7月6日の「西尾幹二のインターネット日録」に、西尾氏が、今度、松山で行うという講演会の話題が載っている。7月4日に拓殖大学日本文化研究所(所長井尻千男氏)の公開講座「新日本学」の最終の第十二講と同じ内容で、「古き良き日本人の心(日本人の魂を考える)」というテーマで、主に本居宣長の話が中心だという。
それは、「冒頭、日本人が歪みをもった茶器を好むのを永く不思議に思っていた呉善花さんが、ご両親を日本に招いて、信楽の茶碗にご飯を盛って出すと、「あんな犬の茶碗のようなみっともないものを捨てて」といわれるエピソードから、日本人の風雅として通例いわれている器の歪みを考えてみる」というところから始まるという。日本びいきだという呉善花さんが、信楽焼のゆがんだ茶碗を使う日本の文化を理解できなかったというのである。それなら、豊臣時代に、わざわざ茶碗を壊して、つぎ直して、ひびだらけにしたというようなことも、理解を超えているに違いない。逆に日本人が朝鮮半島の文化を頭だけでわかろうとしても、なかなか難しいということも言える。
そういう頭や理屈で物事を考え、判断することを、「漢意」(からごころ)とよんで批判し、頭で認識する以前の直感による認識を重視したのが、本居宣長である。そこで、「漢意」で書かれた『日本書紀』ではなく、歌、踊り、神事、儀式そのままを伝えたとして、『古事記』を重視する。それは、西郷信綱氏の立場でもある。彼は、『古事記』の多くの部分が、実際に、儀式で使われた言葉を写したもので、踊りもついていただろうと述べている。したがって、それらは、リズム、発声、動作を伴っていたはずだというのである。しかし、それを直接知ることはできないので、想像する外はないのである。
この宣長の「漢意」について、松岡正剛氏が、「千夜千冊」というHPに、長谷川三千子氏の『からごころ』という本の書評を載せている。彼女は、「日本的なもの」をどこまでも追求してゆかうとすると、もう少しで追ひつめる、といふ瞬間、ふつとすべてが消へてしまふ。我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまで取り除き、純粋な「日本人であること」を発掘しようと掘り下げてゐて、ふと気が付くと、「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山にうもれてゐる。(中略)/われわれ日本人の内には、確かに、何か必然的に我々本来の在り方を見失はせる機構、といつたものがある。本居宣長はそれを、「からごころ」と呼んだ」と書いているが、松岡氏は、「実にうまいところを突いている」と感心している。
そんな純粋な「日本的なるもの」があるわけがないと言ってしまえばそれまでだし、実際に、弥生時代後期には、大陸や朝鮮半島との交流があったことが、九州北部の遺跡の発掘成果から明らかだし、北には、縄文文化が長く残存し、アムール川流域をはじめ大陸との交流があったことが考古学によって指摘されている。『古事記』にしても、多神的なアニミズムやシャーマニズムなどの多種多様な信仰生活や文化生活を雑多に含むものである。例えば、高天原の「神集い」は、族長共同体の会議の様子を反映しているように思われるし、アマテラスは、そうした部族共同体のシャーマン的(巫女的)首長をあらわしているようにも見える。あるいは、編者の太安万侶の序には陰陽説的な大陸思想の影響も見られるし、古代天皇制国家を正当化するような意図も感じられる。しかし、そういうものを「からごころ」として取り除いていって、宣長の言う「古意」(いにしえごころ)を追求していくと、「ふつとすべてが消へてしまふ」というのである。それは、「無」ということなのか?
司馬遼太郎の場合は、その答えが簡単に出る。幕末まで、日本人という意識は存在せず、藩がすべてであったと言っているからだ。氏は、そこには、藩を超えるような中心がなかったというのである。宣長にとっても同じである。だから、宣長は、「漢意」を批判しながら、儒仏を排除したわけではなく、自らの葬儀も仏式で行い、寺に墓を建てるように、遺言をした。それに対して、平田篤胤は、キリスト教の教義を取り入れて、一神教的な体系化を行った。それが、後の国家神道につながっていくのである。つまり、平田国学は、「漢意」なのである。
それに対して、松岡氏によれば、「長谷川は、宣長の主張ははっきりしていると見た。宣長は、原理原則といったものを思想の力とは認めないと言ったのだ。そして、そんな原理原則を用いないで日本は育ってきたと見た」という。
「宣長がわかりにくいのは、妙な言い方だが、宣長自身が「日本人であること」に気づいてしまったからなのである。そして念のために繰り返しておけば、そのことに気がつかないでいられる心情装置というものが「からごころ」というもの、つまりはグローバル・スタンダードというものなのだ」と松岡氏は言う。
それから、松岡氏は、「ところで長谷川は、その後に『正義の喪失』(PHP)を書いてボーダレス・エコノミーとフェミニズムを批判し、さらに西尾幹二の鳴り物入りの『国民の歴史』が非難の嵐にさらされると、西尾と対談をして『あなたも今日から日本人』(致知出版社)に与したりした。/これはいかにも勇み足じゃないかと誰もが見たが、どうも長谷川は平ちゃらのようである。あまりにもモノカルチュラルな叙述しか展開できなかった『国民の歴史』にもまったく文句はないらしい。しかも、どうみてもデキの悪い教育勅語を絶賛して、そこに「本当の意味での自由と平等の精神がある」と言ってしまったりしたのは勇み足である。ぼくはこのような長谷川にさせたくはなかった」と言う。
宣長は、古義学の影響を受けている。儒学においても、伊藤仁斎が、古義学を究めて、『論語』に戻った。仏教諸派においても、それぞれ宗祖への回帰がなされた。そのことが、後にどのような影響をもたらしたのかは、ヘゲモニーの領域の課題として研究する必要がある。そこには、ヘゲモニーの転回があったと考えられるからである。宣長の「からごころ」から「いにしへごころ」への転回がそれであったかどうかは、なお研究を要する。実際には、明治維新の過程でヘゲモニーを形成したのは、主に平田国学や後期水戸学派であって、宣長の思想ではなかったからである。宣長の思想では、神々の体系化などは思いもよらないことであったし、善悪を言い立てるのは「からごころ」に他ならなかったからである。
したがって、「新しい歴史教科書をつくる会」のような日本人としての誇りをつくるための教科書をつくるなどというのも「からごころ」であり、ましてや藤岡信勝氏らの「自由主義史観研究会」などは、宣長的な「いにしへごころ」とはまったく相容れないものだ。西尾幹二が、一方で宣長を「古き良き日本人の心(日本人の魂を考える)」などとして利用するのも「からごころ」である。むしろ宣長には、鈴木大拙のいう「無分別の分別」という「日本的霊性」となった仏教的な「無分別の智」に近いものがあるのであり、だからこそ、仏式の葬儀と供養を遺言したのである。そしてそれは、共に生きること・共に生産すること・共に消費すること・共に祀ること、等々として、「私」を超えた共同性に生きる生産共同体としての村の無私共有・無私有の生活という「無」を対象にしようとしているのである。なぜなら、『古事記』は、共有制を前提として成立していたのであり、それを踏まえながら読まないと、現在の視点や価値観という「からごころ」が入ってしまうからである。それから、それは、無私ではあるが、「公」ではない。「公」には、朝廷とか幕府の意味が入るからである。今の教育基本法改定与党案に入った「公」には、国家という意味が入るのと同じである。それに対して、中世の公事には、逆に、「公」が従わなければならない共同体のルールの意味(呪術的な意味を含む)があったと網野善彦氏は書いている。
長谷川氏が、教育勅語などという「からごころ」の文章を自由と平等の精神があるなどと絶賛してしまい、宣長が感じていた共有制の太古の精神と生活を「つかめない」のは、氏の頭が近代の私有制度にどっぷりとはまっているためなのである。長谷川氏が、宣長を引き合いに出して、日本的なものはわからないといっているのは、言い方で誤魔化しているのであって、「様々なる意匠」(小林秀雄)の一つに過ぎないのである。松岡氏は、自分の考えに合う人物があまりにも少ないかあるいはいないせいか、長谷川氏に過大に期待しすぎているのである。あるいは、あえて、そうしているのかもしれないが。
西尾幹二は松岡氏のお眼鏡にかなうような「日本的なもの」を持ってはいない。彼は、是非善悪をはっきり立てる人物であり、そのことは、この間の、「新しい歴史教科書をつくる会」に関する氏の文章で明らかである。藤岡信勝氏は、もっとそうで、「からごころ」が洋服を着て歩いているような人物だ。ただ、西尾氏は、多少、宣長流のものを意識していて、「つくる会」の内紛から早く離れたいということは言ってはいた。宣長も、有名な『雨月物語』の作者の上田秋成との論争をしてはいる。しかし、宣長は、仏儒を排したわけではない。いわゆる鎌倉新仏教は、鈴木大拙によれば、大地化したのであり、「日本的霊性」に到達したのである。鈴木大拙は、伊勢神宮の「神道五部書」(度会神道)の成立に、神道の「日本的霊性」の成立を見ている。しかし、本居宣長は、逆に、それを「からごころ」として退けた。
西尾氏は、「宣長は兼好法師が大嫌いなのです、仏教の影響を受けた風雅が大嫌いなのです」と書いているが、これは、理解が浅いといえよう。これからは日本から見た世界史だと言っているが、これも、「からごころ」である。過去に自我を投影して、歴史に自意識を見るという小林の「自我・自意識史観」はうんざりだし、それを世界史に拡大するなどというのも想像しただけで、げんなりするし、うさんくさく感じる。もちろんそれに対して、梅原猛史学の方から、縄文文化はどうしたという声も聞こえてきそうだ。
西尾氏の拓殖大学での講義は、森鴎外や夏目漱石の留学話や小林秀雄のモーツァルト・ゴッホ論に飛びながらのものであったという。やはりというべきか、ニーチェ学者らしく、俗物性をニーチェから受け継いでいるようである。氏は、ポストモダニズムが作り上げたつまらないニーチェ神話以前の、俗物ニーチェの「正統?」な後継者と言えるのかもしれない。
藤岡信勝氏が、「つくる会」を追い出された八木元会長らに対して、「この分野で何も苦労をしていない八木氏が軽口をたたくのは、軽薄そのものである」という「それをいっちゃおしまいだ」という悪罵を投げつけたのを見て、鼻白んだ人も多いに違いない。そういいたくなる気持ちはわからないでもないが、それを言いたくなるときは、大抵、運動情況が危機的で後退局面にある時である。そして、それを言ってしまったら、たいていは、その運動はお終いである。
結局のところ、この運動は、ヘゲモニーというものをまったく理解していないのである。教科書問題をめぐる運動は、採択戦においては、陣地戦であって、それは、とてつもない消耗をともなう厳しい闘いであり、よほど有利な状況でもない限り、一時の熱情やブームなどではとうてい勝てるものではない。そして、そのためのヘゲモニーの形成には、世界観の更新、新しい人間観、知的道徳的文化的革新、あるいはもっと言えば、宗教性すらが必要である。そうでなければ、持続的な陣地戦を最後まで戦い抜くことはできない。てんでばらばらの寄せ集め集団が、一点で運動を組んでも、結局は、またばらばらになって、消えてしまうだけなのである。「つくる会」の分裂劇を見る限り、この会もそういう過程をたどったようである。そしてそれは、反省も改善もされていないので、またおなじ事を繰り返すことは明らかである。すでに、7月2日の総会で、内紛の経過報告文書が、「日本会議」副会長の小田村四郎(元拓殖大学総長)氏のツルの一声で、採択されず、撤回されたことに、その兆しが現れている。
いずれにしても、「つくる会」には、新しいヘゲモニーをうち立てるだけのものがない。「つくる会」を出て、日本教育再生機構を立ち上げた新田均氏は、組織論を提示していて、多少はそういう傾向も見られるが、まだどうなるかはわからない。たぶん難しいだろう。西尾幹二氏には、宣長から、それを形成する力がなく、長谷川三千子の「からごころ」論にもそれがなく、藤岡信勝氏にもそれがないということは明らかである。結局は、それでは、西欧の自由民主主義のヘゲモニーには対抗することも、克服することもできないだろう。
かれらのようなものではなく、平等で民主的で個性と自由が規律と合致する新たな共同体と人間と世界観を形成しうるヘゲモニーが形成されることが必要である。そのことは、そのような共同体の理念やイメージが、歴史的に繰り返し登場したこと(「世直し」「世均し」「一揆」等々)からも明らかである。それは、現代においては、労働の共同体といってもよいかもしれない。
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