教育

産経の低道徳

 大江健三郎氏の『沖縄ノート』裁判で、大江氏の勝訴の判決が出たのもつかのま、国会がガソリンの暫定税率の維持か廃止かでもめて空転している間に、教育をめぐって、教育基本法改悪の影響が現われ始めている。

 文部科学省は、新しい小中学校の学習指導要領で、日本の伝統と文化を愛し、公共心を養うとした教育基本法の改定部分を、さっそく学習指導の目的に掲げた。そして、小学校で、君が代をうたえるように指導することを明記した。

 3月30日付『産経新聞』は社説で、これを歓迎した。この社説は、神話を教え、道徳心を育てることは、愛国心を養うことになるという。あまりにも短いものなので、どうしてそうなるかはわからない。近年の官僚・政治家・大企業家・大金持ち・『産経』を含む大手マスコミなどの上層に不道徳ぶりが目立つ。そういう連中は、義務教育などとっくの昔に卒業している。この腐敗した連中こそ、根性をたたき直す教育をもっとも必要としている。

 あの俗物細木数子を起用した番組を流していた一つが、フジ・サンケイ・グループのフジテレビである。フジテレビでは、『あるある大辞典』でのデータ捏造事件があった。『読売新聞』の末端販売員の強引な勧誘に迷惑した者は多いはずだ。官僚については、毎日のように、不祥事が報道されている。いわゆるセレブが登場する番組を観れば、いかにかれらが世間の常識とかけ離れた感覚を持っているかは、誰でもわかる。こういう連中に神話を読ませれば、道徳心が身につくだろうか? はなはだ疑問である。

 第一、道徳心にもいろいろある。どんな道徳を教えれば、愛国心が育つというのだろうか? アメリカの入植者たちには、共通する神話がない。しかし、かれらは、9・11後、一時、きわめて愛国的になった。教育で道徳心を教育したおかげだろうか? ちがう。全体が愛国的になった後に、政府が、教育に愛国心を持ち込んだのである。だから、教師との間に対立が生まれ、訴訟にまで発展したこともあったのである。以前のまま、教育していたら、それが、非愛国的と非難されるようになったのである。

 ずっと前に、『産経新聞』社説で、物語が道徳心を育てるというようなことを書いていた。もちろん、これはたんなる願望である。そんな因果関係の証明をしていないからである。

 もし、平田篤胤のような国学派の方法を言うのであれば、平田派から幕末の尊王攘夷の志士が出たように、当時の幕藩体制の道徳を破るものが輩出されたことはどうなるのか?

 平田篤胤は、君が代の歌詞として知られる古歌について述べている。しかし、平田の国学は、あまりにも茫洋としていて、それから、直接、後の尊攘派が生まれたというわけではない。後の国学派は、ロシアをはじめとして、日本に貿易・開港を求めて外国船が度々訪れるようになったり、蘭学を通じて西洋の事情や思想を知るようになって、対西洋ということを強く意識して、平田の説を解釈しなおし、修正し、作り直したりしていったのである。例えば、佐藤信淵や鈴木重之である。

 『産経』の不道徳を直すには、どんな神話や物語を教育すればいいのだろうか? 自らの道徳性を問わないまま、他者の道徳性を問題にしているという不道徳をどうするか? 文部科学省のモラルはどれぐらいなんだろう?

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羽村市教委の給食費未納対策は解決にならない

 東京の羽村市教育委員会が、学校給食費未払い対策として、給食費支払い同意書に親のサインを求めることを決めたそうだ。

 具体的な事情はわからないが、教育委員会の言い分としては、署名をさせることで、給食の提供が契約に基づくということを強く意識させるためだという。

 しかし、この言い分には、契約が本来、自由意志行為であるということが抜けている。契約が自由意志のみに基づく行為であるということからは、契約が各人の選択に任されており、自由意志行為であるということが出てくる。つまりは、契約するもしないも自由だということが含まれているということになるのである。

 それにもかかわらず、学校給食は、事実上、選択性ではなく、一律に課せられる義務的なものとなっている。親の経済状態を踏まえた免除制度はあるものの一律のサービスに対して文句も言えないとなると、今日のようなモンスター化している親の中には、義務だけがあって権利が認められていないような給食のあり方に不満を持つものが増えていることは想像に難くない。

 それに力を与えているのは、新自由主義である。気に入らなければ、学校も選択できるというような肥大化した権利意識のみが拡大すれば、当然、平等主義的な一律の公的制度として基本的に成立している公教育制度と衝突する。その時に、個人主義的な利害得失の計算によって、払った分にはそれに見合った利益が返ってこなければならないとするつまらない一面的な計算をすることに、くだらないプライドを持つことが、必要事とすら思念されるわけである。こうして、学校が、自己利害を貫徹するもの同士が、衝突する場となって、制度自体を破壊しているわけである。

 教育再生会議は、親学なるものを提唱したが、しかし、政治は、新自由主義を推進してきたのであり、その成功モデルとして、詐欺師のホリエモンだの村上ファンドだのを持ち上げてきたのであり、その責任は、政治にもあるわけだ。村上は、物言う株主が必要だと強調してきた人物で、金を出す分口も出させろと叫んだ人物だ。権利意識旺盛と言えるだろう。

 政治・経済などが、あげて消費者主権だの株主の権利だの自己利益を貪欲に追求して何が悪い、金儲けして何が悪いと開き直る姿勢を積極的に助長してきたのであるから、学校だけが、その責任を問われることはない。しかし、羽村市教育委員会は、逆に、こうした新自由主義的な時代風潮に組して、契約概念を捻じ曲げてまで、給食費問題解決に乗り出したのであり、これは解決どころか、これをたてに権利を主張するモンスター・ペアレンツをのさばらせるもとを作っただけである。

 

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「国旗・国歌 問題教員の報告は必要だ」というが、問題なのは産経の方だ

  『産経新聞』の以下の主張は、浅薄である。

 『産経』社説が、神奈川県個人情報保護審査会が、神奈川県教委が国家斉唱時に起立しなかった教員名を校長に報告させていたことを、「思想・信条に関する個人情報の収集に当たる」として、報告を中止するよう答申したことを、「教育現場の実情を無視した答申である」と批判していることである。
 
 その理由として『産経』があげているのは、「学習指導要領に、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するよう指導するものとする」という規定である。この文章は、国歌斉唱の具体的な形態については何も書いていない。起立して歌えとも、座ったまま歌えとも書いていない。教職員が式で歌えとも歌うなとも書いていない。
 
 そこで、学習指導要領にない斉唱の具体的な形態について、『産経』は、国際常識なるものを持ち出す。
 
 9・11事件後のナショナリズムに包まれたアメリカ社会では、なるほど、スポーツの試合などの際に、国歌(といっても国歌に当たるものはアメリカでは少なくとも2曲あるという)を大合唱する姿が繰り返し映し出されたために、それが「国際常識」的に見られたのも無理もないことである。しかし、今では、そんな光景は、あまり見られなくなった。
 
 『産経』がいう「国際常識」は、変化するものであって、保守思想家が言うように、進化(変化)するのである。

 次に『産経』は、「県教委が国旗・国歌の適切な指導を行うためには、これらの法令を順守しなかった教員名を当然、把握しておかねばならない。教員の人事異動や学校評価のためにも、不適格な教員名の報告が必要になろう」と述べる。法と令は別であり、法はこの場合には、国歌・国旗法「国旗は、日章旗(日の丸)とする。国歌は、君が代とする」を指し、令すなわち行政命令は、学習要領の規定を意味する。法と令の関係では、言うまでもなく、法治主義の原則から、法が令の上である。その法は、ただ、国旗と国歌を指しているだけである。法の体系では、法の上に憲法があり、これが最上位の法である。憲法に違反する法令は存在してはならないと規定されている。
 
 思想・信条の自由は、最高法規たる憲法の規定であって、個別法や省令などの行政命令や行政指導は、これに反しない範囲で効力を持つということになっている。文科省が、憲法体制から独立の国家内の国家として独立して行動することはできないとされているわけである。
 
 神奈川県個人情報保護審査会が、憲法の規定に照らして、問題であり不適格とされたのは、不起立教員ではなく、県教委と校長の方である。しかるに、『産経』は、最上位法である憲法規定との関係が問題にされたのに、個別法と文科省の行政的指導・省令を根拠に、不起立教員を問題・不適格と決めつけている。

 『産経』は、憲法の思想・信条の自由の規定を、公教育では教員の内心の自由に限定されるものと解釈し、神奈川県教委の行為を、その自由を制限するものではないと擁護する。そして、「この考え方は、教育現場では通用しない。個々の教員がどんな思想・信条を持っていたとしても、学校では、児童生徒に国旗・国歌の適切な指導を行う義務を負っている。それが公教育というものだ」としている。学習指導要領が、国家斉唱時の起立を規定しないのに、教員の不起立を思想・信条の表明と見なしているのは、県教委である。たまたま体調が悪くなって、不起立になってしまったという教員もいるかもしれない。学校の朝礼などで、立ちくらみがして、座り込む生徒がいることは、おそらく誰しも目撃していることだろう。二日酔いということもありうる。様々な事情があり得る現場で、不起立イコール問題教員・不適格教員と見なすのは、それを内心の自由の態度・行為での表現として思想・信条を基準として適用しているからである。
 
 そして、入学式・卒業式における不起立などの行為のみをことさらに、通常の授業や校内生活における行為と区別して、厳しい監視・処罰の対象とするという学習指導要領にも書いていないことを、実際上の運営で行っていることに、この問題を思想闘争・政治闘争・イデオロギー闘争と化そうという文科省の意図的な狙いが表われている。
 
 「審査会の答申について、梶田叡一・兵庫教育大学長も「教員に思想信条の自由はあるが、公教育では国旗国歌の尊重が求められている。行政が法令順守を確認するのは当然で、個人情報保護とは別問題だ」と言っている。これが学校現場での正しい考え方だ」という。こんな人が教育大学の学長になれるというのも、世も末と言う気がするが、行政が確認すべきは法令順守だというなら、憲法順守について最優先で確認すべきであり、確認する者が確認されねばならないのである。これは、個人情報保護とは別問題だというのは、法を個別法として孤立させてとらえる見方で、法を法の体系から引き離すということは、法の実際世界ではあり得ない空想である。それは、公教育には、プライバシー保護は関係ないと言うのと同断である。そんなことは実際問題としてあり得ない。公教育だからといって、世間と隔絶して、特権的な独立島宇宙を形成しているわけではないし、そういう見方は、特に、近年は通用しなくなっている。
 
 次に、『産経』は、日の丸・君が代の具体的な歴史から、それらに誇りを持ち、他国の国旗・国家に敬意を持つことが、諸外国との友好を広めるために必要だという。別に旗や歌に誇りを持つことが、諸外国との友好促進の最高の手段というわけではない。国旗や国歌はあまりにも抽象的すぎる。それに、あまりに誇りを持ちすぎると、他国を蔑視するようなナルチシズムに陥る危険性もある。ナルチシズムも、過ぎれば、病態にまで進むかもしれない。
 
 このシンボルに結びついている歴史的意味も問題である。明治以来の戦争に次ぐ戦争の時代、これらのシンボルが前面に掲げられ、その下に、いろいろな負の意味が形成され、クリップされている。そうした意味形成体がこのシンボルにひっついている。

 今、アフガニスタンの民衆の中で、アメリカ国旗や国歌に対して、負の意味が形成され、シンボルの歴史的意味が変化し、それが広く共有されつつあると思われる。イラクでも政府ではなく、民衆の間では、似たようなことが起きていると思われる。パレスチナではもちろんである。星条旗は、否定的な意味形成体をぶら下げているだろうし、「星条旗よ永遠なれ」は、誤爆によって殺害された肉親や友人や仲間の死への復讐と憎悪の対象になりつつあるかもしれない。こうした過程や現実を見ながら、単純に、国旗・国歌万歳とは言いにくい。日本人が、アメリカ国旗・国家に敬意を表する姿をアフガニスタンの反米感情の強い民衆が見たら、友好どころか、敵と見なされるかもしれない。

 『産経』は、「教育委員会や校長らは今回の答申に左右されず、問題教員の実態を正確に把握したうえで、毅然(きぜん)とした国旗・国歌の指導を続けるべきである」と役に立たない当為(べき)で締めくくる。切り離されないものを切り離してしまえば、「毅然と」という類の主観的な決意性(その実は空文句)だけが、問題解決の鍵とされてしまう。県教委は、この答申について、それと自らの指導のあり方とを関連させて、真摯に検討すべきである。そして、私の考えでは、この答申に従うべきである。
 
 『産経』のような歴史に正面から向き合えない空想癖の強いナルチスティックな態度こそ、社会を危険に陥れるものだ。公教育において、問題をつくりあげて、問題を引き起こす文科省や教育委員会のナルチシズムをこそ問題にすべきである。かれらのわがままとそれを助長する『産経』こそ、教育されるべきである。
 
 「環境の変更と教育とについての唯物論学説は、環境が人間によって変更されなければならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、わすれている」(マルクス「フォイエルバッハ・テーゼ(3))

  【主張】国旗・国歌 問題教員の報告は必要だ(『産経新聞』2007.11)

 神奈川県教育委員会が国歌斉唱時に起立しなかった教員名を校長に報告させていたことについて、同県個人情報保護審査会は「思想・信条に関する個人情報の収集に当たる」として、報告を中止させるよう答申した。教育現場の実情を無視した答申である。

 学習指導要領は「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定めている。また、平成11年に成立した国旗国歌法は「国旗は、日章旗(日の丸)とする。国歌は、君が代とする」と規定している。国歌斉唱時に起立して歌うのは国際常識である。

 県教委が国旗・国歌の適切な指導を行うためには、これらの法令を順守しなかった教員名を当然、把握しておかねばならない。教員の人事異動や学校評価のためにも、不適格な教員名の報告が必要になろう。

 だが、審査会は「起立しない理由の多くは過去に日の丸・君が代が果たしてきた役割に対する否定的評価に基づく」「不起立は一定の思想信条に基づく行為と推定できる」として、保護されるべき個人情報に当たるとした。

 この考え方は、教育現場では通用しない。個々の教員がどんな思想・信条を持っていたとしても、学校では、児童生徒に国旗・国歌の適切な指導を行う義務を負っている。それが公教育というものだ。

 審査会の答申について、梶田叡一・兵庫教育大学長も「教員に思想信条の自由はあるが、公教育では国旗国歌の尊重が求められている。行政が法令順守を確認するのは当然で、個人情報保護とは別問題だ」と言っている。これが学校現場での正しい考え方だ。

 国旗と国歌には、それぞれの国の歴史が込められている。日の丸は江戸時代から外国船と間違われないための船印として使われ、君が代は和漢朗詠集などの歌から作詞された由来を持っている。日本の子供たちが将来、国際社会で活躍するには、自国の国旗・国歌に誇りを持ち、外国の国旗・国歌にも敬意を払う心を養うことが大事だ。

 教育委員会や校長らは今回の答申に左右されず、問題教員の実態を正確に把握したうえで、毅然(きぜん)とした国旗・国歌の指導を続けるべきである。

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中教審授業時間増了承によせて

 中教審の学習指導要領改定案が教育課程部会で大筋で了承されたという。

 その基本的な内容は、小中学校で、理科・数学・外国語(英語)の授業が、33%~16%増え、現行学習指導要領以前の水準に戻るというのである。これらの授業数増に対して、総合学習の時間、そして、中学での選択科目の廃止で対応するという。
 
 この改定学習指導要領は、来年にも文科省告示する予定だという。その後、数年かけて、教科書等の準備をした上で、施行するという。
 
 この中教審案に対して、『産経』社説は、まだ反省が足りないと批判している。『産経』は、現行学習指導要領の「ゆとり教育」によって、学力が低下してきたと主張し、路線転換を強く要求してきた。
 
 社説は、「ゆとり教育の弊害は大きい。「自分で課題を見つけ考える力」が過度に重視され、基礎基本をおろそかにするような風潮を生んだ」と言う。先の全国学力テストでは、読み書き、計算力などは比較的高い水準にあることが明らかになった。国際比較では、北欧諸国では、授業時間数が比較的短いが、学力が高いというデータがある。もちろん、暗記を中心とする基礎学力については、暗記時間数に比例して、暗記量としての知識量が増えるということは一般傾向としては言えよう。ただし、記憶のメカニズムというのも、それほど単純ではなく、データを入力すれば、そのままデータ量が増大していくコンピューターの記憶装置とは違う。

 『産経』は、「読み書き、計算力などがしっかり身に付いていなければ、その先を考える力の育成は望めない。全国学力テストの結果をみてもゆとり教育が目指した思考力、応用力はついていない」と述べている。だが、これまで、『産経』が「ゆとり教育」を批判してきたのは、それによって、読み書き、計算力が低下してきたということであった。沖縄の住民集団自決検定削除問題で、これに抗議する沖縄での県民集会の数の正確さにあれほどこだわった『産経』が、こと「ゆとり教育」による基礎学力の低下という自らの主張の正確性を証明することもなく、「全国学力テストの結果をみてもゆとり教育が目指した思考力、応用力はついていない」とこっそりと従来の主張を変更しているのだからあきれる。

 全国学力テストの結果は、読み書き、計算力は、しっかりと身に付いていることを示した。授業数を増やせば、思考力、応用力が身に付くのかどうかについて、『産経』は示していない。
 
 思考力は、最近の心理学では、社会性と強い関連があることが明らかになりつつある。人は、外から受ける外傷に対する防衛策として、思考を弱めたり、思考機能を破壊することで、自己防衛をはかる場合がある。社会的敵対性の強まりに対する防衛反応として思考機能を破壊する場合があるというのである。考えないことによって、自己の安全をはかるわけだが、それは、今度は、外への攻撃性として現れるようになるという。思考は、人の生と深く結びついている機能でもあるということだ。
 
 『産経』は、「読み書き・そろばん」の延長に、思考力・応用力を据えている。それは浅薄な思考力観である。考えることは、「読み書き・そろばん」の延長ではなく、社会的機能なのである。だからこそ、破壊されうるのである。

 スピノザ『エチカ』第3部定理11「すべての我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、あるいは阻害する」

 次に、道徳教育についての批判である。『産経』は、「小、中学校で週1時間ある「道徳の時間」は、他の教科などに流用されがちで、教師の指導力にも左右されるなど形骸(けいがい)化が指摘されている。充実策模索への動きも緩慢だ」という。
 
 道徳は、たんなる概念知識ではなく、行為を含む意志の領域の問題である。たんに、「汝殺すなかれ」という知識を持っているだけでは、道徳は無力である。それは、行為を規制し、実際に、その格率を実行できなければならない実践知である。
 
 スピノザ『エチカ』第3部定理7「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない」
 
 同第4部定理21「何人も、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない」
 
 同定理22「いかなる徳もこれ(自己保存の努力)よりさきに考えることができない」
 
 「生きること」は、道徳の前提であり、道徳以前の必要事であり、基礎である。スピノザによれば、「精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである」(第4部定理28)。ここで彼が神と言っているのは、多くの属性を持つ実体のことであり、あらゆる物・社会を含むものである。社会は、人間の物的であると同時に精神的な属性を持つ実体であり、スピノザの言う神とは、社会(あるいは彼の言葉では共同社会)のことと考えられる。そのことは、同定理35「人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する」ということを、社会契約説で説明し、「人間は人間にとって神である」「人間は社交的動物である」というテーゼへの一般の支持の増大という経験的事実から説明していることからもうかかがえる。また、「人間の共同社会からは損害よりもはるかに多くの利益が生ずるような事情になっている」と述べていることからもそれがうかがえる。
 
 ところが、スピノザの時代から300年以上の時がすぎた現在でもまだ、「生きさせろ」という道徳以前のレベルの要求を掲げざるを得ない人々が存在しているのである。
 
 新自由主義的な自己責任という道徳以前的なレベルへの後退が、道徳のごとく叫ばれている。競争至上主義は、その支持者をも破壊する競争の力を物神的に信奉するものであるが、先日のテレビ朝日系『TVタックル』で、日能研幹部が、「競争は進歩のために必要だ」と言って、競争の「いい面」(マルクス『哲学の貧困』が引用するプルードンの言葉)だけを一面的に取り上げ、その「悪い面」を無視することで、塾産業の利益を代表するように、道徳が欺瞞に変えられている。
 
 マルクスは、『哲学の貧困』で、プルードンの競争の「いい面」と「悪い面」への分類表を示して、競争の「悪い面」に「いい面」があり、その逆もあるということを指摘しつつ、「社会主義者たちは、現在の社会が競争に立脚していることを百も承知している。いかにして彼らは、彼ら自身も転覆しようと思っている現在の社会を競争が転覆するからといってそれを非難しうるのだろうか? また、いかにして彼らは、きたるべき社会の―そこではあべこべに競争が転覆されると彼らの考えている社会―を競争が転覆するといってそれを非難しうるのであろうか?」と述べて、競争が競争の反対物である独占を生み、それがまた新たな競争を生むということを明らかにしている。
 
 塾産業は、最初は、学校教育の補完物として始まったが、それはやがて巨大化し、独占化して、独占間の競争が激化している。そしてついには、学校との競争にも乗り出すようになり、それをも教育産業の中に組み入れようとしている。「ゆとり教育」が、塾産業に新たな需要を生みだしてくれたが、それが中教審によって、たたれようとしている。中教審では、塾不要論を主張する委員もいるようである。そこで、先の日能研幹部は、今度は親学に基づく家庭教育の指導事業に参入するようなことを語った。そこに新たな教育産業の需要が生まれそうだからである。英会話学校の大手に急成長し破綻したノヴァは、ネイティブの英会話講師を学校に派遣していたが、教育予算が厳しく制約されるようになっている公立学校が、こうした教育産業を利用するようになっているのである。ノヴァのケースでは、一代で最大手にまでした猿橋社長は、本社ビルに隠し部屋を作って、サウナなどを楽しんでいたようである。個人的蓄財も相当なものであったようで、フランス留学の経験も持つエリート社長の最後は、醜くく、不道徳なものである。これは、学力と道徳の間に、比例的な関係がないことを示す典型のような事例である。
 
 『産経』は、最後に、「中教審は報告の中で知、徳、体のそれぞれの充実を掲げている。公教育の信頼回復につながる具体策を責任を持って議論してほしい」という要望を掲げている。「知」の充実と「徳」の充実と「体」の充実の間に、有意義な関係性・社会性をつけられなければ、それぞれの単独での充実は、一方が他方を裏切る形で、混迷を深めるだけだろう。たまらないのは、こうした実現困難な形で上から押しつけられる教育方針に右往左往させられて、混乱させられる現場である。他方で、中教審は、「ゆとり教育」の理念はそのまま継続するという。こういう点を、『産経』は、反省が中途半端だと批判し、全面的に清算すべきだという。中教審の理念は正しいが、その実現方法でまちがっただけだという反省では、なぜ、授業時間数を再度元に戻すのかがわかりにくいのは確かだ。中教審は、学力主義を叫ぶ『産経』などの主張と詰め込み教育の反省という80年代の臨教審の路線との間で、折衷的な態度を取っているのであり、このような動揺は、現場を混乱させることだろう。
 
 全国学力テストで県別成績が高かった秋田県は、30人学級と放課後の補習授業の組み合わせで、学力向上をはかったらしい。前に書いたように、少数の飛び抜けた成績優秀者を作るよりも、下の多数者を少しでも引き上げ、底上げした方が、全体の成績は上がるということだ。そして社会的連帯感を養った方が、道徳を向上させる。共同生活の喜びの感情が、道徳を支えるからである。道徳の授業が、それを与えられるならいいが、教える教師自身が、その喜びの感情をあまり持っていなければ、道徳教育は難しい。『産経』には、そういう喜びを語る社説が少ない。それで、どうして道徳教育の教科化を主張するのかがわからないし、ただ説教と強制に隷従する態度を道徳と呼んでいるとすれば、そんな道徳観は、中世的なものであり、自由と主体性の名において、旧道徳を転覆した歴史的進歩を台無しにするものだ。そして、道徳と考える力を切り離したら、道徳のさらなる進歩という課題に背を向けることになる。

 理、数、外国語が大幅増 学習指導要領の中教審部会案(『朝日新聞』2007年10月30日)

 学習指導要領の改訂を検討してきた中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の教育課程部会は30日、標準授業時間の案を大筋で了承した。小中学校では理科、算数・数学、外国語(英語)の授業が33~16%増え、02年度に完全実施された現行の指導要領以前の水準に戻ることになる。この日は、これまでの一連の審議を「審議のまとめ」として了承し、実質審議は終了した。今後の手続きが順調に進めば、11年春から実施される。

 小中の一部教科で授業時間を増やす方向性はすでに部会で了承されており、この日は、教科別の具体的な時間を中心に審議した。

 了承された案で増加率が最も高いのは、中学の理科と外国語で各33%。中学の数学22%、社会19%、保健体育17%と続く。この結果、中学理科が89年に改訂された現行より一つ前の指導要領を上回るのをはじめ、外国語は89年改訂時以上、算数・数学は同じになる。

 学校週5日制は維持するため、総授業時間は、小学校5.2%増、中学校3.6%増にとどまる。「総合的な学習の時間」(総合学習)を減らし、中学の選択教科を原則なくして、増やした教科の時間を確保する結果となった。

 一方、「審議のまとめ」は、言語力と体験活動の重要性を打ち出す内容。各教科で、実験や観察を重視し、記述や論述を含めた学習を多用する方針だ。

 次回会合で「審議のまとめ」が正式に了承されれば、中教審は意見募集を経て答申。文科相が08年春に改訂指導要領を告示する。教科書の執筆、検定などに3~4年の時間をかけたうえ、施行される。

   【主張】ゆとり教育 まだ反省が足りぬ中教審(『産経新聞』2007.10.31)

 次期学習指導要領の原案となる中間報告を中央教育審議会の部会がまとめた。「ゆとり教育」の失敗に初めて言及しており、その点では一定の評価ができよう。

 中教審は報告のなかで、「指導要領の理念を実現するための具体的な手だてが十分でなかった」として5つの課題をあげた。

 「『生きる力』について十分な共通理解がなかった」「子供の自主性を尊重するあまり、教師が指導を躊躇(ちゅうちょ)する状況があった」などである。中教審、文部科学省が、自ら積極推進してきたゆとり教育の反省を述べるのは極めて異例だが、問題は責任の所在が不明確なままであることだ。

 現行の指導要領では、毎週土日休みの学校5日制で減る授業時間以上に学習量を減らした。昭和50年代のピーク時より学習量は半減している。

 ゆとり教育の弊害は大きい。「自分で課題を見つけ考える力」が過度に重視され、基礎基本をおろそかにするような風潮を生んだ。

 読み書き、計算力などがしっかり身に付いていなければ、その先を考える力の育成は望めない。全国学力テストの結果をみてもゆとり教育が目指した思考力、応用力はついていない。

   ゆとり教育の象徴だった「総合的な学習の時間」は次期指導要領では削減され、小学校低学年を中心に国語、算数・数学など主要教科の充実を図る。計算力、言語力などの重視を改めて明記したことは危機感の表れだ。

 「生きる力」については、概念があいまいだとの指摘も多い。中教審、文科省は施策の誤りを率直に認め、学力の向上策を練るべきであろう。

 道徳教育については充実方針を盛り込んだものの、政府の教育再生会議が提言した「徳育」の教科化について両論併記としており、実現に消極的だ。渡海紀三朗文科相もこれまでの会見などで教科化に積極姿勢がみえない。

 小、中学校で週1時間ある「道徳の時間」は、他の教科などに流用されがちで、教師の指導力にも左右されるなど形骸(けいがい)化が指摘されている。充実策模索への動きも緩慢だ。

 中教審は報告の中で知、徳、体のそれぞれの充実を掲げている。公教育の信頼回復につながる具体策を責任を持って議論してほしい。

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全国学力テストなどについて

 48年ぶりの全国学力テストの結果が公表された。
 
 それからわずかの日にちしかたっていないが、中央教育審議会が、「ゆとり教育」で授業時間を減らしすぎたなどの反省点を列挙した上で、学習指導要領の改定を検討していることが明らかになった。
 
 全国学力テストの結果は、知識面での学力レベルが比較的高い水準にあることを明らかにした。皮肉にも、「「ゆとり教育」が目指した問題解決型の応用問題が苦手な傾向も変わらない」という結果が出て、「ゆとり教育」施策が、効果を発揮しなかったということが明らかになった。思考力や表現力といった学力と、他人を思いやる心などの「生きる力」が育っていなかったのである。
 
 知識力の方は、授業時間が減少したにも関わらず高い水準を維持したわけである。それには、塾などの影響もあるのかもしれない。

 『読売』社説は、「全国学力テストの結果は、子どもの学力の一面を示すものに過ぎない」としつつ「適度な競争は子どもの学習意欲を高め、学力向上を後押しする」、『産経』社説は、「競争封ぜず学力の向上を」と競争を促進することでの学力向上を主張している。しかし、競争が学力を向上させるという確たる証拠はあげていない。授業時間数の増減と知識学力の増減も一致していないようだ。
 
 『毎日新聞』の以下の記事からは、学力向上の鍵は、競争ではなく、人間関係にあるということが伺える。
 
 それに対して、『産経』社説は、意味のよく分からない説教をするだけだ。「教育界には相変わらず競争や評価を嫌う体質がある。今回の学力テスト実施前にも一部教職員組合が妨害するような動きがあったのにはあきれる」という。なんのための競争・評価かがわからない。競争のための競争、評価のための評価なのかと思わざるをえない。「全国レベルと比べ地域や学校がどの位置にいるかが分かる全国一斉テストの利点を生かし、学力向上策を競ってほしい。成績の良い学校や教委の取り組みも参考になるはずだ」というが、学力は、知識面はすでに全体としては十分高いが、地域差など格差があるということが明らかになった。総合学習の導入にもかかわらず、考える力、生きる力、などの学力が弱いことも明らかになった。
 
 競争や評価は、子どもや親や社会の福利や幸福と何の関係があるのか、それがわからないと学習意欲もわかないし、学力向上の動機も得られない。ただ、競争しろとけしかけられても、意欲がわくわけがない。幸福の絶頂と思われたライブドアの東大卒の競争の勝者ホリエモンは、今本当に幸福だろうか? 東北大出で官僚のトップである防衛庁事務次官までのぼりつめた守屋元次官は、軍需企業のゴルフなどの接待を受け、今、国会での証人喚問を受けようとしている。彼は、競争の勝者であるが、それで今幸福だろうか? 人間が腐っても、競争で勝てれば、幸福だと言えるのか? 
 
 「自由進度学習」を導入して、2年後には、子ども達の「楽しさの実感」「自信の実感」「達成の実感」が向上したという愛知県の石浜西小学校の試みは、全国学力テストによる競争と評価の前から行われていることだ。
 
 最後の、「藤井千春・早稲田大教授(49)は「家庭だけに原因を求めるのは危険。人との関係性やモチベーションを作る子ども集団や地域が失われたことも大きい」と説明する。やる気をどう呼び起こすのか。藤井教授は「学力の高い学級では子ども同士の温かい人間関係があり、遠慮なく質問したり、まねしたりする。肝心なのは、子どもを泳がせたり遊ばせたりする教師の指導力と人間性です」と強調する」ということは、競争が破壊し、破壊しようとしているものである。このことを『産経』『読売』は、どう受け止めるのか? 
 
 『産経』『読売』は、考える力がのびていないことにほっとしているのではないだろうか? かれらの書くことを徹底的にあらゆる角度から考える人が大勢出てきたら、こんな社説は、考える力の強い読者から見放され、低い評価しか得られなくなるかもしれないと空想してしまう。
 
 『産経』社説は、最後に「教師が独り善がりの授業をしていないか、家庭でしっかり勉強しているか、今回の結果を率直に受け止め学力向上につなげたい」と主張する。『産経』は、教育というと、教師個人の責任、そして家庭教育での親の責任という具合に、個人に責任を負わせる個人主義的な見方から抜け出ることができない。そして、そこから社会を飛ばして、国家のレベルに飛躍する非現実的な観念主義に陥っている。個と全体(国家)の二つのレベルしかなく、地域・家庭を、国家の道具に変えようとする。
 
 しかし、問題が、関係性にあり、コミュニケーションのレベルにあることは、『毎日新聞』記事からわかる。問題は、個人道徳というレベルでは解決しないということだ。中教審が、道徳教育を提唱しているのは、道徳知識量の増大でしかなく、それは道徳感情と道徳的行為の増大には必ずしもつながらないのである。道徳は、意欲・意志との関係で形成されるもので、社会性と関係している。だから、『産経』のように、そのレベルを無視し、すっ飛ばしてしまえば、個人の道徳心の評価、言い換えれば、説教に終わるだけになる。そして、集団性においてある教育現場の実践や地域・家庭教育実践に対して、企業が不良品を取り除くように、悪い個人を排除し、良い個人だけを残すという形でしか問題解決を考えられず、実際そういうことを主張してきたように、エリート主義になっている。
 
 良い者・優秀な者ばかりで組織される集団の形成というエリート主義的な夢は、実際には、悪夢になる。学力テストの例で言えば、100人のテスト結果で、100点満点を取る者が1人で、他の99人が0点だったら、平均点は、1点であるが、同じ条件で、全員が2点だったら、平均点は2点である。総得点では、前者が100点で、後者は、200点である。前者の100点の1人は、孤立感などの疎外感に悩み、不幸を感じるかもしれない。残りの99人は、ある意味で仲間が多かったことで、連帯感を感じ、劣等感に悩むことがないかもしれない。
 
 集団の総合力と集団性格と個人の力と性格・能力は異なり、質的にも異なるものである。集団の力は、個人の力の単純な総和ではなく、その集団の性格・内容によるものである。個人評価の和では集団の評価はできないということだ。
 
 例えば、映画『釣りバカ日誌』シリーズの主人公ハマちゃんは、不良で個人評価の低いダメ社員だが、会社内では、円滑な人間関係を形成する柱であり、会社を超えた釣りという趣味を通した人脈のネットワークを持っていて、それが時に、仕事上も役に立っている。このような行為や人物を評価するには、個人主義やそれと結びついた能力主義を評価基準とすることでは不可能で、集団性格・集団力など集団を評価する基準を必要とする。
 
 それをどう育てるかということについて、『産経』にはまったく現実と合わない発想しかなく、それで、教育を云々することは非現実的である。中教審にもそんな発想というか哲学がないように見える。そんな状態で、全国学力テストだの授業時間の再増加などをしたところで、どうにもならないのではないだろうか?

 新教育の森:学力再考/3 「意欲」指導、悩む公立校(『毎日新聞』10月28日)

 子ども自身が学習計画を立て、助け合いながら勧める愛知県東浦町の石浜西小学校の「自由進度学習」の授業 「ふたを開けてみないと、何人児童が来るかわからないんです」。教師がやや不安そうな表情をしていると、児童たちが集まってきた。黒板の前のエナメル線や方位磁石を手にとり、電磁石作りを始める。理科の授業がにぎやかに始まった。 

 愛知県東浦町立石浜西小の「自由進度学習」と呼ばれる授業で、子ども自身が学習計画を立て、自分のペースで学ぶ。3~6年生で週1~2時間、年間約40時間あり、算数と理科、理科と体育といった同時に進める2教科の授業のうち、好きな方を選んで学ぶ。5年生の小田淑申(よしのぶ)さんは「自由にできてウキウキする。体育も自分で練習法を決められるし、理科も自分で調べている感じがする」と話す。

 石浜西小では、約280人の児童全員が、隣接する県営住宅から通う。うち3割は、保護者が自動車関連の工場などで働く日系ブラジル人などの外国籍だ。経済的に苦しく就学援助などを受ける児童も約20%いる。

 この授業を始めたのは2年前。4年前、赴任した当時の竹内学教諭(28)は宿題をせず、列も作れない児童に途方にくれ、悩んだ。そんな子どもたちが、目に見えて変わった。昨年、児童を対象に意識調査をしたところ勉強の「楽しさの実感」「自信の実感」「達成の実感」のいずれもが向上した。竹内教諭は「できることを用意すれば、子どもはやる」。主に授業内容を企画する竹内淑子教諭(48)は「じっとしているのが苦手で一斉授業では手を焼く子ほど活躍したり。子どもを見る目が変わりました」と話す。

 小山儀秋校長(58)は「他地域と比べうちの子たちの学力は低かった。以前は教員も『努力しても無駄』との雰囲気があったが、児童に意欲が感じられるようになった」と振り返る。
 
 学力が低く、意欲のない子どもの存在は二つの調査からうかがえる。経済協力開発機構(OECD)の03年学習到達度調査(PISA)の読解力問題で、00年に2・7%だった日本の成績最低レベルの層が7・4%に増えた。日米中韓の高校生調査(日本青少年研究所)で「収入があればのんびり暮らしたい」と答えた日本人は42・9%、「がんばっても報われるとはいえない」は26・5%でいずれも最多だった。

 学級崩壊や学力問題に取り組む「プロ教師の会」メンバーで、神奈川県厚木市の小学校に勤める北村則行教諭(58)は「意欲の乏しい子は90年代から目立ち始めた。居残って宿題をするよう指導してもいなくなってしまう。目的を持ち楽しく勉強している子は充実した学びをしており、差は厳然」と話す。「学ぶ子」と「学ばない子」の二極化が進む。成育環境や経済力に恵まれない子を抱える公立校の悩みは深い。

 藤井千春・早稲田大教授(49)は「家庭だけに原因を求めるのは危険。人との関係性やモチベーションを作る子ども集団や地域が失われたことも大きい」と説明する。やる気をどう呼び起こすのか。藤井教授は「学力の高い学級では子ども同士の温かい人間関係があり、遠慮なく質問したり、まねしたりする。肝心なのは、子どもを泳がせたり遊ばせたりする教師の指導力と人間性です」と強調する。=つづく
 
 「授業減らしすぎた」中教審が異例の反省(10月28日『読売新聞』)

 次の学習指導要領を審議している中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が、近く公表する中間報告「審議のまとめ」の中で、現行の指導要領による「ゆとり教育」が行き詰まった原因を分析し、「授業時間を減らしすぎた」などと反省点を列挙することがわかった。

 中教審はすでに、小中学校での授業時間増など「脱ゆとり」の方針を決めているが、反省の姿勢を明確に打ち出すのは初めて。中教審が自己批判するのは極めて異例だが、反省点を具体的に示さなければ、方針転換の理由が学校現場に伝わらないと判断した。

 中教審は1996年、それまでの詰め込み教育への反省から、思考力や表現力といった学力と、他人を思いやる心などを「生きる力」として提唱。現行の学習指導要領は、この「生きる力」の育成を教育目標に掲げ、小中とも授業内容を3割削ったり、総授業時間数を1割近く減らしたりしたほか、教科を横断した学習で思考力などを身につける「総合学習の時間」の創設を盛り込んだ。しかし、指導要領が実施されると、授業時間の減少により、「基礎学力が低下した」「子供の学習意欲の個人差が広がった」といった批判が相次いだ。

 全国学力テスト “宝の持ち腐れ”にしてはならない(10月25日付・読売社説)

 子どもたちの学力や学習環境に関する膨大なデータが得られた。これをどう教育の改善と学力向上につなげるか。徹底した分析と、その有効活用が今後の課題となる。

 4月の全国学力テストには小学6年と中学3年の222万人が参加した。出題は国語と算数(数学)で、それぞれ知識を問うA問題と、知識の活用力をみるB問題の2種類だった。

 知識の問題には、ほぼ合格点がついた。中学数学だけが平均正答率7割台だったが、他の小学国語、算数、中学国語はいずれも8割を超えた。

 一方、活用問題では、正答率7割台は中学国語のみで他は6割台前半と振るわなかった。国語の「正しく読み取る」「考えをまとめる」、数学の「考えの過程を明確にし説明する」力が弱かった。

 読解力や表現力など、知識応用の力に問題があることは、3年前の国際学力調査などでも指摘されていた。それが今回のテストで再確認された。現在、作業中の学習指導要領改定に反映させる必要がある。各学校でも、授業や指導法の見直し・改善を検討してほしい。

 学校ごとの成績状況は、保護者や教員が最も注目していた点だろう。小、中学校とも、全国平均との標準偏差では大きなばらつきはなかった。だが、全体の1割近くの学校が、B問題を中心に正答率が5割に満たないという実態もある。そうした学校のレベルアップのため、早急な支援が必要になろう。

 子どもの学習環境や生活習慣と、学力の関連性についても分析した。毎日、本を読む子は国語の正答率が良かった。家できちんと宿題する子、朝食をしっかりとる子も正答率は高い。各家庭で子どもの生活環境を改善することが大事だ。

 懸念されるのは、「競争の激化」「学校の序列化」の批判を恐れるあまり、多くの自治体が過剰なほど結果公表に慎重になっていることだ。

 このため、自校の平均正答率などを全国や都道府県単位のデータと比べるのがせいぜいで、自校のある市区町村や、県内他地域のデータなどとの違いは検証できない学校も出てくる。これでは全国津々浦々きめ細かい調査をした意味が薄れないか。保護者の関心も強いだろう。

 全国学力テストの結果は、子どもの学力の一面を示すものに過ぎない。そう関係者も理解して臨んでいるから、43年前まで実施されていた学力テストのような、試験対策での過熱もなかった。

 適度な競争は子どもの学習意欲を高め、学力向上を後押しする。テスト結果を、宝の持ち腐れにしてはならない。

  【主張】全国学力テスト 競争封ぜず学力の向上を(『産経新聞』2007.10.25)

 小学6年と中学3年約225万人が参加した43年ぶりの全国学力テストの結果が公表された。地域や学校間の差から目をそらさず、これを指導改善に生かしてほしい。

 都道府県別のデータをみると、差が意外に大きい。正答率を100点満点で換算すると、小6の国語で上位の秋田と下位の沖縄では基礎問題(A問題)で9点の差、応用問題(B問題)では16点の差がある。中3の数学では基礎、応用とも上位の福井と下位の沖縄で約20点の開きだ。

 なぜ学力の差がでるのか。例えば沖縄では、今回同時に行われた学習時間や生活習慣などの意識調査で、宿題を出す学校が少なく家庭学習の時間が少ない傾向があった。

 一方で成績がよかった秋田では、夏休みの補習などを行っている学校が多く、地道な学力向上策が効果をあげているともいえる。

 もちろん学力差の要因はこれだけではない。教師の指導法や学習環境、学校教育以外の地域状況などさまざまだろう。各市町村や学校にはそれぞれの成績データが送られており、各教委は学力の実態を把握、分析し、課題を明らかにしてほしい。

 今回は、昭和30年代の学力テストで自治体間や学校間の競争が過熱した反省から、文部科学省は市町村別や学校別のランキングは公表せず、都道府県のデータ公表にとどめた。

 教育界には相変わらず競争や評価を嫌う体質がある。今回の学力テスト実施前にも一部教職員組合が妨害するような動きがあったのにはあきれる。

 全国レベルと比べ地域や学校がどの位置にいるかが分かる全国一斉テストの利点を生かし、学力向上策を競ってほしい。成績の良い学校や教委の取り組みも参考になるはずだ。

 学力低下が懸念される中、今回は改善もみられる。平均だけみると基礎問題の結果は8割の出来だ。しかし三角形の内角の和(180度)のように相変わらず苦手な問題もある。

 さらに「ゆとり教育」が目指した問題解決型の応用問題が苦手な傾向も変わらない。

 教師が独り善がりの授業をしていないか、家庭でしっかり勉強しているか、今回の結果を率直に受け止め学力向上につなげたい。

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教育分野での安部カラーの清算のはじまり

 安部総理辞任の影響が、早くも表われたのが、以下の『毎日新聞』の記事である。

 別の記事では、中教審だけではなく、文科省も、道徳の教科化を断念したとある。
 
 ただし、下の記事ではある中教審委員は、「「教科化にこだわった議論ではなく、子どもたちの道徳心を高めるための実質的な論議をしたい」と説明しており、小学校での自然体験や中学校での職業体験のほか、高校での奉仕活動なども論議される見通しだ」というように、道徳教育強化を中教審があきらめたというわけではない。もっとも、道徳論議は、中教審その他で何度も蒸し返されている定番の教育テーマと言ってもいいもので、また議論が延々と続くのか、という感じである。
 
 こういうところの道徳論議は、つまらないものであることが多い。
 
 安部政権が倒れるずっと前から、安部政権誕生を歓迎した右派・保守派の凋落が続いていているが、安部総理の退陣で、それは加速するだろう。
 
 安部政権に強い期待を寄せていた岡崎久彦元タイ大使、櫻井よしこ、屋山太郎の三氏が、同日の夕刊で、安部政権の総括と保守派のこれからについて語ったインタビュー記事がある。岡崎氏は、「特に教育は、思想が保守かどうかに一番影響を与える問題です。教育再生会議はあとは事務的にやればよく、教育はもう大丈夫だと思います」と述べたその日に、教育再生会議の道徳教科化が文科省と中教審で息の根を止められてしまった。彼は、安部退陣は、健康問題だと言うが、それが主な原因ではなく、日米首脳会談で、アメリカに約束した対テロ特措法が期限内に成立させることが難かしくなったのが一番の原因である。アメリカが強く日本に望む政策が実現できない時、日本の首相の首が飛ぶのである。自発性を装いながらではあるが。鈴木政権の時もそうだった。小沢党首にこの問題での党首会談をけられたためだというのは、けっこう正直な発言だったのではないだろうか。
 
 岡崎氏は、福田政権ができれば、「反動の時代」が来るから、保守派はそれに備えなければならないと言っている。
 
 櫻井氏は、福田政権が誕生すれば、自民党は終わるだろうと言っている。小選挙区制度の下の二大政党制だから、一党内で、政権交代のように政策がころっと変わることは、昔の中選挙区制の下の自民党政権時代のようにはいかないというのである。彼女の考えからすれば、政策を大きく変えるなら、解散総選挙で、民意を問うという手続きが必要だということになろう。そうしないで、昔の自民党みたいに内部で事実上の政権交代のようなまねをすれば、古い自民党になって、自民党は終わるというのである。

 屋山太郎氏の場合は、問題外である。言いたくないが、耄碌しているとしか言いようがない。彼は、「(安倍辞任で)ショックなんてないね。安倍さんが、官僚の天下りを根絶したいって言うんで賛成しただけだ」というのだが、自身が大幹部の座についている「教育再生機構」で、氏自身がなんと言っているかを忘れてしまっているらしい。
 
 そして、彼が、安部政権の教育基本法改正や改憲のための国民投票法を支持したのは、「ただ、(自分たちが)訴えたかったのはモラルの回復なんだ。日本人のモラルは恥の文化から来ている。それが日本のモノづくりの基礎になった。恥の文化のもとは名誉で、そのもとは武士道。それが廃れたから、今は子殺し、親殺しとめちゃくちゃじゃないか。恥の文化をもっと知らせなきゃならないんだ。いずれにしても、大砲は放たれた。あとはそれがどこに着弾するか。それを待つだけだよ」とのたまう。
 
 自分が恥知らずのくせに、恥の文化を取りもどしたいというのだからあきれる。武士道なら、潔さや忠義や勇気などだろう。結局、彼の道徳の基本は、モノづくりのための道徳、つまりは勤労道徳だ。彼は、いいモノをつくりたいというのは名誉という道徳によるものだと言いたいのである。そして、池田政権の所得倍増計画のような物的刺激策を戦後レジュームの悪として、否定したいのだろう。名誉という精神的価値を求めて勤労する道徳的人間が、彼の理想なのだろう。彼自身は、名誉よりも、テレビで、つまらないだじゃれをとばして、受けを狙う人物で、別に武士らしくもないし、名誉を特に重んじているようには見えない。
 
 「お坊ちゃま」安部総理は、生活の心配もないから、ただ彼の「美しい国」なる空想の実現だけを純粋に追求していくことができたわけである。しかし、日々の生活の中で、自己の幸福を物的・精神的に追求している多数の人々は、それに対する反感を募らせていった。それは当然のことだ。それに気づきもしないというのは、安部「お坊ちゃま」の鈍感力がかなり強かったということである。
 
 屋山太郎氏は、あれほど、安部を持ち上げ担ぎ上げ、教育再生機構だって、安部政権にすり寄っていったくせに、安部政権が泥船となるや沈みかかった船から、さっさと逃げを打って、「安倍さんが、官僚の天下りを根絶したいって言うんで賛成しただけだ」とは、恐れ入谷の鬼子母神だ。これを恥知らずと言わずして、何を恥知らずと言うのだろう。
 
 屋山太郎氏は、櫻井氏と違って、小選挙区制下の二大政党制という新しい政治状況をまったく度外視しているか、理解していないのかもしれない。政権交代すれば、せっかく撃った長距離砲も、着弾する前に、迎撃されて、別な長距離砲が撃たれるかもしれないということだ。参院民主党のトップの興石氏はじめ日教組出身議員が何人も参院選で当選しているし、参院議長は、元社民連の江田五月議員である。次の衆議院選挙で、民主党政権ができたら、自公が強行採決した教育基本法をそのままにしておくだろうか? 強行採決には、民主党の諸法案の強行採決で、お返しするのではないだろうか? それが、小選挙区制下の二大政党制による政権交代のある国会の政治というものではないか。
 
  「教育再生機構」八木一派と分かれた「新しい歴史教科書をつくる会」藤岡一派の方は大変な状況になっているようだ。その様子を、時々、コメントを寄せていただく知足さんのブログの記事から、一部引用してみる。「つくる会」10回総会があったばかりである。
 
  「「つくる会」この一年で正会員が3割弱減る/委任状提出の減少が際立つ/過激なヤジが多くの出席者から出る」
  「「つくる会」副会長福地惇殿 不遜な態度を改めて下さい」
  「激しい怒号が飛び交い、議長も立ち往生」
 「「つくる会」のやり方も朝日やNHKと同じ情報操作をしているように思う」
  「共倒れを避けるには「つくる会」による「改善の会」攻撃を抑制するしかない◇そんな状況の教科書を採択するような学校、教育委員会がある筈がない」
 「あれでは「つくる会」を去っていく人があとを立たない/西尾先生の「扶桑社を告訴すべき!」は物笑いになるだけ」
 「あと幕屋ですが、3年前にもさんざんやりまして、結論としては「地方では功罪相半ばだが、中央では明らかに有害」というもので、つくる会にとってはデメリットの方が大きいという認識を持っていました。尤も今ではつくる会の方が弱体化して幕屋の支えなしでは立ち行かないところまで来てしまっていますから、「必要不可欠」です(笑)」
 「「つくる会」の人脈は「南京事件」問題に深く拘った人達に限られて来た」
 
 ざっとこんな具合である。このほとんどは、「つくる会」内部の人の声である。ここで出てくる「幕屋」は、「キリストの幕屋」という新興宗教団体で、一応キリスト教っぽい装いであるが、「靖国」公式参拝推進なども主張する右派宗教団体である。女性信者が、長髪を渦巻きのような形に巻いて耳の上に束ねるという特徴のある髪型をしているので、よく目立つし、すぐにそれとわかる。保守系団体にいくつも加盟していて、集会動員や資金面で、保守派の運動を支えている。

 しかし、ついに、「つくる会」が、わずかな間に、このようなカルト教団がむき出しで支えるという状況にまで落ちてしまうとは。しかも、保守派が期待した安部政権と保守派新興宗教の「霊友会」の石原都知事の首都東京都政という保守派有利な状況の下で、こんなに保守派・右派運動が凋落してしまうとは、本人たちが一番ショックを感じているのではないだろうか。
 
 次は福田政権となるだろうが、そうすると、安部政治に対する「反動」(岡崎久彦)が起きることだろう。「戦後レジュームからの脱却」「美しい国づくり」などの安部路線は、清算されていくだろう。それがすでに以下に示されている。安部総理肝いりで作られた「教育再生会議」が早くも凋落し、力を失ってきているのである。集団的自衛権行使の解禁のための「有識者懇談会」も、実質的に終わりとなるだろう。
 
 中教審の提言が実現されるかどうかは、政治力にかかっており、政治状況が、不安定で混迷した状況が続けば、いくら議論ばかりしても、その提言は政策化できにくいし、実現困難だ。民主党政権ができれば、日教組出身議員が、教育問題を扱う委員会の委員長を占めることもありうるから、日教組系委員の中教審委員への採用なども行わなければならなくなるかもしれない。いずれにしても、これまでのような日教組排除で作られてきた教育行政議論のあり方は、そのままというわけにはいかないだろう。いろいろとこの分野でもこれから変化がありそうである。

  『毎日新聞』(2007年9月18日)

 中教審の専門部会がまとめる検討素案では、道徳教育の充実が明記される。ある中教審委員は「教科化にこだわった議論ではなく、子どもたちの道徳心を高めるための実質的な論議をしたい」と説明しており、小学校での自然体験や中学校での職業体験のほか、高校での奉仕活動なども論議される見通しだ。

 専門部会では、道徳は学校活動の全体で教えていくもので個別の教科として指導することに疑問の声が出ていた。教科化見送りは、安倍晋三首相が辞任を表明し、教育再生会議の影響力低下の可能性が高いことが背景にあるとみられる。【高山純二】

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「新しい歴史教科書をつくる会」と扶桑社が絶縁

 右派で歴史修正主義者の集まる「新しい歴史教科書をつくる会」とフジ・産経グループの出版社の扶桑社との教科書発行問題の話し合いが決裂した。

 「つくる会」は、扶桑社から、歴史・公民の教科書を発行してきたが、採択率が低く、扶桑社側の負担が重くなっていたと思われる。しかも、教科書の記述内容についても、かねてから、扶桑社側に不満があって、その意を受けて動いた八木秀次元会長派と藤岡・西尾派との内紛があり、八木一派が「つくる会」を事実上追い出されるという事態にまでなった。

 「つくる会」を出た八木グループは、新たに日本教育再生機構を設立し、八木氏は、代表に就いた。日本教育再生機構は、与党・政権と融和的で、親米的な保守派が多い。扶桑社も、このグループと手を組む模様である。

 5月30日、「つくる会」も、日本教育再生機構と融和的な動きをしてきた小林正会長を解任し、藤岡信勝副会長が会長に就いた。「つくる会」は、別の出版社を探すという。

 31日の「つくる会」ニュースは、「このような結果となった責任を明らかにし、今後の「つくる会」の運営を円滑にするという趣旨に基づく、小林会長の解任動議が提出されました。慎重に審議した結果、解任動議は可決されましたが、小林会長に辞任の意思があれば辞任による退任を優先することとしました。その後、小林会長に辞任の意思がないことが判明し、会長並びに理事の解任が確定しました」と、またしても、会長を引きずりおろすという内紛による人事変更が繰り返された。

 同ニュースには、「続いて理事会では新会長の選出が議題となり、藤岡信勝副会長が推薦され、反対は無く満場一致で選出されました。また、欠員となった副会長には杉原誠四郎理事が選出されるとともに、新理事として大月短期大学教授の小山常実氏を選出しました。/この結果、新執行部は、藤岡会長と、高池・福地・杉原3副会長の4名体制で構成されることになりました」とある。この4名体制も安泰は続くまい。

 最後に、「なお、今回理事会までに、石井昌浩理事、小川義男理事が辞任されておりますのでお知らせします」とついでのように記されているが、粛清に次ぐ粛清というスターリンばりのやり方が、またも繰り返されたのである。

 31日付「<会長声明>創立の初心に立ちかえり、「つくる会」10年目の挑戦にお力添えを」という声明で、藤岡新会長は、「つくる会は10年前の平成9年(1997年)1月、日本の歴史教科書の現状に危機感を抱いた同憂の士相集い、任意団体として発足しました。近代日本を悪逆非道に描き出す「自虐史観」を克服し、次世代の子どもたちに誇りある日本の歴史の真の姿を伝えようという会の訴えは、たちまち国民的な反響を呼びました」と自画自賛している。これが錯誤であることは、今では、多くの人がわかっている。「同憂の士」たちの本は、売れなくなってしまったのである。

 錯誤の上に、彼は、「こうして10年、つくる会は今、『新しい歴史教科書』というかけがえのない運動の柱を持つに至りました。この教科書は、「階級闘争史観」や「自虐史観」の拘束から自由になり、世界史的視野のなかで日本国と日本人の自画像を品格とバランスをもって活写しています。面白く、通読に耐える唯一の歴史教科書でもあります」と自己陶酔に浸っている。

 彼にとって、「階級闘争史観」や「自虐史観」は自らを拘束するものであり、それから自由になったというのであるが、今度は、「自由主義史観」という別のものに拘束されたということを自覚できない。その拘束からも自由にならなければならないということに気づかないのである。彼の中では、自由主義イデオロギーだけが、自由を真に実現するものなのだろう。このイデオロギーが、「世界史的視野の中で日本国と日本人の自画像を品格とバランスをもって活写する」ことを可能にすることになっている。ところが、現実は、日本人の中に、固定的な格差があり、上層と下層の間では、お互いに同じ「日本人」と言われても、あまりにも違いが大きすぎて、相互理解ができないほどの深い溝が生まれ、それが固まりつつある。地方の住民から見ると、石原東京知事などというのは、ほとんど怪物のようにしか見えないようになってきたのである。

 そんなリアルな現実は、藤岡会長の視野の外にあって、ただ、好き勝手にいいように描いた空想的な自画像を信じろと人々に押しつけているだけなのである。「つくる会」の「新しい歴史教科書」は、100万部売れたというが、右派宗教団体が、一人で何冊も買って、売り上げを水増しし、「つくる会」に反対する人にまで、送りつけていたのである。

 新たな出版社を公募するという。採択率の向上が見込めそうもない教科書の出版を引き受ける奇特な出版社があるかどうかはわからない。運動として、経営的な損得を越えて、公募に応じるところがあるかもしれないが、しかし「桜チャンネル」が、金銭的に行き詰まって、事業縮小を余儀なくされたことを考えると、それも難しいのではないだろうか。

 対する日本教育機構の方は、親米保守派という既存保守の主流で、財界や自民党にも多くいる権力も金もある上層に支持基盤をすえている。こちらは、自民党や教育再生会議への働きかけなどを行っており、政権内部の支持者たちと連携しつつやっていくようだ。したがって、与党文教族・森派の文教利権を解体するのではなく、そこに食い込むつもりなのだろう。文科省役人の天下り、利権、官民癒着は、他の省庁と変わらないのだが、それが問題化しないのは、森派の力によるのではないだろうか? 昨年、「やらせタウンミーティング」問題が発覚した時に、電通との癒着を示すとおぼしき、高額費用の問題が出ていたのだが、経費縮小した途端に、疑惑追及が止んで、そのままうやむやになってしまったが、怪しい話である。教科書会社への文科省からの天下りはどうなっているのか?

 「つくる会」は、既存の教育利権構造から排除されたのではなかろうか。

 つくる会、扶桑社と絶縁/会長解任、別出版社で発行(『四国新聞』2007/05/31)

 「新しい歴史教科書をつくる会」は31日、同会が主導する日本史や公民の教科書を発行している扶桑社(東京)と関係を断絶し、別の出版社から教科書を発行することを明らかにした。

 また30日付で会長の小林正・元参院議員を解任し、副会長の藤岡信勝・拓殖大教授が新会長に就任した。

 つくる会によると、扶桑社が2月「これまでの教科書は採択率が低く、つくる会内部も混乱していることから、新しい会社を立ち上げ、別の内容の教科書を発行する」との意向を伝えてきたという。

 会見した藤岡新会長は「いくつかの出版社に打診し、前向きな感触を得ている。扶桑社も方針を撤回するなら、交渉の用意がある」と話した。

 昨年4月から使用されているつくる会主導の教科書の採択率は歴史が0・4%、公民が0・2%にとどまる一方、同会は、運営方針などをめぐる対立で会長が相次いで辞任するなど“内紛”が表面化していた。

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道徳の教科化問題によせて

 先に、教育再生会議は、道徳を教科に格上げすべきという考えを示したが、それに対して、中央教育審議会の会長である山崎正和氏が、小中学校での道徳教育は不必要だと述べたという。

 その理由を山崎氏は、「道徳教育について、賛否の割れる妊娠中絶の是非などを例示して「『人のものを盗んではならない』くらいは教えられるが、倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」と指摘。「代わりに提案しているのは、順法精神を教えること。『国の取り決め』として教えれば良い」と持論を展開した」という。

 それから、「現在行われている道徳教育の必要性を問われると「現在の道徳教育もいらないと思う。道徳は教科で教えることではなくて、教師が身をもって教えること。親も含めて大人が教えることだ」と述べた」そうである。

 これは、常識的な判断であろう。道徳といっても、時代によって変わるし、今、変わりつつあるものもあるし、さらに、氏が言うように判断が分かれていて、難しい問題もある。そういう道徳について、学校で教え、さらに、その成績評価まで行うのは難しい。それに対して、法律というすでにある規範についてなら、学校で教えられるというのである。法律は、道徳問題抜きに存在する規範であり、知識であるから、数値化して段階評価しやすいからである。

 近年、裁判において、遺族感情への配慮ということが強く言われるようになり、それが量刑判断に影響を与えるようになっていると言われる。それによって、厳罰化が進んでいるというのである。裁判はいつの間にか、遺族が加害者に報復するのを代行する制度でもあるかのような様相になってきている。それを後押ししているのは、世間の人々の被害者遺族への同情の念であり、道徳感情であろう。もちろん、遺族の側からは、加害者は、憎むべき存在であり、法律を犯したばかりではなく、道徳をも踏み破った悪者であり、与えられた被害に見合う罰を与えなければならない存在であり、被害者に代わって、遺族が敵を討ち、報復すべき対象である。「目には目を」という古代メソポタミアの掟こそが、そうした遺族感情に応えるにふさわしいものと考えられるであろう。それは、犯罪によって、社会そのものが傷つけられたと感じる社会的な道徳感情にも適合するものだろう。

 問題は、それが社会的な道徳感情であるということにある。社会的である以上、社会が変われば、道徳も変わり、道徳感情も変わってしまうのである。それは、歴史事実が新資料の発掘などによって変化してしまう歴史でも同じだというのが、山崎氏の意見であり、それは一面では正しいのである。しかしそれは、学校教育にはなじまないということもない。というのは、歴史教育では、新発見などを通じて、歴史が書き直されてきたこと自体が、教育されるからである。道徳教育についても同じことができるかが問題である。

 例えば、記紀には、天津罪と国津罪というものが出てくるが、その中に、畦放ちの罪というのがある。これは、田んぼの畦を壊すことは大罪だというものだが、現代ではそれは器物損壊といった一般的な刑法の対象であるにすぎない。農業社会だから、こういう罪は、極めて重い罪とされていたのである。もちろん、現代でも、米農家なら、畦放ちは、なによりも大罪であるという道徳的感情はあるだろう。

 現代では、遺族感情を重視するという流れが司法あるいは社会的に広がっているのは、殺人罪を最も重大な犯罪で、社会を最も大きく傷つける犯罪と見なす人が多いからであり、そういう道徳感情が広く形成されているからである。人々の多くは、殺人罪には、最高刑が当然と考えており、そうならないのは、例外であると考えている。

 それに対して司法は、これまで、刑罰・監獄制度その他による矯正の可能性を考慮して、死刑判決に、複数の人を殺害した場合などの条件を設けてきた。それは法文化されているものではなく、判例として積み重ねられてきたものである。それと、もう一つは、冤罪の可能性への考慮である。実際、この間、冤罪事件で、無罪になるケースがいくつもあった。鹿児島県警が、選挙違反をでっち上げたケースで無罪判決が出たばかりである。

 道徳論の危うさは、例えば、滋賀県で起きたJR特急内での強姦事件のケースで、マスコミが一斉に、犯罪を見て見ぬ振りをしたとして、乗り合わせた乗客を道徳的に非難するということにも現れた。この事件では、被害女性が泣きながら男にデッキに連れ出されようとしていたのを見ていた乗客に対して、男が「なにをじろじろ見ているんだ」などとすごんだため、乗客が黙ってしまってなにもしなかったということが新聞などで書かれている。 

 まず、この場面の情報源はどこなのかが問題である。これは、その場に居合わせた乗客そのもの証言なのかどうか。事件は、昨年夏頃のことであり、当人が自分から名乗り出ない限り、乗客を特定することはできないだろう。とすれば、それは、犯人か被害者の証言であり、警察の取り調べの過程での証言であろう。するとこの情報は、基本的には警察からのリーク情報であろう。それか、被害者から直接聞いたかである。レイプ事件の場合には、プライバシーが厳重に秘匿されているので、その可能性は低いだろう。

 この事件についての報道が、乗客のモラルを非難することに集中したのに対して、FPNニュースコミュニティーがそれを批判する記事を書いている。(これは、livedoorニュースに転載されている)。

 大勢の目撃者がいながら、目の前で行われた犯罪を止められなかった事件は、過去にもあった。1985年6月18日、豊田商事事件の豊田商事会長の永野一男が、「今日逮捕される」との情報を聞きつけて多数の報道陣がマンションの自宅入り口通路を取り囲む中で、自称右翼2人組に刺殺された事件である。彼らは、報道陣が見ている中で、窓を割って、堂々と室内に侵入し、永野会長を殺害したのであった。目の前で行われた殺人を防げなかったマスコミ・報道陣のあり方は、どうなのか?

 似たような事件として、オウム真理教事件で、村井教団幹部が、右翼を名乗る男に、報道陣が詰めかけていた教団施設前で刺されるという事件があった。ただ、これらの場合は、右翼が犯人であり、宣伝目的で、報道陣がいる目立つ場面を選んで、犯行に及んだという点で、先のケースとは異なるのではあるが。

 先の事件の場合、これを何らかの犯罪事件なのかどうかを判断しにくかったということが考えられる。多くの人々が、その様子を男女関係のもつれかもしれないというふうに見たのかもしれない。はっきりと事態を犯罪だと認識したら、車掌に連絡するなど何らかの行動を取っていたのではないだろうか。それを見て見ぬ振りをしたというのは、これが犯罪であったと知っているので、結果から見て、そう言えるだけである。マスコミ報道では、犯罪の具体的場面について、犯罪かどうかをはっきり示す徴となる記述がないのに、ただ、犯罪を見過ごした卑怯な乗客たちと決めつけて、道徳的に非難しているのである。

 下記記事にあるとおり、この犯罪を許してはならないし、列車内や駅など鉄道関係で怒る犯罪をどうやったら防げるか? 性犯罪を減らすにはどうすべきか? 等々について、考えなければならないのである。特に、JR福知山線脱線事故を引き起こしたJR西日本の安全対策は、どうなのかをしっかりと点検しなければならないのである。このケースでは、車掌への緊急通報ブザーが、連結部にあったという。そんなものがあることを知っている者が何人いるだろう? JRは、発足以来、とにかく、人員合理化を進め、無人駅も多いし、駅員がホームにいない時間帯も多い。新幹線ですら、車掌はたまにしか回ってこない。これらのマスコミの報道は、安全対策を、乗客のモラルの問題に転嫁して、JRの安全対策の不備を隠そうとしているのではないかとさえ思えてしまう。JR福知山線事故から、2年たちながら、JR西日本に対する遺族の不信感は根強く、補償交渉もほとんど進展していないという。安全第一というなら、もっと人を増やすことだ。

 山崎氏ならずとも、道徳を判断するのが難しいことは多くが知っている。カントは、道徳判断を理性のアプリオリな規則に帰し、絶対的な人格の自由から導き出そうと試みたが、いくらそうやって理性的な道徳画像を描こうとしても、現実とはまったく合わなかったので、現実の方を動物的として批判したのであった。例えば、カントは、男女は、性に関係なく、人格としては絶対的に自由であるから、婚姻契約は対等な対人権であると宣言するが、実際には、自然の与えた差別によって、家族共同体においては、男は生れつきの家長であると言うのである。

 カントにしてこのような有様であるなら、一体誰が、「国民の道徳」なるものの教科書を書けるものだろうか? よほどの自惚れた人間しか考えられない。例えば、本当に教科書のつもりで、「国民の道徳」を書いてしまった西部ぐらいか。それをどうやって教えるかとなるとさらに難しいし、それを評価するのも難しい。

 山崎氏は、その代わりにすべきことは、「順法精神を教えること」で、それを「『国の取り決め』として教えれば良い」という。これも、法の中身を教えるのではなく、法律を守る精神を教えればよいというのも、どうかと思う。これは、法も変わるものだから、その時々に存在する法を教えても、それが変わってしまえば、その知識は過去のものになってしまうので、それよりも、法が変わっても、法を守るという精神だけを持っていればよいというのである。なるほど、法は、国が決定するものである。しかしそれは、行政指令の体系もあれば、裁判の判例として示されるものもある。いずれにしても、これらのことは、社会のあり方からくるのである。

 くりかえしになるが、道徳を教科にするというのは、よほどの自惚れがなければ、言えるものではないが、まさしく教育再生会議は、よほどの自惚れ屋の集まりである。いったん、そういう意見が強まったが、すぐに慎重論が出てきたのは、教育再生会議にも、それほどの自惚れ屋ばかりではないということを示してはいる。しかし、このメンバーには、教育を論じるにふさわしくない人物が相当数いるのは間違いない。もはや解体した方がよい。

 関連して、教育再生会議に、道徳の教科化などの申し入れを行った日本教育再生機構代表の八木秀次高崎経大教員は、郷土愛は自然に身につくものだが、国家とは観念であり、それは強制しなければ身につかないと述べている。国家とは、構成された観念、すなわちイデオロギーであるというのである。それは、自民党の日教組批判文書にも書かれている。共通して、日教組は階級闘争史観というイデオロギーを持っており、それが教育現場を支配しており、それが今日の教育荒廃の原因だとして、それに対して、国民教育という国家主義イデオロギーが取って代われば、教育問題が解決するとしている。問題は、国家観念であり、その中には、規範が含まれており、それを強制しなければならないというのである。教育再生会議が、国家主義イデオロギーに傾いていることが、道徳の教科化問題で明らかになった。彼らが求めているのは、何よりも勤労道徳であり、それを義務教育課程での職業教育充実という形で述べているという。さらに、家庭教育について、「親学」なるものを提案しているそうである。これは、日本教育再生機構の提言でも、書かれているもので、保守派・自民党・教育再生会議がすでに一体的なものとなりつつあることを示してる。

 それに対して、保守派でも、西尾幹二氏元東京電機大学教員は、安部政権を厳しく批判していて、安部政権にくっついて、従軍慰安婦問題でのアメリカ向けの謝罪、河野・村山談話継承、その他の問題に黙っている日本教育再生機構などを保守主義を破壊する行為だと非難しているという。なるほど、これでは保守主義もお終いだというのは、西尾氏の言うとおりだろう。

 山崎正和氏には、安部政権と教育再生会議の稚拙な教育政策が現れた道徳教育問題の危険性がわかったのだろう。山崎氏ならずとも、これが、自民党が仕掛けている「国家主義イデオロギー」対「階級闘争イデオロギー」というイデオロギー闘争であり、それが、自民党が、民主党の選挙運動の基盤と見なしている日教組つぶしの政治闘争であり、策略の一部であることは、明らかである。国鉄・分割民営化の国労つぶしの時と同じ政治攻勢の一環である。それが見えているのが山崎氏であり、それが見えていない人とそれに積極的に荷担してる人とが混ざっているのが、教育再生会議である。海老名氏は前者で、ヤンキー先生義家氏は後者だろう。道徳教育問題が、政治闘争の一部に組み込まれており、山崎氏は、そういう争点でなくしてしまえと言っているのである。しかし、正面から受けて立つべきではないだろうか。というのは、すでに保守主義は崩壊しつつあり、自民党の地方基盤も壊れつつあるからである。言葉は勇ましいが、その裏付けとなる実力が低下しつつあるから、正面から闘っても、けっこういけるんじゃないだろうか。

 中教審会長:「道徳教育と歴史教育は不要」(『毎日新聞』2007年4月26日)

 中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の山崎正和会長は26日、東京都千代田区の日本記者クラブで講演と記者会見を行い、個人的な見解と強調した上で、小中学校での道徳教育と歴史教育は不必要との考えを示した。さらに、政府の教育再生会議が論議している道徳の教科への格上げにも否定的な見解を述べた。

 山崎会長は道徳教育について、賛否の割れる妊娠中絶の是非などを例示して「『人のものを盗んではならない』くらいは教えられるが、倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」と指摘。「代わりに提案しているのは、順法精神を教えること。『国の取り決め』として教えれば良い」と持論を展開した。

 現在行われている道徳教育の必要性を問われると「現在の道徳教育もいらないと思う。道徳は教科で教えることではなくて、教師が身をもって教えること。親も含めて大人が教えることだ」と述べた。

 歴史教育についても、稲作農業が日本で始まった時期が変遷していることなどを指摘し「歴史教育もやめるべきだ」と述べた。【高山純二】

 なぜ彼らは通報しなかったのか? 通報しなかった、通報できなかった乗客の心理

 21日から22日にかけて、以下のような見出しが、テレビ、新聞各紙、ネットなど各方面に踊り、世間を震撼させました。

特急トイレで女性暴行、36歳男を再逮捕…乗客知らんぷり
<強姦>特急内で暴行、容疑の36歳再逮捕 乗客沈黙
特急車内で女性暴行=誰も通報せず、36歳男逮捕-大阪

  まず、ニュースの「知らんぷり」という見出しに踊らされないでください。それは報道する側が用いた表現であって、実際の状況が「知らんぷり」と言われるような状況であったかには大きな疑問が残ります。

なぜだれも助けなかったのか。通報しなかったのか。  という乗客を責めたてる意見が聞かれますが、そんな議論は(まったくもって無意味だとはとらえていませんが)ややナンセンスです。

それよりも、むしろ、こういった、前科もわかっているだけで9件もある、しかも仮釈放のわずか1ヵ月後にこのような卑劣な強姦事件を繰り返す性犯罪者。

生来的な脳機能異常によって、性衝動の制御が不可能なのではないかと疑われる性犯罪者が、なぜ何度もこのような犯罪を犯しえる状況にいられたのか。

そして、このような犯罪者に、本当に二度と再犯を犯させないためにはどうすればいいのか――というところを議論するべきです。

通報しなかった/できなかった乗客の心理については、ニューヨークで、Kitty Genovers事件という強姦殺人事件――38人もの目撃者がいながら、だれひとりとして、通報も救助も行わなかった――があって、それについて行われた社会心理学の分析がありますので、ご紹介します。

今回の事件でなぜ通報が行われなかったのかを知る手がかりになりうるでしょう

---------- 一部抜粋 -----------

  1964年のアメリカ・ニューヨークで、Kitty Genoversという女性が強姦された上、殺害されてしまうという事件が起こった。 驚くべきは、後の調べによって明らかにされた目撃者数――Kittyが暴漢に襲われた悲鳴を聞き、そして強姦されてから殺されるにいたるまでの30分もの時間に、それを目撃しながらも、通報も助けることもせず、ただ傍観していただけのひとたちが、なんと38人もいたというのだ。

  当初、これは都会の人間の冷淡さや、目撃者たちにとって、普段抑制されているサディステッィクな欲求を充足するものだったなどとして話題に取り上げられたが、後に心理学者のLataneらは、それに真正面から異論を唱える――「否、Kittyが誰からも援助行動を受けることができなかったのは、むしろ大勢の目撃者がいたからこそなのではないか?」

  まず、(1)大勢が見ていたことによって、ひとりあたりの責任感が分散され、軽くなる(責任の分散)が起き、「自分が援助行動を起さなくてもいいだろう。誰かがやるだろう」とする『社会的手抜き』が行なわれてしまったのではないか?

そして、(2)おなじことを目撃している他人を見ることによって、他人の判断をあてにする、換言すると、他人の判断から得た情報から、実在する現実とは違った『社会的現実』がそこに生じてしまい、ひとりひとりの判断が鈍化してしまったのではないか?

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沖縄戦集団自決への軍関与は明らかだ

 教科書検定での沖縄戦での集団自決を日本軍が強制したとする記述に、それを否定する説が定説に成りつつあるとして、文科省の検定意見がついた件で、軍による強制を定説としてきたノーベル文学賞受賞者の大江健三郎氏と岩波書店が、文科省に抗議文を送ることを決めた。

 沖縄戦での住民の集団自決に軍の強制があったことは、たとえ旧日本軍の梅澤裕・元少佐と赤松元守備隊長が直接的な命令を正式に出しておらず、戦後になんらかの事情で、嘘をついたことが事実だったとしても、その他の様々な資料や当時の状況から明らかである。しかも、赤松元守備隊長の遺族らが、大江健三郎氏と岩波書店を名誉毀損などで訴えた裁判は、今続いている最中で、判決も出ていないうちに、裁判の一方の当事者の主張のみを取り上げるのは、公平さを欠いている。

 この件について、櫻井よし子氏が語っている。この人は、なんでも首をつっこむ人である。「櫻井よし子ブログ」http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/01/post_497.html「沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣」は、梅沢座間味島守備隊長をすぐれた軍人として描いている。梅澤隊長は、米軍の艦砲射撃が激しくなる中で、「彼我の圧倒的な戦力の差を実感、「ベテランの軍人」として日本の敗北を悟った」という。そして、米軍上陸がいよいよ迫った1945年3月24日夜10時頃、村民代表5人(助役、役場の者、小学校の校長、警察官、女子青年団長)が司令部を訪ねてきたという。そして、「助役の宮里盛秀氏が言った。「いよいよ敵が上陸しそうです。長い間、御苦労様でしたが、お別れに来ました。私たちは前から、年寄り、女子供、赤ん坊は軍の足手まといになるため、死ぬと決めています」」。すると、梅沢氏は、「戦国時代の物語として聞いたようなことを、まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」と語ったという。

 それから、助役と以下のやりとりがあったという。

 「自決の方法がわかりません。我々皆が集まって円陣を作ります。その真ん中で爆薬を爆破させて下さい」

 「そんなことは出来ない」と梅澤氏。

 「それなら役場に小銃が3丁ありますから弾を下さい。手榴弾を下さい」と宮里助役。

 「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」

 梅澤氏は諭して、5人に言った。

 「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」

 代々軍人だった梅澤氏には、このような住民心理は、戦国時代の人のようなものとしか思えなかったのである。住民は、なぜ集団自決するということをわざわざ守備隊長に言いにきたのだろうか? それは、『戦陣訓』その他の軍国主義教育、皇民化教育のためだ。軍がそう教えてきたから、それに従って、大日本国臣民として当然のこととして、生きて捕虜の辱めを受けないということを実行するしかないと考え、軍は当然それを支持して、助けてくれるものと考えたからである。だから、その方法・手段の教えを請いに行ったのだろう。

 梅澤氏が山中に避難し、死なないように諭したということは、すでに彼我の圧倒的な力の差を実感し、敗戦を悟った氏の考えでは、生きて捕虜になることを意味することは明らかである。梅澤氏が、この時点で、米軍の捕虜になって生き延びろという意味でこういうことを言ったのかどうかはわからないが、しかし、その言葉どおりだとそうなる。

 翌日、梅澤氏は部下の6割を失って、敗北。「戦闘に没頭していた氏らは、住民たちのその後の動き、約800名中172名が集団自決した事実を知らなかった」。つまり、住民たちは、自分の言うとおり、米軍の捕虜になって生き延びたと思ったのだろうか? 

 ところが、梅澤氏は、1957年『週刊朝日』の記事で、自分の命令で座間味島住民が集団自決したと報じられて驚いたという。

 櫻井氏は、「戦後、全ての日本人がそうであったように、沖縄の住民も食べるに困った。特に沖縄は烈しい戦闘で焼き尽くされ、多数が亡くなった。国の援助を申請したとき、自決というだけでは、軍人でもない一般住民への援助は無理だとされた。そこで考えられたのが、軍によって自決命令が下されたという理由づけだった。/生きるために事実無根の話が創られ、梅澤氏への根拠なき非難が一人歩きを始めたのだ。それを調査せずに喧伝したのが大江氏らである」と言う。

 彼女は、「事実無根」「根拠なき非難が一人歩き」ということを言うのだが、もし梅澤氏の話が本当だすれば、「事実無根」なのは、梅澤隊長が集団自決を命令したということであって、集団としての軍の強制が「事実無根」になるわけではない。軍の将校で責任の重い守備隊長という地位にあったものは、軍に対して責任があるし、知らなかったからといって、責任がないとか結果責任を取らなくていいということにはならない以上、根拠はある。

 梅澤氏は、この『週刊朝日』の記事が出て以後、1958年から沖縄慰霊の旅に毎年行っているという。戦後、座間味島の人々の生活が苦しかったのに、国はかれらを救う方法を持たなかった。そこで、苦肉の策が取られたということらしい。軍国主義教育、『戦陣訓』の教えを固く守った人々が、準軍属ではないと言う理由で、放置されていいのかということだ。「一億火の玉」と言われ、米英は「鬼畜」と教えられてきた人々が、捕虜の辱めを受けずとして、集団自決の道を選び、しかも、手榴弾を持たされており、いざとなったら、それで自決するように軍人から言われたという証言もある。つまり、元女子青年団長宮城初音氏の助役が自決命令を出したという証言は、梅澤氏の命令を虚偽とするものではあるが、軍による自決の強制を否定するものではない。

 櫻井氏は最後に、「日本人は戦後、戦争を反省する余り、軍に関するもの全てを悪と見做してきた。その偏った心理のなかで、梅澤氏の悲劇が生まれた。この歪んだ戦後体制からの脱却を目指すというのが安倍晋三首相である。真に戦後体制から脱却し、新しい日本を創るために、より多くの真実を探り出し、虚心坦懐、歴史の真実と向き合いたい。そして一日も早く、高齢の梅澤氏の訴えに正しい判決が出てほしいと願うものだ」と書いている。

 一部のこと、ここでは梅澤氏が島民に集団自決命令をしたかしなかったかという事実の認定の話と軍による集団自決の強制や関与があったかどうかは、レベルの違う話であり、仮に前者が裁判で梅澤氏の言い分が認められたとしても、後者についての話に片が付くわけではない。それなのに、文科省は、教科書検定で、そうしようとしているのである。

 梅澤氏には個人としての問題と共に軍幹部としての問題があり、さらに当時の軍国主義教育や皇民化教育、等々の関わりなどの問題もある。それらを総合的に見れば、軍の集団自決強制はなかったことが定説になりつつあるなどという文科省の政治的判断は、櫻井氏のいう虚心坦懐に歴史の真実と向き合うものではない。安部総理は、櫻井氏の基準とは反対に、歴史の真実よりも、「美しい国」というスローガンで、真実よりも見た目だということをはっきりと言っている人物だ。

 櫻井氏には、梅澤氏ばかりに肩入れするのではなく、もっと沖縄戦の全体像、また集団自決の多様な側面をできるだけ総合的に見てもらいたい。

 関連して、『産経』がこのところ上げている戦犯赦免運動の署名数4000万人という数字の根拠を問うているブログ記事を見てもらいたい(「美しい壺日記」http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-46.html)『産経』などの右派保守派は、南京事件の犠牲者数には根拠がないだとか、他者の上げる数字には厳しいが、自らの上げる数字には甘いし、根拠のない数字を平然と使っていることがわかる。沖縄戦集団自決問題についても、『産経』『読売』は、軍の強制はなかったと主張しているのだが、櫻井氏と同じように、都合のいい証言のみを強調し、都合の悪い証言は無視している。そんな体質がわかる。なお、そこで扱われている『産経』社説は、「沖縄戦集団自決にナンセンスな検定意見がついた」に引用してある。

 教科書検定:岩波書店と大江健三郎氏らが抗議文(『毎日新聞』2007年4月4日)

 06年度教科書検定で、旧日本軍が沖縄戦の集団自決を強制したとする記述に検定意見が付されたことについて、岩波書店が4日会見し、作家の大江健三郎氏と連名で抗議文を伊吹文明文部科学相に提出することを明らかにした。同社と大江氏は、集団自決をめぐる訴訟の被告となっており、「(旧日本軍出身である)原告の主張のみ取り上げ、記述を修正させたことは遺憾」と訴えている。

 文科省は、検定意見の根拠の一つに、集団自決を命令したとされる旧日本軍の元少佐らが裁判で命令を否定する証言をしたことを挙げた。元少佐らは05年8月、書物の誤った記載で名誉を傷つけられたなどとして、岩波書店と大江氏を相手に出版差し止めと損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こしている。

 会見した岩波書店の宮部信明・取締役編集局部長は「沖縄戦の問題(日本軍の強制)は十二分に実証されてきた真実。裁判の当事者として黙っているわけにいかない」と説明。抗議文はさらに「訴訟は継続中で、被告の主張も検討するのが当然」と主張している。【高山純二】

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最近の教育をめぐる諸問題から

 教育をめぐる動きがあわただしい。

 まず、29日の教育関連3法案の与党の了承、そして30日の教員免許法改正案と地方教育行政法改正案が閣議決定された。残る学校教育法改正案を閣議決定し、今国会中の成立を目指すという。地方教育行政法改正案のうち、私立学校への教育委員会の関与については、公明党が、慎重姿勢を示し、「知事は私立学校と協議し、教委は私立学校の自主性を尊重する」ことを国会での文科相答弁と法案の付帯決議、改正法の施行通達の3段階で確認するという条件を付けた。創価大学グループを持つ創価学会への配慮だろうか? 公立学校が教育委員会の管轄の下にあり、私立学校が知事部局の担当下にあるという学校対応の二分化は、私学の独自性・自主性を尊重するためだという。公立学校は、自主性を認められていないのだろうか? 

 残る学校教育法改正案では、義務教育の目標として、愛国心教育を盛り込むように議論が進んでいて、昨年12月の教育基本法改定の一つの結果が、示されようとしている。全体として、国の教育への関与が強められるもので、強制性が強い改定案である。それだけ、国の責任が重くなることは言うまでもない。

   卒業式での「君が代」不起立で、東京都教育委員会は、教員35人を懲戒処分した。この「君が代」「日の丸」強制は、東京都が突出している。それでも、毎年、処分がなされながら、なお35人の懲戒処分者が出たことは、東京都の強圧的学校管理・教職員管理体制が破綻しつつあることを意味している。94年以降の卒業式での不起立を対象とする処分者はのべ314人となった。

 「新しい歴史教科書をつくる会」を追われて、「日本教育再生機構」を立ち上げ、代表となった八木秀次高崎大教員は、『産経』の「正論」欄で、「教員バッシングより教育体系つくれ」と主張している。現在の教育の基本的な問題は、「子ども中心主義」という教育観にあり、システムにあるというのである。

 「子ども中心主義」とは、アメリカの哲学者ジョン・デューイなどが提唱した子供の学ぶ意欲・自主性に任せようという考え方だが、そこから教師は子供を「指導」するのではなく、子供たちが主体的に学習するのを「支援」する役割だとの発想が「ゆとり教育」の背景にある」。このような「子ども中心主義」を、日教組が中心に文科省に浸透させたために、「ゆとり教育」が採用されたというのである。

 こうした見方は、保守派に共通して受け入れられているらしく、「新しい歴史教科書をつくる会」の「史」最新号には、「視点 教育基本法改正と歴史の潮流」と題する石井昌浩 理事・拓殖大学客員教授の文章の中で、「旧法の主役は、ジョン・デューイ仕込みの「子供中心主義」であり、主役を支える芸達者な脇役が「マルクス主義」だった。ちなみに、三十年続く「ゆとり教育」は、子供中心主義の現代版に他ならない」と書いている。八木氏とほとんど同じ認識である。さらに、石井氏は、「よく、冗談めかしに「共産党員が教科書を作り、社会党員がそれを教え、自民党政府がお金を出す」と言われる。この話が冗談ではなく、限りなく事実に近いところに戦後教育の悲劇とゆがみが象徴されているのだ。共産党も社会党も往時の勢いを失ってはいるが、マルクス主義は、教育界で依然として隠然たる勢力を維持し続けている」として、マルクス主義の教育界での隠然たる勢力を想定している。旧教育基本法は、ジョン・デューイ主義という主役とマルクス主義という脇役をそろえた舞台であり、それを現場で担ってきたのが、日教組だったというわけである。旧教育基本法がなくなり、新教育基本法が成立したことで、これらの勢力を法的に支えることができなくなり、その結果、「敗戦から数えて六十年、日本独自の文明と文化に根ざした教育の基盤を確立」できることになるだろうという。そして氏は最後に、「歴史の潮流が変わった。教育基本法改正は、明治初年の学制、敗戦直後の諸改革に次ぐ、近代教育史上第三の改革である」と過大評価する。なるほど、安部政権の教育基本法改訂の意図には、そうしたものもあっただろうが、できあがった法律は、それほどできのいいものではない。そこは連立を組む公明党がいろいろと障害物を置いていて、それは後々その効果を発揮することだろう。

 それにしても、この子ども中心主義批判というのは、最近強調されるようになたもののように見えるがどうだろう? 少なくとも、教育基本法改定論議の時や教育再生会議、中央教育審議会の議論などでもあまり聞こえてこなかった。石井氏は、新教育基本法の徳育の列挙が、その現れだというのだが、はたしてそうか? いずれにしても、八木氏もそうだが、戦後教育に対して、戦前の近代公教育体制の復活を対置するというのでは、後ろ向きである。情況・条件が違いすぎるので、これは失敗に終わる運命にある。

 教育再生会議は、授業時間数10%増、そのための夏休み・春休みの短縮や7校時の導入を提言した。「しかし、それがそのまま学力や規範意識の向上に繋(つな)がるとは思えない」と八木氏は批判する。そして、「そればかりか、近年、教育現場では教員が教材研究に追われ、多忙感や焦燥感を募らせている。個々の子供たちに対応するための「発展的学習」に加えて、教科書のない「総合的学習の時間」のための教材開発や運営に追われている。授業時間が10%増えればその分、負担も増すだろう。全国には約100万人の教員がいるが、教材開発までやってのけるだけの高い能力のある教員の数は残念ながらそう多くはない」と教員が現場で、増え続ける負担にあえいでいることを指摘している。教師から忙しいという話がよく聞かれる。

 八木氏は、「かつては新人の教員であっても、教科書と指導書があれば、十分な指導ができるだけのシステムがあった。システムが個々の教員を支えていたのだ。しかし「ゆとり教育」が明治5年の学制発布以来のわが国の近代教育の体系を壊してしまった。そして今や個々の教員の指導力が問われるようになっている」と問題点を指摘する。それは、教員が役者だけでなく、「脚本家や演出家の役割まで求められているのだ。だが、これは個々の教員には酷なことだ。そのことが近年の疲弊感・焦燥感の高まりに繋がっている」というのである。

 八木氏は、「国民の「教育再生」を求める声の高まりとともに、教員バッシングが始まっている。確かに不適格教員や特殊なイデオロギーに染まった教員は排除されなければならない。しかし、教員を悪者にすれば教育再生ができるというものでもない」と教員バッシングの高まりに釘をさす。「不適格教員」「特殊なイデオロギーに染まった教員」排除は当然という考えは肯定し得ないが、「教員を悪者にすれば教育再生ができるというものではない」というのはそのとおりである。

 「大企業の景気回復とともに、民間企業の新卒採用枠が急激に拡大している。教員給与の削減も検討されている。そのような中にあって、これだけバッシングを受ける教員の世界にあえて飛び込むだけの意欲ある人材が確保できるだろうか。また教材開発まで行う能力ある人材が何十万人も確保できるだろうか」と近年の景気回復傾向の中で、教員バッシングが強まれば、教員の人材確保が難しくなるだろうという。まったくそのとおりで、すでに新採用教員の多くが一年以内に離職しているという現実があり、さらに近年、教員の精神疾患が多発している。教育現場の人材不足はすでに起きているのである。

 教員免許更新制度について、安部総理などは、問題教師の排除を強調しているのだが、文科省はこれは懲戒的な意味ではなく、あくまでも教員資質の向上が目的だと主張している。しかし、更新免許更新の期間10年は長すぎるとする不満が、教育再生会議にくすぶっており、さらに対案として民主党が策定しようとしている「教員スキルアップ法案」は、、「10年ごとの免許更新制だけでなく、教員免許取得に修士課程の修了を必要とし、免許更新時に義務付ける講習も政府案の30時間より多い100時間とする。一方で、講習の1年間の追加履修により、更新不要の「専門免許」を取得できる道も開く(『毎日新聞』2007年3月30日)という与党案よりも教員に厳しいものだ。教育再生会議には、教員よりも、民間企業に優秀な人材を集めることに利害を持っている民間企業よりの委員が多くいる。

 八木氏は最後に、「今、取り組むべきは「ゆとり教育」で壊された近代教育の体系を再構築し、個々の教員を支えることだ」と述べる。それにたいして、東京都教育委員会は、恫喝と処分、強権発動などによって、教員を押さえつけることで、教育の生命を押しつぶそうとしている。教育再生会議は、道徳を教科とすることで、道徳心のランク付けに踏むことを提言しようとしている。教科化にともない道徳教科書が作られるようになれば、文科省の教科書検定の対象となり、文科省が道徳心の基準を事実上決定するようになる。「やらせタウンミーティング」をやった文科省がである。不道徳な文科省が、人々に道徳の説教をするというとんでもないことになろうとしているのである。そんな「不道徳」なことが許されていいのだろうか!?

 【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 「ゆとり教育」見直しは可能か

 高崎経済大学教授、八木秀次氏
 ■教員バッシングより教育体系つくれ

 ≪「子ども中心主義」脱却≫

 時事通信社が今月行った世論調査によれば、「ゆとり教育」の見直しを実に79・1%もの人々が求めていることが明らかになった。「必要がない」と答えた人はわずかに11・2%。「ゆとり教育」見直しはもはや世論と言ってよい。

 政府の教育再生会議も1月に発表した第1次報告でやはり「『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する」として、「授業時間数の10%増加、基礎・基本の反復・応用力の育成、薄すぎる教科書の改善」を提言している。また同会議が5月にも発表する第2次報告でもさらに具体的に「ゆとり教育」見直しの方向性が示されると思われる。

 しかしながら、今月14日に示された第2次報告の「素案」を見る限り、「ゆとり教育」見直しは掛け声倒れに終わり、逆に現場の教員は一層多忙感・無力感を募らせ、今後、能力ある人材が教員を志望しないという、国民大多数が望む「学校教育の再生」とは程遠い結末に至るのでは、という懸念をぬぐえない。

 その理由は同会議が「ゆとり教育」の背景にある「子ども中心主義」(児童中心主義)なる教育観の見直しにまで踏み込んでいないことにある。

 「子ども中心主義」とは、アメリカの哲学者ジョン・デューイなどが提唱した子供の学ぶ意欲・自主性に任せようという考え方だが、そこから教師は子供を「指導」するのではなく、子供たちが主体的に学習するのを「支援」する役割だとの発想が「ゆとり教育」の背景にある。「ゆとり教育」は以上のような教育観を背景にしているが、もともと日教組が主張していたものを徐々に文部科学省が採り入れ、今日に至ったものだ。現在、文部科学省が採っている、学習指導要領は全体で学ぶ最低基準で、その量はかつての半分に減らすが、個々の子供たちの学ぶ意欲に合わせた「発展的学習」で対応するという考えも日教組由来のものである。

 ≪募る「多忙感と焦燥感」≫

 しかし、子供を持つ身なら誰でも分かることだが、子供たちの「学ぶ意欲」に任せておいて確かな学力が身に付くはずはない。時には強制力を伴わせなければ、日本国民として必要な学力や規範意識は身に付かない。近年の学力や規範意識の急激な低下の背景に「ゆとり教育」があることは言うまでもなかろう。

 教育再生会議は「子ども中心主義」の見直しを言わないままで、授業時間数だけ10%増やし、そのために夏休み・春休みの短縮や7校時目の導入を提言している。しかし、それがそのまま学力や規範意識の向上に繋(つな)がるとは思えない。

 そればかりか、近年、教育現場では教員が教材研究に追われ、多忙感や焦燥感を募らせている。個々の子供たちに対応するための「発展的学習」に加えて、教科書のない「総合的学習の時間」のための教材開発や運営に追われている。授業時間が10%増えればその分、負担も増すだろう。全国には約100万人の教員がいるが、教材開発までやってのけるだけの高い能力のある教員の数は残念ながらそう多くはない。

 ≪「教員=悪者」論の愚≫

 かつては新人の教員であっても、教科書と指導書があれば、十分な指導ができるだけのシステムがあった。システムが個々の教員を支えていたのだ。しかし「ゆとり教育」が明治5年の学制発布以来のわが国の近代教育の体系を壊してしまった。そして今や個々の教員の指導力が問われるようになっている。

 例えて言えば、教員はかつては役者だけやっていればよかったが、今や脚本家や演出家の役割まで求められているのだ。だが、これは個々の教員には酷なことだ。そのことが近年の疲弊感・焦燥感の高まりに繋がっている。

 国民の「教育再生」を求める声の高まりとともに、教員バッシングが始まっている。確かに不適格教員や特殊なイデオロギーに染まった教員は排除されなければならない。しかし、教員を悪者にすれば教育再生ができるというものでもない。

 大企業の景気回復とともに、民間企業の新卒採用枠が急激に拡大している。教員給与の削減も検討されている。そのような中にあって、これだけバッシングを受ける教員の世界にあえて飛び込むだけの意欲ある人材が確保できるだろうか。また教材開発まで行う能力ある人材が何十万人も確保できるだろうか。

 今、取り組むべきは「ゆとり教育」で壊された近代教育の体系を再構築し、個々の教員を支えることだ。(やぎ ひでつぐ) (2007/03/30)

 「君が代」不起立、最高で停職6カ月 都教委処分(『朝日新聞』2007年03月30日)

 今春の東京都内の公立学校の卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったなどとして、都教育委員会は30日、教員35人を懲戒処分したと発表した。このうち町田市立中教諭の根津公子さん(56)は、懲戒免職に次ぐ停職6カ月。都教委は03年10月に起立斉唱を義務づける通達を出しており、94年以降の卒業式で不起立を理由に処分を受けた教員は延べ314人となった。

 都教委によると、処分者は昨春より2人増えた。不起立を繰り返すほど処分は重く、今回初めてだった20人が戒告、2回以上繰り返した12人を減給とした。通達以降、不起立を続けている根津さんのほか2人が停職になった。戒告を受けた20人のうち、定年後の再雇用選考に合格していた2人は合格を取り消した。

 06年に受けた停職処分の取り消しを求めて東京地裁で係争中の根津さんは、「覚悟はしていたが余りに重い。次は免職かもしれないが、教員生命をかけて強制に反対していきたい」と話した。

 道徳、「教科」に格上げ案 教育再生会議分科会が提言へ(『朝日新聞』2007年03月30日)

 政府の教育再生会議は29日の学校再生分科会(第1分科会)で、「道徳の時間」を国語や算数などと同じ「教科」に格上げし、「徳育」(仮称)とするよう提言する方針を決めた。「教科」になれば、児童・生徒の「道徳心」が通信簿など成績評価の対象になる可能性があるうえ、教材も副読本でなく教科書としての扱いとなって文部科学省の検定の対象となりうる。ただ、反対論も予想され、再生会議での議論は過熱しそうだ。

 再生会議の1月の第1次報告を受け、政府は30日に教育関連3法案を提出する。5月に予定する第2次報告は法制改正によらない具体策も打ち出す方針で、道徳の教科化を盛り込む考えだ。参院選に向け「安倍カラー」を鮮明にするうえで政権側が後押しする可能性もあるが、第2次報告にどのような形で盛り込まれるかが焦点になる。

 第1次報告では「我が国が培ってきた倫理観や規範意識を子供たちが確実に身につける」と提言しており、再生会議で充実策を検討してきた。

 29日の第1分科会後に記者会見した副主査の小野元之氏(元文部科学事務次官)は「道徳を教科としてしっかり教えるべきだ、ということでおおむね(分科会の)合意が得られた」と述べた。「授業時間数を増やそうということではない」(小野氏)が、高校でも教科にすることを想定しているという。

 また、主査の白石真澄氏(東洋大教授)は、成績評価の対象になるかどうかについて「議論していない」としながらも、「教科になるということは、いま絶対評価で1~5と成績がついているので将来的には成績判定がなされると思う」と語った。ただ、白石氏は「戦前の修身のように先祖返りするのではなく、人としてどのように生きるか、他人をどう思いやるか。命あるものを尊重すること(を教えること)で環境教育にもつながる。全体主義になったり、右になったりするわけではない」と強調した。

 一方、再生会議を担当する山谷えり子首相補佐官は、成績評価について「(徳育は)知識だけでなく、心のありようなので、1~5で評価できるかどうかは今後、十分議論されていくだろう」と述べるにとどめた。

 文科省教育課程課によると、現在の学習指導要領上の「教科」は原則として評価の対象になっているが、必ず対象になるとは決まっていない。

 再生会議が徳育を教科に格上げするのは「道徳の時間は取られているが、きっちり行われているかというと、先生方も熱心でない方もいるし、教材も充実していない」(小野氏)との現状認識からだ。現在は教育委員会が刊行した読み物資料などが使用されているが、小野氏は「教科にするメリットは、教科書をきちんとつくって規範意識や道徳心、規律を教えていくこと」と述べている。

 私立校関与、与党が条件付きで了承 教育関連3法案(『朝日新聞』2007年03月29日)

 自民、公明両党は29日、教育関連3法案を了承した。このうち地方教育行政法改正案をめぐっては、教育委員会による私立学校への関与について「教委が知事に助言または援助を行う際、私立学校の自主性を尊重する」、文部科学相による教委への関与について「指示することが必要な緊急時には、首長も教委に支援等を行うことが必要」との2点を国会答弁などで確認することを条件に了承した。

 これを受けて政府は30日に同改正案と学校教育法改正案を閣議決定し、すでに閣議決定した教員免許法改正案と合わせて同日中に3法案を国会に提出する。

 地教行法改正案では、教委が私立学校の運営に関与できるように「知事が必要と認めるときは教委に助言・援助を求めることができる」との文言が盛り込まれた。これに対し、公明党が「私立学校の自主性が損なわれかねない」と懸念を示したため、「知事は私立学校と協議し、教委は私立学校の自主性を尊重する」ことを(1)国会での文科相答弁(2)法案の付帯決議(3)改正法の施行通達――の3段階で確認するとの条件をつけた。

 また、同改正案では、いじめなど児童・生徒の生命、身体の保護のため緊急の場合に限って「文科相が教委に指示ができる」との文言も盛り込まれた。これに対し、公明党が地方分権を重視し、「文科相が指示を出す時には、任命権者の首長も同様に指示を出せるようにすべきだ」と主張した。だが、自民党が難色を示し、首長について「支援等を行うことが必要」との文言を、私立学校の自主性と同様に国会答弁などで確認することで折り合った。

 同改正案はこのほか、教育委員に保護者を入れることや、教委が自らの事務の執行状況を毎年評価して公表することを義務づける。

 学校教育法改正案は、昨年改正された教育基本法を踏まえ、義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」などを盛り込んだ。教員免許法改正案は、現在は一生有効な免許の有効期間を10年とし、講習を受けないと失効する教員免許更新制を09年度から導入する。

 教育関連2法案を閣議決定 今国会で3法の成立目指す(『朝日新聞』2007年03月30日)

 政府は30日の閣議で、教育関連3法案のうち地方教育行政法と学校教育法の改正案を閣議決定した。既に決定している教員免許法の改正案と一括して、同日国会に提出した。

 地方教育行政法の改正案では、緊急に児童生徒の生命・身体を保護する必要がある場合に文部科学相が教育委員会に指示できるほか、教育を受ける権利が侵害されている場合には地方自治法に基づく是正の要求をする、などと規定している。

 学校教育法の改正案では、改正教育基本法を受けて「義務教育の目標」を設けたほか、副校長、主幹教諭、指導教諭などの職を学校におくことができる、としている。

 3法案が閣議決定されたことについて、伊吹文部科学相は会見で「やっと関所の入り口にたどりついた。これから国会終了まで全力を尽くしたい」と語った。

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沖縄戦集団自決にナンセンスな検定意見がついた

 3月30日、今年度の教科書検定結果が明らかになった。その中で、従軍慰安婦記述に検定意見がつかなかったのに対して、沖縄戦での住民の集団自決事件に日本軍の関与・強制を指摘する表現に検定意見がつき、指摘を受けた教科書会社はそれぞれ修正した。

 「文科省は、判断基準を変えた理由を(1)「軍の命令があった」とする資料と否定する資料の双方がある(2)慶良間諸島で自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が05年、名誉棄損を訴えて訴訟を起こしている(3)近年の研究は、命令の有無より住民の精神状況が重視されている――などの状況からと説明する」。どうやら文科省は、(2)の訴訟を起こしたことを過大視しているようだ。この裁判では、「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝氏らが訴えを起こした元守備隊長側に立って、軍の集団自決命令は補償金目当てのでっち上げとする説を唱えるなどしている。しかし、最近アメリカで見つかった資料では、慶良間諸島に上陸したアメリカ軍が、上陸からまもなく、住民から、日本軍人から住民に集団自決命令があったという聞き取ったという記録がある。それに、米軍上陸前に日本軍が集団自決用に手榴弾を渡している。その他、米軍の捕虜になるな、などの話を日本兵から言われていたという証言もある。

 藤岡信勝氏は、従軍慰安婦問題でも、当時の公娼制度と軍慰安所と現代の風俗業、他の国の軍隊の慰安制度などと安易に同一視したり、いい加減な基準で安易に比較しているが、そのやり口は、この問題でも同じである。

 彼らは、自分の考えを証明するようなことを言う者の証言は黙って信じるが、反対のことを言う証人には、金目当てだの詐欺師だのと悪罵を平然と投げつける。一つの証言の誤りがあれば、他の証言も誤りだと決めつける。自分は、平気でいい加減なことを言うが、反対者のささいなミスやいい加減さ、記憶不足などは徹底的に厳しく追及する。まさにエゴイストの態度である。それを恥とも感じないという反「修身!?」性・・・。

 『産経』は、沖縄戦の旧日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする記述を誤りだとしてして、この検定方針を評価している。あげられているのは、「渡嘉敷島の集団自決について作家の曽野綾子さんが、昭和40年代半ばに現地で詳しく取材し、著書『ある神話の背景』で疑問を示したのをはじめ、遺族年金を受け取るための偽証が基になったこと」であり、それによって「軍命令説は否定されている」と断定している。しかし、これが無理な断定であることは、上記のことからも明らかである。

 曾野綾子氏には、独特の人間観があって、一方では人間性を神に近いものとして評価するが、他方では弱いものとして批判的に視るという二面性でとらえるのである。前者には、神父やマザー・テレサなどの「聖人」的な人間性があり、他方にはルワンダで隣人を虐殺する低い人間性もあるというのである。それは、曾野氏に、すでに基本図式として固く根を下ろしている信念である。集団自決・あるいは慶良間諸島での戦闘中の出来事についての証言は、それら両面を含んでいることが、ウィキペディアにある証言にも現れている。個別具体的に見ていけば、それぞれのケースは多様な側面を持っているのがわかる。しかし、集団的現象としてのレベルで見ると、やはり神軍・皇軍とされた日本軍が、皇民化教育や「戦陣訓」などの教育の中で、神聖視され、その言うことが絶対と信じ込まされていた情況がある中での集団自決という出来事であったことは明らかである。だから、曾野氏は、「戦後の国民に対する補償を定めた「戦傷病者戦没者遺族等援護法」では民間人は年金や弔慰金の適用外であったため(救済対象を「軍協力者」に限定している)、軍命令により自決したとすることで「準軍属」扱いになり、遺族や負傷者に年金・弔慰金が受け取れるようにしたということであったとしているのだが、そこには、実は、集団自決という悲劇の被害者たちに対する周りの善意と思いやりがあって、なんとか苦しんでいる島民に救いの手をさしのべるための方便として、一つの神話が作られたということであって、もしそれを赤松元守備隊長がいったん受け入れたのなら、あの世まで持っていくのが、皇軍将校たるものの当然の倫理というものだろう。結局、そうしなかったということは、自分たちがうそをついてまで守ろうとした人々を裏切り、その名誉を汚したことになる。しかし、そういう次元の話とは別に、「2007年1月15日の沖縄タイムスに『「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握 座間味村資料で判明/「捏造説」根拠覆す』との記事」が出たことで、それも覆りそうなのである。

 こうしたわけで、文科省が上げた定説が変わったとする理由もまた、さらにひっくりがえりそうなのである。

 また、「作家の大江健三郎氏の『沖縄ノート』などには、座間味島や渡嘉敷島での集団自決が、それぞれの島の守備隊長が命じたことにより行われたとする記述があり、元守備隊長や遺族らが、誤った記述で名誉を傷つけられたとして訴訟も起こしている」ということからは、現在この問題について係争中だと言うだけだし、元守備隊長らの主張が、軍の集団自決強制を証言する住民らの証言の信憑性をくずしたことにはならない。元守備隊長の証言のみを一方的に信用すべき理由はない。

 『産経』は、「軍命令説は、信憑(しんぴょう)性を失っているにもかかわらず、独り歩きを続け、高校だけでなく中学校の教科書にも掲載されている」のは問題だったと述べているが、軍命令説の信憑性が失われているとする判断は、今のところ、『産経』『読売』をはじめとする一部の意見にすぎない。とくに、メディア・リテラシーが叫ばれる現在、『産経』『読売』だろうと、その主張を鵜呑みにするわけにはいかないのである。以下のウィキペディアからの引用でも、藤岡信勝ら否定派の見解が怪しいものであることは明らかである。『産経』『読売』の日本軍が沖縄戦集団自決への関与否定論は、論破されつつあるのだ。

 他方で、従軍慰安婦問題については検定意見がつかなかった。『産経』は無視し、『読売』は、何らかの政治的情勢に影響された可能性を指摘しているが、いずれにしても、文科省は、今アメリカ議会で、従軍慰安婦問題決議が議論されている中で、国際的にナーバスな問題となっている従軍慰安婦問題について、なんらかの政治判断をした可能性がある。沖縄戦の集団自決問題では、そういう国際政治への判断が必要ないので、あっさりと検定意見をつけたのではないだろうか?

 沖縄戦集団自決を否定する『産経』『読売』は、もともと占領期にアメリカの「スパイ」として「売国」を行ってきた新聞であり、アメリカの太鼓持ちという基本体質は、今も変わっていない。かれらのアメリカ批判は口先だけなのである。これらのメディアの愛国心は、アメリカあっての日本、日米一体の中の日本を愛するというアメリカ愛とセットになっているのである。だから、『産経』『読売』が愛国心を強調すればするほどうさんくさく感じるのである。

 ウィキペディア「沖縄戦」項目からの引用

 [編集] 『虐殺否定派の意見』

 軍の命令及び強制があったかどうかは不明瞭であるとし、日本国内では前述の「証言」を疑問視する者もいる。たとえば座間味島の集団自決で生き残った宮城初枝によれば、そこでの集団自決は島民の申し出であったという。また、渡嘉敷島では陸軍海上挺進隊第三戦隊長で指揮官だった赤松嘉次大尉が、3月28日に西山にて住民に自決を命じたために329人が死亡したと言われていた。これは1950年に出版された『鉄の暴風』(沖縄タイムス)によって初めて紹介され、大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店)にも同様の記述がなされている。だが、この逸話に疑問を持った曽野綾子は自ら行った取材を元に『ある神話の背景』を1973年に刊行した。それによると、戦後の国民に対する補償を定めた「戦傷病者戦没者遺族等援護法」では民間人は年金や弔慰金の適用外であったため(救済対象を「軍協力者」に限定している)、軍命令により自決したとすることで「準軍属」扱いになり、遺族や負傷者に年金・弔慰金が受け取れるようにしたということであった。その後、赤松大尉の遺族は大江と岩波書店に損害賠償を請求している。2006年には、戦後の琉球政府の旧軍人軍属資格審査委員会委員(軍人・軍属や遺族の援護業務)であった人物が、遺族・年金を受給するために赤松大尉が自決を命令したことに書類等を偽装したと認めた(産経新聞 2006年8月27日付)。一方で、2006年10月3日に日本兵が住民に対する集団自決を命令した事を示す発生直後の住民証言を記録した1945年4月3日付の「慶良間列島作戦報告」がアメリカで見つかったと沖縄タイムスで報じられた。なお、『ある神話の背景』の内容については『鉄の暴風』の著者である太田良博と曽野との間で論争となっている。さらに、2007年1月15日の沖縄タイムスに『「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握 座間味村資料で判明/「捏造説」根拠覆す』との記事が掲載された。座間味村役所の「戦闘協力該当予定者名簿」および「戦協該当者名簿」と厚生省から返還された県の記録を照合したものによれば、座間味村の認定は最短3週間、平均3ヶ月で認定されており、琉球政府援護課の元職員は「本島に先駆け、慶良間諸島の被害調査を実施した。厚生省(当時)も人々を救おうとの熱意を感じた」との証言も合わせて掲載し、『一部マスコミなどによる、補償申請が認定されにくいため「『軍命』が捏造された」という主張の根拠がない』と報じた。

 慶良間では元々乏しかった食糧を日本軍に独占されたため住民や末端の兵士が飢餓に陥り、追い詰められて集団自殺を決行したとの指摘もある(守備隊長の赤松大尉は8月末に降伏して捕虜となったが、アメリカ軍の取り調べに対し「(食糧は)あと3年はもった」と豪語していたという)。[要出典]

 また、ひめゆり学徒の証言の中には「兵士に手榴弾を渡されたが死にきれなかった」「青酸カリを飲むよう言われたが量が足りなかったため飲まずにすんだ」「攻撃に行って反撃を受けた兵士が民間人の避難していた場所に逃げ込んできたため猛攻を受けてほぼ全滅した」「『おまえたちが沖縄を守るのだ』と初年兵らを集めて囮に使い、兵隊たちはその隙に逃げた」というものもある。しかし、同じひめゆり学徒の証言の中には「『まだ若いのだから無駄死にすることはない』と逃がしてくれた」「突然『出ていけ、叩っ切るぞ!』と軍刀を振り回して追い出されたが、その直後に兵隊だけが手榴弾で自決した」というものもある。

 【主張】沖縄戦 新検定方針を評価したい(2007/03/31『産経』)

 来春から使われる高校教科書の検定結果が公表され、第二次大戦末期の沖縄戦で旧日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする誤った記述に初めて検定意見がつき、修正が行われた。新たな検定方針を評価したい。

 集団自決の軍命令説は、昭和25年に発刊された沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』に記され、その後の刊行物に孫引きされる形で広がった。

 しかし、渡嘉敷島の集団自決について作家の曽野綾子さんが、昭和40年代半ばに現地で詳しく取材し、著書『ある神話の背景』で疑問を示したのをはじめ、遺族年金を受け取るための偽証が基になったことが分かり、軍命令説は否定されている。

 作家の大江健三郎氏の『沖縄ノート』などには、座間味島や渡嘉敷島での集団自決が、それぞれの島の守備隊長が命じたことにより行われたとする記述があり、元守備隊長や遺族らが、誤った記述で名誉を傷つけられたとして訴訟も起こしている。

 軍命令説は、信憑(しんぴょう)性を失っているにもかかわらず、独り歩きを続け、高校だけでなく中学校の教科書にも掲載されている。今回の検定で「沖縄戦の実態について誤解するおそれがある」と検定意見がつけられたのは、むしろ遅すぎたほどだ。

 沖縄戦を含め、領土、靖国問題、自衛隊イラク派遣、ジェンダー(性差)などについても、一方的な記述には検定意見がついた。検定が本来の機能を果たしつつあると思われる。

 前進ではあるが、教科書にはまだまだ不確かな証言に基づく記述や信憑性の薄い数字が多いのも事実だ。

 例えば南京事件の犠牲者数は誇大な数字が書かれている。最近の実証的研究で「10万~20万人虐殺」説はほとんど否定されており、検定では諸説に十分配慮するよう求めている。

 その結果、「数万人」説を書き加えた教科書もあるが、相変わらず「30万人」という中国側が宣伝している数字を記述している教科書はある。

 子供たちが使う教科書に、不確かな記述や数字を載せるのは有害でしかない。教科書執筆者、出版社には、歴史を楽しく学び、好きになれる教科書づくりはむろんだが、なによりも実証に基づく正確な記述を求めたい。

 3月31日付・読売社説(1)
 [教科書検定]「歴史上の論争点は公正に記せ」

 諸説ある史実は断定的には書かない、誤解を招くような表記は避ける。文部科学省が求めたのは、そんな当たり前の教科書記述だったと言える。

 来年春から高校で使われる教科書の検定結果が公表された。

 終戦の年の1945年、沖縄戦のさ中に起きた「集団自決」をめぐる記述が一つの焦点になった。

 日本史教科書を申請した発行社6社のうち5社の記述に、それぞれ「沖縄戦の実態が誤解されるおそれがある」との検定意見がついた。「集団自決」について、「日本軍が追い込んだ」「日本軍に強制された」などと表記していた。

 「日本軍が」の主語を削り、「集団自決に追い込まれた人々もいた」などと修正することで結局、検定はパスした。

 今回、文科省が着目したのは「近年の状況の変化」だったという。

 70年代以降、軍命令の存在を否定する著作物や証言が増えた。一昨年には、大江健三郎氏の著書に命令した本人として取り上げられた元将校らが、大江氏らを相手に名誉棄損訴訟を起こしている。

 生徒が誤解するおそれのある表現は避ける、と規定した検定基準に則して、今回の検定から修正要請に踏み切った。妥当な対応だったと言えよう。

 ただ、昨年度検定の高校教科書などには、こうした表記が残っている。文科省は速やかに修正を求めるべきだ。

 「南京事件」は7社が日本史、世界史で取り上げた。うち4社の犠牲者数について、「諸説を十分に配慮していない」との意見が付いた。

 「10数万人」「20万人以上」「中国側は30万人、という見解」――。一方に「1~2万人」や「4万人」といった学説がある中で、各社の記述は数字の大きな犠牲者数に偏っていた。

 「例年、検定意見が付くとわかりながら、大きな犠牲者数のみを書いてくる発行社がある。ゲーム感覚なのか」と文科省。とても教科書作りの場にふさわしい姿勢とは言えない。

 「従軍慰安婦」をめぐる記述は6社が取り上げたが、検定意見は一つも付かなかった。昨年までは、日本軍が慰安婦を強制連行した、といった記述に「誤解を招く」などの意見が付いていた。

 発行社側が意見の趣旨を理解したことの表れなのかどうか、注視したい。

 一方で、最近の慰安婦問題をめぐる国内外の論争が、今後の検定に微妙な影響を及ぼすことを懸念する声がある。

 政治や外交などに翻弄(ほんろう)されることなく、客観的で公正な記述の教科書を、学校現場に届けたいものだ。

 集団自決―軍は無関係というのか(『朝日新聞』社説3月31日)

 高校生が使う日本史教科書の検定で、沖縄戦の「集団自決」が軒並み修正を求められた。

 「日本軍に強いられた」という趣旨の記述に対し、文部科学省が「軍が命令したかどうかは、明らかとは言えない」と待ったをかけたのだ。

 教科書の内容は次のように変わった。

 日本軍に「集団自決」を強いられた→追いつめられて「集団自決」した

 日本軍に集団自決を強制された人もいた→集団自決に追い込まれた人々もいた

 肉親が殺し合う集団自決が主に起きたのは、米軍が最初に上陸した慶良間諸島だ。犠牲者は数百人にのぼる。

 軍の関与が削られた結果、住民にも捕虜になることを許さず、自決を強いた軍国主義の異常さが消えてしまう。それは歴史をゆがめることにならないか。

 この検定には大きな疑問がある。

 ひとつは、なぜ、今になって日本軍の関与を削らせたのか、ということだ。前回の05年度検定までは、同じような表現があったのに問題にしてこなかった。

 文科省は検定基準を変えた理由として「状況の変化」を挙げる。だが、具体的な変化で目立つのは、自決を命じたとされてきた元守備隊長らが05年、命令していないとして起こした訴訟ぐらいだ。

 その程度の変化をよりどころに、教科書を書きかえさせたとすれば、あまりにも乱暴ではないか。

 そもそも教科書の執筆者らは「集団自決はすべて軍に強いられた」と言っているわけではない。そうした事例もある、と書いているにすぎない。

 「沖縄県史」や「渡嘉敷村史」をひもとけば、自決用の手投げ弾を渡されるなど、自決を強いられたとしか読めない数々の住民の体験が紹介されている。その生々しい体験を文科省は否定するのか。それが二つ目の疑問だ。

 当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務めていた富山真順さん(故人)は88年、朝日新聞に対し、自決命令の実態を次のように語っている。

 富山さんは軍の命令で、非戦闘員の少年と役場職員の20人余りを集めた。下士官が1人に2個ずつ手投げ弾を配り、「敵に遭遇したら、1個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る1個で自決せよ」と命じた。集団自決が起きたのは、その1週間後だった。

 沖縄キリスト教短大の学長を務めた金城重明さん(78)は生き証人だ。手投げ弾が配られる現場に居合わせた。金城さんまで手投げ弾は回ってこず、母と妹、弟に手をかけて命を奪った。「軍隊が非戦闘員に武器を手渡すのは、自決命令を現実化したものだ」と語る。

 旧日本軍の慰安婦について、安倍政権には、軍とのかかわりを極力少なく見せようという動きがある。今回の文科省の検定方針も軌を一にしていないか。

 国民にとってつらい歴史でも、目をそむけない。将来を担う子どもたちにきちんと教えるのが教育である。
 
 沖縄戦集団自決「強制」記述に修正意見 教科書検定(『朝日新聞』2007年03月30日)

 文部科学省が30日公表した06年度の教科書検定で、地理歴史・公民では、沖縄戦の集団自決をめぐって、「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見が初めてついたことが分かった。強制性を否定する資料や証言を根拠に、従来の判断基準を変えたためだ。イラク戦争や靖国参拝など外交や政治にかかわる問題では、政府見解に沿う記述を求めるこの数年の傾向が今回も続いた。

 今回の対象は、高校中学年(主に2、3年で使用)の教科書。224点が申請され、検定意見を受けて各出版社が修正したうえで222点が合格。不合格の2点は、いずれも生物2だった。

 地歴公民のうち日本史では、沖縄戦の集団自決に関して「日本軍に強いられた」という趣旨を書いた7点すべてが「命令したかどうかは明らかと言えない」と指摘され、各社は「集団自決に追い込まれた」などと修正した。日本史の教科書は昨年も申請できたが、その際にはこうした意見はつかなかった。

 文科省は、判断基準を変えた理由を(1)「軍の命令があった」とする資料と否定する資料の双方がある(2)慶良間諸島で自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が05年、名誉棄損を訴えて訴訟を起こしている(3)近年の研究は、命令の有無より住民の精神状況が重視されている――などの状況からと説明する。昨年合格した出版社には、判断が変わった旨は知らせるが、すぐに修正を求めることはしない方針だ。

 地歴公民では、他にも時事問題で政府見解に沿った意見がついた。その結果、イラク戦争では、「米英軍のイラク侵攻」が「イラク攻撃」に、自衛隊が派遣された時期は「戦時中」から「主要な戦闘終結後も武力衝突がつづく」に変わった。首相の靖国参拝をめぐる裁判では、「合憲とする判決はない」という記述に「私的参拝と区別する必要がある」と意見がつき、「公式参拝を合憲とする判決はない」となった。

 南京大虐殺では今回も、「犠牲者数について、諸説を十分に配慮していない」との意見が日本史5点についた。一方、政治・外交問題となり、中学の教科書からはなくなった「従軍慰安婦」(「慰安婦」「慰安施設」を含む)の問題は16点で取りあげられたが、意見は一つもつかなかった

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不毛な道徳談義にふける教育再生会議を解体せよ

 教育基本法改悪に続いて、教員免許法・地方教育行政法・学校教育法の教育三法改悪案策定が進められ、さらに、教育再生会議で道徳論議が活発化しているという。

 教育再生会議は、5月に予定されている第2次報告に向けて、道徳論議が進められているというのである。現在でも、道徳教育は、公立小中学校で、年間34~35時間行われている。それに対して、「子どもがインターネットで有害情報を手に入れられる時代に、修身のような共通の倫理観がないのは問題だ」(義家弘介・同会議担当室長)、「『何歳の子どもには、ひきょうなことをしてはいけないと教える』という目標を同会議が提案したらいい」(張富士夫・トヨタ自動車会長)などの意見が出ているという。その狙いについて、『毎日新聞』の記事は、「道徳教育を強調することで「美しい国」を掲げる安倍晋三首相の保守路線を補完する狙いもメンバーにはあるようだ」と書いている。現在の政権の路線におもねるという政治的な議論をしているようでは、教育再生会議も、政府の政策実現の道具でしかなく、それはこれまでの教育改革の内容の公正さを否定する行為である。

 教育再生会議は、この間、拙速な議論の進め方、非公開を貫く秘密主義等々、衆議院で圧倒的多数を占める与党の強気・おごり・傲慢さを背景に、虎の威を借りる狐のごとく、世間の声に耳を貸さず、強引に教育改革論議を押し進めてきた。ヤンキー先生こと、義家委員は、修身のような共通の倫理観をつくれといい、トヨタ会長は、教育再生会議が、正義の教育目標を提案すればいいという。さっそく、新教育基本法の教育の目標第2条「3 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」「5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という規定の具体化に進んでいる。

 そこでまず、「青少年の奉仕活動や有害情報対策支援に取り組む民間会議の設立構想」が出されたという。道徳教育の領域で、経済団体が参加する民間会議というのもおかしな話である。経済団体は、あくまでも営利組織であって、道徳といっても、経済領域に関わるものであって、経済外の領域をも含む倫理の領域に、経済利害を持ち込む可能性があるからだ。

 また、第3分科会(高等教育)で、「川勝平太同分科会主査が、郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」を提案した」。「川勝氏は「家族・地域の大切さを知り、豊かな人間性を備えた規律ある人間を育成するためのアイデア」と道徳教育との連動性を説明」したという。「郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」」と「家族・地域の大切さ」を知ることと、「豊かな人間性を備え」ることと「規律ある人間を育成する」こととの関係がわからない。「ふるさと学」という学問知識を知れば、その知識の大切さを知ることになるのだろうか? 家族・地域についての知識があれば、豊かな人間性が育まれるのだろうか? そのような「ふるさと学」を学んだ人は、規律ある人間に育つというのだろうか? さっぱりちんぷんかんぷんだが、他の委員からも賛成意見が続出したという。フォイエルバッハを借りれば、「ふるさと学」の対象は、知識としての家族・伝統・地域であり、家族についての思想・伝統についての思想・地域についての思想であって、感官・感性の対象である他者としての家族・伝統・地域ではない。それは家族についての観念・伝統についての観念・地域についての観念であり、感性的対象すなわち存在ではない。幻の家族・幻の伝統・幻の地域である。同じことは、修身的共通倫理感にも言える。それは抽象的な観念形態としてのひからびた倫理思想にすぎない。

 もはや教育再生会議に幻想を持つことはできない。現実的な問題を現実に解決できない教育再生会議は、安部政権と共に解体するほかはない。

教育再生会議:道徳論議が活発化 奉仕活動や伝統学習
 
 政府の教育再生会議(野依良治座長)で、5月に予定される第2次報告に向け、道徳教育の論議が活発化してきた。メンバーには児童に教えるべき行動規範を同会議が打ち出すことを求める意見もある。具体的には、青少年の奉仕活動などを支える民間会議の設立構想や、小中学校などでの「地域の歴史・伝統」学習推進がテーマとなりそうだ。

 道徳教育は現在、文部科学省発行のテキスト道徳教育を強調することで「美しい国」を掲げる安倍晋三首相の保守路線を補完する狙いもメンバーにはあるようだなどを教材に使い、公立の小中学校で年間34~35時間行われている。しかし、同会議では「子どもがインターネットで有害情報を手に入れられる時代に、修身のような共通の倫理観がないのは問題だ」(義家弘介・同会議担当室長)、「『何歳の子どもには、ひきょうなことをしてはいけないと教える』という目標を同会議が提案したらいい」(張富士夫・トヨタ自動車会長)など、拡充を求める意見が相次いでいる。道徳教育を強調することで「美しい国」を掲げる安倍晋三首相の保守路線を補完する狙いもメンバーにはあるようだ。

 ただ、戦前の「修身教育」を復活させるような議論では、政府・与党の合意形成は難しい。そこで具体的に浮上しているのが、青少年の奉仕活動や有害情報対策支援に取り組む民間会議の設立構想。同会議の池田守男座長代理は16日の第2分科会(規範意識養成)終了後の記者会見で、経済、教育団20日の第3分科会(高等教育)では、川勝平太同分科会主査が、郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」を提案した。昨年12月に「わが国と郷土を愛する」と明記した改正教育基本法が成立したのを受け、郷土愛をはぐくむことを狙ったもの。川勝氏は「家族・地域の大切さを知り、豊かな人間性を備えた規律ある人間を育成するためのアイデア」と道徳教育との連動性を説明。委員の間からは「市町村合併が進む中で大切だ」「一部の小中学校で総合学習で行っているが、高校・大学でも導入を考えたらいい」と賛成する意見が出た体を交えた民間団体の設立を目指す方針を表明した。

 20日の第3分科会(高等教育)では、川勝平太同分科会主査が、郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」を提案した。昨年12月に「わが国と郷土を愛する」と明記した改正教育基本法が成立したのを受け、郷土愛をはぐくむことを狙ったもの。川勝氏は「家族・地域の大切さを知り、豊かな人間性を備えた規律ある人間を育成するためのアイデア」と道徳教育との連動性を説明。委員の間からは「市町村合併が進む中で大切だ」「一部の小中学校で総合学習で行っているが、高校・大学でも導入を考えたらいい」と賛成する意見が出た。【平元英治、渡辺創】(『毎日新聞』2007年3月24日)

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10日の中教審答申によせて

 10日、中教審答申が出た。このところの教育再生会議や中教審に対する文部科学省の官僚の介入の強化によって、文科省寄りになりつつある。

 教育再生会議は、いったんは会議の公開を打ち出したが、結局、自由な討論ができなくなるなどの理由で、非公開のままとすることを決めた。中教審は原則公開であるが、中教審は自由な議論がなされていないというのだろうか。国会は、原則公開であるが、あれは自由討論ではないと言うのか。むしろ、こういう重要で人々の関心の高い教育論議こそ、公開して、人々の視線を感じつつ、責任感を持った上で、自由に討論すべきである。そうすれば、文科省や自民党などが、裏からこそこそと介入するような余地をなくすことができて、自由にものが言えるようになるのである。

 中教審はもともと文科省サイドに立つ委員が多いので、議論が文科省寄りに偏るのはあらかじめわかっている。それでも、全国知事会や規制改革会議などからの意見にも配慮して、教育委員会改革案では、賛成論と反対論の両論併記に止まるという形での世論の反映が実現した。教育再生会議も、原則公開とすべきだ。

 この間の教育改革論議は、短期間の間に、進められ、ついには、中教審で、両論併記記述で答申を出したことを含め、生煮えのまま、急がれている。それは、「中教審の答申は、従来なら1年以上の時間をかける。わずか1カ月の短期間で取りまとめた今回のケースは、梶田叡一分科会長が「むちゃと言えばむちゃ」と言うほど、審議期間の面でも異例だった」(3月11日『毎日新聞』)というほどだ。また、委員の1人は、答申案に反対した。このような重要な領域について、人々の理解が進まないまま、改革が進められれば、現場の混乱は必至である。

 安部総理は、小泉前総理との手法の違いについて、「小泉政権は、副作用を伴う劇薬だが、自分はじわじわと効く漢方薬だ」と述べた。教員免許更新制や分限免職処分者の免許剥奪などは、「劇薬」の類である。それをこんな短期間で、導入決定しようというのだから、これは小泉政権以上の副作用を伴うものとなるだろう。

 これらの教育改革には反対である。教育論議は、もっと時間をかけて、人々の意識を反映しながら、一から行うべきだ。

 中教審答申のポイント(3月20日『毎日新聞』)

 ◇学校教育法◇

  • 義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」を新設
  • 義務教育年限は9年の現行通り
  • 学校は自らの評価制度を設けるべきだとの努力義務規定を新設。情報開示規定も新設
  • 副校長、主幹などの設置規定を新設

 ◇教員免許法◇

  • 免許状の有効期間は10年間
  • 分限免職処分を受けた場合は免許状失効
  • 更新時の講習時間は30時間程度

 ◇地方教育行政法◇

  • 教育で著しい不適切行為がある場合、国が教育に関する責務を果たす仕組みが必要(教委への勧告・指示権限に関しては賛否両論併記)
  • 教育委員に必ず保護者を含むようにする
  • 教委は第三者らによる点検・評価を受けて議会に報告
  • 教育長任命時の国の承認制度復活には反対
  • 教委が私学に指導する制度には反対
  • 文化とスポーツの管轄は教委から首長に移すことを可能とする
 社説:中教審答申 論議はまだ尽くされていない

 歯切れが悪い。中央教育審議会の答申は、焦点の教育委員会への国の是正勧告・指示権限に関して賛否両論併記という異例の内容になった。最終判断は安倍晋三首相に預けた格好である。

 諮問を受けてわずか1カ月余の集中審議。何をそんなにあわただしく、と言いたくなる。今国会に関連法改正案を提出したい首相の意を受けたのだが、待ってほしい。意見が分かれているなら、もっと論議を重ね、ていねいに時をかけて国民の理解や納得を得る努力を怠ってはならない。

 教委改革が持ち上がったのは、昨秋から相次いだいじめ自殺や大量履修漏れ問題が大きなきっかけだった。教委の対応のずさんさ、問題隠ぺい、チェック機能の甘さなどが露呈し、委員が名誉職のようになって組織が形がい化している所も少なくないと指摘された。

 だが制度が原因で問題が起きたのか。そうではなく、きちんと機能していなかったのだ。その意味で教委の責任自覚が必要だが、では国が介入すれば機能するのか。国は有能で規範性が高く、地方はその指示に従えばいいというほど問題は単純ではない。第一、履修漏れについては文部科学省も早くに実情の一端を察知していながら適切な対応ができず、本省から各地の教委に出向している官僚たちも見過ごしていたではないか。

 また一連の教育改革論議が混乱気味であわただしく感じられるのは、さまざまな会議が林立し、方向性がまちまちなためでもある。中教審、再生会議のほか、政府の規制改革会議、自民党の教育再生特命委員会、自民・公明両党の与党教育再生検討会……。教育に関しては議論が多様で活発なのはいいことだが、テーマや課題で分担をしないと国民は戸惑う。そして手間をかけてもきちんと集約していく粘り強い意思が必要だ。

 法を改め、制度をいじれば、それだけで教育問題が解決するわけではない。例えば、一般に授業を増やせば学力問題は改善するという論議があるが、首をかしげる現場の先生は少なくない。子供たちの生活全般にわたる意欲の低下を指摘し、これが根本的な問題とみる声も多い。「早くに総がかりで取り組むべき緊急の課題」とは実はこちらにあるとも思えるのだが、どうも首相は法や制度という形にこだわるように映る。

 ちょうど60年前の1947年3月18日。義務教育6・3制発足を前にした国会で、当時の文部省学校教育局長は、戦災で教科書も与えられない子供たちの窮状を報告しながら声を上げて泣いた。豊かさの奥に底なしの荒廃を内包したような今日の教育状況を改善するにも、やはり子供をはぐくむことへの熱い思い入れや愛情が出発であることに昔と変わりない。

 今回の中教審答申で文科省が法改正案を急ごしらえし、舞台を国会審議に移すとしても、常にそこに立ち返って考えてほしい。法改正自体が目的ではない。何のためにするか。何が今子供に必要か。そこがぼんやりしたまま形ばかり作っても、空疎だ。(『毎日新聞』 2007年3月11日)

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君が代伴奏拒否問題の最高裁判決によせて

 28日の大手4紙は、「入学式の君が代斉唱で、ピアノの伴奏を校長から命じられた小学校の音楽教師が、「君が代は過去の侵略と結びついているので弾けない」と断った。教師はのちに職務命令違反で東京都教育委員会から戒告処分を受けた。教師は「処分は、憲法で保障された思想、良心の自由を侵害するもので違法だ」として、取り消しを求めた」(『朝日新聞』社説)裁判の最高裁判決を取り上げている。

 またしても、批判的な『朝日』『毎日』と判決支持の『読売』『産経』に分かれた。当ブログで何度も取り上げているとおりである。

 『産経』社説は、「君が代伴奏拒否 最高裁判決は当然だ」というタイトルで、「今回の最高裁判決は、1・2審の判断をほぼ踏襲した極めて常識的なもので、当然の結果であろう」と書いている。他国で、国歌伴奏を拒否して音楽教師が処分を受けるという事例があるのかどうかわからない。事前通告され、校長が伴奏テープを用意した上での入学式の君が代伴奏拒否が、職務命令違反に当たるというのは、あまりにも官僚主義的である。

 処分を受けた教諭は、思想・良心の自由という憲法上の規定を、行政的な職務命令よりも上位と考えたわけで、法体系上、こちらの方が極めて常識的である。人々には、法違反の命令まで従う義務はなく、むしろ善良な市民なら、法違反を指摘し、それを阻止するべきだからである。

 問題は、教諭が主張した「歴史観・世界観」をどう見るかである。その点について、最高裁は、個人の思想・良心の自由の問題であり、校長の入学式での君が代伴奏を命じた職務命令は、それを犯すものではないとして判断を避けた。君が代の「歴史観・世界観」を問わなかったのである。入学式で伴奏を命じられたのは、校歌ではなく、国歌とされた君が代という特定の歌であって、その歌詞やそれが歌われてきた歴史、作曲の経緯、政治的な意味等々があり、あった。それを最高裁判事たるものが、判断できないというのは情けない。

 『産経』は、とにかく、教育現場での日の丸君が代強制に反対する教職員の運動に打撃を与えたと思いこんでこの最高裁判決に飛びついた。思想・良心の自由があるのは当然だが、教諭は、地方公務員法上の地方公務員であることを忘れ、上司の職務命令に従うのは当然だという。だが、一市民として、この国の最高法規である憲法を行政命令よりも優先するのは、当然のことである。これは、職務命令一般の違反ということではなく、教育行政のあり方をはらんだ問題である。

 その点について『読売』社説は、「問題なのは、一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教育現場に持ち込んできたことだ。国旗・国歌法が制定され、教育関連法にも様々な指導規定が盛り込まれている現在、そうした法規を守るのは当然のことだ」として、はぐらかしている。教諭が信条にしているのは、反「国旗・国歌」思想ではなく、反「日の丸・君が代」思想である。それが国歌国旗法によって、「国旗・国歌」と規定された。しかし、それらを強制しないと政府与党が言明した。それにも関わらず、学校現場で、強制されている。教育関連法にも様々な指導規定が盛り込まれているというが、指導規定はいろいろと紆余曲折、変化があって、これからも変化するものだ。

 『読売』は、地方分権を時代の流れとして支持しながら、教育に関しては、例外だと主張した。だが、教育こそ、もっとも地方分権されなければならないものだ。文部官僚には現場のことなどわからない。文部官僚は、5年から10年ぐらい学校で一教職員として働かせてみてもよいぐらいだ。

 『朝日』社説は、「処分を振りかざして国旗や国歌を強制するのは行き過ぎだ」と主張している。『毎日」社説は、本来教育のありようや運営法は司法が決するものではない。行政当局が安易に「これでお墨付きを得た」とばかり一律の統制を強化するようでは、ますます亀裂や混乱を深めることにもなろう」と述べている。これこそ、当然のことである。また、「「正常化」を名目に一律に抑え込むような処分は、殺伐とした空気を生むだけになりかねない。その時、しわ寄せをこうむるのは敏感な子供たちである」ということが、最高裁判決、『産経』『読売』に欠けている視点である。そして最後の「戦後学校教育の原点は「自治」であり、特に学校現場の裁量に期待されるところが大きい。そのことを改めて確認しておきたい」という視点も『産経』『読売』に欠けている点である。

 この間のいじめ問題などに見られるのは、官僚化した学校現場が、上ばかりを見て、子供を見ず、現場の裁量を十分に発揮できていないということが大きいということである。現場の意見を聞くよりも、上からの命令を気にしてばかりいるとか、現場の教職員が、上からの命令を待つという受動的な姿勢になって、官僚化し、失敗しないことばかりを気にするようになってしまう。そうなったら、教育はおしまいだ。

 『読売』は、最後に、「卒業・入学式シーズンが近い。児童や生徒たちを厳粛で平穏な式典に臨ませるのも学校、教師の重要な役割である」という官僚主義的な夢想を描いている。「厳粛で平穏」は、官僚主義的な価値観だ。卒入学式は、「生き生きと楽しい」ものがよいと思う。最高裁判決は、形式主義的なもので、教職員の思想・良心の自由を一応、公共性による制限があると限定しつつも、基本的に認めている。したがって、『読売』の一部教師集団による思想持ち込みへの非難は、あくまでも一新聞の『読売』の思想であって、それ以上ではないということもこの最高裁判決で明らかになった。教職員が、反「日の丸・君が代」思想を持つことは自由なのだ。しかし、文部科学省が職務命令で教職員に強制したいのは、正「日の丸・君が代」思想なのだから、その道は険しくなったとも言えるわけである。統制強化は、混乱を拡大するだけだという『毎日』の指摘のとおりである。

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文科省が教育関連3法案の要綱原案を中教審に提示

 文部科学省は、21日、地方教育行政法、学校教育法、教員免許法の教育関連3法の改正案要綱原案を中央教育審議会の分科会に提出した。教委改革では、文科相の是正勧告・指示権限の復活が盛り込まれた。学校教育法改正では、「わが国を愛する態度」を義務教育の目標と規定した。ここに、教育基本法改定の具体化があらわれている。「教員免許法については、十年ごとの免許更新制を導入、更新講習を義務化。教員が適格性を欠くなどして分限免職処分を受けた場合、教員免許を失効させる措置も新たに規定する」という。

 この中で、強く具体性があるのは、教員免許法改定の部分であり、安倍総理の「だめ教師はやめていただく」という方針の具体化である。その狙いがどこにあるかは明らかで、この間分限免職処分を受けた教職員の中には、卒入学式での「日の丸・君が代」強制に反対して処分を受けた教師も含まれる。すでに免職になった人の免許を剥奪することと免許更新制は、考え方が相反する。片方は、教員が適格性を更新し、自己変革することを促進することが前提である。つまり教員が変わりうるということが前提である。ところが、後の方は、一度分限免職処分を受けたら、講習参加もさせないということで、免許を取り直すしか、教員復帰の道が残されないということになる。ところが、規制改革会議や教育再生会議が主張している民間の無免許者の教員への登用拡大で、民間無資格者として、教員に復帰するという道がある。

 安倍総理は、再チャレンジというスローガンを掲げているが、分限免職処分者に対する再チャレンジはどうなるのだろうか? 制度というのは、こういう類のことが多く、片方で前に進めと言いながらもう片方ではブレーキを踏んでいるようなことが多い。だから、それらはいつかぶつかってしまって、にっちもさっちも行かなくなるのである。分限免職処分は、行政処分であって、解雇とは異なる体系に属している。他方で、無免許者の教員登用拡大は、民間の要求であり、その体系からの発想である。それぞれからいいとこどりして、拾ってきて法案をつくろうとするから、こういうことになるわけである。

 文部科学省は、教員免許を持った教員に行政的に対処しているわけで、その枠内で考えている。本来なら再チャレンジを掲げる安倍総理は、リーダーシップを発揮して、民間の要求を優先するか文部科学省の発想を優先するかを決めなければならない。前小泉総理は、そういうやり方だった。民間に立つと決めたら、それに反対する者はすべて抵抗勢力として押さえ込んだ。民間の無免許者が多数教壇に立っている状態を想定すれば、無免許教員の資質の向上はどうするかという課題があることは明白である。解雇してしまえば終わりだということでいいのかどうかなど、この議論は、民間で活躍した人は、教員として適格性があるという楽観的な想定にもとづいている。民間からの無免許教員が、学校で問題を起こしたらどうなるか? 等々。

 しかし、今最初の課題とされているのは、文部科学省の権限強化、愛国心の押しつけ強化、教員処分・管理の強化などであり、喫緊の課題であるいじめ対策などの現場が抱える重要課題への対策などはどっかに行ってしまった。それが人々の関心と離れていることは言うまでもない。やはり住民の教育に対する要求に鋭く反応できるような地域での独立した教委が必要であり、公選制の上で、権限強化する必要がある。文部科学省が上から都道府県の教育長人事にまで介入することには問題がある。

 それにしても、こうした文部科学省の教育関連3法案の基本的な考え方を見ても、小泉政権が、ぶっ壊すと叫んだ「守旧体制」は、堅固に生き延びていたことは明らかである。だましもいい加減にしろと人々が怒る必要がある。ただでさえ「鈍感」な安倍政権は、そうでもしないとますます「鈍感力」に磨きをかけて、数の力に物を言わせて、次々とへんな法律や制度を次々と強行採決しようとするかもしれない。しかし、『鈍感力』が強すぎれば、選挙で厳しい審判を受けることになることは間違いない。目の前の選挙を控えた石原東京都知事は、「敏感」になって、自民党推薦を断ろうとしているではないか。 

 地方教育行政法 文科相、教委に指示権限 教育関連3法 中教審に要綱原案(2007/02/22『北海道新聞)

 文部科学省は二十一日、地方教育行政法、学校教育法、教員免許法の教育関連三法の改正案要綱原案を中央教育審議会(中教審)の分科会に提示した。教育委員会改革をめぐり焦点となっている地方教育行政法の改正案要綱原案は、教委に対する文科相の是正勧告・指示の権限を盛り込んだ。学校教育法改正案の要綱原案は「わが国と郷土を愛する態度」を「義務教育の目標」として規定した。

 昨年十二月成立の改正教育基本法や、政府の教育再生会議の提言などを踏まえた内容で、文科省は三月上旬までの答申を中教審に求めている。ただ、地方教育行政法改正案の要綱原案について地方代表委員から「地方分権改革に逆行」との異論があり、このまま最終決定するか不透明。残る二法の要綱原案は大筋で了承される見通しだ。

 地方教育行政法改正案の要綱原案は、教育再生会議の提言通り、文科相の教委に対する是正勧告・指示権限を盛り込んだほか、都道府県教委の教育長の任命も文科相が「一定の関与を行う」としている。現在は都道府県知事が所管する私立学校に教委が指導・助言ができる規定も設けた。

 一方、現行学校教育法は、小学校の教育目標の一つとして「郷土、国家の現状、伝統について正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養う」と規定、中学校はその充実を目標としている。

 要綱原案は、これを義務教育の共通目標とし「わが国と郷土の歴史についての正しい理解、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する態度、国際理解、国際協調の精神」を育成すると改めた。校長を補佐する副校長、校長や副校長を補佐する主幹を設置するとした。

 教員免許法については、十年ごとの免許更新制を導入、更新講習を義務化。教員が適格性を欠くなどして分限免職処分を受けた場合、教員免許を失効させる措置も新たに規定する。

 安倍晋三首相は三法の改正案の今国会提出を打ち出しており、提出期限は三月中旬。梶田叡一分科会長(兵庫教育大学長)は終了後、「教員免許法と学校教育法は今回の原案でほぼまとまると思うが、地方教育行政法はまだ論議が必要」と話した。

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25日に中教審答申

 文部科学省の中央教育審議会が、今月25日に答申を出すという。安倍総理は、教育三法案(教員免許法、地方教育行政法、学校教育法)改正案の今国会での成立を目指している。すでに、教育再生会議が、第一次提言を提出しており、中教審答申が出れば、法案化前の手続きに区切りがつくことになる。

 しかし、規制改革会議や地方首長などから、国の関与・権限強化は、地方分権化の流れに逆行するとする批判が出されている。中教審は原則公開なので、審議経過を見ることができる。教育再生会議での議論は、委員によって言うことがばらばらで、結局は、非公開の密室を利用した文部科学省ー自民党文教族の強い介入が行われたことを見れば、やはり原則公開とすべきだ。

 『産経新聞』はかねてより、文部科学省や中教審のあり方に強い不満を表明してきたが、この社説では、「文科相の是正勧告権限については異論が多いが、これは教育委員会の事務処理に法令違反や著しく適正さを欠く場合に限ったものだ。いわば「伝家の宝刀」という意味合いであろう」となぜか文科大臣に是正勧告権限を与えるという国権介入強化を擁護している。法令違反を裁くのは、裁判所ー司法であり、事務処理に著しく適正さを欠く場合というのもあいまいだ。文部科学省は、タウンミーティングでの「やらせ」が発覚し、さらに伊吹大臣は、事務所費疑惑が持ち上がっている文教族の一人である。こういう連中の権限を強化して大丈夫なのか? とは、『産経』は心配しないらしい。「のど元すぎれば熱さ忘れる」ということだろうか? それとも、不正・腐敗に甘いということだろうか? 

 いずれにしても、今の文部科学省のまま、権限強化することは、危険だ。地方教委には、文部科学省からの出向職員がおり、教委の責任という場合には、彼らの権限・責任・職務内容などについても問わねばならない。教委の独立性が奪われてきたこと、住民の方を向いて、住民を恐れるという形の自治機関としての性格が奪われ、文部科学省・上級教委の顔色ばかりをうかがうような上意下達の形骸化した一機関にされてきたことの弊害が出てきているのだろう。

 『産経』は、「悪い例」として、「地方の教育現場では、山梨県教職員組合(山教組)の違法な政治活動で文科省が県教委に処分を要請する指導をしたにもかかわらず、従わなかったケースがある。最近もいじめ調査や学力テスト実施に非協力を指示した北海道教職員組合(北教組)の問題」をあげる。山梨県教組の件では、自民党・保守派の候補者を支援する活動が行われていた。北海道教職員組合の場合、いじめ調査は、それ自体がいじめ解消につながるわけではない。高校必修科目未履修問題では、文部科学省が、情報をつかみながらなんらの行動も起こさなかったということがある。北海道行政が、いじめ調査をしたからといって、それが必ずいじめ解消にプラスに働くとは限らない。『産経』は、行政に協力しなかったこと自体を、法違反的なものだととらえているようだ。しかし、それは道徳的な非難以上のものではない。学力テストについては、私立で参加しないところがいくつもあるし、参加しない自治体もある。強制ではない以上、それに非協力だからといって、マイナスに評価するのは、『産経』の勝手である。『産経』は、労組問題となるとこじつけが多い。

 文部科学省ー自民党文教族の教委改革案を『産経』が支持する理由を「国の権限強化が必要だという背景には、狭い教育界のなかでなれ合うような体質、教育委員会自身が問題を隠すような体質に国民から強い不信感があるからだ。制度見直しは、各地で進む特色ある教育改革や学校づくりを邪魔するものではない。むしろ、支援体制を充実させようというものだ」としている。教委が狭い教育界の上ばかりを見ていることは、教委が住民の代表として住民に顔を向けて説明し、責任を負うという公選制が廃止されたことが大きい。日本では、住民の間に定着しなかったというのは確かだが、行政や国がそれに消極的で否定的であったことも大きいのではないだろうか? 教委への住民参加と住民による監督の仕組みを作ることが必要だろう。教委の問題隠蔽体質に国民から強い不信感があるということから、なんで国の権限強化が出てくるのだろうか? いろいろとわけのわからぬことが多い。

 『産経』は、「旧態依然の審議から脱し」とこれまでの中教審のあり方に不信を示しているが、新しいというのが教委への是正勧告などの国権限強化策だとすれば、それは90年以前の旧態に復すことにすぎないということをどう考えるのだろうか?

 安倍政権は、中川官房長官が、「閣僚・官僚には、首相への絶対的忠誠・自己犠牲の精神が求められる」と「一糸乱れぬ団結」「一枚岩」(スターリンか!)を求めることを強調せざるを得なくなるほど、ゆるみきっている。数が多すぎることは、かえって政党を弱くするようだ。安倍政権の教育改革論議に、教育現場の声、人々の声が反映されていない。もっと強く、現場の意見が反映されるようにすべきだし、聞くべきだ。
 
  教育論議:「国の関与」めぐり地方との対立再燃(『毎日新聞』2007年2月18日)

 安倍晋三首相が教育関連3法の今国会改正を指示したことを受け、文部科学相の諮問機関、中央教育審議会(中教審)は、早ければ25日の会合で答申の大枠を固める。首相は焦点に浮上した教育行政への国の権限強化に前向きとみられるが、05年の国と地方の「三位一体の改革」に続き、教育を巡る国と地方の対立が再燃している。【竹島一登】

 「国が教育の基準を示して地方が実施する。中教審もそういう流れの議論ではなかったか」

 16日の中教審の会合で、地方代表の石井正弘・岡山県知事はこう指摘し、小泉内閣の三位一体改革への反論として中教審がまとめた05年10月の答申の再確認を求めた。

 三位一体改革で、全国知事会など地方側は、国の関与の廃止や義務教育費国庫負担の全廃を提唱。政府が議論を委ねた中教審は、自民党や文科省の反対論を背景に、2分の1の国庫負担率の維持を答申した。国庫負担率は政治決着で3分の1に引き下げられたが、中教審答申は国の権限強化には触れず、むしろ義務教育を実施する市町村の権限拡大など、分権の推進をうたっていた。

 政府の教育再生会議が提唱した国の是正勧告・指示権は、地方分権への「逆行」(規制改革会議)との批判が強い。これに対し政府・自民党は、いじめ問題の深刻化や学習指導要領が守られなかった履修不足を例に「最後の責任を取るには権限が不十分」(伊吹文明文科相)と、99年の地方分権一括法で廃止された国の権限回復が必要との立場だ。

 中教審にも「教育委員会はいじめや学力不足に対応できていない」と国の関与への積極論もあるが、「責任が国になれば問題がなくなるとは誰も思っていない」(中村正彦・東京都教育長)との声もあり議論が真っ二つだ。

 「求められているのは上級官庁でなく市民に責任を持つ教育行政だ」

 16日の会合で、北脇保之・静岡県浜松市長は首長の関与拡大を求め、片山善博・鳥取県知事も予算などを通じた首長や議会のチェック機能の発揮を訴えた。ただ、政府・自民党は昨年の改正教育基本法の審議を下敷きに「首長に権限を委ねる民主党案は国会で否定された」(伊吹文科相)との立場。中教審でも地方の主張に沿って議論が深まる気配はない。

 教育関連3法案の3月中旬の提出期限に向け、首相は国の権限問題について「最後は私が判断する」とトップダウンを辞さない構え。中教審の中心メンバーにも「我々は下請けではない。1ケ月の審議の背後に数年間の議論の積み重ねがある」との声があり、意見集約には曲折がありそうだ。

 【主張】中教審 再生への見識示す議論を (『産経新聞』2007年02月19日)

 教育再生関連3法案の内容を詰める審議が、中央教育審議会で本格的に始まった。実効性はその内容に左右されると言ってもいい。公教育への強い危機感を共有して議論せねばならない。

 審議内容は、教育再生会議の第1次報告を受けたものだ。だめ教師を教壇に立たせないようにする教員免許制度見直しやいじめなど、子供たちの危機に対応できない教育委員会の改革をいかに実行に移すか注目されている。

 教育委員会制度見直しのなかでは文部科学相の是正勧告権限などについて、国の指導権限強化につながると地方から反対意見がある。

 政府の規制改革会議は、地方分権推進の立場から「文部科学省の上意下達システムの弊害を助長することはあってはならない」などとクギを刺す見解を示した。中教審の審議のなかでも「地方の現場を尊重すべきだ」との意見がでている。

 一方で規制改革会議は、短期間に教育改革の道筋をつけた再生会議を評価し、「教委の責任体制のあいまいさ」や「危機管理体制の欠如」などは共通認識を持つと強調している。
文科相の是正勧告権限については異論が多いが、これは教育委員会の事務処理に法令違反や著しく適正さを欠く場合に限ったものだ。いわば「伝家の宝刀」という意味合いであろう。

 地方の教育現場では、山梨県教職員組合(山教組)の違法な政治活動で文科省が県教委に処分を要請する指導をしたにもかかわらず、従わなかったケースがある。最近もいじめ調査や学力テスト実施に非協力を指示した北海道教職員組合(北教組)の問題が明らかになっている。

 国の権限強化が必要だという背景には、狭い教育界のなかでなれ合うような体質、教育委員会自身が問題を隠すような体質に国民から強い不信感があるからだ。制度見直しは、各地で進む特色ある教育改革や学校づくりを邪魔するものではない。むしろ、支援体制を充実させようというものだ。

 政府は3法改正案を今国会に提出する考えで時間は限られる。中教審には学校現場を熟知する専門家も多い。そうした意見も積極的に活用して旧態依然の審議から脱し、国民の期待に応える見識を見せてほしい。

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教委改革論議の迷走ぶり

 阿部内閣は不思議な内閣だ。2月16日付けの『毎日新聞』によると、教育委員会制度改革をめぐって、規制改革会議と文部科学省が対立しているという。文科省は、この問題で、規制改革会議寄りの白石東洋大教授をはずして、元文部科学省事務次官の小野氏に提言をまとめさせた。それで教育再生会議の提言は、教育委員会への国の権限強化を軸とするものになった。国の教委へ是正勧告や指示権限を強化、国が都道府県教育委員長任命に関与、国による教委の第三者評価。それに対して、規制改革会議は、教委の権限の一部の首長への委譲、市町村に対する教委設置義務の廃止、独立機関による教委の第三者評価を主張している。全国知事会は、教育再生会議の提言を、地方分権に逆行すると反発している。それに対して、16日の自民党教育再生特命委員会では、教育再生会議の国の教委への権限強化提言を支持する意見が大勢だったという。その自民党も、党員数が3万人も減った。人々の政治批判は、既存政党批判となって、無党派層が増加している。

 こんな状態で、今国会で、地方教育行政法の改定ができるのだろうか? 与党は衆議院で圧倒的多数だから、法案さえまとまれば、強行採決は可能だが、教育再生会議の提言を元にした法案だと、地方の反発が、参議院選挙にダメージを与えるかもしれない。それに、小泉構造改革路線の継承を掲げてスタートした阿倍政権が、その路線の司令部である規制改革会議の主張を無視するのもおかしい。もともと官邸機能の強化、官邸主導を進めてきたのは、官僚の力を弱めるためでもあったはずだ。ところが、文部科学省が教育再生会議に露骨に介入して、文部官僚に都合のいいような提言を出させたわけで、これが改革の逆行であることは明らかだ。

 阿部内閣の不思議なところは、それでも平然としているように見えるところである。阿倍総理は、次々と何とか会議を官邸に発足させているが、これらも、急ごしらえの思いつきで作られたような感じで、対象もかぶっているものも多く、混乱を拡大しているだけである。中川政調会長は、似たような会議が多いと苦言を呈したほどである。時事通信の最新世論調査では、内閣不支持39・2%、支持34・9%になった。

 教育再生会議では、文部科学省・自民党の教育への国家介入強化路線と規制改革会議・構造改革派の間での党派闘争が激しくなっているようだ。そこには、現場の教育関係者・生徒・親・地域などの姿はなく、かれらはただの記号として流通して、飛び交っているだけである。教育改革は、空しい権力闘争の具と化せられている。これが、もし、現場対文部科学省との権力闘争であったなら、中身のあるそれとなるのだが。しょせんは、これは現場からはるか上空での空中戦である。しかしその結果は、やがて現場に下りてくることになる。いったい、教育委員会とはなんであるのか? 原点にさかのぼった議論が求められていることは確かだ。阿倍総理は、教育委員会が戦後教育の一つの柱であったことをどう考えているのだろうか? それは戦後レジュームの見直しの中で解体されるべきものなのか? それとも、国の行政機関化するのか? 行政からの独立性をどうしたいのか? 総理の考えははっきりしない。阿倍政権が最優先課題に掲げる教育再生も雲行きが怪しくなってきた。

教育再生会議 地方の疑問に答えよ(2月17日『東京新聞』社説)

教育再生会議の第一次報告や提言に対し、地方から異論がでている。文部科学省の権限強化につながりかねず、地方分権に逆行するとの懸念が強い。安倍晋三首相や再生会議は疑問に答えるべきだ。

 全国都道府県の教育委員長と教育長でつくる各協議会が教育再生会議に異例の意見書を出した。

 再生会議の議論を「一部の事象をもって全体の傾向とするなど、一面的なとらえ方が見受けられる」と批判した。正確な現状分析とデータに基づく議論や地方分権に立った議論を求めている。

 特に、再生会議が「法令違反や教育本来の目的達成を阻害していると認めるとき文部科学相は是正勧告・指示ができる」とした教育委改革提言を危惧(きぐ)している。いじめ自殺や高校必修漏れでの教育委の不適切な対応だけを取り上げているからだ。

 二〇〇〇年施行の地方分権一括法で文科相の教育委員会への是正命令権などは撤廃された経緯がある。各地の実情に応じて創意工夫し、独自性を発揮した分権型の教育を目指したはずだ。教育委改革提言は、地方の自立という理念に反する。

 教育委員長協議会の幹部が「地方分権に逆行する」と批判したのは無理もない。全国知事会も「国の統制を強化し、教育行政を後戻りさせかねない」との談話を発表している。

 政府の規制改革会議も「上意下達システムの弊害を助長することがあってはならない」と文科省の権限強化に反対する意見書を出し、異論は広がっている。

 安倍首相は再生会議の報告・提言を基に関連法改正案を今国会に提案するよう指示し、文科相の諮問機関、中央教育審議会(中教審)で審議に入っている。教育委改革を含む地方教育行政法改正は重要な柱だ。

 地方分権を推進するという政府の方針と矛盾しないか、安倍首相はきちんと説明する必要がある。

 今回の意見書は再生会議の公開を求めている。再生会議側は「公開すると真実が伝わりにくい」などと説明しているが、委員の中には「非公開だと意見が反映されない」と反発し公開を求める声もある。インターネットで公開される議事録はきれいに整理されており、議論の微妙な過程がみえにくい。会議から半月たっても議事録が公表されないケースもあり、不透明だとの指摘もある。

 教育の将来を左右する重要な会議だ。透明性を高める努力が必要である。中教審は公開方針を採っていても支障はないといい、これに倣ったらどうか。国民的議論を呼び起こすためにも原則公開が望ましい。

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教育再生会議第1次報告案に不満続出

 教育再生会議の第1次報告案については、早くも批判の声が噴出していて、前途多難が予想される。下の『毎日新聞』の記事も現場の不満の声を拾ったものであるが、そもそも何のための教育再生なのかを、現場の人々が理解できていないことを示している。

 そもそも「ゆとり教育」見直しといっても、授業時間を増やすことで、どのような学力を引き上げようとしているのかが問題で、その点を19日の『毎日社説』が指摘しているのだが、その疑問はもっともである。それに対して、同日の『産経新聞』は、学力向上につながるとして歓迎しているのだが、その学力観は古いのではないか。教員免許更新制は、改革のための改革にすぎないような気がする。

 それに、山谷総理補佐官の発言を聞いていると、この人の発想の仕方や見識や思考能力には疑問を感じる。山谷氏は、なにを思ったか、昨年のNHK紅白歌合戦でのヌード柄衣装のダンスシーンの問題を教育再生会議で取り上げると語っているという。放送の問題には、放送倫理に関する審議機関は別にあるし、なぜそれを教育再生会議で取り上げて議論するのか、わかりにくい。きわめて広い意味でいえば、あれもこれも教育問題だといえないことはないが、そこまでしたら、なんでもありになってしまう。発足後、しばらく、取り上げるテーマについての絞り込みを重ねて今の報告の内容になったのではなかったか?

 一段落したところで新たなテーマ設定をしたいのだろうか? しかし、継続論議に持ち越しになった論点もあげられているわけで、しかも、自殺者を出しているいじめ問題解決は、なんといっても最優先課題の一つである。論点を拡散させるよりも、現在の論点を深めるべきであろう。山谷氏が取り上げた生徒による教師への暴力への対応問題については、90年代に旧文部省から、正当防衛として反撃は認められるという見解が通達されたという。正当防衛権が、教師ー生徒間で認められないという権利制限があるとすれば、それは特別権力関係、一般法の権力規定とは別の特殊な権力関係が適用されているからだろう。そうでなければ、一般に認められている正当防衛が、学校では認められないというようなことはあり得ないだろう。

 山谷氏は、こうした現場の実態をよくわかっていないようだ。一方では教育手段としての体罰と称しての虐待行為が時々発覚し、他方では、生徒による教師への暴力件数が一昨年に過去最高となった。体罰は原則的に禁止されているが、教師の正当防衛権が制限されているのはなぜだろうか? 山谷氏はそれをよくよく調べるよりも、NHK紅白歌合戦の問題に興味を移してしまう。なんとなく頭に浮かんだ空想をリアルに感じてそれを思いつくままにぽっと口に出す。彼女は、それを調べて、考え抜き、整理し、まとめて、それから口にするということができないようだ。「考える力」がないのである。考える力を伸ばそうとした「ゆとり教育」が山谷氏には必要に見える。それとも、山谷氏は、考える力が弱いことを自覚しているので、苦手なことはやりたくないと、「ゆとり教育」を否定しているのだろうか? とにかく彼女には思いつきの力はあっても考える力が欠けていることは確かである。その点は、「美しい国」などというイメージに酔っている阿倍総理と似たもの同士のようだ。

 学力の中身が暗記力で、それを国際競争するというのは、もはや古くさい尺度になってしまったのではないか? 数学の偏差値が多少下がったと言って大騒ぎするのはなぜか? 数学の点数が多少上がったイギリスは、世界からそんなに尊敬されているのか? かつて世界の産業の最先端は、金融・ハイテク・知識産業・ソフト・コンテンツ産業に移っていって、それに必要なのは、創造力・自由な発想であり、それを育てる教育は、知識の詰め込みではなく、自主性・自発性を持った自立した個人を確立することだと言われた。それを元文部省官僚の寺脇氏は、『毎日新聞』のインタビューで力説している。それが、これらの分野で進んでいるアメリカなどとの国際競争に対応する「教育改革」の目的だったはずである。詰め込み教育は、かつての重厚長大産業に対応した教育だったはずである。アメリカでは、マイクロ・ソフトのビル・ゲイツをはじめ、詰め込み教育からはずれた新企業家たちが続々育って、新しい発想で、イノベーションを起こしていったと言われた。もちろん幻想にすぎないが、こうしたイノベーションの連続によって、絶えず成長する経済をアメリカではニューエコノミーと称して、永遠の繁栄の夢を見た時代があった。それはむろん崩壊した。

 いったい、教育再生会議と阿倍政権は、なんのために教育再生を強調するのか? 規範と学力というが、その規範とは何か? そして学力の中身は何なのか? 実態は、実は権力闘争であり、文部官僚、自治体、自民党、財界などの利権争いなのではないか? かつて、教科書会社への文部官僚の天下りと癒着が問題になったことがある。そのような教育利権の再編が行われているのではないだろうか? 教科書を分厚くするというのも、教科書会社の利益のためのような気がするし、教育委員会改革は、文部科学省の権力拡大のような気がする。教員免許更新制も、文部官僚の現場支配権拡大のためのような気がする。高校ボランティア必修化は、ボランティアの魂を殺すもので、それはボランティアではない。等々。不満が続出するのも、無理はない。

  教育再生会議:第1次報告案…現場から不満噴出
 
   「ゆとり教育」の見直しなどを柱とした政府の教育再生会議の第1次報告最終案が19日、まとまった。提言には「学力の向上」「規律ある教室」「教員の質の向上」など教育現場への注文ともとれる言葉が並ぶ。教員からは「朝令暮改の改革に振り回され続けている」「学力が下がることは前提でゆとり教育を導入したはずだ」と反発の声が上がった。

 ■「ゆとり」見直し

 千葉県内の公立小学校の男性教諭(57)は「ゆとり教育の導入前から『表面的な学力低下はみられる』と言われていた。急に『学力向上だ』では現場はまた混乱する。総合的な学習も中ぶらりんとなる」と不満を述べた。北海道立高校の男性教諭(40)も「授業時間数の10%増というが、今でも受験対策に放課後や土曜に補習をしている。時間を増やせば問題が解決するとは思えない」。

 山梨県内の公立小学校の男性教諭(44)は「ゆとり教育では必ずしも学力は低下しておらず、むしろ優劣の差が広がっている。学力向上を目指すことでトップ層だけを引き上げることに目がいかないか」と心配する。

 ■「いじめ」厳罰化

 いじめる側への出席停止制度活用など、厳しい態度で臨むことが掲げられたが、東京都内の公立中学校の女性教諭(58)は「いじめている子と、いじめられている子を分けられるのか」と反発。「厳罰化で子どもがストレスを抱えれば校内暴力が激化するのでは。自分で問題を解決する力を養うという提言がなかったのが残念」と話す。

 ■奉仕活動の必修

 高校での奉仕活動の必修化について、都立高校の男性教諭(40)は「都立高は来年度から導入するが、担当教員が受け入れ先を探しているのが現状。おぜん立てするのは教員で、生徒の自主的なものではない」と実態を明かした。

 ■ダメ教師排除

 埼玉県内の公立中学校の男性教諭(49)は「何が不適格なのかはっきりしない。厳罰を実行しない教師はダメ教師扱いになるのでは」と困惑。「大切なのは教員処分ではなく、自信を持って教えられるようなシステム作りだ」と都内の公立中学校校長(60)は語った。(毎日新聞 2007年1月19日)

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教育再生会議第1次報告がまとまったことによせて

 阿倍政権の目玉の一つの教育再生会議が、第1次報告取りまとめに向けた全体会議を開いた。そこで、「4つの緊急対応」と「7つの提言」を柱にした原案をまとめ、24日の総会で首相に提出する。

 第1次報告は、まず、授業時間の1割増をはかるとしている。これまでの「ゆとり教育」見直しの具体化であり、週5日制の見直し、夏休みの短縮などを検討するという。この場合、教員の人件費増が生じることになる。

 さらに体罰規定の見直し、いじめ側生徒の出席停止措置、教員免許更新制導入、高校でのボランティアの必修化、教育委員会の設置義務を弾力化して、小規模自治体の教育委員会を統合できるようにすること、などが盛り込まれた。

 ただし、報告は閣議決定されないことが決まったので、提言に止まる。また、中教審がこれまで検討してきたものと重なるものも多い。いじめ生徒の出席停止措置には、伊吹文部科学大臣が慎重な態度を示すなど、抵抗が予想され、よほどの総理の強力なリーダーシップがなければ、制度化・法案成立は難しそうだ。閣僚辞任、閣僚のスキャンダルの相次ぐ発覚、内閣支持率低下などの逆風の中で、総理の求心力も低下しているので、リーダーシップがどこまで発揮できるかは疑問である。

 昨年の教育基本法改「正」にしても、成立の過程で傷がついたことは明らかで、人々が納得しないままできた法律では、「仏作って魂入れず」であり、単に言語記号を並べただけの紙切れ程度の重みしかもたないだろう。その二の舞になりかねないわけである。人々が、あれに納得し理解していれば、新教育基本法を成立させた阿部内閣をもっと支持していただろう。それが逆に支持率低下、不支持増加という結果になっているのである。

 教育再生会議のメンバーの居酒屋チェーン「ワタミ」社長は、これで関連法案が成立すれば、教育再生できると自信を示した。山谷えり子首相補佐官は、生徒に殴られそうになった時に、それを手で振り払うことも体罰としてできないのはおかしいとのべ、体罰基準の見直しを示唆した。しかし、彼女があげた例は、自衛権・正当防衛の範囲の話で、身の危険を回避する行動が体罰とされるのことがおかしいことは自明の理である。正当防衛権よりも体罰基準の方が優先適応されるとすれば、それは逆立ちである。首相補佐官ともあろう者がその程度のことを、教育再生の中身として語るとは、ひどいものだ。

 いずれにしても、教育再生会議に発足当初の輝きはすでになくなっていることが明らかになった。「たそがれ晋三」と沈む運命を共にするだろうことが見えてきたようだ。

  第1次報告取りまとめへ 教育再生会議 (東京新聞)

 政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は19日昼、学力向上のため「ゆとり教育」見直しなど求めた「4つの緊急対応」と「7つの提言」を柱にした第1次報告の最終的な取りまとめに向けた全体会議を首相官邸で開いた。有識者メンバーの了承を得た上で、24日に総会を開き、安倍晋三首相に提出する。

 報告案では、公立学校の授業時間数の10%増を打ち出したほか、(1)いじめ問題対応のため「体罰の範囲」に関する政府通知を3月末までに見直し(2)不適格教員排除につながる教員免許更新制導入と条件厳格化(3)教育委員会の抜本改革を目指した外部評価制導入-などを盛り込んでいる。

 また、いじめや暴力を繰り返す子どもに対しては、学校教育法に基づく出席停止制度を活用するよう明記。高校での奉仕活動必修化も提言した。(共同) (2007年01月19日)

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今度は『読売』も転向か?

 9日付『読売新聞』社説[日本の選択]「新『教育改革』の元年とせよ “ゆとり”との最終決別を」は、「ゆとり教育」が、その立派な理念とは裏腹に、私学と公立の格差を拡大し、かえって受験競争を激化するなどの失敗策であったことを強調している。そしてそのことは、現場の声を聞く限り、ほぼ事実のようだ。
 
 もともと「ゆとり教育」は、「子どもが家庭や地域社会で過ごす時間を増やし、自ら学び考え、生きる力をはぐくむ」のが目的だ。土曜日に生活体験、社会体験、自然体験などをさせる。そのための「受け皿」作りと大人の意識改革が求められた」のである。ところが実際には、「それがどうだろう。環境は整わない。土曜の身の置き場がない。塾に行き場を求める親子、朝からテレビゲームにかじりつく子が増えた。/もともと私立の小中高校の半数は5日制にそっぽを向いている。私立との学力格差を危惧(きぐ)する公立高校でも、土曜日に補習をするところが急増した」という結果になっている。
 
 『読売』が強く心配する学力低下などはあまり問題ではない。もともと受験用の学力の中身は、暗記力が中心で、それは確かに授業時間に比例してある程度は伸ばすことが可能だからである。もともと産業構造の変化に対応する教育を求めたのは経済界であって、バブル期には、重厚長大産業から知識集約型産業などのソフト産業、コンテンツ産業などを新規産業として育成しなければ、国際競争に勝てないということで、暗記力よりも、創造力育成をはかるとして「ゆとり教育」が導入されたのである。ところが、そんな急転換に現場が対応できず、混乱したというのが実態なのである。「総合学習」に何をすればいいかわからない。「ゆとり」をどう過ごしていいかわからない。等々の戸惑いが広がる中で、当初の目的が失われていったのである。
 
 同時に、飛び級制度というエリート養成策も導入されたりして、結局、政府の教育政策が何をしたいのかもわからなくなったのである。そこで教育の機軸を再び、暗記力を中心とする学力主義にもどし、偏差値を基準に据え直すことで、混乱を整理しようというのである。この部分で、競争主義を再構築することと市場原理の導入によって、競争主義を機軸に教育再生を狙ったわけである。
 
 ところが、『読売』が、「市場原理は不要だ」と主張するように、教育への市場原理の導入への疑問が強まっている。「最近の教育政策をめぐる論議には“市場原理”が見え隠れしている」「政府の規制改革・民間開放推進会議は「教育バウチャー」や、学校選択制の全国一律導入などについて議論してきた。後者は最終答申に盛り込まれた」というようにである。「教育バウチャー」導入については、安倍総理が積極的な発言を行って、その後言わなくなったということがあった。教育再生会議は、安倍総理と山谷えり子教育担当首相補佐官の話し合いで人選されたと言われるが、その主要メンバーには、教育への市場原理導入積極派の白石氏(規制改革・民間開放推進会議委員兼任)などが入っていて、そういう方向で提言をまとめようとしている。最近は、文科省・自民党の影響力が強まって、それに歯止めをかけているようだ。
 
 これまで市場原理・競争主義を煽ってきた『読売』社説の論調からすると、白石氏などを支持するのかと思いきや、そうではないらしい。『読売』社説は「学校間や子ども同士、適度な競い合いで切磋琢磨(せっさたくま)することは必要だ。だが、過度の市場原理の導入は、教育というものの本質を混乱させかねない」という。「さらに教育委員会の要・不要論、教員免許更新制の性質にまで口をはさむが、経済的な規制緩和という観点から論じる問題だろうか」という。かなり、規制改革・民間開放推進会議には批判的である。それは、「「子どものため」の教育再生。それが大前提である」からだという。
 
 これはかなりまともになったものだ。この調子で、果たして、「制定以来初めて改正された教育基本法は、新しい日本の教育理念を示した。「教育の目標」の中で、幅広い知識と教養、道徳心、公共の精神、国や郷土を愛する態度などの涵養(かんよう)をうたっている」教育が、「子どものため」の教育再生と言えるのかどうかを客観的に検証して欲しいものだ。9・11事件以降のアメリカの「愛国心」の過剰さにいい加減うんざりしているし、それを是非ともアメリカ人に正面から指摘したいと思うからである。イラク戦争などにおいて、愛国主義の熱狂の中で、あまりにも多くの犠牲者が生まれてしまったからである。

 右翼の中でも「維新政党新風」などは、これから戦争の時代になるとして、国のために闘う覚悟を求めているが、時代は、核拡散の時代であり、地域紛争が核戦争につながりかねないのである。明治の戦争とはわけが違うのだ。国のために死ぬ覚悟をするというのは多くの人にとって、大量破壊兵器で殺戮される覚悟のことであったり、自動車爆弾で見えない敵に殺されたり、というような事態での死の覚悟なのである。戦場の敵との白兵戦の中で、銃や爆弾で戦死するというようなものではないのである。戦死のイメージは、第二次世界大戦とはまったく違っているのだ。

 右派は、さかんに日露戦争がどうとか、大東亜戦争がどうとか言うのだが、戦争の形態が変わってしまったので、それでは、現代の戦争をリアルに掴めないのである。現代の戦争が依拠している生産体系・技術・経済・文化を理解しないでは、戦死のイメージも、愛国心の中身も、覚悟の中身も具体的に捉えることはできないのである。

 イラクでは、アメリカ軍は、遠隔操作の爆弾や自爆で突然、見えない敵に殺傷されるのがほとんどで、通常の戦闘で死傷するのは少ないのである。このような状態では、国旗を振ったり、国家を歌ったりするのは、危険な自滅行為であり、できるだけ周りにとけ込み、敵が狙いにくくするのが基本である。それか、圧倒的な多人数で制圧するということだ。もっとも、大人数で固まっているとやはり標的となりやすいし、被害も大きくなる可能性が高い。

 米軍が今、腐心しているのは、できるだけイラク人にとけ込むことであり、イラク人の価値観・考え方・生活習慣・歴史・文化を理解し、兵士にイラクの言葉を教え、相手を尊重する態度を身につけさせることである。軍事戦闘の勝利だけではなく、占領・復興までを行うとなると、相手を理解し、コミュニケーションを図ることが重要になるのである。つまり、重要なのは、他国の理解であり、コミュニケーションである。しかし、アメリカは、イラクに戦争を仕掛ける前に、こうしたことを十分出来ていれば、戦争を避けられたかも知れないのに、そういうことをしてこなかった。そういう教訓があれば、イスラエルによるレバノン侵略戦争にも、シリア・イランを引き込んで、早期解決を実現できたかも知れないというのに、そうはしなかった。ラムズフェルドやボルトンなどのネオコン一派を切り捨て、中東に詳しい新国連大使を選んだブッシュ政権は、ようやく、転換を図ろうとしているところなのかもしれない。

  脇道にそれた。私学と公立の差異は、担当部局が、前者が地方自治体、後者が市町村教育委員会と分かれていることが背景にあるような気がする。制度的に欠陥があるのではないだろうか? そういうことも含めて、教育の見直しが進められるべきだろう。教育再生会議の議論もなんだか出てこなくなり、安倍総理も教育再生というスローガンだけを叫んでいるような感じで、教育論議が低調になってきているような感じがする。

 自民党の中川幹事長は、50%程度の内閣支持率は高い方だと思っているようだが、ベクトルが下向きなのである。自民党議員のスキャンダルは、今度は衛藤議員の迂回献金疑惑が出るなど、止まりそうもない。安倍内閣の政権基盤がぐらついているのは確かである。公明党が、日本版ホワイトカラー・エグゼンプション(残業代ゼロ制)に明確に反対するや中川幹事長はじめ自民党から通常国会での法案提出慎重論が噴出した。このままでは新教育基本法は「死に体」化し、教育改革は頓挫する可能性が高い。

 自分たちに都合良いことしか見られない右派・保守派は、自分たちの足下が崩れているのに気付かない。『産経』ばかりか『読売』までが、目立たないように、左傾化しているの気付かずに、これらの「偽の友」に寄りかかっている。くわばらくわばら。

  1月9日付・読売社説
[日本の選択]「新『教育改革』の元年とせよ “ゆとり”との最終決別を」

 ◆深刻な学力の低下

 2007年は、教育改革を大きく前進させるべき年だ。

 制定以来初めて改正された教育基本法は、新しい日本の教育理念を示した。「教育の目標」の中で、幅広い知識と教養、道徳心、公共の精神、国や郷土を愛する態度などの涵養(かんよう)をうたっている。

 関係法令や学習指導要領が、これに沿って改められ、様々な教育施策の制度設計も具体化する。

 問題は改革の方向性だ。まず文部科学省が示すべきは、「ゆとり教育」との最終的な決別の姿勢だろう。

 1977年の学習指導要領改定で、戦後初めて、授業時数の削減と教育内容の精選が打ち出された。「詰め込み」「知識偏重」教育への批判が高まっていたころだ。

 授業時数が1割、教育内容が2割減った。02年度からの指導要領では、さらに教える内容が3割も減らされている。

 その結果は、経済協力開発機構(OECD)など二つの国際学力調査結果が示す通りだ。日本の小中学生の学力は、世界のトップ集団から脱落してしまった。

 「学力低下」の批判を受け、文科省は軌道修正を繰り返している。教科書の内容を超える指導を可能にしたり、文科相が学校向けに、宿題や補習を奨励する談話を出したりしている。

 だが、政策の誤りが明白となった「ゆとり教育」への反省、決別の言は、いまだ国民の耳に聞こえてこない。

 そんな中、「美しい国」づくりを目指す安倍首相が、政権の目玉として創設したのが「教育再生会議」だった。

 首相や官邸主導の教育改革は中曽根内閣の臨時教育審議会、小渕~森内閣の教育改革国民会議以来である。文科省と中央教育審議会による“官製改革”とは、ひと味違う提言が期待された。

 「すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生する」。首相はそう言ったが、現実の道のりは険しいようだ。

 ◆学校5日制でいいのか

 月内に出される第1次報告は、昨年末に公表された骨子案を見る限り、具体性に乏しく、メッセージ性も薄いものだ。素案にあった「ゆとり教育見直し」という文言も削られている。

 事務局に出向した文科省幹部や、与党文教族議員などの意向があるのだろう。だが、それで再生会議の議論が骨抜きにされてはなるまい。首相が、もっと積極的に会議を主導していくべきだろう。

 取り上げるテーマが、文科省や中教審の路線を出ていない、という批判もある。存在感を一層高めるためにも、教育を取り巻く社会状況なども視野に入れた大局的、横断的提言が必要になろう。

 報告に盛り込まれる「学校の授業時数の増加」などは、まさにそうだ。これを国民的議論が起きるような形で提言するにはどうすればいいのか。

 「土曜授業の復活」も一策だ。現行の「学校週5日制」から「週6日制」への15年ぶりの回帰である。

 5日制は80年代半ばの臨教審答申に登場し、導入論が盛り上がった。日教組も強く要請した。92年から月1回、95年からは月2回の試行が始まり、02年度から公立学校で完全実施されている。

 「子どもが家庭や地域社会で過ごす時間を増やし、自ら学び考え、生きる力をはぐくむ」のが目的だ。土曜日に生活体験、社会体験、自然体験などをさせる。そのための「受け皿」作りと大人の意識改革が求められた。

 それがどうだろう。環境は整わない。土曜の身の置き場がない。塾に行き場を求める親子、朝からテレビゲームにかじりつく子が増えた。

 もともと私立の小中高校の半数は5日制にそっぽを向いている。私立との学力格差を危惧(きぐ)する公立高校でも、土曜日に補習をするところが急増した。

 「土曜授業を復活させれば、授業数を増やしても子どもの負担は小さくて済む」「総合学習を土曜に集中してやる方法もある」。教育学者からも、そんな意見が聞かれ始めた。

 文科省幹部も言う。「嫌なら教師は土曜日、学校へ来なくていい。教員志望の学生や教員OB、地域の人たちの力で学校を再生
 
  ◆市場原理は不要だ

 最近の教育政策をめぐる論議には“市場原理”が見え隠れしている。

 政府の規制改革・民間開放推進会議は「教育バウチャー」や、学校選択制の全国一律導入などについて議論してきた。後者は最終答申に盛り込まれた。

 学校間や子ども同士、適度な競い合いで切磋琢磨(せっさたくま)することは必要だ。だが、過度の市場原理の導入は、教育というものの本質を混乱させかねない。

 さらに教育委員会の要・不要論、教員免許更新制の性質にまで口をはさむが、経済的な規制緩和という観点から論じる問題だろうか。

 「子どものため」の教育再生。それが大前提である。(2007年1月9日)

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教育基本法改悪糾弾! 闘いはスタートしたところだ

  15日、教育基本法改「正」案が成立した。連日、国会前に詰めかけて多くの人々の反対の声、そして世論調査での今国会での成立を急ぐなとする多数世論を無視した暴挙であった。与党が世論に逆らってまで成立を急いだ教育基本法改「正」だが、その理由が薄弱である。それを示しているのが、櫻井よしこ氏の『毎日新聞』での「改正することに自体に意味があった」というコメントである。これは、教育基本法が、占領下でGHQに押しつけられたことを改訂の最大の理由にするもので、自民党結党以来の考えである。中身としては、個人の尊厳についての記述も残っているとか「愛国心」を明記せず、「国と郷土を愛する態度」と曖昧になっているなど、櫻井氏も不満を残したままのものである。つまり、櫻井氏にとっては、再改正が必要な法案なのである。

 同じく、右派の論客の大原康夫氏のコメントも、愛国心明記がない、宗教的情操教育が盛り込まれていないなどの点に不満を表明し、「基本法改正に必ずしも速効性があるとは思わないが、教育現場の荒廃を改善し、これまでできなかった教育改革を推進できる可能性が出てきた」と慎重な見方を示している。

  同紙の「変わる教育の憲法上」では、首相の教育基本法改定に影響したものとして、サッチャー教育改革への評価があるという見方を示している。
 
 「「総裁選のころから急に教育改革を語り出した」。自民党町村派幹部は証言する。首相の教育論は、愛国心や規範意識など、戦前に重視された日本の価値観の復活が中心だ。英国のサッチャー元首相が行った教育分野の規制緩和と管理強化にも関心を向けている。英国は88年の教育改革法を契機に、「教育困難校」wの廃校を勧告する教育水準局を設置。帝国主義時代を否定的に描いた歴史教科書を見直し、「自国の栄光」を中心にすえた。
  首相と下村博文官房副長官、山谷えり子首相補佐官の3人は、かつて保守系の議員連盟「日本の前途と歴史教科書を考える議員の会」のメンバーで、従軍慰安婦などの記述を「自虐的」と批判する「新しい歴史教科書をつくる会」と連携。「つくる会」は憲法改正を訴える保守系の運動団体「日本会議」ともつながる。
 サッチャー改革に着目した「日本会議」幹部の橋渡しで、下村、山谷両氏は04年9月、自民、民主の国会議員6人による「英国教育調査団」に参加した。両氏は「サッチャーは教育の英国病を立て直した」と高く評価するが、識者の間では「所得によって受けられる教育の格差が拡大した」(藤田英典国際基督教大学教授)との批判も多い」。
 
 サッチャー教育改革後、学校でのいじめ事件は日本より遥かに多く発生している。学力テストでは、一部私学が上位を独占し続けている。そのイギリスでは、イラク反戦運動が空前の盛り上がりを見せるなど、反政府運動が拡大している。
 
 教育問題への人々の関心は高かったが、それらをすべてごまかしながら、教育基本法改定論議が進められた。そして最後には民主党が、衆議院と参議院で対応が分かれるという事態になり、野党共闘が崩れることで、4日間の会期延長が決まったにもかかわらず、15日に成立してしまった。「改革病」は、民主党内にも広まっており、櫻井氏同様に、とにかくなんでも変えればいいという「病」が、基本法改定反対を、保守的に思わせたのかもしれない。だとすれば、「病」は重く、錯誤もはなはだしい。

  教育基本法自体は、理念法とされていて、それが変わったというだけでは、現実の変化はそれほどでもない。それは多くが指摘するとおりであろう。むしろ、次にくる学校教育法などの関連法案の方で、具体的な制度変化が規定されるのである。その根拠とされるのが、改「正」教育基本法である。そして次に狙われるのが、憲法改「正」である。ただ、来年夏の参議院選の結果次第では、民主党を中心とする連立政権が出来ているかもしれないので、具体的にどうなるかは不透明である。その場合には、愛国心明記など、保守派からの評価が高い教育基本法民主党案によって、再修正ということもありえるわけである。ただ、「改革病」の元であるイギリスでは、サッチャー教育改革・サッチャー路線の放棄・修正が進んでいて、英米かぶれには不都合な事態となっている。
 
 学校教育法以下の教育関連法案改訂の中身をしっかり見ていく必要がある。連日国会前に駆けつけたり、全国各地で行動に立ち上がった多くの人々の願いは、教育をよくすることにあることは明確であり、その願いと反対の教育政策を許さないという気持ちを持っていることは明らかである。再改正の綱領として、廃止される教育基本法を対置するなり、改善を加えた新教育基本法案として出すのもいいだろう。一時の脱力感にとらわれたとしても、いじめ自殺問題など教育現場で発生する諸問題の解決は、まったなしの課題であり、さらに現場に大きな影響をもたらす学校教育法・地方教育行政法(教育委員会法)、教員免許更新制などの諸問題がつぎつぎと提起されてくるので、それらへの対応が必要となる。気力・体力を回復・充実させ、次に備えよう。

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都立高校未履修問題と『産経』の能力主義教育の主張について

 都立高校の一部で総合学習の時間を受験対策にあてていたことが発覚したことについて、下の『産経新聞』社説は、総合学習の「時間の一部を、授業時間が減った数学や英語などの学力補充にあてることは、有効な活用方法の一つといえる。しかし、すべてを受験のためだけに使うのは行き過ぎであろう」と述べている。つまり、裁量の範囲が広いので、受験対策に使っても良いというのである。ただ、やりすぎはいけないというというのだ。もちろん、これは、「ゆとり教育」路線に基づいて新設された総合学習の時間の趣旨に反している。受験競争・偏差値教育・学力主義の是正といことから、生きる力、自ら考える力を養うための「総合学習の時間」が設けられたのであるから。ただ、学習指導要領に、「生徒の興味・関心・進路に応じた知識や技能の深化」という例示があって、確かに、進学する生徒の進路に応じて、受験用の知識や技能の深化をはかるための受験対策授業が容認されているとも読める。すると、文科省の「ゆとり教育」とは、たんなる建前であったのか? つまり、制度破綻していたということなのだろうか? あれだけ大騒ぎして導入された「総合学習」なるものは、もはや形骸化しているし、そうなるように文科省が、自ら制度の骨抜きに手を貸しているということなのだろうか? 
 
 それでは、伊吹文部科学省大臣が、都教委は、日の丸・君が代強制したように強力に学校を指導したのに、未履修に甘いのはなぜかと皮肉ったのは建前にすぎないということになる。
 
 「受験がすべてではないが、学校は勉強するところであり、受験対策を頭から否定すべきではない。小中高校を通じ、児童生徒が塾や予備校に行かなくても学力を身につけられるよう、指導要領の抜本改革が急務である」と、『産経』は、受験が全てではないとしながら、塾や予備校なしに学校教育だけで、受験のために必要な学力を身につけられるようにすべきだと主張する。受験がすべてではないというのは、たんなる空文句である。予備校や塾は、受験のための学力を身につけさせるために営業しているのである。つまり、『産経』は、受験用の学力を学校で向上させるように主張しているからである。受験がすべてではないのなら、学力を中心に授業時間を増やせという意味がわからない。他方で、都立高校では、来年度から奉仕活動を必修化するという。その他、中高一貫校など都立高校改革が続けられているが、それを後退させてはならないという。
 
 『産経』は、相変わらず、企業の求める能力主義の教育への導入を基本的な物差しにしているのである。他方では、『産経』は、規範を強調してきたので、未履修などの規範違反に対しては、厳しく批判しなければならないはずで、だから、「学力を重視したものではないが、だからといって、それを逸脱していいことにはならない」と学校を批判する。『産経』は、「国旗・国歌の指導義務も定めた指導要領は法的拘束力をもち、大半の学校はそれを守っているからだ」と国旗・国歌指導義務への服従を例に出す。問題の責任を学校に負わせているわけだが、都教委がそれを見逃していたのではないかという都教委の責任については問うていない。

 学習指導要領の国旗・国歌指導義務規定が法的拘束力を持つかどうかは、裁判所の判例では、学習指導要領のすべてが法的拘束力を持つものではなく、個々の規定の内容によるということになっている。だから、国旗・国歌規定が法的拘束力を持つかどうか? また、仮に法的拘束力が認められた場合でも、その程度や内容はどうか? などの具体的検討なしに、アプリオリに学習指導要領のすべての規定が法的拘束力があるということはできないのである。だから、国旗・国歌指導義務規定を法的拘束力があると断定するのは、あくまでも一つの解釈であり、『産経』独自の主張である。本当は、『産経』は、そのことを客観的に認識して、それがわかるように正確に表現しなければならない。そうしないと、『産経』独自の判断を読者に押しつけることにもなりかねないからだ。そうしたいのなら、そうすることを明示するべきである。例えば、いろいろと解釈があるが、『産経』は、こういう解釈を取っているというように。
 
 教育基本法改悪案の採択を与党は狙っているが、安倍政権の支持率急落、反対運動の盛り上がり、教育問題の多発などによって、単独強行採決のハードルが上がっている。都立高校での未履修問題の発覚とそれに甘い対応を取った都教委の態度が暴露されたことは、さらにそのハードルを引き上げたものと言えよう。国会前でのヒューマンチェーンなどの諸行動が取り組まれているし、その他の諸行動も国会会期末をにらんで、強力に取り組まれている。東京都では、格差を拡大した石原都政に対する批判が噴出している。日の丸君が代強制・処分に対する闘いも、教職員の集団提訴という形でも本格化している。
 
 『産経』が、能力主義教育・学力主義教育を基本とすることをはっきりさせてきたように、一方での伝統や文化や規範や愛国心や道徳などの強調が、煙幕にすぎないことが明らかになってきた。モラル崩壊・社会解体の能力主義教育、それが国家の上からの統制強化の下で、実際に行われることである。それを法的に基礎づけるための教育基本法改悪を阻止する必要がある。

  【主張】履修問題 都立高改革の火は消すな

 都立高校の一部で、総合学習の時間を受験対策に振り替えていたことが明らかになった。総合学習の時間は、教師の創意工夫に委ねられた授業だ。必修科目の世界史などを履修させていなかった問題と異なり、ケースによって判断が分かれる問題である。

 総合学習の時間は、ゆとり教育の一環として、小中学校は平成14年度、高校は15年度から設けられた。高校の学習指導要領では、「国際理解、情報などの横断的な課題学習」「生徒の興味・関心、進路に応じた知識や技能の深化」などが例示されている。

 その時間の一部を、授業時間が減った数学や英語などの学力補充にあてることは、有効な活用方法の一つといえる。しかし、すべてを受験のためだけに使うのは行き過ぎであろう。

 現行の指導要領は、小中学校で学習量を3割減らし、高校でも卒業単位数などを大幅に削減している。学力を重視したものではないが、だからといって、それを逸脱していいことにはならない。国旗・国歌の指導義務も定めた指導要領は法的拘束力をもち、大半の学校はそれを守っているからだ。

 都立高校は石原都政の下で、さまざまな改革が行われている。以前の都立高校は、美濃部都政時代の学校群制度により、低迷の一途をたどっていたが、平成15年度入試で学区制が廃止されて以降、日比谷、西などは進学校として復活しつつある。

 その一方で、日本の伝統文化を重視したユニークな中高一貫校などが創設され、国際教育や環境教育に特色をもつ一貫校や科学技術の専門家を養成する科学技術高などの開校が予定されている。来年度からは、全都立高校で奉仕活動が必修化される。

 こうした都立高改革の火を消してはならない。

 今回の都立高のケースに限らず、全国の高校で発覚した一連の未履修問題は、大学受験に必要な学力を身につけさせるための十分な授業時間が確保されにくいことから生じている。

 受験がすべてではないが、学校は勉強するところであり、受験対策を頭から否定すべきではない。小中高校を通じ、児童生徒が塾や予備校に行かなくても学力を身につけられるよう、指導要領の抜本改革が急務である。

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教育基本法採決強行近しの記事に関連して

 新聞では、早ければ、12月13日にも、与党が教育基本法参議院特別委員会での採決を強行するつもりだと報道されている。しかし、郵政造反組復党問題などに反発する世論が増大し、各種世論調査で、安倍政権の支持率が、大きく低下している中で、単独強行採決の判断は難しくなっているだろう。

 連日、国会前に詰めかけて、教育基本法改悪阻止の闘いに立ち上がっている人々と連帯して、全国各地で、大規模な集会・デモ、その他の諸行動が取り組まれている。教職員の危機感と怒りも強く、北海道1万人をはじめ、日教組中央集会1万2千人など、多くの教育労働者がたちあがっている。このように、教育労働者をはじめとして、多くの人々が声をあげ、行動していることは、公明党内の良心派の心にも響いていることだろう。
 
 与党の教育基本法改悪案が、公共心を盛り込むことを一つのポイントにしていることは、周知の通りであるが、それと同じ方向で、12日の『読売新聞』社説は、先の住民基本台帳ネットワークからの離脱を求めた住民の訴えを退けた名古屋高裁判決を妥当な判決だと評価している。
 
 この判決は、住民基本台帳ネットワークが、十分に個人情報を保護していると判断した。『読売』は、「確かに氏名、生年月日、性別、住所といった本人確認情報は、憲法上守られるべきプライバシー権である。だが、公権力がこれらを正当に収集、管理、利用する限りにおいては「公共の福祉」による権利制限として許される」としている。問題になっているのは、住民基本台帳ネットワークが、これを「正当に収集、管理、利用」するものかどうかであり、それが正当かどうかである。『読売』は、それを正当と判断しているわけで、そうである以上、個人的権利は、「公共の福祉」によって、制限されるのは当然だというのである。
 
 では、この場合、個人的権利を制限してまで確保すべき「公共の福祉」の基準は何だろうか? 『読売』は、「「「全員参加」が制度の大前提だ。すべての住民の本人確認情報がもれなく提供され、適正利用されることによって様々な公共的利益を生む。年金受給者の「現況届」の省略化などは好例だ」と述べている。この程度のことである。これが、大げさに「公共の福祉」などと呼べるほどの公共事だろうか? だいいち、これが公共性というものだろうか? 『読売』が言う公共性とは「制度の利便性、有用性を認め」とあるように、その制度が、便利であるか? 有用であるか? を基準にして判断するものだ。
 
 その制度が、利便性と有用性が多くあれば、「個人離脱の自由」に「公共の福祉」を優先させる」べきだというのである。そういう判決がこれからの流れだろうというのだが、利便性と有用性についての判断は、時代状況によって大きく変化することは明らかである。例えば、現在では道路はできるだけまっすぐにつくるのが、利便的で有用性が高いと判断されることが多いだろうが、戦国時代においては、曲がりくねった道の方が、防衛上利便的で有用性が高かったので、城下町の道路は、曲がっていることが多い。現代でも、スピードを出しすぎないように、意図的にカーブをつくるということもある。

 住民基本台帳ネットワークについて、すでに情報漏洩事件が起きているが、そういう事件が続けば、有用性よりも、危険性の方が高く評価されるようになろう。『読売』が、その可能性を考えられないのは、最初から偏った結論を持っていて、自己反省という重要な思考活動をはなから放棄しているからだろう。人間は利害計算機械ではないのである。

 同じように、いかに、与党が数を頼りに、教育基本法改悪を強行しようとしても、これだけの多くの人々の今国会成立反対の声を無視することはできなくなっているのは、人々が、利害計算機械の計算どおりには動かないからである。与党や『読売』が、いかに利害計算しても、そのとおりには人々は動かないのである。構造改革路線をやってしまった以上、変わらないことがいいことだという保守論理も通用しない。物事は変わるのであり、変えることができるというのが、構造改革派の基本であるからである。

 つまり、教育基本法改悪案成立は、変えることができるし、阻止することが可能である。住民基本台帳法ネットワークについても、いくら金がかかろうと、変えること、なくすことは可能である。構造改革路線が広めたのは、そういう変えることができるという意識である。それに、与党も『読売』も賛成し続けてきた以上、今更、それらができないということを言っても説得力がないのである。国会延長も取りざたされているが、教育基本法改悪阻止の闘いを続けることは、情況を変えることができることを、『読売』は認めざるを得ない。

 12月12日付・読売社説(2)
 [住基ネット]「『離脱の自由』を退けた妥当な判決」

 住民基本台帳ネットワークの安全性を認め、一部住民のネット離脱の要求を「理由がない」と退けた。妥当な判決だ。

 「個人情報の保護対策が、制度、技術、運用面で種々講じられており、プライバシーが侵害されるような具体的危険はない」。2審の名古屋高裁金沢支部の認定である。

 行政機関が集めた個人情報が、職員らによって不正に収集、利用され、「住民が丸裸にされる」とまで述べて離脱を認めた1審・金沢地裁と正反対だ。

 原告住民側はこう主張していた。住基ネットに参加させられ、個人情報の提供の可否などを自ら決められる「自己情報コントロール権」としてのプライバシー権が侵害された。今後も情報が不正に利用されるなどの危険性が高い――。

 確かに氏名、生年月日、性別、住所といった本人確認情報は、憲法上守られるべきプライバシー権である。だが、公権力がこれらを正当に収集、管理、利用する限りにおいては「公共の福祉」による権利制限として許される。2審判決はそう述べて住基ネットを合憲とした。

 「全員参加」が制度の大前提だ。すべての住民の本人確認情報がもれなく提供され、適正利用されることによって様々な公共的利益を生む。年金受給者の「現況届」の省略化などは好例だ。

 その点を、2審判決は「一部でも不参加を許せば、ネット本来の機能が果たせなくなる」「従来のシステムや事務処理を残さざるをえず、重大な支障をもたらす」と明確に指摘している。

 最近の大阪府箕面市のケースが、具体例として当てはまるだろう。住基ネットを違憲とした先月末の大阪高裁判決に従って、市は原告住民1人のネットからの離脱を認める方針だ。

 しかし、そのためには最大3500万円の経費が必要になるという。市民の中からは、そうした出費は納得できない、という声も出て来るのではないか。

 今回の訴訟で原告住民側は、北海道斜里町でファイル交換ソフトを通じて一部住基ネット関連情報が漏れたケースなどを挙げ、危険な制度だ、と主張した。だが判決は、それらは管理の末端での「ごく例外的な事例」であり、制度的欠陥を示すものではない、と退けた。

 2002年の運用開始以来、各地で起こされた住基ネット訴訟では、今回の2審同様、住民側敗訴の判決が相次いでいる。個人の離脱を認めたのは、金沢地裁と大阪高裁の2判決だけだ。

 制度の利便性、有用性を認め、「個人離脱の自由」に「公共の福祉」を優先させる司法の流れが定着するだろう。(2006年12月12日『読売新聞』)

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教育再生会議合宿討論始まる

 教育再生会議の集中討議が、8日から始まった。そこで、原則非公開であるにもかかわらず、その中身がマスコミに流れ出ている。

 まず、学校教育を扱う第1分科会(白石主査)の議論では、「ゆとり教育」を見直し、国語、算数(数学)、理科、英語の授業時間を増やすこと、保護者・生徒・児童の教員評価制導入、社会人の教員登用拡大、学校に「副校長」、「主幹」などの新管理職を創設することなどを報告に盛り込むとした一方で、教育長輪番の習慣の排除や、教委の独立行政機関による第三者評価導入は、文科省の反対で盛り込まれないという。

 9日の討議では、『読売新聞』によると、「学校教育を通じて「奉仕の精神」や「友情」「親孝行」といった徳目を身につけたり、奉仕活動などを通じて忍耐や働く大切さなどの「規範意識」を身につけたりする必要があるとの考えで一致した」という。

 「徳目を身につける具体策として、地域に伝わる伝説や童謡、言い伝えなどを学校で教え、国や地域の伝統を尊重する心を養うとしている。また、郷土の偉人について学ぶ機会を増やし、子供の郷土への関心を高めることが重要だ、とした」。

 さらに、「家族への感謝の気持ちを確認する機会とするため、「家族の日」の創設を提案する方針だ。多くの委員からは「国民運動として家庭教育の再生に取り組むべきだ」などの声が出たという」。

 しかし、徳目教育については、今までも行われてきたことであり、それによっても、「国や地域の伝統を尊重する心」は養われてこなかったのはなぜだろうか? それに、第1分科会の方では、郷土から離れた学校に自由に通えるようにするバウチャー制度がうたわれているのはどうしたことか? 通学する学校のあるところが、その生徒・児童の郷里になるのか? こういう不整合、でたらめがこの会議の議論には多くあり、委員自身が、「百家争鳴」と呼ぶほど混乱を極めている。そこで、この会議が、報告書をまとめるには、権力闘争による他はなくなる。誰が権力を強くもてるかによるわけである。今は、文科省・規制改革・民間開放推進会議の二者が有力である。 しかし、そこに、自民党が介入を強めつつある。与党の教育基本法改「正」案が成立すれば、自民党は、それを背景により介入を強めるだろう。そうすると、義家委員が危惧している「揺り戻し」の動きが強まるであろう。

 日本教育再生機構をはじめとする保守派は、教育再生会議の議論に否定的で、これを右から批判する運動を強化するつもりのようだ。

 それにしても、いくら知識として「国や地域の伝統を尊重する心」を養おうとしても、結局は、経済状況によって、郷里を離れざるをえないことが多いし、すっかり伝統が破壊された東京などの都市圏では、それらは想像上の存在でしかない。だから、それは幻想の郷土であり国でしかないのである。虚しい話だ。

 これまでも、郷土の伝説や言い伝えなどは知識として教えられてきたが、その結果として、郷里でずっと生活したいと思っても、仕事がないとか転勤とかいろいろな現実的な理由で、郷里を離れざるを得ないことが多かったのである。「ふるさとは遠きにありて思うもの」(室生犀星)でしかなったのである。

 「奉仕の精神」や「友情」「親孝行」を、教科書にあった太宰治の「走れメロス」や宮沢賢治の童話などを通じて、知識としては学んだが、競争社会では、友情のために自己犠牲を払ったりすることは、否定されることが多い。学校で、こういう徳目教育をすれば、現存経済社会の利益中心の価値観は、転覆し、変革されるのだろうか? それとも、それはまた別だということで、複数のモラルを生きるというこれまでのような生き方が続くだけなのだろうか? これは、教育の領域だけではかたがつかない問題である。

 下の『毎日』の記事は、教育再生会議の「百家争鳴」ぶりの一端を示す記事である。

 教育再生会議:競争原理巡り紛糾 中間報告は難航も

 政府の教育再生会議(野依良治座長)の先月29日の全体会議で、3月に閣議決定された「規制改革・民間開放推進3カ年計画」の位置づけをめぐりメンバー間の意見が激しく割れ、約20分にわたり紛糾していたことが分かった。安倍晋三首相の仲裁もあいまいな形で終わったという。論争の背景には教員・学校評価など教育への競争原理の導入のあり方をめぐる根深い意見対立があるとみられる。8日行った集中討議でも教員・学校評価は議論の的となっており、来月の中間報告とりまとめは難航しそうだ。

 3カ年計画は、学校・教員評価や不適格教員の排除など、競争原理の導入を文部科学省に義務づける内容。29日の会議では、議論の「百家争鳴」ぶりを懸念した渡辺美樹委員(ワタミ社長)が「閣議決定があるならそれをもとに話し合ってはどうか」と提案したが、3カ年計画に距離を置く伊吹文明文科相が「法律だって必要があれば改正される。閣議決定も議論の結果なら書き直せばいい」と述べ、拘束されないとの考えを示した。これに対し、競争原理導入派の山谷えり子首相補佐官が「閣議決定があくまで前提になる」と割って入り、伊吹文科相と激しいやり取りが繰り返された。

 このため安倍首相が「閣議決定には拘束されないが、意識してほしい」と述べ論争を引き取ったが、メンバーの一人はこの発言を「規制改革の閣議決定にはこだわらない」趣旨の発言と受け止め歓迎。「教育論より規制改革を優先するなら、しっぽが犬を振るようなもの」と、競争原理派への反感をあらわにする。一方で、規制改革論者で規制改革・民間開放推進会議委員を兼務する白石真澄第1分科会主査は「再生会議は、中央教育審議会(文科省の諮問機関、中教審)の議論も前提ではないというスタンス」と述べ文科省をけん制しており、首相の指示は、双方から都合良く解釈されて、火に油を注ぐ形となっている。

 再生会議が8日、東京都内のホテルで開いた集中討議でも素案が力点を置く「不適格教員の排除」に、委員から「教員個人の資質の問題より、教員数を増やしてきめ細かい指導をすべきだ」と疑念が示された。東大の小宮山宏学長は「再生会議の提案は、骨太の方針を示すものであるべきだ」との文書を提出し、学校教育の具体論に踏み込む会議のあり方に疑問をにじませた。【渡辺創】(『毎日新聞』2006年12月9日) 

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教育改革論議の行方

 教育再生会議は、とくにその第1分科会が、規制改革・民間開放推進会議兼任委員の白石主査を中心にした構造改革路線での教育改革論を押し出している。

 規制改革・民間開放推進会議の教育論は、公務サービス論・教育サービス論を基本にし、現行教育基本法第6条の2「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」の「全体の奉仕者」というのを、サービス提供者というように解釈しているのである。他方では、後半の教員の身分の尊重については、限定的に解釈し、「不適格教員」の排除の容易化を打ち出している。

 この教員を「全体の奉仕者」とする規定は、極めて一般的な漠とした規定である。したがって、この解釈が多様化するのはやむを得ないのではあるが、それにしても、これを消費サービスとする解釈は、一面的であり、狭い規定である。それは、消費者が、サービスそのものを選択することができない義務教育が前提となっているからである。サービス自体を拒否する権利がないのでは、通常のサービス業とは違う。あくまでも、義務教育があって、現在なら、小中9年は、どうしたって教育サービスを受けなければならない。その上での、学校選択などのサービス選択の多様化ということであって、しかも、そんな選択肢の限られている地方では、夢の話である。

 言うまでもなく、教育サービス論は、教育の一面を抽象的に反映しているにすぎない。

 それにしても、規制改革・民間開放推進会議が、権限と責任を現場に集中させるとか、教育を行政権の対象とするのではなく、国民の教育を受ける権利を行使することだとか、現行教育基本法の基本的な考え方を前提としていることが興味深い。これは、政府与党の教育基本法改「正」案とは基本的な考え方が異なっている。教育再生会議が出した学校評価・教員評価の積極導入案について、さっそく自民党内から、現場を混乱させるなどの反発が出ている。

 規制改革・民間開放推進会議の教育論からすれば、教育基本法改「正」与党案には反対という結論が出てくる。安倍政権は、構造改革路線の継承とその転換の両方のバランスの上に立っているために、双方の間を揺れている。

 規制改革・民間開放推進会議は、官によって決定された財・サービスを配給する制度を社会主義の市場無視と同様だとして批判しているのだが、それには、消費者主権に基づく公共性という市民的公共概念が基本にある。これは、学校教育で言えば、イギリスで、私学が「パブリックスクール」と呼ばれているというようなことである。もちろん、そこにはアダム・スミス的な公共概念もある。しかし、その前提となっていたのは、有限会社・家族経営などの中小の私企業経営である。現在のような市場寡占を行っているような巨大な株式会社・独占資本の時代に、それをそのまま当てはめようとしても無理がある。

 もちろん、それは国民国家、国民形成のための義務教育・公教育体制と衝突する。したがって、自民党が教育基本法案で、愛国心を強調していることや教育への国家介入を強調していることと衝突する。両方が混ざり合っているのが、教育再生会議の議論であり、教育をめぐる混乱は、一層悪化している。規制改革・民間開放推進会議の方向で、突き進めば、国民教育や愛国心教育は形骸化していくだろうし、与党案の方に突き進めば、教育の自由化はストップするだろう。

 この路線闘争は、今後激化し、それが権力闘争に結びつく可能性が高い。

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規制改革・民間開放推進会議の教育改革論など

   「選択制の何よりの意義は、供給者の側に立って児童生徒・保護者をいわば教育行政の対象と捉えるのではなく、国民一人一人の教育を受ける権利を守ることにある。問題は、学校選択制の採用を市町村教育委員会に委ねるか、国として一律に決定するかではなく、児童生徒・保護者に本来与えられるべき選択権が与えられていないことにある」。

 これは、昨年12月21日に公表された「規制改革・民間開放の推進に関する第2次答申 「小さくて効率的な政府」の実現に向けて-官民を通じた競争と消費者・利用者による選択-」の教育の項目にある文章である。
 
 「規制改革・民間開放推進会議」は、来年3月で役割を終える。今、同会議は、最終答申案づくりに取りかかっている。この会議は、経済財政諮問会議と基本的な考えを共有する構造改革派の拠点の一つで、宮内義彦オリックス会長が最近まで座長を務めていた。その第二次答申案は、冒頭次のような基本的考え方を示している。
 
 Ⅰ.「第2次答申」の決定・公表に当たって

 規制改革・民間開放推進会議(以下「当会議」という)は、「改革なくして成長なし」、「民間にできることは民間に」の基本理念の下で進められている構造改革の一翼を担ってきた。3年の設置期間の折り返し点を過ぎた今、残された期間で改革の芽を大きく育てていかねばならない。
 「規制改革・民間開放」の諸改革の背景に共通する課題は、「官による配給サービス」から「民による自由な競争・選択」へと制度の転換を図ることにある。官自身あるいは官が定めた特定の者だけが、官によって予め決められた財・サービスを提供する世界は、どの時代のどの国においても歴史上成功を収めることができなかった社会主義的システムにおける市場の機能を無視する配給制度と同様である。我が国の公共サービスの大部分は、この「配給制度」により支配されている「官製市場」の下にあるといっても過言ではない。
 「配給制度」は、既得権益と非効率を擁護する考え方であり、これを民による自由な競争と消費者・利用者による選択を基本とした公平な市場を、官が責任をもって形成することへの転換を図ることにより、経済社会の発展と、生産者や官の関係者の特殊な利益を擁護することのない消費者を見据えた国民の利益の増大を公正に実現する必要がある。官だけがいわゆる公共公益性を体現できる唯一の主体であるという旧来の発想は終焉を迎えたと言わなければならない。
 以上のような観点から、既に公表している「平成17 年度規制改革・民間開放推進会議の運営方針」に示すとおり、本年度は、我が国経済・財政への影響が大きい分野や国民の関心の高い分野を中心に「行政部門の徹底した効率化・コスト削減」及び「国民負担の軽減・民間部門の需要創出」に資する規制改革・民間開放に重点的に取り組んできたところである」。
 
 この一周遅れの認識は、小泉構造改革路線に共通するドグマであった。

 消費者主権論や自由市場主義は、歴史上、まったく部分的一時的な成功しかもたらさず、古典派経済学者からは、社会主義者になる者が続出したのである。中南米では、新自由主義構造改革の失敗から、社会主義や福祉国家を求める左派政権が続々と誕生している。また、日本では、「国民負担の軽減・民間部門の需要創出」をうたったこの提言を裏切る形で、小泉政権下で、国民負担の増大が起きている。負担軽減の恩恵を受けたのは、法人税減税、累進税率の上限引き下げななどの恩典を与えられた企業や高所得層であった。そのようにして、儲けた分をかれらの多くは、投機や利殖に回している。それが、宮内規制改革・民間開放推進会議元議が長福井日銀総裁に便宜を図っていたことでも明らかになった。結局は、官も腐っているが、民も腐っているのである。
 
 その「規制改革・民間開放推進会議」が、教育分野での提言をしているわけである。その抜粋。
 
 教育分野

 【問題意識】
 
  教育の原点・基礎としての義務教育を見た場合、児童生徒が等しく、その能力・適性に応じた教育サービスを受ける機会を与えられてはいないのが現状である。例えば、公立学校においては一部の地域で学校選択制が採用されているものの、児童生徒・保護者の選択の自由が保障されているわけではない。また、教育課程等も、学校現場が児童生徒一人ひとりの能力・適性を考慮しつつ的確かつ柔軟に改善していくことが望まれるにもかかわらず、全国一律の画一的基準がそれを制約している。さらに、公立学校教員の任命権は原則として現場から離れた都道府県教育委員会にあり、その意思決定に対して教育サービスの受益者である児童生徒・保護者の声は反映されにくい。
 本来最も尊重されなければならない児童生徒・保護者のニーズや評価が顧みられず、教育現場に最終的な権限と責任が与えられていないシステムの下では、児童生徒・保護者というユーザー本位の教育が実現するはずもなく、特に、真にきめ細かい対応が必要とされる学力的に不利な立場にある児童生徒、すなわち「教育弱者」が置き去りにされ、早い段階から学習意欲を喪失してしまうことになりかねない。
本年10 月6日に発表された内閣府「学校制度に関する保護者アンケート」によれば、現在の学校教育に「不満」と回答した保護者が43.2%にも上り、「満足」と回答した保護者は13.0%にとどまった。このゆゆしき事態を解消するためには、現在の我が国の教育制度に関して抜本的な変革をもたらすべく、あらゆる必要な法的・予算的・行政的措置を通じてユーザー本位の教育を実現していかなければならない。

 教育サービス論から、消費者=ユーザー本位で、選択できる制度にすることが主張されている。教育現場に最終的な権限と責任が与えられなければならないという主張は、注目される。これは、政府与党が出している教育基本法案と対立する考えだからである。周知のように、与党案は、国に教育の責任を帰すことを基本としている。そして、『骨太の方針2005』との整合性・一致を強調しているのが興味深い。

(1)教員の質の向上を目指した免許・採用制度及び教員評価制度の改革
  【具体的施策】
 「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」(「骨太方針2005」。平成17年6月21日閣議決定)において、「優れた教員の確保・育成に向け、豊富な社会経験や特定分野の能力を有する人材等多様な人材の活用を促進しつつ、教員養成・免許・採用制度の抜本的見直し・改善を行う」ことが決定されていることにかんがみ、少なくとも以下の施策を早急に講じる必要がある。

 ア 免許状を有しない者の採用選考の拡大 イ 特別免許状の活用の促進 ウ 任期付き採用制度の活用 エ 教員採用における公正性の確保

 ② 教員任用・評価・処遇制度の改革 ~児童生徒・保護者の意向を反映した教員評価の実現に向けて~
 
  正式採用後においては、特に公立学校教員の場合、指導力不足の教員に対して適切な処分を行うことは堅固な身分保障を持つ公務員であるが故の困難が伴う。そこで、現在の教育公務員の身分保障を緩和することについて、公立学校教員の非公務員化を含め、検討を開始すべきと考える。
 
 ア 児童生徒・保護者の意向を反映した教員評価制度・学校評価制度の確立 イ 校長評価制度の確立 ウ 条件附採用期間の厳格な制度運用 エ 指導力不足教員を教壇から退出させる仕組みの確立
 
 (2)学校の質の向上を促す学校選択の自由の徹底
 
 「骨太方針2005」(平成17年6月21日閣議決定)では「学校選択制について、地域の実情に応じた導入を促進し、全国的な普及を図る」とされたところであり、学校選択制が文字どおり制度として根付くようにするための具体的な措置を講じることが求められる。

 (3)学校に関する情報公開・評価の徹底(全国的な学力調査の実施を含む)

 ① 学校に関する情報公開の徹底 ② 全国的な学力調査の実施

  (4)バウチャー構想の実現
 
 「骨太方針2005」(平成17 年6月21 日閣議決定)においては「我が国の社会の実態や関連の教育制度等を踏まえ、海外事例の実態等を検証しつつ、教育における利用券制度について、その有効性及び問題点の分析など、様々な観点から検討し、重点強化期間内に結論を得る」とされているところであり、教育バウチャー制度について、我が国の社会の実態や関連の教育制度等を踏まえ、海外事例の実態把握、その意義・問題点の分析等様々な観点から、今後更に積極的な研究・検討を行う。

 このように、この会議の教育改革論は、基本的に「骨太の方針2005」の具現化にあることがわかる。
   
 先日、この会議の最終答申案の一部が新聞で明らかになったのだが、教育分野については、教育再生会議の方に任せることにして、バウチャー制度導入などについては、明記しないことにしたという。その教育再生会議の方は、規制改革・民間開放推進会議委員と兼任する委員などを中心に、この会議の基本的な考えを答申に盛り込もうという動きがある一方で、郷土愛や家庭・地域・文化の再生や規範の強調など、規制改革・民間開放推進会議の教育議論にまったく出てこない論点をずらりと並べている。
 
 日本再生教育機構(八木秀次理事長)は、ようやく、「第一回民間教育再生会議」で、いじめ問題と教育再生をテーマに議論を行ったようだ。冒頭、八木理事長は、「昨日、政府の教育再生会議が出した「いじめ問題への緊急提言」の8項目は、いずれも実効性のあるものではなく、「いじめの加害者は出席停止処分にする」ぐらいの強いメッセージを打ち出すべきだった。教育再生会議は未だ方針が定まっていないようであり、ますます我々民間の立場から教育再生の声をあげていかなければならない」と述べた。当日の40人の識者からの発言要旨が載っているのだが、注目すべき発言はない。例えば、小田村四郎氏(元拓殖大学総長)の発言。

 「いじめはどこの社会にもあるが、学校でこれだけ深刻な問題になったのは戦後教育の欠陥だ。過度な個性の尊重、個人の尊厳といった個人の欲望を中心とする教育を改め、人間の生きる目的にある公に奉仕する精神を取り戻すべきだ。道徳教育を正規の教科にして、教科書を作り、採点も行い、責任について子供たちにきちんと書かせて教えることが大事だ」。

 ここには、教育基本法改正与党案と同じく、肝心なことが抜けている。「公に奉仕する精神」に対応する共同体や社会をどうするかという点である。精神だけがあって、それと結びつく実体がないのでは、いくら教科書や評価しても、それは受験用の暗記知識の詰め込みにしかならないということだ。道徳知識の暗記競争が激化するだけだろう。大人が地域社会建設のために働かないのなら、子どもたちは、どうして実践的な道徳を身につけることができようか? そして、この社会には、富者の道徳以外にも複数の道徳があって、それらが矛盾し衝突するという現実を学ばないで、どうしてリアルな道徳感覚を身につけることができようか? 自分たちが、周囲から学んだ道徳が、企業社会に行くと否定され通用しないことを知って、道徳一般の否定、ニヒリズムに陥りやすいのである。
 
 教育をめぐる議論は、驚くほど拡がっており、簡単に決着がつくようなものではない。

 教育基本法改悪案採択阻止の緊急の国会前集会は、約3500人を集めて大成功したという。ちなみに、教育再生機構の山形でのタウンミーティングは、約200人とのことである。

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教基法7日採決延期その他

 与野党は、7日の参院特別委員会での教育基本改「正」案の採決をしないことで合意した。連日、国会前で、集会や座り込みなどの反対行動が行われており、さらに各地で、集会・デモ・座り込み・情宣活動が取り組まれている。民主党も、今国会での採決阻止を決定している。安倍政権の支持率は、大きく下がってきており、復党問題でさらに低下する可能性が高く、表向きは、世論調査の上下に一喜一憂しないと平静を装っているが、来年1月には宮崎県知事選挙がある。和歌山県知事選挙では、独自候補を立てられなかった民主党も、宮崎では独自候補を立てると言っている。安倍政権の支持利率低下は、これから続く地方選挙に不利である。

 なお、沖縄県知事選挙では、民主党の支持団体である「連合」沖縄から、電力労組や石油関連労組などが、仲井真陣営を支持したようで、このような「連合」分裂選挙も、野党に不利に働いたようである。以前、圧勝した稲嶺保守県政の後継者が、辛勝するまでに支持が衰えていることが示されたことが重要である。沖縄で基地の県内移設反対派が多数であることが改めて示されたのも重要である。

 教育基本法参院特別委員会の議論は、いじめ問題、タウンミーティングでの「やらせ質問」問題、高校必修未履修問題のいわゆる「三点セット」や学校教育法、地方教育行政法、教育委員会問題などを含む広範なものになっている。それも当然で、この特別委員会以外に、教育論議をする委員会が同時には開けない仕組みになっているのである。自民党は、教育基本法を理念法だとして、制度や他の教育関係法などと切り離して、審議しようとしたが、これらの諸問題は教育基本法と関連しているので、どだい無理な話である。審議時間は、この点からも、まだまだ不十分である。世論調査での教育基本法改正賛成派の中でも多数派は、今国会での成立にこだわらず、慎重審議をするように求めている。世論の今国会成立支持派は、少数である。

 安倍総理は、教育再生の中で、「不適格教員」の排除をうたっている。教育再生会議からも、同じ意見が出ているが、東京都羽村市の小学校教員が、ホームページで人権侵害を行っていた問題で、このような「不適格教員」を処分する権限が、校長にも羽村市教育委員会にもないということが改めて問題になっている。教員の人事権・処分権は、この場合は東京都教育委員会にある。その都道府県教育委員会には、文科省からの出向者がたいていいて、文科省の指示の実現を図っている。全国で、日の丸君が代強制を進めたのは、文科省からの出向者である。法律上は、かれらは、指導・助言・援助する立場でしかないが、実際には、官僚的統制権を発揮して、事実上、都道府県教委を動かしているのである。現場には、大した権限が与えられていないのであり、ただ、習慣的な力関係で、権限のいくつかを事実上行使できているところがあるにすぎないのである。それも、最近の激しい反動攻勢によって、「特権だ」、「教師の横暴だ」、その他、なんだかんだと難癖をつけては、剥奪されつつあるのだ。これは、汚れるという職業上の合理的理由から、入浴が認められていた国鉄労働者の権利を職務怠慢と決めつけて、労働者の権利を削っていった国鉄改革の時のやり方と似ている。

 権限が国家官僚に集中していって、現場は、権限がないのに、責任を重くされる。それが教育基本法改「正」与党案から出てくる結果である。「不適格教員」を排除するために、PTAや児童・生徒による教員評価をするというが、「不適格」者には、校長や教頭や教育委員、文科省役人が含まれないのはなぜだろうか? これらの者たちの責任逃れでしかない。等々。

 とにかく、学校教育法上の教員の権限の規定だとか、教委の役割や権限や責任だとか、文科省のあり方とか、いろいろと整理・検討しなければならないことがたくさんあって、それらと教育基本法のあり方を関連させて検討するには、まだまだ審議時間は足りない。自民党の都合で、急いで成立させるべきものではない。

 いじめ問題について、教育再生会議の「緊急提言」に続いて、今度は、文科省の「緊急提言」が出た。しかし、それは、教育再生会議がいじめ側への毅然とした態度を求めたのに対して、サポートを中心とした対策になっている。文科省対教育再生会議の路線闘争が現れたような話で、教育再生会議内で、多様な意見が闘わされている上に、文科省がそれに外から対案をぶつけるという複雑な様相を呈してきた。中央教育審議会内でも、新自由主義的な構造改革論者と「ゆとり教育」派などとの意見対立があるようで、教育を巡る政府内の議論は、ぐちゃぐちゃになってきている。このような情況は、与党内の路線闘争にも反映するだろう。それは、安倍内閣の求心力を掘り崩すことだろう。

 12月5日『毎日新聞』文科省もいじめ緊急提案 有識者会議 サポート体制軸に

 文部科学省のいじめ実態調査などを見直すため、同省に設置された有識者会議(座長=梶田叡一・兵庫教育大学長)は4日、学校内外の相談体制の充実など四つの柱からなるいじめ対策の緊急提案を発表した。いじめに関して子どもへの毅然とした対応を打ち出した教育再生会議の緊急提言(先月29日)とは異なり、子どもや学校へのサポート体制充実などを求めているのが特徴だ。

 緊急提言は①子どもがさまざまな大人に相談できる場面をつくる②学校の中に新たな子どもの居場所をつくる③万が一の場合の初期対応では、専門家が学校をサポートする。④いじめの実態を把握・分析し(解決方法など)良い取り組みを共有する―ことを提案した。

 さらに、4項目の実現のため、「休日でも夜間でも相談を受け付けられる体制を整備する」「緊急時の学校支援では、外部の専門家がチームを組む」―などを挙げている。【高山純二】

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教育基本法改悪案成立を阻止しよう

 与党は、参議院特別委員会での教育基本法審議を今週中にうち切って、採決に持ち込む意向を明らかにしている。

 この日程が、安倍総理の外遊に合わせて、その前に教育基本法案を片づけようという徹底審議の言葉と裏腹の本音であることは明らかである。今、国会前をはじめ、全国で、教育基本法改悪阻止のための行動が連日取り組まれているが、そういう世論を無視して、国会での数の力のみを頼りに、与党だけの賛成で、かかる重要法案を成立させようというのである。
 
 片山参議院自民党幹事長は、審議を尽くすと言いながら、タウンミーティングの「やらせ質問」問題やいじめ問題、高校必修科目未履修問題などは、別途継続して、議論すればいいなどと言っている。この発言は、これらの諸問題解決と教育基本法問題が関係ないということを自己暴露するものである。教育の場で起きていることの解決に資することのない、教育基本法改訂は、「戦後見直し」という自民党イデオロギー上の党派的都合から行われるものであることを白状しているわけである。
 
 公明党のある議員は、与党案には、学校・地域・家庭の連携がうたわれているのであり、それがいじめ解決に資すると明言した。与党内でも、自民党と公明党に教育基本法案の認識に違いがあることを示す発言で、自民・公明の与党内論議が、十分煮詰まっていない段階で、法案が決定されたことをも表している。つまり、審議はまったく不十分だということだ。問題は、今ある地域・家庭・学校の連携ではなく、ずいぶん壊れてしまった地域を新たにつくらねばならないということだ。その上での、それらの連携なのであって、この新たな地域建設をどうするか、どのような内容でつくるかという点が課題なのであり、それは教育という領域だけではとうてい無理なのである。三者の連携を教育基本法でうたったところで、それは空文句にしかならないのである。
 
 それから、教育再生会議の方で、市町村教育委員会・学校に教員採用権を委譲する話が出ているが、学習内容の決定権が文科省にあることについて、見直しが出ていない。学習指導要領は、教育委員会制度の未熟を理由に、臨時的例外措置として、文科省が作成することになったもので、すでにそれから何十年も教育委員会が存在し続けてきたというのに、未だに、臨時措置をそのまま永続化していることは、おかしくはないのか? 教科書検定権もそうだが、それを文科省が独占する合理的な理由は未だに存在しているのだろうか?
 
 今日のサンデープロジェクトには、ヤンキー先生こと義家氏はじめ教育再生会議のメンバーを含めて、教育問題の議論をやっていた。これを見る限り、教育再生会議内では、いじめ対策として、地域と学校と家庭の関係をどうするかとかの議論も行われているようである。ただ、会議が非公開であり、また議事録の公開が遅く、そうした多様な意見が存在することが人々に見えてこない。今、まるで、教員評価制度などの議論ばかりが行われているかのように見えるのは、政府がリーク情報をマスコミに流して、世論操作を狙っているからに違いない。原則非公開の会議内容が、部分的にマスコミから流れてくるのだが、実際に、この番組の出演者の発言を聞いていると、ずいぶんそれらとは違った議論内容が出てくるのである。タウンミーティングの「やらせ質問」発覚で、懲りたかと思いきや、そうでもないらしい。こうした姑息な政府の世論操作をさせないためにも、教育再生会議は、原則公開として、議事録の早期公開を行うべきである。もちろん、政府のリーク情報をそのまま垂れ流しているマスコミの報道姿勢も問われるべきである。
 
 連日国会を包囲して、教育基本法改悪阻止に立ち上がっている人々への誹謗中傷が、与党から流されている。この運動が、そうせざるを得ないところに、追い込んだ結果を示すものではある。この運動の特徴は、すでに日教組の組織動員を超えた人々の自発的意志が、継続し、さらに拡がっていっているということである。なかなか、こういう風にはならないのだが、今回は、そうなっている。それだけ、教育基本法改悪がひどいものだという認識が広く共有されていることである。もちろん、運動にとって、安倍政権の支持率急落は、追い風の一つとなっている。今のところ、民主党も、徹底抗戦の構えを崩していない。12月8日と言われている参院特別委員会での採決阻止に向けて、連日の行動が各地で予定されている。教育基本法改悪を阻止するために、がんばろう。

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教育再生会議中間報告素案によせて

 教育再生会議は、来年1月にまとめる予定の中間報告の素案を公表した。素案は、これまで約20年にわたって行われてきた「ゆとり教育」から、学力重視への転換姿勢を打ち出した。国語・数学(算数)、理科、英語の授業時間を増やす。そのために、「総合学習の時間」の短縮、7時間授業や夏休みの短縮などを検討する。来年4月実施する全国学力テストの結果を当初予定の9月から7月にする。
 
 教員評価に、校長だけではなく、保護者や児童・生徒も加わるようにする。教員免許更新制を「不適格教員の排除」のために厳格に運用する。5年研修で適性を審査する。
 
 独立行政法人による学校、教委の第三者評価、教育委員互選による教育委員長輪番制の排除、学校への副校長、主幹などの管理職の複数配置、第2分科会は、「ふるさとの時間」授業の導入、ボランティア活動の実施、「家族の日」創設などを盛り込んだ。
 
 一見して明らかなように、ごった煮状態である。一方で、地域・郷土愛を重視しながら、同時に、授業時間を増やして、子どもを学校に縛って、地域・郷土に触れる時間を削り、一方で、郷土史などの文化・歴史の理解を強調するかと思えば、他方で、語学・理数系の能力重視を打ち出す。もう一つ言えば、一方で、子どもの学校にいる時間を増やしながら、「いじめ対策緊急提言」では、家族との会話が不十分だと言う。これでは、ピュリダンのロバのように、どっちにも行けず、本気でつきあったら、まいってしまう。もちろん、現場は、これまでも、こうした混乱が上から持ち込まれるたびに、使えるように手直しするか、従う振りをして無視するなど、智恵を働かせてしのいできたのであるから、今度もそうなるだろう。やりようがないものは、どうしようもないのである。そんなことは、民間企業でも当たり前のことなのだが、その辺がわかる人が教育再生会議にはいないのかもしれない。
 
 そして、異常なのは、幾重にも教員包囲網を張ろうとするその攻囲の執拗さである。まるで、大阪城を取り囲んだ徳川家康の対豊臣の大阪の陣のようである。教員評価に関わる校長・教委と子ども・保護者のそれぞれの評価基準はずいぶん違ったものになるだろう。特に、子どもは、面白い話しをして笑わせてくれるような教員を高く評価する可能性が高い。それは自分の過去を振り返ってみれば、わかることだ。教員の能力を測るだけの、知識も経験も見識も常識も身につけていない子どもが、なにを判断基準にするのか? これは、おもちゃを選んで買うのとはわけが違うのである。子どもは、大人の甘言に引っかかってしまって、おかしな物を買わされることがよくある。子どもの評価力をどう見たらいいのか? なにせ、これは荒唐無稽な議論なのだけれども、消費者主権論を信じ込んでいる規制改革・民間開放推進会議委員を兼任している白石東洋大教員のような市場主義信者が、それを大まじめで吹聴するから、周りが困惑しながらそれに巻き込まれているようだ。

 規制改革・民間開放推進会議には他にも、自由市場信者が複数いるようで、かれらもまた自由市場を基本基準にして、すべてをそれに還元して論じている。かれらの人間観・社会観は、皮相で浅く、識者というよりも信者のような感じである。
 
 複数の立場の違う人々の教員評価をまとめることはとてつもなく難しい。能力の数値化が合理的に可能であるかのように論じる者がいるが、そうやって成果主義・能力主義を導入した日本の企業の多くが、それを失敗だったと総括している今、なんで教員評価にそういう破綻・失敗した制度を適用しようとするのか、理解できない。まったく現実無視もいいところだ。
 
 教育再生会議は、安倍政権もそうだが、一週遅れのことをさも新しいかのように見せかけているだけだ。いじめ問題の見方もそうで、現実から遅れている。バウチャー制度と地方間などの格差の是正という安倍政権の掲げる課題は、どう折り合いがつくというのだろうか? なんの説明もない。相反する施策が、飛び交っていて、ただただ人々を混乱させている。
 
 保守派や右派の混乱ぶりもすごいものだ。まず、日本教育再生機構は、いじめ問題などまるで無視して、HPにはなんのコメントも出ておらず、理事長の八木秀次は、テレビで、心を強くする教育をすればいじめ自殺はなくなるなどとまったくトンチンカンなことを言っている有様だ。いじめ問題がなにかということすらわかっていないのである。わかっていないなら、今、調べているところで、まだよくわからないと正直に言えばいいだろうに。正直の美徳がないのである。いじめが何かを明らかにすることなく、ただ惰性で、とにかく教育問題は、何でも日教組のせいにしておけばいいと思考停止している右派は、いじめ問題にほぼ沈黙している。

 日本政策研究センターのHPには、今、連日、教育基本法改悪に反対して、国会を取り巻いている人々を、勝手にすべて日教組の組織動員によるかのように見なして、いじめ対策が重要なのだから、教員は、教室に帰れと主張している。まず、今国会前に詰めかけているのは、基本的には日教組の組織動員ではない。それはすでに終わっている。それから、日教組の動員は、組織専従もいるし、また、すべての教員が担任を持っているわけではない。勝手な妄想をふくらませて、それをあたかも事実であるかのように描いているわけである。それに、いじめを解決することには、日本政策研究センターにも、責任があり、しっかりと原因を突き止め、対策を提言しなければならない。そうでなければ、政策研究センターの看板が看板倒れになる。教育問題で、「ゆとり教育」はだめだ、学力重視の教育をなどというご立派な提言が掲載されているではないか!
 
 もう一つの事実誤認は、国会前で座り込んでいる反対派をメディアが大々的に映せば、スト権ストの時のように、人々の反感を買うだろうといっていることだ。ところが、実際には、それと反対に、今、国会前で、教育基本法改悪に反対して詰めかけている人々の多くは、なぜ、これだけ多くの仲間がアピールしているのに、マスメディアは取り上げてくれないのかと不満に思っているのである。だから、テレビなどが放映してくれることは、大歓迎なのである。国会前の人々がどう思っているかは、リンクを張っている「レイバー・ネット」の記事を見れば、一目瞭然である。妄想の中で、日教組と闘っているつもりの、日本政策研究センターの哀れさは、いよいよ希望の星だった安倍政権が、支持率急落、内部争いの激化、教育問題でもぐちゃぐちゃになりつつあること等々によって、地上に墜ちていくのを共にしなければならないという心中の道行きに、示されつつあるのである。
 
 いずれにせよ、この教育再生会議の提言素案に示されている混乱と路線の違いは、権力闘争を激化させるだろう。安倍政権がそれを強力なリーダーシップで押さえることは難しいだろう。その基盤がないからである。日本会議は、それにはなれない。日本会議内には、分裂している組織がいくつもあるからである。緩やかな連合体である日本教育再生機構にもそんな力はない。構造改革派は、もう時代遅れになってしまった。教員評価をめぐって、ただ混乱したことを言っているだけだ。教員は、実際にはチームで動いている。チームワークをどう評価するかという方に、問題が移っていくだろう。

 なお、大手紙のいくつが、教育再生会議を原則公開制にするように主張しているが、教育問題の重要性や人々の関心の高さを考慮すれば、そうすべきである。

 教育再生会議:現場管理強化の姿勢 中間報告素案で鮮明に

 教育再生会議の分科会が30日に示した中間報告の素案は「不適格教員を教壇に立たせない」と記すなど、首相官邸が目指す教育現場の管理強化志向を明確に打ち出した。ただ、評価基準をどう客観化するかが問題となるうえ、保護者らによる教員評価の影響を懸念する声もある。ある委員は「空中分解しかねない」と語るなど、中間報告までは曲折がありそうだ。

 「1万人排除すれば1万人採用しないとならない。教員全体のレベル向上が本来のやり方じゃないのか」。委員の一人は会議後、困惑の表情をみせた。

 素案は、保護者の教員に対する「内申書」を免許更新に反映させるなど新たな枠組みを提唱。白石真澄・第1分科会主査(東洋大教授)は「子どもと全く目を合わせない先生もいる」と不適格者を例示した。一方、評価基準については「(能力を)数値化、項目化していく議論がある」と述べるにとどめた。

 指導力不足教員の認定はすでに全都道府県で導入され、05年度は103人が依願退職した。幼稚園から高校まで全国の教員は約100万人。政府・与党には厳格化を求める声が強いが、「極端な不適格者は少なくなりつつある」(文部科学省)との見方が一般的だ。

 そうした中で「排除」に踏み込んだ素案は、分科会の意見を集約したうえで白石氏の意見を加味しまとめられた。白石氏は政府の規制改革・民間開放推進会議のメンバーを兼務する。一方、安倍晋三首相は自著に「ダメな教師には辞めていただく」と記し、山谷えり子首相補佐官も同様の考え。素案は官邸の意向を体したものと言える。

 ただ、この日の会議では、保護者が評価に加わることに「こびる先生ばかりで毅然(きぜん)とした対応が取れなくなる」と疑問の声も出た。

 また、素案は学校の外部評価をめぐり、英国のサッチャー元首相の教育改革で発足した教育水準局を参考に、独立行政法人で試験的に行うことも検討課題に掲げた。実現すれば国の関与が大幅に拡大するため、異論も出そうだ。【竹島一登】(『毎日新聞』 2006年11月30日)

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いじめ対策について

 いじめ問題が、教育問題の最大課題となっている中で、のんきにも参議院特別委員会では、教育基本法談義にふけっている。いや、談義もそこそこに早期成立を急いで、時間稼ぎをしている。教育再生を最重要課題として掲げた安倍政権は、教育問題に理解もなく、ただ権力闘争の手段として教育問題を利用しているにすぎないのである。また、どこかの時点で、審議時間は十分だ、採決をと言うだろう。見え見えである。北朝鮮問題で、あれほど毅然と制裁について述べた安倍総理が、すでにいじめ自殺が相次ぎ、子どもの生命が失われたというのに、明確で毅然としたメッセージを発しないのはなぜだろうか? 一方は、5人が生きて返ってきたが、自殺した子どもの命は永遠に戻らない。 
 
 そして、自民党復党問題である。こんなものは、後回しにしていい話である。また、教育再生会議が「緊急提言」という第一歩を踏み出すのに、こんなに時間がかかったのは、なぜだろうか? いじめ問題は、1980年代に問題が指摘されてから、すでに20数年に渡って、文科省、教育改革国民会議、などが、問題が深刻化していて、対策が必要だと繰り返し、いくつかの対応策を打ち出してきた問題だ。そして、学校・教育委員会から上がってくる報告では、文科省が期待したとおりに、いじめは解決の方向に向かっていることを示していた。ここ数年はいじめ自殺はゼロとなっており、文科省は、学力低下問題などに重点を移しつつあった。ところが、実際には、いじめ問題は深刻化していたのである。しかし、そのことを示す兆候的なデータがなかったわけではない。その一つが、昨年に、小学生の教師への暴力発生件数が急増したというデータである。そこで子どもたちの世界に何か大きな問題が発生しているかもしれないと考えるべきであった。こういう大きな変化は不自然であったのだから、もっとその背景や原因をしっかりと探るべきであったのである。
 
 いじめ問題は、日本だけではなく、諸外国でも大きな問題として、対策が行われている。今日の『毎日新聞』には、それが紹介されている。
 
 韓国では、ネットでのいじめが深刻だという。学校暴力対策国民協議会によると「小中高校生の少なくとも1割以上がいじめに苦しんでいる」。その他、「被害者は3割、加害者は5割」という調査もある。「多くの学校はいじめの予防教育に熱心でなく、実態を隠す傾向が強いとの批判は少なくない」。韓国の場合、ものすごい受験競争があって、学力中心主義が学校を支配していて、人権への配慮が後回しになっているのだろう。それと、学園暴力という不良型・非行型の問題もまだ根強いと思われる。徴兵制の問題も関係があるのかもしれない。
 
 アメリカでは、司法省調査で、過去6ヶ月間に、12~18歳の生徒がいじめを受けたケースは、1999年約5%、01年8%、03年7%、となっている。しかし、正確な実態は不明だという。政府がいじめ問題を深刻に受け止めたのは、99年のコロンバイン高校(コロラド州)乱射事件で、13人を射殺して自殺した犯人がいじめ被害者であったことからだという。「事件後の調査で、犯罪行為にかかわった生徒の71%が校内でいじめに遭っていたと判明した」。このコロンバイン高校銃乱射事件は、日本でも大きく報道されたが、事件がいじめと関係があることを指摘したメディアはなかったように思う。ただ事件の異常性だけが伝えられ、治安悪化・犯人の異常性などが強調されていたように記憶している。アメリカでは、いじめ被害者の自殺も相次いでいるという。州単位で、「いじめ防止法」制定が進められている。その方策は、いじめの実態報告と教員の訓練などだという。
 
  イギリスでは、今月20日から全国で「いじめ撲滅週間」キャンペーンが行われたばかりだという。信頼の厚い最上級生を「指導者」に選んで、教師と共同していじめを阻止する「良き指導者計画」を公表したという。これに約1億円の予算をつけるという。いじめ自殺も少ないとはいえあるようだ。レスターシャ州の調査では「一回以上いじめられた」が14%に達した。「いじめっ子を罰しないこれまでの英国流の限界」を指摘する声もある。
   
 エジプトのいじめは暴力をともなうものが多いという。イスラムでは、「弱い者いじめはハラーム(禁止)」という教えがあるようだが、そんな説教だけでは解決していないようだ。
 
 アフリカでは、地域全体や親戚で子育てするという習慣が強く残っていて、いじめは少ないという。

 教育再生会議のいじめ対策「緊急提言」が出たことを受けて、『産経』『毎日』『東京』各紙が社説で、いじめ対策について書いている。

 『産経』は、「いじめ緊急提言 問題児童に奉仕は良い薬」で、「緊急提言」が、「いじめをする側の児童生徒に対し、社会奉仕や別教室での授業など具体的な指導方法を明記した」点に特に注目しているという。社会奉仕(ボランティア)を懲罰や矯正手段と考えていることは、多くのボランティアから反発を受けるだろう。『産経』は、親が子どもに向かって、「お前たち、悪いことをするとボランティアさせるぞ」と注意するようなことをさせようというのだろうか? 阪神大震災や新潟県中部地震などで、全国から駆けつけたボランティアたちは、罰や矯正手段として、被災者を助け、復興を助けたとでもいうのだろうか? 失礼な話だ。こんな失礼なことを書いた『産経』社員には、罰として、ボランティアを課したいものだと皮肉の一つも言いたくなる。

 「いじめの事実が把握された場合、まず、いじめられている子といじめる側の子らを切り離す必要があるが、それだけでは解決にならない」。その通りだ。だから、「問題児童を立ち直らせるためには、社会奉仕などを通じて人々の役に立つことの大切さを実感させる必要があろう。/奉仕活動は、いじめ対策だけに有効なのではない。道徳の時間や総合学習で、ふだんから老人ホームや病院での介護実習、公園の清掃などを経験させておけば、おのずから弱者を思いやる心や公共心がはぐくまれよう」と『産経』はいう。しかし、弱者を思いやる心や公共心は、べつに、ボランティア体験だけから生まれてくるのではない。むしろ、重要なのは、地域・家庭での体験であって、そこで、親や地域の人々の姿から学び、身につけるものである。親が、職場の仲間への不当な解雇攻撃に対して仲間を守って闘う姿、自立支援法などの弱者いじめの法律に断固として反対して弱者を思いやる心を示すこと、あるいは、地域で、弱者をみんなで守る姿等々から公共心を学ぶのである。

 『産経』の問題は、いじめと非行を混同したまま、非行対策をいじめ対策としてやろうとしていることだ。これは、『産経』が言うように、加害者と被害者を隔離するだけではなんら解決にならないのであって、むしろ、集団性・社会性・共同性をどう育てるかというその中身の問題なのである。それにしても、この社説は、いじめ問題に対して浅い理解しかないことがまるわかりである。いじめっ子を隔離しても、残された生徒たちの間で、もしかしたら、今度はいじめられっ子がいじめっ子になっているかもしれないといういじめ問題の複雑さをスルーしているからである。次々とボランティア活動に送り込んで、解決と言えるのか? もちろん、そんなものは解決でも何でもない。また、『産経』は、いじめ問題が社会問題として教育領域を超える広がりのある問題であり、その中には、マスコミ問題も含まれていることに一言も触れず、自身の問題を棚上げにして、他者攻撃ばかりしていることを反省して欲しい。自らにも関わりのある問題として捉えるべき課題である。地域社会の問題を「緊急提言」が指摘していることを、『産経』自身が地域社会の一員として、どう受け止めるのか、自らの問題として、語るべきである。

 『毎日』の特集では、アフリカ諸国でいじめが少ないのは、学校は地域生活・家族親族生活の一部にすぎず、そこが子どもにとっての世界のすべてではないということがある。こういうことをどうしてわれわれが理解できるかというと、ある程度の年齢以上の人やそういうものが残っている地域に育った者は、似たようなことを体験してきているからである。社会規範やルールは、基本的には、地域や親族関係で決定され、教育されているのであり、学校は社会規範を習う場ではなかった。学校は、規律だの規範だのの教育の場などではないのである。もちろん、道徳なんぞも、学校で教わるようなものではなかった。学校で習っても、そんな紙の上の道徳は、一片の抽象的知識でしかない。

 『東京新聞』社説は、教育再生会議の「緊急提言」にはかなり批判的で、全面否定に近い。「緊急提言は現場の声をどれだけ反映しているか疑問だ」と現場の役に立たないというのは、要するに、使えない代物だと完全否定しているようなものだ。

 『毎日』社説は、「近年、競争原理導入の教育改革政策の流れで学校や教員への業績評価の目が強まり、それが問題隠蔽や先送りにつながりやすいという現実だ。その意味で、提言が「いじめが発生するのは悪い学校ではない。解決するのがいい学校という認識を徹底する」と明言したことは大きい」と述べている。学校や教員の成果主義的な評価が強めるに連れて、問題隠蔽や先送りになっているのではないかという指摘をしているのが重要だ。問題がないことを評価するのではなく、問題を解決したかどうかを評価しようと言うのである。しかし、この間は、解決して、なくなったかの如き、虚偽報告がなされていた。これは文科省が高校必修漏れを4年間知りながら放置してきたことと同根の問題のような感じがする。

 「いじめは、例えば、特定の患部に専門医が適当な処置をすれば、何事もなく回復する-というような単純な問題ではない。形態は複雑で、大人社会の有り様や病理も微妙に映す。/これに当たるには社会全体の知恵と継続的な努力が必要だ。「絶対許されない」という原点を再確認し力を合わせれば、連鎖現象は必ず断ち切れる」と『毎日』は言う。「社会全体の知恵と継続的な努力」。なかなか良い。これこそ、教育基本法改訂よりもはるかに重要で、最優先すべきことだ。

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教育再生会議「いじめ問題への緊急提言」決定

 教育再生会議は、「いじめ問題への緊急提言」を決定した。いじめに対して、毅然とした態度を取る。いじめた側への別学級での指導やボランティア活動の実施など、指導を強化するなどの対応が盛り込まれている。
 
 ヤンキー先生こと義家委員が強く主張した「出席停止措置」については、文科省大臣などの反対で、明記されなかった。「いじめをみて見ぬふりをする者も加害者」として、子どもたちの連帯責任を明記したのも特徴的だ。その他、教員処罰など、懲罰的な意味合いも強い。
 
 ボランティアの位置づけにしても、懲罰・矯正(更正)であって、これは、非行問題対応の基本を当てはめたものであるといえよう。フーコーは、『監獄の誕生』で、非行と監獄社会・監視・監禁装置との密接な関連を指摘したのであるが、いじめ問題は、非行問題とは違うように思われるが、あるいは関連があるのだろうか? この緊急提言が基本としているのは、非行問題対策と同様の対処の仕方であり、態度であるように思われる。
 
 文科省のいじめの定義では、集団化することによる子どもの強者化と孤立させられた子どもの弱者化という強弱関係が指摘されている。それが、流動的な関係であることは何人もが指摘している。集団化に成功しなければ、強者にはなれないからである。子どもたちの間での、あるいは教室内での流動的な力関係・権力関係の動きがあるのである。かつて、非行者は、非行の明確な印を誇示し、周りと自らを隔離していた。非行者の印は、学生服やカバン、髪型、言葉遣い、その他の一目でわかる外的なもので、表示されていた。その印を目印に、非行への対応が行われていたのである。
 
 ところが、いじめの方は、それらの非行の印を欠いている。いじめ側は、他の生徒から自らを明確に区別する印を示さない。髪型も、学生服も、言葉や態度も、いじめ加害者とわかる印を表示していない。いじめ被害者もそういう明確な印を示していない場合が多いようである。しかし、実際には、注意深く観察すれば、印は見つかるだろう。教員評価の基準が、学力中心になっていて、クラスのテストの成績向上ばかりに夢中で、そうしたサインを見逃しているということもあるのかもしれない。
 
 それに、各学校現場では、まだ過去の非行問題のイメージで、いじめを見ているのではないだろうか。1995年以後の、教育改革国民会議などのいじめ対策も、非行対策から多くを取っている。教育再生会議の緊急提言もそうである。緊急対策が必要であることは言うまでもない。一方で、少子化対策に力を入れているのに、平行して子どもがどんどんいじめで自殺していくなどというのは、どう考えても異常である。しかし、基本的な対策をねるにあたっては、非行といじめの違いなど考えるべきことが多々ある。
 
 不正確な比喩だが、鬼ごっこという遊びは、ちょっといじめと表面的に似ているところがあるような気がする。鬼は大抵一人であり、鬼になるとその他すべてに対して、弱い立場になる。そこから脱出するために、別の人を鬼にしなければならない。鬼ごっこの場合は、鬼は入れ替わって、固定することはない。しかし、このような遊びの集団では、年長者やリーダー格の子どもには、全員の無事を保証する暗黙の義務があり、責任があった。自分がやったことでなくとも、メンバーの誰かが悪いことをしたら、リーダー格の子どもは、一緒にあやまりに行った。
 
 いじめではそういうことがなく、いじめ集団の集団としてのあり方やリーダーのあり方に、大きな問題がある。それが、リーダー格を隔離しただけで、直せるようなものではないことは言われているとおりである。教育においては、集団行動・集団生活を行わせているし、教育の主目的の一つは、人格形成とされているわけだから、そのやり方として、どうすればいいのかということが、いじめ問題を通じて問われているわけで、それは緊急避難的措置とは別にしっかりと考えなければならないのである。どのように集団生活の仕方や集団形成や共同活動を教育の中で、身につけさせればいいのか? 人格形成をどうしていったらよいのか? 等々のことである。
 
 いじめ問題でわかるのは、おかしな集団形成・共同性・社会性・人格性が生まれていることである。それを反社会的と規定するのは、正―社会的というものを基準にする場合である。それは教育という領域を超えて、社会そのもののあり方を問うという広がりを持つのは当然であって、教育再生会議が担当範囲を超える社会的課題を提起したということだ。地域社会の問題が提起されているのも、そういうことだ。文科省大臣が語ったように、共稼ぎで帰宅が遅い親と子どもの会話やコミュニケーションを増やすのは難しい。それは、働き方や企業のあり方を含めた問題であり、したがって、教育基本法改定などではカバーできない話である。そういう包括的な議論なしに、教育基本法改定議論をしたところで、たいして意味がない。むしろ、包括的な議論の結果を受けて、教育をどうするかを決めていくのが筋というものである。
 
 教育再生会議が、これまで、文科省寄りの教育制度改革路線で、論点を打ち出してきたのに対して、今度の緊急提言は、家庭での子どもとの対話やしつけ重視、地域の役割重視などの世論の多数意見に配慮したと見られる文言が取り入れられている。このところ、教育論議は、世論を無視した教育基本法改正論議ばかりであったことを多少は気にしているのかもしれない。世論は、圧倒的に、いじめ問題への対策、いじめ自殺問題の解決を求めており、そこに関心を強く抱いている。これは、義家委員が語ったように、一歩を踏み出したにすぎない。解決が必要だと教育改革国民会議などが強調していたにも関わらず、解決の方向に向かわなかったいじめ問題に真正面から取り組まないといけない。日本では、いじめ被害者は自殺するケースが多いが、アメリカの学校での銃乱射事件の犯人の多くが、いじめ被害者だという話もある。

教育再生会議:「いじめ問題への緊急提言」を決定

第3回教育再生会議にのぞむ(左から)安倍晋三首相、野依良治座長、池田守男座長代理、山谷えり子首相補佐官、義家弘介室長=首相官邸で29日午前9時3分、藤井太郎写す 政府の教育再生会議(野依良治座長)は29日午前、首相官邸で第3回全体会合を開き「いじめ問題への緊急提言」を決定、公表した。相次ぐいじめによる自殺を受け、いじめをした子どもに対する指導、懲戒の基準を明確にし、学校に対し「毅然とした対応」を求めた・「いじめを見て見ぬふりをする者も加害者」との指導を学校が子どもに徹底するよう促した。また、いじめに加担するだけでなく、放置・助長した教員も懲戒処分の対象とすることを明記。「いじめを解決するのがいい学校」との認識を強調し、学校による隠ぺいの排除を図った。

 再生会議は10月25日に「いじめ防止の緊急アピール」を発表している。その後も同様の事件が続き、重視姿勢を示す必要があると判断した。

 提言ではまず「いじめは反社会的な行為として絶対許されない」との指導を学校が子どもに徹底するよう要請した。いじめた子どもへの懲戒は出席停止を念頭に置いたもの。明記することも検討したが、「事態を複雑化しかねない」(伊吹文明文部科学相)との慎重論も強く、見送られた。

 教員への処分については、児童・生徒をいじめた場合の処分を規定した東京都教委などを例に、全国の教委に同様の規定の導入を呼びかけた。

 また、学校や教育委員会、保護者が連携していじめ撲滅に全力を挙げることや、教委が学校支援のためのサポートチームを結成するよう求めた。いじめを理由とする転校が認められていることを生徒や保護者にしっかり伝えるよう、注意を喚起。「いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大」と言及した。

 再生会議は、緊急提言を文科省や都道府県教委を通じて学校、保護者に呼びかける。安倍晋三首相は会合であいさつし、提言について「即実行できるものは実行させていただく」と述べ、いじめ自殺対策を急ぐ考えを示した。池田守男座長代理(資生堂相談役)は終了後の記者会見で、緊急提言を「社会全体に対する再生会議の(いじめ撲滅の)決意表明だ」と強調。出席停止の明記には委員の意見が分かれたことを明らかにした上で、いじめた子どもへの懲戒基準に「(出席停止も)一つの選択肢としてあっていい」との認識を示した。【平元英治】

 ◆政府の教育再生会議が29日まとめた緊急提言は次の通り。

 「いじめ問題への緊急提言」

 すべての子どもにとって学校は安心、安全で楽しい場所でなければなりません。保護者にとっても、大切な子どもを預ける学校で、子どもの心身が守られ、笑顔で子どもが学校から帰宅することが、何より重要なことです。学校でいじめが起こらないようにすること、いじめが起こった場合に速やかに解消することの第1次的責任は校長、教頭、教員にあります。さらに、各家庭や地域の一人一人が当事者意識を持ち、いじめを解決していく環境を整える責任を負っています。教育再生会議有識者委員一同は、いじめを生む素地をつくらず、いじめを受け、苦しんでいる子どもを救い、さらに、いじめによって子どもが命を絶つという痛ましい事件を何としても食い止めるため、学校のみに任せず、教育委員会の関係者、保護者、地域を含むすべての人々が「社会総がかり」で早急に取り組む必要があると考え、美しい国づくりのために、緊急に以下のことを提言します。

(1)学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。<学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を><徹底的に調査を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す>

(2)学校は、問題を起こす子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる。<例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など、規律を確保するため校内で全教員が一致した対応をとる>

(3)教員は、いじめられている子どもには、守ってくれる人、その子を必要としている人が必ずいるとの指導を徹底する。日ごろから、家庭・地域と連携して、子どもを見守り、子どもと触れ合い、子どもに声をかけ、どんな小さなサインも見逃さないようコミュニケーションを図る。いじめ発生時には、子ども、保護者に、学校がとる解決策を伝える。いじめの問題解決に全力で取り組む中、子どもや保護者が希望する場合には、いじめを理由とする転校制度が認められることも周知する。

(4)教育委員会は、いじめにかかわったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒処分を適用する。<東京都、神奈川県にならい、全国の教育委員会で検討し、教員の責任を明確に>

(5)学校は、いじめ問題があった場合、事態に応じ、個々の教員のみに委ねるのではなく、校長、教頭、生徒指導担当教員、養護教諭などでチームを作り、学校として解決に当たる。生徒間での話し合いも実施する。教員もクラス・マネジメントを見直し、一人一人の子どもとの人間関係を築き直す。教育委員会も、いじめ解決のサポートチームを結成し、学校を支援する。教育委員会は、学校をサポートするスキルを高める。

(6)学校は、いじめがあった場合、それを隠すことなく、いじめを受けている当事者のプライバシーや二次被害の防止に配慮しつつ、必ず、学校評議員、学校運営協議会、保護者に報告し、家庭や地域と一体となって、解決に取り組む。学校と保護者との信頼が重要である。また、問題は小さなうち(泣いていたり、寂しそうにしていたり、けんかをしていたりなど)に芽を摘み、悪化するのを未然に防ぐ。<いじめが発生するのは悪い学校ではない。いじめを解決するのがいい学校との認識を徹底する。いじめやクラス・マネジメントへの取り組みを学校評価、教員評価にも盛り込む>

(7)いじめを生まない素地をつくり、いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大である。保護者は、子どもにしっかりと向き合わなければならない。日々の生活の中で、ほめる、励ます、しかるなど親としての責任を果たす。おじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちも子どもに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気付いた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。子供たちには「いじめはいけない」「いじめに負けない」というメッセージを伝えよう。

(8)いじめ問題については、一過性の対応で終わらせず、教育再生会議としてもさらに真剣に取り組むとともに政府が一丸となって取り組む。(『毎日新聞』 2006年11月29日)

 教育再生会議:いじめ緊急提言 自殺連鎖は止められるのか

 教育再生会議を終え、記者の質問に答える義家弘介室長=首相官邸で29日午前11時7分、藤井太郎写す 続発するいじめ事件を受け、対策を検討していた政府の教育再生会議は、いじめをした児童・生徒に対して、学校が「毅然とした対応をとる」ことを柱の一つとした緊急提言をまとめた。提言には、いじめに加担するなどした教員の懲戒処分もある。緊急提言をどう受け止めるのか。いじめ自殺の連鎖は止められるのか。【高山純二、佐藤敬一、吉永磨美】

 緊急提言に記された「毅然とした対応」は、「出席停止」を念頭に置き、例として「社会奉仕、個別指導、別教室での授業」などを示した。

 会議後、義家弘介・同会議担当室長は「出席停止という文言は提言に含まれていないが、別教室での授業も出席停止と同じだ。(指導、懲戒の)基準を国が明確にし、学校現場を応援していかないといけない」と説明した。

 総合学習の取り組みで全国に知られる東京都内の区立小学校の善元幸夫教諭は「(出席停止は)教育の場から子どもの学ぶ権利を奪う措置であり、たやすく抜いてはならない伝家の宝刀だ。実際、いじめに適用するのは非常に困難で、また、本質的な解決にはならない」と否定的な見方を示す。

 都内の別の小学校教諭も「子どもが教室に戻ってきた後はどうするのか。一時的に切り捨てても、さらに悪くなるだけかもしれない」と危惧(きぐ)する。

 一方、いじめに関する著書がある作家で弁護士の中嶋博行さんは「これまではいじめられた側が不登校になったり、転校を余儀なくされてきたが、本末転倒な話だ。目に見える形で処分すれば、いじめグループは崩壊する可能性が高い」と語る。

 首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」のメンバーを務めた藤田英典・国際基督教大教授(教育社会学)は「00年の国民会議の提言などを受け、出席停止や指導力不足教員の処分は制度上は既に実施可能となっている」と言う。

 そのうえで、藤田教授は、教員の懲戒処分に関し、「本当にひどい場合はやむを得ないが、適切な対応を取れなかったケースでの厳しい処分はあり得ない。どのような場合にどう処分するかの認定や判断は難しい。懲戒処分が不必要だとは言わないが、それ以前にやるべきことがあるはずだ」と語った。

 ◇「毅然とした対応」10年以上繰り返された提唱

 教育再生会議の緊急提言は、いじめた子への学校のとるべき姿勢として、「毅然(きぜん)とした対応」を掲げた。最も厳しい処置としては「出席停止」が該当する。会議終了後、池田守男座長代理は会見し、出席停止の文言を入れるかで委員間で激論があったことを明かした。

 「毅然とした対応」を学校に求めるのはこれが初めてではない。愛知県西尾市で94年11月起きた大河内清輝君いじめ自殺を受けて、旧文部省の「いじめ対策緊急会議」は95年3月、出席停止措置など厳しい対応が必要とする報告書をまとめた。これまで、文科省は国会答弁で、出席停止をいじめ対策として公言してきたが、実際の学校現場では、ほとんど適用されて来なかった。

 そもそも小中学生には義務教育が保障されている。結局、提言では出席停止の文言を避け、別教室授業や社会奉仕活動への参加を「毅然対応策」に掲げた。

 だが、さまざまな態様のあるいじめの中で、より一般的で深刻化しているとされる集団での無視、嫌がらせなどは、いじめる側といじめられる側がしばしば逆転する。こうした場合、別教室授業も含め、やはり強権的な対策を取るのは困難だろう。

 また、今回、再生会議が打ち出した「いじめを放置・助長した教師の懲戒処分」も、どんな基準で、どう判断するか、極めてデリケートな問題だ。いじめ解決ではなく、学校あげての犯人探しにならないだろうか。

 このほかにも、いじめへの取り組みを学校・教員評価に反映させる--など今回の提言には新たな部分もある。一方、いじめは絶対許されない▽傍観する行為も許されない▽相談体制の充実▽家庭の責任--など95年の報告書と重なる部分も多い。10年たって同じことを言わざるを得ないことに、いじめ対策の難しさが現れている。【竹中拓実】(『毎日新聞』 2006年11月29日)

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教育問題もろもろ

 すでに触れたように、いじめ問題での教育再生会議の緊急提言がほぼまとまったようだ。数日後には、総会にかけて、正式な提言となるようだ。

 この(2)は、とりあえず、いじめられた側を学校外に避難させるのではなく、いじめた側をいったん出席停止にした上で、もどせるようにしてからもどすということである。それは緊急措置以上ではないし、そうしなければならない。いじめた側といじめられた側が入れ替わったりするなど、複雑な問題はあるが、被害者側が学校を離れなければならないというのは、あまりにも不条理である。被害者が堂々と通学できるようにするのは当然である。これは、そのための緊急避難的措置であって、それによって、学校がいじめれらた側に立っていることを示すことができる方策である。しかし、緊急措置はあくまでもいじめられた側に不測の事態が起きないようにするための緊急措置であって、もっと大事なのは、いじめた側の病理を解明し、治して、いじめをなくしていくことである。出席停止をしなくても、いじめた側の子どものいじめをさせないようにできるなら、べつにそれでいいのである。これは、これまであった制度の運用の問題であって、新制度ではなく、緊急にできることである。今の制度でも、こういう運用の改善で対処できる余地があるのだから、まずはそれを実行していくのが先である。その上で、いじめ問題解決のための教育的諸方策を練り上げ、実行していなければならない。
 
 そういうことをやらないまま、一緒に教育基本法を改定するような大きな変革はすべきではない。これは「ゆとり教育」導入が、現場にもたらした混乱を反省するなら、なおさらである。へたなことをするとかえって現場を攪乱させてしまうからである。緊急対策の効果をできるだけ正確に確認しなければならないときに、基本的な基準が変化すると、混乱しかねないのである。
 
 教員免許更新制については、競争導入論者からも、そもそも教員免許はいらないという極論すら出ているぐらいである。教員免許更新制を唯一導入しているアメリカでは、地方で、教員確保が困難だった時代に、教員の学力を見るためのものであって、学力的に問題の少ない日本の教員免許制がある国では、必要のないものである。すでに、教員研修制度があるし、それを改善すればすむ話である。新制度導入にかかる費用や労力を考えると、あまり合理性のない制度である。バウチャー制度については、すでに、イギリスの例で明らかなように、学校間・地域間格差が拡大・固定化すること、私学が上層・中層の一部、公立が中・下層で、さらにそれが地域別になることがすでにわかっている。

 また、いじめの発生件数について、調査をやり直したところ、これまで公表されていた件数をはるかに上回る件数になったという。いじめの文科省調査の定義は、「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が苦痛に感じているもの」などである。ただ、文科省は「個々のいじめの当否は、児童・生徒の立場に立って行う」などの留意点も示していたが、この点を重視してこなかったようだ。学校側のいじめ認識と生徒側のいじめ認識が食い違っていることについては、いくつもの証言が出ていて、こういうことも、いじめ問題に対する学校への生徒側の不信を買う理由になっていたのだろう。
 
 そして、教育再生会議についても、いろいろと問題点を指摘する声があがっている。ある分科会で、「主要国の教育改革の動向」として、米英の教育改革に関する資料だけが配布されたという。それに対して、「当の委員から「なぜ英国や米国流ばかり参考にするのか」「これから話し合う資料が全く提示されていない。どう考えているのか」と異論が続出した」という。また、「安倍首相や山谷えり子首相補佐官がサッチャー元英首相の教育改革を模範としているのは知られている。一方、高水準の学力を維持している北欧諸国の例は示されず、議論の方向性に「結論ありき」の雰囲気がにじむ。委員は「高い教育水準を持つ日本が英国をまねる必要はない」と内部批判をした」という。
 
 サッチャー教育改革は失敗に終わり、その後始末と修正にブレア労働党が苦労していて、それでもまだダメージから回復していない。学力テストでは、一部私学が常に上位を占めていて、格差はなくなっていない。それに対して、日本では、まだ地方などの公立がふんばっている。学力水準も、日本は比較的に高く、イギリスのようには低下していない。いじめ問題でも、イギリスは統計上は、日本の何倍も発生している。そんな国の過去のサッチャー政権の教育政策をどうして、今、早急に導入しなければならないのかわからない。
 
 教育再生会議や安倍総理などと人々の間の教育をめぐる意識ギャップがあることは明らかだが、それはいじめ問題への対応にも現れている。28日の『毎日新聞』の「いじめ原因世論調査」結果によると、「しつけに問題がある」とする回答が、54%。いじめをなくすためには、「家庭での会話を増やす」42%、「地域で子どもを育てる環境をつくる」22%が上位を占めた。それに対して、「教師の指導力を強化する」10%、「少人数学級を導入する」9%、「いじめた子に厳しい罰を与える」7%となっている。『毎日』は、「教育制度や教師の指導よりもいじめる側の保護者のしつけに問題があると答えた人が5割を超えた。いじめをなくすために家庭・地域の役割を重視する回答も計6割を超え、学校の役割や教育改革に限界を感じているとみられる回答内容になった」と分析している。なお、「教育基本法改正案には、新たに家庭教育の項目が盛り込まれているが、いじめをなくすには64%が「役立たない」と答えた」。
 
 地域・家庭の教育力をつくるためには、これらそのものの再建が必要であり、それには、まず、家庭や地域に働き手を返す必要がある。労働時間の短縮や労働負担の軽減である。ところが、自民党などではそれと逆行する「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入を図ろうとしている。アメリカでは、週70時間労働のホワイトカラーが増えているというが、まず、そうした非人間的な競争を導入する意味がわからない。家庭教育は、妻に任せきりであり、子どもと会話する時間などほとんどなく、もちろん地域活動などに参加することもない。家はただのねぐらで、地域は単なる通過点にすぎない。働く機械である。その姿には、ゾッとする。そうしたことを求めていない、人間的な感情がしっかりと多くの人にあることにほっとする。機械のような非人間的な教育改革論者たちは、もっと自らの奥深くにある根源的感情や人々とのつながりをじっくりと見つめ直すがいい。

 いじめ加担教師の懲戒厳格化も 教育再生会議緊急提言へ

 安倍首相直属の「教育再生会議」(野依良治座長)は今週中にいじめ対策の緊急提言を出す。(1)いじめに加担したか、故意に見過ごした教員への懲戒制度を現在より幅広く適用する(2)いじめた側の子どもの出席停止を積極的に行う(3)問題が起きた学校を支援するチームの派遣の仕組みをつくる――などが柱となる方向だ。最終的に10項目程度の提言になる予定で、今週、断続的に開かれる教育再生会議の三つの分科会で詰める。

 防止策では、各学校にスクールカウンセラーなど専門職を配置したり、相談窓口を置いたりして、いじめが起こったり、陰湿化する前に芽をつみ取る方策を提言する方向だ。

 いじめが起きた後の対応では、東京都が導入した、いじめに加担した教員への免職を含む懲戒制度を全国的に広げることを提案。学校教育法にある「出席停止」の規定についても、「いじめた子」に対しては実際にはほとんど適用されていないため、積極的な活用を求める方向で調整している。

 また、有識者メンバーの陰山英男・立命館小副校長らの主張に沿い、文部科学省や教育委員会から事実関係の調査、親への説明や報道対応などで、問題が起きた学校を支援するチームを派遣する仕組みも提言する考えだ。

 提言作成の過程で、一部の有識者メンバーから、体罰の一部容認論も出されたが、現段階では提言に盛り込まない方向だ。

 教育再生会議:高まる「不透明」批判 首相肝いりも非公開

移転した「教育再生会議担当室」の看板をかける山谷えり子首相補佐官(右)と義家弘介担当室長(中央)ら=東京都港区で13日午後4時、平元英治写す いじめ自殺や高校の履修単位不足など教育問題に国民の注目が集まる中、安倍晋三首相肝いりの「教育再生会議」の初会合から1カ月が過ぎた。これまでに総会2回と第1分科会(学校再生)、第2分科会(規範意識・家族・地域教育再生)が各1回開催され、27日は第3分科会(教育再生)も東京都内でようやく開かれた。議論にスピード感があるとはいえず、非公開のまま進められる会議のあり方に「不透明」との批判が高まっている。【高山純二、平元英治、佐藤敬一】

■非公開が原則

 教育再生会議は、運営委員会で議題などを確認した上、分科会で具体的な議論を進めるが、非公開が原則で、運営委は開催日時・場所さえ非公表だ。分科会、総会の内容は最低1週間以内に議事要旨、1カ月以内に議事録が公開される。

 運営委は中間報告(来年1月予定)に反映させる7項目の「基本的な考え方」を決定したが、公式発表はしていない。27日の第3分科会終了後の会見でも、川勝平太委員(国際日本文化研究センター教授)の試案が「完成稿でない」と公表されず、「議論の内容が分からない」など記者団から批判を浴びた。

■なぜ英米だけ?

 同日の分科会では「主要国の教育改革の動向」として、米英の教育改革に関する資料が配布された。しかし、当の委員から「なぜ英国や米国流ばかり参考にするのか」「これから話し合う資料が全く提示されていない。どう考えているのか」と異論が続出した。

 安倍首相や山谷えり子首相補佐官がサッチャー元英首相の教育改革を模範としているのは知られている。一方、高水準の学力を維持している北欧諸国の例は示されず、議論の方向性に「結論ありき」の雰囲気がにじむ。委員は「高い教育水準を持つ日本が英国をまねる必要はない」と内部批判をした。

■記者懇で説明?

 山谷補佐官は27日の会見で、「(記者団が)丁寧な説明をしてほしいと思っていると感じた。記者懇(談会)など、もう少しよい形で理解を深めるような形も検討させていただきたい」と述べ、記者団に議論の過程などを公表することに含みを持たせた。しかし、一般市民や教職員への公開には触れなかった。

■議事録すぐ公開を

 NPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子室長の話 会議後の記者会見は伝えたいことだけを伝え、聞かれたことに答えるだけのもので、それで足りるというのはおかしい。また、会議後の議事録ではリアルタイムで議論の過程が分からない。途中経過が伝えられると混乱するというのは国民の理解力に疑問を呈しているのと同じことだ。教育は私たちの生活にかかわる問題であり、きちんと公開すべきだ。(毎日新聞 2006年11月28日) 

 脱いじめ宣言:いじめ、昨年度比2.3倍に「柔軟解釈で急増」--大阪府教委緊急調査
 ◇1804件

 ◇国の定義って何ですか

 大阪府教委は27日、府内の公立小中学校(大阪、堺両市を除く)、府立高校など1109校を対象に実施したいじめに関する緊急実態調査の結果を発表した。件数は今年4~10月末の7カ月間で、昨年度の2・3倍に当たる1804件に上っている。府教委は「国の定義を柔軟に適用したため急増した」と説明。他の自治体教委の調査でも同様の傾向が出ており、いじめの定義や調査方法が実態を反映していないことが浮き彫りになった。【大場弘行】

 府教委によると、内訳は、▽小学校728件(昨年度143件)▽中学校813件(同547件)▽高校261件(同90件)▽盲・聾(ろう)・養護2件(同3件)。約6割の657校(同327校)でいじめがあった。内容は「冷やかし・からかい」が49・6%で最も多く、「言葉での脅し」「暴力」「仲間外れ」が続いた。転校・退学した児童、生徒が36人いることも判明した。

 いじめの定義について文部科学省は「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が苦痛に感じているもの」などと規定。これに基づき毎年全国調査を実施しており、府教委は昨年度783件と報告した。

 文科省は「個々のいじめの当否は、児童・生徒の立場に立って行う」などの留意点も示していたが、これまで重視されていなかったとみられ、99~05年度の7年間で、いじめ自殺の報告は1件もなかった。

 府教委は今回の調査で、この留意点を重視するよう通知。今月、富田林市で女子中学生が自殺したケースが含まれていなかったことも受けて、調査期間を延長して精査した。その結果、いじめの兆候とみられる単発的なケースなども積極的に報告された。

 府教委は「今回の結果で判明したいじめは、すべて支援すべきものと認識している」と説明。近く各市町村教委に聞き取り調査を行う。また、「子ども支援チーム」を設置したほか、いじめ防止に役立つ教育プログラム作成にも着手する。

 ◇各地でも軒並み

 文科省基準より幅広くいじめをとらえた独自調査で、件数が大幅に増加するケースは全国の教育委員会で相次いでいる。

 三重県教委の調査では、10月分の小中学校からのいじめ報告が計199件に上り、4~9月の計151件を大幅に上回った。福岡市の緊急点検でも、10月だけで91件が確認され、過去5年で最悪だった01年の年間54件を大きく上回った。

 また、青森県五所川原市教委も市立の小中学校で7月22日~10月24日に調査。独自基準では文科省基準の3倍近い計68件に達した。「子ども自身が『いじめ』と認識したもの」などの“緩和基準”で今月調査した教委では、長野県松本市47件(文科省基準2件)▽東京都府中市29件(同1件)など、軒並み文科省基準をもとに報告された件数を上回った。(毎日新聞 2006年11月28日) 

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教育再生会議いじめ対策緊急提言によせて

 なんでこの程度のことを決めるのに、こんなに時間がかかるのか、と思うが、しかし、とにかく、具体的な対策が開始されたという点では、一歩前進と評価できよう。

 小渕政権時代に発足した教育改革国民会議は、2000年の提言で、いじめが深刻化していると述べていて、それからもう6年もたつというのに、いじめ対策があまり進んでいないことが、この間明らかになっているのだから、早く対策を講じる必要がある。いじめは、ヨーロッパ諸国では、日本よりはるかに認知件数が多く、イギリスでは、いじめ対策のための法律まで制定されているのだから、それら諸国の事例を参考にすることもできよう。ただ、日本の場合、学校がいじめをなかなか認めず、統計データが過小になっている可能性が高い。
 
 一学級あたり年に複数回のいじめ事件が発生しているので、年に全体で数十万から百万単位でいじめがあるという人もいる。だとすれば、教育改革国民会議が出した提言で、いじめが深刻化しているとした認識は、正確であったことになる。問題は、その後の文科省・学校・教育委員会の対策が、なぜ強力に取られなかったか。逆に、データが、いじめ問題解決の傾向を示すという現実と逆のベクトルを向いていたのか、である。この問題の解明が急がれる。
 
 教育改革論議は、周知の通り、この間、「ゆとり教育」批判、学力主義の高まりという形で、論じられてきた。学校間競争などの競争の導入、全国学力テスト復活、学校週休五日制の見直し、教員評価での能力主義・成果主義の導入などである。それと、国家の教育介入を強く打ち出し、「愛国心」教育をうたった教育基本法改定問題などがある。しかし、今、生命がかかる深刻な問題として、いじめ自殺の連鎖が続いている中で、教育基本法がどうしたのこうしたのとのんきな議論をしている場合ではない。これこそ、総理のリーダーシップが発揮されなければならない事態であり、それを他人事のように、文科大臣に丸投げしているようでは、総理失格である。議会は、ただちに教育基本法論議を中止して、緊急にいじめ対策に集中すべきである。
 
 ここは、社会正義の復活に向かうか否かの重大な岐路である。財界の進める能力中心で、モラル崩壊の社会に向かうのか、それとも「ゆとり教育」路線に示された社会再生に向かうのかの選択肢が問われているのである。現行の「ゆとり教育」が、その立派な理念とはかけ離れている実態は当然否定されなければならないが、言葉でそこに示されている共同のもの、社会的なものの重視という社会理念まで、捨て去ることはない。開かれたコミュニティーを形成し、そこで、子どもたちを守らなければならないし、いじめを悪として許さない共同規範を実現していく必要があるからである。
 
 本日の『毎日新聞』では、いじめ問題について、三人の人のいじめ解決への提言が載っている。作家立松和平氏は、「いじめはつまらないと言いつづけよう 標的になった子を絶対に孤立させるな」として、いじめを社会問題し、いじめなどつまらないことだといいつづけるべき」だと述べている。さらに、氏は、いじめられた子どもを孤立させないために、大人が手を結ぶことが必要だと述べている。作家の大道玉貫氏は、「一人では私に向かってこれない連中 考えていたら自分が面白くなってきた」と自らのいじめ体験をもとに、いじめ対処法を述べている。「人間として生まれてきたんだから、私だけが特別なんじゃなく、仲間というか同種の人間たちがこの世のどこかにいると期待した。また、相手側と同種にならないために、仕返しはしない、別の誰かをいじめたりしない、自分で終わらす、と決めた」という。確かに自身が言うとおり、「かっこいいなあ」。なかなかこうかっこよくいかないのだが、こういう対処の仕方があるということを知るだけでも、ためになる。
 
 精神科医の斉藤環氏は、「親の虐待など被虐体験が別のいじめに いじめはしばしば大人の営みの戯画だ」と、いじめ問題の根の深さや複雑さを書いている。この間の、いじめ報道の中で、いじめられた側のことはいろいろと取り上げられるが、いじめた側のことはあまり取り上げられない。氏は、これまで見過ごされてきた論点として「一つはいじめ被害者の長期的なケアの問題、も一つは加害者への具体的な対応プログラム整備という問題」をあげる。加害者が、親の虐待の被害者やいじめ被害者であったという場合があって、単に加害側を罰するだけでは問題は解決しないという。そこで、氏は、「いじめ行為に対しては、毅然とした態度とルール、また時には罰をもってのぞむ姿勢が必要だ。しかしその際、いじめの加害者に対しても家族を巻き込んで話し合いを重ね、彼らの心理的背景や家庭環境への配慮も十分になされなければならない。配慮ある処罰によって加害者の自尊心を回復することこそが、真のいじめ再発予防となるであろう」という。加害者が再び加害者にならないようにするというのが、必要であるのは、そのとおりである。それから、氏が、大人の世界でのいじめが、子どもの世界に反射しているのもなくさねばならないという。「陰口、差別、えこひいき、レッテル張り、正論めいた誹謗中傷などは、いずれもいじめに通ずる心理を底に秘めている。そこには攻撃性の発散と、他者の排除にもとづく連帯があるからだ。こうした「快感」と無縁な大人はほとんどいない」。だから、いじめは実は大人の問題だというのである。なるほど。
 
 立松氏が言うとおり、いじめを社会問題化して、そのつまらなさを知らしむることは確かに大切だ。それが社会正義というものだ。そこに、それを支える共同体(ただし、すでに過去の共同体は、明治以来の近代化で多く壊れてしまったから、新しい共同体であり、未来の共同体である)の再生が必要である。
 
 いじめた生徒は出席停止に…教育再生会議が緊急提言へ

 学校でいじめによる自殺が相次いでいる事態を受け、安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は25日、いじめ問題に対する緊急提言を来週にもまとめ、公表する方針を固めた。

 都道府県や市町村の教育委員会に対し、〈1〉いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取る〈2〉深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくる――ことなどを求める。

 同会議は来年1月に中間報告を作成する予定だが、自殺問題を重く見て、法改正などが不要の緊急対策を早急に打ち出すことにした。文部科学省も速やかに対策を講じる考えだ。

 学校教育法では、「児童の性行不良で、他の児童の教育に妨げがある時」は、市町村教委は保護者に対し、その児童の出席停止を命じることができると定めている。具体例として、傷害、心身の苦痛、財産上の損失などを与える場合を挙げている。(『読売新聞』11月25日)

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いじめ、教育基本法、その他

 先日、山形県の高校で、女子生徒が校舎から飛び降り自殺した。携帯電話の記録や母親にいじめの相談をしていたということから、いじめ自殺の可能性が高い。政府は、補正予算で、緊急のいじめ対策費を計上した。
 
 他方で、参議院の特別委員会では、戦後の見直しがどうとか愛国心がどうとかののんきな議論を続けている。それに対して、今日の『産経』は、共通性が多いのだから、与野党で修正協議をしろとのたまわっている。他方で、この社説では、これまで与党案と民主党案の共通性ばかりを強調したのに対して、両案の違いにも言及している。この違いが、意外に大きいことは、誰の目にも明らかで、民主党が、その点にこだわり続ければ、どっちにしても、与党と対決し続けるほかはない。

 しかし、『産経』は、そうは考えない。「民主党は現行の教育基本法を見直すべきだという認識では、与党と一致している。現行法には、愛国心や宗教的情操の規定がなく、親の責任も不明確だ。与党と知恵を出し合うのが責任野党のあるべき姿であろう」と責任野党なる造語で、与野党が仲むつまじく修正協議を行うことを求める。そして、「かつての社会党を彷彿(ほうふつ)とさせる「徹底抗戦」戦術を民主党が1週間で放棄したのは、もはや国民の理解を得られないと考えたためだろう」と、違う会社だというのに、『読売』と同じことを繰り返す。この「長老」は、わずか一週間ばかりの審議拒否を見ると、昔のことをついつい思い出してしまう。民主党は、「長老」に、もっと、思い出させてやるべきだったろう、社会党衆議院議員百数十人、与野党逆転かと言われた80年代末頃のことを。フランスでは、社会党ミッテラン大統領が誕生してミッテラン・ブームが起き、日本では、土井社会党のマドンナ旋風が吹いた。今、フランス社会党では大統領候補として、女性のロワイヤル氏が選ばれた。フランスでは、ミッテラン・ブームが再来しているという。

 あの頃は良かったのではないか? 郵政造反組を選挙目当ての党利党略で復党させるようなふざけたことを与党がやったら、たちまち、抗議の声が議場を埋め、有権者の怒りを代弁してくれる野党があった。それを聞いただけで、胸がすっとしたのではないか? 今のように、おかしなことが起きても、なんとなく曖昧、なし崩しになっていって、もやもやした気持ちが晴れないまま、事が進んでいくようなことは少なかった。そうではないか?
 
 『産経』が、与党案と野党案の修正を言うのは、「愛国心」表記では、民主党案を入れるとか、宗教的情操教育や家庭の第一義的責任とかを入れたいからである。しかし、教育委員会の廃止や地方自治体への教育行政権限の集中などの点で、まったく与党案とは異なる。来年夏の参議院選挙で勝利して、政局にもちこみ、解散総選挙、政権奪取すれば、今度は、民主党案が与党案になり、自民党案が野党対案になるので、中東半端に妥協しても仕方がない。小沢党首の戦略は、明快であり、わかりやすい。それに対して、内部でふらついている者が多いのが、民主党への有権者の信頼感を弱めている原因である。だから、そういう動揺を見透かされて、『産経』『読売』が揺さぶりをかけるスキができるのである。

 『産経』は、「選挙における野党共闘路線を重視するあまり、政策論を置き去りにしたことが問題なのである」という。それに対して、民主党は、選挙で野党が勝ちきらなければ、政権交代はなく、政権交代がなければ、長期政権の腐敗・利権を一掃する政治改革は、実現できないという。政策は、絵に描いた餅ではなく、それが実現できる手段や方法、システム、等々と関連している。いっぺんの文章の文言だけではなく、制度全体との関連で、実効性や効果が違ってくる。例えば、個人情報保護法が、制定の目的にない政治家や公人の過度のプライバシー隠しに利用されている実態は、それを表している。教育基本法問題で言えば、この次には、学校教育法、教育委員会法その他の関連する諸法案や制度変更が当然あるわけで、それを含めた包括的な議論が必要なのである。それに、たった百時間審議したぐらいで、十分審議を尽くしたことになるわけがない。子供だましは止めた方がいい。
 
 「選挙における野党共闘路線を重視するあまり、政策論を置き去りにしたこと」が問題なのではまったくない。逆である。政党は、政策製造マシーンではないのである。それは官僚である。政党を官僚の基準ではかるのが、おかしいのだ。それなら、選挙はいらないのである。もっとも、『産経』の本音は、そういうことかもしれないのだが。政党は、議論によって生きるものであり、党派闘争によって、命が与えられるものである。違いがないなら、合流するだけだ。違いがある以上は、議論し続けていくしかなく、どれがいいかを人々の判断に委ねるしかない。選挙に生き、議論に生き、党派闘争に生きる。つまり、『毎日』が言うように、「抵抗も対案も」である。
 
 いじめ問題では、このところ、教師に対するPTAからの苦情や抗議や干渉が激しくなっていることが、いじめ解決にマイナスの影響を与えているという記事があった。これを見て、教育サービス論という90年代から流行った理論があったことを想起した。行政サービス論というのと同じようなものだが、それは行政活動の一面を引っ張り出して拡大した極論にすぎない。

 教育サービス論によると、学校教育は、サービス業であって、教師は、子どもという消費者への教育サービス提供者だという。親は、サービス受給者として、消費者主権の立場に立って、サービスについて、注文をつけ、購入するかしないかを含めた消費選択を行うことができるようにすべきだというのである。すると、消費者に認められないサービス提供者側の学校は、サービスを改善して、消費者の信用を取り戻すか、それができなければ、市場からの退場を余儀なくされることになろう。消費者=親と子どもは、別のサービス業者=学校に移る。一見すると、企業で可能なことが、学校でできないわけがないと思われるだろう。ところが、実際には、無理である。なぜかというと、これは強制消費である義務教育と合わないからである。義務教育がないなら、ある程度は、可能であろう。しかし、その場合には、学校に行く者が激減するだろうから、学校問題は、一部の金持ちなどの話になるだけである。
 
 義務教育のままでは、教育サービス主義で、店(学校)や店員(教員)に厳しい注文をつけるうるさい(賢い?)消費者としての家庭という関係は、両立しないだろう。そして、教育基本法に家庭に教育の第一義的責任を負わせると明記するというのは、自己責任論の教育版であろう。

 下の記事では、学校と家庭が、お互いに責任をなすりつけあう神経質で緊張した関係にあることがうかがえる。他方で、登下校時の児童の安全確保のために、通学路の見張りに、PTA・地域・学校の三者が協力する関係がつくられているケースもある。しかし、いじめのように、子どもの中に加害・被害の関係が発生し、その責任問題が、学校・教員、家庭、子どもに問われるようなケースでは、それぞれ責任逃れが先に立って、肝心の被害の回復のために迅速に対応することが難しいことがわかる。裁判沙汰を恐れて、いじめ認定をしぶる学校、自分の子どもの加害性をなかなか認めない加害者の親、周りにいじめ被害を訴えられず、時には自殺して真相を闇に消してしまういじめ被害者、等々。いじめの事件化がまず必要である。顕在化させ、事件として認定することだ。早くそうするべきであり、それによって、潜在化している多くのいじめを浮上させて、地下に蓄積されるのを防ぐことだ。それが、後の多くのいじめを事前にくい止めることになる。

 そうしないと、イギリスのように、いじめ発生件数が飛躍的に増大していくだろうということをうかがわせる記事である。しかし、他方で滋賀のように、学校がいじめ自殺を認める前に、親たちが子どもからの聞き取りで、いじめた事実を確認して、自殺した子どもの親に謝罪したケースもある。まず、実態を正確に把握する必要があり、政府が調査費用を補正予算で緊急に計上したのは、当然である。
 
 いじめ:加害者からの相談も急増

 いじめ自殺が社会問題化する中、各種機関への子どもたちや親からの相談が急増している。「どうしたら抜け出せるのか」など被害者からだけでなく、加害者側からの相談も目立ってきたという。電話やメールで子どもたちの世界に接してきた担当者からは「被害者と加害者が簡単に入れ替わる環境の中で子どもたちはストレスを抱えている」との指摘が出ている。【長野宏美】

 ◇「本当はいじめをやめたい」…苦しい胸の内も

 79年にトヨタ自動車の協力で開設された「トヨタ子ども110番」(東京都港区)では、この数カ月、いじめる子どもからの悩み相談が増えているという。

 いじめる理由は「悪いと思うがやめられない」「相手が自分より弱いと思うと安心する」「以前いじめられた仕返し」など。「仲直りの仕方が分からない」と関係修復の方法を尋ねるケースもあるという。

 相談業務をまとめる米沢琴江さんは「いじめている子は、怒られるのが怖くてなかなか誰にも相談しない」と話す。「じっくり話を聴き、自分を見つめさせること」を心掛けているという。

 NPO法人「チャイルドライン支援センター」(東京都港区)では、いじめている子が「本当はいじめをやめたい」などと苦しい胸の内を訴える声がこの1、2年目立つという。

 かつての「不幸の手紙」と似た「チェーンメール」で、いじめへの加担を強いられたという悩みも届いた。「あいつウザイ」とメールが回り、メールを次の子に送らないと、自分が攻撃対象になる。同センターの徳丸のり子常務理事は「子どもの世界では、いじめるかいじめられるか流動的な面がある。標的になりたくないという理由で、いじめに加わるケースも少なくない」と話す。

 相談機関への訴えは急増中だ。法務省が急きょ「いじめ問題相談強化週間」とした10月23~29日、同省の「子どもの人権110番」には8月の強化週間の約9倍の647件の相談が寄せられた。うち49件については「学校や教師の対応が不適切」との意見を受け、学校に対する聴き取り調査を始めた。

 東京弁護士会の「子どもの人権110番」でもいじめに関する相談は昨年度は月平均17件だったが、10月ひと月で33件あった。相談に応じている川村百合弁護士は「学校側が適切な対応ができず、かえっていじめを陰湿化させることもあり、保護者は学校だけに問題解決を任せられないと感じている」と語った。

■いじめに関する主な相談窓口

◇法務省 子どもの人権110番

 0570・070・110

(平日8時半~17時15分)

◇東京都教育相談センター

 03・3493・8008

(平日9~21時、土日祝9~17時。メール相談受付あり)

◇東京弁護士会 子どもの人権110番

 03・3503・0110

(平日13時半~16時半、17~20時、土13~16時)

◇警視庁 ヤング・テレホン・コーナー

 03・3580・4970

(平日8時半~20時、土日祝8時半~17時。メール相談受付あり)

◇チャイルドライン

 0120・7・26266

(地域により番号と開設時間は異なる。詳細はホームページ参照)

◇トヨタ子ども110番

 03・3470・0110

(月~土17~21時)

※国立教育政策研究所のホームページから、いじめ問題などを相談できる公的機関を見ることができる。(http://www.nicer.go.jp/integration/user/map.php)
(『毎日新聞』2006年11月21日)

 いじめ:実態認めぬ教師たち 「ママメール」恐れ遠慮も

 いじめを苦にした子どもたちの自殺が続く中、いじめを認めない学校のあり方が問題となっている。「いじめはどこの学校にもある」との指摘の一方、なぜ教師は認めないのか。保護者への遠慮、指導力不足……。一線の教師たちが口を開いた。【吉永磨美】

 「『いじめ』という言葉を使うのは最終手段」。東京都内の小学校に勤務する30代の女性教師はそう言い切る。いじめを確認しても保護者に「加害者」とはなかなか言えない。なぜか。「対応の仕方を間違えたら(自分が)たたかれる」と漏らす。「先生はうちの子を悪く見ている」。そんな保護者の反発は容易に想像できる。さらに恐ろしいのは母親たちのメール。教師は「ママメール」と呼ぶ。「『あの先生がうちの子をいじめた、うちの子が良くないと言った』などの悪いうわさをママメールで回される」と心配する。

 そのため、いじめと疑われる行為があっても、「相手の気持ちを考えて」と穏便な言葉遣いにとどめ、「いじめをやめて」と強い指導はなかなかできない。

 神奈川県の公立高校の男性教頭も「いじめは裁判ざたになることがある。だから学校はピリピリしている。対応には慎重にならざるを得ない」と語る。まずいじめを確認した時、保護者へ連絡する前に、教師たちが調べたことを逐一記録する。それを加害側の保護者に見せ「この事実で間違いありませんね」と念を押す。保護者が「間違いありません」と答えて初めて本格的な指導に入る。

 いじめた生徒とは対話を重ね、本人がいじめを認めたところで「事実」を文章に書かせる。いずれも「(加害者側の)保護者がどんな反論をするか分からない」ためだ。

 また、教師には「1人で(問題事案を)抱え込まないで」と指導している。しかし「自分のクラスは任せてください」と公言し、報告や連携を怠る教師もいる。「対応は教師間の連携が大切だが、他の教師に迷惑をかけたくないのか」といぶかる。いじめを見つける前に、そうした教師への指導が必要になることもあるという。

 教頭の高校では、年に数回調査し、いじめや暴力防止に努めているという。「子どもたちのために何ができるのか、議論することが大切。だが現実はそうなっていない」とため息をつく。(『毎日新聞』2006年11月23日)

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『日経』『毎日』教基法問題を語る

   これまで、教育基本法改「正」問題で、他の大手新聞が社説で何度も取り上げているのに、沈黙していた『日経』社説が、ようやくこの問題を取り上げた。「教育基本法改正は参院でも審議尽くせ」である。「参院でも」という表現は、あたかも衆議院で審議が尽くされたかのような書き方であるが、本文を見ると、そうではない。

 『日経』は、衆院の特別委員会審議審議時間は100時間を超えたが、「改正案の論点がはっきり浮かび上がったとはいえない」として、法案審議は「生煮え」だというのである。その原因は、いじめ自殺や履修漏れ問題などに審議時間が多く当てられてしまったからだというのだが、それも事態の深刻さ、緊急性からしてやむをえないと述べている。衆院では審議が不十分であり、参院では法案そのものの審議に努力すべきだという。ただ、与党が、衆議院で与党単独強行採決しないで、もっとじっくりと議論を深めるべきであったことを責めるべきだということが前提であろう。

 社説は、教育基本法改正の「重要なポイントの一つは、教育行政への国の関与のあり方をどう考えるかである」と書いている。また、「「教育振興基本計画」の策定を政府に義務付けている」ことをあげている。そして、「問題は、こうした条文が文科省による画一的な教育内容の押し付けを強め、地域や学校の創意工夫を阻むことにつながらないかどうかである。公教育の水準を底上げすることは大切だが、同時に地方分権や規制緩和を進め、現場での裁量の範囲を大きくしてこそ学校は活性化するという声は少なくない。国が責任を持つ部分と地方や学校に委ねる部分の切り分けをよく考える必要がある」と国と地方と学校の責任分担について、議論が必要だと述べている。
 
 このあたりは、1988年の教育改革法以来のイギリスの教育改革を模倣しているものでる。それを部分修正したブレア労働党の教育政策の模倣色が濃いのが、民主党案である。小泉構造改革は、経済関係法ではアメリカ型を多く取り入れたが、教育政策では、イギリス型を多く取り入れようとしているのである。そのイギリスでは、いじめ問題は、日本よりも規模では深刻で、報道によると、約6万人の不登校者のうちで、いじめを原因とする者が、約2万人もいる。それに対して、イギリスでは、政府が、いじめを犯罪として取り締まる法律を制定すると共に各学校に対して、具体的な対策・改善計画を出すように義務づけている。しかし、それでも、日本よりはるかに多いいじめが発生しているのである。もちろん、日本の場合、データのごまかしがあって、もっといじめは多く発生しているのではないかという疑惑があるし、また、日本の場合、不登校ではなく、自殺してしまうケースが多く、命にかかわるだけ、この点では、イギリスよりも事態が深刻だとも言える。
 
 日本でもそうだが、法律的解決、国家強制力による解決に頼らざるを得なくなるのは、一つには社会正義の衰退によるところが大きい。正義感に則った行動が抑制されているわけで、いじめを見て見ぬふりをする、明らかな悪に対して、それを止める行動ができない、等々によって、いじめが止まらないのである。そのことは、最近、いじめ側から、いじめ電話相談などで、「悪いのはわかっているのに自分で止められない、どうしたらよいか」という相談が増えているという報道にも現れている。悪を、頭で認識できても、それが、行動・実践と切り離されているのである。こういう問題に直面した時に、問題を解決する力を育てるということが、現行学習指導要領の目的の一つとして書かれているのだが、現場ではそれが育っていないのである。それが教育基本法を変えればなんとかなると思っている人はまずいないだろう。
 
 ところが、今日始まった参議院特別委員会で、安倍総理は、教育基本法改正の理由をその成立の過程に求め、伊吹文科大臣は、文科省の権限強化を主張した。完全に、頭がずれている。いっぺんの法律改訂問題よりも、いじめ自殺をとにかく止めることが何よりも大事である。だから、自ずと、教育論議は、その方向に向かざるをえないのであり、そうなるべきだと多くの人々が思っているはずである。そういう人々が、今の国会論議の有様を見たら、政治に失望するのは明らかである。現行法でできることを全力でやって、緊急事態をなんとかして、それから教育基本法論議をやることだ。中川自民党幹事長は、沖縄知事選で辛勝しただけなのに、何を勘違いしたのか、早くも油断して、おごり高ぶっているようだが、「傲る平家は久しからず」である。
 
 沖縄県知事選挙に対する大新聞の誤った評価が続出し、混乱しているのを率直に表しているのが、今日の『毎日』社説「筋の通らぬ「対決型」では・・」である。『毎日』は、野党の国会審議参加への方針転換は当然だとしつつ、民主党が沖縄知事選敗北の原因追求をしていないのは残念だと述べている。しかし、この社説が、沖縄知事選敗北をもって、国会審議拒否戦術がアピールしなかったと断言するには、票差があまり開かなかったので、無理がある。
 
 やはり敗因の一番は、沖縄経済問題、とりわけ高失業率の解決策として、基地と引き替えの本土からの資金・事業の獲得という選択を迫られたことであろう。『毎日』が指摘するとおり、民主党内は、安保政策をめぐる大きな対立を抱えていて、糸数氏の基地政策に反対の勢力が多くいる。それは、政権交代を優先する小沢代表の路線のブレーキになっていて、その足並みの乱れは、米軍再編成に賛成する前原前代表の直近の発言にも現れていた。それは、候補者調整のごたごたに現れた。ただ、糸数候補が、参議院選挙で、与党候補を敗った実績があり、知名度が高かったことなどで、民主党の推した候補を引っ込めて、野党統一候補実現に転換したのである。沖縄の民主党は、この選挙で、果たして全力を出しきって闘ったのかという点が気になるところである。
 
 与党側は、早々と稲嶺県政の築いた基盤を引き継ぐ、元副知事の仲井真候補を立てて、選挙戦で野党に先行した。「沖縄の有権者は基地問題の解決とともに、経済振興策にも大きな関心と期待を寄せていた」のであり、沖縄県民の多くが政策の実効性に期待したことは明らかである。つまり、もともと野党不利の情勢にあったのである。もっと大敗してもおかしくない状況だったのである。それを多少とも押し返したのが、国会での教育基本法問題での審議拒否であった。これがなければ、もっと大差で破れていただろう。
 
 『毎日』は、民主党の国会対応もちぐはぐだと言う。民主党は、「改正の必要なし」で、徹底抗戦というならまだしも、「改正の必要あり」として対案を出したのに、対案審議まで拒否したのは筋が通らないのではないかと疑問を呈する。
 
 『毎日』は、与党案と共通点が多い民主党案が成立しても、いじめ自殺や履修不足問題が解決すると言い切れるような代物ではないという。そして、筋が通らない「対決型」は有権者に見透かされるという。また、民主党が政権奪取すれば、自・公政権とこう違うという明確なビジョンが必要なのだという。したがって、「対決」も「対案」も、であって、まずは、オープンな選挙総括議論をすべきだと提言する。
 
 『毎日』は、社民党のような「対決型」も必要だと認めつつ、それと「対案」をセットにして、政権交代を目指せと言っているわけである。これは、民主党の政権奪取があり得るというリアリティを踏まえて、それに相応しい政党としてのあり方、そこに向かうために必要なことを指摘しているものである。基地はいらないが、経済を何とかして欲しいという県民の願いにリアリティをもって応えられなかったことについて、反省することは確かに野党には必要なことであろう。

 これは、『産経』『読売』のような自民・民主一体化の責任政党論などよりは、よほどいいものである。沖縄県知事選挙は確かに、日米同盟再編問題が絡む重要な選挙であったが、このところの全国的な状況を見ると、滋賀での社民党支持候補の県知事選挙勝利や東大阪市での共産党首長の誕生など、革新復活の動きが大きくなっている。この社説は、そういう現実を見ているという感じはする。人々の多くが、抵抗型政党を好み、支持する時と場合があるということを考えている。アメリカ中間選挙での与野党の劇的な逆転を見て、日本の人々が、政権交代に期待する気持ちが強まっているかもしれない。郵政復党組を党利党略で復党させようとしている自民党の復古に嫌気がさした人々が、安倍政権支持から不支持へと多く移っていったのかもしれない。

 社説1 教育基本法改正は参院でも審議尽くせ(『日経新聞』11/22)

 参院の特別委員会で教育基本法改正案の実質審議が始まる。衆院での与党単独採決に反発して欠席していた民主党などが戦術を転換、審議が正常化することになった。教育への社会的関心がかつてないほど高まっているだけに、与野党は改正案の核心に迫る論戦を展開してほしい。

 衆院の特別委では審議時間が100時間を超えたが、改正案の論点がはっきり浮かび上がったとはいえない。多くの時間はいじめ自殺や履修漏れ問題にあてられ、肝心の法案に関する審議は生煮えの印象が残った。いじめ問題などへの注目度の高さを考えればやむを得ない面もあったが、参院では法案そのものをいま一度吟味するよう努力すべきである。

 その際の重要なポイントの一つは、教育行政への国の関与のあり方をどう考えるかである。改正案は「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」との条文を設けた。「教育は、この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」ともうたっている。

 「教育振興基本計画」の策定を政府に義務付けているのも特徴だ。文部科学省はこれを「教基法の理念を実現するための総合的なプラン」と位置付けている。同省によると計画期間は5年間を想定、「いじめや校内暴力を半減させる」といった具体的な政策目標を掲げるという。国の方針に沿って地方自治体も個別の基本計画を定めることになる。

 問題は、こうした条文が文科省による画一的な教育内容の押し付けを強め、地域や学校の創意工夫を阻むことにつながらないかどうかである。公教育の水準を底上げすることは大切だが、同時に地方分権や規制緩和を進め、現場での裁量の範囲を大きくしてこそ学校は活性化するという声は少なくない。国が責任を持つ部分と地方や学校に委ねる部分の切り分けをよく考える必要がある。

 参院では、こうした点も踏まえたやり取りを期待したい。民主党は、教育行政は自治体首長が責任を持ち、公立学校運営に地域住民や保護者が関与することなどを明記した対案を提出している。国の関与のあり方について論議を戦わせる材料は十分に整っているはずである。

 政府の改正案は、このほかにも生涯学習や家庭教育、幼児教育などの条文を新設し、義務教育期間を9年と定めた規定も削除している。「愛国心」の記述ばかりが注目を集めてきたが、見直し部分は多岐にわたっていることを忘れてはならない

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教基法審議再開 『読売』も「恥ずかしくなった?」

 11月21日付『読売』社説[審議復帰へ]「民主党も恥ずかしくなった?」は、この間の『読売』の与党機関誌ぶりを露骨に表している。
 
 こんな書き出しだ。「「審議を尽くせ」と言いながら、審議を拒否する―国会を空転させてばかりいたかつての社会党のような姿に、民主党もさすがに恥ずかしいと思ったのだろう」。教育基本法問題特別委員会で、野党が「審議を尽くせ」と与党単独の強行採決に反対したのを無視して、「審議を尽くした」として審議をうち切ったのは、与党の方である。『読売』は、この与党の言い分をそのまま垂れ流して、与党単独強行採決を支持した。野党の側からすれば、衆議院での審議はまったく不十分で、そのまま参議院で審議入りすることに抗議するのは当然のことである。審議拒否は、その一つの手段である。
 
 かつて、社会党は、審議拒否を繰り返して、国会を空転させてばかりいたということを持ち出すのは、前にも書いたが、完全な時代錯誤である。社会党時代を直接知るものは、どんどん減少している。今回の審議拒否は、年に何日もない特別な事態であり、教育基本法改「正」という重要な法案の審議だから、その審議には慎重であるべきなのに、党内議論の行き詰まりによって、法案をとりまとめた当人たちが、ベターなもので、ベストではないという段階で、衆議院で圧倒的多数を握っているうちに、早く通してしまえと、採択を急いだだけで、政治的思惑につきうごかされたものなのである。
 
 それに対する民主党対案も、自民党の動きに合わせて、対案を出さないとまずいとして、党内議論もそこそこにあわててまとめられたてきとうな法案なのである。自民党案、民主党案の双方が、基本的政策である教育基本法改「正」案を政争の具としているわけで、野党だけが、責められる筋合いはない。何でも反対ではなく、何でも対案で、対案の粗製濫造の愚に陥っているのだ。

 こんなものなら、変えない方がいい。現行教育基本法の枠内で、やれることをやりきるべきだ。その知恵を急いで絞らないと現場で起きている諸事件は、歯止めを失って、暴発する危険性があるのだ。そういう切迫した危機感が、『読売』に欠けている。巨人人気に頼り切ってきた『読売』経営の失敗も、こうした危機意識の欠如、判断力のなさ、と同根なのだろう。『読売』転落の匂いが濃厚に香ってくる。「勝って兜の緒を締めよ」だ。
   
 つづいて、『読売』は、民主党の国会審議すべての拒否は、「旧社会党が常套(じょうとう)手段とした抵抗戦術そのものだった」と書く。その社会党が、野党第一党として、衆議院で百数十議席を持っていた時代があったことを、都合良く忘れたようだ。そんな社会党が好きな人々が、有権者の3分の一程度いたことがあったのである。もちろん、『読売』は、沖縄県知事選挙で、革新系の野党統一候補糸数氏が、革新退潮が続いていた沖縄で、自民・公明の与党が支持する仲井真候補に、約3万7千票差にまで迫ったことが示した革新復調の流れがはっきり見えたことに危機感を抱いたから、わざわざ昔の社会党のことを持ち出して、野党の分断を目論んでいるわけである。

 昔、民主党小沢代表は、全審議拒否の戦術は、「少数者の横暴」「少数のダダッ子のやり口」と批判したではないか、自らの前言を翻すのか、と釘を差す。しかし、「誤りを正すのにはばかることなかれ」である。前言を翻すことのは、与党の得意技であった。それを人々が忘れているとでも思っているのだろうか。郵政造反組の復党問題は、まさしくそれであり、公明党が、改憲論議を行っているのも、そうである。
 
 『読売』は、民主党は教育基本法改正に賛成なのだから、対案を出して審議すればいいという。しかし、社民・共産も現行教育基本法という対案を出している。それに、よほどの妥協をしないでは、与党案と民主党案は対立したままで、与党案が採択されたとしても政権交代後にまた大幅改「正」せざるをえなくなる。『読売』には、そこまで考え抜く思考力、「考える力」がない。
 
 そして今度は、それみろ、沖縄県知事選は敗北したではないか、と民主党を諭す。しかし、『読売』は、防衛庁同様、地方自治体選挙は、防衛政策とは無関係で、淡々と政策を進めればよいという考えを強調してきた。防衛政策・安保政策が、地方自治体選挙の争点になじまないというのであるから、安保政策で対立する政党が地方自治体選挙で手を組むことにはなんの問題もない。『読売』のこれまでの主張から出てくるのは、そういう結論である。『読売』が、「政策抜きの“野合”を優先したことも、敗因の一つではないか」というのは、問いかけ以上ではない。それは、防衛政策が沖縄県知事選の争点であってはならないという縛りを自らにかけたために、それ以上の明確な表現ができなくなっていることを示している。
 
 『読売』は、「基本政策で相いれない党との共闘は、かえって党内の混乱を誘うだけだ」という。裏返せば、基本政策で共通点が多い自民・公明党と組むべきだということだ。そして、またしても、責任政党なる汚い造語を繰り返して、むしろ、教育基本法改正や防衛「省」昇格などの国の基本にかかわる法案審議で、建設的な論戦をリードすべきだと言う。

  『読売』なりの危機感を表し始めているのは、やはり、この間の、安倍内閣支持率の急落やアメリカ中間選挙での共和党惨敗や沖縄県知事選挙での革新系野党統一候補の善戦が、政権与党に不利に働くことを認識し始めているからだろう。参議院選での与党敗北、政局化、衆院解散総選挙、民主党政権の誕生、の可能性が高まっていて、そうなった場合に備えて、民主党の与党としての資格を問題にしているのだろう。しかし、そんな『読売』の思惑を超えた流動化が始まっていることを沖縄県知事選挙結果は示している。国会を連日取り巻く、教育基本法改悪反対派数千人は、その背後に大きな拡がりをもち始めていて、けっして孤立していない。

 なお、沖縄県知事選挙結果の分析では、与党候補が自民党支持者の多くを固めたこと、公明党=創価学会の組織選挙が功を奏したことが指摘されている。知事与党だった自民党が動きがとれずに、内部を固められなかった福島県知事選挙と違うのはそこである。逆に、糸数陣営では、候補者調整が難航して出遅れたのが響いたらしい。これから、和歌山県知事選挙に、もしかすると宮崎県知事選挙もあるかもしれず、いずれも福島型の与党に厳しい選挙が続きそうである。野党が攻勢を止める理由はない。教育基本法改悪には徹底抗戦すべきである。与党議員・与党系首長の不正・腐敗が暴かれ続けているのも追い風だ。

  『読売』は、他人に建設的であることを求める前に、寅さんのように少しは「反省の日々」を送った方がいい。そうでないと『読売』も「恥ずかしくなった?」と思われるばかりだ。それほど、この社説では、人々から嫌われる傲慢さが強まりすぎている。

 『読売新聞』11月21日社説[審議復帰へ]「民主党も恥ずかしくなった?」
 
 「審議を尽くせ」と言いながら、審議を拒否する―。国会を空転させてばかりいたかつての社会党のような姿に、民主党もさすがに恥ずかしいと思ったのだろう。

 衆院での与党による教育基本法改正案の採決を不服として国会審議を全面的に拒否していた民主党など野党各党が、きょうにも国会の正常化に応じる見通しとなった。

 この間の民主党の国会対応は、参院特別委員会への委員推薦を拒み、教育とは何の関係もない法案の審議にも応じないなど、旧社会党が常套(じょうとう)手段とした抵抗戦術そのものだった。

 小沢代表はかつて自著の「日本改造計画」で、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと批判していた。

 小沢代表としても、まさに「少数のダダっ子」としか形容しようがない国会戦術を、いつまでも続けるのは難しかったということではないか。

 そもそも民主党は、教育基本法の改正に賛成の立場だ。現に独自の改正案を国会に提出している。それなのに、改正そのものに反対の共産、社民両党と一緒に審議拒否戦術をとってきた。

 「来年夏の参院選をにらんで、与党との対決色を強めていく。政局に利用できるものは何でも利用する」――。こんな発想で野党共闘を重視したのだろう。

 だが、野党統一候補を擁立して臨んだ沖縄県知事選は敗北に終わった。党内にも、基地反対を掲げる候補を支援することに、「我々の安全保障政策への重大な疑念を招くことになる」と危惧(きぐ)する声が出ていた。政策抜きの“野合”を優先したことも、敗因の一つではないか。

 民主党の若手から「抵抗野党からの脱却」を基本とする本来の姿に戻るべきだとの声が強まったことも、国会正常化への方針転換を促したのだろう。

 民主党は、防衛庁の「省」昇格関連法案でも、いまだに法案への賛否をはっきりさせていない。これも、法案に絶対反対の共産、社民両党との関係にヒビが入ることを恐れてのことだろうが、民主党内には「法案が採決されれば賛成する」と広言する議員は数多くいる。

 基本政策で相いれない党との共闘は、かえって党内の混乱を誘うだけだ。

 教育基本法の改正や防衛「省」昇格のような国の基本にかかわる法案こそ、民主党が建設的な論戦をリードすべきではないか。それこそ、真の責任政党の取るべき態度である。

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教育基本法改悪を阻止するために 『産経』『読売』批判

  15日の教育基本法改「正」与党案の衆議院特別委員会での与党単独強行採決を受けて、『日経』を除く大手新聞各紙が、社説で取り上げている。『産経』『読売』が支持、『朝日』『毎日』『東京新聞』が不支持に分かれている。

  『読売』[「教育」衆院採決]「野党の反対理由はこじつけだ」は、野党が、タウンミーティングの「やらせ質問」を口実にして審議拒否するのは、こじつけだと非難している。『読売』は、「やらせ質問」はやりすぎだと一応批判するが、それほど深刻な問題だとは思っていないようだ。そして、教育基本法改「正」与党案と民主党の対案は、共通点が多いことをあげて、「法案の中身が似通うのは、子どもの規範意識を高め、家庭の役割を重視することが、いじめなど学校現場が抱える課題の改善にも資する、との思いを共有するからだろう」と述べている。しかし、与党案と民主党案を読み比べるとかなりの違いがあることがわかる。民主党案は、教育における民主主義や自律性の強調が目立ち、国の教育への介入よりも、現場に近い地方や地域・家庭・社会の関与が拡大するように書かれている。愛国心表記や家庭の役割や宗教的感性の涵養など、一部が与党案に似通っているだけである。未整理で混乱した表現ではあるが、与党案が国家教育権を強く印象づけるのに対して、民主党案は、国民教育権の立場を強く出しているように見える。

 民主党案なら、現行教育基本法の改訂版と言えようが、与党案の方は、現行基本法とはまったく別物であり、完全に別の精神で書かれている。それなのに、十分審議できただの、残りの短い参議院の審議で修正すればいいというのは、暴論もいいところである。これらを一致させるには、民主党側がかなり大幅な譲歩をせざるを得ず、多くの時間がかかる。これだけ大きな違いがあるのだから、完全対立したのは当然である。

 『読売』は、一部の語句の共通点を拾い上げて、修正案での歩み寄りが可能だと思っているようだが、それにはどちらかが基本的な部分で大幅に譲歩することが必要なのである。

 『産経』は、なぜか政府与党案で、国民に教育を取り戻せると書いているのだが、どこの部分がそれに当たるのかを具体的に指摘していない。たぶん、教育基本法成立の経緯の問題で、それが基本的にGHQによってつくられたことで、アメリカに教育が支配されてきたを日本国民の手に取り戻せるという意味なのだろう。そのことは、『産経』が、「現行の教育基本法は昭和22年3月、GHQ(連合国軍総司令部)の圧力や干渉を受けながら成立した。とくに現行法の「教育は、不当な支配に服することなく」の規定は、文部科学省や教育委員会の教育内容への関与を排除する根拠とされ、問題となっていた。 /これに対し、政府案は「不当な支配に服することなく」との文言を残しているが、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とするくだりが加わった。このため、国旗国歌法や学習指導要領などを無視した一部の過激な教師らによる“不当な支配”は許されなくなる」と書いていることでうかがえる。

 しかし、成立過程にアメリカが深く関与したとはいえ、現行教育基本法下の教育は、その後、戦前の「教育勅語」や国家教育権下の教育よりもよいものだと多くの人々から評価されることで、定着していったのであり、この与党案は、それ以上の高い水準のよいものではないのである。文部科学省や教育委員会の教育内容への関与を排除する根拠とされているのは、教育基本法の「不当な支配に服することなく」という文言だけではない。ここは、先の東京都の「日の丸・君が代」強制・処分に対する東京地裁の違憲判決を意識しているのだろうが、この判決は、思想信条の自由という憲法規定に違反するという判断を下したのであって、教育行政・教育関係において、憲法が貫かれるという法治主義の原則を適応したのである。それに対して、文部科学省は、学習指導要領が、立法なしで、官報への公示によって、法的拘束力があると主張してきたのである。だから、この文言に、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と付け加わったからといって、ただちに「過激な教師」の「日の丸・君が代」強制反対行動が止められる根拠とはならないだろう。そもそも国歌国旗法は、なんらの罰則や強制を規定していないので、それを根拠にして、教育現場に押しつけることはできないのである。現場に押しつけている根拠は、法律に基づかない強制力・権力関係の職務関係上の「職務命令」であり、官報公示の学習指導要領である。

 さて、これらの論点は、今のところ、国会審議では取り上げられていないと思うが、戦後教育を問うというのであれば、一応議論しておかなければならない論点である。この点でも審議はまったく十分ではない。

 そして『産経』は、「政府案は家庭教育について「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と規定している。いじめや学級崩壊、不登校などの問題で、家庭の責任を問う内容になっている」ことを改めて指摘してくれている。いじめ、学級崩壊、不登校などの問題の責任を第一義的に家庭に負わせるという法案であることを再喚起しているのである。それらの問題は、家庭のしつけ・教育が悪いせいだというわけである。だから、国家が家庭教育にまで介入しようと言うのである。「やらせ」で世論操作をしたり、天下り先確保に懸命になっていたり、高校必修未履修を把握しながら4年も放置してきたモラル破綻者続出の文科省が、立派な家庭教育だのしつけだのを指導しようというのだから、あきれる話だ。いじめや学級崩壊、不登校は、家庭教育だけが原因で起きたのか? そんな単純なことではないことは、人々の方がよくわかっているのではないか? 等々。

 とにかく、この教育基本法改「正」与党案は、問題だらけ、論点だらけで、自民党結党50年などという自民党の都合などどうでもいいし、拙速に、ましてや単独強行採決などという強引なやり方で、成立を急ぐべきものではない。

 それにしても、安倍総理だけが、強行採決を喜んでいて、他の自民党議員たちが、困惑した表情、内側に葛藤を抱えたさえない表情だったのが印象的だ。安倍政権は、支持率急落途上で、当然、これは、沖縄県知事選挙にも悪影響を与えたに違いない。『沖縄タイムズ』は、16日の社説「与党単独は数の暴力だ」で、この強行採決を厳しく非難している。『琉球新報』も社説「教育基本法可決・数頼り単独採決でいいのか」で、同じく、これを非難している。地方選挙では、創価学会員が少ないので、先の大阪・神奈川の衆議院補欠選挙のような都市部の選挙ほどには、学会の組織票や組織力は大きくない。そもそも、去年の郵政選挙での地方自民党は分裂したりしてずいぶん弱っているのだから、地方党員をやりにくいように追い込んだら、選挙で十分な力が発揮できない。与党支持でも、教育基本法の早期改「正」に慎重な人が多い現状では、この与党単独強行採決は、与党支持者の力を削ぐ方に多く働くことだろう。

 民主党小沢代表が、そこまで計算して、審議拒否をやったのなら、なかなかの策士であろうし、それを知って知らずか、一か八かの危険な賭けに出た安倍総理は、やはり判断力に問題があることになろう。その結果は、沖縄県知事選挙で出る。『読売』『産経』は、教育基本法問題を沖縄知事選の争点から外そうというキャンペーンをはって、与党を助けようと懸命だが、いかんせん、沖縄の地元の代表的二紙が、教育基本法与党案に批判的だし、単独強行採決を口をそろえて非難している。郵政造反組復党問題では、武部前幹事長をはじめとして、小泉チルドレンが不満顔をしているのが誰にもわかる。党内不満分子を増やしながら、平気な顔の安倍総理の足下は危ない。小泉前総理は、高い支持率を背景にして党内の不満を押さえられたが、安倍総理にはそんな力はない。このままだと、宮沢内閣の轍を踏みそうだ。

 いずれにしても、数の力で押し切った衆議院のようには、参議院は簡単にはいかないし、沖縄県知事選挙をはじめとして、反撃の機会はまだまだあるのだから、教育基本法改悪を阻止する運動を広めていくことだ。

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教基法問題 『産経』社説はひどい

  11月15日『産経』社説「教育基本法改正 今国会で早期成立を図れ」は、あまりにもひどすぎる。

 教育の憲法とも呼ばれる重要法案の審議に十分な時間をかけることは当然のことであり、与党で3年、国会で100時間程度の審議時間は、十分とは言えない。
   
 この社説自身が、今求められているのは、学校でのいじめや家庭での児童虐待などの荒廃する教育現場の根本からの再生だと言っている。それを、現在の与党案で可能なのかどうかの検討が必要なので、まずは、今教育現場で起きている問題点を総ざらいする必要があることは誰も目にも明らかである。文科省・教育委員会・学校・地域・家庭、社会、等々と、影響があると思われるあらゆる領域を総点検して、原因を突き止め、それに対応する解決策を後押しするような法でなければならないことは、明白である。
   
 ところが、『産経』は、教育現場の荒廃の原因は、すべて戦後教育のゆがみにあると決めつけ、一言で片づけた上で、それを直すには「健全な国家意識や家族観」をはぐくむことが必要で、そのことが書いてあるから、教育基本法の与党案を今国会で採択すべきだというのである。まず、現在起きている教育現場での諸問題を、戦後教育のゆがみに還元できるのかどうかが検証されねばならない。例えば、高校必修未履修問題は、戦後教育のどのようなゆがみの現れなのだろうか? その関係について、この間の『産経』は、きっちりと書いてこなかった。『産経』が、この間の「ゆとり教育」による学力低下を心配して、授業時間を増やせと繰り返していたのが強く印象に残っている。
 
 そして、なによりも、『産経』は、与党案は、「愛国心」を明記していないなど、問題点があり、その点では、民主党案の方がいいと主張していた。ところが、民主党が、改正よりも、与党案の廃案にこだわり始めると、手のひらを返して、与党案を早く成立させろと言うのである。自分たちが気に入らない、変えるべきだと言ってきたことを棚に上げたわけである。こうして、『産経』は読者を甘く見て、自分たちが全幅の支持を与えられない法案を成立させよと言うのである。そして、政権を目指す責任政党なるこれまでの日本語になかったいい加減な造語をまたしても使っている。
 
 アメリカでもイギリスでも、野党たるものは、与党を厳しく追及して、政権交代してきたのであり、相手を追いつめた上で、妥協や部分的一時的協力が行われてきたのである。アメリカ民主党は、国防上の最大の課題であるブッシュ政権のイラク政策を厳しく批判して、中間選挙で圧勝した。イギリスでは、保守党は、中興の祖であったサッチャーの路線を否定して、ブレア労働党と対決している。これまで、民主党は、前原前代表みたいに、与党にすり寄ることが、政権奪取の道とするような間違った考えに陥って、政権延命を助けたことを反省すべきである。
 
 民主党は、最大の政治改革は政権交代だと主張してきたのであり、それには選挙で勝つしかないのだから、そのためにできることをやらなければならない。教育基本法早期改正派は、人々の間で少数派である。『産経』がなんと言おうと、選挙に勝ち続けることだ。『産経』は、教育基本法問題を地方選挙と絡めるなというが、これは『読売』と同じ詭弁だ。地方を馬鹿にすると、必ず痛い目にあう。

 『産経』の主張通り、教育基本法改悪の与党案が、与党単独で、委員会採決されてしまった。それには、安倍総理が、与党幹部に、直接、15日採決を促したことが大きかったようだ。もちろん、このような乱暴なやり方での成立の経緯は、法を傷づけるものである。与党自身が、現行教育基本法の成立の経緯を問題にしたのだから、同じように、たとえこの法案が国会成立したとしても、その傷は、将来に渡って問われ続け、消えることはない。
 
 委員会裁決後の与党幹部の顔色は悪く、強行採決の後味の悪さや沖縄県知事選への悪影響の不安やその他の悩みや自信喪失を示しているように見えた。ちょうど、安倍政権の支持率が急降下しているところで、この強引なやり方によって、さらにそれが加速される可能性がある。衆議院本会議は、与党が圧倒的多数なので、通過は間違いないところだが、参議院の方は、そう簡単ではない。会期が短いだけに、与党が、難しい国会運営を迫られることは疑いない。

 国会を約1000人が、教育基本法改悪を阻止するために取り囲んでいたというから、まだまだ希望を捨てる必要はない。残りの国会会期で、野党が徹底抗戦するようにしつつ、さらに闘いを高揚させていくことだ。安倍総理は、どこか宮沢元総理に似ている。自信過剰で、プライドが高すぎて、現実判断を誤るところがである。この強行採決の判断は、改正賛成派でさえ、慎重審議を多くが求めているという世論調査結果が出ていることから考えると、大きな判断ミスの可能性が高いと思う。教育基本法改悪反対運動は、まだまだこれからである。

 11月15日『産経新聞』【主張】教育基本法改正 今国会で早期成立を図れ

 憲法と並ぶ国の基本法である教育基本法の改正案が今国会で成立するかどうかの重要な局面を迎えている。

 与党は15日の中央公聴会終了後、衆院教育基本法特別委員会で政府案を採決し、16日の衆院本会議採決を目指している。来月15日の会期末を控え、参院での審議時間を確保するために週内の衆院通過は譲れないとしている。

 野党は「審議は尽くされていない」と採決阻止で、時間切れに追い込む構えだ。審議は先の通常国会の50時間に、今国会の46時間を加えると100時間近い。既に政府案は3年に及ぶ与党協議会での議論を踏まえ、民主党案も2年近い検討を重ねてきた。

 求められているのは、学校でのいじめや家庭での虐待など、荒廃する教育現場を根本から再生することだ。政府案は完璧(かんぺき)ではないが、戦後教育のゆがみを正し、健全な国家意識や家族観をはぐくもうという改革案である。今国会で速やかに成立を期すべきだ。

 政府案と民主党案が提案された前国会以来、より良い案にすることを促してきた。政府案は「国と郷土を愛する態度」などの育成をうたっているが、民主党案は「日本を愛する心」と「宗教的感性」の涵養(かんよう)を盛り込み、評価できる内容だったからである。

 しかし、民主党は与党との協議に応じることなく、教育基本法の改正そのものに反対する社民党や共産党と歩調を合わせ、徹底抗戦するという。

 民主党は衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議にも欠席した。最近も小沢一郎代表が「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べたことは一体、何だったのか。

 民主党は、19日投開票の沖縄県知事選で野党統一候補を擁立した。現在の対決路線はそれまで野党共闘にヒビを入れるのは避けたいという思惑なのだろうが、政権を目指す責任政党の対応といえるだろうか。

 安倍晋三首相は「法案を広く深く議論し、速やかな成立を図ってもらいたい」と述べたうえで、会期延長については「考えていない」と否定した。

 与党内でも沖縄知事選への影響を考慮して週内の採決を見送る意見があるという。国家の根幹の問題は地方選と絡めず、粛々と決着させるべきだ。

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福島県民は教基法に無関係ではないぞ 『読売新聞』

 11月14日付読売社説は、どちらも教育問題を取り上げている。

 [福島県知事選]「教育基本法とは何の関係もない」は、12日投票の福島県知事選で、民主党・社民党推薦の候補が、自民・公明が推薦する候補を、10万票あまりの大差で破ったことについて書かれている。人口200万あまりで無党派層も少ない福島県で10万票の差がついたのは極めて大きいものである。中川幹事長が、出遅れたと言っても、民主党の方も、出遅れていたのである。自民党がもっと知名度のある候補を立てることができなかったのは、5期18年の佐藤長期政権の与党として、その体制にどっぷりとつかりきっていたからで、それだけ自民党に対する佐藤知事逮捕の衝撃が強かったということである。

 『読売』が問題にしているのは、この知事選そのもののというよりも、選挙結果を受けての民主党幹部の発言の方である。
 
 「民主党の鳩山幹事長は、「教育基本法改正の論議をやり直せというメッセージだ」と語っている。与党側が今週後半の衆院通過を目指す教育基本法改正案について、採決を阻止する考えをほのめかしているのだろう。社民党も「国会内での戦いを強化する」としている」が、しかし、この知事選は、教育基本法の是非が争点ではなく、あくまでも、地方自治に関わる県政汚職や県政改革が選挙争点だったのであり、国政レベルの教育基本法改正問題は、それとは別だというのである。
 
 これは教育基本法をしっかりと読んで検討しないまま書かれたか、あるいは意図的な政略、世論操作である。
 
 教育基本法は、教育行政権を基本的に地方自治に委ねており、それに基づく教育委員会法によって、各地方毎に置かれている独立の地方教育委員会に教育行政の多くの権限が与えられている。したがって、中央教育委員会といったような中央教育行政機関を置いていないのである。それに対して、法律上は、文部科学省は、指導・助言・援助するという関係にあるとされている。しかし、これまで、文部科学省は、教科書検定権、学習指導要領による教科内容決定権などを、地方教委から奪い取り、今度の与党の教育基本法改「正」案では、さらに中央政府に教育権を集中させるために、国の責任と関与を明記している。これが成立すれば、地方の教育行政権が一層、中央政府に奪い取られることになることは明白で、教育の地方自治の内実が失われることになる。したがって、地方自治体選挙で、教育基本法問題は、地方自治のあり方を問う重要な争点の一つなのである。
 
 『読売』が言うように、教育基本法問題が、知事選挙と何の関係もないというのは、知事選で投票した選挙民に対して失礼というものである。福島県民を馬鹿にする『読売』は、福島県では、部数を多く失うかもしれない。
 
 民主党は、与党案に反対しているだけで、民主党案には賛成している。その違いの一つは、教育行政権を、地方自治体に多く認めているという点である。それはイギリス労働党の考えに似ているのだが、それでも、民主党案も、不出来なものである。与党案も、ひどいもので、とうてい「国家百年の大計」という域にはない。周知の通り、この与党案は、結党50周年を契機に法案化を急いだもので、自民党の党の都合、党利党略から生まれたものである。その先には、自民党結党の目的の一つである改憲がある。そんなものの改正を急ぐ必要はない。NHKの世論調査でも、改正賛成派でさえ6割以上が改正を急ぐ必要はないと回答している。なお、安倍内閣の支持率は、日本テレビの世論調査で9%以上、NHK世論調査で、6%以上、先月から急落している。どちらも内閣支持率は、50%台に下がった。
 
 一方の[いじめ自殺]「連鎖を今すぐに断ち切らねば」の方は、このところの 「いじめ自殺」の続発を受けて、今は緊急事態だと述べている。確かに、今は、緊急事態であり、政府も緊急事態を宣言すべき時である。まずは、この自殺の連鎖を止めるために、できることは何でもすべきである。『読売』が、学校関係者が真剣に考える必要があるというのはその通りである。
 
 『読売』は、「いじめ」が、暴行罪、侮辱罪、傷害罪などの刑法の対象になるという。学校教育の場でも法治主義の原則が適用されるべきだというのである。そこで、緊急対応と同時に、「法律という社会のルール、裁判の基礎などを教える「法教育」が義務教育段階で普及し始めている。「なぜ、いじめは許されないか」を、こうした機会に教えることも重要だ」とコンプライアンス教育を提唱する。
 
 学校教育の中に、法治主義の原則が完全適用されるとなると、その法体系の頂点には現行憲法があるわけだから、憲法教育が是非とも必要だということになる。これは、文部科学省の法治主義に基づかない教育関係説と対立する考え方で、文部科学省との対決が避けられない主張である。『読売』は、法治主義を貫いて、文部科学省と大いに闘って欲しい。しかし、この社説は、恐らく、そこまで考え、検討した上で、書かれたものではないだろう。

 いずれにしても、「いじめ自殺」の連鎖をとにかく止めなければならず、政治家も、緊急事態であることを踏まえて、議論・行動しなければならない。教育基本法改正論議もストップして、緊急の「いじめ問題」対策会議をはじめて、当面それに集中するぐらいのことが必要であろう。

 なお、教育基本法問題については、このところ『毎日新聞』社説は、他紙に比べて、優れていると思う。それは、つくいさんのコメントのとおりです。11月12日の『毎日』社説は、大変良いものだと思います。それを書こうと思いましたが、つくいさんのブログ「津久井進の弁護士ノート」http://tukui.blog55.fc2.com/の記事が参考になると思いますので、そちらを見ていただきたいと思います。

 ただ、『毎日』の教育基本法特集が、先の東京都の「日の丸・君が代」強制・処分違憲東京地裁判決について、教育基本法の「不当な支配」の排除違反だけを取り上げて、違憲判断や学習指導要領の法的拘束力について書いていなかったのが、惜しい気がします。この裁判が、教育関係の法治主義か特別権力関係主義かという昔から争点になってきた部分について問われたという点にも触れて欲しかったと思います。

  11月14日付・読売社説(1)

 [いじめ自殺]「連鎖を今すぐに断ち切らねば」

 教育現場で、尊い命が次々と失われていく。非常事態だ。自殺の連鎖を断つために何をすべきか。学校関係者全員が、真剣に考える必要がある。

 大阪府富田林市で、中学1年の女子生徒が自殺した。「さよなら」など、遺書めいたメモが残されていた。

 生徒たちがいじめの存在を証言している。学校側は「しっかり調査する」と言う。いじめはあったのかなかったのか、教師はどう認識していたのか。詳しく調べてもらいたい。

 埼玉県本庄市では、中学3年の男子生徒が自殺した。こちらは学校側が、原因と思われる出来事に言及している。「男子生徒から、同学年の生徒に金銭を要求されていると相談があった」

 「応じないように」と指導したという。しかし、「利子付きで2万円」などと要求していた生徒の側には、どれだけ厳しい指導があったのか。不当な金銭要求は恐喝、強要といった犯罪行為だ。

 7年前、名古屋市の中学生が同級生らから計約5000万円を脅し取られる事件があった。「おかしい」と、母親から最初の相談を受けた時に、学校側が適切な対応をしていれば被害は食い止められた。後に校長らが処分されている。

 いじめで、相手をののしったり、身体的特徴をあげつらったりする行為も侮辱罪や名誉棄損罪に問われることがある。殴ったり蹴(け)ったりすれば暴行罪だし、それでケガをさせれば、傷害罪も成立する。「トラブル」どころではない、いじめはそれ自体が犯罪なのだ。

 法律という社会のルール、裁判の基礎などを教える「法教育」が義務教育段階で普及し始めている。「なぜ、いじめは許されないか」を、こうした機会に教えることも重要だ。

 教師の責務は重い。生徒らの小さなサインを見逃さない。いじめを疑ったら学校組織で徹底糾明する。場合によっては、加害生徒の親にも改善要求を突きつけるべきだろう。

 教育委員会や警察、地域もアンテナの感度を高めて学校の中を注視したい。「いじめっ子のために死ぬなんてばかばかしいよ。相談においで。一緒に解決しよう」と、大人社会からのメッセージを送り続けることだ。

 北九州市の小学校長も自殺した。いじめ問題の処理をめぐって謝罪会見を開いた翌日のことだった。校長として、自ら命を絶つ覚悟を、生きて難局を乗りきる覚悟に変えてもらいたかった。

 学校が非常事態のとき、校長を孤立させてはいけない。教委には、そのための支援態勢も求められよう。

  [福島県知事選]「教育基本法とは何の関係もない」

 各候補者が選挙戦で訴えたのは「県政刷新」だった。それなのに、その選挙結果がどうして教育基本法改正案の審議に影響を及ぼすと言うのだろう。

 談合・汚職事件による佐藤栄佐久前知事の辞職に伴う福島県知事選は民主、社民両党が推薦した佐藤雄平・前民主党参院議員が、与党の推す女性弁護士らに大差をつけて当選した。前議員としての知名度の高さから保守層にも支持を広げたことが主な勝因だ。

 談合・汚職事件で傷ついた県政に対する信頼を回復するには、事件の検証とそれを踏まえた改革が重要となる。佐藤新知事は入札改革を公約に掲げ、具体策として、参加者が限られて談合しやすい指名競争入札を退け、一般競争入札を原則とすることを表明した。

 前知事が5期18年も知事職にあり、長期県政の澱(よど)みが事件の土壌になったとの反省から、佐藤新知事は自らの任期は長くても3期とすることも公約した。

 多選制限は、過去に何度か法制化の動きがありながら、憲法が保障する職業選択の自由などを損なうという批判もあって実現しないできた。知事本人が多選自粛を自主的に宣言すれば、憲法上の論点に踏み込まずに多選の弊害を取り除くことができる。

 自民党も選挙戦のさなか、知事選の場合は4選以上の候補を推薦しない方針を決めた。民主党や公明党はすでに同様の基準を定めている。こうした政党の動きも多選制限を担保することに役立つ。

 理解に苦しむのは、選挙結果を受けた民主党などの言動である。

 民主党の鳩山幹事長は、「教育基本法改正の論議をやり直せというメッセージだ」と語っている。与党側が今週後半の衆院通過を目指す教育基本法改正案について、採決を阻止する考えをほのめかしているのだろう。社民党も「国会内での戦いを強化する」としている。

 だが、教育基本法改正案は、選挙戦の争点にはなっていなかった。

 そもそも、佐藤新知事は民主党色を薄めることに努め、「県民党」を標榜(ひょうぼう)していた。演説でも、県政刷新のスローガンや地元の課題に終始していた。無論、保守層の反発を買うような「教育基本法改正反対」を力説する場面はなかった。

 民主党は、先の衆院補欠選挙で完敗したダメージの回復に少しでも役立てたいのだろう。だが、地方選挙である知事選の結果を教育基本法改正案と結びつけるのは無理がある。

 「論議をやり直せというメッセージ」などと言うことは、牽強付会(けんきょうふかい)以外の何物でもない。

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混迷する右派 潮匡人氏の場合

  日本教育再生機構(八木秀次理事長)のHPに、潮匡人氏の「「教育再生」への提言」というのが載っている。それは氏が、『正論』の巻頭コラムで、東京都内の小学校の団塊世代の女性教師が、学級崩壊に直面し、いじめ、不登校などの問題が発生したのに、担任を辞任し、その後他校に転任したという事件について書いたのだが、なんの反応もなかったということである。女性教師の担任辞任後、校長や他の教師が授業を分担し、その後、時間講師の男性教師が担任を務めた。学校側は、保護者のクラス替えの要求に応えず、いじめられた生徒は、二学期に転校した。

 潮氏は、このような事件の一番の問題点を担任だった女性教師の処遇にあると述べている。他校に転任させれば、再び学級崩壊が起きることが明らかなのに、ただ学校を移すという処遇で終えていることが問題だというのである。学級崩壊の原因はひとえに担任教師個人にあるというわけである。しかし、これまでこの女性教師が担任したクラスのすべて、あるいは多くで、学級崩壊が起きたのだろうかという疑問が生じる。
   
 それから、担任が辞任した後、担任できる人員の手当がつかなかったのはなぜかということも気になる。東京都の場合、「日の丸・君が代」強制の際に、校長の「職務権限」ということを強調し、教職員の職務服務義務を言い立てて、校長権限の強化を図ってきたことは明らかである。権限の拡大に伴って責任が重くなっていることは明らかであるから、この場合でも、校長の責任が問われることは当然であろう。潮氏は、その点をまったく無視しており、しかも、学級崩壊の原因追及をきちんと多様な角度から検証することもなく、この担任教師一人に負わせている。というのは、潮氏が本当に言いたいことは、別にあって、それを正当化するために、こうした事例の一面だけを強調することが必要だっただけなのである。この時点で、こうした教育問題を語る資格は、アウトである。
 
 潮氏が本当に言いたかったことは、比較的裕福な家庭が私立に通わせて、教育の格差が拡大・固定化している「現状を打開する特効薬はやはり市場原理の導入である」ということである。バウチャー制度を導入して、学校を自由に選択できれば、格差も縮まるというのである。多様な学校が生まれ、義務教育を廃し、私学助成をすればよいという。しかしそれは、暴論であるばかりか、たんなる空想的な思いつきでしかない。比較的裕福な家庭が通わせる私立では、授業料とは別に様々な負担が多くかかるのである。それなら、自宅などを使った寺子屋に貧しい家庭の子どもが通うことになろう。格差は、拡大・固定化するのは明らかだ。このどこが特効薬なのか? 人を馬鹿にするのもほどほどにした方がいい。こんな子供だましを誰が信じるというのか? 『正論』読者が無視したのも当然である。読者の方が賢いだけだ。
 
 「本来、公務員を選定、罷免するのは国民固有の権利である(憲法第15条)。だが、現実に罷免権は空文化している」と今度は憲法まで持ち出す。公務員の罷免権は、国家官僚にこそ行使したいものだ。「問題教師一人、教室から排除できない現状で、小手先の改革をしても意味がない。新内閣の抜本的な教育改革を期待する」。そういう極論を言う前に、問題教師一人を教室から排除することで、問題が解決するというような簡単な問題ではない。潮氏は、明治時代に、人々の反対を押しつぶして、義務教育を導入する以前の「寺子屋」教育の復活を言うが、安倍内閣の教育改革がそんなことをするわけがない。安倍首相は、公教育を前提とした改革を言っているのだから、義務教育を廃止することもありえないことは明らかだ。潮氏はどうして安倍政権の教育改革に期待できるのか理解不可能で、破れかぶれになっているとしか思えない。
 
 これは、このところの保守派の凋落・混迷ぶりを象徴しているような文章である。

「教育再生」への提言/潮匡人(評論家)

 当機構の八木秀次理事長とともに小生が連載する月刊『正論』の巻頭コラム「クロスライン」で人気TVドラマ「女王の教室」を論じつつ、以下のように「都内A区Z小学校の一例を紹介」した(平成18年5月号)。
 担任の女教師は大量採用された団塊世代。ドラマの新任教師と同様、児童になめられ学級崩壊、教室内でイジメが発生。複数の児童が不登校となり、ストレスで発病するケースも続出。救急車で搬送された児童までいる。PTAが署名を集めようとした途端、担任教師は辞任を表明。当初は校長を含む他の教師が授業を分担、その後、男性教師が担任に就いたが、時間講師のため放課後は直ちに下校、職員室にも校内にもいない。今後の人事に関する学校側の説明は年度末の今もまだない。
 万単位の部数を誇る月刊誌での告発だったが、期待した反響はなかった。この程度の話は珍しくないのかも知れない。上記の内容は、すべて実話であり、どこにも誇張はない。それどころか、続きがある。
 年度が変わり、担任の女教師はZ小学校を去った。校長も変わった。だが、保護者が求めたクラス替えは実施されず、新年度の今なお、教室は問題を引き摺っている。イジメに耐え切れなくなった一部の児童が、ついに二学期から、他校へ転校。保護者はこの間を通じ、学校側に善処を訴えたが、具体的な措置は執られなかった。
 一番の問題は、問題女教師の処遇である。なんと彼女は今年度から、都内T区に赴任。同じ身分で教員生活を続けている。T区立小学校で再び、学級が崩壊するのは時間の問題だろう。次は、どこへ赴任するのだろうか。こうした姑息な人事異動では、トランプのババ抜きゲームと変わらない。
 A区に限らず、都内の比較的裕福な家庭はみな私立中学受験に備え、進学塾に通学させている。誰の目にも明らかな教育格差が固定化しつつある。こうした現状を打開する特効薬はやはり市場原理の導入である。
 最終的には義務教育の廃止を視野に入れつつ、行政が公教育に投じる予算を私学助成に振り分けるだけで、現状の幼稚園と同様、学校選択の幅は飛躍的に広がる(蛇足ながら公務員削減と財政再建にも目処が立つ)。個性豊かな学校が続々誕生する。日本の近代化を支えた寺子屋も再生する。いわゆるバウチャー制は、その脈絡で導入すべきである。
 本来、公務員を選定、罷免するのは国民固有の権利である(憲法第15条)。だが、現実に罷免権は空文化している。問題教師一人、教室から排除できない現状で、小手先の改革をしても意味がない。新内閣の抜本的な教育改革を期待する。

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教育問題 法律論議よりも、まずは現場から学べ

 8日は、教育問題でのいろいろな情報が新たに出た。

 まず、首相の諮問機関である教育再生会議の分科会の初会合が開かれた。開かれたのは、「学校再生」と「規範意識・家族・地域教育再生」の両分科会で、高校必修科目履修漏れや「いじめ」問題などについて議論されたという。その中では、教育委員会制度の見直しを求める意見が多かったという。同時に、中央教育審議会(中教審)が、授業時間の拡充の方向での学習指導要領見直しの検討を進めている。同じ政策提言を追認するだけだと教育再生会議を新設した意味がないのだが、基本的なところで、中教審と教育再生会議の考え方は、似ている。無駄な気がする。なんでもやればいいというものではない。やらない方がいい場合もある。
 
 つぎに、文科省が、「いじめ自殺」の調査方法の見直すことを決めたというものである。これは調査が実態を正しく反映していなかったのだから、当然である。あらためて、「いじめ」の定義について検討するというが、そんなことすらできていなかったのかと唖然とするような話である。調査項目が15あって、自殺かどうかを調査中の事例を「その他」に入れて学校が報告するケースがあって、「いじめ自殺」数がゼロになってきたという。伊吹文科大臣は、安易に「その他」に入れないように求めるという。
 
 高校必修科目履修漏れでは、伊吹大臣が、大学センター試験で、6教科(国語、地理歴史・公民、数学、理科、外国語)のすべての受験義務化を検討する考えを示した。「高校は予備校ではない。(習熟度の判断を)校長の認定する卒業証書だけに任せておくのは考えなければならない」と強調したという。センター試験での受験科目は、大学や学部に任されている。
 
 必修科目履修漏れが新しく明らかになった愛媛県立新居浜西高校の校長が自殺した。さらに、9日に明らかになったのは、旧文部省が、2002年度には、大学生への調査で、高校必修未履修がすでに広く存在することを把握しながら、なんの対応も取っていなかったということである。これで、文部科学省にもこの問題での責任があることがまた新しく判明したわけである。
 
 総理府が各地で行ってきた教育改革タウンミーティングでの「やらせ質問」が、青森県八戸ばかりではなく、何度も繰り返されてきたことが明らかになった。他方で、衆議院教育基本法特別委員会が行っている教育基本法地方公聴会では、賛否両論が出ていて、改正支持派の中にも慎重論議を求める意見も出た。
 
 教育基本法改「正」案の委員会採決を早期に行うことを与党が決めたという報道が行われている。このようないっぺんの法律で、今噴出している教育問題が解決するということはありえない。現在は、これら諸問題や文部科学省や教育委員会や入試制度やその他の教育分野の総点検・総洗い直しに集中すべき時であって、その結果を受けて、法律問題に取りかかるべきなのである。その点では、民主党が、「日本国教育基本法案」なる対案を出したのも、間が抜けている。もっと、のんきな法律談義をやっている場合ではないということをはっきりと主張して、法案成立を阻止しつつ、肝心な教育議論の方に集中して、人々の関心や期待に応えることである。
 
 アメリカで、民主党が中間選挙で大勝利したが、民主党は、ブッシュ共和党のイラク政策を暴露して、有権者の希望や期待に応えたことで、それを実現したのである。イラク戦争を推進してきた軍需産業の代弁者ラムズフェルドが退任した。これは大きなことである。日本の野党も、それから学ぶべきであろう。あんな気の抜けたような空中戦の党首討論など、一体誰が気にしているというのだ? 多くの人は、そんな議論には関心がない。言葉遊びに終始すれば、それだけ見放されることになるだけだ。今多くが聞きたいのは、教育問題をどう解決するのかということである。それには、まず現場の実態を掴むことであり、そこから学ぶことである。その上で、問題解決に資する制度や法はどうあるべきかという論議を進めることである。
 
 どうやら日本の保守派内には、サッチャーの教育改革を過大評価し、神聖視して、それをまねようという者が多いようで、サッチャーが、まず教育基本法から手をつけたので、日本でもそうすべきだと信じている者が多いようである。しかし、それは、地域破壊や格差拡大・固定化、地域間格差の増大、偏差値主義、落ちこぼれ問題、などの深刻化をもたらし、労働党によるコミュニティー重視の政策転換や地方からの骨抜きが進められて、破綻しつつある。保守党さえ、サッチャーイズムからの脱却を進めているというのに、日本では、これからそれを取り入れようと野党の民主党まで主張しているというお寒い状況である。見る限り、教育をめぐる問題の根は深く、それは戦後教育の問題というレベルには止まらない。もっと射程を伸ばして、明治維新後の日本の近代化の過程を問うという次元で見直しをしないと屋上屋を重ねることにしかならない。
 
 例えば、「いじめ」問題をめぐる言表が、あまりにも決まり文句であり、それが人々の表現を縛っていて、同じ言表が繰り返されるという事態は、教育言説の機能によるものだが、それが形成されたのが、この近代化の過程であったからである。なぜ、人々は、このような言表から、決まり文句から、ワンパターンの表現から抜け出せないのか? なぜ、「いじめ」が、私的な領域に追放され、不可視となることで、かえって、深刻化していくのか? 「いじめ」られた側が、それをあくまでプライベートな事態と受け止めて、一人で問題を抱え、そして自殺していくのか? 「いじめ」は、私的な出来事なのか? それとも公的な出来事なのか? 公教育に私的なものを浸透させていくという現在の教育改革論議は、このことにどう関わっているのか? 私学と公立学校を根本的に区別するものは何か? 公教育の再編の中で、公的なものと私的なものが、曖昧に混ざり合っていく状況は、「いじめ」の私領域化とどう関わっているのか? 等々。
 
 足立区で、学力テストの成績に応じた予算配分を行うとする方針が、先日撤回された。それについて、伊吹文科大臣は、「よかった。しかし、教育で成果があがらなければ、競争主義を導入することもあり得る」と述べた。あからさまな恫喝である。競争主義は、恫喝の手段なのか? 競争主義が導入された場合、私学と公立の区別はどうなるのか? もともと、私学は、創設者が、有為の人材を育成することを目的とし、独自の建学の精神を掲げて、私財を投じて設立されることが多く、直接的な営利を目的とするものではなかったが、近年の私学は、露骨に、営利を目的とする経営を行っているところが多いように思われる。であれば、それは公教育の範囲を逸脱していると言えるのではないだろうか? ここで一体何が私的なもので何が公的なものなのか? 私学の公的性格とはなになのか? 逆に私性とは? 学校収入の性格から、それを判断することは適当か? 納税者意識を強調する議論からすれば、公立は、授業料などは税金でまかなっているわけだから、公的と言えよう。私学は、多くが私学助成金を得ているので、公的性格もある程度は持っているのだろうか? しかし、義務教育は、私学であっても公立であっても同じだから、収入形態にかかわらず、公的性格があると言えよう。義務か任意かというのは、公的私的の区別の標識だろうか? 営利か非営利かというのは、公私を分かつ標識の一つであろうが、これとて、例えば、NPOと官僚団体とは、公的私的という風に完全に分けられるかと言えば、そうでもない。ここでは、法的規定の違いということがあり、何が国家団体で、何が非国家団体かという区別は、政治的に規定されている。公務を扱う団体でありながら、民間的な独立法人化が検討されている社会保険庁解体再編問題がそうである。
 
 教育委員会とは何かという議論でも、似たようなレベルの問題が出てくるのは確実である。学校問題でもそうである。私学と公立を分ける理由は何かが問われる。教員の地位の問題は、かつては、労働者か否かという点が主な争点だった。そういう古い問題意識のままなのが、日本教育再生機構の八木理事長である。労働者でないのならば、解雇ということはあり得ない。それで、分限免職なる別概念があるわけだ。政治的に、民間の労働者とは違う特別な身分とされているからである。公務員はすべてこうした政治的に規定された身分であって、それは、市民社会と公的社会の分離によって、政治的に形成された国家・公共団体の成員の特殊な職掌と地位・身分が確立したからである。何が公共的な仕事かは、様々な歴史的事情によって決まるのであり、かつて、鉄道はそうした公共の仕事であり、国家が経営するものとされていたが、それも民営化されて、国家団体から市民社会に移された。逆に、明治時代には、私鉄が国有化された。しかし、経営が民間になったからといって、仕事の公的性格がなくなるわけではない。
 
 いろいろと飛んだが、教育をめぐって検討・議論しなければならないことは、広く深く多く、時間がかかるということは明らかである。

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教育委員会改革論議によせて

  高校必修未履修問題の発覚や「いじめ」自殺事件の続発などの教育をめぐる諸問題の発生を受けて、教育委員会がやり玉にあがっている。

 11月7日『日経』社説は、「教育委員会改革は分権の視点忘れるな」として、教育委員会のあり方をめぐる政府内の議論について、自説を述べている。

 この間の教育をめぐる諸問題での教育委員会の対応が不十分だったとして、政府内では、委員の人選や事務局体制を見直して、強い指揮監督機能を持たせると同時に国の関与を強めようという意見が出ている。
 
 それに対して、『日経』は、規制改革・民間開放促進会議などは、教委の設置を任意化し、自治体首長が権限と責任を持つようにすべきだと提言しているという。教委強化策は、こうした分権の流れに逆行するというのである。いかにも、小泉構造改革を支持し続けてきた改革主義者の『日経』らしい批判である。では、『日経』の改革案は何か?
 
 まず、現在の教委の問題点について、『日経』は、地方自治法に規定されている教委の権限と責任の所在があいまいであることを指摘する。教育委員は、首長が任命し、事実上、名誉職化している場合が多い。多くの教委は形骸化していて、実権は事務局トップの教育長が握っている。教員の人事権は、都道府県教委にあり、地域の実情が反映されにくい。私学は、首長部局の担当で、公教育とは別扱いなのである。
 
 「地方制度調査会は昨年12月、「教委の設置は自治体の選択制にすることが適当」と答申。全国市長会と町村長会も今年6月、選択制を要望した。規制改革・民間開放推進会議は7月の中間答申で、「画一的に設置された教委は国の指導助言等に基づく上意下達システムとして機能しがち」としたうえで設置義務撤廃の方向を打ち出し、年度内に結論を得るとしている」。こうした教育委員会改革議論がすでにあり、それを『日経』は支持しているわけである。
 
 先の、『毎日新聞』社説での教委改革についての主張も同様であった。これらは、小泉構造改革路線下で進められた地方分権の強化策を基調としているもので、現在でも一つの潮流を形成している。
 
 それに対して、伊吹文部科学省大臣などは、教育委員会の権限を強化すると共に国の関与を強める方向での教委改革を打ち出している。現在は、政府・文科省は、教育委員会に対しては、助言・援助などを行う立場である。しかし、教育委員会の行う仕事は、①学校など教育機関の設置、管理及び廃止、②教育財産の管理、③教育委員会や学校など教育機関の職員の任免その他の人事、④児童生徒等の就学、入学、転学、退学、⑤学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導、職業指導、⑥教科書その他の教材の取扱い、校舎などの施設や教具などの設備の整備、⑦教育関係職員の研修、⑧教育関係職員、児童生徒等の保健、安全、厚生、福利、⑨学校など教育機関の環境衛生、⑩学校給食、⑪青少年教育、婦人教育、公民館活動など社会教育、⑫体育文化財保護、⑬ユネスコ活動、⑭教育に関する法人、⑮教育関する調査、統計、⑯教育相談、広報、と多岐に渡っている。大学と私学については首長の仕事とされているが、それがなぜなのかはわからない。こうした縦割りが、高校必修履修漏れの私学に対する調査が遅れた原因になっているのかもしれない。
 
 他方で、日本教育再生機構理事長の八木秀次氏は、7日の『毎日新聞』「教育基本法改正を聞く」「組合活動 法で制約を」のインタビューで、「いじめ」や履修不足の原因を、地方分権の行き過ぎで文部科学省が教育界をコントロールできなくなったことに求めている。教育分野での中央集権の強化が必要だというのである。そのために、教育基本法改正が必要だという。その狙いは、露骨に、日教組の組合活動を法的に制約することだと語っている。それが必要な例として、卒入学式での「日の丸・君が代」強制の問題をあげ、「学習指導要領は法的拘束力があるのに、指導の義務がある国旗国歌掲揚・斉唱が守られていない。東京地裁は国旗・国歌で「都教委の強制は違憲」と判断しましたが、16条で法令の縛りがかかり、教職員の活動も大きく制約されます」と述べている。しかし、学習指導要領は、指導するように書いてあるが、教職員自身が国旗を掲揚し国歌を歌うべしとは書いていない。そして、地裁判決は、東京都の「国歌・国旗」強制を憲法違反と判断した。いかに、教育基本法で法律遵守義務を課したとしても、憲法を超える法が存在してはらないのし、現行憲法遵守が基本法遵守に優先する。八木氏は改憲派で、現行憲法を真面目に遵守しようという気があまりないのかもしれないが、現行の法体系の下では、こういうことになる。
 
 この人については、この間の「新しい歴史教科書をつくる会」内紛騒ぎなどからの動きや発言や書いたものによって、保守を僭称する権力の「太鼓持ち」であることが暴露されて、多くの人の失笑をかっている。保守とは何かについてのなんの確乎とした思想も見識もないのである。学校に競争を持ち込めば、組合活動ばかりの学校には生徒が集まらなくなるのだそうだ。サッチャー教育改革後に、イギリスの教組が衰えたか? とんでもない。アメリカでは、イラク反戦の中心的役割を果たしている組合の一つが、教員組合である。福音派などの教育反動はどうなったか? 教育委員選挙で、進化論支持派に敗れた。そして、福音派の大物指導者が、トランスジェンダーの権利を擁護し、今後、それに敵対しないことを表明した。新保守派の一部は、ブッシュ共和党が、イラクで惨めな敗北を喫しつつあることを、アメリカの尊厳を傷つけたと非難した。今度のアメリカの中間選挙では、共和党支持者の多くが、民主党候補に投票すると答えている。

 今の日本の保守派は、醜い。政権にすり寄るために、節を曲げ、平気でうそをつき、仲間を裏切り、野合する。金や地位が欲しくて、大金持ちや大企業に媚びを売る。
 
 本題からはずれてしまった。まず、天下りが多いと言われる文部科学省の教育への関与を強めるというのは、オオカミに羊の番をさせるようなもので、危険が大きい。現に、文部科学省からの出向者が現在でも地方の教育委員会にいる。したがって、文部科学省が、この間の学校をめぐる問題に責任がないなどということは言えない。そして、国は、総理府が、教育改革タウンミーティングなるもので、「やらせ発言」を参加者に依頼し、議論を自己に有利なようにリードしようとしたように、とうてい、道徳的に立派な連中からなっているわけではない。こんな道徳破綻者が、他者を導く指導だの監督だのを立派に努められるということを前提にすることはできない。狐が狸を指導・監督するようなことは、現場の混乱を拡大するだけだ。「隗より始めよ」で、文部科学省の天下りその他抱える問題の実態を徹底的に調査することからである。

 現在の教育委員会が、重要な教育分野の仕事を委ねられているにも関わらず、その責任を果たしていないということが、この間の事態で明らかになったのだから、まずは問題点の洗い直しが必要である。『日経』が言うような、分権化が、高校未履修問題や「いじめ」事件の解決につながるのかどうかは、より具体的な検討が必要で、これだけではわからない。規制改革・民間開放促進会議などの提言は、文部科学省が「いじめ」は減少しているという怪しい報告を出していた頃につくられたもので、この間新しく得られた実態情報を含めて検討されたものではないので、最新情報の検討を含めた対策が必要になっていることは明らかであるから、なお、時間をかけて、検討を進めるべきである。
 
 『日経』社説1 教育委員会改革は分権の視点忘れるな(11/7)

 教育委員会のあり方をめぐる議論が政府部内で活発化している。背景には、自殺者が相次ぐいじめ問題や全国で発覚した履修漏れ騒動への対応が不十分だという強い不信感がある。そこで勢いを増しているのが、委員の人選や事務局体制を見直して強い指揮監督機能を持たせるとともに、国の関与も強めようといった意見だ。教育再生会議でも具体策を検討するという。

 しかし、こうした発想だけで教委改革を進めていいのだろうか。規制改革・民間開放推進会議などは教委の設置そのものを任意化し、首長が教育行政の権限と責任を持つことも可能にすべきだと提言している。教委強化策はこうした分権の流れとは逆行する形になる。

 教育委員会は地方自治法により都道府県や市区町村に例外なく設置すると決められている。教育行政の政治的中立性などを確保しようと、戦後、米国をモデルに導入された。

 ところが、理念とは裏腹に実際は権限と責任の所在があいまいだ。委員は首長が任命するが名誉職の色合いが濃い。多くの委員会は形骸化し、実権は事務局トップである教育長が握る。教員の人事権は都道府県教委が持ち、地域の実情が反映されにくい。私学は首長部局の担当だ。

 一連の不祥事での対応のまずさは、こんな実態に根差している部分があるのは間違いない。現行制度存続を前提に考える限り、委員の常勤化や教育長の権限の明確化などの改善策を探る意味はあろう。しかし問題意識は共通していても、規制緩和や地方分権の観点から、より根本的な改革を志向する声が相次いでいることも忘れてはならない。

 たとえば、地方制度調査会は昨年12月、「教委の設置は自治体の選択制にすることが適当」と答申。全国市長会と町村長会も今年6月、選択制を要望した。規制改革・民間開放推進会議は7月の中間答申で、「画一的に設置された教委は国の指導助言等に基づく上意下達システムとして機能しがち」としたうえで設置義務撤廃の方向を打ち出し、年度内に結論を得るとしている。

 いじめ問題などで教育委員会が十分に機能せず、関係者のなれ合いや隠ぺい体質が目に余るのは確かだ。だからこそ教委にこだわらず、首長の権限と責任で教育行政を総合的、機動的に展開できるようにすべきだとの考え方が出てきたのではないか。教育再生会議などでは性急に教委強化論に走るのではなく、分権の視点も踏まえ、そもそも教委とは何かを問い直す議論を進めてほしい。

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4日の教育問題の諸社説

  11月4日の『毎日新聞』『東京新聞』『産経新聞』は、それぞれ社説で、教育問題を論じている。その中で、『産経』社説を読んで、戸惑いを感じた。

 まず、社説は、高校必修未履修問題の文部科学省の特例措置を書いた上で、「絶対に前例にしてはならない」とくぎをさしている。そうでないときちんと履修している9割の高校との間に不公平になるからである。ここまでは妥当な意見である。

 1割の必修未履修の高校が、受験偏重だったと問題点を指摘した上で、「受験教育は大切だが、生徒全員に課された必修単位は取得させておかねばならない。それが公教育というものである。当然のことだが、来年からは、進学校も指導要領に沿った時間割を組むべきだ」と主張する。『産経』は、ここで、学習指導要領の法的拘束力を強調する文部科学省の立場に立つ。

 それから、校長の自殺を取り上げて、生徒の「いじめ」自殺事件が相次ぐ中で、生きて命の大切さを教育・指導してほしかったという。「生きる力」の教育が必要だというのである。

 だが、今度は、「現行の指導要領は「ゆとりの中の生きる力」の育成をうたった平成8年の中央教育審議会答申などを受け、主要教科の授業時間が大幅に削減されている」と、「生きる力」の育成と教育をうたった現行指導要領の「ゆとり教育」の問題を指摘する。学力低下は、高校でも進み、それが大学にまで及んでいる。その大学では、5教科7科目の受験科目を課しているところも多い。私立大学では、これまでの3教科3科目から、2教科に減らす所も出てきているという。

 「学力低下のしわ寄せは大学にまで及んでいる。ゆとり教育を推進してきた旧文部省の責任は極めて重い。小中高校を通じ、子供たちの学力向上を図る抜本的な指導要領の見直しが求められる」ということで、結局、この社説の結論は、「ゆとり教育」による学力低下が悪であり、学習指導要領を学力優先で見直せということである。

 「生きる力」、命の尊さを教育するための時間・授業のあり方については、一切書いていない。校長が自殺などせずに、生きて、そういう指導・教育にあたればいいということしか書いていない。『産経』は、学力の中身は何か? 教育の目的とはなにか? 等々、問い直しが必要だというようなことを、書いていたように思うが、それはどこにいったのか? 学力主義に戻した場合、詰め込み教育の弊害が指摘された70年代に逆戻りしないだろうか? クラブ活動やボランティア活動の時間はどうなるのか? 

 サッチャーの教育改革以前には、イギリスには、学習指導要領にあたる全国一律のカリキュラムはなかった。おそらく今のアメリカにもない。サッチャーは、日本に学習指導要領システムを学ぶために、視察団を送り込んだ。しかし、それも、地方分権化が進められたブレア政権下のもとで、自律を強めるウェールズなどの地方政府による骨抜きが起きている。学習指導要領に従うのは当たり前だ、それが公教育というものだ、というのは、現場の校長などから、学習指導要領の中に、現場の自律的な裁量行使の幅を増やして柔軟に対応できるようにしてほしいという声があがっているのを、問答無用で切り捨てる官僚主義的な主張である。公報じゃあるまいし、こんな「石部堅吉」も困ったものだ。

 なによりも問題なのは、今、教育をめぐって生じている様々な問題を、上からの行政命令遵守で乗り切れるかのような誤ったメッセージを送っていることだ。それで解決がつくような話ではないことは、今多くの人にとっては分かり切っていることだ。だからこそ、学校が地域や家庭との連携を進めたり、様々なNPOなどの活動が行われているのである。学校現場は、地域や家庭の抱える諸問題が持ち込まれるなど、地域における社会関係の要石的な位置に立たざるを得なくなっているのである。それは別に、教育理論とか学習指導要領とか教育基本法がどうとかいうレベルの話ではなくて、それこそ、地域・家庭の問題解決能力の低下にともなって、そのレベルの諸問題が学校に持ち込まれるようになったという現場の事情によって、そうなっていかざるをえなくなったのである。

 ある教員から訊いたところでは、校長室で、夫婦げんかの仲裁が行われることまであるという。学校にそうしなけばならないという法的な義務もなければ、教育委員会の指導があるわけでもない。他に解決できるところがなく、夫婦げんかの仲裁まで学校に持ち込まれるのである。しかし、それも、教育を広くとらえるならば、夫婦関係が子どもの教育に影響を与えることも事実だから、無関係というわけにはいかないということも言える。そういうところに、上から、ご立派な「愛国心」を明記した教育基本法だの学習指導要領どおりの教育だのというご託宣を並べたところで、なんの問題解決になるのか? ただ混乱を与えるだけである。

 そんなご託宣ばかりを並べる『産経』社説を読むと、いらいらしてしまう。

 『東京新聞』は、課題を並べ、「教育のあるべき姿について英知を結集して欲しい」としている。

 『毎日新聞』社説は、「教育委員会 このままでは無用の長物だ」として、高校必修未履修を見逃し、旭川市の「いじめ」自殺事件での不適当な対応をした教育委員会問題を取り上げている。この間、教育委員会は、名誉職的になり、実行力がないことが指摘されてきて、それなら廃止した方がいいという声が、経済界から強まっているという。『毎日』は、その前に、教育委員会が、自己改革プランをまとめて、自発的に変わるべきだと述べている。

 教育委員会をめぐっては、各学校に進学率の数値目標を出して競わせて結果を問う成果主義を取り入れるところもあり、さらに、東京都のように、知事好みの委員ばかりを任命して、知事の私兵のような存在になって、「日の丸君が代」の学校行事での強制の先兵となったり、と、教育の中立性を逸脱しているところもある。教員の人事権を握っているために、自民党は教育委員会を日教組解体のための手先とすることを狙っている。アメリカでは今でも教育委員会は選挙制であり、先の選挙では、進化論否定派対肯定派の争いで、肯定派が勝利した。日本の教育委員会公選制は、1956年に廃止された。

 『毎日』は、「この結果、首長の影響が強まるとともに、中央(文部科学省)-地方(教委)-現場(学校)という上意下達の形が色濃くなった。また委員が地域の名士や教員OBの名誉職のようになるなど形がい化の指摘が出るようになった。こんな状態は学校との間で「なれあい」も生みやすく、今回の不祥事で動きが後手に回った背景にはこれがあると批判も起きた」と書いている。

 この問題は、学校教育への住民参加のあり方の問題であり、現在では、ほぼPTAに限られている参加者だけでいいのかという問題でもある。この間の、通学下校途中で生徒・児童が、犯罪に襲われる事件の続発や児童虐待事件の多発などを受けて、地域・家庭との連携が課題として持ち上がっているのだが、それには、地域が学校教育に参加・関与する仕組みが必要とされている。教育委員公選制は、そうした仕組みの一つとなるものであったが、すでに廃止された。教育への住民参加の門をできるだけ狭めておきたいというのは、党派的な思惑が背景にあるためであろう。門戸開放がすぎると、左派などがそこから大量に進出してきて、教育に対する影響力を強めかねないというような心配である。

 しかし、東京都などでは、現場が混乱しようとおかまいなく、上からの「日の丸君が代」の儀式での強制を仕掛けた。上からの内乱を起こしたのである。下からの混乱ではなく、上からの混乱が起きているのである。教育委員会が、上意下達の中間官僚機関にすぎないのであれば、行政官僚に置き換え可能である。が、教育にとって必要な自律性を確保するには、それは不適切である。現場にとって役に立ち、問題解決力を伸ばす教育行政機関となり、上意下達の中間機関ではなく、現場からの要求と必要を上に突きつけ、実現を図る機関になれれば、素晴らしいことだ。

 いずれにせよ、必要とされる教育論議の内容は多く、時間がかかることである。 

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「いじめ」問題について

 最近の教育問題をめぐる議論が、高校必修科目未履修問題と「いじめ」事件の続発を契機としていることは明らかだ。
 
 その前に、昨年に小学生の教師への暴力事件が急増したというデータが出ていた。しかし、文部科学省は、学校現場からの報告をもとに、「いじめ」が減少しているという見解を公表していた。実際には、「いじめ」は減少しているのではなく、学校の過小報告や潜在化したことによって、統計データに現れなかったのではないかという疑問が指摘されている。
 
 「いじめ」はなくさなければならないことであることは明らかであるが、他方で、かつて『マルコ・ポーロ』事件で、アメリカのユダヤ系人権団体から、「ホロコースト」事件を否定した文章が攻撃されて、雑誌そのものが廃刊になるという目にあった西岡昌紀氏は、自身のブログ記事で、「いじめ」自殺には、うつ病などの複合的な要因があるのではないかと言っている。もし、うつ病が関係しているとすると、うつ病患者に対する不適当な対応がなされたかもしれないと書いている。周知のように、うつ病患者には、はげましはかえって症状を悪化させるのだが、そうした精神医学上の知識を持たないまま、周りの人々が病者に不適当な対応をしなかったか等々を検証した方がいいというのである。
 
 他方で、「いじめ」をする側の方には、病理の症候はないのかということも考えなければならない。先日どっかのテレビ番組で、「いじめ」を受けた人が、「いじめ」た側を追求していったところ、実は、その中にかつて「いじめ」を受けたことがある人がいて、今度は、その人が自殺してしまったということをやっていた。かように、問題は、病理的な様相を呈しているように見える。

 「いじめ」られないため、つまりは自衛のために、「いじめ」る、つまりは先制攻撃するということではないだろうか? そうしなかった者が、自殺・不登校に追いつめられる。どこか、真っ先に、ブッシュのイラク戦争を支持した小泉総理のやり方と似てはいないか? 自分がいじめられないために、いじめる側に立つという点で。それはともかく、こうした場合にこそ、被害者側の諸個人に認められているのが、自然権としての自衛権であって、それは人工的につくられた国家には自然権として認められているのではなく、政治的に認められたものである。この違いを曖昧にしているか、全然気にもとめていない議論があるが、それはおかしい。
 
 こうした「いじめ」事件を見るたびに、「いじめ」た側を、「いじめ」たくなるのだが、そういうことを思っても、そこで踏みとどまって、実際には、そういう言葉を出すのを押しとどめる。それは、なぜだろうかと考えてみる。
 
 たとえば、「死ね」と言っていじめた者に対して、「おまえこそが「死ね」」と心の中では言ってみても、実際には、そんなことを口に出さない。それを言ってしまったら、自分も「いじめ」た側と同じになってしまうし、それが問題解決のためにならないとわかっているからだ。キリスト者ならそう思った時点で罪を犯したことになるのかもしれないが、多神教で仏教の影響が強い日本ではそうは考えない。日本の場合は、多元的に考えるというのが普通である。なぜなら、様々な神があるのと同様に様々な考え方があることが前提となっているからである。われわれは、こうした問題についても、複数の審級が並存している中で、考え、判断しようとする。これは大変なことのように思われるが、それほどでははない。それに慣れているからである。これは一つの共同体には必ず他の共同体があって、それは別の神や仏を信仰していて、別のルールを持っていたからである。「郷に入っては郷に従え」というのも、複数のルールが存在していることが前提に成り立つことわざである。もちろん、近代にはいり、共同体が壊されていって、ルールの全国共通化が進められる中では、衰えていくのではあるが、日本語の構造には、それがある。
 
 西欧では、こういうことは、多元主義哲学という論理学や難しい議論を必要としたが、日本ではその必要はない。むしろ常識の問題である。西欧では、ヴィトゲンシュタイン、バシュラール、フーコー、などがこれに取り組み、最近では、イギリスのハーストが、多元主義哲学を発展させようとしている。ハーストは、多元主義哲学とアソシエーション理論を結合しようとしている。ポスト・マルクス主義のラクラウ・ムフについては、ここでは微妙とだけ言っておこう。
 
 「いじめ」た側が、それに対してなんらかのペナルティーを課せられなければならないのは当然だが、しかし、それが病理として、症候として、把握されるならば、もっと違ったやり方が必要である。西岡氏の主張から、そういうことが言える。犯罪加害者が、ずいぶん後になって、フラッシュバックに襲われて、強い後悔の念にとらわれるということもある。つまり、事件に対する見方が、人生の途中で変化してしまうということがある。
 
 「いじめ」る側が、あらかじめそうした苦悩を将来味わうことになるかもしれないことに思いが至ることは難しい。それができたら、そもそも「いじめ」ないだろう。「いじめ」が、関係の問題、コミュニケーションの次元の問題をはらんでいることは明らかである。そこに、言表の規則性が関わっていることも。そして、硬直化した表現、ドグマが表現をしばるということが関係している。双方が特定のコミュニケーションのパターンに拘束される。それによって、多様で開かれたコミュニケーションが閉ざされる。その息苦しさ、消耗、苦痛、悲惨は、双方をむしばむ。加害者は加害者なりに傷つくのである。彼らは、自分たちはこの世に生きる資格があるのだろうかと問われるし、自分に問う場合もあろう。
 
 表現を洗濯すること、言表の規則性を揺るがし、表現の空間を拡大すること、分散すること、等々。学校という閉ざされた空間を地域・家族その他の多元的空間へと開くこと。緊急避難的な措置と安全安心の確保、そして、現在の社会のあり方の問い直し。なぜなら、リストラや職場の「いじめ」を放置して、学校での「いじめ」だけをなくすことはできないから。現場が抱える諸課題を総点検・総ざらいし、それらを検討・議論した上で、対策を取るべき時である。
 
 いじめ自殺の多発について

 いじめ自殺の多発に、非常に心を痛めて居ます。この様ないじめが有る事自体に、深い悲しみと怒りを覚えますし、真実を隠す学校や教育委員会に対して私が怒りを抱いて居る事は言ふまでも有りません。特に、学校や教育委員会が、加害者を守る事ばかりである事に強い憤りを抱いて居ます。そうした事について、言ひたい事は山ほど有るのですが、報道を見て居ると、言はれて居ない問題も有る様な気がします。それは、こう言ふ事です。
 いじめは、もちろん、許される事ではないし、学校や教育委員会の対応もひどい物です。しかし、それでも、子供が自殺までする背景には、何か別の問題が加わって居ないか?と、私は、思ふのです。いかにいじめがひどいとは言へ、子供が自殺までするのは、異常な事です。そんな異常な事が起きるのは、自殺した子供たちが、極めて異常な精神状態に追ひ込まれて居たのではないか?もっと言ふなら、鬱病に追ひ込まれて居たのではなかったか?と思へてならないのです。個々の事例は、個別に分析されねばなりませんが、この可能性にもっと注意が払はれるべきです。もし、自殺の原因に、いじめその物に加えて、自殺した子供たちの鬱病と言ふ要因が加わって居たなら、自殺の予防には、精神科的な配慮が必要に成ります。例えば、鬱病の患者は、励まされると症状が悪化しますから、励ましてはいけないのです。被害者が、鬱病に罹患して居る場合は、そうした精神科的配慮が学校でも家庭でも、決定的に重要に成ります。学校も家庭も、子供たちがいじめによって鬱病に陥った場合は、いじめに対する対応と同時に、鬱病に対する対応を並行して行なはないと、誰に責任が有るかと言ふ問題とは別に、いじめ自殺の防止は出来無いのではないと、私は思ひます。もちろん、いじめなど、する人間が一番悪いのです。ですから、そちらに対する対策が一番重要ですが、とにかく、その結果、いじめの被害者が出て、そのいじめられた子供が鬱病に陥ったとしたら、その被害者を励ましてはならない等、教師と家庭は、精神科的な配慮を持った対応をしなければなりません。多発するいじめ自殺の悲劇の中には、周囲の人間は軽い気持ちで言った言葉やいたずらが、子供が鬱状態であった為に、自殺を誘発した事例も有るのではないかと、私は懸念するのです。中には、誰かが、善意からその子供を励ました為に自殺してしまった事例も無かっただろうか、等と私は考えてしまひます。つまり、いじめをする側に対する対策はもちろん重要ですが、それだけではなく、いじめられた子供に対しては、精神科的配慮を持った対応をしないと、子供が、ささいな言葉などを切っ掛けに自殺する悲劇が繰り返されるのではないかと、私は、懸念するのです。この問題には、こう言ふ視点からのアプローチも必要だと思ひます。(平成18年11月1日(水)西岡昌紀(にしおかまさのり))

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高校未履修問題から見えた課題

 11月2日の『読売新聞』社説は、高校必修逃れに対する政府・文部科学省の救済策が出たことを受けて、この問題で見えた高校教育の課題について書いている。
 
 まず、政府の救済策の中身だが、それは、未履修が2単位を超える生徒でも、70回の補習を上限とし、履修漏れが2単位以内の生徒には、50回の補習でよしとする特例をつけたものである。2単位不足の生徒が7割以上であることから、この最も多い部分は、50回の補習に負担が軽減されることになる。公明党からは、原則50回でいいという意見が強く出されたという。浜四津副党首は、10回にすべきという意見を述べたという。しかし、文部科学省は、あくまでも、学習指導要領の法的拘束力の維持と履修した生徒とのバランスにこだわって、原則70回を譲らず、結局、こういう折衷案ができた。
 
 『読売』は、この事態の原因を、現行の大学入試制度のために、受験偏重の高校教育が行われてきたことの「ひずみ」の一つであると述べている。したがって、「学習指導要領」「受験偏重の今の高校教育」「大学入試制度」を見直すべきだと主張する。
 
 また、「必修逃れ」や「いじめ自殺」への対応のまずさが露呈したことで、教委の監督機能や問題対応能力を高めるための検討が「教育再生会議」で始められることになった。『読売』は、「教委の役割を、根本から議論してほしい」とも述べている。『毎日新聞』社説も、今回の問題の原因として大学入試制度の問題をあげていて、この問題は、高校レベルの問題に止まらず、大学のレベルにまで拡大して検討しなければならない拡がりのある問題であることが明らかになっている。

 『読売』も『産経』と同様に、教育再生会議には、すでにある再生策をスピーディーに実行するように求め、議論よりも速効性を求める主張をしていたが、教育をめぐる諸問題がつぎつぎと発覚し、それらが、入試制度や学習指導要領や教育委員会のあり方など、検討と議論を要する深刻かつ拡がりを持つ問題を多く含んでいることがわかってきたようで、「腰を据えた論議も必要だ」と主張するようになった。教育再生会議は、新たな検討課題ができ、長い検討と議論が必要になったのである。
 
 それと関係するのが、11月2日の『毎日新聞』の経済コラムである。このコラムは、この10年ほどの能力主義・成果主義が行き詰まったことを認めて、次の経営のあり方について述べたものである。「大幅なリストラを進める中で終身雇用や年功序列という枠組みは流動化したが、能力主義一辺倒が良いとも言えないことも分かってきた」のである。
 
 「その反省の共通点は、「仕事は一人でできるものではなく、かかわる人々の協同が不可欠である」ということだ。また、中間管理層の「人をはぐくむ」という働きは、企業という「場」の力を強くするためにも決定的に重要だという認識である。仕事の担い手は生身の人間であり、生まれっ放しのままでは限界がある。技術の伝承や協調的な社風づくりのためにも、「人が人によってはぐくまれる」ことを支援するシステムの有無は企業の将来を大きく左右する」ということだという。何をいまさら、当たり前のことを発見したのか、という感じである。

 これからは、中間管理層の「対話力」の補強の勝負が重要だという。

 この間の教育改革論議が、企業の能力主義・個人間競争主義・成果主義などに合わせたものになり、バウチャー制度による学校間競争の促進などの競争主義・暗記力に偏った学力主義、教員間競争を促進するための信賞必罰制の強化、などが主張されている。企業では、すでにこれらを見直す動きが活発化しているのに、教育分野では、それをこれから本格的に導入しようというのである。今は、大きな転換点であり、拙速な改革をすべき時ではない。
 
  [必修逃れ救済]「“騒動”で見えた高校教育の課題」

 原則70回の補習で救う――。

 全国540に上る公私立高校で、生徒が卒業に必要な科目を履修していなかった問題で、政府の救済策がまとまった。

 履修漏れが2単位(50分の授業で70回分)を超える生徒でも、70回の補習とリポート提出などで単位取得を認める。2単位以内の生徒には、一部の補習免除など弾力運用を認める。卒業生の過去の履修漏れは不問に付す。

 これらの救済策を検討する過程で、与党内からは、履修漏れの3年生の7割以上を占める2単位不足の生徒について、補習の負担を50回まで軽減すべきだとの主張も出ていた。

 文部科学省は、学習指導要領の法的拘束性やルール維持にこだわった。「生徒に罪はない」という声に、なし崩し的妥協をすれば、自ら指導要領の拘束力を否定することにもつながりかねない。

 受験を控えつつ、きちんと必修科目を履修してきた生徒たちにも不公平感を生む。譲れぬ最低ラインとして「70回」を強調した。「弾力運用」を認めたのは、救済の「スピード」を意識しつつ与党側との着地点を探った結果だろう。

 これ以上、生徒たちの動揺、受験への不安感が募らないよう、関係者は十分に配慮してほしい。

 今回の騒動は一体何だったのか。その検証作業が必要だ。

 必修逃れは5年ほど前にも広島、兵庫などの高校で発覚した。文科省は各教委の担当者を集めた会議で口頭指導するだけで、全国調査などは行わなかった。

 必修逃れは、多くの高校で「公然の秘密」として次年度に引き継がれ、教委には虚偽の履修届が提出されて来た。

 その教委も「知らなかった」では済まされまい。必修逃れの高校の校長が後に教育長になったところもある。

 規制緩和の一環として、教委の廃止論も出ていた。今回、必修逃れや「いじめ自殺」への対応のまずさが露呈したことで、教委の監督機能や問題対応能力を高めるための検討が「教育再生会議」で始められることになった。教委の役割を、根本から議論してほしい。

 学習指導要領をどう見直すか。受験偏重の今の高校教育をどう改善するか。行政と現場に突きつけられた課題だ。

 「大学入試が高校以下の教育内容を決めている」。そう言われるほど、「受験」をゴールとした教育の道筋が敷かれてしまっている。

 そこに生じた「ひずみ」の一つが、今回の必修逃れだったと言えよう。

 大学入試制度を見直すための、腰を据えた論議も必要だ。(2006年11月2日『読売新聞』)

 振れ戻し現象=猷(コラム「経済観測」)
 
 企業経営に関しては、10年余にわたる停滞期を脱し、中期的な上昇気流に乗った今だからこそできることがあると思われる。その一つはいわゆる米国型の経営手法への偏向を抜け出すことだろう。

 大幅なリストラを進める中で終身雇用や年功序列という枠組みは流動化したが、能力主義一辺倒が良いとも言えないことも分かってきた。一時は手詰まり状態を打開するために飛び抜けた人材を探してストックオプションなど破格の厚遇をすることもはやったが、今は姿を消している。

 元々の米国でもエクソンやGEなどの「エクセレントカンパニー」では終身雇用に近く、安定した昇進昇給という風土もある。かつての日本ではそれが「普通の会社」のありようだった。それが修正され、労働市場の流動化の利点も体験した上で、今は適切な着地点を探している。また、コストを下げ、経営の意思決定をスピードアップするために中間管理層は思い切って削減するという変革も広がった。

 しかし、これにも振れ戻し現象が始まっている。その反省の共通点は、「仕事は一人でできるものではなく、かかわる人々の協同が不可欠である」ということだ。また、中間管理層の「人をはぐくむ」という働きは、企業という「場」の力を強くするためにも決定的に重要だという認識である。仕事の担い手は生身の人間であり、生まれっ放しのままでは限界がある。技術の伝承や協調的な社風づくりのためにも、「人が人によってはぐくまれる」ことを支援するシステムの有無は企業の将来を大きく左右する。

 かつてのような「ノミニケーション」が復活する可能性は少ないが、それだけに中間管理層の「対話力」をどう補強してゆくかは、これからの勝負どころの一つだと思われる。(猷)(『毎日新聞』2006年11月2日) 

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教育改革論議について

 先日の週銀教育基本法特別委員会での質疑で、民主党の質問者が、イギリスの教育改革を例にして、同じような教育改革を日本にも導入するように、主張していた。サッチャー改革は、保守系改革論者たちが、高く評価しているものだが、その教育改革とはどういうものなのだろうか? それを調べてみて、与党の教育基本法案のなかに、それと共通する概念がいくつか盛り込まれていることがわかった。例えば、イギリスの「教育水準局」が、教育水準の保障という概念として入れられている。「第五条(義務教育)(3)国および地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担および相互の協力の下、その実施に責任を負うこと」。
 
 サッチャー英政権による教育改革は、1988年の「教育改革法」に始まる。それによって、それまで地方や学校に委ねられてきたカリキュラムを中央政府が中央集権化して決定し、読み書き計算学力を伸ばすために、全国学力テストを実施して、その到達度を測り、また、それによって、学校を評価し、目標達成度に応じて、信賞必罰の方策をとって、学校間競争が激化した。サッチャーイズムは、経済分野における自由競争主義と社会分野への国家介入強化を特徴とする。サッチャーは、個人と国家の間にある社会分野の弱体化を目指した。しかしそれは、まったく空想的であったから、ブレア労働党政権が、コミュニティー重視の政策に転換することで、基本的に修正された。その他の政策を継承しているといっても、もっとも基本的な部分で大きな修正があったのだから、その点では、サッチャーイズムとは大きく異なるのである。
 
 1992年保守党メージャー政権の教育法では、「教育水準局」が設置され、その後、監督制度が整備される。これで、サッチャーが目指した教育の中央集権化が完成したといわれているという。しかし、この改革によって、日本同様、モラルの低下、学力主義への傾斜、格差拡大・固定化、などの諸問題が深刻化しているという。ブレア労働党政権は、基本的な教育政策を前政権から受け継いだが、ウェールズでは、ナショナルテストへの不参加を表明するなど、学力主義に偏ったサッチャー改革の基本的枠組みから離れる動きが広まっているようである。
 
 サッチャーの教育政策の目的は、「アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局」http://www.jca.apc.org/stopUSwar/index.htmlの「イギリス「教育改革」の悲惨な実態とその破綻」によると、①「教育改革法」の制定、②「自虐的な偏向教育の是正」、③全国的なナショナル・テストの実施で、右派保守派は、これに飛びついて、日本版サッチャーイズム教育改革を目論んでいるようである。しかし、サッチャー政権は、「教育改革」に当たって、ナショナルカリキュラムを導入するために、日本の学習指導要領に学ぶために、日本に教育視察団を送ったというのだから、皮肉な話である。②については、まさに、「自虐史観」・「自虐教科書」批判キャンペーンで右派が行ってきたことのもとになっているもので、なんのことはない、イギリスの物まねである。欧米か! 

 サッチャー教育改革は、社会的なものに敵意を燃やして破壊し、強い個人と強い国家を再生しようとしたわけだが、その基礎には、宗教教育の強化、キリスト教的個人主義の強力な文化的力の存在があることは言うまでもない。そういう一神教的伝統がない日本で、それをそのまままねしようとしても無理がある。例えば、いくら校長個人に権限を集中拡大させて、個人としてのリーダーシップを発揮させようとしても、結局、個人化された校長は、上と下の間にはさまれて苦難に陥ると、自殺という形を取る場合が日本ではよくある。しかし、実は、イギリスでも、校長個人が強いリーダーシップを認められているが、その重責に堪えきれず、辞める人が多く、なり手がないという。
 
 ブレア労働党政権は、地域・家庭・学校のパートナーシップの確立を目指し、サッチャー教育改革を修正した。しかし、基本的な部分は前政権を踏襲した。折衷である。
 
 日本の民主党議員が、今、崩壊しつつあるイギリスの教育制度をどうして立派なもののように考えて、その導入をはかろうとしているのかが、理解できない。イギリスは関係ないだろう。今は、現実に教育が直面している課題への解決策を、現場から学びつつ、見出していくべき時だ。教育基本法をいじっている場合ではない。教育再生会議は、すでにある教育改革策を急いで実現するべきだと主張していた『産経新聞』でさえ、「いじめ」自殺事件の続発などを受けて、「安倍内閣の教育再生会議では、こうした現在の教育現場が抱える問題を幅広い視野で議論すべきだ」と書いている。
 
 与党側は、すでに十分な審議時間を取ったとして、早期成立をはかるつもりらしいが、その前に、今、現実に起きている教育現場での問題解決につながるかどうかを含めて、さらに実態をよく把握した上で、慎重かつ徹底的に議論を尽くすべきであることは明らかである。『毎日新聞』社説が言うように、「教育基本法改正論に対しては「それで現場の難問が解決するのか」という異論が常にある。推進派もそれに答える意味で、眼前にはだかる現実問題とまず向き合い、国民的論議に広げていくべきだ。それが、ひいては法の改正をめぐる論議に厚みをもたせることにもなる」。

 【主張】いじめ自殺 死に急いだら負けになる

 北海道と福岡県に続き、岐阜県瑞浪市でも、中学2年の女子がいじめをうかがわせる遺書を残して自殺した。子供たちの心に連鎖反応が起きているとすれば、対処を学校だけに任せず、社会が力を合わせて連鎖を断ち切らねばならない。

 岐阜県のケースでは、自殺した生徒の両親が「明らかにいじめがあった」と主張しているのに対し、学校は「いじめの事実は確認できていない」としている。遺書の内容や部活動での同級生の言動などをよく調べ、自殺の動機や背景を解明してほしい。

 この種の問題が起きると、マスコミなどは往々にして学校の責任を集中的に追及しがちである。「先生はなぜ、いじめの兆候に早く気づかなかったのか」「校長はなぜ、いじめを隠そうとするのか」…。先生がいじめに加担した福岡県筑前町のような事例は別として、大半のいじめ問題は学校だけに責任を負わせても解決しない。

 作家の曽野綾子さんは本紙のコラム「透明な歳月の光」(30日付)で、こう書いている。「私が違和感を覚えるのは、だれが悪いという犯人探しである」「自殺した当人も親も先生も、いじめをした側の当人も親も先生も、そして同時代の社会全体も、共に責任の一端を担うべきだろう」

 その通りである。ただ、責任の軽重はなくはない。いじめた生徒とその親たちの責任はやはり重い。厳しい反省が求められる。

 いじめ問題に限らず、教育は、学校と家庭、地域社会の3者の協力によって成り立っている。近年、共働き家庭の増加もあって、親が行うべきしつけまで学校に頼るようになった。いじめっ子をしかる近所の怖いおじさんも少なくなった。学校に負担をかけすぎた面を反省する必要がある。

 もちろん、だからといって、学校が生徒指導に手を抜いていい理由にはならない。

 安倍内閣の教育再生会議では、こうした現在の教育現場が抱える問題を幅広い視野で議論すべきだ。

 自殺は、いじめに屈して負けを認めるようなものだ。真相も分からなくなる。曽野さんが指摘するように、いつかはいじめた相手を見返すくらいの気持ちをもって、心身共に強く生き抜いてほしい。

 社説:教育基本法改正 机上論争の前に現実に目を

 「愛国心」などを争点にする教育基本法改正案の実質審議が30日、衆議院の特別委員会で再開した。議論がともすれば空疎に響くのはなぜだろう。社会や教育界で現実に起きている緊急問題や矛盾とかみ合わないからだ。

 立て続けに表面化したいじめ自殺や高校の大量未履修は、今の日本の教育の骨格を揺るがす問題をはらんでいる。

 いじめに追い詰められた子供の遺書を無視した北海道の教育委員会、教師が率先していじめた福岡の中学校。これらは戦後の学校教育の基本的仕組みである教育委員会制度や教員の資質チェック機能に不信を広め、教委廃止論や教員免許更新制論に弾みをつけた。

 文部科学省は異例の現地調査を踏まえ、全国の教委の担当者を集めていじめの隠ぺい防止と対策改善を強く指示した。その足をすくうように岐阜県で23日、女子中学生が自ら命を絶つ事件が起きた。

 事前の様子や遺書はいじめを示唆するが、学校側の説明は二転三転し要領を得ない。「『ウザイ』などのからかう発言はいじめに当たると思うが、自殺につながるかは推測の域を出ない」。この説明は、いじめは受けた子の身になって判断し対処するという90年代からの共通基準にも反している。

 未履修は、学習指導要領や高校教育とは何か、さらに学力、教養とは何かまでも問う。横行の理由(言い訳)が入試準備のためだから、そんな入試をやってきた大学の責任でもある。問題はわが国の「最高学府」の中身と質まで問うているといっていい。教育基本法改正論に対しては「それで現場の難問が解決するのか」という異論が常にある。推進派もそれに答える意味で、眼前にはだかる現実問題とまず向き合い、国民的論議に広げていくべきだ。それが、ひいては法の改正をめぐる論議に厚みをもたせることにもなる

 文科省は、学校側の指導で未履修組になった生徒も、正直に履修した生徒も混乱の被害者であり、できるだけ不公平感のない措置をするという。ぜひそうしてほしい。だが、乗り切った後、問題の論議を打ち切って幕を引くようなことがあってはならない。

 一連の問題は子供たちに不幸、不運を重ねながら次々に浮上した。その痛ましさや影響の大きさから、教育状況に対する国民の関心はこれまでになく高い。そこで与野党に提案したい。教育基本法改正案の審議も当面は逐条的な論争ではなく、こんな連鎖的な教育危機ともいうべき状況の中で教育の基本問題を真摯(しんし)に考え、率直に論議する場にすべきではないか。

 そうした社会の空気を背景に、30日の審議で、法案だけではなく、いじめや未履修について質問や意見が相次いだのは自然だろう。しかし現実先行の中で、とらえ方はまだ浅く、社会の不信や疑念、不安に答える内容にはほど遠い。また法案阻止の時間稼ぎの方便にこの論議が利用されてはならない。そうした駆け引きは不信を大きくするだけだろう。

 一方、教育基本法改正論に対しては「それで現場の難問が解決するのか」という異論が常にある。推進派もそれに答える意味で、眼前にはだかる現実問題とまず向き合い、国民的論議に広げていくべきだ。それが、ひいては法の改正をめぐる論議に厚みをもたせることにもなる。(『毎日新聞』2006年10月31日)

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教育基本法「改正」論議再開

 今日、衆議院の特別委員会で、教育基本法「改正」の議論が始まった。

 しかし、高校での必修科目未履修問題の発覚や「いじめ」事件が相次いだこともあって、これらの問題に対する討議が続いた。民主党は、「日本国教育基本法案」という対案を対置したのだが、それも多くの問題を含んでいる。その一つが、格差問題との関連である。それについて、大内裕和氏が、『毎日新聞』に書いている。
 
 氏は、与党法案では、教育基本法の重要な理念の一つである「教育の機会均等」を破壊し、格差社会を助長する危険性があるとしている。
 
 同法第3条で、「「能力に応ずる教育」となっていた文言が、政府法案では「能力に応じた教育」へと変えられている。「能力に応ずる教育」は、「発達の必要に応ずる教育」と解釈され、その時点での能力の格差を是正する方向で教育機会を保障することが目指されていた。しかし「能力に応じた教育」は、能力の上下によって教育機会が差別的に配分されることを容認する表現である。これでは教育の機会不平等が促進されてしまう」というのである。「応ずる」という表現は、何かに対して反応するという意味合いがあるが、「応じた」は、合わせたという意味合いがあるように思う。つまり、前者は、「能力に対応して」教育をするということで、後者は、「能力に合わせて」教育するという感じである。
 
 さらに、政府案第5条の2は、義務教育では、「各個人の有する能力を伸ばしつつ」という文言があり、それが、格差を拡大する危険性が高いと氏は言う。この時期の子どもの能力が、家庭や地域などの環境に大きく左右されるからである。
 
 確かに、この「改正」案には、能力主義の色が濃い。それに対して、民主党の対案の方は、心の教育・人格形成に重きを置いている。与党案の場合は、小泉総理の合理主義・能力主義的な価値観が強く反映している。中曽根前文案が、小泉総理の鶴の一声で、不採用となったのである。その他、公明党との関係もあって、愛国心についても、明記されなかった。
 
 また、宗教教育が道徳心の形成に必要だというが、宗教が、非道徳的な教えを持っている場合は少なくない。それに、宗教団体の多くが教祖や幹部の腐敗堕落を起こしている。そして歴史教育の重要性ということも言われるが、消えてしまったものについての認識を愛して、現実の郷土を愛さないというものにすぎない。公共心の涵養というのもあるが、そもそも公とは何であり、なにを学ぶことが、公共心を育むことになるのか? 恣意的政治的に政府与党の都合のいい内容が後から与えられ、詰め込まれるだけではないのか? いろいろとはっきりしないことが多く、この議論には、とても多くの時間がかかることは間違いない。
 
 「愛国心」をめぐるイデオロギー的な観点だけではなく、大内氏が政府与党案の能力主義を取り上げ、それが格差拡大につながるというのは、重要な指摘である。民主党案は、人格形成に重きを置きつつ、なお愛国心を明記するのは不要である。愛国心があるのは当然だという人は、あまりにも当たり前のものをわざわざ明記する必要はないし、そういう省略は日本語の場合には普通にあることだ。それに反対する者がいるから、明記するというのは、政治闘争の次元の問題で、教育の本質からはずれた話である。
 
 政府与党案・民主党案を読んでみても、とくに現行教育基本法以上の高い内容を持っているとは思われない。「改悪」をやる必要などまったくないので、教育基本法与野党案への「改正」には反対である。

  06年10月29日『毎日新聞』「21世紀を読む 教育基本法「改正」 格差社会を助長するおそれ 大内裕和」

 臨時国会の最重要法案になっている教育基本法「改正」法案は、特別委員会の本格的な審議が30日から始まる。前の通常国会で注目されたのは「愛国心」をめぐる議論であった。「愛国心」通知表など、その評価の是非や「思想及び良心の自由」との関わりで論争が行われたことは記憶に新しい。しかし、同法「改正」の重要な論点であるにも関わらず、まだ十分に審議されていない問題がある。それは同法「改正」と現在大きな問題となっている格差社会との関係である。

 教育基本法の重要な理念の一つに「教育の機会均等」がある。戦前は男女や経済力による教育の格差が明確に存在していた。それに対してすべての人に平等な教育機会を提供することが、教育基本法の理念に盛り込まれた。しかし政府法案は「教育の機会均等」を破壊し、格差社会を助長する危険性をもっている。
 
 現行法では「能力に応ずる教育」となっていた文言が、政府法案では「能力に応じた教育」へと変えられている。「能力に応ずる教育」は、「発達の必要に応ずる教育」と解釈され、その時点での能力の格差を是正する方向で教育機会を保障することが目指されていた。しかし「能力に応じた教育」は、能力の上下によって教育機会が差別的に配分されることを容認する表現である。これでは教育の機会不平等が促進されてしまう。
  それに加えて政府法案第5条「義務教育」には、現行法第4条(義務教育)にない新たな条文がある。
 
 政府「改正」法案第5条「義務教育」
  2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を奪うことを目的として行われるものとする。
  3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を維持するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実現に責任を負う。
 
 第2項の「各個人の有する能力を伸ばしつつ」との文言は、義務教育における格差拡大をもたらす危険性が高い。義務教育段階での「能力」は特に、家庭や地域などの子どもを取り巻く環境に強く影響される。この時点での「能力」の違いを所与の条件としてそれぞれの子どもを伸ばしていくのであれば、義務教育の重要な役割である平等化は放棄され、出身家庭や出身地域による教育格差が拡大し、階層の固定化がもたらされるだろう。
 また第3項の「水準を確保」という文言は、義務教育における競争や能力主義を一層押し進める。文部科学省は07年4月に、小学校6年生と中学校3年生の全員が参加する全国学力テストを実施する。これによりすべての都道府県、小中学校、生徒に順位をつけることが可能になる。このテストなど「水準を確保」することを目指す教育政策が、義務教育段階での競争と格差を全国規模で強化するだろう。教育基本法「改正」が格差社会を助長する危険性はきわめて高い。
 毎日新聞が05年12月に実施した世論調査では、親の所得など家庭環境によって、子どもの将来の職業や所得が左右される「格差社会」になりつつあると思う人は6割を超えている。多くの人が危惧している格差社会と教育基本法「改正」との関係について、臨時国会で十分な議論が行われることが強く望まれる。

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『毎日』社説「学力低下 「ゆとり教育」を責める前に」

 この社説は、なかなかいい。近年、「ゆとり教育」の弊害を指摘する声が高まっているが、そういうときこそ、はたしてそうなのかをしっかりと検証するべきだというのである。まず、そもそも学力とは何かである。

   「ゆとり教育の始まりは約30年前。経済成長や技術立国政策を背景に学習内容が膨れ、授業についていけない子が増える一方、知識詰め込みの弊害が指摘された。勉強嫌いを生み、また暗記中心で、自分で考えて判断し対処する力が育っていないという反省である」。そこで、1977年の学習指導要領に「ゆとりの時間」が盛り込まれ、その後、紆余曲折を経ながら、現在、「総合的学習の時間」が小中高の授業に組み入れられている。

 「確かに各種の部分的調査は学力低下傾向を示している。だが、客観的で明快に割り切れる物差しはなかなかない。学力の定義もまちまちなうえ、判断の土台になるデータも少ないという事情もある」。定義が定まらず、さらにはデータが少ないとなると、なんとなく学力が低下しているようだという印象や雰囲気にながされる可能性が高まる。
 
 「例えば、03年国際比較調査で15歳の読解力が前回の8位から14位に落ちた。これをどの程度深刻に受け止めるべきか。04年の学力調査では、新学習指導要領で学ぶ子がむしろ前の世代より高い成績を出した。どう解釈すればいいか」。近接する時期に行われた学力調査の結果が異なる。どちらが現実を正確に反映しているのか? それがはっきりしないと、一方のデータだけを取って、対策を取れば、間違いになる可能性がある。

 「確かに、ゆとりが目覚ましい成果を上げたという実感はないし、若者の学習意欲や教養面で退行を感じる人は多いだろう。読み書き計算という最も基礎的な力が危うく、分数もできない大学生が珍しくないという指摘も深刻だ」。しかし、それは「ゆとり教育」のせいだろうか? 「実態をみすえよう。学力が落ちているとしても、授業を削減したことだけが原因とは思えない。価値観や少子化など社会環境、産業構造の変動といった多面的要素を踏まえ分析しないと、見えてこないものがあるのではないか」と社説は言う。

 「一律のペーパーテストに頼る調査は学力の一部しか見ない。ゆとり教育が目指した「自分で考え、解決する力」という学力はどこまでできたのか、できなかったのかも検証してほしい。それには、現場の先生たちの体験・意見集約や子供たちの追跡調査のような手間をかけた方法が必要だ」。確かに、ペーパーテストではかられるのは主に記憶力であって、それだけを学力とみなすことはできない。「自分で考え、解決する力」をどうはかり、どう評価するか? これはなかなか難しいことではあるが、チャレンジする意味はある。
 
 『朝日新聞』などが、履修不足問題には、生徒に責任はない、受験に悪影響が出ないようになんとか救済をと主張するのには、疑問を感じる。確かに生徒には責任はない。こうした苦難への対応にこそ、「自分で考え、解決する力」が必要である。それを正当に評価する仕組みがないのが問題なのである。そのことは、しかし、政治・文部科学省・教育委員会・学校当局こそが、生徒以上に試されていることである。もちろん、その責任は重い。

 今は非常事態であるから、特例による緊急の救済策などを行うのはよいとしても、「その必要な難儀を避け、手間を省くなら、初めから「無用」と必修科目の教科書さえ買わなかった高校と発想レベルは変わらない」ということも忘れてはならないと考える。「一律のペーパーテストに頼る」学力観が、狭すぎて、現場で行き詰まったからこそ、「ゆとり教育」への転換が図られてきたのであり、「学校の授業を30年以上前に戻せば解消される」ということはありえない。

 社説:学力低下 「ゆとり教育」を責める前に

 「教育再生」をうたう安倍晋三・新政権発足に合わせたように、学校教育現場の問題や矛盾が相次いで露呈している。中でも必修規定を無視して大学受験を最優先させる高校の実情は、改めて学力をめぐる論議を刺激するに違いない。

 ここでまた「ゆとり教育」がやり玉に挙がろうとしている。問題の高校の校長らは「授業時間が減ったので、入試に関係のない科目をする余裕はない」と弊害を言う。著書「美しい国へ」で「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力は、授業時間の増加でとりもどさなければならない」と記す首相はいっそう意を強くするだろう。

 だが、ゆとり教育排除を急ぐ前に、その精緻(せいち)な分析検証をすべきではないか。そもそも学力をどう見極めるのか。それも十分に論議されてきたとはいい難い。

 ゆとり教育の始まりは約30年前。経済成長や技術立国政策を背景に学習内容が膨れ、授業についていけない子が増える一方、知識詰め込みの弊害が指摘された。勉強嫌いを生み、また暗記中心で、自分で考えて判断し対処する力が育っていないという反省である。

 1977年の学習指導要領改訂で「ゆとりの時間」が登場し、今日まで曲折を経ながら教科学習量をスリムにする路線が続く。現在週5日制で、教科学習ではない「総合的な学習の時間」が小・中・高校の授業に組み込まれている。

 確かに各種の部分的調査は学力低下傾向を示している。だが、客観的で明快に割り切れる物差しはなかなかない。学力の定義もまちまちなうえ、判断の土台になるデータも少ないという事情もある。

 例えば、03年国際比較調査で15歳の読解力が前回の8位から14位に落ちた。これをどの程度深刻に受け止めるべきか。04年の学力調査では、新学習指導要領で学ぶ子がむしろ前の世代より高い成績を出した。どう解釈すればいいか。

 確かに、ゆとりが目覚ましい成果を上げたという実感はないし、若者の学習意欲や教養面で退行を感じる人は多いだろう。読み書き計算という最も基礎的な力が危うく、分数もできない大学生が珍しくないという指摘も深刻だ。

 ただこれが本当にゆとり教育のせいか。学校の授業を30年以上前に戻せば解消されるだろうか。

 実態を見すえよう。学力が落ちているとしても、授業を削減したことだけが原因とは思えない。価値観や少子化など社会環境、産業構造の変動といった多面的要素を踏まえ分析しないと、見えてこないものがあるのではないか。

 一律のペーパーテストに頼る調査は学力の一部しか見ない。ゆとり教育が目指した「自分で考え、解決する力」という学力はどこまでできたのか、できなかったのかも検証してほしい。それには、現場の先生たちの体験・意見集約や子供たちの追跡調査のような手間をかけた方法が必要だ。

 その必要な難儀を避け、手間を省くなら、初めから「無用」と必修科目の教科書さえ買わなかった高校と発想レベルは変わらない。(『毎日新聞』2006年10月29日) 

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高校での必修科目履修不足問題

 大新聞が、一斉に社説で、高校での必修科目履修不足問題を取り上げた。事件を起こした学校のルール違反を非難しているのは、すべて共通である

 『産経』「履修逃れ 公教育は受験だけではない」、『読売』「[高校「必修」逃れ]「受験偏重が招いたルール無視」」、『朝日』「必修漏れ 生徒にしわ寄せするな」、『東京』「高校履修漏れ ルール無視は教育でない」、『日経』「履修漏れで問われる学習指導要領」、『毎日』「架空履修 全国の実態を明らかにせよ!」。

 『毎日』は、「もっと巨視的な見方や提起もあってよい。/例えば、世界史を知らず、あるいは日本の歴史を語れず、自然と社会を地理学的にとらえる視点がない、そのような人材育成に高校教育が甘んじていていいのか。選択より必修を増やすべきではないか、と。一方、大学入試科目のあり方も問うべきではないか、とも」と、これを契機に教育改革論議につなげるべきだと主張する。「今回の問題で学校側は「生徒が望んだ」というが、そんな言い訳は通らない。生徒や親が誤ったとするなら、それを教え諭すのが教師だ。事を軽視し、イージーな選択でルールを曲げ、揚げ句は多くの生徒たちの卒業資格を危うくした学校側の責任は小さくない。/その一点をもってもこの問題は深刻に受け止めるべきで、転じて実りある改革の礎としたい」と主張する。

 『朝日』は、「必修科目をきちんと学んできた他の高校の生徒たちは、「不平等だ」と怒るに違いない。その気持ちはよくわかる」としながら、「必修漏れの生徒がこの時期に受験でしわ寄せを受けるのは忍びない」として、「必修科目を勉強しないまま卒業した生徒は過去にもたくさんいたはずだ。こうした生徒をどうするか。本来なら卒業できないのだが、いまさら蒸し返すのは現実的ではあるまい」と主張する。しかし、必修科目をきちんと受けた上で、受験した生徒たちは、どうなるのか? その生徒たちが、受験で不利を受けために試験に落ちた、どうしてくれると訴えたら? 「まじめに努力した者が報われる社会を目指す」というスローガンはどうなるのか?

  なるほど、『朝日』の言うように、すでに卒業してしまった者に、改めて、卒業を取り消すだの、必修科目を履修させるというのは、極めて難しいことだ。しかし、多くが進学校であったことを考えると、卒業生の多くが、大学に入っている可能性が高いのだから、なんらかの打つ手があるかもしれない。一応、それを具体的に考えてみる必要がある。その上で、どうしようもないという場合にだけ、特例を認めるということにすればいい。『朝日』は、あきらめが早すぎる。なるほど、これを契機に背景などについて考えてみるのはいいことだ。しかし、「大学は入試の科目と問題を指導要領に沿ったものにする。指導要領は共通に学ぶべき内容を厳選する。公立校に週5日制を義務づけている法令もゆるやかにする」というのは、明らかに二重基準であり、混乱の元である。大学入試科目を減らすなら、公立校は週5日制でよいし、それに私立を合わせるのがいい。全体に、『朝日』は、エリート主義的で、それは、公教育というあらゆる階級階層がいる場にふさわしくない。

 『読売』は、「受験科目以外の教科を学ぶ必要性を、生徒に説得することが教師の役目だったのではないだろうか。「受験に不要」の理屈がまかり通れば、体育や芸術、家庭科などの授業も意義を失うことになる」、『産経』は、「高校は予備校と違い、社会生活に必要な幅広い知識やマナーを身につけさせる公教育の場である。受験対策も大切だが学習指導要領に定められた必修科目はきちんと履修させてほしい」と述べ、高校教育の目的は、受験科目だけではなく、もっと幅広い知識やマナーの収得にあるという点を指摘している。

 ただ、両紙は、必修科目に日本史を入れるという最近の保守派の考えをにじませていて、この問題の本質ではないところに議論をそらせるようなやり方をしている。必修科目が世界史か日本史かなどということは関係なく、受験科目に合わせて必修科目を履修させなかったことが問題なのである。どんな教科が必修となっても、同じことが起きるということである。なんで関係ない話をついでのようにちょろっと入れるというような姑息なことをしてしまうのだろう。

 単純に考えると、すでに必修に当てるべき時間を受験科目の学習にあてていた高校の受験生とそうでない受験生の間には、倍の差がついていることになる。もちろん、試験の成績は、実際には、授業時間数に単純に比例するわけではないだろうが、それでも競争条件に不平等が生じたのは間違いない。すでに受験科目で進んでいる方にハンデをつけるか、まじめに必修科目をすべてこなした不利な側の受験生に特別な配慮をするなりして、入試の競争条件をできるだけ平等にならすことである。事件が発覚した以上、これらの進学校などでずるがあったことは、そうでないところの高校でも知ったのだから、その情報をもとに、新しい対策を立てることが可能である。全高校に特例として、これ以上の必修科目の履修を中止して、受験科目の授業に振りかえることを認めるか? いずれにしても、問題は深刻で、教育再生会議の議論にも影響が出ることは必至である。『産経』『読売』は、迅速に結論を出すように主張していたが、そうはいかなくなったようだ。

 

<履修不足>「逸脱」の手段さまざま 学校側なりふり構わず(『毎日新聞』 10月27日)

 全国各地の公私立の高校に広がっている履修単位不足問題。単純に卒業に必要な科目を教えなかっただけではなく、「世界史的に地理を学んでいた」などの理屈で異なる科目を一体化させて履修させたことにしたり、表向きの時間割と実際の授業の内容が異なっていたり、学校によりさまざまな手段で「逸脱」が行われていた。「受験優先」のためには、なりふり構わない学校側の姿勢が浮かび上がった。【佐藤敬一】
 履修不足は最初に発覚した地理歴史だけではなく、情報や保健など多くの科目にわたっている。このうち、地理歴史では必修の世界史1科目に加え、日本史、地理から1科目を選択する計2科目履修しなければならないが、1科目しか履修させていなかった。
 栃木県の県立宇都宮女子高では「世界史的に地理を学んでいた」として異なる2科目を一体化させて教えることで2科目とも履修とした。県立大田原女子高でも理系の3年生80人が「地理の授業で世界史もまとめて学んだ」として地理Bと世界史Aを履修したことにしていた。
 2科目を合わせながらも内容が1科目だけに偏っていた学校もある。
 長野県立伊那弥生ケ丘高では、全員が1年時に地理を、2年時には世界史を履修した形になっている。しかし、2年時には(1)世界史だけを学ぶクラス(2)日本史と世界史を学ぶクラスに分かれ、(2)については事実上は日本史の授業が行われていたという。
 宮崎県立宮崎大宮高でも、社会科の授業で受験に必要な科目に絞った内容の授業が行われていた。児玉淳郎教頭は「受験を考えた時に絶対的に授業時間が不足しており、偏った内容の授業をしてしまった」と説明した。
 掲げた「看板」と内容が違っていたケースも多いとみられる。福岡県立鞍手高では、時間割では必修科目である世界史Aとなっていながらも、実際には地理Bの授業を行っていたという。
 静岡県立下田北高では、昨年度初めに教育課程表の「地理歴史」部分に2科目と書いて県教委に提出したが、実際は1科目しか履修させずに卒業させていた。村野好郎教頭は「受験科目を優先して指導したところ、もう一つの科目にいく前に卒業がきてしまった」と説明する。

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教育基本法改正を急ぐ必要などない

  26日の『読売新聞』『産経新聞』の社説は、そろって、教育基本法改正問題について書いている。どちらも、自民党と民主党が修正協議をした上で、妥協して、早く、法案を成立させろというものである。『読売』の方は、政争の具にしないで、早期成立を目指すよう促すというもので、基本法改正の意味や内容にはふれていない。

 『産経』の方は、現行の教育基本法が、GHQ(連合国軍総司令部)の圧力や干渉を受けたという押しつけ法であるという成立の経緯の問題、そして、「個人の尊厳」や「人格の完成」など世界共通の教育理念をうたっているが、肝心な日本人としてのありようがほとんど書かれていない」という教育理念に民族性がないという点を問題視している。

 その上、「学校でのいじめや家庭での幼児虐待など、荒廃する教育現場を根本から再生するには、今国会での成立が急がれる」と、まるで、これさえ成立すれば、これらの教育現場の諸問題が解決するように書いている。教育基本法は、魔法の杖と言わんばかりだ。愛国主義者の『読売新聞』『産経新聞』には、聖人君子ばかりがそろっているのか?!

 今、公立高校での必修科目不履修問題が発覚し、大問題になっている。どうやら2006年度からの新学習指導要領導入が契機になったらしい。大学入試センター試験でも、受験科目が減少しているが、もともと私立大学は、3科目受験が多いわけで、それに国公立大学が合わせていったということかもしれない。いずれにしても、これには、教育分野での競争の激化が影響していることは間違いない。下村官房副長官は、さらなる競争の導入を主張しているが。

 しかし、こうして、受験用の授業時間が倍になっているところとそうでないところでは、機会不平等が生じているわけで、競争条件が不等なわけだから、公正な競争試験にならない。問題は、深刻である。入試で、一方は有利になり、他方は不利になるからである。そればかりではない。そもそも教育が何のためにあるのかが、わからなくなってしまう。それは、「人格の完成」という教育基本法の理念にも反することである。ずるをしても勝てばよいということを、学校自らが実際行動で、教育してしまっているからである。こうして、不道徳を自ら教育してしまったわけだ。これでは、ホリエモンみたいな人間が次々と生まれてくることになって当然だ。しかも、こうして学校自体が、校長を先頭に、ずるく規範を破っても、結果を出して、勝ちさえすればよいのだという考えを広めていたのは、進学校のエリート候補生たちになのである。この人たちが、自分たちは、学校で、ルールに違反しても、結果さえ良ければいいということを実地で学んだとして、それをまねしたら、どうなるか? 第二第三のホリエモンになるだろう。目先の受験競争・学校間競争に目を奪われて、子どもたちの将来や教育のあり方や人格形成や社会のことなどについて、深く考えなかったこれらの学校と権限が強化されている校長をはじめとする学校管理職、それを見抜けなかった教育委員会、文部科学省の責任は重い。

 それに対して、「ダメ教師はやめていただく」と言って、教員統制強化や競争の導入、公立の「私学化」などというあり得ない夢話でお茶を濁し、何事か立派なことを言っているかのように錯覚している下村官房副長官のような人物は、足下をすくわれることになるだろう。何度も繰り返してきたように、成果主義に対する反省が始まっていて、サッカーも個人同士を競争させるジーコ型が日本チームには合わないので、チーム・プレイ重視のオシム・ジャパンに変わったのである。なんとも時代に遅れすぎている下村官房副長官であることよ!

 よっぽど良い改革でないかぎり、やるべきではないのだ。現行の教育基本法は、与党・民主党の改正案よりも、よっぽど良くできている。それを生かし切るのが先である。間違った改革は、すべきではない。与党案・民主党案どちらに変わっても、「学校でのいじめや家庭での幼児虐待など、荒廃する教育現場」が簡単に解決することはありえない。しかし、家庭での幼児虐待が、教育現場の荒廃とどう関連しているのか、この文章ではわからないよ『産経』さん!

 

【主張】教育基本法改正 民主は修正協議に応じよ 

衆院教育基本法特別委員会が再開され、政府の改正案と野党の民主党案について提案理由の説明が行われた。本格的な論戦は30日から始まるが、不可解なのは民主党までが政府案の成立に徹底抗戦の姿勢を示していることだ。

 政府案は自民党と公明党の与党合意に基づき、「我が国と郷土を愛する態度」などの育成をうたい、民主党案は「日本を愛する心」「宗教的感性」の涵養(かんよう)を盛り込んでいる。

  愛国心や宗教的情操教育では民主党案の方が踏み込んだ表現をしている半面、民主党の教育行政に関する規定には日教組などが介入する余地を与えかねないとの 批判もある。そうした違いはあるものの、両案は総じて共通点が多い。双方が知恵を出し合い、より良い案にすることは十分可能である。

 同じ野党でも、社民党と共産党は対案を持たず、教育基本法の改正そのものに絶対反対の立場だ。対案を出している民主党が、これらの少数野党と歩調を合わせるのは、建設的な野党として賢明な選択とはいえまい。

 過去に、与党と民主党の修正協議が実を結んだ例として、平成15年に成立した有事関連3法などがある。教育基本法は憲法と並ぶ重要な国の根本法規であるだけに、その改正案はできるだけ多くの国会議員の賛成を得て成立することが望ましい。

  野党4党は時間切れに追い込む作戦のようだ。しかし、先の通常国会で、すでに50時間の審議が行われている。与党は臨時国会であと30時間の審議を行い、 11月上旬には衆院を通過させたい意向だ。政府案は3年に及ぶ与党協議会での議論を踏まえ、民主党案も2年近い同党教育基本問題調査会で検討を重ねた。こ れ以上、いたずらに時間を費やすべきではない。

 現行の教育基本法は終戦後の昭和22年3月、GHQ(連合国軍総司令部)の圧力や干渉を受けながら成立した。「個人の尊厳」や「人格の完成」など世界共通の教育理念をうたっているが、肝心な日本人としてのありようがほとんど書かれていない。

 安倍内閣は、教育基本法改正を臨時国会の最重要課題としている。学校でのいじめや家庭での幼児虐待など、荒廃する教育現場を根本から再生するには、今国会での成立が急がれる。(10月26日『産経新聞』)

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教育再生論議その他について

 10月25日、教育再生会議の第2回会合が行われた。そこで、3つの分科会が設けられることが決まった。その一つが、教員免許更新制度である。24日の『毎日新聞』にこの問題についての解説があった。それによれば、教員免許更新制度ができると、毎年10万人もの現職教師が講習を受けることになるという。
 
 一方では、学力向上のために授業時間を増やすと山谷えり子首相補佐官は述べている。あれもこれもと課題を詰め込むと、人間の消耗が激しくなって、かえって仕事に支障をきたすというのは、経験則で明らかである。すでに今も、教員の仕事は増え続けていて、それをまじめにこなそうとしてうつ病にかかって自殺した新任女性教師の家族が過労死認定を求めて提訴したという記事があったが、これではやる気があり、まじめに仕事に取り組もうとしている「優良な教師」をみすみす失っていくばかりではないか?
 
 官邸サイドでは、中教審答申が手ぬるいとして、免許更新期間の短縮などを求めているという。自民党の中川政調会長は、日教組の現場排除という狙いを露骨に示し、日教組を下品だと悪口を述べたが、不倫疑惑男がどの口で、他人を下品よばわりできるのか! 恥知らずもいいところだ。
 
 すでに、指導力不足教員の認定と研修の制度があり、それに加えて新制度を設けるのは、無駄というものである。中川政調会長は、教員間に給与面での格差を設けて競争を煽るということも述べている。そんなことは、主任制導入などですでに行ってきたことの拡充であるが、成果主義導入では、成果よりも問題の方が多く出て、その見直しが進められているのが実態だ。
 
 安倍教育再生策を民間で支えるという日本教育再生機構の渡辺拓殖大学学長は、ありふれた決まり文句である日本語の乱れを教育上の問題としているが、それは明治維新以降の近代化の過程で、共同体を壊し続けてきた結果であって、それを言うなら、明治維新以降の近代化を反省することが必要である。氏は、西田幾多郎の言語論を読んでみたらよい。
 
 日本語は、日常用法において、共同体を前提とした共同体的な言語である。それは、日本語だけではなく、英語だってそうである。会話相手との関係に応じて、日常では省略や慣用表現を使うのであり、文法規則通りに話しているわけではない。構造主義だの言語学というのは、そういう日常用法を無視して、抽象化した言語を取り扱っているのであり、それは理論構成物なのである。つまり、それは学の対象として構成された言語なのである。日常言語はそれとは違うのだ。言わなくてもお互いにわかっていることについては省略する。それから、「あれ」とか「それ」とかいう表現も、日常的なコミュニケーションでは、十分に意味をなすのである。

 教育再生会議のメンバーを見て、保守主義者の林道義氏は、ホームページで、14日に、「我が目を疑った」という。「いったい誰がこんな馬鹿げた人選を行なったのか」。というのは、まず教育の素人ばかりであり、つぎに左翼思想の持ち主が多く、最後にジェンダー・フリー派が多いからであるという。
 
 左翼思想の持ち主としては、「義家弘介氏。もとヤンキーで売り出しているが、思想は共産党と同じ。自衛隊のイラク派遣反対、国旗国歌強制反対、憲法9条を守れといった主張を、『世界』『新婦人の会』『しんぶん赤旗』など共産党系メディアに多く発表している。義家氏の他にも、共産党系エッセイストの海老名香葉子氏、日教組の元組合員の陰山英男立命館小副校長、ゆとり教育導入時の文部事務次官の小野元之日本学術振興会理事長など」。
 
 ジェンダー・フリー派としては、「フェミニストの白石真澄東洋大教授、会社あげて「ジェンダーフリー」を実践し「男性の育児休暇取得」を積極的に推進している資生堂の池田守男相談役」。
 
 氏は、保守派は一人もいないと言っていいという。これはどうしたことだろう。日本教育再生機構は、本格的な保守の安倍政権の教育再生策に強い期待を寄せ、山谷えり子首相補佐官の誕生を喜んでいる。ところが、この保守派が期待する二人が選んだ教育再生会議のメンバーが、左翼思想の持ち主やフェミニストばかりだとは! 教育再生会議はたんなる人気取りの手段にすぎないのか? これは、林氏がフェミニズムだの左翼思想だのと呼んでいるものは、実際には、共産主義思想の現れではなく、ブルジョア思想にすぎない証拠である。現に、トヨタ社長もJR東海社長も、この人選になんの文句も言わないで、「左翼」「フェミニスト」と仲良く同席しているではないか。 

 林氏は、「こんなにも疑問の多い人物で構成されている「会議」では、先が思いやられる。安倍新政権の教育改革は、スタート以前につまずいているのではないか」と批判する。林道義氏の保守主義と日本教育再生機構の保守主義は、これほどまでに違うのである。
 
 結局のところ、教育再生会議での教員免許更新制度新設は、産業界の教育への要望の実現が目的であり、かれらの希望通りの教育現場にしたいという願望の現れである。義務教育の公教育では、あらゆる階級階層が入るので、経済界の思うとおりにはなかなかいかなったのである。教員の抵抗を排して、教員をその目的の実現のための従順な道具に変えたえくても、義務教育・公教育においては、ブルジョアジーは少数派だし、非ブルジョア階級階層・非エリートの子どもが圧倒的に多いわけだから、この多数派の側にたつ教員はなくならない。その点で、高校で学習指導要領に違反して、受験に関係ない選択科目を受けさせなかったという事件が次々と進学校で発覚しているが、それは、少数派エリートを特別扱いし特権を認めた行為で、そうではない生徒に対して不平等な扱いをした行為である。それに対して、政府は、当然、規範意識の低い行為と非難しなければならないだろう。近年の校長権限強化の流れから言えば、政府は、校長の責任を強く問わなければならないだろう。権限の拡大に応じて、責任の重さも増すのが当然だから。そういえば、免許更新講習は、校長・教頭などの管理職や教育委員、あるいは文部科学省の役人も対象となるのだろうか?

 いずれにしても、この制度にはいろいろと問題がある。それ以前に、教育の国家管理を強化する狙いの教育基本法改悪に向けた国会審議が再開されており、それを阻止する必要がある。現場が息苦しくなっては、教育上の諸問題解決にとってよくない。

安倍教育改革ポイント解説
安倍首相「ダメ教師には辞めていただく」(著書「美しい国へ」から)

 安倍晋三首相は「教員の質の向上」を掲げて、終身有効の教員免許に期限を設けようと、教員免許の更新制度の導入を打ち出した。
 文部科学省の諮問機関である中央教育審議会(中教審)はすでに今年7月、同制度導入を答申している。中教審答申は、免許の有効期限を10年間とし、期限が切れる前の2年間に講習を受けて修了認定されれば更新されるというもの。導入には教員免許法の改正が必要となる。幼稚園から高校まで約100万人いる現職教員も対象で、毎年10万人ずつ10年間かけて講習を受けさせる構想だ。
 ただ、情報技術(IT)社会への対応など「教員の資質、能力の刷新」を目的に導入を目指す文科省に対し、「ダメ教員」排除に主眼のある安倍首相や首相官邸は「これ(中教審答申)では本当の改革はできない。だから教育再生会議がある」として、免許期限の短縮などさらなる厳格化を求めている。18日にスタートした政府の教育再生会議の議論を経て、中教審答申を抜本的に見直し、来年の通常国会に教員免許法改正案などを提出したい考えだ。
 実は官邸が目指す「ダメ教員」排除の仕組みは、地方公務員法などに基づき各都道府県で同様の制度がある。文科省は教員の不祥事を受け、00年度から指導力不足教員の認定と研修を指導。05年度は506人を認定し、116人が研修を受けて現場復帰した。一方、103人は依願退職し、6人は職務が遂行できないと認定される「分限免職」で教壇を去った。
 このため文科省からは、官邸の構想に「二重構造につながる」「屋上屋を架することになりかねない」と懸念も出ている。【竹島一登】(10月24日『毎日新聞』) 

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日本教育機構正式発足

 10月21日、日本教育再生機構が正式発足した。顔ぶれは、「日本会議」系などの保守派の中でも、自民党右派と結びついた親米だし、妙なへりくつばかりを並べている者だの、幽霊信者たちである。翌日に第1回の「教育再生 タウンミーティング」なるものを都内で開催したが、鳴り物入りで、大同団結を目指したわりには、700人の参加者しかなかった。そこに、教育担当の首相補佐官の山谷えり子参議院議員が祝賀メッセージを寄せている。その中身は、ほとんど、安倍総理の所信表明演説の教育の部分と同じである。この機構が、そもそも安倍総理の誕生に期待し、その民間支持組織たることを目指していることから、当然である。山谷首相補佐官は、安倍総理の分身として選ばれたのだから。

 そして、それは当然、安倍総理の教育再生策が、学力主義か規範主義かという点で、どっちつかずであることを反映している。しかし、山谷補佐官の方は、むしろ学力主義の方に傾いていて、「高い学力と規範意識を身につける機会を保障するために、公教育を再生します。学力の向上については、必要な授業時間数を十分に確保し、基礎学力強化プログラムを推進いたします」と述べている。学力向上のために授業時間数を増やすとなれば、規範意識を身につける機会は減る。偏差値と規範意識には比例関係はない。要するに、ただの混乱だ。「ゆとり教育」もだめなら「学力主義」もだめというのは目に見えている。規範意識を計画的意識的に教育しなければならなくなったということは、それだけ、地域や家族が壊れてきていることを意味している。それは、教育だけでは解決がつかないのである。

 それに対して、まともな解決策を述べている者が、少なくとも、教育再生機構のホームページ内の文書を見る限りは一人もいない。ひどいのは、どうせこんなことは実現困難だと認めつつ、自説を述べている小浜逸郎という人だ。「こりゃだめだ!」という文章である。渡辺昇一上智大教授は、得意のコミンテルン陰謀史観で、問題を他人のせいにするというサムライ魂に反することを平然とやっている。二宮清純氏は、サムライとは勝ち負けを超えた境地に生きる者なのに、ワールドカップでの負けにこだわって、「サムライを!」と書いている。

 渡辺拓殖大学長は、日本語は、もともと共同体言語であり、だからこそ主語抜きで通じるというのに、共同体抜きに、「はるか遠い過去から現在にいたるまで、日本の無数の民草が営んできた「生」の現在における意味の集約が、いま私どもが毎日使っている日本語である」などと言い出す始末。共同体をつくることが、日本語を生かすことなのだ。だから、「真の改革者とは、純正な保守主義者でなければならないのである」というのは間違いである。間違った改革は、死んでもやってはならないのである。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の小林正会長は、「子どもたちに「誇りと希望」を与えるべきである」というが、子どもたちがそうなるためには、子どもたちの孤立状態を解消することだ。歴史教科書の記述は、それとは無関係だ。屋山太郎氏は、「現場の慣習や惰性を一切捨て去り、新しい発想で教育を見直して欲しい」という「革新」主義者である。慣習や自生的秩序を強調する西部氏とは同じ保守でも水と油である。まさに、屋山氏はアメリカ流の保守主義で、進歩主義者なのである。しかし、この点は、「学校4・4・4制」を主張する小浜氏も同じである。保守派が、改革論をそれぞれぶちあげるというのは、どうしたことか? 彼らは、混乱し、どうにかしてしまったのだろう。これでは保守派のイメージが台無しじゃないか!

 「新しい歴史教科書をつくる会」が内紛騒ぎをきっかけに支持を失いつつあるように、保守派の著作物も売れなくなっている。この「タウンミーティング」もわずか700人。また、「日本会議」のメンバーの新興宗教団体のいくつかが内紛でがたがたしている。後は、安倍政権にすり寄るしかないのか? いやらしい話だ。しかし、今後、安倍政権の「不道徳」が発覚するのは避けられないだろう。「道徳・道徳」と大声で叫ぶ者が、もっとも不道徳であるということは、これまでの新興宗教団体の教祖の犯罪行為の発覚でも、政治家の腐敗やスキャンダル事件でも繰り返しみてきたことである。安倍政権からは、そんな腐敗臭が臭っているのではないか? 

 山谷えり子氏(内閣総理大臣補佐官)より会場に寄せられた祝賀メッセージ

 教育再生民間タウンミーティングin東京が、教育行政にかかわる皆様や教育改革に高いご関心をよせていただいている多くの皆様のご参加のもと、盛大に開催されますことを心よりお慶び申し上げます。
  「美しい国、日本」を創るために、次世代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。子どものモラルや学ぶ意欲が低下している昨今、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されております。
  教育の真の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることでございます。
  家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生の船はすでに出航いたしました。
  多くの国民の期待をうけ、今般内閣に発足した「教育再生会議」では、すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するために、公教育を再生します。学力の向上については、必要な授業時間数を十分に確保し、基礎学力強化プログラムを推進いたします。
  また、教員の質の向上に向け、教員免許の更新制度の導入や、学校同士が切磋琢磨して、質の高い教育を提供できるよう、外部評価を導入いたします。
 航海は太陽の光がふり注ぐ穏やかな日々だけではございません。嵐の日も暗黒の海に臨まなくてはならない時もあります。政府もしっかりと舵をにぎり、クルー全員が一丸となり目的地まで進んでまいりますので、国民とともに皆様のお力添えを賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
内閣総理大臣補佐官・参議院議員
山谷えり子

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10月23日三つの教育関連記事

   安倍政権が、教育再生を優先課題に掲げたこともあって、ここのところ教育をめぐる報道が増えているように感じられる。

 北海道の件は、先日の「日の丸・君が代」強制を違憲とした東京地裁判決の線で、道教育委員会の教員への処分を「懲戒処分の乱用」として取り消したというものである。全国的に卒入学式での「日の丸・君が代」強制が、教職員の処分を伴って、行われており、教育委員会は、その先頭であることが多いだけに、この道人事委員会の判断は、その流れに抗するものとなった。
 
 自民党の中川昭一政調会長は毎日新聞のインタビューで、「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」としたうえで「下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許はく奪だ」と語ったという。デモは、憲法に認められた権利の当然の行使で、民主主義の重要な要素である。デモは、騒音をまき散らすものでも、下品なやり方ではない。自民党やその支持団体だって、デモをしている。日教組のデモだけが、特に騒音で下品であるというのは、悪質なデマである。
 
 この発言は、安倍政権の教育再生の狙いをあけすけに示しているといえよう。教育基本法改定に反対する悪質で下品なデモを行うような日教組の教員の免許を、免許更新制度で剥奪できるようにするというのである。政治的な発言だ。25日にもはじまろうとしている教育基本法改定論議に向けて、反対派をけんせいしたものであろうという。日教組をはじめとする教員などの教育基本法改悪反対運動が、盛り上がってきていることに、危機感を強めているのだろう。新聞では、大阪と神奈川での補選で自民党が2連勝したことで、安倍政権の国会運営が有利になったという見方が多い。しかし、この低投票率では、組織選挙すなわち公明党・創価学会の組織力がものをいう展開になったわけで、むしろ公明党の存在価値が高まったといえよう。安倍政権は、ますます公明党=創価学会の力に屈するようになろう。
 
 最後の記事は、「いじめ」統計が、法務省と文部科学省で違っていたというもので、調査の恣意性をあらわすものである。法務省調べでは、「いじめ」は増加しているのに、文部科学省調べでは、「いじめ」による自殺はゼロであった。法務省調査では、「いじめ」は昨年に急増している。生徒による教師への暴力事件も昨年急増している。このような急激な変化の理由はわかっていない。

 <君が代>卒業式で斉唱妨害 教諭の処分取り消し 道人事委

 01年3月に行われた北海道の倶知安町立倶知安中学校の卒業式で、君が代斉唱を妨害したとして道教委から訓告処分を受けた男性教諭(49)が、道人事委員会に処分の取り消しを求めた請求で、道人事委員会は「懲戒処分の乱用に当たる」として、処分を取り消す裁決を出した。東京地裁は9月、日の丸・君が代を義務付けた東京都教委の通達は憲法が認める思想・信条の自由を侵す」と違憲とした判決が出たばかりだが、弁護団によると、都道府県の人事委員会で東京地裁と同じ判断によって処分を取り消したのは全国初という。
 裁決では、日の丸の掲揚・君が代の斉唱の趣旨や目的は憲法や教育基本法に反するものではないとしながらも、「強制することは教職員の思想、良心への不当な侵害として許されない」として、憲法に違反すると指摘。さらに、校長が君が代斉唱の根拠とする、学習指導要領については、「大綱的な基準とはいい難く、法的拘束力は否定せざるを得ない」としている。
 同中では、卒業式の式次第には国歌斉唱がなく、卒業式の事前練習でも君が代の斉唱を行わなかった。しかし、当日になって、校長が一方的に君が代のカセットテープをレコーダーから流した。このため、教諭はテープを抜き取って斉唱を妨害した。その後、校歌斉唱に移ったが、大きな混乱もなく式は終了した。【千々部一好】
 採決について、道教委の平山和則・企画総務部長は「懲戒処分が相当とする当方の主張が認められかったのは誠に遺憾。裁決書の内容を検討して今後の対応を判断したい」とコメントした。
 道人事委の規約によると、一定の理由があれば、人事委に再審請求することはできる。同部訟務グループによると、採決が不服であっても道教委側から訴訟を提起することはできない。
 請求者の弁護団長である後藤徹弁護士は「(採決は)憲法が定めた思想・信条の自由から、日の丸・君が代の強制は許されないとしている。子供たちの教育面にも配慮し、評価できる」と話した。(毎日新聞)

 中川政調会長:「日教組の一部、免許はく奪だ」と批判

 自民党の中川昭一政調会長は毎日新聞のインタビューで、教員免許の更新制度に関連して「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」としたうえで「下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許はく奪だ」と述べ、教員の組合活動を強く批判した。

 今国会の最重要課題である教育基本法改正案の審議が25日にも再開することを念頭に、成立阻止を掲げる野党や日教組をけん制したものとみられる。こうした姿勢に対して、野党側は「教育を政争の具にしようとしている」(民主党の松本剛明政調会長)と反発しており、激しい論戦が展開されそうだ。(毎日新聞)

 いじめ:法務省調査では「増加」 文科省とは逆の結果に

 「学校のいじめは減少している」という文部科学省の「いじめ」に関する調査に対し、「実態を反映していない」との指摘が出ているが、法務省の調査では増加傾向にある。同省の調査によると、学校でのいじめは05年には前年より2割以上増えており、文科省調査への疑問の声は大きくなりそうだ。また、各地の弁護士会や自治体がいじめに関する相談機関を設置しており、「ぜひ相談を」と呼び掛けている。

 法務省の調査によると、学校内のいじめについて「学校側が不適切な対応をした」とする05年の人権侵犯事件数は716件で、04年に比べて22.6%も増加。01年は481件▽02年524件▽03年542件▽04年584件と増え続けている。いじめも執ようで、陰湿な事例が多くなっているという。

 法務省調査は、各地の法務局など人権擁護機関が、「いじめで人権を侵害された」と相談した当事者の申告などに基づいている。

 一方、文科省は、学校や自治体教委の報告を積み重ねる形だ。学校側がいじめを見落としたり黙認したりすれば、統計には反映されない。また、いじめ根絶を目指す自治体が発生件数を具体的な目標として数値化したため、「実態を目標に合わせて報告する例もあるのでは」との指摘もある。

 増加するいじめを重く見た法務省は、今年度からは相談ごとを自由に書いて法務局の人権擁護担当に無料で郵送できる「SOSミニレター」を約70万枚作成し、さらに18万枚増刷する。全国の小学5、6年と中学生に配布を進めている。【吉永磨美】(毎日新聞) 

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「教員免許更新制、見直しを・下村官房副長官」の記事に寄せて

 こんな記事があった。

  安倍首相肝いりの「教育再生会議」が初会合を開いたばかりだが、早くも、その目玉の一つであった政策の撤回論が、政府側から出てきたというものである。もともと、教員免許更新制には無理がある。免許だけとって、教職に就いていない人々まで、講習するのは大変だし、免許更新講習機関を新たにつくらねばならず、さらに講習期間中は、仕事を休まねばならないなど、負担も大変なのである。

 下村官房副長官は、それよりも、給与待遇面で格差をつけて、教員を競争させる方がよいという考えのようである。しかし、教育の成果を客観的に数値化することは難しい。一般に、知識量をテストではかるという学力を基準とする評価がなされている。埼玉県などでは、「愛国心」という心を測って数値化するというどう考えても不条理な評価がなされるなど、数値的評価になじまないものまで、通信簿で数値にして評価するということもなされていた。しかし、それをはかる合理的な尺度がないと、教員の能力や実績をはかるといってもむずかしい。そのことは、成果主義による評価でも、その人物個人に属する成果なのか、チームワークや共同の蓄積がどれだけその成果に貢献したかなどの区別は実際問題として難しく、成果主義が挫折したことと同じである。したがって、企業自身が、成果主義に批判的になっている。

 そんなことも知らないのか、下村官房副長官は、失敗したやり方を、教員対策として、提示しているのである。教員免許制を新設より前に、既存の研修制度の見直しをするのが現実的である。ペーパー教員まで対象にした免許更新制度は、その大部分が、教職に就く可能性が極めて低いのだから、大変なムダである。やっと気付いたかという感じでもあり、この制度導入を提言した中教審は、なんて下らない提言を出したのかとあきれる話でもある。

 教員免許更新制、中教審答申見直しを・下村官房副長官

 下村博文官房副長官は22日のフジテレビ番組で、中央教育審議会(中教審)が7月に答申した「10年ごとの講習修了」を要件とする教員免許更新制について「これでは本当の改革はできない」と指摘、教育再生会議で見直しの議論を進める考えを示した。

 同時に「いい先生は給与を含め待遇をもっとアップさせる。メリハリを付けた教員対策をし(教員の)努力が報われるシステムは必要だ」と強調、教員の能力や実績を反映した給与制度の創設も必要との認識を示した。〔共同〕 (10月22日『日経新聞』)

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10月1日『産経新聞』社説について

10月1日『産経新聞』社説は、なぜか気負っているというか、熱くなっている。教育再生を官邸主導でスピードアップしろというのだが、理由がよくわからない。

 安倍新内閣は、確かに「教育再生」を重要課題と位置づけているが、それにしては、具体性を欠くものであることは、所信表明の該当部分を読めば一目瞭然である。社説は、官邸での担当が保守色が強い山谷えり子首相補佐官がになり、「教育再生会議」が今月上旬に発足し、年明けにも中間報告が出ることをもって、その中身もわからないうちから、これをどう実行するかだと、実行手段を問題にする。まだ、担当と「教育再生会議」をつくるということが決まっただけなのに、中教審と文部科学省の抵抗があるだろうと予想している。

 社説は、それは、中教審と文部科学省が、戦後教育のしがらみから抜けきっていないからだという。それは当然、「脱戦後」を掲げる安倍政権の教育改革路線と対立することになるだろうというのだ。教育再生会議の人選は、時代の変化についていけず、実社会の常識と遊離した教育現場を抱える教育界よりも、戦後教育にとらわれない民間の発言力を持った有識者を中心にすべきだという。社説は、戦後教育を否定するということを人選の基準にすべきだという。『産経』はl戦後教育否定の「戦後教育暗黒史観」をイデオロギーとしてきたが、それが、時代の趨勢かといえば、そうではない。それはいみじくも安倍総理の所信表明演説が、戦後教育の価値観を曖昧な形であるが、踏襲していることでも示されている。愛国心教育ということも入れていない。

 『産経』としては、官邸がトップダウンの形で、首相のリーダーシップを山谷補佐官が補佐することで、政府の機関や官僚の抵抗を排除して、速やかに、教育再生策がはかれると期待しているのだろう。しかし、この官邸機能強化策は、始まったばかりで、どうなるかはわからないのである。山谷補佐官が、官僚とわたりあう力がどれだけあるのかも未知数だ。組閣人事などを見ると、安倍総理は、調整型の人物であるように思われる。組閣人事のほとんどを事前に森派閥会長と相談して決めたという報道があるのだ。
 
 そして、社説は、「安倍首相は「ダメ教師は辞めていただく」とも言っており、より抜本的でスピーディーな改革を求めている」と安倍総理の発言を、抜本的でスピーディーな改革を求めていると斟酌している。安倍総理のこの言葉は、いろいろな問題を含んだ発言で、スト権付与など公務員の労働権をどうするかという問題と関わることである。それに、これだけだとダメかどうかの基準がないから、ただのレッテル張りの悪口である。もっときちんとした発言をするように求めるべきところだ。
 
 社説は、「日本に生まれた子供たちが日本の歴史と文化に誇りをもてるような公教育の再生が急務である」という。これが最も言いたかったことかもしれない。『産経』が言う「日本の歴史と文化」の中身が、浅くて、レベルが低く、いい加減なのである。ひとつも満足できないのだ。どうしてそうなるのか? なぜ? という疑問が一杯出てくるのである。東京裁判を否定しながら、日米同盟強化を強調するのはなぜか? 「日本の歴史と文化」に誇りを持てと言いながら、都市開発を推進するのはなぜか? 「日本の歴史と文化」を壊す米軍基地のための地域破壊を住民に我慢しろと言うのはなぜか? 『産経』は、「日本の歴史と文化」など本音ではまったく守る気がないとしか思えない。
 
  『産経』は、明らかにエセ伝統主義者である。保守するためには、変えなければならないなどという詭弁が、保守派のお気に入りのスローガンになっているようだが、これは決まり文句以上のものではない。変えるというのは、革新であって、どうしたって保守ではない。なんでかっこうをつけて、訳のわからないスローガンで、人々をだまそうとするのか? 「日本の歴史や伝統」を守るためには、戦後教育がじゃまだと考え、それを否定して、それを「日本の歴史や伝統」から排除するためだ。しかし、戦後教育も「日本の歴史や伝統」の一部なのである。

 『産経』は、戦後教育という「日本の歴史や伝統」の一部については、保守すべきではなく、否定して、「改革」すべきだというのである。それは、戦前の軍国主義教育が、戦後教育によって、保守すべきではなく、否定され「改革」されるべきだとされてきたことを、「悪」として否定したいからである。その戦後教育の基本的価値こそ「平和」であって、与党の教育基本法案で、概念そのものが消えたものである。それは、戦争を政治の延長として、政治の実現手段として使いたい勢力の邪魔になるものだからだ。外交活動のために、多国籍軍に参加したり、PKOなどに自衛隊を参加させるための障害になると考えているのである。そうすると、やはり戦死があり得ることになる。そうなった場合、慰霊の問題が避けられないので、靖国神社の扱いや意義が問題になっているのである。これから起こりうる新たな戦没者の扱いの問題が政治課題として浮上しているのである。過去の戦争認識がどうとかいうこともあるが、むしろ、政治課題としては、ちょうどイラクに自衛隊が駐留していたので、新たな戦没者が出たらどうするかということが、政治的焦点だったのである。
 
 つまりは、政治が、靖国問題で、ナショナリズムを利用したわけである。だから、麻生は、靖国国家護持を持ち出したのだろう。無宗教の新国立慰霊所の話も、過去の戦没者の慰霊をどうするかというだけではなく、これからの戦没者をどう慰霊するかということを含んでいるのである。日米一体化が進み、どこかで、米軍指揮下の多国籍軍にイギリスのように参加するということにでもなれば、どうするか? 決まっていないのだ。
 
 いずれにせよ、戦後教育を真っ黒に描く『産経』のイデオロギーが、時代のイデオロギーになったということはまったくない。だから、現状認識が誤っている。その誤りの上に、教育再生論を構築しても、うまくいくわけがない。とはいえ、『産経』とイデオロギーの近い安倍総理が誕生したので、これがチャンスと思ったのかもしれない。混乱と改革は違う。保守なら、戦後から何を学び、保守するかということも考えなければならない。保守なのか、それとも戦後全否定の革新なのか? 言葉遊びを続ければ、読者の信頼を失うばかりだろう。
 

■【主張】教育再生 官邸主導で速度を上げよ

 安倍新内閣は「教育再生」を「憲法改正」と並ぶ大きな目標に掲げている。官邸では、教育再生を山谷えり子首相補佐官が担当する。今月上旬に「教育再生会議」が発足し、年明けにも中間報告が出される。問題は、これをどう実行に移していくかだ。

 重要な教育施策はこれまで、文部科学相の諮問機関である中央教育審議会で検討され、その答申に基づいて文部科学省が決定してきた。教育再生会議の方針に対し、中教審や文科省からの抵抗が予想される。

 中教審は最近、国旗・国歌の指導に抵抗してきた日教組出身者が正委員から外れ、構成にバランスを取り戻しつつあるが、戦後教育のしがらみから抜け切れない面もある。「脱戦後」を目指す安倍内閣の下では、新たな国づくりに向けた教育改革の大きな方向性を教育再生会議が示すべきだ。

 そのためには、教育再生会議の人選が重要である。従来の教育界にも人材はいようが、時代の変化についていけず、実社会の常識と遊離した教育現場も少なくない。戦後教育にとらわれない民間の発言力をもった有識者を中心にした人選が望まれる。

 6年前の平成12年3月、当時の小渕恵三首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が発足した。ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈氏を座長に、作家の曽野綾子氏、劇団四季代表の浅利慶太氏らが委員に選ばれた。8カ月後、子供たちの奉仕活動や教育基本法の見直しを求める最終報告が出された。

 その後、中教審で、教育基本法については、「国を愛する心」の導入などを求める答申が出されたが、曽野氏が強く主張した奉仕活動はいまなお、学校で徹底されていない。

 安倍首相は自民党総裁選で、大学9月入学制の導入とそれまで半年間のボランティア活動の必要性を訴えた。再び、論議になることは必至だ。

 安倍首相が提唱する教育改革には、すでに中教審などで方向が示されているものもある。教員免許更新制や学校評価制などだ。安倍首相は「ダメ教師は辞めていただく」とも言っており、より抜本的でスピーディーな改革を求めている。日本に生まれた子供たちが日本の歴史と文化に誇りをもてるような公教育の再生が急務である。

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安倍総理「所信表明」の教育対策について

 9月29日の国会での所信表明演説で、安倍総理は、教育問題について、次のように語った。

  「私が目指す「美しい国、日本」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。

 教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。吉田松陰は、わずか3年ほどの間に、若い長州藩士に志を持たせる教育を行い、有為な人材を多数輩出しました。小さな松下村塾が「明治維新胎動の地」となったのです。家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます。

 まず、教育基本法案の早期成立を期します。

 すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生します。学力の向上については、必要な授業時間数を十分に確保するとともに、基礎学力強化プログラムを推進します。教員の質の向上に向けて、教員免許の更新制度の導入を図るとともに、学校同士が切磋琢磨(せっさたくま)して、質の高い教育を提供できるよう、外部評価を導入します。

 こうした施策を推進するため、わが国の叡智(えいち)を結集して、内閣に「教育再生会議」を早急に発足させます」。

 まず、安倍総理は、「近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されている」と、問題点をあげている。しかし、子どものモラル低下というが、過去と比較してどれほど、またどのように低下したかを明らかにしていない。いろいろと、子どもが関わる犯罪や学級崩壊などの現象について、マスコミなどが、大きく報道するが、それは過去より事態が悪化したことを意味しているのだろうか? これは疑問で、かつての報道は、事件についての事実を淡々と伝えるというスタイルのものが多かったのに、最近は、報道でも視聴率競争が激しくなって、下請けの番組制作会社がセンセーショナルに脚色を加えている場合が多いので、そうした印象の強烈化があって、なんとなく事態が悪化しているような気になっている人が多いのではないだろうか。
 
 学習意欲の低下は、明らかに、小泉改革による勝ち組と負け組の二極化・格差固定社会化の結果の一つである。負け組の方は、早い時期から、勝負そのものをあきらめざるを得なくなっているからだ。勝ち組は、子どもを塾に通わせ、地域から離れた私立進学校などに通わせたりしている。それに対して、負け組は、最初から勝ち目のない勝負に挑むという無駄な努力を捨てて、それなりの負け組ルートに乗るほかないとあきらめさせられているのだ。小泉改革の基本思想である「優勝劣敗」主義が、こうした現実をもたらした原因だ。それを根本から改めないで、どうやって、子どもたちの学習意欲を回復できるというのか。平等への希望こそが、やる気を失った子どもたちの学習意欲を広く回復させるインセンティブになるのである。
 
 「子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下」は、そもそも家庭や地域の結合関係が、希薄になってきたことから、生じているので、それは教育力だけの問題ではない。これは、家庭・地域の結合を再生するための、人々の意識的活動が必要で、そのための時間と労力を、そこに向けなければ、無理である。地域活動に参加するための時間を持たねばならないわけで、それには、労働時間の短縮、職場での消耗の軽減、等々が必要である。
 
 安倍氏は、教育の目的を、「志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくること」と語る。それに対して、教育基本法は、教育の目的を、「第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と記している。そして、故郷長州の先達である幕末の吉田松陰の開いた松下村塾を、そうした教育の先例として紹介し、「家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます」と述べている。まあ、一般的に無難な概念を並べた感じである。
 
 そして、まずは、先の国会で継続審議となった与党の教育基本法案の採択を目指すとしている。そして内閣に「教育再生会議」をつくるという。
 
 学力主義と規範主義を身につけるため、公教育を再生するとしている。学力向上のために、「必要な授業時間数を十分に確保するとともに、基礎学力強化プログラムを推進します」と、「ゆとり教育」の見直しを明言した。そして、教員の質の向上に向けて、教員免許の更新制度の導入を図るとともに、学校同士が切磋琢磨して、質の高い教育を提供できるよう、外部評価を導入します」と二つの新制度の創設を掲げた。前者については、今でも、教員の研修制度があり、それを充実させることでおそらく対応が可能である。あえて、新制度をもうけるのは、天下りの多い文部科学省が、例えば、「教員免許更新センター」みたいな新機関をもうけて、新たな天下り先をつくる狙いがあるのではないだろうか? 外部評価制度といっても、評価基準が何かということがはっきりしないと評価しようがない。当初、安倍氏が主張していた教育バウチャー制度については、この所信表明からは消えている。教育バウチャー制度は、格差を固定・拡大するおそれがあり、さらに、地域と教育を切り離してしまって、地域の教育力の再生という所信表明の考えと矛盾しているのである。

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画期的な「日の丸・君が代」問題の東京地裁判決

  原告団の「画期的判決」などの評価が出ている東京都の「日の丸・君が代」強制違憲判決に対して、大手4紙が、社説で、取り上げている。

 社説の立場は、2紙対2紙にはっきりと分かれた。『産経』『読売』が、判決を批判し、『朝日』『東京』が、判決を評価した。『産経』『読売』の地裁判決批判は激烈なもので、両紙のショックの大きさを物語っている。
 
 『産経』「君が代訴訟 公教育が成り立たぬ判決」は、「「国歌と国旗は強制ではなく、自然に国民に定着させるのが国旗国歌法や学習指導要領の趣旨だ」としたうえで、「それを強制する都教委の通達や校長への職務命令は、思想良心の自由を侵害する」とした。さらに「都教委はいかなる処分もしてはならない」とまで言い切った」と地裁判決をまとめている。その上で、7年前の広島県での校長自殺事件を、国歌斉唱に反対する教職員組合の抵抗に悩んだせいだと、独断を下す。この事件での自殺の原因は、未だに判然としておらず、教職員組合のせいにしているのは、『産経』の私見にすぎない。指導要領は、教師が指導するように書いてあるが、教師自身が式の際にどうしろとは書いていない。

  なによりも重要な点は、この地裁判決が、日本国憲法で保障されている思想良心の自由の理念は、都教委通達などの行政命令に優越するという当たり前のことを再確認したことである。通達・行政指導や行政処分は、法の枠を超えてならないということだ。ましてやそれが、最高法規の憲法を超えるようなものであってはならないのである。今回の地裁判決は、そんな行政の遵法義務を改めて指摘したもので、教育行政権に対する厳しい警告である。
 
  『産経』は、「もちろん思想良心の自由は憲法で保障された大切な理念であるが、教育現場においては、教師は指導要領などに定められたルールを守らなければならない。その行動は一定の制約を受けるのである」という。もちろん、教師はルールを守らなければならない。しかし、そのルールは、憲法に則ったルールである限りは、守らねばらならないのであって、違法なルールを守る義務はないし、その場合には、積極的にそれを改めるのが、道徳的にも正しい行為である。例えば、会社内で不正が行われていることを知った社員が、守秘という会社内ルールを守らないで、外部に告発することをもっと奨励し、告発者を法的に保護するようにすべきだという意見が広まっている。都教委通達に、憲法違反の疑いがあると考える教育関係者などが、それを告発したのは、当然の行為であった。
 
 それに対して、憲法よりも都教委の行政命令を優先し、「都教委が行った処分は当然」とする『産経』の主張は、順法精神をないがしろにしかねない主張といえよう。確かに、かつて、学習指導要領の法的位置を確認する判決が下されたことがある。しかしそれは、こうした行政命令が、法を超越していいというお墨付きを与えたわけではない。『産経』は、改憲を主張し、現憲法を批判している。それは思想良心の自由に属することだが、現憲法が最高法規として生きていることを忘れてはならない。
 
 つぎに、裁判長が、「日の丸・君が代」を、第二次大戦終了まで、軍国主義思想の精神的支柱だったとして、それに反対する権利を公共の福祉に反しない限り保護されるべきだとしたことに、「裁判所がここまで国旗・国歌を冒涜していいのか、極めて疑問である」と批判する。「日の丸・君が代」は、戦前には、軍国主義思想の精神的支柱だったことは、一部の過激な教師集団の考えではなく、歴史事実である。そういう事実認識を言うことが冒涜だという方が極めて疑問である。そして、この社説は、露骨に、安倍政権の「公教育の再生」路線に、この判決が水を差したのは残念だと、安倍路線支持を公言する。そして、民主主義の基本とされている三権分立を否定して、「各学校はこの判決に惑わされず、毅然とした指導を続けてほしい」と行政権の司法権に対する優越を扇動する。これが、自称民主主義者の執行権独裁支持の本当の顔である。
 
 『読売』社説、[国旗・国歌訴訟]「認識も論理もおかしな地裁判決」は、もっとでたらめで、低レベルである。この社説は、問題を「指導」一般があるべきかどうかにすり替えている。この社説は、「不起立で自らの主義、主張を体言していた原告教師らは、指導と全く相反する行為をしていたと言えるだろう」というが、判決は、原告教師たちの行為は違法な行為どころか、憲法遵守の合法行為だと指摘したのである。
 
 「日の丸・君が代」についての考え方についても、「宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という地裁の判断に、世論調査での多数支持という結果で反論している。世論調査自身の中立性や正確さに、この間、大きな疑惑が持ち上がっているというのに、それを無視しているのである。ましてや、スポーツの場でのマナーの問題と法的・歴史的・政治的な問題としての「日の丸・君が代」問題を混同するのは、低レベルすぎる。スポーツの政治利用や国家を背負うことの弊害などが、サッカーのワールドカップのあり方についての反省の中などで出ているというのに、『読売』は、なんともアナクロだ。

  ましてや、判決を、「少数者の思想・良心の自由」の過大評価だと揶揄したり、「都教委通達や校長の職務命令の「行き過ぎ」が強調され、原告教師らの行動が生徒らに与える影響が過小に評価されている」などという力学主義的な判断で、問題を矮小化することで、読者の判断力を低めるようなことをしていることは、許し難いことだ。読者は、ばかにするなと怒って当然だ。「今後の入学式、卒業式運営にも影響の出かねない、おかしな判決だ」というのは、正反対で、行政命令よりも憲法が優越するし、現場における創意を引き出すべく都教委などの上意下達の行政命令を出来るだけ排除し、現場が生き生きと動け、学校が、より地域・保護者・教師・生徒などのイニシアティブで動けるようにすること、それが求められている教育改革であり、それが、この地裁判決でやりやすくなったのである。
   
 現場を暗黒に描くことにイデオロギー的価値を見いだしている『産経』『読売』は、教育改革を言う資格を欠いている。教育現場が抱える諸問題を解決するために、教育に関わる多くの人々の創意と力の結集が必要なときに、儀式での旗がどうだの歌がどうだのとつまらない官僚主義的なことで、神経をすり減らしている場合ではない。『産経』『読売』は、現場の混乱を拡大するような余計な干渉や誘導やちゃちゃ入れをしたり、教育官僚の代弁者として振る舞うべきではない。

 「愛国心」は、私人のエゴイズムであり、それを行政が強制することは、間違いである。小泉首相は、靖国参拝を正当化して、参拝は私人の心の問題で、外から干渉すべきではないと言った。それが、首相という公人ではなく、私人になってから言ったのであれば、たいした問題ではなかった。公立学校教師は、私人か公人か? あるいは西部邁の言うような公民=市民(私人)ということか? この国で、もっとも公人性の強い職務である首相の私的参拝を支持して、それほど公人性が強くない現場教員に強い公人性を求めるという『産経』『読売』は、完全に価値転倒している。
 
  判決そのものは、考えてみれば、ごく当たり前のものにすぎない。その当たり前のことが、これまで、なかなか通らなかったので、この間、原告団の人々の苦労や心配もひとしおだったと思うが、とりあえず、勝訴が勝ち取れたことは素晴らしいことだ。さらに、都教委を追いつめ、全国の同様の闘いの勝利のさきがけとなってもらいたい。もちろん、これから、高裁・最高裁と続くだろうから、そこで逆転判決という可能性もあるので、油断はならないのであるが。            

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校内暴力についての朝日・読売社説

 校内暴力に関する文部科学省の調査結果に対して、『読売新聞』と『朝日新聞』が、社説で取り上げている。

  『読売新聞』の方は、「限界を超えれば“強制退席”も」とあるように、原因の追及などよりも、とにかく、強制・懲罰を強化して、校内暴力を止めるべきだという主張である。担任任せにせず、学校全体で取り組む、親・保護者が理解する、親が暴力は許されないことを諭す、等々を行いながら、指導の限界を超える場合には、強制措置を取れという。しかし、暴力は許されないことだぐらいのことは、親も本人もわかりきっていることだろう。頭ではわかっていながら、そうなってしまうのは、なぜかということが解明されないと、有効な対処はできないだろう。
 
  『朝日新聞』は、暴力に走りがちな子どもには、①ストレスや不満をため込んでいる、②ストレスの暴発を自制する力が弱い、という二点の共通点があると指摘している。そして、「どんな不満があるのか。なぜ自制する力が弱いのか。子どもの内面や生活習慣にまで踏み込まなければ、原因を探ることはできない。それには、学校だけでなく、家庭との連携が欠かせない」という。
 
 そこには、食事・栄養バランスの問題や親の精神状態やゲームの普及で、外で上下の年齢の子供と遊ばなくなった、などの環境変化が影響しているという。

 社説は、「小学生の暴力を学校だけの問題に終わらせず、社会を見つめ直すきっかけにしたい」と最後にいう。確かに、それは一般的に言えば、そうだろうし、そうすべきだろう。

 しかし、なぜ、今、突然、子供の暴力が急増したのかは、これではわからない。ここ数年の子供や学校・家庭・社会の変化ということで言えば、いろいろと「ぶっ壊す」と叫んできたこの国のトップ・リーダーの影響ということも考えてみなければならないだろう。なにかというと、「キレて」は、どこが悪いのかと開き直り、敵を作りだしては、徹底的に排撃する、そんな総理の姿勢が、親を通じて、子供に影響していないのかどうか、考えてみる必要があろう。弱肉強食の競争主義を煽り、周りはすべてライバルで、敵のように見なして、個の殻に閉じこもって、孤立化する中で、ストレスをかかえこむ。それは、今の大人たちの姿と似ているのではないだろうか?

 そして、この間、文部科学省が、教育現場にしてきたことと言えば、儀式における「日の丸・君が代」強制であり、校長権限の強化であり、教師管理の強化であり、国家主義的官僚主義的な統制の強化であった。それは、国家に対して学校教育を受動的にすることであり、現場における能動性や自発性や活気や創意などを押しつぶすものであった。それは、『読売新聞』の主張に表れているような、管理・懲罰の強化という方向である。それは、スターリニズムの国権主義と似ている。上からストレスをかけて、別のストレスに対応するというやり方である。

 そのようなやり方が一時的にしか成功しないということは、歴史的に明らかになったはずだが、自称民主国家の日本で、こうした国権主義的やり方が生き続けているのである。国権主義と官僚主義は類縁性を持っているのだろうが、いづれにしても、国権主義は一時的にしかうまくいかないということは確かである。

 食事が、人の精神状態にいろいろと影響を与えるのは確かである。それが最近の校内暴力の原因だとすると、ここ数年の内に、子供たちの食事の内容が、急激に、しかも広範に、悪化したことになる。そういう同時的な食内容の変化があったかどうかはわからない。

 最近の大きな社会的変化というと、小泉改革というのは、破壊のスローガンで、社会的攪乱を起こしたのは確かであるから、なんらかの関係がありそうに思われる。それが親や教育関係者などの価値観に動揺を与えるなり、攪乱するなりしたことが、影響しているのではないだろうか? 

 [キレる小学生]「限界を超えれば“強制退席”も」

 授業中に漫画を取り上げられた小学6年男児が、突然「キレて」女性教師の腹をけった。

 けんかの仲裁に入った男性教師が小4男児から「何で止めるんだ」と怒鳴られ、体当たりされてツメで腕をひっかかれた。

 “被害教師”たちの悲鳴が聞こえてくる。子どもから暴力を受けても、大人の力で押さえ込むわけにいかない。「体罰を振るえばクビ。どう対応すればいいのか……」。現場の悩みは深刻だ。

 小学生の暴力が止まらない。昨年度、公立小学校児童の校内暴力は3年連続で増えて2018件、過去最悪だった。文部科学省が統計を取り始めた1997年度(1304件)に比べ5割増だ。

 とりわけ教師に対する暴力は464件と、前年度の336件から38・1%も増えた。児童間の暴力(951件)や器物損壊(582件)も相変わらず多い。

 文科省は「特定の児童が繰り返し暴力を振るう傾向が強い」と説明する。「教師の叱責(しっせき)を受け止められない、心の切り替えができない」。そんな児童が、勝手な行動を教師から注意されたり、制約されたりすると、突然キレてしまう。

 早期に、学校全体で対応すべき問題だろう。だが、実際は「担任に任せきり」という小学校がほとんどだ。

 保護者の理解、協力を得ることが何より大切だ。問題児童の親も含め、保護者が毎日交代で荒れた教室の授業参観を続けた結果、徐々に学級崩壊から立ち直り、正常化していった例もある。

 だが、中には学校からの呼び出しに、「うちの子を悪者にするのか」などと、くってかかる親もいる。暴力は許されない、ということを、真っ先に子どもに諭すのは、親の務めではないだろうか。

 学校側も、指導の限界を超えた児童には、毅然(きぜん)とした態度をとるべきだ。

 昨年度、校内暴力で警察に補導された小学生は11人にとどまっている。

 学校教育法に基づく「出席停止」処分を受けたのも、中国地方の小5男児だけだった。校内の備品を壊す。授業中に他の児童を外へ連れ出そうとする。転入してきて5か月、繰り返し指導したが改まらないため、厳しい措置をとった。

 最も多いのは「訓告」(20人)だが、それを含めても何らかの処分を受けた児童は27人にすぎない。ほとんどは単なる叱責、注意で終わっている。

 これで「反省」が望めるだろうか。特定の児童が暴力を繰り返すのも、この甘い対応に原因があるのではないか。

 過度の暴力や、他の児童の学習権まで奪うようなケースなら、教室からの“強制退席”もやむを得ないだろう。(2006年9月15日『読売新聞』)

 子どもの暴力 学校だけの問題ではない

 担任の先生を殴ったり、けったりする。同級生に暴力を振るう。学校の窓ガラスや備品を壊す。児童や生徒のそうした暴力行為が収まらない。

 05年度に全国の公立小中高校で起きた校内暴力が2年ぶりに増加に転じたことが、文部科学省の調査でわかった。子どもが減り続けているのに、逆に暴力事件が増えていることは、深刻に受け止めなければならない。 暴力に走りがちな子どもについて、二つの共通点が指摘されてきた。一つはストレスや不満をため込んでいることだ。もう一つはストレスの暴発を自制する力が弱いことだ。

 どんな不満があるのか。なぜ自制する力が弱いのか。子どもの内面や生活習慣にまで踏み込まなければ、原因を探ることはできない。それには、学校だけでなく、家庭との連携が欠かせない。

 とくに増え方が目立つのが小学校だ。校内暴力は2千件を超えた。そのうち教師への暴力は3年続けて増加率が30%を超えるという異様な増え方である。

 この調査から浮かび上がるのは、カッとなって手や足を出してしまう子どもたちの姿だ。いらいらや暴発の気分を表す「ムカつく」「キレる」という言葉は以前から広がっていた。暴力を振るわないまでも、暴力に共鳴する子どもは多い。

 荒れた小学生は、中学校でさらにひどくなる恐れがある。いまのうちに芽を摘んでおく必要がある。

 暴力に走りがちな子どもについて、二つの共通点が指摘されてきた。一つはストレスや不満をため込んでいることだ。もう一つはストレスの暴発を自制する力が弱いことだ。

 どんな不満があるのか。なぜ自制する力が弱いのか。子どもの内面や生活習慣にまで踏み込まなければ、原因を探ることはできない。それには、学校だけでなく、家庭との連携が欠かせない。

 親の責任は重い。子どもが不満をため込み、それを抑えきれないというのは、その家庭に問題があると考えざるをえない。親が自分の気持ちをきちんとコントロールできないから、子どもが暴発してしまうのではないか。

 最近は朝食をとらせないまま、子どもを学校へ送り出す家庭も少なくない。こんなことでは、学校へ行っても子どもの気持ちが落ち着くはずがない。

 学校と家庭が手を携えて、それぞれの場で改善すべき点を改善していく。そうした努力を積み重ねるしかない。

 昨年度、暴力を振るった児童が1人出席停止になった。小学校での出席停止は7年ぶりのことだ。悪いことをしたと反省させるための措置としては、やむをえまい。ただし、その場合でも、暴力の原因を探り、再教育するために、家庭との連携がいっそう大切になる。

 子どもの暴力を詳しく分析し、成功した指導の例を各学校に伝える。そうしたことを文科省は考えた方がいい。

 子どもが置かれた環境は、親や祖父母の時代とはすっかり変わってしまった。
 ゲーム機が広がり、外で遊ばなくなった。体をぶつけあうような遊びもやらない。学校でも塾でも、周りは同じ年齢の子どもばかりだ。

 そうしたさまざまな変化も、子どもにストレスを加え、自制する力を弱めてきたのではないか。小学生の暴力を学校だけの問題に終わらせず、社会を見つめ直すきっかけにしたい。(06年9月15日『朝日新聞』)

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安倍官房長官の教育再生論について

 トラックバックありがとうございます。

 『うつ病を克服しストレスフリーな生活を手に入れる方法』ブログのhito-Aさんからトラックバックをいただき、安倍官房長官の教育再生政策への意見を聞いてみたいということでしたので、簡単に、私見を述べてみたいと思います。ただ、教育問題は、きわめて広い領域の問題ですので、それについては、時々、一部の問題を取り上げてはいますが、もっといろいろあることは言うまでもありません。

 貴意見を拝見すると、まず、安倍官房長官の教育再生策について、手際よくまとめられていると思いますし、それらはその通りだと思います。貴方の結論としては、子供の心が病んでいる原因を突き止め、その対策がないと教育再生は絵に描いた餅だということですね。子供の心の問題は、確かに重要な問題ですが、これは、学校教育だけが原因というわけではなく、社会や家族なども関わってくる問題で、それらを広く見渡して考えていかなければならない問題です。

 それに対して、安倍氏の教育再生策は、答えていません。それは、氏の教育再生論とよく似ている教育再生機構設立準備室の主張を見ても明らかで、基本にあるのは、合理主義的人間像であり、それを仮構した上での、教育論です。自虐史観批判もそうですが、自虐か否かを合理的に判断できるという想定の上で、誇りを持てる日本人の育成などということを言っているのです。このやり方は、いみじくも、日本教育再生機構代表の八木秀次氏が、語っているように、黒書運動、すなわち政敵を暗黒勢力として描くプロパガンダ運動を通じて、政治権力を保守派・右派が握ろうという政治運動なのです。

 それは教育を通じて、保守派・右派の支持者を増やそうという政治運動なのです。これまでは、左派が教育現場支配を通じて、その支持者を増やしていたというのが、彼らの見方であり、それに取って代わりたいのです。私は、日教組が教育現場を牛耳っているなどというのは、明らかな誇張だと思いますが、事実よりも、政敵を暗黒に描くことが目的の彼らは、平気でそういうことをします。これは、冷戦時代に、CIAなどが行っていたことと同じで、CIAはソ連などについてのでたらめ情報をマスコミを通じて流していたことを認めています。でたらめ本の出版ももちろんやっていますし、NGOを通じて、政治家や運動体を買収したり、運動体に資金援助したりしています。最近だと、ウクライナの大統領選挙の際に、反体制派に金を出したり、運動の仕方などについてのアドバイスを行ったりしています。

 自民党は、岸時代などにそういうアメリカからの工作資金を受け取っています。それから、民社党結党時にもそういう対日工作資金がこの党に流れています。こういう薄汚れた連中が、教育再生を叫ぶのですから、貴方のように、まじめに教育再生を考えている人を馬鹿にした話もないのです。今度の自民党総裁選も、真面目に努力した者が報われるなら、それなりに分厚い政策集を作って努力した谷垣・麻生の方が当選するのが当然で、薄っぺらな政策パンフでお茶を濁して、森派という最大派閥の数を背景に、優位に立つ安倍氏が当選するのはおかしいのですが、現実は、ポストを目当てに、政策の違うグループまで、安倍支持に雪崩をうつ有様です。こんな有様を見て、政治不信に陥らない方が、心理的に不健全であり、それが、子供たちの心に悪影響を及ぼさないわけがないと思います。

 子供には、道徳だ愛国心だと強制して、自分たちは、勝ち馬に乗るとか広報戦略で見かけだけのイメージを売り込み、ポストなどの利権を目当てに、政策も裏切り、一部の日本人だけは、必死になって守るといい、「負け組」は自己責任だと言って、うち捨てられる。これは子供の心にとっていいことでしょうか?

 貴方の言うごとく、道徳だ、愛国心だ、自虐史観がどうだ、官邸がどうだ、日教組がどうだ、教科書がどうだ、等々、と立派なご託を並べるよりも、子供の心が生き生きとするような教育や社会を実現することが必要で、そのためには、上のような政治家たちが、先に立派に生まれ変わることが必要だし、いろいろと陰謀めいたことをやっていた八木秀次氏のような反道徳的な人物を代表に担ぐような日本教育再生機構のようなところに、教育政策に影響力を強めさせてはならないと思います。大昔の共同体には、精神分析は不可能だという人がいます。それは、子供の心を生き生きとさせる社会のあり方のヒントになるのではないでしょうか?

 私見を思いつくままに並べてみました。しかし、教育をめぐっては、いろいろなものが関係していて、今後も拙ブログでも取り上げることになると思いますので、TB、コメントなどありましたら、どうぞお寄せください。 

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日本教育再生機構設立準備会について

 日本教育再生機構設立準備会のホームページには、安倍官房長官の教育再生政策に期待するという主張が載っている。「新しい歴史教科書をつくる会」から、ほとんど追い出される形で、やめた八木秀次氏が、この機構の代表になっているのだが、彼は、この機構を広範な人々を結集するゆるやかな教育改善運動体にしたいというようなことを述べている。しかし、安倍支持が、この機構の団体意志だとすると、非安倍支持者にはすでに門戸は閉じられたことになる。

 代表発起人の一人の屋山太郎という政治評論家のあいさつが載っているのだが、これが全く無内容で下らないものだ。代表にはカリスマ性が必要だが、すそ野は広い方がよいという。それから、全日教連委員長、TOSS代表、イエローハット相談役のあいさつが続いて、櫻井よし子、岡崎邦彦の激励、そして、武部自民党幹事長、安倍官房長官、山谷えり子自民党議員、祝電・メッセージが読み上げられたという。

 最後に、八木秀次会長のあいさつがある。それによると、彼は、レーガン、サッチャーの教育改革を、今の日本で実現しなければならないという考えのようだ。そして、五つの目標を掲げている。

 ①伝統文化を継承し、世界に発信します。
 わが国の優れた伝統文化を継承し、諸団体と連携して歴史、公民、国語、音楽などさまざまな教科書や副教材を作成し普及させます。教材の作成については一部着手しております。
 ②心を重視する道徳教育を充実させます。
 道徳教育の教材開発とともに、鍵山先生の「日本を美しくする会」などとも連携しながら、実践的な青少年育成活動を行います。教育基本法の改正に先立ち、宗教的情操心を涵養するための教材を作成致します。
 ③男女の違いを尊重し、家族を再興します。
 ジェンダーフリー教育や過激な性教育を排し、将来の家庭人にふさわしい教育のあり方を具体的に示します。地域の教育力を高めるべく、さまざまな団体と連携いたします。
 ④教師力を向上させ、学力を取り戻します。
 優れた実践活動をしている教員団体と連携し、教育現場から政治イデオロギーを排します。教育者が尊敬される社会の確立を目指します。ゆとり教育の見直しを求め、国が国民の教育に責任を持つシステムの構築を提案致します。
 ⑤教育再生を願う志と志をつなぎます。

 とくに、この⑤が、この機構設立の眼目であり、「志と志をつなぐこと。つまり、これまでつながりのなかった団体が相互に連携することによって大きな動きを起こします。そしてネットワークの事務局にシンクタンクの機能も日本教育再生機構が持ちます。必要に応じて政府・文部科学省とも連携いたします。既に、政府関係機関から教育改革のあり方についての委託研究の話も頂いております」というのである。つまり、草の根の社会運動であり、中間団体的運動を目指しているというのである。

 「教育黒書運動がサッチャー政権を生んだように、また、基本に返れ運動がレーガン政権を生んだように、私たちのネットワークが次々に問題を提起し、来たるべき政権の教育政策をリードしたいと考えております」ということで、政治運動と思いきや、そうではなく、「私たちが行うのは政治運動ではありません。民間の立場から日本の教育を良くしたい、その思いを結集して大きな教育正常化運動を展開しようということであります」ということだという。紛らわしい話だ。要するに、アメリカの草の根保守運動みたいなイメージなのだろう。それにロビー活動のようでもあり、なんともはっきりしない団体だが、10月中旬には正式発足させたいらしい。英米のまねをしたいそうだ。

 代表発起人の一人の屋山太郎が、何が言いたいのかはっきりしない人物であるし、八木代表も、そういう人物で、そういう不明確さによって、これまで、まとまれなかった保守系教育運動諸団体を包摂していくつもりなのだろう。

 ④の目的についてだけ、批判しておけば、教育現場から政治イデオロギーを排するなどというのは、無政治イデオロギー化するということではなく、彼らが教育現場を支配しているとみている日教組の左派イデオロギーを、愛国主義・右派イデオロギーに取って変えようというだけの話である。それは、どちらのイデオロギーの方が、文明や文化の型を高める創造的で建設的な人間を生み出せるかという争いである。例えば、櫻井よし子氏は、そうした高度な型の文化と文明を創造する能力と人格をどれだけ備えているか? 屋山太郎はどうか? 八木秀次はどうか? かれらには、それは、ない。ちょっとわきにそれるが、山形の加藤議員の家を放火し、自殺を図った64歳の右翼はどうか? この行動は、新しい文明を創造するどころか、退歩的行動であった。

 この機構の①から⑤の目的は、文明の高度化や文化の向上を示すものではない。というのは、それが、サッチャーやレーガンという退歩的時代の模倣を意味しているからだ。これらの時代において、例えば、レーガン下に、どんなアメリカ文明・文化の高度化があったというのだ? サッチャーの暗黒時代に戻りたいというイギリス人はほとんどいないだろう。それでも、サッチャーやレーガンの教育改革を今の日本で模倣しなければならないのはなぜだろうか? イギリス病を克服するのに、なにもサッチャー改革という蛮行を行う必要などなかったというのが、森嶋氏やイギリスの経済学者カーン博士の批判である。それに、第一、サービス残業が問題化しているこの日本で、イギリス病が発生しているのか?

 どうも、現状認識も歴史認識もまったく現実離れしていて、わけがわからない。①から⑤の目的もさっぱりわからない。今のところ、ただ、群れているようにしか見えない。保守派は、「新しい教科書をつくる会」の内紛騒ぎに示されたように、内部分裂を強めているし、結局は、未来を切り開く新しい世界観を提示してないし、ただ、人々の目を過去に向けさせ、疲弊させているだけである。

 ただし、この団体の運動には、アメリカの草の根保守運動を支えた福音派原理主義のような大きな宗教運動がない。成長の家は左傾し、霊友会は分裂し、神社本庁は、弱体化している。

 この機構は、政権との接近を通じて、運動の拡大を狙っているのかもしれないが、仮に安倍政権が生まれても、多すぎる支持議員のすべてに見返りを与えることは不可能で、論功行賞をめぐって、対立が激化する可能性があり、強い政権にならないかもしれない。改憲だなんだと大風呂敷を広げているが、人気を頼りの政権では、選挙を強く意識して、思い通りには政権運営を進められない可能性が高い。それから、正式の総裁選が始まってもいないうちから、大量リードが続いて、圧勝してしまうと、小泉政権誕生時のような意外性やサプライズやドラマ性がなく、人々を沸き立たせるような熱狂的支持ではなく、「やっぱり」という程度の支持しか得られないだろう。そんな支持は、軽い支持で、人々を感情の次元で捉えた支持ではないから、簡単に動いてしまうだろう。

 いずれにしても、保守・右派は分解と後退を続けているが、ただ群れ集まってもどうしようもないのである。

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教育基本法継続審議濃厚となって

 教育基本法改定問題で、「愛国心」をめぐる議論が起きているのは周知のとおりである。それと『産経新聞』や櫻井よし子氏などのアングロ・サクソン文化に染まっているエセ愛国主義者たちが、国旗国歌問題という次元の違うことを無理やりそれに絡ませて、議論を混乱させている。
 
 日本の長い歴史と伝統上、国歌国旗のない時代は圧倒的に長く、明治維新後に、西欧帝国主義列強にせかされて、あわてて作り上げたものにすぎない。外国がそんなものをありがたがっているからと物真似しなければならない理由はないし、遅れているわけでもなんでもない。そんなものをありがたがっている中国や韓国やアメリカなどが、別に進んでいるわけではない。アメリカは、移民国家だから、国旗国歌でも意識的に掲げ歌うなどして、人為的に国民意識を保たなければならないのである。

 アメリカは、そもそも先住民を大虐殺し、かれらの大地を奪って、建国された国である。そしてつい最近も、中南米において、何百万人もの人々の命を奪ってきたのであり、アフガニスタン、イラクで、多くの人々を虐殺し、拷問している国なのである。そうして血塗られたブッシュ大統領や政府高官の手を握ったのが小泉首相であり、ポスト小泉を狙う安倍などの政治家たちなのである。

 その後押しをしてきたのが、『諸君』『正論』フジ産経グループ、『読売新聞』などである。しかし、これらのメディアは、表向きは保守派を任じながらも、裏では財界や政権と手を握り、その意を受けたエージェントとして、世論操作を実行しているのである。以前にはあれほど、堂々と靖国に参拝せよと主張していた『産経新聞』は、財界が靖国参拝に反対の意向をはっきりと打ち出すと、すっかり靖国に関する主張を引っ込め、『諸君』『正論』は、そろって『朝日』たたきに力を入れて、『産経』『読売』の販売促進役を果たすというおきまりの道に戻る。商売優先は、これらのメディアも財界と同じである。

 おいてきぼりにされ、馬鹿を見るのは、お人好しばかりである。現に、政治家の中国詣の露払いを務めたのは、「つくる会」八木一派とフジ産経グループであったようだ。5月31日の藤岡信勝氏のブログには「八木秀次氏はすでに中共の対日工作の窓口だった」とする記事が載っている。「つくる会」の内紛は、すでに保守系雑誌を通して公然たる言論戦に突入している。なぜか、藤岡信勝氏は、櫻井よし子氏の、「中国を喜ばせる首相を選んではならない」という言葉にかけて、「つくる会」の会長にもそういう人を選んではならないと八木一派の中国詣批判を正当化している。こういうところが、政治的というか運動的発想で、それは共産党時代に身に付けたものなのだろうが、櫻井よし子氏が、サッチャーイズムの信奉者であって、まったくアングロ・サクソン流の自由主義者であるという思想的な部分まで立ち入って評価しないというかれの思想的浅さを自己暴露しているところである。「巧言令色少なし仁」である。

 彼女は全然日本的ではない。彼女の話は、サッチャーが日本人の仮面を被ってしゃべっていると思って聞いた方がいい。彼女が、教育基本法に「愛国心」を明記した方がいいというのは、その方が国際標準に近づくからで、それだけ、アメリカが日本統合を進めやすくなるからなのである。

 アメリカは、景気減速期に入っていて、最悪の場合には、世界恐慌の引き金を引きかねず、国家破産まで行く可能性すら懸念される情況なのである。ブッシュ政権の支持率は29%まで下がり、共和党や政権内の腐敗や汚職が次々と暴露され、CIAをめぐる権力闘争で長官交代を余儀なくされるなど、ぼろぼろなのである。

 そんなアメリカと一緒に沈むのが同盟国の義務というものだろうか? 自由と民主主義という共有する崇高な価値のために共に沈むべきだろうか? 利害を第一の財界が、そんな自己犠牲を払うとは思われない。かれらは、沈みかかった船からどうやって安全に逃げるかを考えているのだ。

 ブッシュは言った。家族の絆は尊いと、しかしイラクで米兵によって家族を殺された者が何人いるか? 自由は尊いとも言った。グアンタナモで不当に自由を奪われた者がいるのだが? 民主主義は尊いとも言った。令状もなくただアラブ人だという理由で身柄拘束された人が足下にいる。これは人権は平等だという民主主義を否定する差別ではないか? アメリカ人一人の命とアラブ人一人の命・人権の価値は同じではないのか?

 日本の財界は、在日米軍の軍事力を背景に、中国やアジアで、商売を拡大したいのであり、できるだけそれに利する条件・環境をつくりあげたいのである。

 いずれにしても、欧米に対する警戒感を持っている西尾幹二とは違って、「反日」がどうしたとか「サヨク」がどうだとかネットでオウム返しにしている者の多くは、保守系メディアや保守系知識人や政府与党などが操作しやすくだましやすい超お人好しのようだ。

 長い歴史と伝統、豊かな自然、などに日常的に接し触れている所では、自然にパトリシズムは生み出されるのであり、特定の旗を掲げたり特定の歌を歌わなければそれが育たないということはない。ただ都市化が行きすぎて、それらに接し触れる機会がなく、言語や映像などでしか学ばないから、それが自然に育たないので、それは別に、学校教育のせいでも、教師のせいでもない。

 都市の規模をもっと小さくし、歴史や文化にもっと直接触れられるようにし、自然に直接触れる機会を増やし、人々のコミュニケーションをもっと密にするようにしなければならないのである。今の小泉改革路線のままでは、経済の論理によって、経済的利益や利便性が優先されて、これとは正反対の都市への人口集中や自然破壊、歴史と伝統文化の破壊が進むのは明らかである。要するに、政治家が愛国心などというのは、実に抽象的な言葉で、真の狙いを隠していると見るべきなのである。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛の中でも、種子島元会長やフジ産経グループとつながっていた八木一派は、「愛国心」の影に、経済的利害を隠し持っていたことが、暴露されている。財界の意向を背景に、種子島元会長の認めた中国詣が八木・宮崎元事務局長らによって行われたのだ。

 残ったのは、比較的に経済界の利害を気にしなくてもいい立場の学者たちが中心であり、原点回帰を掲げる原理主義的なイデオローグたちである。もっとも、藤岡信勝は、設立当初からこの会のトラブルメーカーであり、しかも、この間のゴタゴタの中で、右往左往して動揺を示したように、求心力を減じている。さらに、東京支部が、現執行部と距離を置いており、山形での評議員の辞任や中西輝正理事の辞任など、有力な幹部の離脱が続いていて、すでにこの会の力は落ちており、7月2日の大会までに、体制を立て直せるかどうかは未知数である。

 そもそも、藤岡信勝が組織した自由主義史観研究会の自由主義史観なる歴史観が、歴史観を自由主義イデオロギーを基礎にするという不条理の上に立っている。歴史観が、自虐的か自由主義的かなどというふうにわかれるはずがなく、実際にかれらがやっていることは、かつて日本政府がやったことを正当化するために、理屈を立て、そのような証拠を集めて過大評価し、時には史実を無視するということである。

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人為的で自然でない教育基本法改悪に反対

25日『産経新聞』社説「教育基本法改正 「愛国心」は明記すべきだ」は、ほぼ民主党案を支持している。

 この社説の「愛国心」は、「民主党案にある「涵養」は、水が自然にしみこむように育てるという意味だ。愛国心というものは、子供たちが日本の歴史を学び、伝統文化に接し、豊かな自然に触れることにより、自然にはぐくまれるものである」というもので、『国家の品格』が言う、パトリシズムの意味のようである。

 それが「日の丸・君が代」の学校行事での強制はなじまないことは明らかだ。「日の丸・君が代」「国家・国旗」には、日本の長い歴史がないし、伝統文化でもなく、豊かな自然でもない。それを「愛国心」教育と位置づけている学習指導要領が間違っているのである。だから「愛国心」を教えることは、卒入学式で「日の丸・君が代」を強要することとは一致しない。それを混同して、上から、脅し、処分などで、権力的に強制することは、混乱を増大させているのであり、その点を『産経』は見誤っている

 今、「君が代」は歌いづらくなっているし、「日の丸」も掲げづらい雰囲気になりつつある。それは、緊張し、プレッシャーを感じる行為になっているのである。卒入学式にビデオや音量計をもった教育官僚が監視し、校門付近で、公安警察が大勢うろついて、ビラまきを妨害したり監視しているような物々しい雰囲気の中で、歌を強要されたら、「暗い」気持ちが起きるのである。

 教育官僚は、強要している立場だから、されている方の気持ちがわからないのである。教育官僚の立場に立っている『産経』も、それがわからないのだ。

 他方では、この社説は、「愛国心」は、強要や強制なしで、自然にはぐくまれると言うわけで、分裂し、矛盾した物言いをしている。

 「愛国心」が自然に涵養されるものなら、法律化しなくても別にいいではないか? 法律などという人為のものにすると自然さが失われると考えるのが「自然」だろう。

 ところが、この社説は、教員の指導義務を明確するために、「愛国心」の明記が必要だというのである。生徒・児童は、内心の自由に立ち入って評価する必要はないが、教員は別だというのだ。それなら、教育基本法は、教師向けの指導基準を定める法律なのか?従来の学説では、教育基本法は、憲法理念を実現するための教育についての基本法である。

 『産経』は、その点が混乱しているが、その原因の一つは、今日の教育の問題を日教組の教育支配とするかれらのイデオロギーにある。『産経』は、教育の場を、政治闘争、イデオロギー闘争の場と考えているのだ。そこには、現教育基本法が、個人の形成に偏り、国民の形成を阻害しているという考えがある。その際に、他国では愛国心教育を堂々と行っているのに、日本だけが特殊だということが言われているが、別に、他国の物真似をすることがいいとはかぎらない。なぜなら、パトリシズムという意味での「愛国心」は、現行教育基本法下、あるいは日本国憲法下で、「自然」に育っているので、あえてこれらの法律に「愛国心」を明記することもないからである。

 そこで、『産経』は、教育基本法の「愛国心」明記が必要なのは、教員の指導義務を明確化するためだとしている。しかし、この社説が自ら認めているように、「愛国心」は、「自然」に育まれるもので、法律によって強制するものではない。そのことを表しているのが、社説が引用する内閣府の以下の世論調査結果である。

 「内閣府の調査では「国を愛する気持ちをもっと育てる必要がある」と答えた人は八割を超えた。日本を誇りに思うことを聞いたところ、(1)長い歴史と伝統(42%)(2)美しい自然(41%)(3)優れた文化や芸術(40%)(4)国民の勤勉さ、才能(28%)の順だった」。

 世論調査の信頼度はそれほど高くないということ、また、フーコーによれば、アンケートはミクロな権力の行使であること、を踏まえた上で、この結果を見ると、「国を愛する気持ちをもっと育てる必要がある」8割超という回答には、後の回答と合わせると、パトリシズムを育てる必要があるという意味が多く含まれていると思われる。しかし、(1)~(4)の各項目については、これまでも学校教育で、知識としては教えられてきた。そして、そういう戦後教育を受けた結果として、自虐的になっているどころか、パトリシズムが広く生み出されているのである。これは、自虐史観批判派の現状認識の偏りと誤りを明らかにする調査結果である。教育基本法に「愛国心」を今あえて明記しなければならない理由が希薄なことは明らかだ。

 だから、『産経』は、教員の指導義務明確化を、「愛国心」明記の理由として押し出したのである。それに、内心の自由の価値を高く評価しないと、靖国問題で、中国・韓国を内政干渉、内心の自由への介入だと非難してきた『産経』のこれまでの主張の根拠が危うくなるという認識を持ったのかもしれない。教員の指導義務明確化のための「愛国心」明記は、少なくとも表面上は、与野党とも法改正の理由にはあげていない。『産経』は、なぜか動揺しているように見える。

 『産経』は、「愛国心」の中身として、日本の歴史を学び、伝統文化に接し、豊かな自然に触れることで自然に育つものとしている。 

 ところが、人口の多数を占める都市では、日本の歴史・伝統文化・豊かな自然などはどんどんなくなっているというのに、どうしたら自然に「愛国心」が育まれるというのだ! アメリカや西欧の歴史ばかりが先進的と評価され教えられ、ハリウッド映画や欧米文化ばかりに接し 豊かな自然の映像にしか触れない。それらは、教科書だの歌だの旗だのの干からびた抽象的知識の詰め込みで、自然に育つものではない。古森義久というアメリカ人と結婚した男が、アメリカの代弁者となって、西欧崇拝・アメリカ崇拝の記事を垂れ流している『産経』には、こういう事態をどうすればいいのかを、責任を持って答えてもらいたいものだ。これらを取り戻すためには、便利さも経済的豊かさもある程度、犠牲にする覚悟がなければ、無理ではないだろうか。

 教育基本法を今変えなければならない理由は希薄であり、他の新聞の世論調査では、改定を急ぐ必要はない、十分な議論を尽くすべきだとする世論が多数を占めている。教育基本法改悪には反対である。 

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教育基本法の審議入りに際して

 「敬虔と宗教とをただ隣人愛と公正の実行の中にのみ存せしめ、宗教的並びに世俗的事柄に関する最高権力の権利をただ行為の上にのみ及ぼさしめ、その外は各人に対してその欲することを考え且つその考えることを言う権利を認めること、これほど国家の安全のために必要なことはないのである」(スピノザ『神学・政治論』)

 いよいよ衆議院教育基本法特別委員会で、教育基本法改定論議がはじまった。初日から、小泉首相にコミュニケーション能力のないことが露呈し、またしても、この問題が議論ではなく、数の力の勝負になることが、明白になった。それにもかかわらず、民主党は、対案なるものを出して、あくまでも討論の場での勝負に固執している。日本共産党は、ずっと前から、審議拒否を滅多に行わず、あくまでも審議の場で、与党を追い込むという基本姿勢をとっており、議会を神聖化している。

 このような日本共産党の議会神聖化は、民主派小市民の特徴である。このような議会主義に、街頭デモなどの大衆の直接行動が従属させられてきたのである。党の構造も、議員団を中枢にした議会党となっている。

 民主党の対案なるものは、議会戦術のために、幹部一任で、急遽まとめられたもので、しかも、「日本を愛する心の涵養」と与党案が「国と郷土を愛する態度」とごまかした「愛国心」という表現をまともに入れているが、それも自民党内の揺さぶりであることが明白な政治戦術的なしろものである。

 それを見透かしたのかどうかわからないが、小泉首相は、まともに相手にしなかった。似たようなものだから、民主党と合意できるだろうなどとも言った。小泉首相からは、この法案を是非とも通そうという熱意は感じられない。

 民主党にも、なんとしても対案を通そうという熱意が感じられない。かっこうだけの対案を出して、敵失を誘い出すという作戦をとっているのだ。

 議会政党は、そんなありさまだが、ネット内では、どこにこんなに反対派がいたのかと驚くほど、連日、多くの人が、教育基本法改悪反対の意見を表明し続けている。やはり、教育問題は、身近な問題として、関心が強いのだろうか。

 教育の国家支配を強化する狙いが見える与党の教育基本法改定案は、アメリカの戦争体制により強固に組み込まれつつある中では、戦争動員の手段と化す恐れが強く、それ以外の教育上の諸課題の解決に資するとはとうてい思われないしろもので、廃案にすべきだ。民主党案も、教育基本法を改悪するものにしか見えないので反対である。それよりも、教育の現状の把握に務め、それを現場のイニシアティブで解決できる力をのばす政策の議論に集中すべきである。その際に、現教育基本法を生かしきることが先である。ましてや、これを改憲に連動させるなどということは、教育の政治利用であって、害はあっても、益はないと考える。

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「新しい歴史教科書をつくる会」炎上中

  「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)が、「炎上」している。

 4月30日の同会の理事会において、種子島会長、八木副会長が理事をも辞任、八木氏は、脱会を表明した。さらに、西尾氏が、「全共闘」的として批判していた新田・内田・勝岡・松浦の「生長の家学連」「日本青年協議会」系の4理事が辞任した(「西尾幹二のインターネット日録」)。

 「藤岡信勝ネット発信局」によると、4月30日の理事会では、まず、種子島会長と八木副会長が辞任を表明したのに対して、「両者の辞任の理由について、私と福地理事から、異議を提出し、資料にもとづいて八木氏が「藤岡党籍問題」の虚偽情報を産経新聞の渡辺記者に吹き込んで偏向記事を書かせ、理事会の多数派工作にも利用していたこと、八木氏の手元にわたった文書が西尾氏への脅迫文書として利用されたことなどの事実を証明した」。その後、討議の末、両者の辞任を承認した。それから、上記6名の理事が退出し、残った理事らが協議して、福地・藤岡両副会長を選出した。

 続いて、「教育現場や教育行政の経験者、教科書の専門家、支部の活動家など、採択活動に直結するような社会的立場にある理事候補の人選」によって、小川義男(私立狭山ヶ丘高校校長)、小林正(元神奈川県教組委員長・元参議院議員)、石井昌浩(元国立市教育長・拓殖大学客員教授)、上杉千年(つくる会評議員・教科書問題研究者)、濱野晃吉(つくる会大阪支部長・経営コンサルタント会社社長)の5名を理事に選んだ。

 その後、「理事会開催中の30日午後4時ごろから、「FAX通信第172号(4月30日付け)」なるものが本部事務局より発信された。その内容は、理事会における議論の経過の説明もなく、種子島会長、八木副会長の辞意釈明文のみを一方的に記したものであった。真相は、八木氏が事務局員に、理事会が開催されている間に命じて発信させたものであることが判明した」という八木前副会長の不正行為が発覚した。先の宮崎前事務局長解任の際にも、同じことが起きている。

 「新しい歴史教科書をつくる会」東京支部の掲示板には、この「FAX通信172号」が掲載されている。それによると、八木前会長の弁明は、「会長を解任された後、3月末に副会長に就任し、7月の総会で会長に復帰する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の与り知らない問題で根拠も無く憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及し始めました。私としては弁明もし、何とか「理事会」の正常化が出来ないものか、と思って耐え忍んで参りましたが、この半年間を通じて彼等との間ではいつも後ろ向きの議論を余儀無くされ、その結果、遂に志も萎え、肉体的にも精神的にも限界に達するに至りました。また、これ以上、家族にも精神的負担を掛けられない、と判断致しました」というものである。

   八木氏は、『産経新聞』渡辺記者と連絡して、理事会で決定されてもいない8月八木会長復帰説を既定事実でもあるかのような記事を書かせたことや西尾氏が暴露した「藤岡信勝共産党籍離脱時期についての怪文書」をばらまいたことやその他いろいろと問題のある行動をとったことは明らかで、なんら自分に非はない、外部と連動した動きの犠牲者だという弁明は通らないだろう。自分こそが外部と連動して動いて、西尾・藤岡両氏を追い落とそうとしたのだから。

 種子島前会長の弁明は、会長就任時の理事会での(1)全理事が揃って支持してくれる事。(2)副会長選任などの人事については私に一任される事、を破って、統制違反が繰り返され、これ以上会長職がつとまらない。それに持病もあり、とうていその任にたえないというようなことである。さすがに国際的企業の長を務めたてきた彼も、「『つくる会』の理事諸侯の一部に関してはマネージ不能であった事を遺憾とします。彼等は、ルールを守る、ボスの方針に従う、等の国際基準を全く無視しますのでマネージ出来ないし、彼等との仕事は賽の河原で石を積む子供達の様な空しさの繰り返しにしかならないのです」とさじを投げた格好だ。つぎに誰が、会長になっても、マネージは困難だろう。

 これで、「つくる会」理事会から、宮崎前事務局長を含む「生長の家学連」「日本青年協議会」「日本会議」系統の理事がいっぺんに消えた。しかし、新理事5名は、教科書採択現場の意見を採り入れた実践的な人物たちと見られ、この人事には、採択戦により力を入れた布陣をしく意図があるようだ。しかし、「つくる会」の体質そのものが、マネージの難しいものであることが、繰り返し現れているので、これからもゴタゴタを繰り返すだろう。「扶桑社」『産経新聞』などフジ・サンケイ・グループや日本会議などとの関係も、波乱含みで、ぎくしゃくする可能性が強い。

 かれらは、自分たちの神話を広めるために、「自虐史観」なる神話もどきをはじめ、次々と神話もどきをでっち上げている。それは歴史認識を育くむよりも、混乱を拡大している。歴史認識の混乱や神話もどき化は、自分たちの組織にも反映しているようだ。

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4月29日『読売』社説[教育基本法改正]云々を笑う

 29日の『読売新聞』社説[教育基本法改正]「民主党も意見集約を急いでは」は、ついに、『読売』は、お笑いに転じたかと思わせる。

 「日本の将来を担う人材を育てるための教育の目的や理念はどうあるべきか。充実した審議を展開してもらいたい」。これは正論だ。

 しかし、続いて、「改正案は、現行法に記述のない「公共の精神」「伝統」の尊重や、「我が国と郷土を愛する…態度」との表現で愛国心を養うことなどを盛り込んだ」と、態度と心を区別していない。言葉を大事にするなら、これが公明党に妥協して、「愛国心」という表現をあえて避けていることは、一目瞭然であるのに、どうしてこれが「愛国心を養うことを盛り込んだ」ことになるのか。

 日本会議や議連は、はっきりと「愛国心」を明記するように求めて、そうしなければ、この法案に反対すると主張している。こちらの方が、言葉の意味を明瞭に理解している。言葉を使う職業の新聞人が、心と態度の意味の違いをあえて無視することをやってのけているのは、どういうことだ? とにかく、なんでもいいから、「愛国心」らしき表現さえ入ればいいということか? それとも、この法律が成立してしまえば、解釈で、なんとかなるということか? ともかく、ここは、わけがわからない。

 アメリカは、対テロ戦争の真っ最中で戦時中である。それなのに同盟国たる日本は、戦時中ではないというのだろうか? 平時なら、与党は、なんで「共謀罪」新設を急いでいるのか? 日教組が「軍国主義教育の復活をさせる動きだ」として反対しているのは無理があるというが、イラクで自衛隊が、米軍に物資輸送を行っているのは、アメリカの戦争に加わっていることにはならないのか? アメリカは、「対テロ戦争」が、新たな形態の戦争であり、それに勝つためには自衛のための先制攻撃を行うと宣言している。つまり、防衛は同時に先制攻撃準備でもあるということだ。日本はそれに参戦しているのではないか? これは新たな戦時ではないのだろうか? 同盟国の片方が戦時入りしているのに、もう片方が戦時ではないということはどういうことか? 第二次世界大戦型の戦争形態での戦時しか思い浮かばない『読売』の方が、古くさい。これは、『読売』が、イラク侵略戦争から何も学んでいないということを表している。

 続けて、「学校現場は、いじめ、校内暴力、不登校など多くの問題を抱えている。犯罪の低年齢化や自己中心的な子どもの増大、「ニート」に象徴される若者の職業観の乱れも深刻だ」といろいろと問題を並べている。この社説は、それらを解決するのは、次の、「改正案では、「家庭教育」の条文も新設する。戦後教育が家庭の役割をおろそかにしてきたとの反省から、父母が子どもの教育に第一義的責任を持つことを明確にする趣旨だ」というところにあると言っているようだ。しかし、文章上は、そうなのかどうかは、はっきりとはしない。

 むしろ、「政府に、政策目標などを明示した「教育振興基本計画」を策定することも義務づけた」ことに解決策の主眼があるようにも読める。「教育が直面する問題の是正のため、どんな政策目標を掲げるのか。国民の関心も高い。国会での法案審議と並行して、国民の関心に応える基本計画策定の作業を急ぐべきだ」と続けて書いてあるからだ。

 それから、審議が進まないだろうと予想し、それは民主党が正反対の意見に別れているせいだと、民主党のせいにしている。民主党は対案づくりは容易ではないし、鳩山幹事長が、「教育基本法は憲法と並ぶ重要なものだ」と言っているのは、改憲まで教育基本法改正を先送りするものだと述べている。

 しかし、教育基本法は、教育を日本国憲法の理念の実現の手段と位置づけており、鳩山幹事長が、教育基本法を憲法とセットにして扱っているのは、正しい。与党案でも、「日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓(ひら)く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」と、憲法精神の実現が、教育基本法の役割であることを明記している。もちろん、自民党は、将来の改憲を視野に入れつつ、教育基本法改定をその先取りとしたいのである。

 憲法が国の基本的な目標や理念などを規定し、それを実現するために教育という手段が取られるのであり、教育が、憲法を超えて一人歩きすることがあってはならないわけである。しかし、与党案は、やや教育だけを独立的に扱うような書き方ではある。

 この社説があげる学校現場の諸問題が、この与党案の成立によって解決するとも思われない。むしろ、29日『東京新聞』社説が、「自分の国を愛する、というような感情も、よい政治が行われ、国民一人一人の安全や安心が担保されていれば、国民の心の中に自然と芽生えてくるたぐいのものだ。基本法を改定してまで条文化することにはなじまない」と言うように、現場での混乱が増すことが予想される。

 また、それは、「教育の憲法ともいえる基本法に明記すれば、当然、それに連なる学校教育法などの関連法令、さらには教える内容を定めている学習指導要領にも色濃く反映され、強制の度合いを深めていくことになろう。/小中学校の社会科や道徳で先取りしている「国を愛する心」を持つとの目標を、さらに拡大・推進したい、との思いが見て取れる。/教育現場では既に二〇〇二年、福岡市の小学校で「愛国心」を通知表で評価していることが表面化したが、条文化すればこうした動きにも法的な根拠を与えることになる」。

 こうした諸問題が予想される以上、『読売新聞』のように、審議を急がせるようなことはあってはならず、ましてや与党が数を頼みに、成立を急ぐというようなことはあってはならない。お笑いなのは、『読売新聞』がこれまで主張してきたことから言えば、この与党案は、ベストな案ではなく、ベターであるにすぎないことは誰が見ても明らかなのに、それを全面支持しているその二枚舌である。

 それに、教育問題を日教組などの他者のせいにして、新聞やメディアの責任をスルーしてすましていることだ。自分にも責任があるという自覚がないでは、本当の問題解決にはつながらない。何でも他人のせいでは、「公共の精神」を語る資格がないのは、明白である。

 いずれにしても、教育基本法改悪には、反対するほかはない。  

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4月23日『産経新聞』「職員会議 採決は校長の権限を縛る」のひどいこと

  23日付『産経新聞』主張「職員会議 採決は校長の権限を縛る」を読んで、頭にきた。

 この「主張」は、先日、東京都教育委員会が、学校の職員会議で挙手や採決を行うことを不適切とする通知を出したことを支持している。その理由は、「公教育の現場では校長の意思決定が優先し、たとえ教職員の多数意思であっても、それを否定することは許されていない。校長は職員会議の意見を参考にしてもいいが、最後は自分自身で決断しなければならない権限と責任を持っている。民主主義のルールをはき違えてはいけない」というものだ。

 問題は、職員会議での採択を参考にして校長が意志決定しないで、職員会議の多数決採択の結果によって、校長の意志決定が縛られたかどうかである。都教委は、そういうことが一部の学校で実際にあったとして、上の通知を出したわけである。これ自体は、校長自身の問題であり、職員会議の問題ではない。職員会議で、挙手や採択があったとしても、法的に校長の意志を縛るものではなく、ただ参考にしておけばいいことだ。

 この主張は、それを、職員会議のせいにして、問題をすりかえている。これは、校長がかわればいいだけの話である。

 それなのに、そこから問題をふくらまして、教職員の横暴な振る舞いが教育現場の混乱の原因として、無理やり、この問題と関連させている。曰く。

 「もともと、職員会議に関する法規定はなく、慣習とし認められていたに過ぎなかった。教職員組合の勢力が強い学校では、職員会議があたかも最高議決機関であるかのように誤解され、教育現場を混乱させてきた」。

 法規定のない慣習は、この世の中にはいくらでもあって、それはそれなりに、社会生活を円滑にする上で、有効な働きをするものもあるし、だんだん世の中に合わなくなって、廃れたり、廃止されたり、矛盾が大きくなっているものもある。習慣が、法律化されるという場合もある。民法には、そういう規定が多い。印鑑やサインが習慣的に使われていたのが、電子署名が習慣になって、公的に認められるようになるなどというのもそういう類のことだ。

 職員会議が、学校の最高議決機関として習慣化して、それが学校運営や教育上、いい効果を発揮する習慣であれば、それを合法化してもいいわけだ。

 しかし、「旧文部省は職員会議を「校長の補助機関」と位置づけ、意思決定機関ではないとした」。やはり、公式には、校長が職員会議を補助機関として扱えばよいだけの話である。

 とはいえ、こういう旧文部省の職員会議を「校長の補助機関」とする位置づけ自体が、はたして正しいかどうかという問題がある。

 この「主張」は、「広島県で七年前、国旗国歌問題をめぐり連日連夜の職員会議や教職員組合との交渉に追われた校長が自殺した。また、埼玉県立所沢高校では八年前、職員会議に加え、生徒会までが校長の指導に従わず、入学式や卒業式をボイコットした」「東京都国立市で、過激な教員の影響を受けた小学生が、卒業式に国旗を掲げた校長に土下座謝罪を求める事態が起きた(平成十二年)。広島県尾道市では、民間人校長が職員会議による“いじめ”同然の反発を受けて自殺した(十五年)」ことをあげ、これらの事件の原因を、「理不尽な職員会議」のせいにしている。

 またこれらの事例に対して、「悲劇や混乱」という観客的な態度をとっていることも、ジャーナリズムとしての自覚と責任感を欠いている。事件をしっかりと客観的にえぐる役割を放棄して、眺める者になってしまい、そして、そういう主観的印象を「職員会議」のマイナス評価と直結してしまっている。そういう前に、きっちりと問題を検証することが必要だ。この「主張」は、それをしていない。

 校長が右と言っているのに、それに反対して職員会議が左というと、校長の自殺や入学式や卒業式の混乱が起きるといっているわけだ。卒入学式で「日の丸君が代」強制を校長に指令したのは、教育委員会や教育官僚である。校長が、それを学校現場で実行するのは、校長の自発的意志というよりも、上からの官僚通達や指令や指導によるものだ。

 校長は、教育委員会や教育官僚の操り人形か? それで、どうやって、創造的な教育が実践できるだろうか? 校長が、教育委員会や教育官僚のロボット化して、自由や民主主義教育が、本物になろうか?

 『産経新聞』は、自由だの民主化だのについて、口では、耳にたこができるほど、繰り返してきた。とくに、イラクに自由と民主化をもたらすためには米英などの多国籍軍によるイラク攻撃は有効だったと強調している。イラクには自由民主主義、日本では教育の官僚主義支配の支持、一体どっちが正しいのか? 読者を混乱させるその二枚舌をいい加減に止めたらどうだろう。こういう二枚舌や裏表ある態度こそ、教育のためにならない。

 教職員の意欲やインセンティブを高め、引き出す教育こそが、上のような愚策で教育を官僚主義で窒息させるよりも、はるかに教育を向上させていくことになる。

 この「主張」は、民主主義とは何かを提起せずに、ただ他紙の民主主義観にけちをつけるネガティブキャンペーン的なことをやってすましている。それも問題だ。『産経』流の民主主義観は、あくまでも『産経』という民間の一新聞の特殊な見方にすぎないことを読者はしっかりと念頭に置く必要があることを強調しておきたい。 

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教育基本法改定案について。再び。

  自民ー公明が合意した教育基本法改正案が、今月中にも、国会上程されるという報道がなされた。しかし、この改定案は、読めば読むほど、おかしな文章に見えてきて、どうしてこんなわけのわからない基本法を、急いで成立させようとしているのか、不思議に思えてくる。

 自民党内からも、いろいろと批判が出ているようだが、すでに反対派への根回しはすんだと自民党幹部が語っているという。しかし、小泉首相自身は、慎重に情勢を見極めると言っているという。

 まず、もっとも大きな焦点になっている「愛国心」は、けっきょくもりこまれず、「国や郷土を愛する態度」になっている。いうまでもなく、「態度」と「心」は異なるものである。「態度」を『岩波国語辞書』で引くと、「身の構え。そぶり。様子。」とある。「心」は、「①からだに対し(しかもからだの中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。」である。

 「態度」は、外形的なものであり、「心」は、内在的なものである。したがって、この部分は、国を愛することを内面に立ち入って教育するものではないということをわざわざ明示しているわけだ。「愛国心」強制を排除する根拠を明記しているといってもいい。

 さらに、日本国憲法の精神に基礎を置くことを残しており、そういう歯止めもかかっている。

 確かに、公共性の精神や教員の崇高な使命の自覚とか自立心などの精神・心の強調が目立ち、教育がそういう領域に深入りする危険が感じられるものではある。

 新たに入れられた家庭教育・幼児教育の部分はどうだろうか。

10・家庭教育

(1)父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

(2)国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

11・幼児期の教育

 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。

 これらのことは、いろいろとこれまでも行政が行ってきたことであり、わざわざ教育基本法に入れるほどのこともないことである。こうしてなんでも国家行政にやらそうというのは、「官から民へ」の小泉改革のスローガンには逆行するのだが、そんなこともおかまいなしだ。

 道徳教育は入っておらず、宗教教育についても、保守派が従来から主張してきた宗教的情操の涵養はまったく入っていない。道徳教育については、学習指導要領が強調しており、「ゆとり教育」の狙いが、そこにあったことは明らかだ。学力一辺倒だと、道徳教育がおろそかになるということだ。受験勉強のために、道徳の時間が削られることを体験した人も多いのではないだろうか。他科目の自習黙認みたいな形である。文部官僚は、そうやって、受験競争を突破してきたのではないだろうか。「ゆとり教育」については、経済界からも批判が強くなって、学力重視になし崩しに戻りつつある。

 とにかく文部官僚は、昨日決めたことを今日はひっくりがえすことを繰り返して、現場に混乱ばかり引き起こしている。「日の丸君が代」強制みたいな現場を混乱させるような余計な官僚主義的な介入をしないのが教育のためである。

 「教育は、不当な支配に服することなく」は、そのまま残っている。『産経新聞』は、それが、学校での「日の丸君が代」強制に抵抗する教師などの行為に根拠を与えていると批判している。

 いずれにしても、これは、自民党と公明党が、連立の求心力を保つための法案であって、昨年の総選挙での圧勝によってえた圧倒的な議席数の優位を背景にした政局的な狙いを持つものだろう。連立の成果が欲しいのだろう。

 「愛国心」明記などを求めている保守派は、昨年の総選挙で、刺客を送り込まれて支持基盤を分裂させられたり、大量に処分されたり、党から追放されてしまって、自民党執行部に逆らえる状態ではないし、弱体化してしまっている。民主党でも、西村真吾は離党しているし、保守系の大物議員も多く落選してしまった。力もでない。

 こんなものに変えても、教育がかかえる課題は解決などしない。教育基本法改悪反対である。現行教育基本法の理念の現実化を推進していくのがよい。

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教育基本法改定与党合意案への各紙の反応から

 教育基本法改定の与党合意案ができたことを受けて、新聞各紙が社説で取り上げている。まず、抜粋してみる。

  4月14日『朝日新聞』

 第一に、急いで見直す必要が本当にあるのだろうか。基本法でうたっているのは理念である。改正しなければ実現できない教育施策や教育改革があるというのなら、どんなものかを聞きたい。

 学校で事件や問題が起きるたびに、教育基本法を改正すべきだという声が政治家から上がる。しかし、本当に基本法が悪いから問題が起きるのか。きちんと吟味する必要がある。

 第二に、「国を愛する」ことは自発的な心の動きであり、愛し方は人によってさまざまなはずだ。法律で定めれば、このように国を愛せ、と画一的に教えることにならないか。それが心配だ。

 こうした不安が消えないのは、国旗・国歌法について当時の首相が「強制は考えていない」と答弁したのに、強制が広がっている現実があるからだ。

 基本法の改正をめぐる与党検討会は3年間で計70回にのぼる。しかし、与党内だけのやりとりであり、国民の関心や論議はいっこうに盛り上がっていない。

 教育という大事な政策の基本にかかわることである。今回の合意をたたき台にして、国民が大いに論議することが必要だ。改正法案を出すかどうかは、それから先の話である。

 4月14日『東京新聞』
 
 なぜいま、合意を急いだのか。巨大与党の小泉政権のうちに解決しておきたい自民党と、今秋の首脳人事や来年の参院選を控える公明党との思惑が一致した、との見方がある。

 基本法の改正については三年前、中央教育審議会が答申で「国を愛する心」や「公共の精神」など八項目を、あらたに盛り込むべき概念として挙げた。

 「国を愛する心」については「国家至上主義的な考え方や全体主義的なものになってはいけない」と、既にその時クギを刺している。

 基本法は教育の憲法である。その基本法で定められれば、学校現場で教育内容を規定している学習指導要領などにも、より色濃く反映されよう。基本法でうたう以上、教育現場での扱いをどうするのか。現場が混乱しないのか。

 かつて国旗・国歌法が成立したとき、小渕首相(当時)が「児童や生徒に強制するものではない」と国会で答弁したにもかかわらず、現実には卒業式で国歌斉唱時に、起立を半ば強制している教育委員会もある。

 現行法では、前文で「個人の尊厳」や「真理と平和を希求する人間の育成」などがうたわれている。改正の前文案でもこれらの理念は引き継がれているというが、この理念が教育現場で実践されていれば、いま社会問題となっているいじめや虐待、拝金主義などの問題は克服されていよう。改正する前に現行法の理念を実践することが先である、ともいえる。

 教育基本法改正に関する与党検討会の議事録は公開されていない。いまのところその予定もない。教育は国民みんなのものだ。改正の是非をじっくりと考えたい。

 4月14日『産経新聞』

  「愛国心」の表現で、これだけもめる国は、おそらく日本だけだろう。愛国心は、どの国の国民も当然持っているものだ。そして、愛国者であることは最大の誇りとされる。国の根本法規である教育基本法は、もっと素直な表現であってほしい。

 これまでの与党合意には、家庭教育の充実など評価すべき点も多いが、現行法より後退しかねない部分は、なお修正が必要である。戦後教育の歪(ゆが)みを正し、子供たちが日本に生まれたことに誇りを持てるような格調の高い改正案に仕上げてもらいたい。

 4月13日『読売新聞』

 「愛国心イコール戦前の教育」との考え方は共産、社民両党も主張している。民主党内にも、旧社会党系議員を中心に同様の意見が根強い。

 だが、愛国心を教えることを否定的にとらえる国など、日本以外にない。戦後の平和国家としての歩みを見ても、わが国が「戦前の教育」に戻る可能性は、微塵(みじん)もない。

 こうして並べてみると、この問題に関して、『読売』『産経』の主張が無内容である。 『産経』は、愛国心は世界的に普通だという一般論で、誤魔化している。もめているのは、その中身をめぐってであって、愛国心一般をめぐってではない。『産経』が、それを具体的に提出していないのがだめなのだ。そこから、表現に文句をつけて、素直じゃないなどと言っている。それから、現行法より後退しかねない部分の修正を求めている。どこがそれに当たるのかは具体的に指摘していない。野党に向かっては対案を出せとうるさく噛みついている割には、自分自身にはそれを免除している。次の戦後教育の歪みを正すということがもっとも言いたいことなのだろう。与党合意案は、やはり公明党への配慮がいろいろあって、それにはほど遠いものであり、『産経』は、再修正が必要だと思っているようだ。ただ、表現に文句をつけているだけで、具体的な内容を対置していない。

 『読売』の方は、この合意案に全面的に賛成で、今国会で成立させるべきだと言う。愛国心については、前に書いたように、対テロ戦争という戦時の中で、すでに平和国家も怪しくなりつつある中での「愛国心」教育は、新たな「戦前の教育」と言えよう。そういう時代の現実を見ないで、どうして時代を読んだと自負できるのか。『読売』の主張は、自惚れにしか見えない。

 『朝日』『東京新聞』は、改正するかしないかも含めて、これから議論をしっかりやるべきだと主張するものだ。後者は、教育基本法の理念が教育現場で実践されていれば、いじめや虐待、拝金主義などの問題が克服されると主張している。「改正する前に現行法の理念を実践することが先である、ともいえる」。これは憲法の問題でもそうだが、大事な視点である。

 東京都教育庁の職員会議の挙手、採決禁止と校長主導の学校運営の導入の促進の指令は、この間、トップダウン式のワンマン経営者たちがいろいろと問題を引き起こしてきたことを見れば、あらかじめ様々な問題が生じることがわかりきっているものだ。どうしてこんなおかしなことをやろうとするのか。官僚主義に陥って、現実を知らない官僚が、頭の中だけで描いた絵空事の実現に熱中しているとしか思えない。公正取引委員会の委員長の官僚が、独禁法からの新聞の特殊指定廃止を、市場原理の導入を主張して、1人で固執しているというが、それと似ているのではないだろうか。民主主義があれば、責任をシェアできるし、それだけ管理職の責任を軽くすることができる。仕事も進めやすいのである。合意したことについては、全員が責任を果たそうとするからである。官僚制度が、非効率になりがちなのは、民主主義ではなく、命令や指令などだけで、組織を動かそうとするからである。

 教育基本法に愛国心などを入れたら、こんなしょうもない連中を力づけるだけになりかねない。与党合意案は、それほどでもないが、自民党内では、これを再修正しろという意見が出ているらしい。改悪になるくらいなら、変える必要はないし、それよりも、理念の実践や現実化こそ、やるべきことだ。

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与党の教育基本法改定案について

 どうも教育の話が続きますが、「教育基本法」改正案が、与党内でまとまった。『読売新聞』記事から、前文案を引用する。

   我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類福祉の向上に貢献することを願うものである。我々はこの理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊ぶ豊かな人間性と創造性を備えた国民の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに我々は日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓(ひら)く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

 これを見ると思いの外、たいしたことがないもので、やはり公明党にかなり配慮したことがうかがえるものだ。これを『読売新聞』が喜んだのはいうまでもない。公共の云々という当たりは、『読売新聞』のこの間の主張のとおりだからである。

 13日の『読売新聞』社説は、「戦後間もない1947年に制定された現行法は、「個人の尊厳を重んじ」などの表現が多い反面、公共心の育成には一言も触れていない。制定当初から、「社会的配慮を欠いた自分勝手な生き方を奨励する」と指摘する声があった」が、「青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延(まんえん)などを見れば、懸念は現実になったとも言える」として、教育基本法改定は時代の要請だと書いている。

 法律が、自分勝手な生き方を奨励したなどと言うのは、法律主義的な幻想である。第一、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方を蔓延させることに一役買ったのは、与党自民党でもあり、新人野球選手をルール違反の大金を積んで独り占めしようとした『読売新聞』渡辺恒雄主筆自身ではないか。それを法律のせいにして、自分たちの責任を反省しないのは、どういうわけだろう。問題は、愛国心の欠如ではなく、人間同士のコミュニケーションのあり方であり、企業内などで、バラバラの私人同士として厳しく競争させられて、相互の間で深い理解がつくられず、縁遠い存在にさせられてしまって、相手の苦しみや犠牲や被害を理解し、共感する感性が摩耗させられ、想像力が奪われていることだろう。『読売新聞』自身が、岩国市での住民投票や名護市の普天間基地移転問題などについて、そこでの住民の犠牲や痛みや被害に、共感も理解も欠いていることをあらわにしている。

 教育基本法に愛国心を入れたからといって、犠牲者に対する理解や共感や想像力が生まれることは期待できないし、むしろ、それは新たな戦前への道を掃き清めることになる可能性が高い。なぜなら、『読売新聞』社説は、戦後60年にわたり平和国家を築いてきたのだから、戦前に回帰することはないというのだが、すでに、イラクへの自衛隊派兵によって、同盟国の戦争に事実上参加し、さらにその同盟関係を強めよと『読売新聞』はこの間、繰り返しているが、それに従えば、同盟強化=国益という図式の中で、新たな戦争体制が作られていくことは明らかである。なにせ、アメリカは、自衛のための先制攻撃論を唱えている国だから、自衛は同時に先制攻撃力を準備することを意味しており、それに同盟国としておつきあいするためには、自衛専念などでは間に合わず、アメリカの先制攻撃準備に合わせた攻撃的体制をとらねばならないことになる。

 愛国心の対象に「統治機構」を含むのかどうかが曖昧なまま、「愛国心」が盛り込まれたのは、大問題だ。公務員を愛することが、基本法で規定されるか否かは、重要なことで、この点を追求しながら、公明党が妥協したのは連立優先で、後に問題を残したことを意味する。もっとも、まだ連立与党間での合意ができたというだけである。教育基本法改悪反対運動もあるていどの盛り上がりを見せており、決着はまだ先である。

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入学式でも相変わらず文部官僚の官僚主義が吹き荒れている

  入学式が各地で行われた。相変わらず、東京都が突出しているが、全国の公立学校で日の丸君が代の強制が行われたようだ。東京都では、公安警察が監視やビラまきの妨害に当たっているようで、どうしてこれが公安の扱う事案なのかわからないが、とにかく、教育委員会と学校当局の執念を表していることは確かだ。

 あのうんざりする長い校長式辞や来賓挨拶を誰か止めてくれと言いたくなったものだが、それはともかく、こういうことをやっているのは、韓国と日本ぐらいだという記事を読んだ。アメリカには、「星条旗を永遠なれ」の他にも国歌扱いの歌があるという。国歌といってもいい加減なものなのだ。

 北海道では、ある校長は国が学習指導要領で決めたからだと述べたという。文部科学省は、国の一行政機関で、国そのものではないでしょうに。教育者には、もっと別に力を入れてやるべことがたくさんあるというのに、中央官庁でも天下りが多い文部科学省なんぞのいいなりになってばかりではなさけないでしょう。木っ端役人が何をいおうと自分には自分なりの教育のやり方や考えがあるというような気概はないのか。世の中にはこんな人もいるのだ。

 ところで、今日、カミさんと2人で娘の高校の入学式に行ってきました。駅を降りるとビラを配っている人がいます。
 受け取って見出しを見たら、「入学式に出られない先生がいるのをご存知ですか?」とあります。どういうことなのでしょうか。次のような説明が書いてありました。

  今日は八王子東養護学校の入学式です。しかし、去る1月25日の調布養護学校の周年行事で国歌斉唱の際に起立しなかった河原井純子さんは3月13日に停職処分が出されたために入学式に出席できません。実は、河原井さんは4月1日付で八王子東養護学校に着任したのです。

  国歌斉唱の際に起立しなかったから停職処分を受け、新たに着任した学校の入学式に出られないというわけです。
 「起立しない」ことが、それほどの「罪」なのでしょうか。このような「罰」によって起立を強制することが、教育現場にふさわしいことなのでしょうか。

  娘の高校の入学式でも、国歌斉唱があります。起立して「開会の辞」が述べられた後、「国歌斉唱」と言われたとき、父母席の一番前にいた私は静かに椅子に座りました。座っていたのは、私とカミさんの2人だけだったでしょう。
 来賓席にいた東京都教育委員会の方の目に入って欲しいと思いました。私たちの行動が、都の教育委員会が行っている愚行への異議申し立てであり、抗議であることを理解してもらいたいと思ったからです。
 この方は、来賓としての祝辞で「互いの人格を尊重し」と述べていました。その言葉は何と白々しく響いたことでしょう。「互いの人格を尊重」できる人であれば、国歌斉唱で起立を強制し、それに従わなかった見せしめに停職を言い渡して入学式にも出席させないというようなことをするはずがありません。

 娘の高校の校章には、Lの字が刻まれています。「自由(Liberty )」をデザイン化したものだといいます。
 「自由」。その価値の尊さと大切さは、今日の入学式の場でも多く語られたことでしょう。しかし、そのような言葉が語られている場なのに、君が代についての「内心の自由」は存在せず、起立が強制されています。
 私たち夫婦は、一個人として、このような強制に反対であるという意思を表明しました。同時にそれは、このような自由を守り、強制に屈しない人間に成長して欲しいという願いを込めてのことでもあります。そのメッセージが、式場にいた娘など新入生に届いたかどうかは分かりませんが……。                                             「五十嵐仁の転成仁語」http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm

 他方で、教育基本法に「愛国心」を入れる改定を今国会中に目指している自民党の森元総理は、これに賛成するかどうかが、民主党が健全野党かどうかを判断する踏み絵だということを述べた。与党が、野党の健全性の基準を決めるなどという馬鹿げたことを言ったわけだ。アメリカでは、共和党も民主党もうんざりだ、民主主義を発展させるために、予備選の廃止、大統領直接選挙を求める運動が起きている。二大政党制は、民主主義発展の阻害物であることを訴える動きが起きているのである。イギリスでは、すでに二大政党制ではなく事実上多党制になっている。 

  「愛国心」の言葉を入れることよりも、教育現場での問題解決力を育てるための支援策づくりに力を入れることが必要だ。やるべきことに力を集中し、心の問題に国が介入することはやめるべきだ。 

 レイバーネットジャパンhttp://www.labornetjp.org/より

     東京・日比谷野音で「教育基本法・憲法の改悪をとめよう!全国集会」が開催され、会場いっぱいの4千人が集まった

     4月22日(土)06年卒・入学式-総括と展望を語る集会(都教委包囲首都圏ネット主催)13時30分 文京区民センター(都営地下鉄春日)

 

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4月7日『産経』教育基本法改悪の主張を批判する

 4月7日の『産経新聞』「は、教育基本法に「国を愛する心」を入れるために、自民党がんばれと声援を送っている。アホらしい主張だが、学校現場で、心の問題への公的介入、心の強制が、処分という強制手段で行われ、その犠牲者が数多くでているという異常事態が起きているから、日本国憲法で、自由と権利を保持するために不断に努力する義務を課せられている「国民」として、これを見逃すわけにはいかない。

 【主張】教育基本法改正 自民は主導権を取り戻せ

 「教育基本法改正をめぐる与党協議が大詰めを迎えている。最大の焦点は、「愛国心」をどういう表現で改正案に盛り込むかだ。

 従来の「国を愛する心」とする自民党案、「国を大切にする心」という公明党案に加え、「祖国日本を愛する心」「郷土日本を愛する心」といった案が浮上している。また、自民党の関連部会では「祖国愛」を支持する声も強まっている。

 この問題で自民党と公明党の歩み寄りが見られず、両党が納得できそうな折衷案として、これらの対案が出されたという側面も否定できない。

 しかし、与党協議に先立つ平成十五年三月、中央教育審議会は「郷土や国を愛する心の涵養(かんよう)を図ることが重要」とする答申を出した。その答申に沿って、素直に「国を愛する心」と表現することに、何か不自然さや不都合があるのだろうか。自民党は「国を愛する心」の涵養を改正案に書き込むべきだとする当初の方針を貫いてほしい。

 「国を愛する心」の涵養は学習指導要領に盛り込まれており、改めて法律に明記する必要はないという意見もある。しかし、国旗・国歌の指導義務が指導要領に書かれていながら、一部の教師がこれを守らず、校長が自殺する事件も起きた。平成十一年、国旗国歌法が成立し、教育現場の混乱は是正されつつある。「国を愛する心」を教育基本法に明記する意義は大きい。

 与党協議のもう一つの大きな焦点だった「宗教的情操」の涵養を改正案に盛り込むかどうかについては、自民党が公明党に譲歩し、盛り込まないことになったとされる。だが、子供たちが身につけていかねばならない伝統行事や礼儀作法などは、日本の伝統的な宗教と深い関係にある。規範意識をはぐくむためにも、宗教的情操をはぐくむ教育は必要である」。

 この「主張」は、「国を愛する心」という表現に違和感を感じていないようだ。しかし、愛するという概念には、自由恋愛とか独立した個人同士の対等な関係とかの近代的価値観やイメージと近いものを感じる人が多いのではないだろうか。例の「冬のソナタ」が、女性に受けたのも、こういう近代的な独立した個人としての男女が自由で対等な愛を貫く姿への共感があったのだろう。愛という言葉が、こうした個人同士の平等な関係をともなうコミュニケーションのあり方を意味すると広く受け止められているから、そのおなじ言葉を国などという大きい対象について使うことに、違和感を感じるのだろう。「ぴんとこない」というのが多くの人々の正直なところではないだろうか。

 それに対して教育基本法に「国を愛する心」という表現を入れたところで、それが具体性を持つことにはならないだろう。それは、日の丸君が代を国旗国歌とすると法律で決めても、これらに神聖性が宿るわけでもなく、日の丸が渋谷の街でほこりまみれにされていたり、落書きされてスポーツ試合で振られたり、君が代がジャズ風のアレンジで歌われたりするという世俗化された形で使われることに変わりはないだろう。

 だからこそ、同時に「宗教的情操」という神聖感の涵養を必要とするのであろう。国旗や国歌を神聖視して、それを汚すことがしにくくなり、その前で姿勢を正す、敬意を抱く、等々、そういうふうにならなければ、日の丸はただの標識や象徴の一つにすぎず、君が代はあまたある好きな歌の一つにすぎない。歴史的事実としては、日の丸は最初は、外国船に対して日本の商船を区別するためのマークであった。

 国旗国歌の指導義務が、学習指導要領に、盛り込まれたが、憲法の思想信条の自由の規定に反し、教育基本法にもないことを、一官庁にすぎない文部科学省が指導義務にしているわけで、それが、教育現場混乱の原因として大きいのである。指導だの通達だの指令だのという官僚的なやり方で、法律しかも最高法規たる日本国憲法を骨抜きにし、くぐり抜けるという官僚主義の弊害が大きいのである。

 中央教育審議会にしても一審議会にすぎず、教育政策の決定機関でも何でもなく、別にそれを人々が支持する義務もない。ただ、『産経新聞』という一民間新聞がそういう立場で支持しているというにすぎない。

 今年も、東京都では、卒入学式での日の丸君が代強制に抗議して行動した良心的な教職員33人の処分を発表している。日本国憲法の思想信条の自由を守り、自由と権利のために不断に努力する義務を果たした教職員たちと、超法的に独裁した官僚とでは、前者が正しいことは明らかだ。

 最高法規を尊重する心がなく、文部官僚の独裁を愛する心をあらわにする『産経新聞』は、「新しい教科書をつくる会」に陰から政治介入した「日本会議」と連携している。

 「宗教的情操」云々の部分は、論理破綻している。伝統行事や礼儀作法を身につけることは、「宗教的情操」と直接的な関係はないし、規範意識の形成とも直接的な関係はない。伝統行事や礼儀作法や規範意識のもとになっているのは、生産のあり方を基礎とする共同体の諸関係である。

 問題の根は、生産のあり方に基づく社会や共同体の諸関係にある。

 東京都をはじめ、学校行事での日の丸君が代の強制の官僚独裁の行使を止めるべきだ。学習指導要領から国家国旗の指導義務を削除すべきだ。教育基本法に「国を愛する心」を入れるべきではない。「宗教的情操」を押しつけるな。学校を社会のものにすること。学校・教育で民主主義を前進させること。等々。

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『産経新聞』と教科書問題

 4月3日の『産経新聞』の「【主張】高校教科書 領土の明記は評価したい」は、高校教科書検定結果にふれて、検定の役割を一定評価しつつも、まだ教科書は良くなっていないと不満を表明している。

 評価しているのは、竹島・独島と尖閣諸島を「日本固有の領土」と明記するように指導した点である。「尖閣諸島は日本が実効支配し、竹島は韓国に不法占拠されているが、歴史的にも法的にも、まぎれもない日本固有の領土である。日本の教科書にそのことを明記するのは当然である」からだというのが『産経新聞』の言い分だ。しかしこの点について、異論や議論が続いている。

 ジェンダー(社会・文化的性差)についての表現はおおむね妥当なものとなったと評価する。他方で、ジェンダーフリーという和製英語も削除されたことも評価している。なぜか、ジェンダーフリーを性差否定と訳している。しかし、フリーは英語では、解放とか自由とかいう意味である。素直に訳せば、性差解放とか性差自由とかになろう。

 日本のジェンダーフリー派というのは、ブルジョア自由主義派の女性解放論者であって、それを政府内で代表した官僚が手を結んで進めたものである。そこで、性差を能力に還元したりして、無用の混乱を引き起こしたのである。

 それと上野千鶴子さんなどの女性解放思想は違うもので、彼女は、男女共同参画社会基本法を批判していた。ジェンダーフリーを男女平等と言い換えても、別に現実が変わるわけではない。景気回復にともなう労働力需要の拡大によって、女性労働力は企業に引っ張り出されるわけで、少子化もあって、なおさらそうなるのである。

 子育ては大変だから、女性がそれに専念すべきだということを言う者もあるようだが、大体、昔は、地域共同体と家族全員が子育てや教育に関わっていたので、共同作業だったのである。それを女性個人だけに押しつけるなどとはひどい話だ。それに現在でも、子育て教育に公的な支援のないところなどどこにもない。

 『産経新聞』も、小泉政権の構造改革路線を支持して、景気回復を訴えてきたのだから、その結果、ますます女性が外で働くことになるのは、誰が考えても当然のことなのだから、ジェンダーフリーという言葉を消したからといって、男が外で働き、女は家庭内で子育てに専念するなどという男女の固定的役割分業に戻れるわけがないことぐらいわかっているはずだ。『産経新聞』も、男女平等を否定しているわけではないのだ。

 南京事件については、ひたすら犠牲者数の曖昧さをつくというこの間の、右派保守派の戦術を踏襲して、「「二十万人以上とする説が有力」とする記述が検定をパスしたことは、極めて問題である」と批判している。「最近の実証的な研究」で、「三十万人虐殺」説や「十万ー二十万人虐殺」説は、「ほとんど否定されている」としているが、その「最近の実証的な研究」は、なぜか数の少ない方を事実に近いとするもので、信頼に足る研究とは言い難いものである。歴史偽造の汚名を着ることは、歴史研究者にとって恥であろうから、慎重を期さなければならない。

 「沖縄戦で旧日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする誤った記述には、今回も検定意見が付かなかった。NHKの教育テレビで放映され、問題になった「女性国際戦犯法廷」は、昭和天皇を弁護人抜きで一方的に裁いた政治集会に過ぎないが、来春からの教科書に初めて登場する」と問題を指摘して、「全体として、高校教科書の近現代史の部分は検定を重ねるたびに、問題記述が増えているように思える。検定は「こう書け」とまでは言えない。教科書の執筆者は少なくとも、日本の過去を正確に記述すべきだ」と主張する。

 「新しい歴史教科書をつくる会」のゴタゴタ騒ぎに絡んで『産経新聞』の渡辺という記者が西尾幹二や北海道支部からねつ造記事を書いたとして抗議されるということがあった。それについて「西尾幹二のインターネット日録」でいろいろと書かれている。『産経新聞』は、このゴタゴタの渦中で、政治的に動いていたことが暴露されたわけで、教科書問題について、このようなキレイごとを並べる資格がないことは明らかだ。

 それというのも、そもそも、西尾氏は旧版の記述に「つくる会」としての思想・歴史観を反映させたと考えており、新版は、とにかく採択率を上げるために、やむを得ず、採択されやすいように記述を書き直した(リライト)にも関わらず、採択目標を達成できず、大幅にそれを下回ったので、このようなリライト戦術について、責任を誰かが取らねばならず、それが宮崎事務局長解任であったようだが、それを不満とする扶桑社側の意向を受け、あくまで採択率アップを目指す新版路線を支持する『産経』側の本音を書いて、「つくる会」という独立組織の人事に政治介入しようとしたのが、渡辺記者の先の記事であるということになり、言うまでもなく、これは「つくる会」内の西尾支持派の怒りに火をつけ、「つくる会」内紛は、分裂・解体の動きを促進するものとなった。北海道支部の動きはその現れだろう。

 西尾元名誉会長は、「つくる会」からの完全脱退を宣言しており、さらに、持てる資料を出していって反撃し、名誉毀損と闘うと宣言している。西尾派が後を追い、旧版を押すグループが新しい動きを始めるかも知れない。『産経新聞』は、このゴタゴタの当事者であり、政治的に動いていたのが暴露されたのであるから、ゴタゴタが続けば続くほど、傷を負うことになるだろう。

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教科書検定問題から徒然なるままに考えた

 先日終わった教科書検定の結果がさっそく外交問題になっている。一つは、竹島・独島と尖閣諸島を日本の領土と明記するように修正意見がつき、そのように修正されたことに、韓国政府と中国政府が抗議を表明したというものである。

 バブル崩壊で土地神話が崩れ、土地は利用してこそ価値があるという考えが広まったと言われているが、未だに、領土そのものに高い価値を置いている者が、文部科学省にも生き残っているらしい。領土にはそれにともなう権益があるからこそ、領土争いは、時に激しいものとなる。歴史観の問題は、それを観念的に反映しているのである。土地所有がもともと不合理なように、領土という概念も、不条理な観念にすぎない。

 日本史においても、土地所有観念は曖昧なものであり、封建制の徳川時代でも、もともとの国主は天皇であり、土地と人民はすべて天朝様のものという考えが根強く残っていた。歴代の武家政権は、朝廷から征夷大将軍に任命された臣下という形をとっていた。明治維新にしても、王政復古というスローガンが掲げられ、古代天皇制国家の公地公民制への復古が唱えられたりした。だから、藩籍奉還は、本来の持ち主である天皇に返すという理屈で行われたのである。しかし、名目はどうあれ、実際には、土地私有制が導入されるのであり、それを西欧から取り入れたのだ。

 竹島・独島、尖閣諸島の場合、そこに住民がある程度の人数住んでいれば、住民投票での民主的な帰属の決定も可能だが、どちらも無人島であり、それは不可能だ。島は、人が快適に長く住めそうな環境ではない。したがって、漁業資源や周辺の海底資源の権益争いということが、これらの場合の主要な問題である。

 これらの問題で、メンツがどうのこうのとこだわっている人間は、官僚に無意識に操られているお人好しにすぎない。文部官僚が、外交問題に口を出しているのは、たんなる学術文化の発展役ではなく、国家のイデオロギー部門担当として働いているのだ。そうでなければ、教科書の記述では、学問的な正確さを優先した書き方を指導するはずだ。教科書は、知識や教養や文化の普及のためにあるはずなのに、国家のイデオロギー注入装置の性格を強められているのである。

 他方で、南京事件の記述では、学問的な正確さを求めており、いくつかの数字を並べるという書き方を容認している。右派が、数字の曖昧さにこだわって、そこから南京虐殺はなかったと結論しているのは飛躍である。同時に、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)600万人とか文化大革命の犠牲者1千万人とかいう数字を正確な事実でもあるかのように主張しているのも、イデオロギー的すぎる。ホロコーストの犠牲者数も、政治的に操作された疑いがあり、ソ連での犠牲者数も事実資料による裏付けが十分にあるように見えないし、文革についてはもちろん信頼できる正確な統計資料などはまだない。

 かれらもいいかげんだ。それに気がついて、離れる者もいる。なんとなくハマってしまったのを後悔していると言う人もある。

 それに、韓国の反共軍事政権下の虐殺もあれば、米軍がイラクで行ったファルージャなどでの虐殺もあるわけで、今現在の虐殺をどうするかということが重要である。ホロコーストの犠牲者に対しては、謝罪と補償が行われ、しかも今やイスラエルは、中近東の核武装した軍事大国であり、パレスチナ人を抑圧・虐殺している加害者であり、民族抑圧者で、強国である。かつてのような抑圧された被差別民族ではないし、そういう過去の弱者のイメージは、現在のかれらの真実の姿とはかけ離れている。

 とんでしまったけれども、教科書検定などというのは、領土などという不条理なものを不条理なものとして露わにしてしまうだけだ。日の丸・君が代強制もそうである。それらが、国旗国歌になったのはなぜか? ある時政府がそう決めたからである。それまでは、例えば、戦の時は武士は家紋の旗を掲げたりしていた等々。日の丸は神聖なものでみだりに庶民が掲げてはならないと禁止されていた時期もあった。今では、汗まみれの体にまとってもOK、落書きしてもOKだ。君が代は、スポーツ試合で、高額ギャラの歌手が歌うようになった。

  これらの文部官僚の暇なお役所仕事などできるだけ少なくした方がいい。

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また「つくる会」をめぐるゴタゴタが

 28日の『産経新聞』は、前日の新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)の理事会について報道した。それによると、先日、会長を解任された八木秀次元会長を副会長にし、7月の総会までに会長に復帰するとみられるという。

 「同会の内紛は事実上の原状回復で収束に向かうことになった」と記事は述べている。地方支部や支援団体からの声を受けたもので、八木会長ー宮崎事務局長体制復活が検討されているという。また、西尾幹二元名誉会長の影響力排除が確認されたという。

 『産経新聞』は、「種子島会長は「会員の意見を聴いたところ、八木待望論が圧倒的だ。内紛はピンチだったが、『創業者の時代』から第2ステージに飛躍するチャンスにしたい」と話している」と書いた。 

 それに対して、「つくる会」はwebニュースで、29日、第88回理事会報告を掲載している。それには、八木元会長を副会長とし、新体制の決定にともなう藤岡信勝、福地理事の緊急の会長補佐を解任したとある。7月2日の総会で、新人事を決定するなどのスケジュールも発表している。

 また、「『産経新聞』(3月29日付朝刊)で報道された理事会の内容は、憶測を多く含んでおり、「つくる会」本部として産経新聞社に対して正式に抗議しました。とくに、「西尾元会長の影響力排除を確認」「宮崎正治前事務局長の事務局復帰も検討」は明らかに理事会の協議・決定内容ではありませんので、会員各位におかれましては、誤解することの無いようにお願い致します」という文章を載せている。

 この背後にあるのは、西尾幹二などの「つくる会」系教科書の旧版をおす一派と新版をおす一派と八木などの中間派がいることや影響力を強めることを狙っている日本会議の圧力、そして、経済的な重い負担に不満を強めているといわれるフジ・サンケイ・グループ・扶桑社の動きなどが絡んでいるようである。

 このごたごたの中で、『産経新聞』が、日本会議との関係を重視する八木会長体制を望んでおり、旧版にこだわり、とにかく採択率アップのために主張を控えた新版を批判する西尾元名誉会長の影響力排除を望んでいることは、明らかになった。

 「西尾幹二のインターネット日録」には、この『産経新聞』の記事に対して、社長宛に、抗議文を送ったとある。彼は、理事会からのリークがあったと推測し、さらに理事会メンバーに確かめたこととして、八木会長解任が、彼の職務怠慢と指導力不足に理由があったことを理事会として確認したことが明らかになったと書いている。

 いずれにせよ、「つくる会」が、教科書づくりにふさわしくない組織であることは明らかだ。種子島新会長は、新興宗教団体の「キリストの幕屋」と深い関係があり、また事務局員の多くもこの団体のメンバーだと言われているが、その他、「俵のホームページ」http://www.linkclub.or.jp/~teppei-y/tawara%20HP/index.html   に詳しい。

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「つくる会」の内紛騒ぎ

 「新しい歴史教科書をつくる会」で内紛が起きている。すでに、名誉会長を辞めた西尾幹二がいろいろとこの件について書いている。

 それによると、事務局長解任劇をめぐって、解任に反対する4人の理事の横暴な振る舞いが、内紛の発端になったという。八木前会長は、分裂を避けることを優先して、かれらに融和的な態度を取ったという。この理事4人の内、3人が、事務局長とかつての保守学生団体の仲間であり、その背後に、日本会議がいると彼は考えている。八木元会長は、日本会議との決裂を恐れていたというのである。さらに、扶桑社の歴史教科書の旧版で西尾が執筆した部分を岡崎久彦が勝手に書き直したこともあったという。この辺のところは、実際のところはどうなのかはわからない。ただ、日本会議と「つくる会」がこの間、結びついて動いてきたことは確かである。

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