対し犯行を認め、ニジェールの隣国マリの北部地域で仏軍が展開するイスラム過激派掃討作戦にニジェールが協力していることへの報復だとした。

 ロイター通信によると、北部アガデズの軍施設で同日早朝、爆弾を積んだ車が爆発。この後、武装集団と兵士らの銃撃戦となった模様だ。

 一方、アガデズから北に約250キロ・メートル離れたアーリットにあるアレバの鉱山でもほぼ同時刻に車爆弾によるとみられる爆発が発生。AFP通信によると、この爆発で1人が死亡、14人が負傷した。

 ストックホルムで若者ら暴動、3夜連続(CNN 2013.05.23)

 (CNN) スウェーデンの首都ストックホルムで19日から、3夜連続で若者による暴動が発生している。多数の車が放火されたほか、警察と若者の衝突も起きた。

 によれば、ストックホルム北部の移民が多く住むヒュースビー地区では19日夜、100台以上の車が燃やされた。21日夜にはさらに広い地域で29台が放火された。3夜目の21日夜には、ヒュースビーで8人が逮捕されたという。

 オンライン英字新聞「ローカル」のスウェーデン版によると、暴動のきっかけは、警官が男性を射殺した事件に対する抗議だという。ナタを手にした69歳の男性が警察官に射殺される事件が起き、14日以降、ヒュースビー地区では緊張が高まっていた。

 同紙はまた、ヒュースビーの若者のリーダーの発言として、取り締まりにあたった警察官が若者たちに対して人種差別的な言葉を浴びせたと伝えている。

 ラインフェルト首相は19日、声明を発表して事態の沈静化を呼びかけ、「若者の集団のなかには、暴力を通して社会を変えるべきで、変えられるはずだと信じている集団もある。暴力の支配を許してはならない」と述べた。

 スウェーデンは世界各地からの移民がうまく社会に溶け込んできた歴史のある国ともされている。しかしラインフェルト首相は、今回の暴動はスウェーデン社会の抱える大きな問題の現れだと指摘。若者の教育や就業を支援するためにさらなる対策が必要だと述べた。

 ロンドン兵士殺害は「ホーム・グロウン・テロ」(TBSニュース2013年5月24日)

 ロンドンの路上で兵士が殺害された事件の犯人はイギリス国籍で、ボストンでの爆弾テロと同じく、自国で過激化したいわゆる『ホーム・グロウン・テロリスト』による犯行だったことがわかりました。

 ロンドンにある軍の宿舎のそばでイギリス軍の兵士を肉切り包丁で殺害した2人組。うちひとりはナイジェリア系のイギリス人(28)でした。犯行について「アフガニスタンやイラクでイスラム教徒が殺されていることへの報復」と話したこの男は、過去にイスラム主義団体の集会にも参加していました。

 「映像を見て彼だとわかりました。彼は(キリスト教から)イスラム教に改宗したんです」(男と面識があったイスラム主義団体の元代表)

 また、捜査当局は23日、殺人を計画した疑いで、新たに男女あわせて2人の身柄も拘束しました。事件を受け、イスラム教徒への風当たりが強まる中、キャメロン首相は、悪いのは『宗教』ではなく『個人』だと強調しました。

 「責任があるのは、凶行に走った吐き気を催させるような『個人』です」(イギリス キャメロン首相)

 ただ、『個人』がネットなどを通じてひとりで過激化するからこそ、『ホーム・グロウン・テロ』は対策が難しいと言えます。イギリス当局は8年前のロンドン同時爆破テロ以降、何度もホーム・グロウン・テロを計画段階で摘発、今回の容疑者らも存在は把握していましたが、それでも凶行を防ぐことはできませんでした。

 現場近くの兵舎では、さらなる襲撃を警戒し、警備が強化されています。見えないテロの脅威を前に動揺が広がっています。

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橋下発言

 橋下徹大阪市長の発言が内外の批判を浴びている。彼の発言はおそらく致命傷となっている。彼がものを言えば言うほど、その傷は広がっていっている。政治的な致命傷は、アメリカを怒らせたことである。

 橋下の人間観は極めて抽象的なもので、ほとんど信仰と言っていいものである。彼は、人間を欲望に還元し、抽象化して、その像をあれこれ組み合わせてものを語っている。しかも、その欲望論たるやお粗末極まりない抽象物にすぎない。欲望一般などどこにも存在しないことぐらいは中学生でも知っている。ドゥルーズを真似して、それを欲望機械と名付けるなら、それは多方向的な多様体である。フロイト的な性欲決定論は、すでに否定的に見られるようになっている。ことに、一神教的な抑圧の強い西欧と日本では欲望機械の種類も異なっており、種差が案外大きいということが歴史からわかってきている。第2に、橋下は、この間意図的に構築されている強制を直接的な暴力行為とする解釈を無批判に擁護している。民法を見ればわかるように、契約は取り消しの意思表示をすれば簡単に取り消される。結婚の権利が離婚の権利とワンセットであるのと同じように、契約は結ぶことと解消することがセットになっており、両方があってはじめて成り立つのである。取り消せない約束はなく、その点は奴隷制と違うのである。

 これは、民族自決権が分離の自由を含むということでも言える。民族自決権の問題については、マルクスのアイルランド問題についての論考、そして、レーニンがポーランド問題でローザ・ルクセンブルクとした論争、帝国主義と植民地問題についての論考をもとに、論じたことがあり、それは今でも正しいものと思うが、そのうち、改めて論じることにしたい。そこからは、思わぬ多様性が出てくる。例えば、レーニンの民族教育、民族文化などの保証(民族の同権)という論点からは、その社会において、複数の言語、衣装、文化が同時に大っぴらに存在する状態が想定される。アメリカの同化主義的多民族市民社会では、ほとんど英語ばかりが話され、同じような衣装姿しか見られない。ただ、スペイン語は、中南米からの移民の増加によって、広がっている。これは、レーニンの民族問題における民主主義社会観とはまったく異なっている。日本共産党の民族主義は、まったくそれに反するもので、一国一共産党などというスターリニズム的基準をまだ金科玉条のように守旧している。それは、一国一共産党、すなわち日本では唯一前衛党の日本共産党を守るということを最優先させることに現れている。大衆運動の発展が日本共産党にダメージとなりそうだとなると、その発展を押しとどめ、それに積極的に敵対し、攻撃する。特に、選挙へのマイナスの影響を恐れている。日本共産党議員団こそ、民主連合政府路線の鍵となる存在とされているからである。それに対して、60年安保闘争を闘ったブントは、当時の島茂郎書記長が「虎は死んで皮を残す。ブントは死んで名を残す」という名言を残したように、大衆の解放闘争の徹底発展を追求したのであった。資本主義が、その中心国アメリカでも矛盾を大きくし、また、矛盾の根本解決ができずにバブルに突入しつつある日本資本主義が懲りずに人々を困難に陥れようとしている今、その名にはじない新しい社会(共産主義社会への過渡社会)を大衆と共に建設するブントが必要である。だが、それはここまでにしておく。

 約束は守らねばならぬ。だが、取り消すこともできる。契約の自由は解約の自由とセットである。橋下は弁護士だから、不当な方法で結ばされた契約は無効であるということはわかっているはずである。それから、橋下は、法と倫理が対立する場合のことにも触れている。合法でも倫理に反することをやってしまったことに負い目を感じ、反省した人もいる。戦後しばらくたってから、そういうことを証言した元日本兵もいる。良心の呵責に苛まれ続けるようなことを人々にやらせる国はひどい国である。慰安婦は、自由意志で、契約取り消しを自由に表明できて、簡単にそれが認められたのか。経営者は、解雇の自由(権利)だけを特に重視して、労働者の辞める自由をちゃんと認めていたか。経営者は、労働者が辞めたい時に辞めることを簡単に認めず、辞めたくない時に自由に辞めさせるのではないか! 今日でも、禁煙やクールビズなど事実上の強制というものが存在している。喫煙者は、意志の弱い、人格的に劣った連中とか、ネクタイなんて遅れてる、というような人格評価、人の価値付けが行われ、それが圧力となり、事実上の強制となる。それに逆らうには勇気や意志や力がいる。それに逆らう自由がなければ、戦前みたいになる。少数民族などのマイノリティーの権利のために闘うことは、プロレタリアートを全人類の解放者にふさわしく成長させることであり、そのヘゲモニーを形成することが共産主義運動のつとめであることはマルクスやレーニンの実践から明らかなことである。それには、まず、そうした人々の境遇や状態や要求などについて知ることが必要であり、労働者内部にそうした人々がいないなら、外部から招いて、そういう知識を「外部注入」することが必要である。労働者が労働組合運動だけをやっていては、そうした外部の人たちの状態をリアルに知れるわけがない。

 例えば、某派の人が、労働者の欲望を拡大していけば、資本主義と必ずぶつかるといっていたのを聞いて、ちょっと議論をしなければならないと思いながら、その人が亡くなってしまったのでそれがかなわなくなるということがあった。思うに、その人は、労働者がいろんなものがほしいと欲望を大きくしていけば、賃金が低いと不満を持ち、賃上げをしぶる資本家に不満や怒りが高まって、闘うようになると言いたかったのだろう。それに対して、別の派の人は、今や、人類は高次の欲求である関係そのものへの欲望を強めていると言っている。確かに、現代資本主義下では、貧困問題、下層の問題がふたたび浮上しているのだが、ただ腹いっぱい食べられればいいという終戦直後の廃墟の時代とは欲望の中身が異なっている。いや、焼け野原の中でもただ食べられればいいというだけの欲望のみがあったわけではない。この頃、哲学者西田幾多郎の本が売れるという現象もあったのである。いかに空腹でも、人々は、「いかに生きるべきか」を考え、生き方を欲求するのであって、だから哲学はなくならないし、人々を惹きつけるのである。哲学がそれに答えられないがゆえに、その代替物として、人々が宗教にいってしまうのである。橋下にはそれがないということが一連の発言で完全に暴露されてしまったので、これでお終いである。橋下には新しいものは何もなかったのである。しかも、石原慎太郎には、右派宗教団体が支持基盤としてあるが、橋下にはそれがないのである。

  『アフリカ史』(山川出版)、松浦玲『徳川慶喜』(岩波新書)、竹内実『毛沢東と中国共産党』(中公新書)、山口昌男『アフリカの神話的世界』(岩波新書)、王柯『多民族国家中国』(岩波新書)。ネグリ『マルクスを超えるマルクス』(作品社)、ドゥルーズ・ガタリ『千のプラトー』河出書房新社、など。

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意志の力 信念の人アウンサンスーチーさん

 根本敬・田辺寿夫『アウンサンスーチー』(角川書店)、『ビルマからの手紙』(毎日新聞社)、『新ビルマからの手紙』(毎日新聞社)、『老子・荘氏』(中央公論社)、『諸子百家』(中央公論社)など。

 わたしの信念は、共産主義革命を目指す左翼の立場を貫くことである。わたしは、その内部からの批判、つまり左翼としての自己批判をしている。外から外在的に批判しているのではない。自己解放をエゴ解放と取り違えて自らを甘やかす者はブルジョア社会の支配的な自己意識=エゴイズムに屈服することになる。人間は社会諸関係のアンサンブルという『ドイツ・イデオロギー』のテーゼを踏まえるならば、自己はすでに社会的であり、他者との交通を前提している。自己解放=他者解放であり、これは同時である。自己だけが先に解放されることはありえず、それを不可能と見て、他者の解放と自己の解放を有機的に結合して闘うのがプロレタリアートの自己解放運動であり、それがマルクス・エンゲルス・レーニンの立場である。それを示す文章は数多くある。だから、労働運動は全人民解放闘争、革命の任務に従属する。革命が優先で、労働運動はそれに従うべきものだ。全人民的政治闘争を闘うことを優先しなければならないのである。それが階級闘争である。そこで、労働者階級の偉大な自己犠牲の精神、自己・他者解放の力、全人民的闘争でのヘゲモーン性、先駆者性、解放者性、指導性、積極性といったものが、育成され、成長するのである。労働者階級の大胆かつ率直な自己批判は、敵である支配階級や反動に畏怖の感情すら引き起こすほど大きな力をもっている。だから、例えば、部落解放運動で掲げられた「部落の解放なくして労働者の解放なし」というスローガンは、人々に畏敬の念を呼び起こしたのである。自己の解放を他者の解放としっかりと固く結びつけて闘うものこそが真の全人民の解放者=プロレタリアートである。

 そして、もう一つ、マルクス・エンゲルス・レーニンに共通するもので、敵からも尊敬されたロンメル将軍が言っていたとおり、意志の強い者が勝つ。知識人はそれが弱いことが多いため、動揺し、ふらつきやすく、したがって負けやすいのだ。自滅しやすいのである。それは幾多の失敗を重ねながら学び取った教訓の一つである。アウンサンスーチーさんは、ビルマ「民主化」闘争の中で信念を貫き通した意志の強い民主主義革命の立派な闘士である。主義は違えど、尊敬に値する人だ。

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労働組合主義批判

 『季刊東北学』23号「遠野物語100年」、『服部之総著作集』2冊、宮崎市定『東西交渉史論』(中公文庫)、『天皇制を考える』(亜紀書房)、伊藤誠氏『現代の社会主義』(講談社学術文庫)。

 こう詰め込むと、頭の中が混乱するが、そのうち時間が経つと、自然と整理がついてくるし、また思考も休まず活発に活動し運動するので、その結果を待てばよい。つまり、思考の作業スピードと材料を加える速度がマッチし、良いリズムでいけばよいのである。農作業で田植え歌でリズムをとるのと同じようなことである。

 左翼がレーニンをよく読んでいた頃は、労働組合主義というのは批判されることが多かったが、レーニンが読まれなくなるようになると、労働組合主義が幅をきかせてくるようになった。レーニンの考えを基準にとって、労働組合主義を右派に分類しておくことにする。レーニンは、労働組合主義を、労働運動のブルジョア・イデオロギーへの屈服だというように述べている。日本では反合闘争、改良運動を労働運動の急進的戦術をもって闘うことの延長に革命という言葉を貼り付けることをもって革命運動と称する急進派がいる。かれらは急進派であって、しかも政治的には右派である。革命イデオロギーは労働運動の内部からは自然発生して成長しないとレーニンは、『なにをなすべきか』の中ではっきり述べている。この言葉にかみついて否定的に扱ってきた左翼の現状は惨憺たるものである。レーニン主義を事実上清算したのにこのあり様なのはなぜだろうか。それはネグリをもってきたところでどうにもならない。ネグリにはそれを克服できるものはない。今は帝国主義の時代であり、その地金が表に出てきつつある時代である。フランス社会党政権は、アフリカのマリへの軍事介入でそれを自己暴露したし、日本共産党は、尖閣諸島は日本固有の領土だと社会帝国主義者たることを顕にしている。帝国主義批判・社会帝国主義批判が強く求められる。差別・排外主義との闘いは、資本主義・帝国主義批判として展開されなければならない。そういう時代に入っている。帝国主義者の支配階級は、あらゆることを利用して、差別・排外主義を広めており、それを人々の間に感染させようとしている。拉致問題はそのかっこうの素材であり、それを利用して差別・排外主義を人々の間に注入しようとした。こう言うと古いと言われそうだが、そう言う方が古かったりする。新しいと称して古いものをこっそりと持ち込んでいる者もある。そんなレッテル貼りはどうでもいい。気にするだけ時間の無駄である。それよりも、世界がどうなっているかをきちんとつかむことが断然重要である。そのために精力を尽くすべきである。偽物は破綻し本物は残る。年もへったくれもない。このことに、老若男女などどうでもいいことだ。わたしはと言えば、年々、共産主義や革命への確信が強まり深まっている。

 白川静氏の漢字論やビルマ(ミャンマー)の民族問題や歴史や中国古代史、宮崎市定氏の『東西交流史論』や『東北学』もそうだが、それらを読んでいると、やはり、アジア的ということが根深いものであることがわかり、西洋的価値観やキリスト教などの一神教は、結局、アジアではほんとうには根付きにくいものだということがわかってくる。そのぐらい歴史的に深い違いがあり、それは簡単にはなくしようがないものであることが身にしみてわかってくる。トロツキー流の階級観ではとうてい対応できない。しかし、マルクス・エンゲルスには、モルガンのインディオ研究の批判的摂取(マルクス『古代史ノート』、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)やロシアのミール共同体論(マルクス『ヴェラ・サス―リッチへの手紙』やアジア的生産様式の概念(マルクス『資本主義に先行する諸形態』国民文庫)など、階級一元論ではないものがあって、それがないと、前史を終わらせ、人類史を総括するというプロレタリア共産主義革命の重大任務が達成できないのである。トロツキーにはそれがないので、トロツキー主義には、ほんとうの意味でのプロレタリア共産主義革命はできないのである。すでに、ソ連スターリニズム国家が消滅し、各国共産党の多くが右翼日和見主義の改良政党に転落してしまっている今、反スタだからということだけでは、トロツキー主義が進歩的な役割を果たせるものではないことは明らかだ。答えは難しいが、ブントの「過渡期世界論」を現代的に直して復権する必要があるということだけは言っておこう。革命のためには、ブントの時代を到来させなければならないのである。つまり、これらの根底的な人類史的課題を実現するためには、あらゆる領域で自由な議論が必要なのであり、ただ、労働組合運動のことや改良のことを論じているだけではだめなのである。大きな視野、ダイナミックな発想、活発な議論、大胆な自己批判が必要なのだ。それが革命の過程を促進する原動力の一つとならねばならないのである。それをできる左翼や党派や個人が今われわれの目の前にあるだろうか? なければ作るだけのことだ。

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白川静氏、漢字と神話とイデオロギー

 白川静氏の『中国の神話』(中公文庫)を読んでいたら、面白くなったので、白川さんの『文字講話』(平凡社)も読み始めた。何が面白いかと言えば、漢字には、元の絵文字の形態が残されていて、物語が読み取れるからである。絵文字は、古代エジプトにもマヤ文明にもある。だから、文字は画像から始まったわけである。西欧の言語学は、音声文字という後代に生まれて発展した文字をベースにしていて、それを当然の前提としているため、デリダが言うように、それは音声中心主義なのだけれども、漢字を多く使う日本では、それは半ば当たっているという程度にすぎないことがわかる。言葉の音声の発生と字の発生はどのように関連しているのかという疑問が起きた。

 中国古代国家で、殷という国があるが、殷の人々は文身、つまり入れ墨をしていた。これは、海人の風習で、殷の人々は元々山東半島のあたりにいて、それが内陸へ移ってきたのだろうということだ。魏志倭人伝に倭人が入れ墨をして潜水漁をしていたという記述がある。だいたい、建国後の殷は現在の河南省安陽市あたりにあって、その近くには、羌族や苗族などの南方系の部族がいたようだ。羌族は後のチベット族であり、南方系はいくつもの部族に分かれ、今の東南アジアにもいるようだ。

 殷王朝はおそらく沿海民族であったであろうと思います。かれらは文身、入れ墨の習俗を持っておりました。入れ墨の習俗をもっておりますのは、沿海民族だけであります。奥地の民族にはないんです。それからかれらは、貝をこの上ない宝物としております。貝も勿論海からとれるものであります。どこから手に入れたかわかりませんが、おそらくは琉球辺りのものが運ばれていたのではないかというふうにも、考えられているのです。その殷の文化が、やがて中原に入り、華北を制し、ついに陝西にまで勢力を及ぼして、一大王朝を築くのであります。それで中国における神話の形成というものは、こういう周辺の文化、そういう周辺の文化に促されながら、中央の覇権を目指して西に進んでいった「龍山文化」と、それぞれの民族の壮絶な戦いの上に、神話が展開されるのです。(『白川静 文字講話Ⅰ』 平凡社 205~6ページ)

 漢字と言えば白川静氏ということは頭にあったが、実際、読んでみると、とてもわかりやすく語り書く人であることがわかった。それは氏の経歴に関係しているのかもしれない。

1923年、順化尋常小学校を卒業後、弁護士廣瀬徳蔵(大阪府会議員を経て立憲民政党代議士)の事務所に住み込み勤務し、成器商業夜間部(現大阪学芸高等学校)に通う。この時期に廣瀬の蔵書を読み漁り漢籍に親しみ独学していった。1930年京阪商業卒業。
立命館大学専門部国漢科(夜間)を1936年に卒業、在学中より立命館中学校教諭に、1941年に立命館大学法文学部漢文学科に入学。同大学予科・専門学部教授となる。(ウィキペディアより)

 基本的には労働しながらの独学のようである。政治的立場は、穏健な立憲君主論者のようだ。それから、氏の漢字学にもいろいろと批判があるらしいが、それは当然のことである。研究が進めば、学知は変わる。それはべつにいい。新しいものを作り上げる独創性を持つ人は、そういうものである。こういう独創的な人が出なければ、アカデミズムという蛸壺の中では「知」は窒息してしまうだけである。独創的に学知を発展させるのには間違いがつきものであり、その間違いを正すことが学知を新たにし、発展させるのである。ただし、基本的な方向性とか基底的着想とか、アイデアとかの独創性がそれを新知へ導くのであり、それがヘゲモニーの役割なのである。独自のもの、新しいもの、真実性を保っているイデオロギーを形成する必要があるのだ。白川静氏は、そういう役割を果たした人であったようだ。

 かつて、大日本帝国は、明治維新から文明開化・近代化の道を歩んできた。しかし、あの15年戦争で、総力戦体制を築く中で、人にして神の現人神イデオロギーに則り、現人神を奉じて、神風特攻にまで至った。それまで取り入れ学んできた西洋の学知は、現人神信仰に屈服せしめられ、消し飛んでしまった。近代国家を目指したはずの明治国家は、最後には、祭政一致の神道国家として世界戦争に参入するはめになった。この不思議を解かない立憲君主制論などはまったくリアリティーがない。そういう立場の労農派は、マルクスのフランス三部作をきちんと読んでないに違いない。その三部作で、マルクスは、フランス革命で手に入れた小さな農地を、その後の近代化(資本主義化)の中で高利貸しに差し押さえられ失っていった小農民たちが、土地を与えてくれたと観念するナポレオンを神格化し、その幻想を作り上げ、信仰し、その信仰で、大ナポレオンの甥のルイ・ボナパルトを独裁者に押し上げたことを見事に描いている。経済的諸関係の土台と神話や宗教やイデオロギーという上部構造との関係を総合的に解明しているのである。近代もまた神話や宗教、イデオロギーによっても作られており、動いているのである。だから、運動からイデオロギーを抜けば、支配的イデオロギーに取り込まれるだけになり、現在ならブルジョア・イデオロギーの支配に屈することになる他はないのである。そうなれば、イデオロギーを創造する自由をなくし、自由な個人でなくなる。そうならないためには、解放的なイデオロギーを形成してそれを自分の中に持たねばならない。しかし、そういう解放的イデオロギーもそのままだといずれ虚偽意識へ転化してしまいかねず、たえざる自己批判と作り変えをし続けなければならないのである。それが難しい。一度成功すると、それをずっと手放すことができなくなりがちだからである。それと流行を追うというのとは区別しなければならない。これも難しいが、是非とも挑戦し続けなければならないことである。変わらないのは、ごく大まかな理念である。つまり、革命とか共産主義とか共同体とか平和とか解放とか自由とか平等などなどの理念である。これらは断固として掲げ続け、守り続けなければならない。しかも、革命的に。そして、用語の意味がずいぶん適当に使われるようになったけれども、左翼的な意味で。これらは非妥協に、死んでも守りぬく覚悟である。

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社会運動の自己反省 大野和興氏

  3・11から2年目となる。あの日を境に世界は大きく変わった。時に、何も変わらないという人がいる。しかし、そういう人は、自分=世界という自己同一のイデオロギーの中に閉じ込められているので、自分は変わらない、だから世界は変わらないと思い込んでいるのである。3・11前まで自由に入れた地域に今は入れないというだけでも世界は変化した。それ以外にも多くのものが変わった。とある学者さんと雑談した時に、話が、3・11後の福島のことに及び、これから福島の人は広島や長崎の被爆者と同じく差別されるようになると言われた。たぶんそうだろうと思ったので、差別について調べたり考えたりしてきた。

 東北の歴史を振り返ってみると、東北戦争(戊辰戦争)で敗れた後、勝者の西国・西南・東海・関東諸地域から近代化が進められ、東北は後回しにされた。敗戦後の戦後復興から高度経済成長は、太平洋ベルト地帯の産業開発から始められた。東北の農村は過剰人口を首都圏の労働力として送り出した。過疎化が問題になり、原発などの巨大施設が誘致される。

 マルクスは、人間の欲求の多様さを強調した。人間の全面的発展が共産主義の目的である。それには自然との関係も含まれている。現代大都市は、徹底的に自然を排除し、自然関係を遮断し、そうした欲求を満たせなくした。人工的な都市生活を満たすために、膨大なエネルギーを必要とし、それが巨大な発電所を必要とさせている。自然の享受を人間生活に必要不可欠のものと考えるならば、それと正反対の生活を余儀なくされていることになる。田舎暮らしが長かったせいか、都市は目的なしには住みにくいところで、とうてい人間的な生活の場とは思えない。都市で生まれ育ちながら、自然の中での生活を求めて、福島へ移住してきて、原発事故に会い、脱・反原発運動に参加している人もいる。

 運動は空前の規模に達したし、脱原発意識は人々の多数に根付いている。自民党政権の勝利は、原発を争点にしたからではなく、別の要因によるところが大きい。自民党安倍は、選挙中は、原発問題を曖昧にしておいて、政権獲得後に、再稼働を言い出したのである。福島の自民党県連は、福島県議会での脱原発決議に賛成しており、福島県内で自民党議員が衆議院に多数当選したといっても、原発推進を支持したわけではない。もしそれが騙しだというのなら、騙した方が悪であり、正義に反するので、当然、その責任を追求されねばならない。『平家物語』の冒頭の、「おごれるものは久しからず、盛者必衰のことわりをあらわす」に示された日本の歴史観にある自然発生的な弁証法の萌芽の意識どおりになるのである。

 たまたま目にした『人民新聞』No.1467に、農業ジャーナリストの大野和興氏の「人々の暮らしから離れている社会運動の弱さが露呈した」という文章が載っていたが、興味深かった。大野氏は、今の社会運動の弱点を指摘しているのだが、大野氏は、選挙結果を見て、脱原発運動に何十万人の人が結集したのに、なぜ、原発推進派の安倍自民党が大勝したのかと疑問に思ったという。TPPは争点はずしされた。というのは、反TPPの農協に対して、交渉参加を考えるという程度に答えただけだからだ。民主党にも騙されなかった選挙民が、自民党にも騙され続けることはありえず、北海道農協はTPP反対を決議した。安倍の再稼働容認発言に対しては、福島の被災地の首長が反対や不快感や疑義を表明している。ただ、これは、すでに福島原発の廃炉を求める県議会決議をしている福島県では今のところはリアルな争点ではない。

 大野氏は、選挙結果を、「負けは負けなのだ」といさぎよいが、負けの原因を、社会運動のシングルイシュー主義にあると言う。総選挙直前の11月に、氏は、反TPPの社会運動の中で、「「人々が安心して生きる基盤を壊すTPP反対を憲法の平和的生存権と結びつけて、護憲・脱原発・反TPP・普天間・オスプレイ・反貧困を大きくくるむ陣形をつくるべき」だという話をしたのだが、「ここは反TPPシングルイシューだから」と一蹴された」という。似たようなことが、脱・反原発運動の中でもあった。脱原発一点での結集は、初期の脱原発運動への人々の結集を進めるのに役立つやり方であったかもしれない。その昔、菅孝行氏が、シングルイシューを社会運動のやり方としてプラス評価していたことを思い出す。しかし、どんなやり方であっても、条件次第なのであって、永久にそのまま使えるものではないということぐらいは、誰でもわかることである。なんとなくだが、菅氏も、今は、シングルイシュー主義者ではないと思う。脱原発運動のこれからの発展にとって、シングルイシュー主義はどうなのか? すでに虚偽意識になってしまったというのが大野氏の主張であろう。

 例えば、ケインズ主義は、使える時は、使えて、経済成長の役になったのかもしれないが、公共投資に乗数効果が出ないということで、自民党政権が投げ捨てたものである。それなのに、自民党野田聖子議員は、「公共投資のどこが悪いんですか?」と開き直っている。前にやって駄目だったのが、今度は成功するというのは、どこがどう変わったからそうなったのかの説明なしである。公共投資イデオロギーは生きているのである。しかしそれも虚偽意識としてであろう。

 そして、大野氏は、当然誰でもわかることを指摘する。「この世界も、暮らしも、シングルイシューでできあがってはいない。全て根っこでつながっている」。そのとおりだ。どうしてそんな当たり前のことが社会運動で無視されているのか。「だが、社会運動はいま、それぞれのシングルイシューにとらわれ、くらしの総合性を見ていない」。「くらし」という言葉を「生活」という言葉に置き換えて見れば、マルクス・エンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』で言ったことと同じことになる。社会はつながりでできているということである(社会諸関係)。そこで、社会総体の変革が必要となり、そのイデオロギーが必要ということになる。そしてヘゲモニーが作られねばならない。そうなれば、言葉はそうでなくとも、コミューンとか党の領域に直面することになる。コミューンでとどまれば、アナーキズムでも認めるところで、ここまでは共同できる(アナーキズムは、思想哲学的には、フォイエルバッハの直観的唯物論以上には進まないし、進めない)。そこでとどまれば、その先、その未来に進めない。しかし、革命はそれを求める。全てを準備した上で革命に入ることなどないし、多かれ少なかれ、革命は自然発生的に始まり、進んでいく。その中で、未来を描いていくのである。それは未来に開かれている。だから、大野氏が言うように、部分にとらわれていては、「当然、社会運動の主張は人びとのくらしの根っこには届かない」のである。

 そして、大野氏は、「自身への反省を込めていうのだが」と自己反省の意識をもって、「選挙結果が示したのは、くらしに根っこを持たない社会運動の弱さである」と言う。問題は、この「くらしの根っこ」が生産・消費などの全社会関係を指すものかどうかである。日本は食料自給率が低く、他国から食料品を輸入している。この社会が消費する食料を外国の生産者が生産しているのである。この生産をこの社会とつながっているものとして捉えた上で、社会運動のシングルイシュー主義の限界の明確化→克服、そして総合性への転換を構想しなければならないのである。一般市民運動が、世界性と被災者の特殊性・具体性とを都市市民という主体的共通性を媒介につなごうとして、そうした市民性が成立する基盤の小さい福島でそれをそのまま同心円的に拡大しようとすれば、あまりうまくいかないのは当然である。それぞれの具体的な違いを認識し理解し、認め合いつつ、共通性を探りつつ繋がりを作っていき、アイデンティティーが相互に変化するような結びつきを運動で作っていかないといけないのである。運動の中、闘いの中で、形成される新しいアイデンティティーの共通性を持つ主体をプロレタリアートと名付けるならば、そうしたプロレタリアートの自己解放運動こそが、革命運動と言うべきものである。社会解体状況は、革命過程に必ず存在するが、それは主体のアイデンティティーの組み換えが起こる流動的な状況でもあるからである。安丸良夫氏の論考で、世直し一揆の際に、男が女装し、女が男装したりする、アイデンティティーが変化する祭(政)という政治の原基とも言うべき姿が現れるのが示されている。

 大野さんほどの大ベテランから、こうした自己反省的な社会運動の内在的批判が出てきたことは大いに意義がある。福島主体形成運動は、長期を想定したもので、福島のチェルノブイリ化を予想すれば、そうならざるをえない。1年目はともかく、2年だからといって特にどうということもなく、命がなければくらしもへったくれもないので、命を見据えて、息の長い運動をやる主体を一人でも多く創造すべきだという考えである。

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朝鮮学校と排外主義雑感

 たまたま、先日、荒川の朝鮮学校で行われたイベントに人に誘われて行ったが、地域に解放しておこなわれただけに、こういう事態の中で、周りの人々の表情がやや硬い感じがした。排外主義者たち700名ほどが、大久保の韓流ショップを襲撃したのである。今日のニュースでは、韓国で、日本大使館に汚物入りのペットボトルが投げ込まれたそうである。笑顔がないのは、福島の人々もそうで、地元では、落語家が呼ばれ、その時だけは大笑いしたということを聞いた。この社会で、なぜ、こうして笑顔が失われていくのだろうか。なぜ落語家やお笑いタレントの力を借りなければ笑うことができないのだろうか。そこに、この社会の根本的な行き詰まりがあり、世界的にそうなりつつある感じがする。もはや3・11前に戻ることはけっしてあり得ないということをこのような事態に際しても感じる。

 こんな時に、現場にいないというのは事態に立ち遅れることだ。そして、歴史認識の問題として、以下のことは教訓的である。赤坂憲雄(「別冊東北学」責任編集者)とノンフィクション作家で秋田県朝鮮人強制連行真相調査団事務局長の野添憲治氏の対談である。

赤坂 野添さん、22年前にエッセーに、聞き書きは「まだ日本の学問の世界では、その地位が与えられていない。よそ者扱いにされている。なぜなのか。日本の学問は人間を柱に据えようとせず、何よりもまず文献を重んずるという偏った視覚を内蔵しているためであるし、もう一つは聞き書きは表現する方法を知らない人の代弁をするのだとする、聞き書きをする人たちの誤った考え方からきている」と書かれています。24年経っても状況は変わっていないんですよ。依然として聞き書きは学問の世界では、きちんとした地位が与えられていない」(『別冊東北学』vol.1 41ページ)

 今の脱・反原発運動でも、反原連などが、シングル・イシュー主義という昔の運動のスタイルをそのまま現在にあてはめて、教条化し、実際に生きた人間のことをすっかり忘れていることに根本的な欠陥があり、そのことは運動の劣化、弱体化へと結果するということを言わねばならない。以下の言葉をかみしめなければならない。

野添 学者がやってきた研究がないと歴史が成り立たないのは分かります。だけど、やっぱり実際に生きた人間の声をどんどん歴史の中に織り合わせていく必要がある。その果てに本当の生きた歴史として読めるものが出てくるんじゃないでしょうか。(同42ページ)

 独島(竹島)問題などを見ても、そうである。この無人島には聞き書きできる人がいない。しかし、朝鮮学校には聞き書きできる人間がいる。それが重要なことなのである。どのような運動でもそれが重要であり、学知もまたそういうものでなければならないのである。

赤坂 ……ぼくは書き手にとっては、柳田國男のいう常民、つまり普通のありふれた人々の人生の中から歴史が浮かび上がってくる瞬間に立ち会うことこそが、本当のだいご味、最高の快楽なんだっていう気がしますね。(同38ページ)

野添 歴史家であればあるほど、その感性の豊かさが必要だと思うんだけどな。(39ページ)

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