映画・テレビ

「竜馬伝」雑感

 毎回みてるわけではないが、この前のNHK大河ドラマ「竜馬伝」を観たので、そこからつらつらと思ったことを書いてみる。

 新撰組が池田屋に結集していた浪士らを襲って多数を殺傷した池田屋騒動の後、勝海舟は、幕府が神戸で開いていた海軍所に脱藩浪士が多数混じっていることを板倉伊賀守に咎められた。勝は、そこをまかされていた責任者だった。

 勝は、確かに脱藩浪士が混じっているが、かれらの脱藩の罪を解くよう各藩に働きかけているところだと弁明する。しかし、池田屋で、土佐の脱藩浪士の亀弥太がいたことが、後に、海軍所の命運に影を落とすとナレーターが語る。

 おりょうは、竜馬に、自分の父親が、医師をしていたが、志士たちを支援したために安政の大獄で殺されたことを告げる。そして、彼女は、志士も新撰組も嫌いだと言う。しかし、彼女は、竜馬に、神戸に急いで帰れと告げる。

 不思議なのは、やはり、勝だ。後々、面倒な存在になる可能性の高い脱藩浪士に西洋流の操船術を伝授していたのである。幕府の金と施設で、やがて倒幕に向かうような者たちを養っていたわけだから、変わっている。実際、ここで学んだ土佐脱藩浪士らは、竜馬の下で、海援隊を結成し、第二次長州征伐の際には、竜馬が動いて成立した薩長の倒幕同盟の側に立って、倒幕のための武器を、「いろは丸」という船を使って長州に送り込んだのである。

 『氷川清話』にある勝の話では、海軍所には、薩摩藩士がもっとも多かったという。かれらが後に倒幕軍となって、幕府に刃を向けてくるのだから、勝は「潜在的」敵を養っていたことになる。それについて、勝は、その中で、門閥政治を打破し、人材養成が必要だからだと述べている。

 それから、ドラマでは、司馬の『竜馬がゆく』とまったく違ったキャラクターに描かれている武市半平太が、捕らえられる。そこで、乙女姉さんの語る武市像は、妻一筋の高潔な人物というもので、ほとんど宗教的な聖人である。むかし観た映画などでの武市像は、芸者に向かって「春雨じゃ、濡れていこう」などと言う粋な遊び人でニヒルな二枚目として描かれていたのを覚えている。ドラマでは、純朴、純真、一途、堅物、節を曲げない、という武市になっている。『竜馬がゆく』では、もう少し、一方では、純粋であるが、他方では、岡田以蔵などを使って暗殺を指揮する暗い面もある二面性を持つ武市像を描いていて、それが、竜馬にとって、同志でありながらも距離を取らせたというように書かれていたと思う。

 司馬は、竜馬に、革命的ブルジョアジーの政治思想家・実践家として、封建制から近代へと飛躍する過程の推進者として、基本的には「明るい」近代主義者のイメージを持たせている。そして、その革命家の魅力を描いている。それは、時代が彼らに刻印する社会関係性であり、その絆の存在が、彼らを支え、人々を彼らに引き寄せた魅力の正体なのである。人々は、彼らに希望のある「未来」を見た。竜馬が「明るい」のは、時代が夢見る「未来」の明るさを、彼が反射させることが出来たからである。固い自我は、自我の国境を固めて、それを拒絶するから、そう出来ないのだ。

 しかし、ドラマでの勝は、尊皇攘夷派か佐幕派かというアイデンティティーの立て方ではなく、日本人という新しいアイデンティティーを立てることで、これらの対立アイデンティティーをその下に包摂しようとする人物ということになっている。しかし、『氷川清話』を読む限りでは、どうも、勝=ナショナリストという姿は、浮かんでこない。確かに、勝は、江戸城無血開場を、国家主義という立場からの判断だと述べている。しかし、それは、佐幕派も含むような武士道精神から言われており、近代国家に適合的な近代合理主義とは違う精神を基礎とする国家主義なのである。武士道と近代国家の精神が合わないのは、その後、明治初期の相次ぐ士族反乱が明らかにしたとおりである。勝は、しきりに、幕府の徳政を話の中で繰り返しているが、そう語った頃はすでに「江戸は遠くになりにけり」だった。むしろ、考えなければならないのは、明治以降の自由民権運動が排外的ナショナリズムを抱えるようになり、それを反省する意識が育たなかったということである。

 一つには、大河内一男の『黎明期の日本労働運動』(岩波新書)にあるような「出稼ぎ型」労働者と永代売り買い禁止令の廃止、土地私有化容認、売り買い自由化後の中小農のその後の変転などの明治維新から日清戦争までの日本社会の階級階層関係の問題がある。主に旧武士層や旧名主、豪農層をリーダーとして始まった自由民権運動が、こうした変化を基本的に進歩の過程として見逃し、国会開設運動に集約されていくと同時に、窮乏する農村や都市下層、「出稼ぎ型」労働者の悲惨に目を暮れず、むしろ、朝鮮半島から中国など、その前に、台湾、琉球、アイヌモシリ(北海道)への矛盾の「外」への押し出しによって解決の道を見出そうとした。他方で、ドイツ帝国のビスマルク的政策の模倣として、上からの温情主義的な解決策も官界を中心に生まれ、温情主義的な地主層の育成や労働者の訓育などの政策を取る動きも生まれる。自由民権左派からは、ルソーの『民約論』の翻訳で知られる中江兆民系の大井憲太郎のように、労働運動に関わろうとする者も出る。

 『竜馬がゆく』に描かれたおりょう像になれてしまったので、どうも、ドラマのおりょうは固すぎるように感じてしまう。実際のおりょうは、いくつかの資料によると、竜馬死後、土佐の竜馬の実家に行くが、その後、東京に出て再婚し、案外、たくましく明治の後半まで生き抜いている。

 歴史小話は、京都の壬生の新撰組の屯所の紹介であった。壬生寺で開かれる壬生狂言を、隊士たちも激務の間の息抜きとして楽しんだというのである。壬生寺は、四条大宮からちょっと行ったところで、大通りから少し路地を入ったところにあって、ちょっと目立たない。

 藩から国へという意識の変化ということを司馬は言う。それまでは、藩=国だったというのであるが、それは、逆に、彼の近代国家観を当てはめて藩を見ているのであって、藩は近代国家とは違う。司馬にはいつもそういうところがあって読む時に気を付けないといけないのである。「竜馬伝」にもそういうところがある。しかし、こういう近代国家創設物語を語り続けないといけないというのは、それが意識としては、歴史的に変化するもので、固めておかないと、風化しかねないものだからである。我々の感覚は、国境などおかまいなしに超えていくし、人の関係もそうで、意識的に統制しないと、どんどん広がって行ったりするわけだ。感覚は、別に、知的計算などしないから、興味のあるものやところや人に人々を誘う。勝も竜馬もそうした傾向の強い人だったようだ。

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4月30日NHK特集『煙と金と沈む島』

  4月30日のNHK特集『煙と金と沈む島』という番組は面白かった。

 これは、地球温暖化問題を扱ったものだ。タイトルの中の「煙」は、中国の重慶市の石炭鉱山が、経済成長のために増え続ける石炭火力発電の需要のために、増産を急いでいることを象徴するものである。重慶市は人口が三千万以上という超巨大都市となり、工業発展のペースは速く、石炭は、その主要なエネルギー源となっている。

 「金」は、京都議定書で認められた排出権取引を扱う事業に集まり動く巨額のマネーのことである。排出権取引とは、京都議定書で二酸化炭素の排出量が各国に割り当てられ、さらにそれが各国政府から企業に割り当てられているが、目標値以上に排出量を減らした企業の余剰分を、目標を下回った企業がその分を買うことで、目標を達成したことにするという取引のことである。売り手と買い手の間に立って、利ざやを稼ぐ企業が急成長しているのである。

 「沈む島」とは、地球温暖化の影響と見られる水面上昇のために水没の危機が迫っている珊瑚礁の上の海抜2メートルほどの南太平洋の島国ツバルのことである。ツバルでは、大潮の時期に島中に海水が噴き出す現象が起きるようになり、それが年々ひどくなっているが、このまま地球環境温暖化が進めば、近々沈んで消えてしまうと言われている。

 中国重慶市の石炭生産を拡大して、豊かになりたいと精を出す炭鉱労働者と石炭運搬列車の運転士の兄弟、アメリカの排出権ビジネスが拡大すると読んで、いち早く会社を立ち上げ、排出権の売り買いに励んで成功した社長とトレーダー、地面から噴き出す海水が増えるのに、わけもわからないまま、対応に追われるツバルの老人一家、の姿を同時的に描きつつ、それらの人々がお互いを知らないまま、同じ地球温暖化問題に直面しながら、それぞれ違う結果にあい、異なる態度をとっている姿が描かれている。

 重慶市の炭坑には、日本の大手商社が、炭坑から出るガスを使ったガス発電所をつくり、ガスを減らすことで、排出権を生産して、それを日本の企業に売るという事業を成立させる。炭鉱会社は、その儲けで、さらに石炭増産をするという。石炭運搬汽車の運転士は、それによって、給料が上がって、家族旅行のために自動車が買えることを期待する。彼らは、先進国が地球温暖化ガスを先に大量排出して豊かになったのに、われわれが豊かになるためにガスを出すのを批判する資格はないし、止める権利もないという意味のことを言う。

 アメリカでは、排出権取引会社の社長が、資本主義経済がツバルの水没を防ぐのだと自信を見せる。二酸化炭素を減らせば、その分が排出権として売れるから、排出量を減らした方が利益になるので、減っていくということだろう。二酸化炭素を減らすための技術投資に対して、排出権の販売が穴埋めするということだ。しかし、それは、政府による強制力が担保しているのであり、政治的圧力によって、せかされているのである。そうしない自由はないからだ。地球温暖化ガスの排出量を減らして割り当て分を達成するか、排出権を買うか、どちらかしかない。自由市場などではないのである。この会社は、ヨーロッパを襲った寒波で、電力使用量が伸び、電力価格が高くなれば、ドイツの石炭発電所が発電力を増やし、石炭を多く使用するので、それだけ二酸化炭素の排出量が増えると見て、排出権を売って大儲けした。かれらは、ビジネスチャンスを逃さないように、気候や電力価格等々の動き世界の情報を注意深くモニターし、分析しているのである。

 ツバルでは、海水の噴出が年々激しくなって、作物が塩害にやられ、自給自足の伝統的な生活が危機にさらされ、ついに、老人も、自分は残るが、子供たちはよそに引っ越した方がいいと言う。

 世界最大の二酸化炭素排出国のアメリカと二位の中国は、京都議定書を拒否している。そのアメリカで、排出権ビジネスが発展している。中国は、世界最大の排出権ビジネスの成長を目指すという。

 なんだか腑に落ちない話だが、現実はそうなっているようだ。そういう世界のリアルさを感じさせる番組ではあった。 

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近代原理称揚の『チャングムの誓い』

 今、NHKで放送されている韓国ドラマ『チャングムの誓い』は、近代主義と封建主義の対立を軸にしている。

 まず、チャングムの父母が、中世的制度を代表する宮中を追われた逃亡者であり、血縁的原理の背景を失った人間たちである。追っ手を逃れるために、中世身分制度の最下層である白丁の村に住むことになる。二人は、血縁的背景なしに、個人同士として、恋愛結婚をする。そして、チャングムが生まれ、父母と子の核家族をつくる。

 父母を亡くして完全に個人になったチャングムは、私利を追求しているが人の良い酒商人の夫婦の下で、仕事を手伝いながら暮らすが、母の遺言に従い、宮廷女官の見習いになる。血縁的背景のない彼女はいじめにあうが、努力を重ねて、料理の腕を磨く。

 宮廷女官の世界は、一族の血縁原理を最高価値として、最高尚官(チェゴサングン)の地位を代々独占してきた御用商人のチェ一族が牛耳っていた。中世的勢力が、個人を抑圧し、支配していたのである。それに対して、チャングムは、好奇心が旺盛で、他の人がやらないような実験を繰り返して、新しい発見を行い、実力を磨いていった。

 たまたま、チェ一族のチェゴサングン独占が不可能となったために、もっぱら詩歌に遊び、地位に拘泥しない風流で自由な生き方を楽しんでいたチョ・サングンが、操り人形として、チェゴサングンに抜擢された。ところが、彼女は、チェ一族の思惑に逆らって、実力主義と競争主義を導入することを宣言する。チェ一族のクミョンとチャングムは、良きライバルとして料理の実力を競い合う。そして、ついに、チェゴサングンの後継者を決めるのに、料理の腕比べが行われることになる。

 チェ一族は、公正な競争を妨害するために、ライバルのハン・サングンを誘拐したりするが、チャングムの活躍で、ついに競争を制して、ハン・サングンがチェゴサングンになる。等々。

 かくして、個人、核家族、血縁主義の否定、好奇心(驚き)、実験、科学的態度、実力主義、競争主義、等々の近代的価値観と、中世的封建的価値観とが対立するドラマとなっているのである。ドラマは、健全な近代性の称揚であり、だからこそ、大昔のことを取り上げた歴史ドラマだが、現在の人々が観て、無理なくわかるのである。

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