教育

産経の低道徳

 大江健三郎氏の『沖縄ノート』裁判で、大江氏の勝訴の判決が出たのもつかのま、国会がガソリンの暫定税率の維持か廃止かでもめて空転している間に、教育をめぐって、教育基本法改悪の影響が現われ始めている。

 文部科学省は、新しい小中学校の学習指導要領で、日本の伝統と文化を愛し、公共心を養うとした教育基本法の改定部分を、さっそく学習指導の目的に掲げた。そして、小学校で、君が代をうたえるように指導することを明記した。

 3月30日付『産経新聞』は社説で、これを歓迎した。この社説は、神話を教え、道徳心を育てることは、愛国心を養うことになるという。あまりにも短いものなので、どうしてそうなるかはわからない。近年の官僚・政治家・大企業家・大金持ち・『産経』を含む大手マスコミなどの上層に不道徳ぶりが目立つ。そういう連中は、義務教育などとっくの昔に卒業している。この腐敗した連中こそ、根性をたたき直す教育をもっとも必要としている。

 あの俗物細木数子を起用した番組を流していた一つが、フジ・サンケイ・グループのフジテレビである。フジテレビでは、『あるある大辞典』でのデータ捏造事件があった。『読売新聞』の末端販売員の強引な勧誘に迷惑した者は多いはずだ。官僚については、毎日のように、不祥事が報道されている。いわゆるセレブが登場する番組を観れば、いかにかれらが世間の常識とかけ離れた感覚を持っているかは、誰でもわかる。こういう連中に神話を読ませれば、道徳心が身につくだろうか? はなはだ疑問である。

 第一、道徳心にもいろいろある。どんな道徳を教えれば、愛国心が育つというのだろうか? アメリカの入植者たちには、共通する神話がない。しかし、かれらは、9・11後、一時、きわめて愛国的になった。教育で道徳心を教育したおかげだろうか? ちがう。全体が愛国的になった後に、政府が、教育に愛国心を持ち込んだのである。だから、教師との間に対立が生まれ、訴訟にまで発展したこともあったのである。以前のまま、教育していたら、それが、非愛国的と非難されるようになったのである。

 ずっと前に、『産経新聞』社説で、物語が道徳心を育てるというようなことを書いていた。もちろん、これはたんなる願望である。そんな因果関係の証明をしていないからである。

 もし、平田篤胤のような国学派の方法を言うのであれば、平田派から幕末の尊王攘夷の志士が出たように、当時の幕藩体制の道徳を破るものが輩出されたことはどうなるのか?

 平田篤胤は、君が代の歌詞として知られる古歌について述べている。しかし、平田の国学は、あまりにも茫洋としていて、それから、直接、後の尊攘派が生まれたというわけではない。後の国学派は、ロシアをはじめとして、日本に貿易・開港を求めて外国船が度々訪れるようになったり、蘭学を通じて西洋の事情や思想を知るようになって、対西洋ということを強く意識して、平田の説を解釈しなおし、修正し、作り直したりしていったのである。例えば、佐藤信淵や鈴木重之である。

 『産経』の不道徳を直すには、どんな神話や物語を教育すればいいのだろうか? 自らの道徳性を問わないまま、他者の道徳性を問題にしているという不道徳をどうするか? 文部科学省のモラルはどれぐらいなんだろう?

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羽村市教委の給食費未納対策は解決にならない

 東京の羽村市教育委員会が、学校給食費未払い対策として、給食費支払い同意書に親のサインを求めることを決めたそうだ。

 具体的な事情はわからないが、教育委員会の言い分としては、署名をさせることで、給食の提供が契約に基づくということを強く意識させるためだという。

 しかし、この言い分には、契約が本来、自由意志行為であるということが抜けている。契約が自由意志のみに基づく行為であるということからは、契約が各人の選択に任されており、自由意志行為であるということが出てくる。つまりは、契約するもしないも自由だということが含まれているということになるのである。

 それにもかかわらず、学校給食は、事実上、選択性ではなく、一律に課せられる義務的なものとなっている。親の経済状態を踏まえた免除制度はあるものの一律のサービスに対して文句も言えないとなると、今日のようなモンスター化している親の中には、義務だけがあって権利が認められていないような給食のあり方に不満を持つものが増えていることは想像に難くない。

 それに力を与えているのは、新自由主義である。気に入らなければ、学校も選択できるというような肥大化した権利意識のみが拡大すれば、当然、平等主義的な一律の公的制度として基本的に成立している公教育制度と衝突する。その時に、個人主義的な利害得失の計算によって、払った分にはそれに見合った利益が返ってこなければならないとするつまらない一面的な計算をすることに、くだらないプライドを持つことが、必要事とすら思念されるわけである。こうして、学校が、自己利害を貫徹するもの同士が、衝突する場となって、制度自体を破壊しているわけである。

 教育再生会議は、親学なるものを提唱したが、しかし、政治は、新自由主義を推進してきたのであり、その成功モデルとして、詐欺師のホリエモンだの村上ファンドだのを持ち上げてきたのであり、その責任は、政治にもあるわけだ。村上は、物言う株主が必要だと強調してきた人物で、金を出す分口も出させろと叫んだ人物だ。権利意識旺盛と言えるだろう。

 政治・経済などが、あげて消費者主権だの株主の権利だの自己利益を貪欲に追求して何が悪い、金儲けして何が悪いと開き直る姿勢を積極的に助長してきたのであるから、学校だけが、その責任を問われることはない。しかし、羽村市教育委員会は、逆に、こうした新自由主義的な時代風潮に組して、契約概念を捻じ曲げてまで、給食費問題解決に乗り出したのであり、これは解決どころか、これをたてに権利を主張するモンスター・ペアレンツをのさばらせるもとを作っただけである。

 

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「国旗・国歌 問題教員の報告は必要だ」というが、問題なのは産経の方だ

  『産経新聞』の以下の主張は、浅薄である。

 『産経』社説が、神奈川県個人情報保護審査会が、神奈川県教委が国家斉唱時に起立しなかった教員名を校長に報告させていたことを、「思想・信条に関する個人情報の収集に当たる」として、報告を中止するよう答申したことを、「教育現場の実情を無視した答申である」と批判していることである。
 
 その理由として『産経』があげているのは、「学習指導要領に、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するよう指導するものとする」という規定である。この文章は、国歌斉唱の具体的な形態については何も書いていない。起立して歌えとも、座ったまま歌えとも書いていない。教職員が式で歌えとも歌うなとも書いていない。
 
 そこで、学習指導要領にない斉唱の具体的な形態について、『産経』は、国際常識なるものを持ち出す。
 
 9・11事件後のナショナリズムに包まれたアメリカ社会では、なるほど、スポーツの試合などの際に、国歌(といっても国歌に当たるものはアメリカでは少なくとも2曲あるという)を大合唱する姿が繰り返し映し出されたために、それが「国際常識」的に見られたのも無理もないことである。しかし、今では、そんな光景は、あまり見られなくなった。
 
 『産経』がいう「国際常識」は、変化するものであって、保守思想家が言うように、進化(変化)するのである。

 次に『産経』は、「県教委が国旗・国歌の適切な指導を行うためには、これらの法令を順守しなかった教員名を当然、把握しておかねばならない。教員の人事異動や学校評価のためにも、不適格な教員名の報告が必要になろう」と述べる。法と令は別であり、法はこの場合には、国歌・国旗法「国旗は、日章旗(日の丸)とする。国歌は、君が代とする」を指し、令すなわち行政命令は、学習要領の規定を意味する。法と令の関係では、言うまでもなく、法治主義の原則から、法が令の上である。その法は、ただ、国旗と国歌を指しているだけである。法の体系では、法の上に憲法があり、これが最上位の法である。憲法に違反する法令は存在してはならないと規定されている。
 
 思想・信条の自由は、最高法規たる憲法の規定であって、個別法や省令などの行政命令や行政指導は、これに反しない範囲で効力を持つということになっている。文科省が、憲法体制から独立の国家内の国家として独立して行動することはできないとされているわけである。
 
 神奈川県個人情報保護審査会が、憲法の規定に照らして、問題であり不適格とされたのは、不起立教員ではなく、県教委と校長の方である。しかるに、『産経』は、最上位法である憲法規定との関係が問題にされたのに、個別法と文科省の行政的指導・省令を根拠に、不起立教員を問題・不適格と決めつけている。

 『産経』は、憲法の思想・信条の自由の規定を、公教育では教員の内心の自由に限定されるものと解釈し、神奈川県教委の行為を、その自由を制限するものではないと擁護する。そして、「この考え方は、教育現場では通用しない。個々の教員がどんな思想・信条を持っていたとしても、学校では、児童生徒に国旗・国歌の適切な指導を行う義務を負っている。それが公教育というものだ」としている。学習指導要領が、国家斉唱時の起立を規定しないのに、教員の不起立を思想・信条の表明と見なしているのは、県教委である。たまたま体調が悪くなって、不起立になってしまったという教員もいるかもしれない。学校の朝礼などで、立ちくらみがして、座り込む生徒がいることは、おそらく誰しも目撃していることだろう。二日酔いということもありうる。様々な事情があり得る現場で、不起立イコール問題教員・不適格教員と見なすのは、それを内心の自由の態度・行為での表現として思想・信条を基準として適用しているからである。
 
 そして、入学式・卒業式における不起立などの行為のみをことさらに、通常の授業や校内生活における行為と区別して、厳しい監視・処罰の対象とするという学習指導要領にも書いていないことを、実際上の運営で行っていることに、この問題を思想闘争・政治闘争・イデオロギー闘争と化そうという文科省の意図的な狙いが表われている。
 
 「審査会の答申について、梶田叡一・兵庫教育大学長も「教員に思想信条の自由はあるが、公教育では国旗国歌の尊重が求められている。行政が法令順守を確認するのは当然で、個人情報保護とは別問題だ」と言っている。これが学校現場での正しい考え方だ」という。こんな人が教育大学の学長になれるというのも、世も末と言う気がするが、行政が確認すべきは法令順守だというなら、憲法順守について最優先で確認すべきであり、確認する者が確認されねばならないのである。これは、個人情報保護とは別問題だというのは、法を個別法として孤立させてとらえる見方で、法を法の体系から引き離すということは、法の実際世界ではあり得ない空想である。それは、公教育には、プライバシー保護は関係ないと言うのと同断である。そんなことは実際問題としてあり得ない。公教育だからといって、世間と隔絶して、特権的な独立島宇宙を形成しているわけではないし、そういう見方は、特に、近年は通用しなくなっている。
 
 次に、『産経』は、日の丸・君が代の具体的な歴史から、それらに誇りを持ち、他国の国旗・国家に敬意を持つことが、諸外国との友好を広めるために必要だという。別に旗や歌に誇りを持つことが、諸外国との友好促進の最高の手段というわけではない。国旗や国歌はあまりにも抽象的すぎる。それに、あまりに誇りを持ちすぎると、他国を蔑視するようなナルチシズムに陥る危険性もある。ナルチシズムも、過ぎれば、病態にまで進むかもしれない。
 
 このシンボルに結びついている歴史的意味も問題である。明治以来の戦争に次ぐ戦争の時代、これらのシンボルが前面に掲げられ、その下に、いろいろな負の意味が形成され、クリップされている。そうした意味形成体がこのシンボルにひっついている。

 今、アフガニスタンの民衆の中で、アメリカ国旗や国歌に対して、負の意味が形成され、シンボルの歴史的意味が変化し、それが広く共有されつつあると思われる。イラクでも政府ではなく、民衆の間では、似たようなことが起きていると思われる。パレスチナではもちろんである。星条旗は、否定的な意味形成体をぶら下げているだろうし、「星条旗よ永遠なれ」は、誤爆によって殺害された肉親や友人や仲間の死への復讐と憎悪の対象になりつつあるかもしれない。こうした過程や現実を見ながら、単純に、国旗・国歌万歳とは言いにくい。日本人が、アメリカ国旗・国家に敬意を表する姿をアフガニスタンの反米感情の強い民衆が見たら、友好どころか、敵と見なされるかもしれない。

 『産経』は、「教育委員会や校長らは今回の答申に左右されず、問題教員の実態を正確に把握したうえで、毅然(きぜん)とした国旗・国歌の指導を続けるべきである」と役に立たない当為(べき)で締めくくる。切り離されないものを切り離してしまえば、「毅然と」という類の主観的な決意性(その実は空文句)だけが、問題解決の鍵とされてしまう。県教委は、この答申について、それと自らの指導のあり方とを関連させて、真摯に検討すべきである。そして、私の考えでは、この答申に従うべきである。
 
 『産経』のような歴史に正面から向き合えない空想癖の強いナルチスティックな態度こそ、社会を危険に陥れるものだ。公教育において、問題をつくりあげて、問題を引き起こす文科省や教育委員会のナルチシズムをこそ問題にすべきである。かれらのわがままとそれを助長する『産経』こそ、教育されるべきである。
 
 「環境の変更と教育とについての唯物論学説は、環境が人間によって変更されなければならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、わすれている」(マルクス「フォイエルバッハ・テーゼ(3))

  【主張】国旗・国歌 問題教員の報告は必要だ(『産経新聞』2007.11)

 神奈川県教育委員会が国歌斉唱時に起立しなかった教員名を校長に報告させていたことについて、同県個人情報保護審査会は「思想・信条に関する個人情報の収集に当たる」として、報告を中止させるよう答申した。教育現場の実情を無視した答申である。

 学習指導要領は「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定めている。また、平成11年に成立した国旗国歌法は「国旗は、日章旗(日の丸)とする。国歌は、君が代とする」と規定している。国歌斉唱時に起立して歌うのは国際常識である。

 県教委が国旗・国歌の適切な指導を行うためには、これらの法令を順守しなかった教員名を当然、把握しておかねばならない。教員の人事異動や学校評価のためにも、不適格な教員名の報告が必要になろう。

 だが、審査会は「起立しない理由の多くは過去に日の丸・君が代が果たしてきた役割に対する否定的評価に基づく」「不起立は一定の思想信条に基づく行為と推定できる」として、保護されるべき個人情報に当たるとした。

 この考え方は、教育現場では通用しない。個々の教員がどんな思想・信条を持っていたとしても、学校では、児童生徒に国旗・国歌の適切な指導を行う義務を負っている。それが公教育というものだ。

 審査会の答申について、梶田叡一・兵庫教育大学長も「教員に思想信条の自由はあるが、公教育では国旗国歌の尊重が求められている。行政が法令順守を確認するのは当然で、個人情報保護とは別問題だ」と言っている。これが学校現場での正しい考え方だ。

 国旗と国歌には、それぞれの国の歴史が込められている。日の丸は江戸時代から外国船と間違われないための船印として使われ、君が代は和漢朗詠集などの歌から作詞された由来を持っている。日本の子供たちが将来、国際社会で活躍するには、自国の国旗・国歌に誇りを持ち、外国の国旗・国歌にも敬意を払う心を養うことが大事だ。

 教育委員会や校長らは今回の答申に左右されず、問題教員の実態を正確に把握したうえで、毅然(きぜん)とした国旗・国歌の指導を続けるべきである。

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中教審授業時間増了承によせて

 中教審の学習指導要領改定案が教育課程部会で大筋で了承されたという。

 その基本的な内容は、小中学校で、理科・数学・外国語(英語)の授業が、33%~16%増え、現行学習指導要領以前の水準に戻るというのである。これらの授業数増に対して、総合学習の時間、そして、中学での選択科目の廃止で対応するという。
 
 この改定学習指導要領は、来年にも文科省告示する予定だという。その後、数年かけて、教科書等の準備をした上で、施行するという。
 
 この中教審案に対して、『産経』社説は、まだ反省が足りないと批判している。『産経』は、現行学習指導要領の「ゆとり教育」によって、学力が低下してきたと主張し、路線転換を強く要求してきた。
 
 社説は、「ゆとり教育の弊害は大きい。「自分で課題を見つけ考える力」が過度に重視され、基礎基本をおろそかにするような風潮を生んだ」と言う。先の全国学力テストでは、読み書き、計算力などは比較的高い水準にあることが明らかになった。国際比較では、北欧諸国では、授業時間数が比較的短いが、学力が高いというデータがある。もちろん、暗記を中心とする基礎学力については、暗記時間数に比例して、暗記量としての知識量が増えるということは一般傾向としては言えよう。ただし、記憶のメカニズムというのも、それほど単純ではなく、データを入力すれば、そのままデータ量が増大していくコンピューターの記憶装置とは違う。

 『産経』は、「読み書き、計算力などがしっかり身に付いていなければ、その先を考える力の育成は望めない。全国学力テストの結果をみてもゆとり教育が目指した思考力、応用力はついていない」と述べている。だが、これまで、『産経』が「ゆとり教育」を批判してきたのは、それによって、読み書き、計算力が低下してきたということであった。沖縄の住民集団自決検定削除問題で、これに抗議する沖縄での県民集会の数の正確さにあれほどこだわった『産経』が、こと「ゆとり教育」による基礎学力の低下という自らの主張の正確性を証明することもなく、「全国学力テストの結果をみてもゆとり教育が目指した思考力、応用力はついていない」とこっそりと従来の主張を変更しているのだからあきれる。

 全国学力テストの結果は、読み書き、計算力は、しっかりと身に付いていることを示した。授業数を増やせば、思考力、応用力が身に付くのかどうかについて、『産経』は示していない。
 
 思考力は、最近の心理学では、社会性と強い関連があることが明らかになりつつある。人は、外から受ける外傷に対する防衛策として、思考を弱めたり、思考機能を破壊することで、自己防衛をはかる場合がある。社会的敵対性の強まりに対する防衛反応として思考機能を破壊する場合があるというのである。考えないことによって、自己の安全をはかるわけだが、それは、今度は、外への攻撃性として現れるようになるという。思考は、人の生と深く結びついている機能でもあるということだ。
 
 『産経』は、「読み書き・そろばん」の延長に、思考力・応用力を据えている。それは浅薄な思考力観である。考えることは、「読み書き・そろばん」の延長ではなく、社会的機能なのである。だからこそ、破壊されうるのである。

 スピノザ『エチカ』第3部定理11「すべての我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、あるいは阻害する」

 次に、道徳教育についての批判である。『産経』は、「小、中学校で週1時間ある「道徳の時間」は、他の教科などに流用されがちで、教師の指導力にも左右されるなど形骸(けいがい)化が指摘されている。充実策模索への動きも緩慢だ」という。
 
 道徳は、たんなる概念知識ではなく、行為を含む意志の領域の問題である。たんに、「汝殺すなかれ」という知識を持っているだけでは、道徳は無力である。それは、行為を規制し、実際に、その格率を実行できなければならない実践知である。
 
 スピノザ『エチカ』第3部定理7「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない」
 
 同第4部定理21「何人も、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない」
 
 同定理22「いかなる徳もこれ(自己保存の努力)よりさきに考えることができない」
 
 「生きること」は、道徳の前提であり、道徳以前の必要事であり、基礎である。スピノザによれば、「精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである」(第4部定理28)。ここで彼が神と言っているのは、多くの属性を持つ実体のことであり、あらゆる物・社会を含むものである。社会は、人間の物的であると同時に精神的な属性を持つ実体であり、スピノザの言う神とは、社会(あるいは彼の言葉では共同社会)のことと考えられる。そのことは、同定理35「人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する」ということを、社会契約説で説明し、「人間は人間にとって神である」「人間は社交的動物である」というテーゼへの一般の支持の増大という経験的事実から説明していることからもうかかがえる。また、「人間の共同社会からは損害よりもはるかに多くの利益が生ずるような事情になっている」と述べていることからもそれがうかがえる。
 
 ところが、スピノザの時代から300年以上の時がすぎた現在でもまだ、「生きさせろ」という道徳以前のレベルの要求を掲げざるを得ない人々が存在しているのである。
 
 新自由主義的な自己責任という道徳以前的なレベルへの後退が、道徳のごとく叫ばれている。競争至上主義は、その支持者をも破壊する競争の力を物神的に信奉するものであるが、先日のテレビ朝日系『TVタックル』で、日能研幹部が、「競争は進歩のために必要だ」と言って、競争の「いい面」(マルクス『哲学の貧困』が引用するプルードンの言葉)だけを一面的に取り上げ、その「悪い面」を無視することで、塾産業の利益を代表するように、道徳が欺瞞に変えられている。
 
 マルクスは、『哲学の貧困』で、プルードンの競争の「いい面」と「悪い面」への分類表を示して、競争の「悪い面」に「いい面」があり、その逆もあるということを指摘しつつ、「社会主義者たちは、現在の社会が競争に立脚していることを百も承知している。いかにして彼らは、彼ら自身も転覆しようと思っている現在の社会を競争が転覆するからといってそれを非難しうるのだろうか? また、いかにして彼らは、きたるべき社会の―そこではあべこべに競争が転覆されると彼らの考えている社会―を競争が転覆するといってそれを非難しうるのであろうか?」と述べて、競争が競争の反対物である独占を生み、それがまた新たな競争を生むということを明らかにしている。
 
 塾産業は、最初は、学校教育の補完物として始まったが、それはやがて巨大化し、独占化して、独占間の競争が激化している。そしてついには、学校との競争にも乗り出すようになり、それをも教育産業の中に組み入れようとしている。「ゆとり教育」が、塾産業に新たな需要を生みだしてくれたが、それが中教審によって、たたれようとしている。中教審では、塾不要論を主張する委員もいるようである。そこで、先の日能研幹部は、今度は親学に基づく家庭教育の指導事業に参入するようなことを語った。そこに新たな教育産業の需要が生まれそうだからである。英会話学校の大手に急成長し破綻したノヴァは、ネイティブの英会話講師を学校に派遣していたが、教育予算が厳しく制約されるようになっている公立学校が、こうした教育産業を利用するようになっているのである。ノヴァのケースでは、一代で最大手にまでした猿橋社長は、本社ビルに隠し部屋を作って、サウナなどを楽しんでいたようである。個人的蓄財も相当なものであったようで、フランス留学の経験も持つエリート社長の最後は、醜くく、不道徳なものである。これは、学力と道徳の間に、比例的な関係がないことを示す典型のような事例である。
 
 『産経』は、最後に、「中教審は報告の中で知、徳、体のそれぞれの充実を掲げている。公教育の信頼回復につながる具体策を責任を持って議論してほしい」という要望を掲げている。「知」の充実と「徳」の充実と「体」の充実の間に、有意義な関係性・社会性をつけられなければ、それぞれの単独での充実は、一方が他方を裏切る形で、混迷を深めるだけだろう。たまらないのは、こうした実現困難な形で上から押しつけられる教育方針に右往左往させられて、混乱させられる現場である。他方で、中教審は、「ゆとり教育」の理念はそのまま継続するという。こういう点を、『産経』は、反省が中途半端だと批判し、全面的に清算すべきだという。中教審の理念は正しいが、その実現方法でまちがっただけだという反省では、なぜ、授業時間数を再度元に戻すのかがわかりにくいのは確かだ。中教審は、学力主義を叫ぶ『産経』などの主張と詰め込み教育の反省という80年代の臨教審の路線との間で、折衷的な態度を取っているのであり、このような動揺は、現場を混乱させることだろう。
 
 全国学力テストで県別成績が高かった秋田県は、30人学級と放課後の補習授業の組み合わせで、学力向上をはかったらしい。前に書いたように、少数の飛び抜けた成績優秀者を作るよりも、下の多数者を少しでも引き上げ、底上げした方が、全体の成績は上がるということだ。そして社会的連帯感を養った方が、道徳を向上させる。共同生活の喜びの感情が、道徳を支えるからである。道徳の授業が、それを与えられるならいいが、教える教師自身が、その喜びの感情をあまり持っていなければ、道徳教育は難しい。『産経』には、そういう喜びを語る社説が少ない。それで、どうして道徳教育の教科化を主張するのかがわからないし、ただ説教と強制に隷従する態度を道徳と呼んでいるとすれば、そんな道徳観は、中世的なものであり、自由と主体性の名において、旧道徳を転覆した歴史的進歩を台無しにするものだ。そして、道徳と考える力を切り離したら、道徳のさらなる進歩という課題に背を向けることになる。

 理、数、外国語が大幅増 学習指導要領の中教審部会案(『朝日新聞』2007年10月30日)

 学習指導要領の改訂を検討してきた中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の教育課程部会は30日、標準授業時間の案を大筋で了承した。小中学校では理科、算数・数学、外国語(英語)の授業が33~16%増え、02年度に完全実施された現行の指導要領以前の水準に戻ることになる。この日は、これまでの一連の審議を「審議のまとめ」として了承し、実質審議は終了した。今後の手続きが順調に進めば、11年春から実施される。

 小中の一部教科で授業時間を増やす方向性はすでに部会で了承されており、この日は、教科別の具体的な時間を中心に審議した。

 了承された案で増加率が最も高いのは、中学の理科と外国語で各33%。中学の数学22%、社会19%、保健体育17%と続く。この結果、中学理科が89年に改訂された現行より一つ前の指導要領を上回るのをはじめ、外国語は89年改訂時以上、算数・数学は同じになる。

 学校週5日制は維持するため、総授業時間は、小学校5.2%増、中学校3.6%増にとどまる。「総合的な学習の時間」(総合学習)を減らし、中学の選択教科を原則なくして、増やした教科の時間を確保する結果となった。

 一方、「審議のまとめ」は、言語力と体験活動の重要性を打ち出す内容。各教科で、実験や観察を重視し、記述や論述を含めた学習を多用する方針だ。

 次回会合で「審議のまとめ」が正式に了承されれば、中教審は意見募集を経て答申。文科相が08年春に改訂指導要領を告示する。教科書の執筆、検定などに3~4年の時間をかけたうえ、施行される。

   【主張】ゆとり教育 まだ反省が足りぬ中教審(『産経新聞』2007.10.31)

 次期学習指導要領の原案となる中間報告を中央教育審議会の部会がまとめた。「ゆとり教育」の失敗に初めて言及しており、その点では一定の評価ができよう。

 中教審は報告のなかで、「指導要領の理念を実現するための具体的な手だてが十分でなかった」として5つの課題をあげた。

 「『生きる力』について十分な共通理解がなかった」「子供の自主性を尊重するあまり、教師が指導を躊躇(ちゅうちょ)する状況があった」などである。中教審、文部科学省が、自ら積極推進してきたゆとり教育の反省を述べるのは極めて異例だが、問題は責任の所在が不明確なままであることだ。

 現行の指導要領では、毎週土日休みの学校5日制で減る授業時間以上に学習量を減らした。昭和50年代のピーク時より学習量は半減している。

 ゆとり教育の弊害は大きい。「自分で課題を見つけ考える力」が過度に重視され、基礎基本をおろそかにするような風潮を生んだ。

 読み書き、計算力などがしっかり身に付いていなければ、その先を考える力の育成は望めない。全国学力テストの結果をみてもゆとり教育が目指した思考力、応用力はついていない。

   ゆとり教育の象徴だった「総合的な学習の時間」は次期指導要領では削減され、小学校低学年を中心に国語、算数・数学など主要教科の充実を図る。計算力、言語力などの重視を改めて明記したことは危機感の表れだ。

 「生きる力」については、概念があいまいだとの指摘も多い。中教審、文科省は施策の誤りを率直に認め、学力の向上策を練るべきであろう。

 道徳教育については充実方針を盛り込んだものの、政府の教育再生会議が提言した「徳育」の教科化について両論併記としており、実現に消極的だ。渡海紀三朗文科相もこれまでの会見などで教科化に積極姿勢がみえない。

 小、中学校で週1時間ある「道徳の時間」は、他の教科などに流用されがちで、教師の指導力にも左右されるなど形骸(けいがい)化が指摘されている。充実策模索への動きも緩慢だ。

 中教審は報告の中で知、徳、体のそれぞれの充実を掲げている。公教育の信頼回復につながる具体策を責任を持って議論してほしい。

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全国学力テストなどについて

 48年ぶりの全国学力テストの結果が公表された。
 
 それからわずかの日にちしかたっていないが、中央教育審議会が、「ゆとり教育」で授業時間を減らしすぎたなどの反省点を列挙した上で、学習指導要領の改定を検討していることが明らかになった。
 
 全国学力テストの結果は、知識面での学力レベルが比較的高い水準にあることを明らかにした。皮肉にも、「「ゆとり教育」が目指した問題解決型の応用問題が苦手な傾向も変わらない」という結果が出て、「ゆとり教育」施策が、効果を発揮しなかったということが明らかになった。思考力や表現力といった学力と、他人を思いやる心などの「生きる力」が育っていなかったのである。
 
 知識力の方は、授業時間が減少したにも関わらず高い水準を維持したわけである。それには、塾などの影響もあるのかもしれない。

 『読売』社説は、「全国学力テストの結果は、子どもの学力の一面を示すものに過ぎない」としつつ「適度な競争は子どもの学習意欲を高め、学力向上を後押しする」、『産経』社説は、「競争封ぜず学力の向上を」と競争を促進することでの学力向上を主張している。しかし、競争が学力を向上させるという確たる証拠はあげていない。授業時間数の増減と知識学力の増減も一致していないようだ。
 
 『毎日新聞』の以下の記事からは、学力向上の鍵は、競争ではなく、人間関係にあるということが伺える。
 
 それに対して、『産経』社説は、意味のよく分からない説教をするだけだ。「教育界には相変わらず競争や評価を嫌う体質がある。今回の学力テスト実施前にも一部教職員組合が妨害するような動きがあったのにはあきれる」という。なんのための競争・評価かがわからない。競争のための競争、評価のための評価なのかと思わざるをえない。「全国レベルと比べ地域や学校がどの位置にいるかが分かる全国一斉テストの利点を生かし、学力向上策を競ってほしい。成績の良い学校や教委の取り組みも参考になるはずだ」というが、学力は、知識面はすでに全体としては十分高いが、地域差など格差があるということが明らかになった。総合学習の導入にもかかわらず、考える力、生きる力、などの学力が弱いことも明らかになった。
 
 競争や評価は、子どもや親や社会の福利や幸福と何の関係があるのか、それがわからないと学習意欲もわかないし、学力向上の動機も得られない。ただ、競争しろとけしかけられても、意欲がわくわけがない。幸福の絶頂と思われたライブドアの東大卒の競争の勝者ホリエモンは、今本当に幸福だろうか? 東北大出で官僚のトップである防衛庁事務次官までのぼりつめた守屋元次官は、軍需企業のゴルフなどの接待を受け、今、国会での証人喚問を受けようとしている。彼は、競争の勝者であるが、それで今幸福だろうか? 人間が腐っても、競争で勝てれば、幸福だと言えるのか? 
 
 「自由進度学習」を導入して、2年後には、子ども達の「楽しさの実感」「自信の実感」「達成の実感」が向上したという愛知県の石浜西小学校の試みは、全国学力テストによる競争と評価の前から行われていることだ。
 
 最後の、「藤井千春・早稲田大教授(49)は「家庭だけに原因を求めるのは危険。人との関係性やモチベーションを作る子ども集団や地域が失われたことも大きい」と説明する。やる気をどう呼び起こすのか。藤井教授は「学力の高い学級では子ども同士の温かい人間関係があり、遠慮なく質問したり、まねしたりする。肝心なのは、子どもを泳がせたり遊ばせたりする教師の指導力と人間性です」と強調する」ということは、競争が破壊し、破壊しようとしているものである。このことを『産経』『読売』は、どう受け止めるのか? 
 
 『産経』『読売』は、考える力がのびていないことにほっとしているのではないだろうか? かれらの書くことを徹底的にあらゆる角度から考える人が大勢出てきたら、こんな社説は、考える力の強い読者から見放され、低い評価しか得られなくなるかもしれないと空想してしまう。
 
 『産経』社説は、最後に「教師が独り善がりの授業をしていないか、家庭でしっかり勉強しているか、今回の結果を率直に受け止め学力向上につなげたい」と主張する。『産経』は、教育というと、教師個人の責任、そして家庭教育での親の責任という具合に、個人に責任を負わせる個人主義的な見方から抜け出ることができない。そして、そこから社会を飛ばして、国家のレベルに飛躍する非現実的な観念主義に陥っている。個と全体(国家)の二つのレベルしかなく、地域・家庭を、国家の道具に変えようとする。
 
 しかし、問題が、関係性にあり、コミュニケーションのレベルにあることは、『毎日新聞』記事からわかる。問題は、個人道徳というレベルでは解決しないということだ。中教審が、道徳教育を提唱しているのは、道徳知識量の増大でしかなく、それは道徳感情と道徳的行為の増大には必ずしもつながらないのである。道徳は、意欲・意志との関係で形成されるもので、社会性と関係している。だから、『産経』のように、そのレベルを無視し、すっ飛ばしてしまえば、個人の道徳心の評価、言い換えれば、説教に終わるだけになる。そして、集団性においてある教育現場の実践や地域・家庭教育実践に対して、企業が不良品を取り除くように、悪い個人を排除し、良い個人だけを残すという形でしか問題解決を考えられず、実際そういうことを主張してきたように、エリート主義になっている。
 
 良い者・優秀な者ばかりで組織される集団の形成というエリート主義的な夢は、実際には、悪夢になる。学力テストの例で言えば、100人のテスト結果で、100点満点を取る者が1人で、他の99人が0点だったら、平均点は、1点であるが、同じ条件で、全員が2点だったら、平均点は2点である。総得点では、前者が100点で、後者は、200点である。前者の100点の1人は、孤立感などの疎外感に悩み、不幸を感じるかもしれない。残りの99人は、ある意味で仲間が多かったことで、連帯感を感じ、劣等感に悩むことがないかもしれない。
 
 集団の総合力と集団性格と個人の力と性格・能力は異なり、質的にも異なるものである。集団の力は、個人の力の単純な総和ではなく、その集団の性格・内容によるものである。個人評価の和では集団の評価はできないということだ。
 
 例えば、映画『釣りバカ日誌』シリーズの主人公ハマちゃんは、不良で個人評価の低いダメ社員だが、会社内では、円滑な人間関係を形成する柱であり、会社を超えた釣りという趣味を通した人脈のネットワークを持っていて、それが時に、仕事上も役に立っている。このような行為や人物を評価するには、個人主義やそれと結びついた能力主義を評価基準とすることでは不可能で、集団性格・集団力など集団を評価する基準を必要とする。
 
 それをどう育てるかということについて、『産経』にはまったく現実と合わない発想しかなく、それで、教育を云々することは非現実的である。中教審にもそんな発想というか哲学がないように見える。そんな状態で、全国学力テストだの授業時間の再増加などをしたところで、どうにもならないのではないだろうか?

 新教育の森:学力再考/3 「意欲」指導、悩む公立校(『毎日新聞』10月28日)

 子ども自身が学習計画を立て、助け合いながら勧める愛知県東浦町の石浜西小学校の「自由進度学習」の授業 「ふたを開けてみないと、何人児童が来るかわからないんです」。教師がやや不安そうな表情をしていると、児童たちが集まってきた。黒板の前のエナメル線や方位磁石を手にとり、電磁石作りを始める。理科の授業がにぎやかに始まった。 

 愛知県東浦町立石浜西小の「自由進度学習」と呼ばれる授業で、子ども自身が学習計画を立て、自分のペースで学ぶ。3~6年生で週1~2時間、年間約40時間あり、算数と理科、理科と体育といった同時に進める2教科の授業のうち、好きな方を選んで学ぶ。5年生の小田淑申(よしのぶ)さんは「自由にできてウキウキする。体育も自分で練習法を決められるし、理科も自分で調べている感じがする」と話す。

 石浜西小では、約280人の児童全員が、隣接する県営住宅から通う。うち3割は、保護者が自動車関連の工場などで働く日系ブラジル人などの外国籍だ。経済的に苦しく就学援助などを受ける児童も約20%いる。

 この授業を始めたのは2年前。4年前、赴任した当時の竹内学教諭(28)は宿題をせず、列も作れない児童に途方にくれ、悩んだ。そんな子どもたちが、目に見えて変わった。昨年、児童を対象に意識調査をしたところ勉強の「楽しさの実感」「自信の実感」「達成の実感」のいずれもが向上した。竹内教諭は「できることを用意すれば、子どもはやる」。主に授業内容を企画する竹内淑子教諭(48)は「じっとしているのが苦手で一斉授業では手を焼く子ほど活躍したり。子どもを見る目が変わりました」と話す。

 小山儀秋校長(58)は「他地域と比べうちの子たちの学力は低かった。以前は教員も『努力しても無駄』との雰囲気があったが、児童に意欲が感じられるようになった」と振り返る。
 
 学力が低く、意欲のない子どもの存在は二つの調査からうかがえる。経済協力開発機構(OECD)の03年学習到達度調査(PISA)の読解力問題で、00年に2・7%だった日本の成績最低レベルの層が7・4%に増えた。日米中韓の高校生調査(日本青少年研究所)で「収入があればのんびり暮らしたい」と答えた日本人は42・9%、「がんばっても報われるとはいえない」は26・5%でいずれも最多だった。

 学級崩壊や学力問題に取り組む「プロ教師の会」メンバーで、神奈川県厚木市の小学校に勤める北村則行教諭(58)は「意欲の乏しい子は90年代から目立ち始めた。居残って宿題をするよう指導してもいなくなってしまう。目的を持ち楽しく勉強している子は充実した学びをしており、差は厳然」と話す。「学ぶ子」と「学ばない子」の二極化が進む。成育環境や経済力に恵まれない子を抱える公立校の悩みは深い。

 藤井千春・早稲田大教授(49)は「家庭だけに原因を求めるのは危険。人との関係性やモチベーションを作る子ども集団や地域が失われたことも大きい」と説明する。やる気をどう呼び起こすのか。藤井教授は「学力の高い学級では子ども同士の温かい人間関係があり、遠慮なく質問したり、まねしたりする。肝心なのは、子どもを泳がせたり遊ばせたりする教師の指導力と人間性です」と強調する。=つづく
 
 「授業減らしすぎた」中教審が異例の反省(10月28日『読売新聞』)

 次の学習指導要領を審議している中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が、近く公表する中間報告「審議のまとめ」の中で、現行の指導要領による「ゆとり教育」が行き詰まった原因を分析し、「授業時間を減らしすぎた」などと反省点を列挙することがわかった。

 中教審はすでに、小中学校での授業時間増など「脱ゆとり」の方針を決めているが、反省の姿勢を明確に打ち出すのは初めて。中教審が自己批判するのは極めて異例だが、反省点を具体的に示さなければ、方針転換の理由が学校現場に伝わらないと判断した。

 中教審は1996年、それまでの詰め込み教育への反省から、思考力や表現力といった学力と、他人を思いやる心などを「生きる力」として提唱。現行の学習指導要領は、この「生きる力」の育成を教育目標に掲げ、小中とも授業内容を3割削ったり、総授業時間数を1割近く減らしたりしたほか、教科を横断した学習で思考力などを身につける「総合学習の時間」の創設を盛り込んだ。しかし、指導要領が実施されると、授業時間の減少により、「基礎学力が低下した」「子供の学習意欲の個人差が広がった」といった批判が相次いだ。

 全国学力テスト “宝の持ち腐れ”にしてはならない(10月25日付・読売社説)

 子どもたちの学力や学習環境に関する膨大なデータが得られた。これをどう教育の改善と学力向上につなげるか。徹底した分析と、その有効活用が今後の課題となる。

 4月の全国学力テストには小学6年と中学3年の222万人が参加した。出題は国語と算数(数学)で、それぞれ知識を問うA問題と、知識の活用力をみるB問題の2種類だった。

 知識の問題には、ほぼ合格点がついた。中学数学だけが平均正答率7割台だったが、他の小学国語、算数、中学国語はいずれも8割を超えた。

 一方、活用問題では、正答率7割台は中学国語のみで他は6割台前半と振るわなかった。国語の「正しく読み取る」「考えをまとめる」、数学の「考えの過程を明確にし説明する」力が弱かった。

 読解力や表現力など、知識応用の力に問題があることは、3年前の国際学力調査などでも指摘されていた。それが今回のテストで再確認された。現在、作業中の学習指導要領改定に反映させる必要がある。各学校でも、授業や指導法の見直し・改善を検討してほしい。

 学校ごとの成績状況は、保護者や教員が最も注目していた点だろう。小、中学校とも、全国平均との標準偏差では大きなばらつきはなかった。だが、全体の1割近くの学校が、B問題を中心に正答率が5割に満たないという実態もある。そうした学校のレベルアップのため、早急な支援が必要になろう。

 子どもの学習環境や生活習慣と、学力の関連性についても分析した。毎日、本を読む子は国語の正答率が良かった。家できちんと宿題する子、朝食をしっかりとる子も正答率は高い。各家庭で子どもの生活環境を改善することが大事だ。

 懸念されるのは、「競争の激化」「学校の序列化」の批判を恐れるあまり、多くの自治体が過剰なほど結果公表に慎重になっていることだ。

 このため、自校の平均正答率などを全国や都道府県単位のデータと比べるのがせいぜいで、自校のある市区町村や、県内他地域のデータなどとの違いは検証できない学校も出てくる。これでは全国津々浦々きめ細かい調査をした意味が薄れないか。保護者の関心も強いだろう。

 全国学力テストの結果は、子どもの学力の一面を示すものに過ぎない。そう関係者も理解して臨んでいるから、43年前まで実施されていた学力テストのような、試験対策での過熱もなかった。

 適度な競争は子どもの学習意欲を高め、学力向上を後押しする。テスト結果を、宝の持ち腐れにしてはならない。

  【主張】全国学力テスト 競争封ぜず学力の向上を(『産経新聞』2007.10.25)

 小学6年と中学3年約225万人が参加した43年ぶりの全国学力テストの結果が公表された。地域や学校間の差から目をそらさず、これを指導改善に生かしてほしい。

 都道府県別のデータをみると、差が意外に大きい。正答率を100点満点で換算すると、小6の国語で上位の秋田と下位の沖縄では基礎問題(A問題)で9点の差、応用問題(B問題)では16点の差がある。中3の数学では基礎、応用とも上位の福井と下位の沖縄で約20点の開きだ。

 なぜ学力の差がでるのか。例えば沖縄では、今回同時に行われた学習時間や生活習慣などの意識調査で、宿題を出す学校が少なく家庭学習の時間が少ない傾向があった。

 一方で成績がよかった秋田では、夏休みの補習などを行っている学校が多く、地道な学力向上策が効果をあげているともいえる。

 もちろん学力差の要因はこれだけではない。教師の指導法や学習環境、学校教育以外の地域状況などさまざまだろう。各市町村や学校にはそれぞれの成績データが送られており、各教委は学力の実態を把握、分析し、課題を明らかにしてほしい。

 今回は、昭和30年代の学力テストで自治体間や学校間の競争が過熱した反省から、文部科学省は市町村別や学校別のランキングは公表せず、都道府県のデータ公表にとどめた。

 教育界には相変わらず競争や評価を嫌う体質がある。今回の学力テスト実施前にも一部教職員組合が妨害するような動きがあったのにはあきれる。

 全国レベルと比べ地域や学校がどの位置にいるかが分かる全国一斉テストの利点を生かし、学力向上策を競ってほしい。成績の良い学校や教委の取り組みも参考になるはずだ。

 学力低下が懸念される中、今回は改善もみられる。平均だけみると基礎問題の結果は8割の出来だ。しかし三角形の内角の和(180度)のように相変わらず苦手な問題もある。

 さらに「ゆとり教育」が目指した問題解決型の応用問題が苦手な傾向も変わらない。

 教師が独り善がりの授業をしていないか、家庭でしっかり勉強しているか、今回の結果を率直に受け止め学力向上につなげたい。

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教育分野での安部カラーの清算のはじまり

 安部総理辞任の影響が、早くも表われたのが、以下の『毎日新聞』の記事である。

 別の記事では、中教審だけではなく、文科省も、道徳の教科化を断念したとある。
 
 ただし、下の記事ではある中教審委員は、「「教科化にこだわった議論ではなく、子どもたちの道徳心を高めるための実質的な論議をしたい」と説明しており、小学校での自然体験や中学校での職業体験のほか、高校での奉仕活動なども論議される見通しだ」というように、道徳教育強化を中教審があきらめたというわけではない。もっとも、道徳論議は、中教審その他で何度も蒸し返されている定番の教育テーマと言ってもいいもので、また議論が延々と続くのか、という感じである。
 
 こういうところの道徳論議は、つまらないものであることが多い。
 
 安部政権が倒れるずっと前から、安部政権誕生を歓迎した右派・保守派の凋落が続いていているが、安部総理の退陣で、それは加速するだろう。
 
 安部政権に強い期待を寄せていた岡崎久彦元タイ大使、櫻井よしこ、屋山太郎の三氏が、同日の夕刊で、安部政権の総括と保守派のこれからについて語ったインタビュー記事がある。岡崎氏は、「特に教育は、思想が保守かどうかに一番影響を与える問題です。教育再生会議はあとは事務的にやればよく、教育はもう大丈夫だと思います」と述べたその日に、教育再生会議の道徳教科化が文科省と中教審で息の根を止められてしまった。彼は、安部退陣は、健康問題だと言うが、それが主な原因ではなく、日米首脳会談で、アメリカに約束した対テロ特措法が期限内に成立させることが難かしくなったのが一番の原因である。アメリカが強く日本に望む政策が実現できない時、日本の首相の首が飛ぶのである。自発性を装いながらではあるが。鈴木政権の時もそうだった。小沢党首にこの問題での党首会談をけられたためだというのは、けっこう正直な発言だったのではないだろうか。
 
 岡崎氏は、福田政権ができれば、「反動の時代」が来るから、保守派はそれに備えなければならないと言っている。
 
 櫻井氏は、福田政権が誕生すれば、自民党は終わるだろうと言っている。小選挙区制度の下の二大政党制だから、一党内で、政権交代のように政策がころっと変わることは、昔の中選挙区制の下の自民党政権時代のようにはいかないというのである。彼女の考えからすれば、政策を大きく変えるなら、解散総選挙で、民意を問うという手続きが必要だということになろう。そうしないで、昔の自民党みたいに内部で事実上の政権交代のようなまねをすれば、古い自民党になって、自民党は終わるというのである。

 屋山太郎氏の場合は、問題外である。言いたくないが、耄碌しているとしか言いようがない。彼は、「(安倍辞任で)ショックなんてないね。安倍さんが、官僚の天下りを根絶したいって言うんで賛成しただけだ」というのだが、自身が大幹部の座についている「教育再生機構」で、氏自身がなんと言っているかを忘れてしまっているらしい。
 
 そして、彼が、安部政権の教育基本法改正や改憲のための国民投票法を支持したのは、「ただ、(自分たちが)訴えたかったのはモラルの回復なんだ。日本人のモラルは恥の文化から来ている。それが日本のモノづくりの基礎になった。恥の文化のもとは名誉で、そのもとは武士道。それが廃れたから、今は子殺し、親殺しとめちゃくちゃじゃないか。恥の文化をもっと知らせなきゃならないんだ。いずれにしても、大砲は放たれた。あとはそれがどこに着弾するか。それを待つだけだよ」とのたまう。
 
 自分が恥知らずのくせに、恥の文化を取りもどしたいというのだからあきれる。武士道なら、潔さや忠義や勇気などだろう。結局、彼の道徳の基本は、モノづくりのための道徳、つまりは勤労道徳だ。彼は、いいモノをつくりたいというのは名誉という道徳によるものだと言いたいのである。そして、池田政権の所得倍増計画のような物的刺激策を戦後レジュームの悪として、否定したいのだろう。名誉という精神的価値を求めて勤労する道徳的人間が、彼の理想なのだろう。彼自身は、名誉よりも、テレビで、つまらないだじゃれをとばして、受けを狙う人物で、別に武士らしくもないし、名誉を特に重んじているようには見えない。
 
 「お坊ちゃま」安部総理は、生活の心配もないから、ただ彼の「美しい国」なる空想の実現だけを純粋に追求していくことができたわけである。しかし、日々の生活の中で、自己の幸福を物的・精神的に追求している多数の人々は、それに対する反感を募らせていった。それは当然のことだ。それに気づきもしないというのは、安部「お坊ちゃま」の鈍感力がかなり強かったということである。
 
 屋山太郎氏は、あれほど、安部を持ち上げ担ぎ上げ、教育再生機構だって、安部政権にすり寄っていったくせに、安部政権が泥船となるや沈みかかった船から、さっさと逃げを打って、「安倍さんが、官僚の天下りを根絶したいって言うんで賛成しただけだ」とは、恐れ入谷の鬼子母神だ。これを恥知らずと言わずして、何を恥知らずと言うのだろう。
 
 屋山太郎氏は、櫻井氏と違って、小選挙区制下の二大政党制という新しい政治状況をまったく度外視しているか、理解していないのかもしれない。政権交代すれば、せっかく撃った長距離砲も、着弾する前に、迎撃されて、別な長距離砲が撃たれるかもしれないということだ。参院民主党のトップの興石氏はじめ日教組出身議員が何人も参院選で当選しているし、参院議長は、元社民連の江田五月議員である。次の衆議院選挙で、民主党政権ができたら、自公が強行採決した教育基本法をそのままにしておくだろうか? 強行採決には、民主党の諸法案の強行採決で、お返しするのではないだろうか? それが、小選挙区制下の二大政党制による政権交代のある国会の政治というものではないか。
 
  「教育再生機構」八木一派と分かれた「新しい歴史教科書をつくる会」藤岡一派の方は大変な状況になっているようだ。その様子を、時々、コメントを寄せていただく知足さんのブログの記事から、一部引用してみる。「つくる会」10回総会があったばかりである。
 
  「「つくる会」この一年で正会員が3割弱減る/委任状提出の減少が際立つ/過激なヤジが多くの出席者から出る」
  「「つくる会」副会長福地惇殿 不遜な態度を改めて下さい」
  「激しい怒号が飛び交い、議長も立ち往生」
 「「つくる会」のやり方も朝日やNHKと同じ情報操作をしているように思う」
  「共倒れを避けるには「つくる会」による「改善の会」攻撃を抑制するしかない◇そんな状況の教科書を採択するような学校、教育委員会がある筈がない」
 「あれでは「つくる会」を去っていく人があとを立たない/西尾先生の「扶桑社を告訴すべき!」は物笑いになるだけ」
 「あと幕屋ですが、3年前にもさんざんやりまして、結論としては「地方では功罪相半ばだが、中央では明らかに有害」というもので、つくる会にとってはデメリットの方が大きいという認識を持っていました。尤も今ではつくる会の方が弱体化して幕屋の支えなしでは立ち行かないところまで来てしまっていますから、「必要不可欠」です(笑)」
 「「つくる会」の人脈は「南京事件」問題に深く拘った人達に限られて来た」
 
 ざっとこんな具合である。このほとんどは、「つくる会」内部の人の声である。ここで出てくる「幕屋」は、「キリストの幕屋」という新興宗教団体で、一応キリスト教っぽい装いであるが、「靖国」公式参拝推進なども主張する右派宗教団体である。女性信者が、長髪を渦巻きのような形に巻いて耳の上に束ねるという特徴のある髪型をしているので、よく目立つし、すぐにそれとわかる。保守系団体にいくつも加盟していて、集会動員や資金面で、保守派の運動を支えている。

 しかし、ついに、「つくる会」が、わずかな間に、このようなカルト教団がむき出しで支えるという状況にまで落ちてしまうとは。しかも、保守派が期待した安部政権と保守派新興宗教の「霊友会」の石原都知事の首都東京都政という保守派有利な状況の下で、こんなに保守派・右派運動が凋落してしまうとは、本人たちが一番ショックを感じているのではないだろうか。
 
 次は福田政権となるだろうが、そうすると、安部政治に対する「反動」(岡崎久彦)が起きることだろう。「戦後レジュームからの脱却」「美しい国づくり」などの安部路線は、清算されていくだろう。それがすでに以下に示されている。安部総理肝いりで作られた「教育再生会議」が早くも凋落し、力を失ってきているのである。集団的自衛権行使の解禁のための「有識者懇談会」も、実質的に終わりとなるだろう。
 
 中教審の提言が実現されるかどうかは、政治力にかかっており、政治状況が、不安定で混迷した状況が続けば、いくら議論ばかりしても、その提言は政策化できにくいし、実現困難だ。民主党政権ができれば、日教組出身議員が、教育問題を扱う委員会の委員長を占めることもありうるから、日教組系委員の中教審委員への採用なども行わなければならなくなるかもしれない。いずれにしても、これまでのような日教組排除で作られてきた教育行政議論のあり方は、そのままというわけにはいかないだろう。いろいろとこの分野でもこれから変化がありそうである。

  『毎日新聞』(2007年9月18日)

 中教審の専門部会がまとめる検討素案では、道徳教育の充実が明記される。ある中教審委員は「教科化にこだわった議論ではなく、子どもたちの道徳心を高めるための実質的な論議をしたい」と説明しており、小学校での自然体験や中学校での職業体験のほか、高校での奉仕活動なども論議される見通しだ。

 専門部会では、道徳は学校活動の全体で教えていくもので個別の教科として指導することに疑問の声が出ていた。教科化見送りは、安倍晋三首相が辞任を表明し、教育再生会議の影響力低下の可能性が高いことが背景にあるとみられる。【高山純二】

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「新しい歴史教科書をつくる会」と扶桑社が絶縁

 右派で歴史修正主義者の集まる「新しい歴史教科書をつくる会」とフジ・産経グループの出版社の扶桑社との教科書発行問題の話し合いが決裂した。

 「つくる会」は、扶桑社から、歴史・公民の教科書を発行してきたが、採択率が低く、扶桑社側の負担が重くなっていたと思われる。しかも、教科書の記述内容についても、かねてから、扶桑社側に不満があって、その意を受けて動いた八木秀次元会長派と藤岡・西尾派との内紛があり、八木一派が「つくる会」を事実上追い出されるという事態にまでなった。

 「つくる会」を出た八木グループは、新たに日本教育再生機構を設立し、八木氏は、代表に就いた。日本教育再生機構は、与党・政権と融和的で、親米的な保守派が多い。扶桑社も、このグループと手を組む模様である。

 5月30日、「つくる会」も、日本教育再生機構と融和的な動きをしてきた小林正会長を解任し、藤岡信勝副会長が会長に就いた。「つくる会」は、別の出版社を探すという。

 31日の「つくる会」ニュースは、「このような結果となった責任を明らかにし、今後の「つくる会」の運営を円滑にするという趣旨に基づく、小林会長の解任動議が提出されました。慎重に審議した結果、解任動議は可決されましたが、小林会長に辞任の意思があれば辞任による退任を優先することとしました。その後、小林会長に辞任の意思がないことが判明し、会長並びに理事の解任が確定しました」と、またしても、会長を引きずりおろすという内紛による人事変更が繰り返された。

 同ニュースには、「続いて理事会では新会長の選出が議題となり、藤岡信勝副会長が推薦され、反対は無く満場一致で選出されました。また、欠員となった副会長には杉原誠四郎理事が選出されるとともに、新理事として大月短期大学教授の小山常実氏を選出しました。/この結果、新執行部は、藤岡会長と、高池・福地・杉原3副会長の4名体制で構成されることになりました」とある。この4名体制も安泰は続くまい。

 最後に、「なお、今回理事会までに、石井昌浩理事、小川義男理事が辞任されておりますのでお知らせします」とついでのように記されているが、粛清に次ぐ粛清というスターリンばりのやり方が、またも繰り返されたのである。

 31日付「<会長声明>創立の初心に立ちかえり、「つくる会」10年目の挑戦にお力添えを」という声明で、藤岡新会長は、「つくる会は10年前の平成9年(1997年)1月、日本の歴史教科書の現状に危機感を抱いた同憂の士相集い、任意団体として発足しました。近代日本を悪逆非道に描き出す「自虐史観」を克服し、次世代の子どもたちに誇りある日本の歴史の真の姿を伝えようという会の訴えは、たちまち国民的な反響を呼びました」と自画自賛している。これが錯誤であることは、今では、多くの人がわかっている。「同憂の士」たちの本は、売れなくなってしまったのである。

 錯誤の上に、彼は、「こうして10年、つくる会は今、『新しい歴史教科書』というかけがえのない運動の柱を持つに至りました。この教科書は、「階級闘争史観」や「自虐史観」の拘束から自由になり、世界史的視野のなかで日本国と日本人の自画像を品格とバランスをもって活写しています。面白く、通読に耐える唯一の歴史教科書でもあります」と自己陶酔に浸っている。

 彼にとって、「階級闘争史観」や「自虐史観」は自らを拘束するものであり、それから自由になったというのであるが、今度は、「自由主義史観」という別のものに拘束されたということを自覚できない。その拘束からも自由にならなければならないということに気づかないのである。彼の中では、自由主義イデオロギーだけが、自由を真に実現するものなのだろう。このイデオロギーが、「世界史的視野の中で日本国と日本人の自画像を品格とバランスをもって活写する」ことを可能にすることになっている。ところが、現実は、日本人の中に、固定的な格差があり、上層と下層の間では、お互いに同じ「日本人」と言われても、あまりにも違いが大きすぎて、相互理解ができないほどの深い溝が生まれ、それが固まりつつある。地方の住民から見ると、石原東京知事などというのは、ほとんど怪物のようにしか見えないようになってきたのである。

 そんなリアルな現実は、藤岡会長の視野の外にあって、ただ、好き勝手にいいように描いた空想的な自画像を信じろと人々に押しつけているだけなのである。「つくる会」の「新しい歴史教科書」は、100万部売れたというが、右派宗教団体が、一人で何冊も買って、売り上げを水増しし、「つくる会」に反対する人にまで、送りつけていたのである。

 新たな出版社を公募するという。採択率の向上が見込めそうもない教科書の出版を引き受ける奇特な出版社があるかどうかはわからない。運動として、経営的な損得を越えて、公募に応じるところがあるかもしれないが、しかし「桜チャンネル」が、金銭的に行き詰まって、事業縮小を余儀なくされたことを考えると、それも難しいのではないだろうか。

 対する日本教育機構の方は、親米保守派という既存保守の主流で、財界や自民党にも多くいる権力も金もある上層に支持基盤をすえている。こちらは、自民党や教育再生会議への働きかけなどを行っており、政権内部の支持者たちと連携しつつやっていくようだ。したがって、与党文教族・森派の文教利権を解体するのではなく、そこに食い込むつもりなのだろう。文科省役人の天下り、利権、官民癒着は、他の省庁と変わらないのだが、それが問題化しないのは、森派の力によるのではないだろうか? 昨年、「やらせタウンミーティング」問題が発覚した時に、電通との癒着を示すとおぼしき、高額費用の問題が出ていたのだが、経費縮小した途端に、疑惑追及が止んで、そのままうやむやになってしまったが、怪しい話である。教科書会社への文科省からの天下りはどうなっているのか?

 「つくる会」は、既存の教育利権構造から排除されたのではなかろうか。

 つくる会、扶桑社と絶縁/会長解任、別出版社で発行(『四国新聞』2007/05/31)

 「新しい歴史教科書をつくる会」は31日、同会が主導する日本史や公民の教科書を発行している扶桑社(東京)と関係を断絶し、別の出版社から教科書を発行することを明らかにした。

 また30日付で会長の小林正・元参院議員を解任し、副会長の藤岡信勝・拓殖大教授が新会長に就任した。

 つくる会によると、扶桑社が2月「これまでの教科書は採択率が低く、つくる会内部も混乱していることから、新しい会社を立ち上げ、別の内容の教科書を発行する」との意向を伝えてきたという。

 会見した藤岡新会長は「いくつかの出版社に打診し、前向きな感触を得ている。扶桑社も方針を撤回するなら、交渉の用意がある」と話した。

 昨年4月から使用されているつくる会主導の教科書の採択率は歴史が0・4%、公民が0・2%にとどまる一方、同会は、運営方針などをめぐる対立で会長が相次いで辞任するなど“内紛”が表面化していた。

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道徳の教科化問題によせて

 先に、教育再生会議は、道徳を教科に格上げすべきという考えを示したが、それに対して、中央教育審議会の会長である山崎正和氏が、小中学校での道徳教育は不必要だと述べたという。

 その理由を山崎氏は、「道徳教育について、賛否の割れる妊娠中絶の是非などを例示して「『人のものを盗んではならない』くらいは教えられるが、倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」と指摘。「代わりに提案しているのは、順法精神を教えること。『国の取り決め』として教えれば良い」と持論を展開した」という。

 それから、「現在行われている道徳教育の必要性を問われると「現在の道徳教育もいらないと思う。道徳は教科で教えることではなくて、教師が身をもって教えること。親も含めて大人が教えることだ」と述べた」そうである。

 これは、常識的な判断であろう。道徳といっても、時代によって変わるし、今、変わりつつあるものもあるし、さらに、氏が言うように判断が分かれていて、難しい問題もある。そういう道徳について、学校で教え、さらに、その成績評価まで行うのは難しい。それに対して、法律というすでにある規範についてなら、学校で教えられるというのである。法律は、道徳問題抜きに存在する規範であり、知識であるから、数値化して段階評価しやすいからである。

 近年、裁判において、遺族感情への配慮ということが強く言われるようになり、それが量刑判断に影響を与えるようになっていると言われる。それによって、厳罰化が進んでいるというのである。裁判はいつの間にか、遺族が加害者に報復するのを代行する制度でもあるかのような様相になってきている。それを後押ししているのは、世間の人々の被害者遺族への同情の念であり、道徳感情であろう。もちろん、遺族の側からは、加害者は、憎むべき存在であり、法律を犯したばかりではなく、道徳をも踏み破った悪者であり、与えられた被害に見合う罰を与えなければならない存在であり、被害者に代わって、遺族が敵を討ち、報復すべき対象である。「目には目を」という古代メソポタミアの掟こそが、そうした遺族感情に応えるにふさわしいものと考えられるであろう。それは、犯罪によって、社会そのものが傷つけられたと感じる社会的な道徳感情にも適合するものだろう。

 問題は、それが社会的な道徳感情であるということにある。社会的である以上、社会が変われば、道徳も変わり、道徳感情も変わってしまうのである。それは、歴史事実が新資料の発掘などによって変化してしまう歴史でも同じだというのが、山崎氏の意見であり、それは一面では正しいのである。しかしそれは、学校教育にはなじまないということもない。というのは、歴史教育では、新発見などを通じて、歴史が書き直されてきたこと自体が、教育されるからである。道徳教育についても同じことができるかが問題である。

 例えば、記紀には、天津罪と国津罪というものが出てくるが、その中に、畦放ちの罪というのがある。これは、田んぼの畦を壊すことは大罪だというものだが、現代ではそれは器物損壊といった一般的な刑法の対象であるにすぎない。農業社会だから、こういう罪は、極めて重い罪とされていたのである。もちろん、現代でも、米農家なら、畦放ちは、なによりも大罪であるという道徳的感情はあるだろう。

 現代では、遺族感情を重視するという流れが司法あるいは社会的に広がっているのは、殺人罪を最も重大な犯罪で、社会を最も大きく傷つける犯罪と見なす人が多いからであり、そういう道徳感情が広く形成されているからである。人々の多くは、殺人罪には、最高刑が当然と考えており、そうならないのは、例外であると考えている。

 それに対して司法は、これまで、刑罰・監獄制度その他による矯正の可能性を考慮して、死刑判決に、複数の人を殺害した場合などの条件を設けてきた。それは法文化されているものではなく、判例として積み重ねられてきたものである。それと、もう一つは、冤罪の可能性への考慮である。実際、この間、冤罪事件で、無罪になるケースがいくつもあった。鹿児島県警が、選挙違反をでっち上げたケースで無罪判決が出たばかりである。

 道徳論の危うさは、例えば、滋賀県で起きたJR特急内での強姦事件のケースで、マスコミが一斉に、犯罪を見て見ぬ振りをしたとして、乗り合わせた乗客を道徳的に非難するということにも現れた。この事件では、被害女性が泣きながら男にデッキに連れ出されようとしていたのを見ていた乗客に対して、男が「なにをじろじろ見ているんだ」などとすごんだため、乗客が黙ってしまってなにもしなかったということが新聞などで書かれている。 

 まず、この場面の情報源はどこなのかが問題である。これは、その場に居合わせた乗客そのもの証言なのかどうか。事件は、昨年夏頃のことであり、当人が自分から名乗り出ない限り、乗客を特定することはできないだろう。とすれば、それは、犯人か被害者の証言であり、警察の取り調べの過程での証言であろう。するとこの情報は、基本的には警察からのリーク情報であろう。それか、被害者から直接聞いたかである。レイプ事件の場合には、プライバシーが厳重に秘匿されているので、その可能性は低いだろう。

 この事件についての報道が、乗客のモラルを非難することに集中したのに対して、FPNニュースコミュニティーがそれを批判する記事を書いている。(これは、livedoorニュースに転載されている)。

 大勢の目撃者がいながら、目の前で行われた犯罪を止められなかった事件は、過去にもあった。1985年6月18日、豊田商事事件の豊田商事会長の永野一男が、「今日逮捕される」との情報を聞きつけて多数の報道陣がマンションの自宅入り口通路を取り囲む中で、自称右翼2人組に刺殺された事件である。彼らは、報道陣が見ている中で、窓を割って、堂々と室内に侵入し、永野会長を殺害したのであった。目の前で行われた殺人を防げなかったマスコミ・報道陣のあり方は、どうなのか?

 似たような事件として、オウム真理教事件で、村井教団幹部が、右翼を名乗る男に、報道陣が詰めかけていた教団施設前で刺されるという事件があった。ただ、これらの場合は、右翼が犯人であり、宣伝目的で、報道陣がいる目立つ場面を選んで、犯行に及んだという点で、先のケースとは異なるのではあるが。

 先の事件の場合、これを何らかの犯罪事件なのかどうかを判断しにくかったということが考えられる。多くの人々が、その様子を男女関係のもつれかもしれないというふうに見たのかもしれない。はっきりと事態を犯罪だと認識したら、車掌に連絡するなど何らかの行動を取っていたのではないだろうか。それを見て見ぬ振りをしたというのは、これが犯罪であったと知っているので、結果から見て、そう言えるだけである。マスコミ報道では、犯罪の具体的場面について、犯罪かどうかをはっきり示す徴となる記述がないのに、ただ、犯罪を見過ごした卑怯な乗客たちと決めつけて、道徳的に非難しているのである。

 下記記事にあるとおり、この犯罪を許してはならないし、列車内や駅など鉄道関係で怒る犯罪をどうやったら防げるか? 性犯罪を減らすにはどうすべきか? 等々について、考えなければならないのである。特に、JR福知山線脱線事故を引き起こしたJR西日本の安全対策は、どうなのかをしっかりと点検しなければならないのである。このケースでは、車掌への緊急通報ブザーが、連結部にあったという。そんなものがあることを知っている者が何人いるだろう? JRは、発足以来、とにかく、人員合理化を進め、無人駅も多いし、駅員がホームにいない時間帯も多い。新幹線ですら、車掌はたまにしか回ってこない。これらのマスコミの報道は、安全対策を、乗客のモラルの問題に転嫁して、JRの安全対策の不備を隠そうとしているのではないかとさえ思えてしまう。JR福知山線事故から、2年たちながら、JR西日本に対する遺族の不信感は根強く、補償交渉もほとんど進展していないという。安全第一というなら、もっと人を増やすことだ。

 山崎氏ならずとも、道徳を判断するのが難しいことは多くが知っている。カントは、道徳判断を理性のアプリオリな規則に帰し、絶対的な人格の自由から導き出そうと試みたが、いくらそうやって理性的な道徳画像を描こうとしても、現実とはまったく合わなかったので、現実の方を動物的として批判したのであった。例えば、カントは、男女は、性に関係なく、人格としては絶対的に自由であるから、婚姻契約は対等な対人権であると宣言するが、実際には、自然の与えた差別によって、家族共同体においては、男は生れつきの家長であると言うのである。

 カントにしてこのような有様であるなら、一体誰が、「国民の道徳」なるものの教科書を書けるものだろうか? よほどの自惚れた人間しか考えられない。例えば、本当に教科書のつもりで、「国民の道徳」を書いてしまった西部ぐらいか。それをどうやって教えるかとなるとさらに難しいし、それを評価するのも難しい。

 山崎氏は、その代わりにすべきことは、「順法精神を教えること」で、それを「『国の取り決め』として教えれば良い」という。これも、法の中身を教えるのではなく、法律を守る精神を教えればよいというのも、どうかと思う。これは、法も変わるものだから、その時々に存在する法を教えても、それが変わってしまえば、その知識は過去のものになってしまうので、それよりも、法が変わっても、法を守るという精神だけを持っていればよいというのである。なるほど、法は、国が決定するものである。しかしそれは、行政指令の体系もあれば、裁判の判例として示されるものもある。いずれにしても、これらのことは、社会のあり方からくるのである。

 くりかえしになるが、道徳を教科にするというのは、よほどの自惚れがなければ、言えるものではないが、まさしく教育再生会議は、よほどの自惚れ屋の集まりである。いったん、そういう意見が強まったが、すぐに慎重論が出てきたのは、教育再生会議にも、それほどの自惚れ屋ばかりではないということを示してはいる。しかし、このメンバーには、教育を論じるにふさわしくない人物が相当数いるのは間違いない。もはや解体した方がよい。

 関連して、教育再生会議に、道徳の教科化などの申し入れを行った日本教育再生機構代表の八木秀次高崎経大教員は、郷土愛は自然に身につくものだが、国家とは観念であり、それは強制しなければ身につかないと述べている。国家とは、構成された観念、すなわちイデオロギーであるというのである。それは、自民党の日教組批判文書にも書かれている。共通して、日教組は階級闘争史観というイデオロギーを持っており、それが教育現場を支配しており、それが今日の教育荒廃の原因だとして、それに対して、国民教育という国家主義イデオロギーが取って代われば、教育問題が解決するとしている。問題は、国家観念であり、その中には、規範が含まれており、それを強制しなければならないというのである。教育再生会議が、国家主義イデオロギーに傾いていることが、道徳の教科化問題で明らかになった。彼らが求めているのは、何よりも勤労道徳であり、それを義務教育課程での職業教育充実という形で述べているという。さらに、家庭教育について、「親学」なるものを提案しているそうである。これは、日本教育再生機構の提言でも、書かれているもので、保守派・自民党・教育再生会議がすでに一体的なものとなりつつあることを示してる。

 それに対して、保守派でも、西尾幹二氏元東京電機大学教員は、安部政権を厳しく批判していて、安部政権にくっついて、従軍慰安婦問題でのアメリカ向けの謝罪、河野・村山談話継承、その他の問題に黙っている日本教育再生機構などを保守主義を破壊する行為だと非難しているという。なるほど、これでは保守主義もお終いだというのは、西尾氏の言うとおりだろう。

 山崎正和氏には、安部政権と教育再生会議の稚拙な教育政策が現れた道徳教育問題の危険性がわかったのだろう。山崎氏ならずとも、これが、自民党が仕掛けている「国家主義イデオロギー」対「階級闘争イデオロギー」というイデオロギー闘争であり、それが、自民党が、民主党の選挙運動の基盤と見なしている日教組つぶしの政治闘争であり、策略の一部であることは、明らかである。国鉄・分割民営化の国労つぶしの時と同じ政治攻勢の一環である。それが見えているのが山崎氏であり、それが見えていない人とそれに積極的に荷担してる人とが混ざっているのが、教育再生会議である。海老名氏は前者で、ヤンキー先生義家氏は後者だろう。道徳教育問題が、政治闘争の一部に組み込まれており、山崎氏は、そういう争点でなくしてしまえと言っているのである。しかし、正面から受けて立つべきではないだろうか。というのは、すでに保守主義は崩壊しつつあり、自民党の地方基盤も壊れつつあるからである。言葉は勇ましいが、その裏付けとなる実力が低下しつつあるから、正面から闘っても、けっこういけるんじゃないだろうか。

 中教審会長:「道徳教育と歴史教育は不要」(『毎日新聞』2007年4月26日)

 中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の山崎正和会長は26日、東京都千代田区の日本記者クラブで講演と記者会見を行い、個人的な見解と強調した上で、小中学校での道徳教育と歴史教育は不必要との考えを示した。さらに、政府の教育再生会議が論議している道徳の教科への格上げにも否定的な見解を述べた。

 山崎会長は道徳教育について、賛否の割れる妊娠中絶の是非などを例示して「『人のものを盗んではならない』くらいは教えられるが、倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」と指摘。「代わりに提案しているのは、順法精神を教えること。『国の取り決め』として教えれば良い」と持論を展開した。

 現在行われている道徳教育の必要性を問われると「現在の道徳教育もいらないと思う。道徳は教科で教えることではなくて、教師が身をもって教えること。親も含めて大人が教えることだ」と述べた。

 歴史教育についても、稲作農業が日本で始まった時期が変遷していることなどを指摘し「歴史教育もやめるべきだ」と述べた。【高山純二】

 なぜ彼らは通報しなかったのか? 通報しなかった、通報できなかった乗客の心理

 21日から22日にかけて、以下のような見出しが、テレビ、新聞各紙、ネットなど各方面に踊り、世間を震撼させました。

特急トイレで女性暴行、36歳男を再逮捕…乗客知らんぷり
<強姦>特急内で暴行、容疑の36歳再逮捕 乗客沈黙
特急車内で女性暴行=誰も通報せず、36歳男逮捕-大阪

  まず、ニュースの「知らんぷり」という見出しに踊らされないでください。それは報道する側が用いた表現であって、実際の状況が「知らんぷり」と言われるような状況であったかには大きな疑問が残ります。

なぜだれも助けなかったのか。通報しなかったのか。  という乗客を責めたてる意見が聞かれますが、そんな議論は(まったくもって無意味だとはとらえていませんが)ややナンセンスです。

それよりも、むしろ、こういった、前科もわかっているだけで9件もある、しかも仮釈放のわずか1ヵ月後にこのような卑劣な強姦事件を繰り返す性犯罪者。

生来的な脳機能異常によって、性衝動の制御が不可能なのではないかと疑われる性犯罪者が、なぜ何度もこのような犯罪を犯しえる状況にいられたのか。

そして、このような犯罪者に、本当に二度と再犯を犯させないためにはどうすればいいのか――というところを議論するべきです。

通報しなかった/できなかった乗客の心理については、ニューヨークで、Kitty Genovers事件という強姦殺人事件――38人もの目撃者がいながら、だれひとりとして、通報も救助も行わなかった――があって、それについて行われた社会心理学の分析がありますので、ご紹介します。

今回の事件でなぜ通報が行われなかったのかを知る手がかりになりうるでしょう

---------- 一部抜粋 -----------

  1964年のアメリカ・ニューヨークで、Kitty Genoversという女性が強姦された上、殺害されてしまうという事件が起こった。 驚くべきは、後の調べによって明らかにされた目撃者数――Kittyが暴漢に襲われた悲鳴を聞き、そして強姦されてから殺されるにいたるまでの30分もの時間に、それを目撃しながらも、通報も助けることもせず、ただ傍観していただけのひとたちが、なんと38人もいたというのだ。

  当初、これは都会の人間の冷淡さや、目撃者たちにとって、普段抑制されているサディステッィクな欲求を充足するものだったなどとして話題に取り上げられたが、後に心理学者のLataneらは、それに真正面から異論を唱える――「否、Kittyが誰からも援助行動を受けることができなかったのは、むしろ大勢の目撃者がいたからこそなのではないか?」

  まず、(1)大勢が見ていたことによって、ひとりあたりの責任感が分散され、軽くなる(責任の分散)が起き、「自分が援助行動を起さなくてもいいだろう。誰かがやるだろう」とする『社会的手抜き』が行なわれてしまったのではないか?

そして、(2)おなじことを目撃している他人を見ることによって、他人の判断をあてにする、換言すると、他人の判断から得た情報から、実在する現実とは違った『社会的現実』がそこに生じてしまい、ひとりひとりの判断が鈍化してしまったのではないか?

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沖縄戦集団自決への軍関与は明らかだ

 教科書検定での沖縄戦での集団自決を日本軍が強制したとする記述に、それを否定する説が定説に成りつつあるとして、文科省の検定意見がついた件で、軍による強制を定説としてきたノーベル文学賞受賞者の大江健三郎氏と岩波書店が、文科省に抗議文を送ることを決めた。

 沖縄戦での住民の集団自決に軍の強制があったことは、たとえ旧日本軍の梅澤裕・元少佐と赤松元守備隊長が直接的な命令を正式に出しておらず、戦後になんらかの事情で、嘘をついたことが事実だったとしても、その他の様々な資料や当時の状況から明らかである。しかも、赤松元守備隊長の遺族らが、大江健三郎氏と岩波書店を名誉毀損などで訴えた裁判は、今続いている最中で、判決も出ていないうちに、裁判の一方の当事者の主張のみを取り上げるのは、公平さを欠いている。

 この件について、櫻井よし子氏が語っている。この人は、なんでも首をつっこむ人である。「櫻井よし子ブログ」http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/01/post_497.html「沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣」は、梅沢座間味島守備隊長をすぐれた軍人として描いている。梅澤隊長は、米軍の艦砲射撃が激しくなる中で、「彼我の圧倒的な戦力の差を実感、「ベテランの軍人」として日本の敗北を悟った」という。そして、米軍上陸がいよいよ迫った1945年3月24日夜10時頃、村民代表5人(助役、役場の者、小学校の校長、警察官、女子青年団長)が司令部を訪ねてきたという。そして、「助役の宮里盛秀氏が言った。「いよいよ敵が上陸しそうです。長い間、御苦労様でしたが、お別れに来ました。私たちは前から、年寄り、女子供、赤ん坊は軍の足手まといになるため、死ぬと決めています」」。すると、梅沢氏は、「戦国時代の物語として聞いたようなことを、まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」と語ったという。

 それから、助役と以下のやりとりがあったという。

 「自決の方法がわかりません。我々皆が集まって円陣を作ります。その真ん中で爆薬を爆破させて下さい」

 「そんなことは出来ない」と梅澤氏。

 「それなら役場に小銃が3丁ありますから弾を下さい。手榴弾を下さい」と宮里助役。

 「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」

 梅澤氏は諭して、5人に言った。

 「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」

 代々軍人だった梅澤氏には、このような住民心理は、戦国時代の人のようなものとしか思えなかったのである。住民は、なぜ集団自決するということをわざわざ守備隊長に言いにきたのだろうか? それは、『戦陣訓』その他の軍国主義教育、皇民化教育のためだ。軍がそう教えてきたから、それに従って、大日本国臣民として当然のこととして、生きて捕虜の辱めを受けないということを実行するしかないと考え、軍は当然それを支持して、助けてくれるものと考えたからである。だから、その方法・手段の教えを請いに行ったのだろう。

 梅澤氏が山中に避難し、死なないように諭したということは、すでに彼我の圧倒的な力の差を実感し、敗戦を悟った氏の考えでは、生きて捕虜になることを意味することは明らかである。梅澤氏が、この時点で、米軍の捕虜になって生き延びろという意味でこういうことを言ったのかどうかはわからないが、しかし、その言葉どおりだとそうなる。

 翌日、梅澤氏は部下の6割を失って、敗北。「戦闘に没頭していた氏らは、住民たちのその後の動き、約800名中172名が集団自決した事実を知らなかった」。つまり、住民たちは、自分の言うとおり、米軍の捕虜になって生き延びたと思ったのだろうか? 

 ところが、梅澤氏は、1957年『週刊朝日』の記事で、自分の命令で座間味島住民が集団自決したと報じられて驚いたという。

 櫻井氏は、「戦後、全ての日本人がそうであったように、沖縄の住民も食べるに困った。特に沖縄は烈しい戦闘で焼き尽くされ、多数が亡くなった。国の援助を申請したとき、自決というだけでは、軍人でもない一般住民への援助は無理だとされた。そこで考えられたのが、軍によって自決命令が下されたという理由づけだった。/生きるために事実無根の話が創られ、梅澤氏への根拠なき非難が一人歩きを始めたのだ。それを調査せずに喧伝したのが大江氏らである」と言う。

 彼女は、「事実無根」「根拠なき非難が一人歩き」ということを言うのだが、もし梅澤氏の話が本当だすれば、「事実無根」なのは、梅澤隊長が集団自決を命令したということであって、集団としての軍の強制が「事実無根」になるわけではない。軍の将校で責任の重い守備隊長という地位にあったものは、軍に対して責任があるし、知らなかったからといって、責任がないとか結果責任を取らなくていいということにはならない以上、根拠はある。

 梅澤氏は、この『週刊朝日』の記事が出て以後、1958年から沖縄慰霊の旅に毎年行っているという。戦後、座間味島の人々の生活が苦しかったのに、国はかれらを救う方法を持たなかった。そこで、苦肉の策が取られたということらしい。軍国主義教育、『戦陣訓』の教えを固く守った人々が、準軍属ではないと言う理由で、放置されていいのかということだ。「一億火の玉」と言われ、米英は「鬼畜」と教えられてきた人々が、捕虜の辱めを受けずとして、集団自決の道を選び、しかも、手榴弾を持たされており、いざとなったら、それで自決するように軍人から言われたという証言もある。つまり、元女子青年団長宮城初音氏の助役が自決命令を出したという証言は、梅澤氏の命令を虚偽とするものではあるが、軍による自決の強制を否定するものではない。

 櫻井氏は最後に、「日本人は戦後、戦争を反省する余り、軍に関するもの全てを悪と見做してきた。その偏った心理のなかで、梅澤氏の悲劇が生まれた。この歪んだ戦後体制からの脱却を目指すというのが安倍晋三首相である。真に戦後体制から脱却し、新しい日本を創るために、より多くの真実を探り出し、虚心坦懐、歴史の真実と向き合いたい。そして一日も早く、高齢の梅澤氏の訴えに正しい判決が出てほしいと願うものだ」と書いている。

 一部のこと、ここでは梅澤氏が島民に集団自決命令をしたかしなかったかという事実の認定の話と軍による集団自決の強制や関与があったかどうかは、レベルの違う話であり、仮に前者が裁判で梅澤氏の言い分が認められたとしても、後者についての話に片が付くわけではない。それなのに、文科省は、教科書検定で、そうしようとしているのである。

 梅澤氏には個人としての問題と共に軍幹部としての問題があり、さらに当時の軍国主義教育や皇民化教育、等々の関わりなどの問題もある。それらを総合的に見れば、軍の集団自決強制はなかったことが定説になりつつあるなどという文科省の政治的判断は、櫻井氏のいう虚心坦懐に歴史の真実と向き合うものではない。安部総理は、櫻井氏の基準とは反対に、歴史の真実よりも、「美しい国」というスローガンで、真実よりも見た目だということをはっきりと言っている人物だ。

 櫻井氏には、梅澤氏ばかりに肩入れするのではなく、もっと沖縄戦の全体像、また集団自決の多様な側面をできるだけ総合的に見てもらいたい。

 関連して、『産経』がこのところ上げている戦犯赦免運動の署名数4000万人という数字の根拠を問うているブログ記事を見てもらいたい(「美しい壺日記」http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-46.html)『産経』などの右派保守派は、南京事件の犠牲者数には根拠がないだとか、他者の上げる数字には厳しいが、自らの上げる数字には甘いし、根拠のない数字を平然と使っていることがわかる。沖縄戦集団自決問題についても、『産経』『読売』は、軍の強制はなかったと主張しているのだが、櫻井氏と同じように、都合のいい証言のみを強調し、都合の悪い証言は無視している。そんな体質がわかる。なお、そこで扱われている『産経』社説は、「沖縄戦集団自決にナンセンスな検定意見がついた」に引用してある。

 教科書検定:岩波書店と大江健三郎氏らが抗議文(『毎日新聞』2007年4月4日)

 06年度教科書検定で、旧日本軍が沖縄戦の集団自決を強制したとする記述に検定意見が付されたことについて、岩波書店が4日会見し、作家の大江健三郎氏と連名で抗議文を伊吹文明文部科学相に提出することを明らかにした。同社と大江氏は、集団自決をめぐる訴訟の被告となっており、「(旧日本軍出身である)原告の主張のみ取り上げ、記述を修正させたことは遺憾」と訴えている。

 文科省は、検定意見の根拠の一つに、集団自決を命令したとされる旧日本軍の元少佐らが裁判で命令を否定する証言をしたことを挙げた。元少佐らは05年8月、書物の誤った記載で名誉を傷つけられたなどとして、岩波書店と大江氏を相手に出版差し止めと損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こしている。

 会見した岩波書店の宮部信明・取締役編集局部長は「沖縄戦の問題(日本軍の強制)は十二分に実証されてきた真実。裁判の当事者として黙っているわけにいかない」と説明。抗議文はさらに「訴訟は継続中で、被告の主張も検討するのが当然」と主張している。【高山純二】

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最近の教育をめぐる諸問題から

 教育をめぐる動きがあわただしい。

 まず、29日の教育関連3法案の与党の了承、そして30日の教員免許法改正案と地方教育行政法改正案が閣議決定された。残る学校教育法改正案を閣議決定し、今国会中の成立を目指すという。地方教育行政法改正案のうち、私立学校への教育委員会の関与については、公明党が、慎重姿勢を示し、「知事は私立学校と協議し、教委は私立学校の自主性を尊重する」ことを国会での文科相答弁と法案の付帯決議、改正法の施行通達の3段階で確認するという条件を付けた。創価大学グループを持つ創価学会への配慮だろうか? 公立学校が教育委員会の管轄の下にあり、私立学校が知事部局の担当下にあるという学校対応の二分化は、私学の独自性・自主性を尊重するためだという。公立学校は、自主性を認められていないのだろうか? 

 残る学校教育法改正案では、義務教育の目標として、愛国心教育を盛り込むように議論が進んでいて、昨年12月の教育基本法改定の一つの結果が、示されようとしている。全体として、国の教育への関与が強められるもので、強制性が強い改定案である。それだけ、国の責任が重くなることは言うまでもない。

   卒業式での「君が代」不起立で、東京都教育委員会は、教員35人を懲戒処分した。この「君が代」「日の丸」強制は、東京都が突出している。それでも、毎年、処分がなされながら、なお35人の懲戒処分者が出たことは、東京都の強圧的学校管理・教職員管理体制が破綻しつつあることを意味している。94年以降の卒業式での不起立を対象とする処分者はのべ314人となった。

 「新しい歴史教科書をつくる会」を追われて、「日本教育再生機構」を立ち上げ、代表となった八木秀次高崎大教員は、『産経』の「正論」欄で、「教員バッシングより教育体系つくれ」と主張している。現在の教育の基本的な問題は、「子ども中心主義」という教育観にあり、システムにあるというのである。

 「子ども中心主義」とは、アメリカの哲学者ジョン・デューイなどが提唱した子供の学ぶ意欲・自主性に任せようという考え方だが、そこから教師は子供を「指導」するのではなく、子供たちが主体的に学習するのを「支援」する役割だとの発想が「ゆとり教育」の背景にある」。このような「子ども中心主義」を、日教組が中心に文科省に浸透させたために、「ゆとり教育」が採用されたというのである。

 こうした見方は、保守派に共通して受け入れられているらしく、「新しい歴史教科書をつくる会」の「史」最新号には、「視点 教育基本法改正と歴史の潮流」と題する石井昌浩 理事・拓殖大学客員教授の文章の中で、「旧法の主役は、ジョン・デューイ仕込みの「子供中心主義」であり、主役を支える芸達者な脇役が「マルクス主義」だった。ちなみに、三十年続く「ゆとり教育」は、子供中心主義の現代版に他ならない」と書いている。八木氏とほとんど同じ認識である。さらに、石井氏は、「よく、冗談めかしに「共産党員が教科書を作り、社会党員がそれを教え、自民党政府がお金を出す」と言われる。この話が冗談ではなく、限りなく事実に近いところに戦後教育の悲劇とゆがみが象徴されているのだ。共産党も社会党も往時の勢いを失ってはいるが、マルクス主義は、教育界で依然として隠然たる勢力を維持し続けている」として、マルクス主義の教育界での隠然たる勢力を想定している。旧教育基本法は、ジョン・デューイ主義という主役とマルクス主義という脇役をそろえた舞台であり、それを現場で担ってきたのが、日教組だったというわけである。旧教育基本法がなくなり、新教育基本法が成立したことで、これらの勢力を法的に支えることができなくなり、その結果、「敗戦から数えて六十年、日本独自の文明と文化に根ざした教育の基盤を確立」できることになるだろうという。そして氏は最後に、「歴史の潮流が変わった。教育基本法改正は、明治初年の学制、敗戦直後の諸改革に次ぐ、近代教育史上第三の改革である」と過大評価する。なるほど、安部政権の教育基本法改訂の意図には、そうしたものもあっただろうが、できあがった法律は、それほどできのいいものではない。そこは連立を組む公明党がいろいろと障害物を置いていて、それは後々その効果を発揮することだろう。

 それにしても、この子ども中心主義批判というのは、最近強調されるようになたもののように見えるがどうだろう? 少なくとも、教育基本法改定論議の時や教育再生会議、中央教育審議会の議論などでもあまり聞こえてこなかった。石井氏は、新教育基本法の徳育の列挙が、その現れだというのだが、はたしてそうか? いずれにしても、八木氏もそうだが、戦後教育に対して、戦前の近代公教育体制の復活を対置するというのでは、後ろ向きである。情況・条件が違いすぎるので、これは失敗に終わる運命にある。

 教育再生会議は、授業時間数10%増、そのための夏休み・春休みの短縮や7校時の導入を提言した。「しかし、それがそのまま学力や規範意識の向上に繋(つな)がるとは思えない」と八木氏は批判する。そして、「そればかりか、近年、教育現場では教員が教材研究に追われ、多忙感や焦燥感を募らせている。個々の子供たちに対応するための「発展的学習」に加えて、教科書のない「総合的学習の時間」のための教材開発や運営に追われている。授業時間が10%増えればその分、負担も増すだろう。全国には約100万人の教員がいるが、教材開発までやってのけるだけの高い能力のある教員の数は残念ながらそう多くはない」と教員が現場で、増え続ける負担にあえいでいることを指摘している。教師から忙しいという話がよく聞かれる。

 八木氏は、「かつては新人の教員であっても、教科書と指導書があれば、十分な指導ができるだけのシステムがあった。システムが個々の教員を支えていたのだ。しかし「ゆとり教育」が明治5年の学制発布以来のわが国の近代教育の体系を壊してしまった。そして今や個々の教員の指導力が問われるようになっている」と問題点を指摘する。それは、教員が役者だけでなく、「脚本家や演出家の役割まで求められているのだ。だが、これは個々の教員には酷なことだ。そのことが近年の疲弊感・焦燥感の高まりに繋がっている」というのである。

 八木氏は、「国民の「教育再生」を求める声の高まりとともに、教員バッシングが始まっている。確かに不適格教員や特殊なイデオロギーに染まった教員は排除されなければならない。しかし、教員を悪者にすれば教育再生ができるというものでもない」と教員バッシングの高まりに釘をさす。「不適格教員」「特殊なイデオロギーに染まった教員」排除は当然という考えは肯定し得ないが、「教員を悪者にすれば教育再生ができるというものではない」というのはそのとおりである。

 「大企業の景気回復とともに、民間企業の新卒採用枠が急激に拡大している。教員給与の削減も検討されている。そのような中にあって、これだけバッシングを受ける教員の世界にあえて飛び込むだけの意欲ある人材が確保できるだろうか。また教材開発まで行う能力ある人材が何十万人も確保できるだろうか」と近年の景気回復傾向の中で、教員バッシングが強まれば、教員の人材確保が難しくなるだろうという。まったくそのとおりで、すでに新採用教員の多くが一年以内に離職しているという現実があり、さらに近年、教員の精神疾患が多発している。教育現場の人材不足はすでに起きているのである。

 教員免許更新制度について、安部総理などは、問題教師の排除を強調しているのだが、文科省はこれは懲戒的な意味ではなく、あくまでも教員資質の向上が目的だと主張している。しかし、更新免許更新の期間10年は長すぎるとする不満が、教育再生会議にくすぶっており、さらに対案として民主党が策定しようとしている「教員スキルアップ法案」は、、「10年ごとの免許更新制だけでなく、教員免許取得に修士課程の修了を必要とし、免許更新時に義務付ける講習も政府案の30時間より多い100時間とする。一方で、講習の1年間の追加履修により、更新不要の「専門免許」を取得できる道も開く(『毎日新聞』2007年3月30日)という与党案よりも教員に厳しいものだ。教育再生会議には、教員よりも、民間企業に優秀な人材を集めることに利害を持っている民間企業よりの委員が多くいる。

 八木氏は最後に、「今、取り組むべきは「ゆとり教育」で壊された近代教育の体系を再構築し、個々の教員を支えることだ」と述べる。それにたいして、東京都教育委員会は、恫喝と処分、強権発動などによって、教員を押さえつけることで、教育の生命を押しつぶそうとしている。教育再生会議は、道徳を教科とすることで、道徳心のランク付けに踏むことを提言しようとしている。教科化にともない道徳教科書が作られるようになれば、文科省の教科書検定の対象となり、文科省が道徳心の基準を事実上決定するようになる。「やらせタウンミーティング」をやった文科省がである。不道徳な文科省が、人々に道徳の説教をするというとんでもないことになろうとしているのである。そんな「不道徳」なことが許されていいのだろうか!?

 【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 「ゆとり教育」見直しは可能か

 高崎経済大学教授、八木秀次氏
 ■教員バッシングより教育体系つくれ

 ≪「子ども中心主義」脱却≫

 時事通信社が今月行った世論調査によれば、「ゆとり教育」の見直しを実に79・1%もの人々が求めていることが明らかになった。「必要がない」と答えた人はわずかに11・2%。「ゆとり教育」見直しはもはや世論と言ってよい。

 政府の教育再生会議も1月に発表した第1次報告でやはり「『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する」として、「授業時間数の10%増加、基礎・基本の反復・応用力の育成、薄すぎる教科書の改善」を提言している。また同会議が5月にも発表する第2次報告でもさらに具体的に「ゆとり教育」見直しの方向性が示されると思われる。

 しかしながら、今月14日に示された第2次報告の「素案」を見る限り、「ゆとり教育」見直しは掛け声倒れに終わり、逆に現場の教員は一層多忙感・無力感を募らせ、今後、能力ある人材が教員を志望しないという、国民大多数が望む「学校教育の再生」とは程遠い結末に至るのでは、という懸念をぬぐえない。

 その理由は同会議が「ゆとり教育」の背景にある「子ども中心主義」(児童中心主義)なる教育観の見直しにまで踏み込んでいないことにある。

 「子ども中心主義」とは、アメリカの哲学者ジョン・デューイなどが提唱した子供の学ぶ意欲・自主性に任せようという考え方だが、そこから教師は子供を「指導」するのではなく、子供たちが主体的に学習するのを「支援」する役割だとの発想が「ゆとり教育」の背景にある。「ゆとり教育」は以上のような教育観を背景にしているが、もともと日教組が主張していたものを徐々に文部科学省が採り入れ、今日に至ったものだ。現在、文部科学省が採っている、学習指導要領は全体で学ぶ最低基準で、その量はかつての半分に減らすが、個々の子供たちの学ぶ意欲に合わせた「発展的学習」で対応するという考えも日教組由来のものである。

 ≪募る「多忙感と焦燥感」≫

 しかし、子供を持つ身なら誰でも分かることだが、子供たちの「学ぶ意欲」に任せておいて確かな学力が身に付くはずはない。時には強制力を伴わせなければ、日本国民として必要な学力や規範意識は身に付かない。近年の学力や規範意識の急激な低下の背景に「ゆとり教育」があることは言うまでもなかろう。

 教育再生会議は「子ども中心主義」の見直しを言わないままで、授業時間数だけ10%増やし、そのために夏休み・春休みの短縮や7校時目の導入を提言している。しかし、それがそのまま学力や規範意識の向上に繋(つな)がるとは思えない。

 そればかりか、近年、教育現場では教員が教材研究に追われ、多忙感や焦燥感を募らせている。個々の子供たちに対応するための「発展的学習」に加えて、教科書のない「総合的学習の時間」のための教材開発や運営に追われている。授業時間が10%増えればその分、負担も増すだろう。全国には約100万人の教員がいるが、教材開発までやってのけるだけの高い能力のある教員の数は残念ながらそう多くはない。

 ≪「教員=悪者」論の愚≫

 かつては新人の教員であっても、教科書と指導書があれば、十分な指導ができるだけのシステムがあった。システムが個々の教員を支えていたのだ。しかし「ゆとり教育」が明治5年の学制発布以来のわが国の近代教育の体系を壊してしまった。そして今や個々の教員の指導力が問われるようになっている。

 例えて言えば、教員はかつては役者だけやっていればよかったが、今や脚本家や演出家の役割まで求められているのだ。だが、これは個々の教員には酷なことだ。そのことが近年の疲弊感・焦燥感の高まりに繋がっている。

 国民の「教育再生」を求める声の高まりとともに、教員バッシングが始まっている。確かに不適格教員や特殊なイデオロギーに染まった教員は排除されなければならない。しかし、教員を悪者にすれば教育再生ができるというものでもない。

 大企業の景気回復とともに、民間企業の新卒採用枠が急激に拡大している。教員給与の削減も検討されている。そのような中にあって、これだけバッシングを受ける教員の世界にあえて飛び込むだけの意欲ある人材が確保できるだろうか。また教材開発まで行う能力ある人材が何十万人も確保できるだろうか。

 今、取り組むべきは「ゆとり教育」で壊された近代教育の体系を再構築し、個々の教員を支えることだ。(やぎ ひでつぐ) (2007/03/30)

 「君が代」不起立、最高で停職6カ月 都教委処分(『朝日新聞』2007年03月30日)

 今春の東京都内の公立学校の卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったなどとして、都教育委員会は30日、教員35人を懲戒処分したと発表した。このうち町田市立中教諭の根津公子さん(56)は、懲戒免職に次ぐ停職6カ月。都教委は03年10月に起立斉唱を義務づける通達を出しており、94年以降の卒業式で不起立を理由に処分を受けた教員は延べ314人となった。

 都教委によると、処分者は昨春より2人増えた。不起立を繰り返すほど処分は重く、今回初めてだった20人が戒告、2回以上繰り返した12人を減給とした。通達以降、不起立を続けている根津さんのほか2人が停職になった。戒告を受けた20人のうち、定年後の再雇用選考に合格していた2人は合格を取り消した。

 06年に受けた停職処分の取り消しを求めて東京地裁で係争中の根津さんは、「覚悟はしていたが余りに重い。次は免職かもしれないが、教員生命をかけて強制に反対していきたい」と話した。

 道徳、「教科」に格上げ案 教育再生会議分科会が提言へ(『朝日新聞』2007年03月30日)

 政府の教育再生会議は29日の学校再生分科会(第1分科会)で、「道徳の時間」を国語や算数などと同じ「教科」に格上げし、「徳育」(仮称)とするよう提言する方針を決めた。「教科」になれば、児童・生徒の「道徳心」が通信簿など成績評価の対象になる可能性があるうえ、教材も副読本でなく教科書としての扱いとなって文部科学省の検定の対象となりうる。ただ、反対論も予想され、再生会議での議論は過熱しそうだ。

 再生会議の1月の第1次報告を受け、政府は30日に教育関連3法案を提出する。5月に予定する第2次報告は法制改正によらない具体策も打ち出す方針で、道徳の教科化を盛り込む考えだ。参院選に向け「安倍カラー」を鮮明にするうえで政権側が後押しする可能性もあるが、第2次報告にどのような形で盛り込まれるかが焦点になる。

 第1次報告では「我が国が培ってきた倫理観や規範意識を子供たちが確実に身につける」と提言しており、再生会議で充実策を検討してきた。

 29日の第1分科会後に記者会見した副主査の小野元之氏(元文部科学事務次官)は「道徳を教科としてしっかり教えるべきだ、ということでおおむね(分科会の)合意が得られた」と述べた。「授業時間数を増やそうということではない」(小野氏)が、高校でも教科にすることを想定しているという。

 また、主査の白石真澄氏(東洋大教授)は、成績評価の対象になるかどうかについて「議論していない」としながらも、「教科になるということは、いま絶対評価で1~5と成績がついているので将来的には成績判定がなされると思う」と語った。ただ、白石氏は「戦前の修身のように先祖返りするのではなく、人としてどのように生きるか、他人をどう思いやるか。命あるものを尊重すること(を教えること)で環境教育にもつながる。全体主義になったり、右になったりするわけではない」と強調した。

 一方、再生会議を担当する山谷えり子首相補佐官は、成績評価について「(徳育は)知識だけでなく、心のありようなので、1~5で評価できるかどうかは今後、十分議論されていくだろう」と述べるにとどめた。

 文科省教育課程課によると、現在の学習指導要領上の「教科」は原則として評価の対象になっているが、必ず対象になるとは決まっていない。

 再生会議が徳育を教科に格上げするのは「道徳の時間は取られているが、きっちり行われているかというと、先生方も熱心でない方もいるし、教材も充実していない」(小野氏)との現状認識からだ。現在は教育委員会が刊行した読み物資料などが使用されているが、小野氏は「教科にするメリットは、教科書をきちんとつくって規範意識や道徳心、規律を教えていくこと」と述べている。

 私立校関与、与党が条件付きで了承 教育関連3法案(『朝日新聞』2007年03月29日)

 自民、公明両党は29日、教育関連3法案を了承した。このうち地方教育行政法改正案をめぐっては、教育委員会による私立学校への関与について「教委が知事に助言または援助を行う際、私立学校の自主性を尊重する」、文部科学相による教委への関与について「指示することが必要な緊急時には、首長も教委に支援等を行うことが必要」との2点を国会答弁などで確認することを条件に了承した。

 これを受けて政府は30日に同改正案と学校教育法改正案を閣議決定し、すでに閣議決定した教員免許法改正案と合わせて同日中に3法案を国会に提出する。

 地教行法改正案では、教委が私立学校の運営に関与できるように「知事が必要と認めるときは教委に助言・援助を求めることができる」との文言が盛り込まれた。これに対し、公明党が「私立学校の自主性が損なわれかねない」と懸念を示したため、「知事は私立学校と協議し、教委は私立学校の自主性を尊重する」ことを(1)国会での文科相答弁(2)法案の付帯決議(3)改正法の施行通達――の3段階で確認するとの条件をつけた。

 また、同改正案では、いじめなど児童・生徒の生命、身体の保護のため緊急の場合に限って「文科相が教委に指示ができる」との文言も盛り込まれた。これに対し、公明党が地方分権を重視し、「文科相が指示を出す時には、任命権者の首長も同様に指示を出せるようにすべきだ」と主張した。だが、自民党が難色を示し、首長について「支援等を行うことが必要」との文言を、私立学校の自主性と同様に国会答弁などで確認することで折り合った。

 同改正案はこのほか、教育委員に保護者を入れることや、教委が自らの事務の執行状況を毎年評価して公表することを義務づける。

 学校教育法改正案は、昨年改正された教育基本法を踏まえ、義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」などを盛り込んだ。教員免許法改正案は、現在は一生有効な免許の有効期間を10年とし、講習を受けないと失効する教員免許更新制を09年度から導入する。

 教育関連2法案を閣議決定 今国会で3法の成立目指す(『朝日新聞』2007年03月30日)

 政府は30日の閣議で、教育関連3法案のうち地方教育行政法と学校教育法の改正案を閣議決定した。既に決定している教員免許法の改正案と一括して、同日国会に提出した。

 地方教育行政法の改正案では、緊急に児童生徒の生命・身体を保護する必要がある場合に文部科学相が教育委員会に指示できるほか、教育を受ける権利が侵害されている場合には地方自治法に基づく是正の要求をする、などと規定している。

 学校教育法の改正案では、改正教育基本法を受けて「義務教育の目標」を設けたほか、副校長、主幹教諭、指導教諭などの職を学校におくことができる、としている。

 3法案が閣議決定されたことについて、伊吹文部科学相は会見で「やっと関所の入り口にたどりついた。これから国会終了まで全力を尽くしたい」と語った。

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