徒然

春近し

 今年は、久しぶりの寒い冬になった。

 これもエルニーニョとやらのせいなのだろうか? それでも寒さの中にも、日差しの強さや空気の匂いなどの中に、春の気配が感じられるようになった。

 すでに蝋梅をはじめ、梅の花が開き始めている。今でこそ、春と言えば、桜ということことになったが、昔は春の花と言えば、梅の花が代表的なものの一つであった。禅宗では、黄梅には、特別の意味があり、シンボルである。東京なら、小石川後楽園の梅は種類が豊富である。それに湯島の梅も有名だ。水戸の偕楽園、北九州の北野神社も有名である。香りのある梅もあり、香りのない梅もある。梅干にできる梅もあれば、できない梅もある。田舎では、梅干を漬けるために、庭などに梅の木を植えていることが多い。白梅である。

 太陽の光は、高くから照るようになり、地面は熱く暖められて、土の匂い、草の香りを放射している。

 しかし、風は冷たく、時に雪も舞う。とはいえ、それもぼた雪で水分を多く含んだ重い湿った雪だ。

 早足で散歩するとちょうどいい感じである。少し汗をかくぐらいが気持ちよい。子供のころは、雪の日に家でじっとしていることはできなかった。でも、今は、雪が降ると外に出たくなくなる。

 雪を見てうれしくなったのはなぜなのか? スキーが趣味の人は、雪が待ち遠しいというのと似ているのだろうか? 雪で遊ぶことはいろいろあった。スキー、そり、雪合戦、雪だるまづくり、かまくらづくり、雪の玉を固くして競う遊び、雪の中を転がることも楽しい遊びだった。

 そういえば、韓流ドラマ『冬のソナタ』には、雪だるまを二人で作って遊ぶシーンや粉雪をかけあうシーンや雪の玉の中にペンダントを隠して渡すシーンや足跡を踏んで歩くシーンなど雪遊びがいろいろ出てきた。カン・ジュンサンは、雪を見ると楽しそうだった。チョ・ユジンが婚約式に向かう途中で、チュンサンを見た時、彼は雪を見上げて笑っていた。

 しかし、今年の冬は、楽しい冬の話題は目立たず、食品偽造だの農薬混入だの物価高だの金融危機だの犯罪のニュースだのという暗い話題ばかりが目立つ。

 なぜか、人々が嬉々として話すような明るい話題もないようだ。人々は、何か不安や不満を抱えつつ
、黙々と生き、生活しているように見える。

 雪の日、楽しそうに歩く人の姿は少ないように見える。でも、春は間違いなく近づいている。ジャンパーやコートを脱ぐころ、身軽になった人々の身体は、はずむように動いているだろうか? 桜が咲くころ、笑顔で空を見上げる人が多く見られるようになるだろうか? 

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麻生・福田公開討論に徒然思う

 自民党の総裁選は、いよいよ最終局面に入っている。
 
 党内情勢では、福田優勢は動いていないようだ。
 
 21日の公開討論会では、福田候補は、淡々と政策や主張を語るという感じで、麻生候補は、「国民」のプライドをくすぐりながら、ポピュリズム的なやり方を取っていた感じがする。
 
 福田候補は、地方・格差などの痛みの緩和という保守本流的な政治理念を強調していたが、それにたいして麻生候補は、日本の歴史・伝統・文化の独自性、日本文明の他の文明との違いを強調し、それに誇りを持つべきだということを繰り返し強調した。要するに、ハンチントンのトンチンカンな文明論の焼き直しだろう。

 福田候補の考えは、古い自民党の普通の保守思想を反映した政治主張である。それに対して、麻生候補の方の考えは、民主党支持拡大に示された日本国家の自主独立を求める民意を意識したものだろう。
 
 麻生候補は、公開討論会で、戦前の紙芝居は、手っ取り早い失業対策であったとともに物語を連続的な絵で描いたという点で、後のマンガの元になったが、そういう日本独自の文化が、今では世界に広まっているという点を強調した。物語をマンガにするというのは日本が最初に行ったというのである。それなら、鳥獣戯画がマンガのルーツと言えないこともないわけだ。
 
 その文脈の中で、継体天皇以降の皇位の確実な資料による男系継承の存在をも、日本独自の伝統文化に入れていることがまず問題である。いわゆる「記紀」については、新京都学派の梅原猛氏の『神々の流竄』や上山春平氏の『神々の体系』で、記紀編纂期に藤原体制を築いていた藤原氏に都合良く書かれていて、要するに藤原イデオロギーによって書かれているという指摘もあるし、同じ天皇の事績を複数の天皇に分けて記述しているという水野裕氏の『大和の王権』の指摘があるというように、史実がはっきりしないことが多い。天皇陵とされている宮内庁所管の古墳の学術調査があれば、もっとはっきりするはずだが、宮内庁は限定的な調査しか認めていない。
 
 世界中どんなところだって、他にない独自の伝統や文化の一つや二つはある。また、麻生候補は、日本のいつの時代のどの範囲の日本のことを言っているのかがよくわからない。古代には、北九州から朝鮮半島南部には、きわめて近い文化圏があった。どちらがどちらに影響を与えたかなどというのは、後の時代のナショナリズムによる観点であって、似たような発掘物が出てきていることから、この範囲に共通文化圏があったことは確かである。
 
 古代の日本の範囲といっても、大和政権の成立範囲も、東北の中部にまで限られていたし、それも、全域を完全支配していたわけでもない。平安時代にも、現地での反乱が相次いでいて、桓武天皇(この人の母親が、朝鮮半島の人であることを、現天皇が認めた)は、渡来系と言われる坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、その平定に苦慮した。それに、記紀によれば、朝鮮半島南部での争乱の中で、北九州で、磐井の乱が起きたり、吉備地方(現在の岡山県のあたり)に大和政権の中で、半ば公然と独立勢力を維持していた吉備王権があったりした。それに、この頃、沖縄と北海道はまったくその範囲に入っていない。
 
 中世でも、青森や北陸地方は、渤海などと独自のルートで貿易を行っていたし、北海道などのアイヌなどは、ロシアの沿海州地方との交易を行っていたことが発掘品などから明らかになっている。もちろん、つい数十年前には、北は千島・樺太から、南は台湾まで、そして朝鮮半島も、日本の国土であった。それも、沖縄はアメリカ軍政下に長くあって、外国だったし、北方4島も、ロシアの支配下にある。韓国との間で、竹島の領有権争いがあって、江戸時代の文献資料なども、引っ張り出されて、双方が自説を譲らず対立し続けている。領土は、国のメンツということもあるが、しかし、それは、経済水域を左右し、海洋資源などの権益争いと結びついている。明治政府が、その初期にいったんは竹島の領有権を放棄しながら、その後、朝鮮半島進出、ロシアとの対峙という政治的必要から、実力占拠に出たのは、その軍事的利用価値のためであった。
 
 こういう次第で、歴史上、日本独自の伝統だの文化だのの及ぶ範囲というのは変化してきたのである。
 
 麻生候補がこういう話を持ち出すのは、日本が、独自の文化・文明を持っていて、それを世界に商品化して売り込むという輸出戦略を持っているからである。おそらくは、彼はマンガ好きというばかりではなく、秋葉原の「オタク文化」を輸出産業化できると思っている。秋葉原は、こうしたソフトと先端技術を結合していて、マンガ文化をソフトとして、それをゲーム機などのハイテク機器と合わせて、世界に売り出そうという戦略を抱いているのである。
 
 しかし、彼が言うように、日本独自の文化や伝統をソフト化して輸出して、はたして、西欧のキリスト教文化の国々で、受け入れられるかという問題がある。例えば、ハリウッドで作られた「ラスト・サムライ」は、武士道を西洋的な騎士道と混合しているように見える。武士道の場合は、やはり忠君忠義という縦の関係が基本であるが、騎士道には、友情という横の関係がある。武士の場合は、連帯責任、一蓮托生で、類は一族郎党に及ぶものだ。騎士道の場合は、個人というものがあり、恋愛がある。ニーチェが強調した貴族の騎士道的恋愛である。それは、デュマの『三銃士』に描かれているものである。
 
 脱線したけれども、麻生候補が言うことは、すでに世界的にある程度の文化的共通性があって、それに日本的なものを加味し、織り交ぜれば、ソフト産業が世界商品を生み出せるだろうという話である。これは、これで、福田候補が、従来型の穏健保守主義的な手堅い政治をたんたんと語っているのに対して、新しい夢を語ることで、積極的な攻めの姿勢を対置して、差別化を図っていると言える。しかし、一時、、韓国政府のソフト輸出戦略によって、育成された映画・ソフト産業による輸出攻勢もあって、韓流ブームが日本・中国・台湾・東南アジアに広まっていった時期があるが、それが一時的ブームとして沈静化してしまったようになる可能性もある。流行というものはそうであり、さしものハリウッドでさえ、厳しい状況になっているのである。もっとも、日本の韓流ブームは、「冬のソナタ」のインパクトによるところが大きいというのが実態だったと思うけれども。
 
 麻生候補が言う、紙芝居が失体事業であったという点については、そこからマンガという新産業が生まれたというイノベーション(革新)のことを強調したものであろう。しかし、それも、マンガ業界が、今、傾きつつあるように、一時的な革新でしかなく、それは、新しいイノベーションが起き、それが成功しないと、従来産業のように停滞してしまうのである。シュンペーターは、その結果、利潤がゼロまで落ちると言った。イノベーションが起きるかどうかは、主に、それを推進し意識的に追求する創造者としての企業家とそれを評価して投資する投資家と技術開発ということにかかっているとシュンペーターは言う。構造改革路線の採用以来、日本の企業は、分配構造の変革に努め、労働分配率を低め、株主や役員報酬に多く分配し、人件費を抑制するように行動してきた。それによって、投資家は、投資からより多くの利益を引き出そうとするようになり、その分を、企業家は、経費・人件費の削減などを節約して応えてきたのである。企業が株式などの直接金融方式での資金調達する場合、投資家(とくに外資)は、短期的な利益を重視する傾向が強い。
 
 麻生候補のプラン・戦略の実現には、ある程度の長い期間の技術育成や商品開発が必要で、すぐに実現できるというものではない。実際には、すでに、小泉ー安部の改革路線の清算が始まっていることは、高齢者医療費の自己負担引き上げ凍結の決定でも露わになった。衆院選が近い以上、そうせざるを得ないのである。この流れは続かざるを得ない。いくら、爆笑問題の『太田総理』という日本テレビ系の番組の投票で、麻生候補支持が7割近くで、福田候補が3割ぐらいという結果が出ても、そのとおりにはならないのである。投票者の多くは、テレビの気楽さということもあるし、恐らく東京など都市部の視聴者だろう。その程度の重みでしかない。
 
 今選挙政治で焦点になっているのは、地方である。そして、小沢民主党の参院選圧勝を受けて、官僚は参議院では、民主党に従来より上のクラスの幹部を法案説明に送り込んでいるし、経団連の御手洗会長は、小沢路線・民主党の政策の支持を表明するなど、態度転換が各界各層で進んでいる。かくして、小泉ー安部路線の清算は、急ピッチで進んでいくだろう。麻生候補は、その点で、この路線と近いようにイメージされているのが、不利に働いており、彼は、そのようなイメージを払拭しようとしているのだろうが、それには「時すでに遅し」であろう。もし福田政権が、人々の生活の安定や未来への希望を感じさせることをある程度でも実現できれば、それなりに人々の評価を受けることになるかもしれない。次の衆議院選挙までに、どこまで、そうできるかどうかはなんとも言えない。ただ、自民党の各派閥は、それを期待しているだろう。
 
 まあ、結果は、日曜日には出る。まとまりなく、徒然と書き連ねてみたけれども、いずれにしても、参議院選挙で示された民意が生みだした流動化が、まだまだ続くことは確かである。

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9月14日の気になったこと2つ

 一つは、公立小学校での校内暴力が昨年、急増したという記事である。今小学生と言えば、90年代後期に生まれた子供である。関係はないかもしれないが、この時期は、ちょうど、「新しい歴史教科書をつくる会」が出来て、教科書批判や自虐史観批判、教師批判の一大キャンペーンを行っていた頃である。特に、教師に対する暴力が繰り返されていることには、親の価値観が反映されている可能性もある。「つくる会」は、自虐批判をすると当時に、プライドを強調した。それもやりすぎれば、他者の尊重という態度を損なうものになりかねないのではないだろうか? 無論、これは推測にすぎない。暴れる子供たちに、なんらかのストレスはないのか? 社会的経済的原因はないのか? 等々、具体的データから明らかにしていかなければならないことがいろいろある。「つくる会」は、これも、自虐的な教科書のせいにするのだろうか? 

 次は、パレスチナの危機についてである。レバノン戦争は、国連やEU諸国・アメリカなどの外交の動きの中で、停戦にこぎつけ、今のところ、ほぼそれは守られている。イスラエルは、レバノン空域・海域の封鎖解除を行う。復興資金の提供を、各国が表明しており、後は、それらを実行し、国連レバノン暫定軍とレバノン国軍の南部への展開と同時に撤退することになっている。かくしてレバノンでは平和と復興に向かって動いている。

 それに対して、パレスチナは、相変わらず、イスラエルによる封鎖と暗殺、軍事攻撃、政治家・活動家・政府要因の拉致が行われている。国連貿易開発会議は、パレスチナの危機は深刻であり、各国が援助を再開しなければ、危険な状態になると警告を発した。ハマスとファタハは、連立政府の樹立で合意したが、この状態をなんとか改善することが必要である。それには、イスラエルが行っている懲罰行為を止め、パレスチナの封鎖を解除し、インフラの破壊を中止し、再建のための人材を解放することだ。

  校内暴力:公立小、初めて2000件突破 05年度

  小学校の校内暴力 公立小学校の児童が05年度に起こした校内暴力は2018件(前年度比6.8%増)で3年連続で増加し、過去最多となったことが、文部科学省の「生徒指導上の諸問題の現状」の調査で分かった。このうち、児童が言動を注意され逆上して足をけるなど、教師への暴力は過去最多の464件で、前年度比38.1%増と急増ぶりが目立った。

 05年度の小中高生全体の校内暴力件数は3万283件(0.86%増)で、そのうち中学生は2万3115件(0.02%増)、高校生は5150件(2.5%増)。

 増加の目立つ小学生の校内暴力のうち、最も多いのは児童間暴力の951件(4.1%減)で、他に器物損壊の582件(7.0%増)など。校内暴力で11人が警察に補導された(学校外15人を含めると計26人)。

 また、小5の男児1人が器物損壊で10日間の出席停止となった。問題行動を繰り返す児童生徒がいる場合、他の子どもの学習権を保障するため市町村教委が保護者に命じる制度で、出席停止の用件を明確化するなど適用しやすくした学校教育法改正(02年1月施行)以来、小学生では初めて。

 同省は教師への暴力の増加傾向について、「259人で464件と、中高生に比べて1人の児童が暴力を繰り返すのが特徴。しかられた後に気持ちの切り替えができなかったり、注意を聞けないケースもある」と分析。「保護者の協力不足や担任任せな実態もある」と保護者との連携や校内での一致した対応を求めている。【長尾真輔】(毎日新聞 2006年9月13日)

 パレスチナ、米欧などの援助打ち切りで破たん危機

 【ジュネーブ=渡辺覚】国連貿易開発会議(UNCTAD)は12日、パレスチナ情勢に関する報告書を発表し、パレスチナ自治区が米欧などの援助打ち切りで経済破たんの危機にあると指摘した。 それによると、2006年の住民1人当たりの所得は約1080ドル(約12万6000円)と、2000年の約半分にまで落ち込む可能性がある。過去約20年間の最低水準という。

 報告書は、援助停止による今後3年間の経済損失が総額54億ドル(約6300億円)に達し、2007年の失業率は最大で約52%にのぼる恐れがあると指摘している。日本、米国、欧州連合(EU)などは今年3月、パレスチナでイスラム原理主義組織ハマスが主導する内閣が発足したことを受け、自治政府に対する直接援助を停止している。(2006年9月13日『読売新聞』)

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本居宣長その他について徒然想った

  7月6日の「西尾幹二のインターネット日録」に、西尾氏が、今度、松山で行うという講演会の話題が載っている。7月4日に拓殖大学日本文化研究所(所長井尻千男氏)の公開講座「新日本学」の最終の第十二講と同じ内容で、「古き良き日本人の心(日本人の魂を考える)」というテーマで、主に本居宣長の話が中心だという。

 それは、「冒頭、日本人が歪みをもった茶器を好むのを永く不思議に思っていた呉善花さんが、ご両親を日本に招いて、信楽の茶碗にご飯を盛って出すと、「あんな犬の茶碗のようなみっともないものを捨てて」といわれるエピソードから、日本人の風雅として通例いわれている器の歪みを考えてみる」というところから始まるという。日本びいきだという呉善花さんが、信楽焼のゆがんだ茶碗を使う日本の文化を理解できなかったというのである。それなら、豊臣時代に、わざわざ茶碗を壊して、つぎ直して、ひびだらけにしたというようなことも、理解を超えているに違いない。逆に日本人が朝鮮半島の文化を頭だけでわかろうとしても、なかなか難しいということも言える。

 そういう頭や理屈で物事を考え、判断することを、「漢意」(からごころ)とよんで批判し、頭で認識する以前の直感による認識を重視したのが、本居宣長である。そこで、「漢意」で書かれた『日本書紀』ではなく、歌、踊り、神事、儀式そのままを伝えたとして、『古事記』を重視する。それは、西郷信綱氏の立場でもある。彼は、『古事記』の多くの部分が、実際に、儀式で使われた言葉を写したもので、踊りもついていただろうと述べている。したがって、それらは、リズム、発声、動作を伴っていたはずだというのである。しかし、それを直接知ることはできないので、想像する外はないのである。

 この宣長の「漢意」について、松岡正剛氏が、「千夜千冊」というHPに、長谷川三千子氏の『からごころ』という本の書評を載せている。彼女は、「日本的なもの」をどこまでも追求してゆかうとすると、もう少しで追ひつめる、といふ瞬間、ふつとすべてが消へてしまふ。我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまで取り除き、純粋な「日本人であること」を発掘しようと掘り下げてゐて、ふと気が付くと、「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山にうもれてゐる。(中略)/われわれ日本人の内には、確かに、何か必然的に我々本来の在り方を見失はせる機構、といつたものがある。本居宣長はそれを、「からごころ」と呼んだ」と書いているが、松岡氏は、「実にうまいところを突いている」と感心している。

 そんな純粋な「日本的なるもの」があるわけがないと言ってしまえばそれまでだし、実際に、弥生時代後期には、大陸や朝鮮半島との交流があったことが、九州北部の遺跡の発掘成果から明らかだし、北には、縄文文化が長く残存し、アムール川流域をはじめ大陸との交流があったことが考古学によって指摘されている。『古事記』にしても、多神的なアニミズムやシャーマニズムなどの多種多様な信仰生活や文化生活を雑多に含むものである。例えば、高天原の「神集い」は、族長共同体の会議の様子を反映しているように思われるし、アマテラスは、そうした部族共同体のシャーマン的(巫女的)首長をあらわしているようにも見える。あるいは、編者の太安万侶の序には陰陽説的な大陸思想の影響も見られるし、古代天皇制国家を正当化するような意図も感じられる。しかし、そういうものを「からごころ」として取り除いていって、宣長の言う「古意」(いにしえごころ)を追求していくと、「ふつとすべてが消へてしまふ」というのである。それは、「無」ということなのか? 

 司馬遼太郎の場合は、その答えが簡単に出る。幕末まで、日本人という意識は存在せず、藩がすべてであったと言っているからだ。氏は、そこには、藩を超えるような中心がなかったというのである。宣長にとっても同じである。だから、宣長は、「漢意」を批判しながら、儒仏を排除したわけではなく、自らの葬儀も仏式で行い、寺に墓を建てるように、遺言をした。それに対して、平田篤胤は、キリスト教の教義を取り入れて、一神教的な体系化を行った。それが、後の国家神道につながっていくのである。つまり、平田国学は、「漢意」なのである。

 それに対して、松岡氏によれば、「長谷川は、宣長の主張ははっきりしていると見た。宣長は、原理原則といったものを思想の力とは認めないと言ったのだ。そして、そんな原理原則を用いないで日本は育ってきたと見た」という。

 「宣長がわかりにくいのは、妙な言い方だが、宣長自身が「日本人であること」に気づいてしまったからなのである。そして念のために繰り返しておけば、そのことに気がつかないでいられる心情装置というものが「からごころ」というもの、つまりはグローバル・スタンダードというものなのだ」と松岡氏は言う。

 それから、松岡氏は、「ところで長谷川は、その後に『正義の喪失』(PHP)を書いてボーダレス・エコノミーとフェミニズムを批判し、さらに西尾幹二の鳴り物入りの『国民の歴史』が非難の嵐にさらされると、西尾と対談をして『あなたも今日から日本人』(致知出版社)に与したりした。/これはいかにも勇み足じゃないかと誰もが見たが、どうも長谷川は平ちゃらのようである。あまりにもモノカルチュラルな叙述しか展開できなかった『国民の歴史』にもまったく文句はないらしい。しかも、どうみてもデキの悪い教育勅語を絶賛して、そこに「本当の意味での自由と平等の精神がある」と言ってしまったりしたのは勇み足である。ぼくはこのような長谷川にさせたくはなかった」と言う。

 宣長は、古義学の影響を受けている。儒学においても、伊藤仁斎が、古義学を究めて、『論語』に戻った。仏教諸派においても、それぞれ宗祖への回帰がなされた。そのことが、後にどのような影響をもたらしたのかは、ヘゲモニーの領域の課題として研究する必要がある。そこには、ヘゲモニーの転回があったと考えられるからである。宣長の「からごころ」から「いにしへごころ」への転回がそれであったかどうかは、なお研究を要する。実際には、明治維新の過程でヘゲモニーを形成したのは、主に平田国学や後期水戸学派であって、宣長の思想ではなかったからである。宣長の思想では、神々の体系化などは思いもよらないことであったし、善悪を言い立てるのは「からごころ」に他ならなかったからである。

 したがって、「新しい歴史教科書をつくる会」のような日本人としての誇りをつくるための教科書をつくるなどというのも「からごころ」であり、ましてや藤岡信勝氏らの「自由主義史観研究会」などは、宣長的な「いにしへごころ」とはまったく相容れないものだ。西尾幹二が、一方で宣長を「古き良き日本人の心(日本人の魂を考える)」などとして利用するのも「からごころ」である。むしろ宣長には、鈴木大拙のいう「無分別の分別」という「日本的霊性」となった仏教的な「無分別の智」に近いものがあるのであり、だからこそ、仏式の葬儀と供養を遺言したのである。そしてそれは、共に生きること・共に生産すること・共に消費すること・共に祀ること、等々として、「私」を超えた共同性に生きる生産共同体としての村の無私共有・無私有の生活という「無」を対象にしようとしているのである。なぜなら、『古事記』は、共有制を前提として成立していたのであり、それを踏まえながら読まないと、現在の視点や価値観という「からごころ」が入ってしまうからである。それから、それは、無私ではあるが、「公」ではない。「公」には、朝廷とか幕府の意味が入るからである。今の教育基本法改定与党案に入った「公」には、国家という意味が入るのと同じである。それに対して、中世の公事には、逆に、「公」が従わなければならない共同体のルールの意味(呪術的な意味を含む)があったと網野善彦氏は書いている。

 長谷川氏が、教育勅語などという「からごころ」の文章を自由と平等の精神があるなどと絶賛してしまい、宣長が感じていた共有制の太古の精神と生活を「つかめない」のは、氏の頭が近代の私有制度にどっぷりとはまっているためなのである。長谷川氏が、宣長を引き合いに出して、日本的なものはわからないといっているのは、言い方で誤魔化しているのであって、「様々なる意匠」(小林秀雄)の一つに過ぎないのである。松岡氏は、自分の考えに合う人物があまりにも少ないかあるいはいないせいか、長谷川氏に過大に期待しすぎているのである。あるいは、あえて、そうしているのかもしれないが。

 西尾幹二は松岡氏のお眼鏡にかなうような「日本的なもの」を持ってはいない。彼は、是非善悪をはっきり立てる人物であり、そのことは、この間の、「新しい歴史教科書をつくる会」に関する氏の文章で明らかである。藤岡信勝氏は、もっとそうで、「からごころ」が洋服を着て歩いているような人物だ。ただ、西尾氏は、多少、宣長流のものを意識していて、「つくる会」の内紛から早く離れたいということは言ってはいた。宣長も、有名な『雨月物語』の作者の上田秋成との論争をしてはいる。しかし、宣長は、仏儒を排したわけではない。いわゆる鎌倉新仏教は、鈴木大拙によれば、大地化したのであり、「日本的霊性」に到達したのである。鈴木大拙は、伊勢神宮の「神道五部書」(度会神道)の成立に、神道の「日本的霊性」の成立を見ている。しかし、本居宣長は、逆に、それを「からごころ」として退けた。

 西尾氏は、「宣長は兼好法師が大嫌いなのです、仏教の影響を受けた風雅が大嫌いなのです」と書いているが、これは、理解が浅いといえよう。これからは日本から見た世界史だと言っているが、これも、「からごころ」である。過去に自我を投影して、歴史に自意識を見るという小林の「自我・自意識史観」はうんざりだし、それを世界史に拡大するなどというのも想像しただけで、げんなりするし、うさんくさく感じる。もちろんそれに対して、梅原猛史学の方から、縄文文化はどうしたという声も聞こえてきそうだ。

 西尾氏の拓殖大学での講義は、森鴎外や夏目漱石の留学話や小林秀雄のモーツァルト・ゴッホ論に飛びながらのものであったという。やはりというべきか、ニーチェ学者らしく、俗物性をニーチェから受け継いでいるようである。氏は、ポストモダニズムが作り上げたつまらないニーチェ神話以前の、俗物ニーチェの「正統?」な後継者と言えるのかもしれない。

 藤岡信勝氏が、「つくる会」を追い出された八木元会長らに対して、「この分野で何も苦労をしていない八木氏が軽口をたたくのは、軽薄そのものである」という「それをいっちゃおしまいだ」という悪罵を投げつけたのを見て、鼻白んだ人も多いに違いない。そういいたくなる気持ちはわからないでもないが、それを言いたくなるときは、大抵、運動情況が危機的で後退局面にある時である。そして、それを言ってしまったら、たいていは、その運動はお終いである。

 結局のところ、この運動は、ヘゲモニーというものをまったく理解していないのである。教科書問題をめぐる運動は、採択戦においては、陣地戦であって、それは、とてつもない消耗をともなう厳しい闘いであり、よほど有利な状況でもない限り、一時の熱情やブームなどではとうてい勝てるものではない。そして、そのためのヘゲモニーの形成には、世界観の更新、新しい人間観、知的道徳的文化的革新、あるいはもっと言えば、宗教性すらが必要である。そうでなければ、持続的な陣地戦を最後まで戦い抜くことはできない。てんでばらばらの寄せ集め集団が、一点で運動を組んでも、結局は、またばらばらになって、消えてしまうだけなのである。「つくる会」の分裂劇を見る限り、この会もそういう過程をたどったようである。そしてそれは、反省も改善もされていないので、またおなじ事を繰り返すことは明らかである。すでに、7月2日の総会で、内紛の経過報告文書が、「日本会議」副会長の小田村四郎(元拓殖大学総長)氏のツルの一声で、採択されず、撤回されたことに、その兆しが現れている。

 いずれにしても、「つくる会」には、新しいヘゲモニーをうち立てるだけのものがない。「つくる会」を出て、日本教育再生機構を立ち上げた新田均氏は、組織論を提示していて、多少はそういう傾向も見られるが、まだどうなるかはわからない。たぶん難しいだろう。西尾幹二氏には、宣長から、それを形成する力がなく、長谷川三千子の「からごころ」論にもそれがなく、藤岡信勝氏にもそれがないということは明らかである。結局は、それでは、西欧の自由民主主義のヘゲモニーには対抗することも、克服することもできないだろう。

 かれらのようなものではなく、平等で民主的で個性と自由が規律と合致する新たな共同体と人間と世界観を形成しうるヘゲモニーが形成されることが必要である。そのことは、そのような共同体の理念やイメージが、歴史的に繰り返し登場したこと(「世直し」「世均し」「一揆」等々)からも明らかである。それは、現代においては、労働の共同体といってもよいかもしれない。

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「ダ・ヴィンチ・コード」ブームに徒然想った

 映画「ダ・ヴィンチ・コード」が世界同時公開で、多くの観客を集めているという。この映画を観たわけではないが、内容を紹介する情報をいくつかみて、徒然想った。

 1945年にエジプトで発見された初期キリスト教関係のナグ・ハマディ写本の一つである「マグダラのマリア福音書」と呼ばれるグノーシス文書には、マグダラのマリアはイエスの最高弟だったが、ペテロらによって激しく批判されたと書いてあるという。その後、ペテロを祖とするカトリック派が、『新約聖書』を編纂し、397年の第3回カルタゴ教会会議で、正典とした。カトリック教会は、キリストを神として、三位一体説を正統とし、キリストを人間とするグノーシス派などを異端として追放した。しかし異端派は、その後、シオン修道会などの形で存続し、後にフリーメーソンになったという。シオン修道会員であったというレオナルド・ダ・ヴィンチは、有名な「最後の晩餐」に、マグダラのマリアを描いたというのである。グノーシス派の文書では、マグダラのマリアとの間にイエスの子どもがいると書いているものもある。それを絵画に暗号として描いたというのである。

 また、グノーシス派の「ユダ福音書」には、実はユダは、キリストの思想の核心である「復活」を実現するために、キリストの命令を実行して、官憲に引き渡したということが書かれてあり、彼はキリストが最も信頼した弟子だったと書かれているという。グノーシス派のキリスト教関連の文書は、『新約聖書』とはずいぶん違った話が書かれているようだ。もっとも、『新約聖書』に入れられなかった「福音書」の類も外典として残されている。宗教改革を起こしたマルティン・ルターは、『聖書』正典のいくつかの文書について疑義を提起したようだが、カトリック派はそれを受け付けなかったという。

 事実かどうかはともかく、ナグ・ハマディ写本や死海文書などの発見によって、初期キリスト教の歴史が、カトリックなどの「正史」とは違った形で研究されるようになったのは進歩である。また、グノーシス主義が、ムハンマドに影響を与え、イスラム教の中に受け継がれていったことからも、それらの発見は、イスラム世界を理解する上でも重要なことだ。

 ローマ・カトリック教会は、この映画を非難しており、各地で上映に抗議するカトリック信者らの行動も起きている。今のところ、報道はないが、これは『聖書』の記述を絶対視するアメリカのプロテスタントの原理主義者にとっても、批判の対象となるようなものであろう。

 イエス・キリストを人間として認識することは、17世紀のユダヤ教から迫害されたスピノザの『神学・政治論』でも行われている。この本では、『旧約聖書』の成立を、ペルシャ支配下で、バビロン捕囚から開放され、エルサレムへ戻ることが許されてから捕囚下で形成された改革派のラビ集団(後のパリサイ派)が宗教再建をはかる中で、それまで伝わっていた諸文書を編集してつくったものだとし、その筆者を書記官エズラとしている。それから、19世紀の唯物論者フォイエルバッハがいる。イスラムでは、イエスは、預言者の1人である。

 カトリックは、中南米での人口増加によって、信徒の数が増えている。アメリカでは、ラテン系移民の増加と共にカトリックが増えている。また、プロテスタントの福音派の原理主義が広まった。西欧キリスト教文明対イスラム文明の文明の衝突が言われている。日本では、オウム真理教事件が起きた。宗教が要因となる衝突や争いが起きやすい時代状況であるから、客観的な宗教観や歴史認識を形成していく必要がある。この映画がそのきっかけになればいいと思う。

 客観的な宗教研究や宗教認識については、西欧ではスピノザやフォイエルバッハをはじめとしていろいろあるし、日本でも江戸時代に大阪の懐徳堂で活躍した町人学者の富永仲基や山方蝙桃の宗教の批判的検討の業績がある(司馬遼太郎氏は、山片蝙桃賞を創設した)。

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公共事業を客観的に考える時期がきた

 21日『毎日新聞』の「余録」の「公共事業」というコラムは、小泉「改革」下では、悪者扱いの公共事業の意味について考えている。

 エジプトのピラミッドは奴隷を使役して造ったわけではない。ナイル川のはんらん期に失業対策として行われた公共事業だったという。ちゃんと対価が支払われた。今日のエジプト学では常識らしい▲政府が財政出動で景気をよくして失業を減らす。それは、20世紀の経済学者ケインズが言い出したことだ。それ以前にはおよそ例がなかった。ところが、エジプトでは紀元前のむかしに実施されていた。さすが、世界四大文明のひとつ。奥が深い▲だが、日本だって捨てたものではない。鎌倉から室町時代にかけて、禅宗に夢窓国師という高僧がでた。後醍醐天皇や足利尊氏らの帰依をえたが、このひとは全国にたくさんのお寺や庭園を造った。とりわけ名高いのが天竜寺や西芳寺の庭園である▲作家の水上勉氏は哲学者の中村元氏との対談で、興味深い説を唱えている。夢窓国師があれほどの数のお寺を造ったのは、貧民救済がひとつのねらいだったのではないか、というのである(「中村元対談集4」92年、東京書籍)。中村氏も「失対事業というのは、これはたしかでしょう」と応じている▲いま、公共事業は受難のとき。歳出カットすればするだけ、増税の幅が小さくてすむ。防衛費も社会保障費も削りにくいから、いきおい矛先は公共事業にむかう。政府・与党は今後5年間、毎年3%以上、公共事業費を減らしていくことで合意している▲ピラミッドにしろ室町時代の名刹(めいさつ)・名園にしろ、当時の民衆の日々の便利とは無縁のしろものである。財務省の査定を受ければ「無用の長物」とされ、建造が認められることはないだろう。それが数百年、数千年のときを経て、お金に換算できないほどの価値をもつに至った。歴史はいつも皮肉である。

 エジプトのピラミッドが、ナイル川の氾濫期の農民のための公共事業だったというのは、確かに、近年のエジプト考古学の定説になりつつあるようだ。それを示す証拠もつぎつぎと発見されている。これを奴隷が作ったという説は、『旧約聖書』の「出エジプト記」のユダヤ人奴隷の記述あたりから生まれたのではないだろうか(映画『十戒』にも描かれている)。

 こういう公共事業が鎌倉期から室町期にかけて、幕府が帰依した夢窓国師によって、禅宗寺院や庭園の建設という形で日本でも行われていたというのも、興味深い。この時期、鎌倉五山、京都五山などの禅宗臨済宗の大寺院が建てられた。作家の水上勉氏が、それを貧民救済のためだと述べたという。対談の相手の中村元氏は、「失対事業でしょう」と述べたという。

 鎌倉期は、人口や生産が停滞していた時代で、平均寿命も30代だったらしい。室町期は、応仁の乱をはじめ戦乱が続いた時代だった。京の都も荒れ果てた。山城の国一揆をはじめ地方でも一揆が相次いだ。南北朝の戦いで始まり、最後は下克上の戦国時代である。

  鎌倉期に相次いで起きた仏教革命で、貴族仏教から民衆仏教に変わった鎌倉仏教の諸仏教宗派は、貧民救済事業を行いながら、広く民衆に浸透していったのかもしれない。もともと、平安仏教も、中国から薬学・医学・土木技術などの当時の最新技術を教義と共に日本に持ち込んだのであり、四国讃岐平野のため池を空海が作ったとする伝説や日本各地に井戸を開いたという伝説が残されているのも、僧が同時に技術の伝搬者だったことを示すものなのではないだろうか。

 やがて、幕府の帰依を受けた臨済宗や浄土宗から迫害された浄土真宗は北陸など地方の農民や在地の勢力の間に信者を増やし、加賀や伊勢で、独立勢力として台頭してくることになる。当時の教団は、政治・統治ということも担い、信徒の生活にいろいろと配慮していたに違いない。例えば、大阪石山本願寺が、門前町に、商人や職人を住まわせ、各地との物資の交流拠点としていたように。

 イスラムにおいても、モスクの門前町において営業する商人たちは、その日の売り上げからいくらかを毎日、モスクに納め、記帳することになっている。さらには、喜捨は、基本的に拒めないようになっており、これらの行為によって、天国での幸福の度合いが決まるので、イスラム商人たちは喜んでそうするようだ。

 今後、公共事業費は、減らされていく。財政出動派は、有効需要の不足が不況の原因だと考えているので、公共事業を増やすべきだと主張している。「小さな政府」派は、それが経済のバランスをおかしくしているので、自然にバランスが回復するまで、政府は余計なことをしない方がいい。むしろ政府が介入するとおかしなことになって、バランスの自然回復を妨げるだけだと考える。

 「小さな政府」派の小泉政権は、「民のことは民にまかせる」と言って、余計な手出しはしないと基本的には放置した。実際には、国債発行30兆円以内にするなどの約束を反故にしたりはしたのだが。そのおかげて、景気回復したというのである。しかし、それまでに、日本経済は、「失われた10年」を経ており、バブル崩壊からの回復に、それだけ長い時間がかかったのである。

 「余録」は、当時の民衆にとって無縁のピラミッドや大寺院や庭園など、財務省から無駄だと言われそうな建造物が、数百年、数千年たつと、金に換算できない価値を持つという歴史の皮肉を指摘して終わっている。

 確かに、公共事業について、冷静かつ客観的に考えてみるべき時期にきていると思う。

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ウクライナの農業改革の記事によせて

 18日の『毎日新聞』国際欄におもしろい記事があった。タイトルは、「ウクライナ 生産向上へ農業改革」である。

 ウクライナといえば、歴史的に大穀倉地帯であり、旧ソ連時代も大穀物庫であった。それが、91年の独立後、土地の細分化や生産技術の近代化の遅れや高齢化などによって、農業の低迷が続いてきたという。そこで、ウクライナ版の農協の組織化や国際資本の投資拡大などによって、農業改革が進められているという。農業生産は、独立後に急減した。

 ウクライナの農地は3000万ヘクタール。人口約4700万人の3分の1が農業地帯に住むが、その半分が高齢者か子供。若者は高収入を求めて都市部や海外に出稼ぎに行き、農業に従事するのは約750万人止まりだ。

 90年に1046億フリブナ(約2兆2000億円)だった農畜産物の総生産高は年々減少。02年は621億フリブナ(約1兆3500億円)と、90年の6割にまで落ち込んだ。特に減少したのは畜産部門だった。

 国立ウクライナ農業大学のセルゲイ・クバシャ教授(国際関係論)によると、独立後、土地がそれぞれの耕作者に引き渡され、細分化されたため生産性が低下。さらに、流通システムの整備が遅れ、零細農家は生産物が販売できず、物々交換や貯蔵に回すケースもあった。欧州への輸出もままならず、最大の輸出先ロシアが「品質維持」を口実に輸入制限に踏み切ったことも低迷に拍車をかけた。

 EUは、輸入農産物の品質に高いハードルをもうけていて、アフリカ産の農産物をしめだすものとして、アフリカ諸国の反発を買っている。

 こうなることは、日本の農地改革の歴史的経験をみれば明らかである。土地細分化(農地解放)で生まれた中小農、農村での滞留人口の都市部への流出、三ちゃん農業化、兼業化、出稼ぎ、後継者の都市への流出、農業従事者の高齢化、等々。ただ、日本の場合は、農協が早くから、金融、流通、販売、機械化、営農指導、などの面で、農民をサポートしてきたため、農業衰退のスピードはウクライナほど早くはなかった。

 日本の農業は、くりかえし、アメリカの圧力で、りんご、オレンジをはじめとして、安い米国産農産物を輸入自由化して、打撃を受けた。ただ、自民党の地方議員の意を受けた政府によって、米価維持政策や農地改善事業などの農業分野への政府投資が行われたことなどもあり、保護されて、生き延びた面もある。それも、小泉政権下の「改革」によって、ぶっ壊されてきているところだ。

 ウクライナでは、独立などの混乱によってか、あるいは極端な自由化によって、農業政策がまともに機能してこなかったのではないかと思われる。しかし、ようやく、「ウクライナ全土に25の支部を持つ「ウクライナ農業投資顧問協議会」が3年前に発足し」、この組織が、農作物の栽培指導、農業道路などの社会資本の整備、作物の取引市場の設立、地場産業の育成、若者の定着促進事業、に取り組むようになったという。

 この組織は、日本の農協どころではなく、農道までつくるというのだから、行政機能をも合わせ持つような強力な組織である。

 農地の集約化は、企業が小規模耕作地を1ヘクタールあたり200ドル程度で借りる形で農業ビジネスを展開することでも進んでいるという。「現在、約20社が20万ヘクタール規模の農場を経営」しているという。

 さらに、「外国の農民や企業の進出も目立つ」「ドイツやオランダ、デンマークの農民が移住してくるケースが多い」とクバシャ教授は言う。現地人と結婚して定住するケースもある。「彼らは最新技術を導入してくれ、我が国の技術改革にも貢献している」「先進国出身の外国人が働き手の減った地帯の空白を埋め、農業の再興に寄与する。「彼らの役割は今後、いっそう大きくなるだろう」とシュミッド会長は予測する」と外資や移民の農業参入が進んでいる。

 日本の農政も、「改革」の波を受けて、農地の集約化、企業経営の導入、農地売買の制限の緩和、等々、を進めようとしているが、外国から農民が移住して、農業の担い手になるというような自由化・開放までは、今のところ、想定しにくい。

 ウクライナでは、資本主義的大規模農業が本格的に展開しようとしているわけだ。それは、農村において、農業労働者が増大することを意味する。さらに、都市部ではなく、農村で国際化が進むことが、文化や社会にどういう影響を及ぼすかなど、いろんな課題がありそうだ。 

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「教育基本法改正案「賛成」66%…読売世論調査」に気をつけて

教育基本法改正案「賛成」66%…読売世論調査

 読売新聞社が13、14の両日に実施した全国世論調査(面接方式)で、16日から国会審議が始まった教育基本法改正案について、「賛成」と答えた人が「どちらかといえば」を合わせて66%に達した。

 「反対」は、「どちらかといえば」を合わせて14%だった。

 支持政党別に見ると、「賛成」は、自民支持層で76%、公明支持層で8割に上り、民主支持層でも63%を占めた。社民、共産支持層では「反対」が多数派だった。無党派層では「賛成」が58%だった。

 年代別に見ると、「賛成」は20歳代が73%で最多。50歳代が最も少なかったが、それでも61%に上った。

 改正案は、現在の基本法に様々な項目を加えたほか、一部の規定を削除した。その中でとくに重要だと思うものを、八つの中から複数回答で選んでもらったところ、「『豊かな情操と道徳心を培う』の追加」と答えた人が48%で最も多かった。次いで、「『公共の精神を尊ぶ』の追加」36%、「『国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う』の追加」29%、「『職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養う』の追加」「『我が国と郷土を愛する』の追加」各26%――などの順だった。

 教育基本法の見直しでは、「愛国心」をめぐる表現が最大の焦点となっており、政府案が「我が国と郷土を愛する」という表現なのに対し、民主党案では、「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」としている。

(2006年5月16日23時56分  読売新聞)

 この記事を読んで、違和感を感じた人もいるのではないだろうか。この世論調査は、与党の教育基本改正案の賛成が66%としているのであるが、民主党支持層の多くは、民主党案を支持するだろうのに、民主党支持者に、与党案賛成が63%いるという結果が出たというのである。以前より、『読売新聞』は、野党に対案型の国会審議を求めており、それなら、面接方式の今回の調査でも、与党案と民主党案の両方から選ぶという選択肢があってもいいはずだ。もとから、『読売新聞』は、社説で、与党案支持を明言しており、この問題では、最初から中立ではなく、与党寄りという偏った姿勢を取っている。

 したがって、その世論調査については、バイアスがかかっているとみるべきである。しかも、8択においては、与党案が並べた重要度に沿った形、したがって与党案に賛成する『読売新聞』が支持する形で、順番が並んでいる。

 第1位は、『豊かな情操と道徳心を培う』の追加」48%。第2位が、「『公共の精神を尊ぶ』の追加」36%、第3位、「『国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う』の追加」29%、第4位「『職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養う』の追加」、第5位「『我が国と郷土を愛する』の追加」26%。

 この順番は、『産経新聞』や右派が望む順番とは異なる。かれらは、「愛国心」が明記されていない今回の与党案には、反対で、「愛国心」明記の優先順位が高いのである。それに対して、森前総理がこだわったのは、「公共の精神を尊ぶ」の明記であり、「愛国心」では、公明党に妥協したのである。

 いずれにしても、このような世論調査は、『読売新聞』の与党案支持の態度が反映していると見なければならない。

 最近のマスコミの世論調査の結果は、例えば、小泉内閣の支持率でも、近い時期のJNNの約57%とNHK47%と10ポイントもの開きがあるように、あてにならない。これは統計上の誤差の範囲を超えているのである。こうした記事に簡単に踊らされるような超お人好しはそうはいないとは思うけれども、その程度の信頼度しかないということを念頭に置いて、読んだ方がよい。

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マスコミと戦争

 15日のテレビ朝日「テレビタックル」で、独島・竹島問題がとりあげられた。

 日本政府は、江戸時代には、竹島・独島は、日本領だったという見解を出したが、明治10年(1887年)に、明治政府・太政官は、「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」(『太政類典』半月城通信より)とする指令を出しており、この時点で、独島・竹島を日本領外と認定していた*。ところが、1905年、日露戦争のための軍事施設をつくろうと計画した明治政府は、突然、これをくつがえして、無主の地と決めつけて、日本領に編入したのである。その後いろいろあったのだが、それについては、「半月城通信」を見ていただきたい。

 *1900年(明治33年)10月25日、大韓帝国は、勅令41号で、「鬱稜島、竹島、石島」を郡に昇格した(半月城通信『年表』)。5月17日付記 

  この番組では、右派ー保守派に偏った内容が垂れ流されることがあり、三宅、勝谷などのナショナリストの一方的な、竹島・独島日本領説だけが流されたりした。しかし、今回は、朴一大阪市大教授が、国際司法裁判所で審議しても勝てると反論した。

 もっとも、この番組自体は、バラエティ、お笑いとして作られているようで、ハマコーも「オレみたいな者の言うことをまともに受け取るな」と断っている。

 竹島・独島問題では、人々も冷静で、というよりも無関心である。韓国でも、ノ政権は大声で叫んでいるが、一般の人々は冷静に見える。テレビ映像で、日章旗などを燃やしたりしているのは、いつもおなじみの愛国団体で、海上保安庁の海底調査船を待機させた時に、抗議を行ったのは20人ほどだったという。テレビのフレームの関係で、映っていないところにも人がいるように思いこんでしまいがちなのである。ちょっと、カメラを引くか、ぐるりと回せば、そこには誰もいないということだ。イラクのサドル・シティで、フセイン像が米軍と共に人々によって引き倒された時、大勢がいるように映っていたが、引いてみると、周りを取り囲んで眺めている人の方がはるかに多かったように。

 マスコミと戦争の関係については、江口圭一氏による研究『満州事変と大新聞』(『思想』1973年第1号)にある1932年8月20日付「『東京日日新聞』の記事が、「若し新聞が時代精神を代表するものとせば、如何に其論調が、昨非今是の感を切ならしむるよ。・・・昭和六年九月十八日、奉天における一発の砲丸は、所謂る思想善導業者の千百万の説法よりも、我が国民の思想を、本来の面目に立ち返らするに於ては、有力であり、且つ有効であったと断言するに憚らない。我が国民は正しく国家的に再生し、国民的に復活した。しかして此れが無形の一大収穫であった」(『武藤全権大使及び其の一行を送る』)と書いているようなポピュリズムの危険性という問題がある。

 「(満州事変についてー筆者)伝えられたニュースの内容は、『大朝』が特派員により「支那側の策謀」を速報するとうたったことにもみられるように、当初から予断と偏見にみちたものであった。そこでは、「全く奉天兵の計画的な柳条溝の満鉄線爆破」(『大朝』9・19号外)と、関東軍の謀略への完全な同調をもとに、「我軍大活躍の奉天戦線(同前9・20号外)と、満州での軍事行動が無条件に肯定かつ賞讃され、その半面で、「鬼畜にも劣る暴戻と排日」(『東朝』11・7)と、中国への敵意と侮蔑があおりたてられ、「守れ満蒙=帝国の生命線」(『東日』10・27)というスローガンのもとに、事変にたいする全面的な正当化と熱狂的な声援がおこなわれたのである」(同前)。

 江口氏は、満州事変の報道競争を通じて、『朝日』『大毎=東日』の二大紙が、全国紙として独占体制を築き上げたことを指摘し、それを「この両大紙が新聞社として能力・機能のほとんどすべてを傾注して事変の支援につとめ、事変そのものを事業の不可欠の構成部分に組みこみ、戦争を自己の致富の最有力の手段として、この制覇をなしとげたという事実である」と分析している。

 当時、こうした大新聞の姿勢を、「石橋湛山のもとに、排外主義の大潮流のなかで事変批判の姿勢をなおからくも維持していた『東洋経済新報』(32・2・6)がすでに鋭く告発するところであった。――「社会の木鐸だなどといいながら実は権力と大衆に阿り、一枚でも多くの紙を売ることの外、何の理想も主張もなきが如」しと」(同前)と批判するものもあった。

 この石橋湛山の批判は、今日のマスコミについても当てはまるものではないだろうか。 

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転載 メーデー救援会メールニュース No.11

□□□ メーデー救援会メールニュース No.11 □□□

  11日無事釈放された渋谷署に留置されたいた仲間と私たちは、仲間の提起を受て、渋谷署に設置されている留置所にいる人々に向けて激励行動に即日出かけました。確実に声を届けるには渋谷警察署の裏手に回る必要があるため、無用な緊張を避ける短時間での激励行動でしたが、留置されていた仲間の釈放報告と処遇改善要求への連帯支持を感謝するアピールに、「聞こえるぞ!」の応答が! 続く10名ほどの「×房頑張れ」「みんな頑張れ」の外からのシュプレヒコールに、「頑張るぞ!」の中からの声。すぐに警備の警官が出てきましたが、処遇改善要求支持への謝意と激励のアピールだという主旨を説明し、整然と行動を終えることができました。私たちの耳にはいまだに「頑張るぞ」の声が残っています。どんな「罪」に問われていようとも、人間として健康的に生きることも含め、基本的人権は擁護されて然るべきです。留置所内の処遇がまちまちで、所轄署によって異なる対応が法を超えて「内規」(留置規則)とやらで規定されるのは、やはり理不尽と言わなければならないでしょう。

  それから、11日夜には緊急の反弾圧集会を予定通り開催しました。開会の数時間前から公安警察が付近の街路に多くて25名以上もたむろして、集会妨害・破壊の隙を伺っていましたが、救援会ではこれに対して防衛行動を対置。建物の中に入ろうとした数名を追い払い、街路にたむろしている公安警察に対して「つきまとい迷惑行為」弾劾のシュプレヒコールを叩き付け衆人環視のもとに置きました。公安警察は躍起になって「プレカリアートのメーデー」を叩き潰そうと今なおあがいていますが、私たちはこれをはねのけて集会を開くことができました。結果、140名もの方々にご参集いただき、盛況のうちに無事集会を終えることをできました。集会では、メーデー実行委・救援会・弾圧被害者の仲間からの直接の報告だけでなく、当日の模様を収めた動画を上映し、メーデー弾圧で振るわれた警察の暴虐を視覚的にも明らかにしました。集会参加者の皆さんはときに驚き呆れ、怒り、連帯アピールの暖かい言葉に拍手し、会場は熱気に溢れていました。私たちはあきらめません。未だならぬメーデーを改めて勝ち取るためにも、たたかいを続けます。改めて、皆さん、ありがとうございました。

詳細報告はこちら(長いので携帯端末の方はご注意ください)
http://mayday2006.jugem.jp/?eid=281

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=--=-=-=-
メーデー救援会
〒105-0004 東京都港区新橋2-8-16
石田ビル4階14号 救援連絡センター気付
FAX: 03-3352-6594
URL: http://mayday2006.jugem.jp/
E-mail: mayday06q@yahoo.co.jp

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転載 メーデー救援会メールニュースNo.09

□□□ メーデー救援会メールニュース No.09 □□□

  2006年5月11日(木)、渋谷署に勾留されていた仲間に対して勾留延長の請求がかけられず、午前9時すぎに釈放されました! 友人に連絡を取った本人曰く「ハンストに勝利しました」。カミソリの本数増加こそなかったものの、目の前でのカミソリの消毒を勝ち取ったそうです。しかも本人は体調を崩すこともなく元気な様子。

  弾圧はこれで終わりではなく、生活を破壊された弾圧被害者への連帯や、違法逮捕・違法勾留・警察の器物損壊に対する弾劾キャンペーンは引き続き必要です。私たちの闘いはまた新たなスタートをきったといえると思います。

  とにもかくにも、皆様のご支援・ご注目に深く感謝いたします! ありがとうございました。

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=--=-=-=-
メーデー救援会
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転載 メーデー救援会メールニュースNo.06~08

□□□ メーデー救援会メールニュース No.06 □□□

   原宿署に勾留されていた弾圧被害者が、本日(9日)18時55分頃釈放されました! 
前日夜間に地裁に提出した勾留決定を不服とする準抗告が効を奏しました。本日準抗告を審理した東京地裁は夕方17時30分頃、弁護人に準抗告を受理し勾留決定を破棄し釈放する旨伝えてきました。この後、検察がこの決定に対する特別抗告の策動を取る可能性もあったのですが、結局は断念し、弾圧被害者・弁護人の側の準抗告がとおって釈放につながりました。

  もちろんこの勾留決定を覆す奪還は、ひとえに本人の頑張りと、急速に広がった多大な支援の成果だと思います。皆さん、ご支援・ご注目いただきありがとうございました。

   しかし渋谷署には依然として不当勾留されている仲間がいます。救援会は、今後なお一層の支援の取り組みに傾注していきますので、引き続きご支援・ご注目ください。

※このメールニュースは様々にご支援いただいている方たちに向けて発信させていただいております。転載・転送自由です。必要ない場合は、お手数ですが救援会メール連絡用アドレス mayday06q@yahoo.co.jp までお知らせください。

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=--=-=-=-
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□□□ メーデー救援会メールニュース No.07 □□□

  9日に原宿署に勾留されていた仲間が準抗告を経て釈放されたため、勾留満期にあたる11日にぶつけた勾留理由開示請求公判は、渋谷署に依然勾留されている仲間一人で
行うこととなりました。代用監獄の壁を突破する内と外の連帯が目に見えるかたちで結実する貴重な場です。そして逮捕・勾留の不当性を公に明らかにする闘いの場でもあります。ぜひ傍聴にご参加ください。

★勾留理由開示請求公判

日時:2006年5月11日(木) 15:00集合 15:30傍聴券配布 16:00公判開始
場所:東京地方裁判所 427号小法廷(東京都千代田区霞が関1-1-4、東京メトロ霞ヶ関駅出口A1でてすぐ)
※東京地裁正門前にお集りください。

□□□ メーデー救援会メールニュース No.08 □□□

   渋谷署に留置されている仲間(留置番号24号)は、逮捕手続き後から連日、房内処遇の酷さに怒りを爆発させ、留置係に処遇改善の要求をつきつけてきました。たとえば渋谷署の留置所には現在60人の人々が拘束されていますが、支給されている電気カミソリはたったの6個です。つまり10人で一つのカミソリを強制的に共有させられているのです。これが医学的に極めて危険な状態にあることは明白で、渋谷24号の仲間はこれに抗議し、日用品の充実などをことあるごとに要求してきましたが、留置係の警察官は「そんなに嫌ならヒゲをそらなきゃいい」「ここに来なきゃいいじゃん」などと暴言を吐くばかりの非人間的な態度を見せています。仲間は抗議のためヒゲをそらずにのばし放題にし、遂に9日からハンガーストライキに決起しました。

   このハンストは単に留置システムへの抗議だけではなく、房内の全被疑者(あるいは起訴後の被告もいるかもしれません)に向け、人間の人間としての連帯を呼びかける意味も持っているのではないでしょうか。私たち救援会は体調に関するアドヴァイスを続けなら、仲間のこの極めて人間的な闘いに断固支持の態度を明らかにするとともに、早期奪還にいっそう尽力します。

渋谷24号頑張れ!
渋谷署は人権侵害をやめろ!

抗議先:
渋谷警察署
TEL: 03-3498-0110
FAX: 03-3498-1750
〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3-8-15

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半月城さん ともにがんばりましょう

 半月城さんより、「ヘイトサイトに対抗してがんばりましょう」とのメールをいただきました。がんばりましょう。

 右派のヘイト攻撃の特徴は、まず、相手の弱点と思ったところを、集中的に攻撃する。でたらめな情報でも、繰り返すことで、真実らしく見せかける。飾り言葉や強調言葉や攻撃的な言葉でかざることで、反論しにくいような雰囲気をかもしだす。一部の誤りから全体を否定する。とにかく否定を繰り返すことで、圧倒しているような印象をつくりだす。単純な対立図式を描いて、二者択一を迫る、等々ということがあるようです。

 しかしそういうものは一時的な効果しかないと思います。だから、「つくる会」のように、教科書で、恒常的な意識へのすり込みを狙っているのでしょう。しかし、それもうまくいっていないのは周知の通りです。ただ、放っておいて、『嫌韓流』のようなトンデモ本に書いてあることがさも事実であるような思いこみが広まってもいけないので、『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』(コモンズ社 5/10発売)が、広く読まれることを期待します。

 問題は、こうしたてきとうにひろってきたエピソードから、民族全体のマイナスの性格を導きだしてレッテル貼りして、その対極・プラス極に「日本民族」をおく価値評価の図式を人々の意識に刷り込もうとしていることです。こういう洗脳は不快ですし、世のため人のためにならないと思います。

 私は、半月城さんがHPで行っているように、資料を一つ一つ積み上げて、しっかりと客観的に分析を重ねていくことが、ヘイト攻撃をうち破るための王道であろうと思います。もちろん王道以外の道もありますが。

 古代史のところで、中国の史書にある「倭」の位置も中身も、時代によって、随分違うという指摘などは、個人的には、感心しているところです。水野祐氏の朝鮮半島南端から北九州の倭韓人の支石墓社会という倭韓共通語圏・倭韓文化圏が存在したとする説が紹介されているのも、興味深く拝見させていただきました。

 水野氏の『大和の王権』は、実に大胆な仮説に満ちた本です。その中での、『魏志倭人伝』には、身体に入れ墨をして海に潜って漁をする「水人」のことが書かれており、農耕にあまり適さない島々が並ぶ北九州沿岸から朝鮮半島南端にかけて、「海の民」の交流圏があったという氏の考えには、リアリティが感じられます。

 脱線しました。半月城さんの王道を歩む努力には頭が下がります。がんばってください。微力ではありますが、ともにがんばりたいと思います。

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『嫌韓流』に対する反論本の紹介など

 半月城さんのAMLへの「『嫌韓流』に対する反論本」という投稿文がある。

 その中で、かれは、「これまでインターネットで嫌韓をあおるサイトにはきちんとした体系的な反論がなく、いわば野放しになっている感があります。/その理由の一端は、ヘイトサイトに書かれた内容が事実誤認に満ちたアホらしいものが大半であるために、肩ひじ張ったプライドを持つ専門家がまともに相手にしなかったことにあります。/また、反論する場合でもそれなりのエネルギーと時間が必要なので、かなり面倒なものです。戦闘でいえば、ゲリラを正規軍が攻撃するのに相当な労力を必要とするようなものです」と書いている。

  なるほど、たしかに、相手にするのも面倒なことだし、ほっておいても、自然消滅していくようなものも少なくない。「つくる会」のように自滅していくものもある。とはいえ、「マンガ『嫌韓流』などが数十万部も出回ったのでは、とうてい放っておけない状況になりました」という半月城さんの懸念も理解できるものであり、『嫌韓流』に対する反論本『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』が出版されるのはけっこうなことだ。

  『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』(コモンズ社 5/10発売、\1575

  目次

  第1話 W杯サッカー史に新たなページを加えた日韓大会 姜誠
                          [検証]「日韓共催ワールドカップの裏側」 5

  第2話 「補償問題は解決したのか?」 太田修
                            [検証]「戦後補償問題」 31

  第3話 在日コリアンへの誤解と偏見の増幅を斬る! 朴 一
                            [検証]「在日韓国・朝鮮人の来歴」 53

  第4話 文化交流を阻む無理解と非友好的心性 鄭夏美
                             [検証]「日本文化を盗む韓国」 83

  第5話 差別拝外主義を煽り立てる『マンガ嫌韓流』とマスメディアの真の問題   鄭雅英
                             [検証]「反日マスコミの脅威」 103

  第6話 間違いだらけのハングル講釈と植民地美化 呉文淑
                            [検証]「ハングルと韓国人」 129

  第7話 外国籍住民への排除と同化の圧力 綛谷智雄
                             [検証]「外国人参政権の問題」 151

  第8話 「植民地支配は絶対悪」という真理 藤永壯
                            [検証]「日韓併合の真実」 173

  第9話 竹島=独島の知られざる歴史 半月城
                             [検証]「日本領土侵略ー竹島問題」 201

  特別編『冬のソナタ』がくれたもの 高吉美 223
              

  エピローグ 「嫌韓」「反日」から「好韓」「知日」へ 朴 一 241

 この間の右派保守派の日韓併合の評価とか竹島・独島問題についての主張などは、1965年の日韓基本条約締結交渉の中で、日本政府が主張してきたことを繰り返しているようなものが多い。日韓両国で、同条約への反対運動があったが、それを朴軍事独裁政権も日本政府も無視して、締結した。日本政府=官僚は、前例主義をとるから、戦前政府の公式見解をそのまま戦後も前例として踏襲していたというだけのことである。それを、そのまま現在も繰り返しているのは、ただ昔のことを思い出しているだけのことで、そういうことを知らない人たちには、新しく映るというだけだ。だから、歴史をしっかりと学べば、それらが全然新しくないということがわかる。

 半月城さんのサイトでは、歴史のことがいろいろと丁寧に調べられ、分析されており、参考になるものが多い。南京事件で、日本陸軍の幹部が、強姦事件の多発に悩まされた様子を記した資料も載っている。その対策として、慰安所を大増設する方針が作られたのである。藤岡信勝氏らは、こういう資料にはふれず、軍規に強姦は犯罪で禁止と書いてあるから、そんなことをするはずがないとか、いろいろな偏見や先入観や決疑論やを持ち込んで、資料を恣意的に解釈していることが多い。

 彼が何故そういうことをするようになったかを、氏の「転向」の過程から推測してみる。

 彼のブログには、湾岸戦争で、イラクのフセイン政権は、国連憲章が禁止するクウェートへの侵略を行ったのに対して、国連安保理決議が侵略の排除をうたい、それに基づいて、多国籍軍が編成され、クウェートからイラク軍をイラク領内に追い払った時、『文藝春秋』の1991年3月号に載った野田宣雄「湾岸から日本に放たれたミサイル」という短い文章を読んで、自らの倫理観を反省したということが書かれている。

 その野田の文章には、「湾岸戦争でアメリカをはじめとする多国籍軍の兵士たちが生命を犠牲にするようになって以来、日本人の多くが深刻な精神的負い目を心のうちに抱え込んでしまった。いうまでもなく、多国籍軍の兵士たちが日本人も共有する価値と利益のために命を捧げているのに、日本人だけは平和憲法を盾に安全圏に身をおいたままだからである。/つまり、そこでは、平和憲法を掲げて戦争で手を汚そうとしない者たちが、侵略阻止という大義のために現に戦場で生命を危険にさらしている者から、鋭く倫理性を問われているのである。/もちろん、今回の事態のもとでも、なんら心の負い目を感じてはいないと言い張る日本人もいるだろう。しかし、そんな人々は倫理感覚のまったく麻痺した鈍感な人々であるか、さもなければ、自分の本当の感情を偽っているにすぎないだろう」と書いてあった。しかし、この野田の文章は、いい加減なものである。

 湾岸戦争で、多国籍軍の兵士たちは、圧倒的に優位な軍事力と軍事技術と豊富な兵站をもって、クウェートで戦争を戦った。イラク軍に軍事的な勝ち目はほとんどなく、生命を多く犠牲にする覚悟を強く持たなければならなかったのは、イラク兵の方である。現に、闇夜でも敵兵の動きをよく見ることができる暗視ゴーグルをつけた多国籍軍兵士は、闇夜のゲリラ戦を仕掛けようとしたイラク兵を的確に攻撃し、撃退し続けた。それでも確かに、多国籍軍兵士の命の危険がゼロというわけではなく、いくらかの死傷者が出た。多国籍軍兵士たちは命をかけたには違いないが、先の世界戦争の時の総力戦のような命のかけ方とは、レベルも質も違う。それらを区別も具体的に検討・分析するでもなく、とにかく命がかかっているのだ、倫理の問題だと、人々を脅迫して、結局、それを、憲法改定問題に無理やりつなげる。こういういい加減なことをやっているのが野田の上の文章である。

 米軍の前線兵士の実態は、この間、明らかになったように、危険と引き替えの高給や市民権が欲しい移民の若者などからなっていた。同時に、湾岸戦争は、ハイテク兵器の見本市でもあった。クウェートは、腐敗した首長制が支配している英米に依存した族長国家であった。未だに出所も不明な油まみれの海鳥の写真が繰り返し流され、戦時のプロパガンダがまかりとおり、怪しげな情報が乱れ飛ぶ中で、憲法や倫理などについて、どうしてまともな議論ができようか。

 この時、藤岡氏は、おそらくけっして最前線の一兵卒ではなく、後方の司令部あたりで、事務や作戦立案や指令などをする本部などか、絶対にミサイルなどが届かないような洋上艦隊か戦闘機のパイロットかなにかにつくであろう息子を戦場に送れるだろうかという素っ頓狂な空想にふけって煩悶したというのである。

 コソボ問題の時も、アメリカ軍は、超高度からの爆撃を繰り返し、ミサイルなどによって攻撃される恐れの少ないように、攻撃していた。さらにアフガニスタンでも、同様に、洋上艦隊からの遠距離ミサイル攻撃や超高空からの爆撃を行い、危険な地上戦は、北部同盟にまかせている。イラクでも、米兵の死者が増えるのは、占領・駐留後である。

 野田などの脅迫文のようなものに、倫理的に悩まされていることを湾岸戦争症候群と名付けるなら、すでに今は、その時代ではなく、9・11症候群*の時代になっている。ラムズフェルド国防長官による戦争のハイテク化の推進によって、自軍の戦死者は最小化され、占領にともなう戦死・戦傷が増えて、問題になっている。イラク戦争は、安保理常任理事国で、参加する国と参加しない国に分かれた。つまり、参加しないという選択肢があるということで、米軍が多国籍軍を編成して戦争を仕掛けたとしても、必ず自分の息子を戦場に送らねばならないことにはならない。等々。

 情況が変わる中で、未だに湾岸戦争症候群を引きずったままでは、時代に合わなくなるのは当たり前だ。

*9・11症候群とは、テロ恐怖症、隣人や移民や外国人などの中にテロリストがひそんでいるかもしれないと疑心暗鬼に陥ったり、不安になったり、恐怖を感じたり、過敏になったりすることなどである。日本では、今国会で審議されている共謀罪や外国人に指紋押捺を義務づけようという入管法改定案などに現れている(5月10日付記)。

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護憲=自立国家

   右派の基本的な図式は、愛国主義VS反日である。しかしこの愛国主義には、絶対的と相対的の間に様々な色合いの違いがある。

 愛国主義の行きすぎを危険視する穏健な愛国主義もあれば、ほとんど宗教に近いものまである。1990年頃には冷戦の終焉ということもあって、イデオロギーの終焉などということも言われていたが、それどころか、今では、愛国主義イデオロギーが幅を利かせるようになっている。

 そのことを示しているのが、「五十嵐仁の転成仁語」で批判されている『毎日新聞』の岩見隆雄氏の「転向」である。それによると、岩見氏は、むかしは護憲であったが、情況や大衆の意識変化を見て、自立国家となるために改憲が必要だと考えを改めたという。かれは、愛国主義意識の広まりは、自立国家を要求しており、それには「押しつけ憲法」の改憲が必要だという愛国主義イデオロギーに「転向」したのである。

 問題は、この自立ということである。岩見氏は、「アメリカの51番目の州」と言われるような対米従属を断ち切るためには、「押しつけられた憲法」を改憲することが必要だというのである。しかし、アメリカの憲法にない9条2項を持っていることは、この規定がアメリカ合衆国憲法に明記されない限り、「アメリカの51番目の州」にはなりえないということを意味している。もちろん前文のところもだ。イラク侵略戦争を強引に仕掛けて世界から孤立し、占領への抵抗に苦しんでいるアメリカが、日本国憲法を受け入れて、改憲して、アメリカ合衆国の一員にむかえる可能性はない。

 しかし、逆に、「普通の国」の憲法になれば、アメリカ合衆国との統合あるいは一体化の障害は減るわけである。あるアメリカの元高官は、日本はNAFTA(北米自由協定)に参加すべきだと言っている。つまり、9条2項があるから、自立が守られているとも言えるのだ。時代状況の変化とは、「押しつけ」という性格が強かった占領から半世紀以上たった現在では、こういうことである。自立国家たりえるには、アメリカが統合しにくい憲法を持つことも重要だということだ。

 ところが、五十嵐氏も指摘するように、現在の小泉自民党の改憲は、日本の歴史や伝統を強調した中曽根元総理の前文案を、小泉首相が直接指示して削除してしまったように、アメリカとの一体化、親和性を示すことに重きが置かれており、自立に向かう改憲ではなく、「アメリカの51番目の州」により近づく改憲なのである。

 こんな日米一体化、アメリカへの統合を促進する改憲を、日本の自立国家化と錯視していることが、岩見氏の文章にも現れているのであり、こうした混乱を正さないといけないというのが五十嵐氏の批判であり、それはもっともな意見である。

 「押しつけられた」ことばかりを強調していると逆に余計に「押しつけられる」という逆説的な事態になる。それが、現在の改憲論議の特徴であり、それが時代状況の違い、意識の変化がもたらした新しい情勢なのである。それがわからないのが、古い頭で、新しい情勢に対応している大新聞の古いところだ。

 護憲の方が、自立国家たりうるというのが現在の特徴なのである。

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プレカリアート・「自由と生存のメーデー06」デモ不当弾圧弾劾

 転載です。

津村洋@メーデー救援会です。

・・・・・転送・転載大歓迎・・・・・

メーデー救援会
http://mayday2006.jugem.jp/

あこぎで好きほうだいの暴政をはねかえし、3名の仲間を取り戻そう! 支援・カンパを!

◆あらかじめ逮捕狙いの拉致

 2006年4月30日午後、神宮前穏田区民会館にて百余名が参集し、昨年に引き続いて「自由と生存のためのメーデー06」を開催しました。しかし、集会後にデモを準備する段階から、警察側から異様な恫喝、脅迫が迫ってきました。まるで税金ぼったくりの公安警察・機動隊の既得権益を守るためなら、フリーター、失業者や不安定雇用者などの権利など、くそみその虫けら同然という対応です。

◆警察はドロボーのはじまり

 原宿から渋谷に向かう私たちデモ隊にたいして、公安警察・機動隊は、サウンドデモのDJ、防衛するもの、バルーンでメーデーを訴える仲間を無慈悲にも次々と逮捕しました。あまつさえ、先頭のサウンドカーを暴力的にむりやり強奪したのです。まさに公権力による表現機材の強奪、ようするにドロボー行為です。絶対に許せません。

◆差し入れも拒否する拉致・監禁

 デモ後の30日夜は、約30名による不当弾圧抗議・激励行動を、原宿警察署、渋谷警察署にたいして行いました。が、これまでと違い、逮捕された仲間の生存にかかわる生活必需品の差し入れすらさせないのです。警察による法律の恣意的な強制・独裁がまかりとおり、拉致・強制連行・監禁のどぎつさは、欧米諸国に比べてもずっと酷い実態です。

◆弾圧を許さない相互扶助・連帯を!

 今から120年前、メーデーの起源となったアメリカのストライキでは、「仕事に8時間を、休息に8時間を、おれたちがやりたいことに8時間を!」と唄いました。その直後、無産者の仲間にたいして、銃撃、爆弾、絞首刑、大量逮捕がなされたのです。いったい、この日本は歴史を経てどんな違いがあろうというのか?
 暗黒の事態をはね返すために、なせるあらゆる努力を傾注しよう。
 幽閉されし3名の仲間への心からの救援・支援・カンパをよろしくお願いいたします。

2006年5月1日 メーデー救援会

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
カンパ振込先(暫定):
郵便振替 10080-91518311
口座名 フリーター全般労働組合
※通信欄に『救援カンパ』とご明記ください

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

  5月4日付。訂正です。

 「カンパ振込み先を間違って伝えてしまいました。ご迷惑をかけ申し訳ございませんでした。以下のように訂正いたします。」

郵便局「ぱるる」 記号 10080 番号 91518311
口座名 フリーター全般労働組合
※通信欄に「救援カンパ」とご記入ください

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エリート主義者藤岡信勝氏の女性差別を表すブログ記事によせて

 藤岡信勝という人は、日本共産党を辞めても、そのエリート主義体質だけは、そのまま受け継いでいるらしい。

 彼の転向の仕方は、『赤旗』信奉から『産経新聞』信奉に変わったというだけのようである。それにしても、彼のはじめた『藤岡信勝ネット発信局』というブログの4月28日の「「従軍慰安婦法案」の審議を許すな」という文章には、彼のどうしようもないエリート主義が現れている。

 彼は、「1930年代に中国との戦争が始まってから、日本軍は「慰安所」と呼ばれる施設を業者に提供して営業させることを始めた。その目的は、戦地で強姦事件が発生するのを予防することと、性病の蔓延をふせぐことだった。慰安所で働く女性は「慰安婦」と呼ばれた。売春業者に連れられて戦地に働きに来た女性が慰安婦だったのである」と書いている。

  そして、「こうした問題は古今東西を問わず、軍隊につきものの普遍的な現象である。例えば、ナポレオン戦争の時のフランス軍は、戦死者の十倍の数の兵士が性病で使いものにならなくなった。1942年中国大陸に派遣されていたアメリカ空軍航空部隊では、昆明の売春宿に通いつめたパイロットと地上員の間に性病が蔓延して、戦闘機の半数が飛び立てなかった。だからどの国の軍隊でも、兵士の性欲処理のための施設をつくったのだ」とする。

 つまり、「慰安所」は、戦時に、性病や強姦事件を予防するための兵士の性欲処理施設であったというのが「慰安所」の藤岡氏の定義である。ところが氏は、続いて違う定義を持ち出す。

 「日本の慰安所で働く女性は国内で働く遊郭の女性と本質的には何も変わらない」。

  今度は、上記の「慰安所」の定義は本質の定義ではないと聞かされる。遊郭は、平時にも存在し、それは文字通り、遊ぶところで、男性が性欲を満たすための男のための娯楽施設である。それは、性病や強姦の予防施設でもなければ、兵士の性欲処理施設でもない。兵士だけを特別に相手にするところでもないし、戦時に対応して営業しているわけでもない。それに、遊郭で働く女性を「慰安婦」とは呼ばない。「慰安所」は、軍隊用の戦時の特別な施設の呼び名である。

 とにかく、定義が変わっているのだから、すでに論理的に破綻している。続けて、氏は、「むしろ戦地の方が遙かに高収入が得られる有利な仕事であった。だから、国内外を問わず、当時も戦後も、これを問題にすることなど考えられなかった」と述べる。高収入だから問題にならなかったとはどういうことだろうか? 朝鮮人慰安婦の収入を調べたデータでもあるのだろうか? これではわからない。まさか、学者たる者がそうに違いないという思いこみで書いているのではなかろうなあ。それに、彼女らのような職種の人たちの境遇や人権について、当時のアメリカなどが本気で取り上げるような時代状況だったとは考えにくい。高収入が得られる有利な仕事であったから、国内外で問題にならなかったというのは、根拠がある主張とは思えない。

 また、「日本人の「被害者」が除外されているのは、職業として戦地で働いていただけなのに、そのことを根拠に日本政府から金をせしめようと考える、はしたない日本女性はただの一人もいないからである。これは日本人として誇りにして良いことだ」と書いているが、こんなことを同情の表明なしに言えるということがエリート主義的である。貧乏な時代に、泣く泣くそうした職業に就いた女性がいたことに思いがいかないのだ。これは、女性が金を稼ぐのに、限られた職業しかなかったことを表している。それが、誇るべき職業としての社会的地位として認められていたのなら、その職歴を隠さず、堂々とそれを語る女性がいないのはなぜだろうか? 彼女たちは日本人として誇っていいはずなのに。特定の職業や女性の振る舞いを、「はしたない」かどうかと評する世間や女性や特定の職種を見下すエリートの差別的視線がなかったら、自分の体験を自由に語ったかもしれない。

 「はしたない日本女性」という言葉を思わず漏らしてしまったことで、藤岡氏は、自らのエリート主義的差別主義を自己暴露してしまっている。

 *なお、余談だが、ニーチェは、娼婦を愛し、賞賛し、学のある女性を罵り、軽蔑した。

 *1910年代には、ドイツで、ローザ・ルクセンブルクらが、娼婦の組織化と要求の運動化をはじめている。

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小泉政権5周年に徒然想った

  小泉政権発足から丸5年が過ぎた。このところ、格差拡大・固定化の格差社会化をはじめ小泉政権の「影」についての議論が活発になっている。

 小泉首相自身は、「古い自民党をぶっ壊した」ことを成果として強調し、自画自賛している。しかし、この古い自民党とは、1970年代に作られた田中派支配の自民党のことであり、小泉政治は、ある意味で、それ以前のさらに古い自民党政治に回帰したともいえる。

 高度成長期、経済成長重視の経済政策で、都市の過密、農村の過疎、公害、等々の「影」が拡大し、耐え難いまでに大きくなり、学生運動から労働運動から社会運動から、続々と誕生した革新自治体から、その是正を求める人々の声が強まり広がったのに対して、田中角栄政治が、保守側の修正派・改良派として登場したのであり、それは、地方の開発(新全総など)、環境庁設置、社会保障制度の充実、等々として現実化したのであり、こうした公の介入の増大が、同時に利権構造や癒着などを深めることにもなったのである。

 そして今、こうした田中政治の古い自民党をぶっ壊して出てきたのは、それ以前のもっと古い自民党政治であり、その結果が、首都圏や大都市部への人口集中・過密化、農村の高齢化・過疎化、格差拡大・固定化の格差社会等々である。60年代の高度成長時代の記憶も薄れているが、田中派自民党は、佐藤政権下で拡大した社会矛盾に対応しなければならなかったのである。そうして当時は改革派だった田中派自民党が、その後、90年代まで、続いてきたのである。

 それに小泉政権の構造改革路線は、多国籍資本(大企業は多くが多国籍化しているので、ほぼ大企業と同義である)の利害を反映している。ただし、トヨタなどの多国籍資本が望んでいる対中関係の改善は、小泉首相の靖国参拝へのこだわりで、できないでいるが。

 小泉首相が、国会で、靖国参拝を問われて、「誰にいわれて参拝しているわけでもないし、誰にも指図されない」と答えたのは、孤立した個人主義への信念を表したものである。ここでは、それは、韓国・中国などの外国に言われて参拝中止することはないという意味であるが、こういう一般論的な信念表明の形で言うと、たとえ国民投票で靖国参拝中止が多数になっても参拝を止めないと言っているようにも取れる。そんな民意にも従わないような超民主主義的権限、独裁権を一体誰が認めただろうか?  しかし、同時に、「誰にも靖国参拝を指図しない」と次期総裁には、靖国参拝を求めないことをも明らかにしている。

 総理就任時には約90%の圧倒的な支持があったとはいえ、今、新聞などの世論調査で、50%前後の支持率である。靖国参拝については、人々の世論は揺れ動いており、半々に割れるようなことも多い。小泉総理は、A級戦犯が合祀されていることを知り、東京裁判の結果を正しいと認めながら、つまりは、東条英機らを戦犯と認めながら、戦争の責任者とその指示・命令に従って命を落としたその他の戦没者を区別しないで、「不戦の誓い」をする。

 保守を自認する西尾幹二氏は、東京裁判を正しいと認めながら、しかも戦争に勝つことを信じ目指して戦死した「英霊」に、「不戦の誓い」をするというのは間違いだと批判する。氏は、靖国に参拝するなら、今度は負けないと誓うのが正しいのだと言う。これは、遊就館に表されている靖国信仰の心髄とも一致しており、小泉首相の靖国参拝の仕方は、その心髄を否定するものである。靖国思想では、天皇のために闘った官軍の犠牲者こそ、「英霊」という霊の中でも特別優れた霊なのであり、あの世で、天皇のために命を投げ出して奉公することを願っている「英霊」なのであり、「不戦」を望んでいるなどということはありえないというふうになっている。アメリカ大統領は、アーリントン墓地で、不戦を誓ったりするだろうか? 

 なお、西尾幹二氏は、戦艦大和撃沈の戦死者をはじめ先の戦争の戦死を無駄死と描く反戦映画(西尾氏曰く)の「男たちの大和」が若者を中心に流行ったことを見て、本人も映画を観ながら涙を流したそうだが、9条改憲は当分無理だろうと思ったそうだ。さすがは、彼はニーチェ学者だけあって、ワーグナーの壮大で神聖な国民劇の世界にいったんは惹かれたが、後にそれを脱して、ビゼーの「カルメン」の俗な民衆劇の世界を愛好するようになったニーチェの俗物性に学んでいるのだろう。

 『唯物論研究会』の故船山信一と縁続きで、講座派エリートのサラブレットの系譜に連なってきた藤岡信勝氏の高尚さとは対照的である。自由主義史観研究会なるネーミングのセンスもなにやら、義理の叔父を意識しているかのようである。ニーチェは、超人に奉仕する宗教を欲したが、自らは宗教を利用するのであって、信仰しないという無神論者であった。なお、船山信一は、フォイエルバッハに傾倒し、その人間学的唯物論を高く評価し、その翻訳や紹介に務めた(『フォイエルバッハ全集』『唯心論と唯物論』岩波文庫訳など)。

 靖国神社は、たんなる一神社ではなく、独特な靖国思想・歴史観を持つ特殊な政治勢力の拠点であり、「内心の自由」などという次元ではすまされない特殊な政治的空間として作られている。それを示しているのが遊就館である。小泉首相は、遊就館は関係ない、東京裁判の結果を受け入れ、A級戦犯の存在を認めていると言っている。しかしやっていることは、A級戦犯とその他の戦没者を一緒くたにして、参拝しているのであり、「内心」ではそれらを区別しながら、「外面」「行為」では区別していない。東京裁判にいろいろな問題があるのは確かであるが、しかし戦争責任が当時の指導部にあることは、日本自身が裁いてもおなじことで、東条英樹にも責任がある。そしてそのことを彼自身が認識していたことは、家族の証言でも明らかである。東京裁判を否定したとしても、そのことに変わりはない。

 保守派から見ても、小泉首相のやっていることは、保守的ではなく、ましてや愛国主義的ではない。個人主義的で、合理主義的で、国際的なのである。欧米人が黄色い皮膚を被っているような感じである。靖国参拝にも魂や心が感じられないのである。総理大臣という公人が、自我にとらわれ、メンツや外面を異常に気にしているようにしかみえない。彼は、教育基本法改定の森元総理の狙いである公共の精神をもっていない、戦後民主主義的な個人主義の行きすぎた人に見える。

 景気は回復しつつあるとはいうものの、景気循環は、基本的には政策によって自由になるものではない。これをなくすことは、社会主義の目的であり、資本主義ではありえないことである。したがって、好況・不況、停滞、上昇、過熱、恐慌、等々の経済変動が、つきまとうのであり、ケインズ主義は、それを政治的分配の管理によって、多少の緩和をしたにすぎないのである。それにもかかわらず、マル経の大内国独資論などは、ケインズ主義の採用によって、資本主義的経済法則が完全変容したかのように主張した。しかしそれは誤りであった。

 自由主義経済政策をとれば、かならず失業者が多数出ることは、19世紀のイギリスの歴史からもわかっており、それがチャーチスト運動などの労働運動を大きくさせたし、諸種の社会主義を発展させた。キリスト教社会主義、リカード派社会主義、チャーチスト、空想的社会主義、等々。レーガン、サッチャー時代も同じだった。そして、小泉構造改革の結果も同じである。失業が大きく減るのは、好況の最後の景気過熱の段階である。そしてその時に、恐慌が準備されるのである。つまり、内的不均衡が著しくなるのである。ちょうど、バブル末期に、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を誇っていた時のようにである。この時、卸売物価が低下ないし安定していたが、同時に、不動産などの資産価格の急上昇が起きており、明らかに、価格運動が不均衡、偏りを示していた。

 現在は、企業間物価は原油などの輸入物価の上昇にともなって上昇しているが、消費者物価が上昇していない。このような不均衡の拡大は、やがて、調整されなければならない時が来るが、それが急激だと、不均衡が急に波及していって、経済運動を急激に攪乱することになるだろう。それは結局は、恐慌によって暴力的に調整されることになるだろう。そしてそれは、外国市場にも連鎖していくだろう。それはあるいは、アメリカ・ドルの暴落から始まるかも知れないし、中国・韓国・台湾やアセアン諸国などから始まるかも知れない。アセアン諸国では、外国通貨保有の多様化に務めており、ドル一辺倒の以前の政策を改めている。しかし、中国は、対米輸出が伸びているために、ドルを大量保有しており、それを米国債購入に当てている。日本も似たようなもので、アメリカの財政赤字やドル暴落の影響を強く受けることになる。

 物事を客観的に見れる人は、自由主義経済には失業・恐慌がつきものであることをわかっている。そういう人の中には、それはわかっているが、それらの問題を解決できる別の経済はありそうもないから、これらの問題に耐えるしかないと言う者もいる。とにかく経済成長して、全体のパイを拡大するしか、手はないというのである。ところが、それで一時的に改善されるのは失業問題であり、恐慌の方は解決されない。恐慌は好況時に準備される。恐慌後の不況は、ケインズ主義的な政策で対応すれば改善したはずが、バブル崩壊後の「平成不況」は、長引いた。

 バブル崩壊の恐慌は、極めて大きな社会変化を引き起こした。その一つは、土地神話の崩壊で、土地などの不動産担保による信用供与というそれまでの銀行のやり方が出来なくなったことである。地価下落は、バブル崩壊から10年以上たつ今も続いている。銀行は、それに代わって、国債などの債権類の蓄積や国費注入を受ける形で、資本安定・拡大をはかり、信用縮小、貸し渋り、貸しはがしを行ってきた。そして今や、莫大な利益を上げるようになった。証券・保険・銀行業の垣根も撤廃されて、銀行は、より多様なもうけ口を得たのである。国費注入に抵抗を示した銀行に対して、国有化するぞと脅しをかけてまで、それを強行したのは竹中である。その結果、20兆円を超える国費ー税金が返ってこないままとなった。他方で、小泉首相は、「痛みに耐えよ」と人々に我慢を要求してきたのだ。一方は、国から無理やり金を持たされ、他方の人々は、年金保険料値上げなど、増税や負担増で、国に金をむしりとられていった。それが、小泉構造改革の5年の結果の一つである。

 千葉7区補選で当選した民主党の太田和美氏は、「負け組ゼロ」を目標として掲げて、自民党の経済産業省出身で、埼玉県の元副知事のエリート「勝ち組」候補を敗った。勝負という基準で計れば、勝ちと負けはどんな社会にも生まれる。しかしそれは、あるルールに基づく部分的で一時的な結果であるにすぎない。例えば、マラソンでの勝ち負けは、トランプでの勝ち負けとは違う。前者での勝ち組が、後者での勝ち組になるとは限らない。その結果はどうか? マラソンでの金メダリストは、後に様々な報償や陸上指導者などの地位を得るだろうが、トランプの勝者にはそのような成果はもたらされない。ルールも違えば、使う能力も違うし、環境、社会条件、社会的評価等々も異なるのだ。

 ここで彼女が掲げている「負け組ゼロ」は、目標であり、それは、スポーツ選手が金メダルを目指すという目標を掲げているのと同じで、掲げたからといって必ず金メダルが取れるわけではないのは当たり前である。社会格差の度合いは、ある程度は政策・制度によって縮めることが可能であり、これまでだってそうしてきた。所得再分配制度がその一つである。90年代後期から、その機能が弱められてきたのであり、小泉構造改革によって、それがさらに弱められたのである。消費税という逆進性の高い税制もそうだし、所得税の累進性を弱めたのも、その一つである。高額所得者の税率をある程度戻せば、再分配機能を強化することがある程度可能である。今では、所得税の累進性は、先進国中で一番低いのだ。

 資本主義経済が、内的不均衡を拡大していくのには、信用の発展がかかわっている。信用によって、過剰投資がおき、それによって生産の過剰拡大がおき、過剰在庫が生じ、過剰消費が生じ、という具合に、不均衡が連鎖・拡大していくのである。企業同士が、競争に駆り立てられ、信用が容易な時期には、投資拡大競争が過熱し、過剰かどうかわからないまま、投資を拡大する。ライバルがそれを追いかけ、追い抜く競争に駆り立てられる。やがて臨界点を超える。恐慌が起きて、はじめて、過剰投資、過剰生産であったことに気づく。

 そのような不均衡をかかえ、格差をかかえ、不安定な社会に、長く絶え続けることは困難であり、それを感じる人は、安定した社会を強く求めるようになる。

 新入社員:終身雇用望む人4割 日本型経営への回帰顕著に
  財団法人「社会経済生産性本部」が今年の新入社員に実施した意識調査で、終身雇用を望む人が過去最多の約4割になるなど「日本型経営」と呼ばれた雇用システムへの回帰がみられることが分かった。一方「社内出世より、起業・独立」を望む人は約2割と3年連続で減少した。

 調査は90年から行っており、今年は3、4月に新入社員研修で実施し、1961人(回収率97.5%)が回答した。

 給与体系では、過去最高の37%が年功給を望んだのに対し、成果給は過去最低の63%。転職の問いでは「今の会社に一生」が過去最高の39.8%。従業員300人以上の企業では44.7%が終身雇用を望み、安定志向が目立った。「チャンスがあれば転職」は39.7%だった。

 安定志向は社内関係にも影響を見せ、担当したい仕事では「チームを組んで成果を分かち合う」が79%で「個人の努力が直接成果に結びつく」の20%を大きく上回った。「運動会など社内行事には参加したくない」は17.3%で過去最低となり、会社や同僚との一体感を求める傾向が出た。

 また約4割が「ニートになる人の気持ちは分かる」と答え、同じく約4割が「人より多く賃金を得なくても、食べていけるだけの収入で十分」と答えた。【東海林智】
                   (『毎日新聞』4月26日)

 小泉新自由主義とは正反対のものを求めはじめている新入社員が増えているというのである。無意識的に小泉政治の終焉を求める若者が増えているのである。「チームを組んで成果を分かち合う」が79%、「会社や同僚との一体感」を求める傾向が出た」。これは、小泉首相が自分個人の考えや判断に固執し、同僚を冷酷に切り捨てていったのとは好対照である。それは、終身雇用・年功序列などの日本型システムを守旧的として破壊してきた小泉構造改革に、真っ向から反している。雇用が流動的すぎるとリスクが大きくて、危険であることを経験から学んだのだろう。

 ようやく小泉政権5年間が、マイナスとして受け止められるようになったことは、高い代償を払ったにしても、けっこうなことだ。今、連立の成果をあげるという政治的目的を優先させた意味のよくわからない妥協の産物のベターでしかないと自民党幹部が自認している「教育基本法」改悪を、数の多いうちに片づけようということか、急いで成立させようとしている。また、当初の立法の趣旨をはなれて、「治安維持法」的な内容に変えられた「共謀罪」が審議入りしている。右派が次期総理と期待している安倍官房長官は、ベターでしかない「教育基本法案」を今国会で成立させると言っている。権力のためには、節を曲げるわけだ。

 ブッシュ大統領の支持率はついに32%と最低を更新した。議会共和党は多数ではあるが、これでは、力も出ない。数が多ければ力が出るというものではない。千葉7区の総力戦での敗北は、自民党内の確執や利害争いに火をつけたことだろう。小泉人気に頼り切った党運営に代わる党の求心力がないままだと、党分裂の危機に陥るのは、今度は自民党の方だろう。

 ようやく小泉政権の詐欺劇場の悪夢の時代が終わろうとしている。しかし、最後の置きみやげとして、本人も与党協議に丸投げしただけでやる気のない「教育基本法」改悪だとか、会話も取り締まる「共謀罪」だとか、憲法改悪を目論む手続き法の「国民投票法案」だとか、とんでもない悪法を残されてはたまったものではない。また、在日米軍再編の負担3兆円という声がアメリカから出てきており、日米一体路線を走ってきた小泉政権が、たんにアメリカにとって都合のいい金庫にすぎないことが、明らかになっている。そのツケを払わされるのは言うまでもなく、「国民」だ。こんな置きみやげもたくさんだ。 

 そんなこんなを徒然想った。

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小泉自由主義をのりこえるためにーとくに女性解放の視点から

  小泉首相は、今国会での「教育基本法改正案」の成立を目指すことにしたという。千葉7区補選での敗北で、秋の退陣までに、一つでも功績を残そうという焦りが強まったのだろうか? あるいは、武部幹事長よりも、森会長よりにスタンスを変えた方が得策と考えたのか? 

 森会長が、会期を延長してでも「教育基本法改正法案」を成立させたいと言っているが、それは、公共の精神を尊重する教育が戦後教育で抜けていることが、少年犯罪などを多発させている原因だからだという。彼の「教育基本法」改定の主眼は、前文の「公共の精神を尊び」というところにあるわけだ。しかし、これを「社会性を尊び」としないで、「国家精神を尊ぶ」という含みを持たせる「公共の精神を尊び」という表現にしているのは、「愛国心」と親和的な意味合いを帯びさせようとしているように見える。こういう点も含めて、この「教育基本法改正案」は、「改正」ではなく「改悪」である。

 会話をも取り締まる「共謀罪」もすでに審議入りさせており、衆議院での圧倒的多数を獲得している今がチャンスだとばかり、野党の反対が強い法案を置きみやげに、引退を迎えようということなのだろうか? 「共謀罪」は、とんでもない悪法である。

 去年の郵政解散総選挙でも、反対派を押しつぶして、自らを守旧派に潰されかかっている被害者のように振る舞って、有権者に救いを求めるというお涙ちょうだい劇で、小泉自民党を圧勝させたので、やればできるという自信が彼にはあるのかもしれない。しかしそれは過信というものだろう。劇場型選挙もあきられ、人気と選挙が別なことを千葉7区補選は結果で示したのである。昨年の総選挙の圧勝は、特殊なケースにすぎなかったということだ。そこで獲得した約300議席は、単なる数で、力や内容がある数ではないということだ。いわゆるホリエモン逮捕問題などの三点セットの追求の中で、小泉チルドレンさえ、小泉首相から距離を取ったことが、それを示している。党中央直轄選挙で敗れたことを見て、つぎの選挙での不安を抱えるかれらは、派閥や地元の支持団体・組織を頼りたくなっていることだろう。

 彼の政治は、ようするに、新自由主義・グローバル化政治であり、多国籍資本の利害代表である。彼の趣味も、オペラと歌舞伎、など、和洋混淆であり、国際的である。日米首脳会談では、ジーンズをはき、キャッチボールをする。そうかとおもえば、今度は、紋付きはかまで、相撲の表彰式に登場する。中国の孔子の言葉を使うかと思えば、国連総会で英語のスピーチをやる。

 男女共同参画推進の男女平等論者であり、欧米流の価値観を身に付けている合理主義者である。おそらく霊など信じていないが、靖国神社に格好だけの参拝はする。言葉は単なる道具で、できるだけ節約する。コミュニケーションについても、合理的で、肌と肌のつきあいはしない。

 こういうことが、男尊女卑的な古いタイプの政治家を嫌い、「冬のソナタ」ブームに見られた女性を1人の個人として対等な立場で愛するという自由恋愛観にはまった日本の女性の支持を受ける理由の一つだろう。しかし、小泉首相の男女平等思想は、能力主義を基礎にした自由主義的フェミニズムにすぎないのであり、「強い女」「勝ち組」の男女平等思想にすぎない。そのことは、すでに佐藤ゆかり、猪口邦子、小池百合子などの姿を見れば明らかだ。また、それは、過労が原因と思われる肺炎で入院した小池百合子環境大臣の、退院時に、男性と同等に見られるためには、何倍も働かねばならないので、無理をしたという意味の発言でも明らかだ。

  韓国は、戸籍制度を解体し、制度上で男女同権を進めており、女性首相が誕生する。社会には、封建的な意識や文化や慣習は残っているだろうが、制度上は、男女同権を進めている。その点で、日本は遅れをとった点もあり、それどころか、「男は外で仕事、女は家庭で家事・育児・介護」を主張するバックラッシュ派が、一部地域で、勢いづいている。

 小泉首相自身は、欧米流の男女同権思想を持っているように見えるが、それは構造改革だの郵政民営化だのに比べれば、前面には出しておらず、それを実現するための新たな政策化をする様子もない。ただ、外面・イメージだけが、男女同権論者ぽく、確かに内閣に女性大臣を登用したし、女性候補を刺客として公認したりはした。しかし、それも、パフォーマンス的で、しかも能力のある女性の登用であり、男と変わりないだけの仕事の出来る女性の登用であり、それはその能力が男性・女性に関係ないものゆえの登用なのである。一部の限られた能力の高い特別な女性だけの男女平等にすぎないのである。

 だが、日本での女性解放が遅れているために、それですら、今よりは、女性解放の前進として受け止められてしまっているのだ。これは、日本における女性解放の遅れを示しているので、反省しなければならないことだ。能力を高めることで、被差別の境遇から解放されようとするのは、在日外国人の間でも見られることである。

 能力主義は、いろいろな無理をもたらしたり、人間形成のバランスを崩したりする。能力主義によって一面的な人格が育つのをなくさないとだめだ。これは、塊より始めないといけないことで、意識変革と教育が重要である。社会全体が、人間形成のバランスを発展させないといけないのである。しかしなによりも、差別をなくすことが大事だ。差別する方も一面的な人格形成から解放されねばならないからだ。差別する者は自由ではないのである。

 女性が小泉支持なのは、民主党がこの分野で積極的な差別是正策を強調しないし、バックラッシュと闘わないからだ。

 『朝日新聞』の内閣支持率調査で、小泉内閣支持率が、若者の間で高まっているのは、この間の、民主党のごたごたが反映しているのであり、こういうことに大きく政治意識が左右されるのは、政治経験不足のせいである。かれらは、たまにしか投票には行かないだろうから、実際の選挙結果を左右することはあまりないだろう。

 民主党支持が多いのが40代・50代の男性だというのは、この層が、社会的にも、中堅層であることからすれば、有力な支持層である。しかし、政権奪取を目指すというなら、女性の支持をもっと多く獲得できるようにしなければならないので、執行部への女性の登用や政策づくりに女性党員・議員の声を反映させなければならない。26歳という若い女性候補の勝利は、そういう形で、党づくりに生かされなければ、看板だけ変えても支持の拡大にはつながらないだろう。

 小泉自民党は、民主党がかつて女性議員をつぎつぎと誕生させたことに学んで、女性に支持されるように党改革を進めてきたのだから、それ以下では、この面では勝負にならない。

 女性解放とパートなどの格差問題は、結びついている。同一労働同一賃金や少子化対策などとりくむべき課題は多い。新しい政治には、小泉自民党の自由主義的男女同権主義を乗り越える女性解放の思想・政策がいる。

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小泉政権の末期に徒然想った

 いよいよ小泉首相も退陣の時期が迫ってきて、彼の「改革」の化けの皮もはがれつつある。彼が、古い自民党をぶっ壊すというのは、田中派ー旧経政会支配をぶっ壊すという意味であり、それに取って代わったのは、森派支配、すなわち岸政治の復活ということにすぎなかった。革新でなく、復古だったのだ。

 つまり、ぶっ壊して出てきたのは、田中派支配前の古い昔の自民党であり、そういう昔の自民党を知らない者には、新しく見えているというだけのことなのである。経済政策は、昔懐かしい古典派経済学であり、政治は大資本よりの自由主義であり、日米同盟派だ。

 だから、それは、右派保守派の先祖を称える声と、昔の政治に戻るという動きとマッチしているのである。過去にさかのぼったところで、いい点も悪い点も見つかるわけで、一方的に誇ろうとしても、普通の認識力があれば、無理がある。

 靖国問題にしても、旧橋本派の牙城である遺族会を手中にせんとする動機で続けているだけで、中・韓への「内心の自由」の主張も、先祖の犠牲への感謝などというのも口先だけのことだ。今はやりの細木和子なら、あの年で単身でいること自体、先祖に無礼だと怒られるだろうし、毎日先祖を拝んでもいないだろうし、月命日の墓参りなどしていないだろう。年に一回、ちょいと靖国神社でお賽銭を投げて拝む、それは遺族会向けのパフォーマンスとしては十分かも知れないが、先祖への感謝の誠を捧げるには、非礼なので、そう思うまじめな人は、そんな非礼をするぐらいなら、靖国参拝など止めてしまえと言っているわけだ。

 小泉という人は、どうみても、アメリカ流の合理主義者であって、日本的共同体で育まれた宗教感や倫理観とは無縁なのである。明治時代の神社合祀で、共同体の人々が信仰していた雑多な仏や神などを壊したり、鎮守の森の古木を伐採していったことに痛みを感じた南方熊楠のような感性を持ち合わせていないのである。

 熊楠がとくに怒ったのは、役人と政治家と神主らが材木商と結託して、鎮守の森の古木を売って、伐採していったことで、これを止めるために、柳田国男と結んで、反対運動を行った。小泉首相にはそういう感性などかけらもない。それは靖国神社にもない。共同体から働き手を奪い、共同体の神や仏を祀るべき祭主を奪ったことにたいして、共同体の神や仏にたいしてわびの一言もない。

 靖国神社の歴代宮司も、ご立派な元貴族のお歴々で、下々の生活とは無縁の殿上人ばかりで、南方熊楠のような、人々の暮らしと密着している共同体の信仰生活など知らぬ者たちだ。それが、知ったような顔をして、みんなお国のために死んでいったなどとのたまうから、死者も鼻白んで、しらけているだろう。

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自虐史観批判ブームの終焉に徒然想う

  一時、都市部で一世を風靡した小林よしのりやその信奉者たちが、特攻隊をはじめとする旧帝国軍人をやたら神のごとく崇めて、持ち上げた。不思議なのは、それは明らかに行きすぎで極端であるにもかかわらず、言ってる本人たちは、それを普通だと思いこんでいることだ。どうみても、この連中は、信仰を持つ信者に見えるのだが、その自覚を欠いているみたいである。

 もともと地方では小林よりのりはそれほど人気はないが、今では、まったく読まれていないようで、どうして都市部だけで、あれだけ売れたのか、不思議だ。今や全国どこでも『国家の品格』ブームだろう。この本は、ナショナリズムには懐疑的だし、教育基本法に愛国心を入れることにも著者は反対だと言っている。

 小林ブームの場合、スタイルの珍しさということはあったかもしれない。左翼をカタカナのサヨクと書いてみたりするということだ。ゴーマニズムなる造語の面白さもあったかもしれない。しかし、主張内容は、むかしから言われてきたものばかりで、ネタ自体は古いもので新味はない。使っているのは、例えば、日韓併合についてのところでは、形式主義にすぎない。しかし、一般の法律問題でも、現実の内容を調べて、正当性を吟味するということは行われていることであり、例えば、脅迫や詐欺による契約は無効である。契約当事者の双方が実際に自由で対等な意志を持って契約したものかどうかを調べるのである。

 「一進会」は、対等合邦を求めたのであって、永久併合を求めたわけではなく、日本側で、「一進会」を支援していた右翼も、日本政府に裏切られたと言っている。その後、日本政府が、「一進会」を活動禁止にしたのは、「一進会」の対等合邦論が、日本政府の真の狙いであった永久併合の政策に反する主張だったからであろう。永久併合ではないならば、独立の条件や期限等々の約束がなされていなければならない。もちろん暗黙の前提ということもあろう。しかし、その後の独立運動を弾圧したことからも、それはなかったと言える。

 その民族が独立するかしないかは、その民族自身が自由で民主的に自主的に決めることで、他の民族が干渉すべきことではないという民族自決権が、世界のルールとして大きく宣言されたのは、第一次世界大戦時であり、アメリカ大統領のウィルソンの原則が有名だ。国連憲章も民族自決権の承認を掲げている。

  戦後韓国がアメリカの力を借りて独立したから真の独立ではないなどという意見も見られるが、どこの力を借りようが、政治的独立は独立である。それを言うなら、日本だって、今のイラクだって、真の独立国と言えないだろう。帝国主義時代には、政治的独立ー形式的独立は実現できても、真の独立などということは一部の帝国主義国をのぞいてはありえない。形式的政治的独立が、民族自決権の最高度である。それを超えるとなると、帝国主義の仲間入りするしかない。それには、日本が、日清・日露戦争を戦ったように、後発組は大変な犠牲を払わねば無理である。日露戦争でのイギリスからの借金の負担は、後に大増税をもたらした。帝国主義間の争いも熾烈であり、弱小帝国主義国は、強い帝国主義国に従属させられる。アメリカと日本の関係のように。

 日共のように、このような関係を、帝国主義間の関係ではないとして、アメリカ帝国主義と日本独占資本主義との関係というふうに見るのは、超帝国主義論であって、正しくない。日米関係は、支配的帝国主義国と従属的帝国主義国という帝間関係である。

 さて、小林よしのりなどの自虐史観批判などに、なんとなくはまったが、だまされたと気づいて、こういう連中から離れたという人も出始めているようである。しかし、だからといってすぐには、反対側に行くというわけではなく、その間には、中間の状態、あるいは中立という状態がある。今、中立化ということが起きているように思われる。

 この間の「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛に嫌気がさして脱会する会員が出始めているようだが、そういう人も、まずは中立に移行するのではないだろうか。

 それにしても、日本会議とフジ産経グループは、表向きは不介入を装いながら、陰で「つくる会」人事に介入するという薄汚いまねをやっていることに、「つくる会」東京支部はずいぶん怒っているようで、種子島会長ー八木副会長体制確立をはかるための関東ブロック会議をボイコットするという。

 西尾氏は、怪文書も公開して、全面的に闘う構えを見せている。それに藤岡信勝も、反八木を鮮明にしつつあり、八木ー宮崎元事務局長ー旧日本青年協議会系理事との対立は、いよいよ本格的になってきた。この分裂が、フジ産経グループや日本会議に反射して、そちらでも内紛が始まるかもしれない。

 それにしてもブームははかないものだ。

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世論調査はそれほど正確ではない

 読売新聞社が8、9の両日に実施した全国世論調査(面接方式)                                         民主支持層では90%の人が期待感を寄せていた。民主党の支持率は、14・0%で、3月の前回調査(11・1%)よりも2・9ポイント上昇した。                                           小泉内閣の支持率は56・0%で、前回調査に比べ、1・1ポイント増えた。自民党の支持率は42・8%で、前回比0・5ポイントの微増だった。(4月10日読売新聞)

 民主党の新代表に小沢一郎氏が就任したことを受け、産経新聞社はFNN(フジニュースネットワーク)と合同で八、九の両日、政治情勢に関する世論調査を実施した。
 内閣支持率は48・8%で、内閣改造直後の昨年十一月に行った前回調査(56・9%)より低下したものの、小泉純一郎首相が今年九月の退陣を表明している中で安定した水準を保っている.。(産経新聞)

  NHKは、今月7日からの3日間、全国の20歳以上の男女を対象にコンピューターで無作為に発生させた番号に電話をかけるRDDという方法で世論調査を行いました。調査の対象になったのは、1777人で、このうち62%にあたる1097人から回答を得ました。それによりますと、小泉内閣を「支持する」と答えた人は、先月より2ポイント上がって51%でした。これに対し「支持しない」と答えた人は、先月より2ポイント下がって32%でした。

 同時期に行われた世論調査結果で、内閣支持率は、『読売新聞』56%、『産経新聞』48.8%、NHK51%、である。『読売』と『産経』の数字では、7・2ポイントの差がある。また、政党支持率で、社民党支持率は、NHKが1・7%、『毎日新聞』では3%である。どうしてこう大きな開きがでるのかはわからないが、少なくとも、そのていどのものでしかないということを踏まえて、世論調査結果を見る必要があることは確かだ。

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9条改憲を煽る4月4日『読売』社説批判

 4月4日の『読売新聞』社説「憲法世論調査 『改正』を迫る安全保障意識の変化」は、「揺れ動く国際情勢や日本の安全保障環境が、有権者の意識の大きな変容を促しているのだろう」と、まるで国際情勢や日本の安保環境の変化が、自然に有権者の意識変化をもたらしたというような書き方をしている。

 よくいうよ。『読売新聞』は、80年代に新憲法案を誌面で公表するなど、改憲を繰り返し訴えて世論を変えようと務めて宣伝してきたんじゃないか!

 「読売新聞の憲法世論調査で、56%の人が「改正する方がよい」と答え、1998年以来、9年連続で過半数を上回った。憲法改正が必要な理由は、「国際貢献など今の憲法では対応出来ない新たな問題が生じている」が93年以来、常にトップだ」。

 でも、過半数にはなっていないだろう。

 「89年の冷戦終了後、国際秩序は大きく流動化した。2001年の9・11米同時テロ後は「新たな脅威」が出現した。国際情勢が不安定化する中で、国際社会の平和と安定のために、日本も応分の責任と役割を果たしていく必要がある、という認識が年々、定着しているようだ」。

 改憲しなくても、国際貢献活動をいろいろとやってきた。その実績はどう評価しているの? 無駄だったのかな。

 「自衛隊の存在を憲法で明確にすることには有権者の7割以上が「そう思う」とした。集団的自衛権の行使を半数が容認した。憲法改正に賛成する人のうち64%が、「9条を改正する」としている」

 これも過半数はいかないでしょう。今、国民投票をやったら、否決の可能性大。

 「国際情勢の流動化は、近年、東アジアでも顕著になっている。北朝鮮の核・ミサイル開発、中国の急速な軍事力増強などによって、日本の安全保障環境は、不安定かつ不透明の度を増している」。

 単純なパワーバランス論で、安保を語ることはできない。総合力。

 「国際貢献のみならず、日本自身の安全のためにも、国際情勢の歴史的な変化を踏まえて、憲法の安全保障条項を整備すべきだという考えが、有権者の共通認識となってきたのだろう」。

 『読売新聞』がそういう宣伝煽動を繰り返したのでしょうが。                                                    

 「その際、自衛隊を憲法に明確に位置づけ、その役割などを明記するのは、「普通の国」として当たり前のことだ」。

 「普通の国」などといういい加減なことを言っても仕方ない。「普通の国」でないまま何十年もやってきたのだから、それはすでに伝統の一部であり、そういう歴史的特殊性が歴史から消えるわけでもないし、それによって世界に迷惑をかけてるわけでもない。なんでそんなに目くじら立てるの。普通かどうかなんて、たいしたことじゃないでしょう。

 「自衛隊が、国際平和協力や、日本および地域の安全保障のために円滑に機能するには、日米同盟に立脚して、米国との協力関係を強化しなければならない。在日米軍の再編は、一層、機動的な日米の連携を迫る」「集団的自衛権の行使が出来ないというのでは、同盟は大きな制約を受ける」。

 要するに日米同盟強化のために9条改憲が必要だという話だ。さすが、GHQのスパイだっただけのことはある。

 「無論、軍国主義の復活など有り得ない。世論調査では、憲法で強調すべき理念として、7割近い人が「平和の大切さ」を挙げた。この「平和主義」は、かつての自衛隊を否定する“護憲平和主義”ではあるまい。有権者の多くは、自衛隊を活用し、平和の創出に貢献する能動的な平和主義を求めているのではないか」。

 それなら、過半数の人々が、イラクからの自衛隊撤退を望んでいるのはなぜだ? 勝手に護憲平和主義対能動的平和主義などという対立図式を作り上げて、小泉首相のまねをして、守旧か改革か、あるいはブッシュのまねで、「敵か味方か」のような単純な二項対立図式をでっち上げて、無理やり、人々を脅かして、選択を迫るつもりか?

 「自民党は昨秋、「自衛軍保持」などを明記した新憲法草案を策定した。民主党も憲法提言で、国連多国籍軍などで条件付きながら「武力行使」を容認した」「国民意識の変化に遅れることなく、時代の要請に応える新憲法を制定することは、政治の極めて重要な課題だ」。

 繰り返しになるが、国民意識を9条改憲に誘導することに務めているのは、『読売新聞』という一民間新聞だ。お気の毒だが、9条改憲反対運動は、草の根的に、リベラルな穏健保守の人々にまで広がりつつある。時代や人々の意識変化に鈍感なのは、『読売新聞』の方である。

 この間の『読売新聞』社説は、やたらと時代を正しく読んでいるという自負をあらわにしているが、そういううぬぼれにおちいると、実際には時代を見誤り、思わぬ失敗や足下をすくわれやすいというのが、歴史的な教訓である。反面教師として自戒したい。

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グローバル化と大衆運動のシンクロニシティー

 どの新聞も、28日のフランスの初期雇用対策(CPE)に反対する労働者と学生のストライキとデモについて伝えている。全国で300万人という歴史的規模の抗議行動が行われたのである。

 まず、ストは、27日の国鉄から始まり、地下鉄、バス、航空、郵便、教育、医療、金融、通信、メディアなどの労組に拡大していった。CPEは、26歳未満の若者を雇用した企業は、2年間の試用期間内ならば、解雇理由を告げずに自由に解雇できるというものである。

 同時に、ドイツでは公務員のストライキが行われ、イギリスでは、年金改革に反対する公務員労働者の1936年以来という150万人の参加する24時間ストがあり、さらに、アメリカでは、ロサンゼルスの50万人のブッシュ政権の新移民対策に反対するヒスパニックなどの移民の歴史的規模の大デモがあった。

 ポリスというバンドの「シンクロニシティー」という曲があるが、これは、共時性ということである。シンクロナイズド・スイミングのシンクロナイズの同期するという概念と近い概念であるが、一連のニュースをみて、この言葉が思い浮かんだ。

 どうも、これらの動きには、共時性を生み出すような世界的な共通構造があるような気がしてならない。

 それが、グローバル化とかグローバリゼーションという構造的な力なのだろう。それが、労働者や移民や失業者や若者たちの運動を同期させているものなのだろう。

 そのグローバル化の力は、日本にも働いているのだが、運動のシンクロナイズは、まだ弱いように思われる。しかし、遅かれ早かれ、世界的共時性はあらわれるだろうと思う。

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今さら市場神秘主義とはいかがなものか?

  『毎日新聞』に、論説室の玉置和宏氏の「酔いも辛いも」というコラムがある。

 氏は、一貫して、サッチャリズムの立場から、ケインズ主義的な経済政策を批判し続け、財政規律の確立を訴えてきた。それは、1980年代後期のバブルの発生(過剰信用)を最大の過失と見ているからである。

 26日、このコラムが紙版から電子版に移行するに際してのあいさつというべき文章が載っている。

  そこで、氏は、日本バブルを総括の基礎を、ノーベル賞経済学者ハイエクが社民主義を批判した言葉、「人間の理性の過信に基づいている」というテーゼにおいて、「もし彼の思想のひそみに倣うなら日本のバブルとは「人間が物事を計画する極めて優れた理性能力を持っていることを前提にしてきた」日本官僚主義の敗北にほかならない。それをバブルの発生と崩壊が証明したのではないか。市場の再発見の意味はここにもある」と述べている。

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嫌韓流はバーチャルリアリティ

 『嫌韓流』という漫画が、アマゾン・コムで今年一番売れているという。しかし、近年、本が売れているといっても、たかがしれている。それに、この漫画は、一般書店のランクでは、ベストテンにも出てこない。しかも、地方書店ではさっぱりだし、身近なところでも話題にもなっていない。買ったからといって、それが全部、その内容の支持者というわけではない。

 要するに、ネットの一部で盛り上がっているというバーチャルな流行現象の一つと見るのが妥当である。一時出せばベストセラー入りしていた小林よしのりの漫画も、今は売れていない。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛など、右派の分裂も進んでいる。

 ネット現象の一つである『嫌韓流』は、日韓のナショナリズムの歴史の違いを反映しているもので、若い成長期にある韓国のナショナリズムに対して、成熟しきった老大国の日本のナショナリズムの違いが映し出されているのである。

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