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アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)③東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界、マダガスタル、バントゥ・アフリカ

東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界

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 ソマリア南部(北緯2度付近)からモザンビーク北部(南緯12度付近)までの約2000キロの東アフリカ沿岸部。「この地域は、広大なインド洋の最西端に位置し、象牙や金、あるいは奴隷の積み出し地としてアラビア半島からインド亜大陸をへて中国までを包摂する長い交流史の一端を担ってきた」(106ページ)。担い手は主にアラブ人、ペルシア人、インド人。「スワヒリ」の語源は、「縁」や「水辺」を意味するアラビア語のサワーヒル(単数サーヘル)。

「スワヒリの夜明け」は、イスラームが島嶼部に受け入れられ始め、交易が定期的に行われるようになった8世紀から10世紀頃。

 スワヒリ語は、アフリカの言語であるバントゥー諸語の一分枝である。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマ率いるポルトガル船団が来航。ポルトガルの支配。しかし、1698年オマーンがポルトガルからスワヒリ沿岸から駆逐。象牙や奴隷貿易の交易地、奴隷労働力の移入、農園経営、大陸内陸部との交易。アラブ系地主やインド人仲買人。19世紀スワヒリ社会に生まれた新しい文明観、「ウスタアラブ(アラブ人のようになること)」化が進む。

 「19世紀末、スワヒリ史におけるウスタアラブ時代は、奴隷貿易禁止運動と一体となったキリスト教宣教団や探検家を尖兵とする西欧列強の侵略によって終止符を打たれ、「植民地時代」に取ってかわられた。以後、スワヒリ沿岸部は、イタリア(モガディシュ、ソマリア)、イギリス(ラム、マリンディ、モンバサ、ザンジバル)、ドイツ(バガモヨ、キルワ・キヴィンジェ――第一次世界大戦後はイギリス)。フランス(コモロ)の支配下におかれ、あらたな歴史を歩み出すことになる」(143ページ)。ウスタアラブ時代は奴隷貿易が最も拡大した時期。家内労働力や農業労働力として奴隷が使われた。1897年ザンジバル、1907年モンバサやマリンディ、で奴隷制廃止。奴隷制廃止による労働者不足でアラブ人地主階級が没落。

 「スワヒリ社会の奴隷は、内陸から連行された第一世代の奴隷(ムジンバ、またはムシェンズィ)、沿岸部生まれの第二世代以下の奴隷(ムザリア)、ポーターなどの賃労働に貸し出される奴隷(キバリア)、逃亡した奴隷(ムトロ)の
4つに区別されていたが、解放後、生活手段に困って社会的な問題を起こしたのはムジンガ層であり、ムザリアはもとの主人の家を離れず、キバルアは容易に賃労働者に移行した。とりわけキバルア層は、それまで禁じられていた自由民の衣服を身につけ、経済的にもさまざまな分野に進出し、積極的にスワヒリ社会に同化していった」(147ページ)。その後、内陸部からの出稼ぎ労働者がスワヒリ沿岸部都市に到来するようになり、第2次大戦後の労働運動の担い手となる。しかし、このことは、「1950年代の独立運動のなかで、ザンジバルの住民は、内陸のアフリカ人を主体とした政党との協調路線に踏み切れず、結局、王制を擁護するアラブ系の政党に独立後の政権を擁護するアラブ系の政党に独立後の政権を委ねてしまった。それが、1963年の独立後一カ月をへずして勃発し、アラブ系支配層を王もろとも追放したザンジバル革命(1964年)の原因となっている」(148ページ)ように、新たな問題を引き起こすことになる。また、スワヒリ世界においては、女性が果した重要な役割として、①姻戚関係をとおして、移民男性に支配の正当性を与える役割 ②調停役や支配者の役割 ③「地母神」としての役割 ④「奴隷」

マダガスタルとインド洋西域島嶼世界

 マダガスタルは独特の歴史的ルーツを持っている。マダガスタル語は、オ―ストロネシア語族ヘスぺロネシア語派に属している。水田・稲作、高床式米倉、竹琴など東南アジアと共通するものが多い。8世紀以降アラブ人。バントゥ系。189525000人の兵士と軍夫によるマダガスタルの軍事征服、同年10月イメリナ王国政府代表者による保護領化承認文書への署名、966月のフランス議会によるマダガスタル全島の併合決議、86日の植民地領有化宣言。1947年独立蜂起。フランス軍の鎮圧で死者10万人以上。1956年フランス国民議会で、「海外領土基本法」可決。58928日、第4共和政憲法国民投票、マダガスタルは独立を支持、1014日、マダガスタル併合議決の廃止宣言、1960年マダガスタル共和国独立宣言。コモロ諸島(グランド・コモロ島、モエリ島、アンジュアン島、マイヨット島)のうち、前3島はフランスからの独立を求める住民投票で後ウ的多数が独立を支持したが、マイヨット島住民が独立に反対した。75年、アーメド・アブダラー大統領は4島の独立を宣言した。

西アフリカ(略)

 バントゥ・アフリカ 

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 カメルーン、ガボン、赤道ギニア、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国(旧ザイール)など、赤道を挟んだ中央アフリカ地域。

ディオゴ・カンの率いるポルトガル船がコンゴ川河口に到達、コンゴ王国を発見。「脆弱な王権の基盤、キリスト教の導入、ポルトガルが接触後ほどなく開始した奴隷の捕獲と移送、内戦などによって、15世紀以後、混乱が続くコンゴ王国は名目的な王朝は継続したものの18世紀をまたず事実上崩壊した」(286ページ)。「コンゴ王国の故地である大西洋沿岸から約100キロほど内陸にはいた現コンゴ民主共和国カサイ・オリエンタル州にクバ王国がある。1980年代後半、筆者がフィールドワークをおこなっていた時点で、王は独裁者モブツの政権のもとで「伝統首長」という資格で、一党独裁政党の中央委員として一定の政治的プレゼンスを与えられていた」(292ページ)。

 「群生する首長制社会のなかから王権は台頭し、予期せぬ外からの強力な勢力の介入で解体したコンゴ王国、移動ののち定住化し、近隣のいわば王権の発生を未然に抑制する社会とは対照的な王権形成の過程をたどったクバ王国、自然発生的な社会の複雑化しが考古学的に裏づけられ、神話によっていわば内側から王権意識の形成をたどることができるルバ‐ルンダ王国群、これらはバントゥ集団の1000年ごろから植民地化直前までの多様化の過程の、ある幅を示している。これあの例は同時に、きわめて断片的ではあるが、バントゥ集団の歴史人類学研究の方法の多様性も垣間見せてくれる。それぞれが古文書、調査に基づく歴史、考古学と神話学を基本的な手法として探究されている。また、それぞれが王権の基盤の弱さと対外関係、王権の再生産のメカニズム、王権を支える伝承の力といった、王権をめぐる多彩な側面のいずれかに光をあてている」(307ページ)。

 

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 「竹内 ……/ルワンダは、アフリカでは比較的珍しく、植民地化以前の政治社会の政治社会の領域的な単位がほぼそのままのかたちで近代国家に移行したのですが、この過程でエスニシティが極端に政治家し、結果として国家の統合が危機にひんすることとなりました。19世紀ヨーロッパの人種思想に影響を受けた植民地当局は、ルワンダにおける三つの機ア的カテゴリー(ツチ、フツ)、トゥワ」について、言語や宗教上の最がないにもかかわらず、異なる「人種」として分別し、それらを統治体制のなかで支配従属的関係に位置付けました。これら3つの集団、とりわけツチとフツのあいだに緊張関係が生じるのは、植民地化以降の国家機構におけるこうした配置が契機となっています。20世紀初頭には曖昧だったツチとフツの境界は、植民地統治の過程で明確化、固定化し、それが政党政治における投票行動や政治エリートの権力闘争など、近代国家の統治とかかわる場面で政治化されていきました。1994年に起こった大虐殺は、エスニシティ政治化の悲劇的帰結ですが、それはけっして伝都的な「部族対立」ではありません。

 他方、西ヨーロッパ全域に匹敵する広大なコンゴは、ヨーロッパ人の接近が遅れたアフリカ中央部が、領土的野心をもつベルギー王に植民地化されたことで成立した国家です。換言すれば、この領域内に存在する数多くの政治社会は、植民地化という事実以外に、コンゴ国家に統合される理由をなんら有していませんでした。アフリカに典型的な国家の成り立ちともいえますが、コンゴほど人口や資源が分散し、遠心的な性格をもつ国はまれです。したがってこの国では、領土的統一性や統治のあり方が今日までつねに問題となっています。それはまず、独立直後から1960年代なかばまで継続したコンゴ動乱というかたちで噴出したのです。
 
 1965
年にクーデタで政権を掌握したモブツは、欧米諸国の支持をえて政治的混乱を収拾すると、鉱産物など国内の資源を私物化し、それによって国内の政治的有力者とのあいだに親分、古文関係(パトロン‐クライアント関係)を結んで国家を統治しました。こうした統治のあり方は、経済危機や冷戦終結にともなう国際環境の変化によって立ちゆかなくなっていきました。1990年代以降のコンゴでは、モブツ政権の崩壊やその後の内戦など政治的混乱が続いていますが、これは従来の略奪型統治にかわるべき統治原理がまだ見つかっていなことを示しています。

 近年、内戦の頻発に示されるように、政治経済的混乱が続くアフリカ諸国が多くなりました。その原因を考えるうえに、国家の問題はきわめて重要です。従来の国家統治のあり方が立ちゆかなくなり、長期的な混乱を引き起こしている場合が多いからです。

 
 冷戦期のアフリカ国家を考えてみましょう。政治的にも経済的にも比較的安定していたといわれるこの時代、アフリカでは強権的な政治体制をとりつつ、国家の公的資源(鉱物資源、農産物資源、外国からの援助など)を私物化し、それを自分の取り巻き(クライアント)にばらまくことで政権を維持する政治家が少なからずみられました。構造的な汚職と抑圧的政治を指摘されながら、
31年間にわたってコンゴの権力を掌握したモブツはその典型です。

 国民国家の理念型から著しく逸脱したこれらの国家は、欧米のアフリカ研究では、新家産制国家(
Neo Patrimonial State)あるいは収奪国家(Predatory State)などと呼ばれてきました。こうした特異な国家が出現した理由は、たんに特定の政治エリートの資質に帰せられるものではありません。その理由はむしろ、アフリカの政治エリートが国民のなかに確たる支持基盤をもたぬまま、恣意的な国境線で区切られた国家の統治を余儀なくされたこと、そして先進国側が自陣営の政治エリートにたいする支援を、彼らの国内的な正統性に目をつぶりつつ、戦略的な理由で継続したことに求めるべきでしょう。
 
 しかしこうした国家のあり方は、
1980年代以降、危機に瀕することになります。公的資源の略奪的利用の結果、経済発展を主導すべき国家はむしろ低開発の原因となりました。資源が生産的投資にまわらず、もっぱら権力者の消費財購入にあてられ、経済の破綻を招いたのです。1970年代以降アフリカで長期化した経済危機は、国家の性格に由来する構造的なものであったといえるでしょう。

 また、冷戦の終結により、先進国の対アフリカ政策が転換したことも大きな影響を与えました。東西陣営の争いが消滅し、戦略的理由からアフリカの指導者を支援し続ける必要もなくなりました。逆に、評判の悪い国への支援は援助国内から反発を招く可能性がでてきました。冷戦終結後の先進国では、民主化を援助供与の条件とする政策が一般化し、それに対応してアフリカ各国で民主主義的な政治制度が導入されていったのです。こうした状況下、独裁的権力者を頂点とする従来の統治が立ちゆかなくなり、政治エリート間の権力闘争が激化したことで、今日の混乱が引き起こされています。その混乱を契機として内戦に突入する事例も少なくないのです」。(
479482ページ)
 
 「竹内 家産制的な国家の破綻は、市場経済化のグローバルな流れとも重なり合っています。
1980年代以降、市場にたいする国家の介入を抑制し、経済の調整機能を市場機構に委ねる思想が世界的に一般化します。世界銀行などの国際金融機関は、アフリカ諸国にたいしても、構造調整政策という市場原理優先政策を課し、その結果、公企業の民営化、補助金の撤廃、為替の自由化といった措置があいついで実施されました。これによって、従来国家が有していた機能は大幅に削減されたのです。

 ただし、現在アフリカ国家にみられるさまざまな「民営化」現象は、この市場経済化政策だけに由来するわけではありません。むしろ、新家産制国家の破綻にともなう機能不全から、本来国家が担うべき分野まで「民営化」される状況が生まれています。たとえば、
1990年代のアフリカの紛争で顕著な特徴だったのは、国軍の能力が低下する一方、民兵や外国の民間軍事会社(傭兵会社)の影響力が増大したことです。ルワンダやコンゴ共和国の紛争では、政権側が民兵を組織し、それが暴力の主たる行使主体となりました。アンゴラやシエラレオネの政権は、外国の民間軍事会社に依存することで、ようやく反政府勢力に活動を抑止しました。暴力装置が内外の民間部門にアウトソーシングされたわけです。安全保障分野のほかにも、教育や保健・衛生など、国家のはたすべき役割が大きいはずのところで、外国NGOの活動だけが目立っています。これは民営化というよりも公的な領域にかかわる国家機能の瓦解といえましょう。

 こうした現象が極端なかたちであらわれたのが、「ウォーロード」(
warlord)や「犯罪国家」です。「ウォーロードとは、国家の一地方を実効支配し、そこに産出する資源を販売するなどして資金を稼ぐ武装勢力の領袖のことです。ダイヤモンドの違法取引で国連から非難されたUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)のジョナス・サビンビやRUF(シェラレオネの革命統一戦線)のフォディ・サンコーがその典型です。「犯罪国家」とは、政権の中枢が、麻薬取引やマネー・ロンダリングを通じた資金稼ぎなどの犯罪的行為に従事する国家をさします。2003年に崩壊したリベリアのテイラー政権は、その典型といわれていました。

 「ウォーロード」は、国家の統治がおよばない地域で私的利益を追求します。「犯罪国家」では国家機能の私物化が極端に進展し、国益が特定権力者の私的利益と同一視されます。両者の行動原理は、私的利益の追求という点で本質的に似通っています。また、いずれも統治領域内の住民から強い支持を受けてではなく、武力に依存した強権的な支配のうえに成立しています。軍事技術が進展し、武器価格の下落が著しい今日、住民の支持は――少なくとも短期的には――統治に不可欠の要素ではなくなっています。これらは、長期化する内戦のなかで、新家産制国家の論理を極限まで推し進めた統治形態といえましょう。


 家産制的な統治との関係で、インフォーマル・セクターについてふれておきたいと思います。インフォーマル・セクターは多義的な概念であり、いかなる経済活動がそこに含まれるのか必ずしも合意があるわけではありません。公式な機関(国家)による捕捉のうぬ、零細性、違法性など、インフォーマル・セクターを定義する基準もさまざまです。そのためこの概念は、時代と文脈に応じて、肯定的にも否定的にも使われてきました。当初その零細性のために、発展から取り残された貧困層の活動とみられていたインフォーマル・セクターは、
1970年代のILO報告書などを契機として、むしろ活力ある発展の担い手とみなされるようになります。その考え方は、民間部門を発展の主軸におく80年代以降の経済思想とも合致し、今日にいたるまで、インフォーマル・セクターという言葉には肯定的な意味合いが付与されています。ここでこの言葉は「中小企業」に近い意味合いで使われています。

 他方、先ほどお話しした「ウォーロード」や「犯罪国家」もまた、インフォーマル・セクターに深く依存しています。ダイヤモンドの違法取引を考えてみましょう。ダイヤモンドは、採掘人が川底の砂利を掬って鉱石を選別するという単純な方法で生産されます。反政府武装勢力の制圧地において、それは中間商人の手をへて有力者にわたり、彼らが外国の買い付け商に転売することで国際市場へ流れ込むのです。個々の採掘人によるダイヤモンド生産は、単純かつ零細な、まさにインフォーマル・セクターの経済活動ですが、こうした違法取引から反政府勢力や国際的なダイヤモンド買い付け商が手にする富派巨額なものです。ここでは、アフリカのインフォーマル・セクターに、世界各国(多くの先進国)の違法かつ犯罪的な「闇経済」が結びついています。


 アフリカのインフォーマル・セクターによせられた「期待感」は、しばしば国家の無能力さから導かれた、いわば消去法的なものでした。国家に期待できないから、インフォーマル・セクターに期待するというわけです。しかし、こうした論理からインフォーマル・セクターに期待することは、経済のグローバル化という時代状況を考えれば、ややナイーヴな印象をまぬがれません。「犯罪国家」の麻薬取引やマネー・ロンダリングにしても、違法性という点でいえばインフォーマル・セクターの経済行為です。先進国の経済主体がアフリカの国家の脆弱性を利用し(あるいはアフリカの政治エリートが先進国の犯罪組織と結託し)、違法行為を通じて巨額の富をえているのです。経済のグローバル化が進むなかで、先進国の「ヤミ経済」がアフリカにアクセスしやすい環境が成立しています。


 インフォーマル・セクターは経済発展との関連で議論されてきたわけですが、先の事例が示しているのは、国家を視野の外においたまま、ある「セクター」に発展の担い手としての役割を期待することなどできないという事実です。小規模零細な経済主体が活力に満ち、その活動信仰が重要なことは事実ですが、経済発展のために国家がはたすべき役割もまた大きく、法制度の整備など国家にしかできない機能もあります。国家とインフォーマル・セクターを二分法的に考えず、発展にはたすべきそれぞれの役割を結びつけて論じる必要があると思います。


 アフリカの国家は脆弱であり、破綻国家といわれることさえありますが、その存在感は大きいものです。一般人の日常生活においても、軍人や警官にハラスメントを受けたり、役人から些細なことで呼び出されたりなど、いわゆる国家権力と接触する機会が多くあります。それは多くの場合、不愉快な経験です。しかし、その一方で、自らの窮状を救う能力をもつものとして、人々が国家に言及する場面も目につきます。私の限られた経験からいえば、コンゴ共和国(首都ブラザヴィル)でも、ガボンでも、ルワンダでも、「レタ(
L’Etat)という「国家」を意味するフランス語が現地語化しており、農民なども「レタがなにもしてくれないから私たちは貧しい」といった文脈で、頻繁にその言葉を口にします。彼らが「レタ」というとき、イメージとしているのは国家機構の上層に位置する「パトロン」なのかもしれませんが、国家にたいする期待は総じて強いものがあります。実際、国家の統治や「ガヴァナンス」と呼ばれる問題は、アフリカの発展を考えるうえで決定的に重要な意味をもつとわたしは考えます」。(507511ページ)

ここまでで時間切れです。南部アフリカも取り上げられませんし、到底、アフリカは広いし、多様で、これは小さな出発点でしかないのは言うまでもありません。

 さらに、最近のことや多国籍資本問題、植民地主義のこと、そして、帝国主義のこと、つまり、世界支配構造の中でのアフリカのこと、日本との関わり、植民地主義の問題として「ダーバン宣言」に示された旧宗主国の植民地支配の清算問題もあります。そして、脱植民地主義、「ポスト・コロニアリズム」が取り上げる問題も。様々な矛盾の中で、アフリカで難民問題が発生し、その一部が日本にやってこざるを得ないことが少しは浮き彫りになったかと思います。でも、まだまだです。

 参考文献

『アフリカ史』(山川出版)

『シリーズアフリカ史』数巻(山川出版)

『新・現代アフリカ入門』(岩波新書)

『アフリカ史を学ぶ人の理解のために』(世界思想社)

『アフリカ革命のために』(F.ファノン)

『新書アフリカ史』(講談社新書)

など。


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アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)②東・北東アフリカ

東・北東アフリカ                                                             

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 「現在の国名で、スーダン、エチオピア、エリトリア、ジプ、ソマリア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、ルワンダ、ブルンディを含む。さらに、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の東部とチャドも隣接地域として言及されることになろう」(『アフリカ史』山川出版40ページ)。アフリカの国境は、あまり固くない場合が多く、人々が国境を越えて移動したり、交通しているので、隣接地域とも強い関連がある。例えば、ルワンダ軍がコンゴ民主共和国側に越境して居座り、干渉したりする。東岸は、紅海とインド洋に面し、ナイル川と大地溝帯が走る。白ナイル川の源流はブルンディ領内で、アフリカ最大の湖ヴィクトリア湖をへて、スーダンを貫流する。青ナイルの源流はエチオピア高原のタナ湖で、ハルトゥームで、白ナイルと合流する。流域は、ブルンディ、ルワンダ、ウガンダ、スーダン、エジプトの大部分、エチオピア西部、ケニア、タンザニア、コンゴ民主共和国の一部が含まれる。

 東部地溝帯は、ジプチからエチオピア、ケニア、タンザニアに至る。西部地溝帯は、ウガンダ北西部からルワンダ、ブルンディ、タンザニアとコンゴ民主共和国の国境をへて、マラウィ、モザンビークにいたる。多数の湖があり、地溝の幅は3040キロ。深さは、推進1435メートルのタンガニーカ湖で、海抜マイナス653メートル。東西に高い山脈が連なっている。アフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5895メートル)などの高峰がそびえる。

 「私たちは、大地溝帯は人類の進化と深くかかわり、またナイル川は古代エジプト文明をはぐくんだことを知っている。本章とのかかわりでは、両者は人々が移動する際の障壁であったと同時に回廊の役割をはたしていたことが重要である」(同
42ページ)。

 東・北東アフリカの特殊性は、古代エジプトとエチオピアという「文明」が存在したことだが、これらの文明の担い手は、ニグロ(黒人)ではなく、広い意味の白人に属するハム系の人々と考えられた。こういう近代ヨーロッパの人種観は、たんに研究のレベルだけでなく、植民地統治のあり方や脱植民地期の政治にも大きな影響を与えてきた」(同54ページ)。セレブマンの人種説の「ハム仮説」は、アラビア半島のハムが、古代エジプト、牧畜民ハムが、優秀な軍事力によって石器時代にあったニグロの農耕民を征服したとする説である。ハム系諸王国として、ニョロ、アンコーレ、ルワンダなどが考えられた。さらに、セムとの混血で、鉄器文化を持ったバントゥ系の人々が、サンやコイコイなどの原住民を征服し、東武、中部、南部に拡大したというのである。「近代ヨーロッパ人は、アフリカに高文化や文明の証拠をみいだすと、アフリカ人の手による自生的な発展の結果ではなく、「外部」からもたらされたものとみなす傾向があった。「未開」の部族が住む「暗黒大陸」では、そうした発展はありえないという先入観があったからである」(同56ページ)。

 「セムとハムは旧約聖書に由来する名前である。「創世記」によれば、ノアにはセム、ハム、ヤベテという三人の子があり、全世界の民は彼らの子孫である。ハムが父ノアの裸を見たために、ノアはハムの息子カナンを呪った。「カナンは呪われよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[「創世記」第
9章、日本聖書協会]。ユダヤ人とアラブ人はセムの子孫と考えられたが、ハムという概念の内容は時代とともに揺れ動いた。近世ヨーロッパでは、すべての黒人は「呪われた人々」の子孫と考えら(55ページ)れ、それは「劣等人種」としての黒人の地位とうまく整合した。近代になると、黒人一般をさすのではなく、身体的特徴が黒人的ではなく、ヨーロッパの基準からすると顔立ちの整った(鼻筋のとおった高い花と分厚くない唇をもつ)北東アフリカの人々を意味する語として用いられるようになった。そして、セリグマンのように、ハム系の人々は黒人という意味でのアフリカ人ではなく、むしろ白人であるとみなされるようになったのである。後述のように、現在ではハムという用語は、その人種主義(レイシズム)的な偏向のゆえに、言語学的にも人類学的にも死語となっている」(56ページ)。

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 「ルワンダは、1994年の大虐殺をはじめとして、ツチ人とフツ人のあいだの「民族紛争」が独立以降、繰り返されている国である。この国は、植民地化以前はツチを支配階層とし、フツを被支配層とする王国を形成していた。国家の起源は、北方から移動してきたハム系牧畜民ツチが、バントゥ系農耕民のフツを征服したことにあると考えられていた。植民地化以前の支配・被支配の関係、および搾取の形態については議論の余地があるが、植民地化以降にツチとフツの境界が固定される一方で、ヨーロッパ人の「ハム仮説」をルワンダ人自身が受容したことが、独立後の紛争の主要な原因のひとつであると指摘されている。つまり、ツチは身体的にも美しい優等人種であり、フツは劣等人種であるという認識をルワンダ人が自らのもととしたことが、独立後の政治史を方向づけることになったのである。

 エチオピアの文明を担った人々は、のちにハム系、つまりユダヤ人やアラブ人と同系の「白人」と認識されるようになったが、その起源がアフリカ大陸の外部に求められたことにはかわりがない。後述のように、エチオピアの歴史研究は「セム史観」に大きく傾斜しつつ発展してきた。その結果、非セム系の人々がはたしてきた歴史的役割が十分に評価されなかったばかりでなく、エチオピア史をアフリカ史の文脈に位置づける試みもないがしろにされた。また、セム史観は、近代のエチオピアにおける民族(
57ページ)紛争の主要な原因のひとつにもなった。

 ヨーロッパ中心史観のもうひとつの側面は、時代区分である。前世紀の前半、考古学的調査が進展するにつれて、西アジアとヨーロッパで用いられてきた、旧石器時代―新石器時代―鉄器時代といった時代区分がアフリカにも適用されるようになった。しかし、現在ではこうした区分の妥当性には大きな疑問が呈されている。既存の外来の物差しをあてはめるのではなく、実証的な調査研究を積み重ねて、アフリカの各地域における発展を解明することが、第一の課題であると考えられるようになったのである。(
58ページ)

 エチオピア人の「セム的歴史観」は、ヨーロッパ人のエチオピア観と相互補完的な関係にある。
156世紀のヨーロッパ人は、エチオピア(アビシニア)を、失われた伝説上の東方のキリスト教王国「プレスター・ジョンの国」とみなした。また、近代欧米のエチオピア研究者たちも、2000年以上におよぶ国家と文字システムの歴史を有し、4世紀からキリスト教の伝統があるエチオピアを、他のアフリカ地域とは異なる「文明国」であると考えた。そしてこの文明は、土着で自生的なものではなく、非アフリカ的で外来的なものととらえたのである。 エチオピアは、たしかに独自の歴史と伝統を有する国である。近代においてヨーロッパ列強による植民地化をはねつけて独立を維持した事実とあいまって、「セム的歴史観」は、近現代のエチオピア人に自信と誇りを与えてきた。しかし、このイデオロギーは、エチオピア正教徒であるセム系エチオピア人(主としてアムハラ人ティグライ人)以外のエチオピア人には受け入れがたいものであった。現在では国民の過半数を占める、クシ系やオモ系、さらにナイル・サハラ語族の人々、および人口のほぼ半数を占めるといわれるムスリムは、エチオピアの偉大な歴史と伝統から排除されたばかりでなく、しばしばその敵対者と(82ページ)みなされてきたのである(83ページ)。

 北東アフリカは、紅海を隔ててアラビア半島と隣接している。したがって、
7世紀以降、アラブ人とイスラームの拡大の直接的な影響を受けた。現在、この地域の国々の人口の多数はムスリムである。……それにもかかわらず、白ナイル上流から東アフリカの内陸部にいたる広大な地域では、19世紀になるまで両者の直接的な影響はほとんど存在しなかったことに注意しておくべきである(84ページ)。
 ヌビアのアラブ化とイスラーム化。13世紀、アラブ系遊牧民が南下、母系制によって、それが推進された。「ヌビア人の女性と結婚したアラブ人の息子は、土地、財産、地位にたいする正統な権利を獲得した」(85ページ)。「アラブ人、およびアラブ化した、ヌビア人をはじめとする土着のスーダン人は、南方だけでなく、西方のコルドファン地方、ダルフール地方、さらに現在のチャドやナイジェリアにまで拡大していった。これらの人々は、アラブ人としての正当性を主張するため、アラビアに起源を求める出自を名乗った。代表的なものに、ジュハイナと、アッバース朝との血縁を主張するジャアリーンがある。それぞれ、さまざまな氏族と部族を含む、「超部族」のようなカテゴリーであり、現在のスーダンでアラブ人としてのアイデンティティをもつ人々のほとんどは、いずれかに属している(86ページ)。

 「
16世紀から17世紀にかけて、スーダン北部では2つの王国が形成され、19世紀まで存続した。青ナイル河畔の都市センナールを中心に、白ナイルと青ナイルの流域を支配したフンジ王国(スルタン国)と、西部のダルフール地方に本拠をおいた警ら王国である」(92ページ)。「15世紀から16世紀初頭にかけて、ヌビア地方はアブダッタラ―・ジャンマーというアラブ人の勢力下にあった。アブダッラーは交易ルートを支配していたと考えられる。前の時代に引き続き、ヌビアは、金、ゴム、乳香、麝香(じゃこう)、犀角、ラクダおよび奴隷などの供給地として国際交易のなかで重要な位置を占めていた。これらの交易品は、アラビアとエジプトに輸出された。/16世紀初頭、南方からアマーラ・ドゥーンカスという指導者に率いられたフンジと呼ばれる人々が登場し、青ナイル沿岸のアルバジーの戦いでアブダッラーの軍隊を打ち破ってフンジ王国を建国した。1504年のことであった。アマーラ―の勢力圏は、ヌビア北部のドンゴラ地方ばかりでなく、当時国際的な貿易港として繁栄していた紅海沿岸のサワーキー(スワキン)までおよんだ(92ページ)。イスラーム化が進んだ。1821年エジプトに降伏、滅亡。

 ケイラ王国は、ダルフール地方のマッラ山の山麓に中心をおく王国で、ケイラは王を輩出した、フール人の氏族の名称である。王国の由来は詳らかではないが、
17世紀中期には資料に登場する。ムスリムであった王はスルタンと称した。もともとは、サヘル地域の諸王国に共通する神聖王権であったものが、スルタン国に変質していったもんと考えられている。ケイラ王国は、18世紀前半には勢力を拡大し、東方のコルドファン地方の詩は危険をフンジ王国と争うようになった。そして18世紀前半には勢力を拡大し、スルタン、ムハンマド・タイラブの指揮下、フンジの勢力を駆逐して、コルドファンを支配下におさめた。/ダルフールは、東のナイル河谷と、西のサハラ・サヘル地企図を結ぶ要衝であった。また、北方のエジプトとは、ナイル川経由ではなく、砂漠を縦断する「四十日路」によって直接結びついていた。南方の南部スーダンとの境界あたりから供給される奴隷は、エジプトとの交易における重要な交易品であった。1916年植民地に。

 大湖地方(アルバート湖、エドワード湖、キブ湖を擁する地域)は、北部のアルバート湖周辺に西ナイル系、中央スーダン系の人々、西部のコンゴ民主共和国との境界付近にはピグミー族がいる。全体にバントゥー系の世界になっている。
19世紀後半に、ナイルヨーロッパの探検家が、ガンダ王国やニョロ王国に出会っている。その前にキタラ王国があり、ニョロはその後継と考えられている。「キタラ複合体の南方、ヴィクトリア個西方の地域には、ルヒンダ複合体と総称されるウコーレ王国やカラグウェ王国があり、さらにその南方にはルワンダ王国を中心とするルワンダ複合体があった。ルヒンダとは、複合体の諸王国の始祖とされる王の名前で、15世紀前半に実在したとされている。彼も富裕な牧畜民ヒマであった。ルワンダ王国の成立について、近年の新しい説を要約すれば以下のようになろう。すなわち、牧畜民ツチが集団で来訪し、農耕民フツを征服することによって突如国家が形成されたのではなく、15世紀末と考えられる強力な国家の成立以前に、複数の小国家がすでに存在しており、牧畜民と農耕民の関係も、支配‐被支配という単純なものではなかったのである(98ページ)。

 「東はスワヒリの世界であった東アフリカのインド洋沿岸部、西は大湖地方に挟まれ、北は南部スーダンにいたる地域では、南クシ系、東クシ系、南ナイル系、東ナイル系、西ナイル系、そしてバントゥ系のさまざまな集団が移動と接触を繰り返し、せめぎあい、共存するなかで集団と文化の形成がおこなわれた。この地域では中央集権的な国家の形成はみられず、小規模な首長制国家や、国家なき平等主義的な社会が多数存在した。考古学的資料は乏しく、主として言語学的資料と口頭伝承に基づいて過去の再構成がおこなわれてきた」(
99ページ)。

 「東部地溝帯とその両側のサバンナは、乾燥地帯であるがゆえにバントゥ拡大の舞台とはならなかった。この地域は、北方から南下する牧畜民、半農半牧民の回廊であった(100ページ)。移動の要因としての大干ばつと飢餓。割礼と年齢組織。異なる言語=民族集団に属する人々のあいだには、共通する年齢組織のほかにも、境界を越えるさまざまな紐帯が存在した。複数の集団にまたがる氏族はそのひとつである。つまり、氏族へのアイデンティティーは、集団を横断しているわけである制度化された友人関係や結婚による姻戚関係も重要な紐帯である。/経済的には、塩や鉄といった産地や生産者が限られた基調で必須の物資の交易が、異なる集団を結びつけていた。また、集団が生業的に特化している場合、農耕民、牧畜民、狩猟採集民のあいだには、経済的な相互依存関係が存在する」(104ページ)。

「現代の東・北東アフリカは、慢性的な「民族紛争」の舞台となっている。スーダンの内戦(19832005年)の犠牲者は250万に達したといわれており、ルワンダでは、1994年に「ジェノサイド」といわれる大量虐殺が発生した。ウガンダ、ブルンディ、エチオピア、ソマリアも長期の内戦を経験している。紛争の主要な原因のひとつは、植民地時代に「創造」された部族=民族集団のあり方に求められる。植民地化以前は、流動的で柔軟な、ソフトな存在であった民族集団が、植民地化以降は統治の必要上、固定されたハードな実態に変化したばかりでなく、国家権力との関係によって階層化された。特定の民族集(104ページ)団の出身者が行政の末端を担う役人や兵士・警官として登用される一方で、他の民族集団は国家のなかで周辺化された。独立後は、植民地時代に中・下級官僚であったアフリカ人エリートが国家のヘゲモニーを掌握し、こうした構造は一層強化されると同時に、ヘゲモニーをめぐる争いも激化したのである。現在のような民族紛争は、けっして伝統的なものはない。2003年にスーダンのダルフール地方で発生し、2008年の時点でも継続している「民族紛争」も、2007年、ケニアの大統領選挙後に生じた「民族紛争」も、適切な理解のためには、まず、歴史的文脈のなかに位置づけられる必要がある。紛争の原因を理解し、殺戮によって生じた傷を癒し、あらたな民族集団と集団間の関係のあり方を構想しようとするとき、私たちが過去から学ぶことは大きい。歴史の現代的意義はそこにあるといえる」105ページ)。

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アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)①

アフリカでなぜ難民が発生するのかの理解を深めるために(資料)(2003616日)by流広志

  201361日から3日にかけて、日本政府外務省が主導する「アフリカ開発会議」(TICAD)が横浜市で開かれた。2011 311の東日本大震災と福島第1原発事故で、アフリカへの関心は表面上は薄れた。

 今年61日から3日にかけて、横浜市で、外務省が主導する第5回「アフリカ開発会議」(TICAD)が開催された。20年目の節目の年ということで、今回のテーマを「躍動のアフリカと手を携えて――質の高い成長を目指して」としている。全体として、TICADは、アフリカを「開発」対象と位置付けている(以下の図は、外務省第5回アフリカ開発会議パンフレット(外務省HP)にあるもので、会議の目的が開発(資源)にあることを露骨に示している。

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 冷戦体制崩壊後、アフリカは、債務累積問題、IMF・世界銀行からの借り入れ、それと引き換えに強いられた「構造調整プログラム」による格差拡大、福祉・教育の後退などが問題となっていた。この時期、「破綻国家」が次々と発生し、農村→都市スラム→移民という貧困層の人の流れができた。そして、2000年代になると、「世界経済の構造変化から、アフリカに再び資源ブームが到来した」(『新・現代アフリカ入門』勝俣勝 岩波新書 Ⅴ)のである。勝俣氏は、それを、「援助のアフリカ」から「資源のアフリカ」への回帰と呼んでいる(同)。

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 外務省パンフレットによると、このように、サブサハラ地域が世界経済成長率より高率で成長すると予測しており、そのことが、開発促進への誘因である。

このように、外務省は、2010年のフローでの直接投資額が5倍になったとして、今後もアフリカを有力な投資先として描いている。

パンフでは、アフリカでは多くの紛争地があり、主な域紛地が図示されている。それと並べて、以下のような自衛隊の活動を紹介している。見ての通り、「アフリカの平和と安定のために汗を流す日本人」というタイトルがつけられている。

安倍首相は、開会挨拶で、「TICADを通じて、一貫して、訴えたのが、「自助」「自立」の重要性です。そして、あくまで、「成長」を、重視する発想です。/貧困は、成長によって克服できると考えることは、私たち日本人には、当初から、自明でした。それは、アフリカの潜在力を、疑わなかったからでもあります。/自助・自立、成長重視。いまや力強い前進を続けるアフリカから、この2つを熱望する声が、澎湃と上がるのを見るにつけ、私は、TICADの行き方は、間違っていなかった、TICADが夢見た未来は、いまや実現しつつ

Photo_6あるのだと、誇りをもって、宣言したいと思います」と述べ、成長がアフリカの貧困問題を解決すると「誇りをもって、宣言」した。この思想は、会議で採択された「横浜宣言2013」「横浜行動計画」に貫かれている。

宣言の30 TICAD V戦略的方向性」は、「我々は、「躍動のアフリカと手を携えて」を基本コンセプトとし、成長を加速化するとともに、持続可能な開発を促進し、貧困を削減するために協働することを決意する」と述べている。続いて、「この目的のため、我々は、衡平性と包摂性を追求しつつ、インフラ整備や人づくり、経済の多角化、広範な分野における民間セクター主導の成長の促進を通じた開発の経済基盤を強化する。これは、アフリカ大陸における貧困削減に大いに奇与するものであり、裾野の広い中間層の創出を後押し、アフリカ大陸を世界成長の原動力に変容させる」としている。行動計画では、農業が重視されている。

Photo_7 また、こうした民間主導の開発・投資と共に、インフラ整備、教育、衛生、女性の役割の増大、リップロダクションヘルス、気候変動対策などが謳われているが、特に、平和と安定という秩序面の対策が強調されている。安倍首相の開会あいさつでは、特に派遣している自衛隊の意義が強調されている。安倍首相は、「いまさら申すまでもなく、アフリカ発展にとってすべての基礎をなすのが、アフリカの、平和と安定です。/日本は今後一層、アフリカの平和構築に、力を注ぎます。/すでに、ジブチでは、海賊対策のために、そして南スーダンでは、国家建設の一助となるために、自衛隊の諸君が、本日も、奮闘しています。また、平和の定着支援や、開発・人道支援を強化し、平和の土壌を育みます。/我が国が先頭を切って進めてきた「人間の安全保障」の取り組みに、今後とも力を緩めないのは言うまでもありません」と述べている。

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 変化するアフリカ像 

アフリカと言えば、かつては、「暗黒大陸」などと呼ばれ、未開・野蛮などのイメージが西欧を中心に作られてきたが、それも近年の研究の中では変わりつつある。岡倉登志氏は、『アフリカ史を学ぶ人のために』(世界思想社)の第1章世界史とアフリカで、まず、「時代区分」について、「アフリカ史の時代区分を試みるとき、最初に突き当たる困難は、「世界史」における古代、中世、近代という時代をとらえる概念をそのまま用いることができないこと」(同4ページ)を指摘している。そして、ヨーロッパ中心史観を批判している。ヨーロッパ中心史観は、ハンガリー科学アカデミーのE・シークが書いて1962年に刊行された『黒アフリカの歴史』に始まるという。その時代区分は、ソ連の研究を基にし、『資本論』に依拠しているという。すなわち、「(1)ヨーロッパ人の侵入以前、(2)原始的蓄積時代(1618世紀)、(3)産業資本主義の勃興期(17891870年)、(4)帝国主義への過渡期(18701900年)」(同56ページ)である。これをケニアの歴史家A・オゴットは、「マルクス主義によるヨーロッパ中心主義」と批判した(同6ページ)。それに対して、ドイツ史の上原専禄は、「アフリカ人の生活と社会というものから見たアフリカ史像の形成の必要を主張」(同)したという。17世紀の奴隷貿易拡大期以前のアフリカを、「古王国時代」とか「アフリカの古代」、あるいは「黄金貿易時代」(イスラム商人と黄金の王室独占)と一括する時代区分が一般的だったが、この時代を8世紀を境に2つに区分する時代区分が近年主張されるようになったという。岡倉氏も同意する人類学者川田順三氏の時代区分は、

(1)  アフリカ諸文化の基層形成の時代(人類の始原から紀元後1000年くらいまでを含む)

この時代は、農耕、鉄加工などの基本的な生活技術の成立と伝播によって特徴づけられ、西アジアとの接触を大きな刺激としていた。また、ローマ時代を中心とする環地中海、東南アジア、インド、アラビアからの影響をもたらした環インド洋の、2つの環大洋文化交渉も大きな意味をもっていた。

(2)  大規模な通商国家および都市の発達と、長距離交易を媒体とするアフリカ大陸内部の広範な文化交流の時代(8世紀ころから16世紀末くらいまで)

 北アフリカにイスラム・アラブが進出し、サハラ以南ではサハラ縦断交易を基礎とする通商国家(初期国家)が形成された。また、東アフリカではインド洋を媒体としてスワヒリ文化が形成された時期である。

 以下、(3)は「黒人帝国」と植民地化の時代として15世紀後半から19世紀前半までの「奴隷貿易時代」であり、いままで見られなかった環大西洋交流が脚光を浴びたことを当然ながら指摘している。それと同時に、16世紀以降のオスマン帝国の北アフリカに与えたインパクトの指摘も怠らない。(4)はヨーロッパによる植民地化(19世紀後半)から現代までをくくり、ヨーロッパの侵略とアフリカ社会の変容の関係、アフリカの国境の問題、独立後もヨーロッパの影を引きずっている現状に触れている(同78ページ)。

要するに、アフリカ内部といっても外界から隔離されているわけではなく、環大洋との関係も重要だということである。先に、フランスが軍事介入したマリ共和国も内陸国だが、北部に、国境を超えて住み、行き来するトゥアレグ人の独立運動があり、また古くからのアラブ商人の隊商の往来もあった。リビアのカダフィ政権は、長らくトゥアレグ人を優遇していたため、その後ろ盾を失ったことも、マリでの事態と関連がある(『情況』201334月号所収、「アルジェリア人質事件の背景を探る」竹沢尚一郎、「サハラ砂漠の政治人類学」嶋田義人 参照)。

現在のアフリカの国境線の多くが帝国主義国が植民地分割戦で勝手に引いたもので、その線引は、帝国主義列強同士の交渉によって決められたものである。したがって、西洋の民族国家モデルはそのまま当てはまらない。独立運動では手を握っていた諸民族や諸部族が政治的独立後に対立することもあった。その後、分離・独立したところもある(南スーダンなど)。また、現在も独立運動を続ける民族もある(西サハラのベルベル人、トゥアレグ人、あるいは、ナイジェリアのビアフラ共和国独立運動など)。マダガスカルには、古くから東南アジア系の居住者がおり、それとインド人、アラビア人、黒人奴隷などの子孫がいる。アフリカにおけるアイデンティティーは複雑かつ多様で、植民地解放―独立運動の時代には、民族主義が基調となったが、その複雑で多様なアイデンティティーはなくならなかった。

それに対して、現在のAU(アフリカ連合)につながる汎アフリカ主義という理念もある。独立運動のリーダーの中では、今日のネグリの言う解放の主体=マルチチュードと似ているネグリチュードという主体概念がサンゴール・セネガル初代大統領によって唱えられた。

広大で多様なアフリカをひとまとまりに見ることは難しく、一応、地域的に区分して見ていくほかはないが、その区分の基準が問題であり、議論のあるところである。とりあえず、『アフリカ史』(山川出版)の章立ての区分に従うことにする。

①東・東北アフリカ

②東アフリカ沿岸部・スワヒリ世界

③マダガスタル・インド洋西域島嶼世界

③西アフリカ(サヘル地域を含む)

④バントゥ・アフリカ

⑤南部アフリカ

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6.16難民問題とアフリカ―難民講座の御案内―

難民問題とアフリカ難民講座の御案内

「横浜宣言2013」を採択して第5回アフリカ開発会議TICADが終わりました。これから世界最大の市場となるアフリカに、日本の政財界は熱い視線を送り、3兆2千億円の資金拠出を決めました。

 アフリカには54もの国があり、民族や資源その他をめぐる紛争も多く、難民を生み出しています。昨年日本で難民申請をした人も、ナイジェリア118人、ガーナ104人、カメルーン58人など、アフリカ各国が増えています。

今回の難民講座は、こうしたアフリカ難民問題を理解する一助として、在日コンゴ人の方などから報告していただきます。ぜひご参加ください。

★616日(日) 13時半~16

★新宿区立元気館(:0332026291)

副都心線西早稲田駅エレベーター口すぐ。高田馬場駅から徒歩10分。都立戸山高校となり。明治通り。

★報告

・七充子(ななみちこ)さん(夫がコンゴからの難民)

Eric Kimpiobさん(コンゴから留学、長く日本でビジネスをされている方)

・ブルンジ難民ベルトランドさん(予定)

・事務局からのアフリカ情勢の報告

★資料代400

★主催:難民を支援し連帯する会(0429985501さかい)

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移民大国スウェーデン、暴動で露呈した「寛容政策」のひずみ

 安倍首相は、ビルマ(ミャンマー)を訪問し、テインセイン大統領やアウンサンスーチー氏などと会談した。狙いは、ビルマへの投資・開発にあることは一目瞭然である。特に、近年ビルマは天然ガスの輸出を外貨獲得の大きな手段としていて、安倍の狙いもそこらへんにあるのだろう。しかし、日本にはビルマ難民が多数いて、少数民族難民の帰還は危険性が高い。他方で移民受け入れ「先進国」であったスウェーデンでは状況が急速に変化している。中道右派政権が発足してからわずか7年余りで、以下のような状態になっている。とりあえず、こんなことになっているという情報である。

焦点:移民大国スウェーデン、暴動で露呈した「寛容政策」のひずみ
(2013年 05月 26日 ロイター)

 5月23日、スウェーデンの首都ストックホルム郊外で起きた暴動は、同国の「移民寛容政策」の負の一面を浮き彫りにした。

 [ストックホルム 23日 ロイター] 過去数年間で最悪となる暴動が連夜発生した、スウェーデンの首都ストックホルム郊外のヒュースビー地区。一見したところ、カラフルな遊具が並ぶ遊び場や草が刈り込まれた公園、低層の集合住宅などが集まる一般的な整備された地区に見える。

 しかし、移民の多い同地区では、住民らは実を結ばない就職活動や警察による嫌がらせ、人種差別的な中傷などについて口にし、スウェーデンの移民政策の「寛容性」とは相反する現実が浮かび上がってくる。

 ヒュースビーで起こった暴動は他の地区にも拡大。貧困や人種差別などを背景に2011年に英ロンドンで、2005年に仏パリで発生した暴動を思い起こさせる。今回の暴動は、スウェーデンの福祉制度に別の一面があることを示している。

 同国人口の約15%は外国生まれで、北欧では最も高い割合。「反移民」を唱えるスウェーデン民主党の躍進は、同国民の意見を二極化させてきた。

 深夜にストックホルム中心部を出発する列車は、単純労働を終えて帰宅するアラビア語やスペイン語を話す移民であふれている。移民の第2世代でさえも、ホワイトカラーの職に就くことは困難とされる。

 あるアジア出身の外交官は「スウェーデンには多くの移民が存在する。しかし、彼らはどこにいるのだろうか」と述べた。

 <格差が急速に拡大>

 ラインフェルト首相率いる中道右派政権は過去7年間、税率引き下げや公的手当の減額を行い、この取り組みは欧州の大半を上回るスウェーデンの経済成長に寄与してきた。しかし一方で、同国は経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で、格差が最も急速に拡大している国でもある。

 ストックホルム大学の犯罪学教授、イェージー・サルネッキ氏は、主要都市には、他の地区に比べて失業率が著しく高く、貧しい移民が集まる地区があると指摘する。

 世論調査によると、スウェーデン国民の大半は現在でも移民受け入れを支持している。同国は移民に住居やスウェーデン語の授業を提供し、難民申請者に親族との同居を許可するなど、手厚い保護で評価されている。

 しかし、このコンセンサスは崩れつつある。

 ヨーテボリ大学のUlf Bjereld・政治学教授は「どんな理由であれ、非就労者は国の発展に貢献しない」と指摘。

 スウェーデンが2012年に受け入れた難民申請者は4万3900人。前年から50%近く増え、過去2番目に最も多い人数となった。ほぼ半数はシリア、アフガニスタン、ソマリアの出身者だった。

 難民申請者は、短期的には社会保障制度の財政負担となる。OECDのデータによると、外国出身者の失業率が16%であるのに対し、スウェーデンで生まれた国民の失業率は6%。同国が充実した福祉制度を維持するには高水準の就業率が不可欠となる。

 <怒れる若者たち>

 今回の暴動では、若者は車両を放火し、現場に到着した警官や救急隊員らに投石するなどした。目撃者は警察の手荒い対応が状況を悪化させたと述べ、ヒュースビーの住民は警察が「サル」などの言葉を浴びせたとしている。

 ヒュースビーで暴動に加わったという20代前半の若者は「最初はただ面白がって参加した」とコメント。しかし、警棒を持った警官が女性や子供を押しのけるのを見たときに強い怒りを感じたと語った。

 取材に応じたヒュースビーの若者の大半は失業中かインターンだった。多くはインターン制度の活用を続けているとし、フルタイム雇用の確保はほとんどないと不満を述べた。

 今回の暴動の発端は今月、ヒュースビーで刃物を持った男性(69)が警官に射殺されたことだとみられている。移民が住民の約8割を占める同地区では、100人超が参加する平和的デモが行われた。

 しかし男性死亡の調査の要求への対応はなく、若者らはツイッターで人種差別行為に対する不満を表明し、怒りが拡大。20代の美容師の女性は「若者が互いを刺激して、小さな火を起こした」と話した。

 移民の間では不満が収まる様子はないとみられ、エチオピアで生まれたという看護師の女性(39)は自身がエチオピア人であると同時にスウェーデン人だと語る一方で、「地元のスウェーデン人が、私をスウェーデン人として受け入れることはないだろう。彼らにとっては、私はただの移民としか映らない」と述べた。

(原文執筆:Niklas Pollard記者、Philip O'Connor記者、翻訳:本田ももこ、編集:野村宏之)

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経産省前テントひろばスタッフBさん不当弾圧を許すな

経産省前テントひろばから経産省と警察による弾圧に抗議する声明を発します。
重複をお許し願います。転送・転載を歓迎します。
////////////////////// 声明 ////////////////
声 明
                           経産省前テントひろば

 2013年5月10日、丸の内署は、テントスタッフの一人Bさんを暴行の容疑で逮捕した。
 同日14時30分頃、テント放送の準備が行われている時、経産省の金子洋悦(この度の訴訟における原告指定代理人のうちの1人)が、ビデオカメラをもった氏名不詳の男C、他とともに注意に現れた。Bさんは防犯カメラの台座(コンクリート製)に腰掛けて何気なくその模様を眺めていただけであるが、Cは執拗にBさんの顔を至近距離から撮影し続けた。Bさんは当然ながら、肖像権の侵害だから止めるように、と何度も要請したにもかかわらず、顔の数センチまで接近して撮影を続けた。
たまりかねたBさんは、手でカメラをどけながら「あんたも、こうやってなでられたら嫌だろう」とCの顔をなでるようにしたとたん、Cは「暴力だ!」と突然叫びだし、別の職員が警察に緊急連絡し、丸の内署、警視庁本庁から公安刑事を含む総勢約50名ほどの警察官が駆けつけた。
 警察は私たちと経産省職員の間に入って、双方から事情を聞くというような行動となった。もちろんBさんを初め現場にいた仲間Dさん等は、いま起きたばかりの事態を説明した。ややあって、事態は収束したのであるが、最後に刑事はBさんに「丸の内署まで来て、事情を説明してほしい」とBさんに要請。Bさんは、自らやましいことは全くなかったので、何らの疑いも持たずに事情聴取のために丸の内署に同行することになった。
  その際、Dさんが「一緒に行こうか」とBさんに話し掛けたが、Bさんは「大丈夫ですよ」ということであったので、Dさんも全く大した問題ではないとの判断から、Bさんは一人で丸の内署に行くこととなった。
 その後、帰還があまりに遅いので、気をもんでいたところ、救援連絡センターから連絡が入り、Bさんが逮捕されたと情報を得た。
 Bさんの容疑は暴力行為ということだが、ともかく直ぐにDさんを含む2名が丸の内署に事情を聞きに出かけた。捜査中ということで埒があかなかったが、ともかく逮捕されていることは確認された。合わせて、Bさんはペースメーカーをつけており、心臓病の関係から、病院にいっているということだけが確認された。
 事実は、Bさんが超至近距離からの執拗な撮影を拒否し、それに抗議し、「あんたも、こうやってなでられたら嫌だろう」手を挙げた時たまたま、その手がC職員の顔に触れただけである。顔を叩くとか殴るとかとは程遠い行為である。C職員は大仰に騒ぎ立てて警察を呼び、文字通り事情聴取ということでBさんを丸の内署に同行し、そのまま逮捕したのである。容疑は暴行と器物損壊ということである。
 そもそも最近の経産省職員のテントに対する対応・嫌がらせは敵愾心丸出しである。すでに「防犯カメラ」と称する監視カメラを2台もテント付近に据え付けてあるのに、ハンディカメラによる執拗な撮影は挑発的で目に余るものがある。また、経産省は、私たちの請願権さえ認めようとしていない。請願書を、請願者を一人に限定して、職員に門前で受け取らせるなどという礼を欠く卑劣な行為をした。

 経産省職員による執拗な撮影行為は、個人の肖像権を侵す犯罪である。
○直ちにこのような犯罪行為を止めよ!
○今回の「(土地)明渡訴訟」と連動したかのような、挑発行為を一切止めよ!

 警察は、経産省の職員による犯罪行為を放置し、経産省の職員の一方的な証言に基づいてテントスタッフを逮捕した。これは不当な逮捕であり、テントに対する不当で露骨な弾圧であることは言をまたない。
○警察は不当な弾圧を止めよ!Bさんを直ちに釈放せよ!
○警察は、私たちと経産省との係争に不当に介入するな!

○東京地裁は、Bさんの拘留延長を絶対認めてはいけない!

  2013年5月12日

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4・28政府式典で、総理が天皇の臣下としてふるまった問題

 『沖縄タイムス』の以下の社説は、政府主催の「主権回復の日」式典で安倍首相が「天皇陛下万歳」の声を挙げたことに強い違和感を表明している。日本国憲法上最高権力者と規定されている内閣総理大臣が、天皇に対して「臣下」としての態度を取ったことは、主権在民の原則に反するもので、民主主義を破壊する行為である。天皇は現憲法では、国民統合の象徴であって、国民の代表者ではないし、ましてや統治権者ではない。そういう人に対して、総理大臣が「陛下」と叫んで、その臣下たることを公式の場で表明したというのは由々しき事態である。天皇の日常は儀式を行うことに多くが費やされているが、その儀式は、無宗教ではなく、神道であり、それは戦前と同じままのはずである。「はずである」というのは、それが一般には公開されず人々の目から隠されているからである。秘儀と言ってもいいようなもので、そういう儀式を日々行うことが天皇家の勤めなのである。こうして、日本国憲法は、9条ばかりでなく、1条もすでに中身が骨抜きにされているのである。沖縄からよく見えることが、ヤマトでは見えにくくなっていて、こういうことに無反応になっているのは、驚くべきことだ。

  辻直四郎『ウパニシャッド』、服部正明『古代インドの神秘思想』(いずれも講談社学術文庫)、白川静『文字遊心』(平凡社ライブラリー)等々。

4・28式典:「陛下万歳」尾を引く違和感(2013年5月1日 沖縄タイムス)

 「主権回復の日」政府式典であった「天皇陛下万歳」の三唱は、県民に強い違和感を残した。出席した高良倉吉副知事は「式典の趣旨がぶち壊しになった」と不快感を隠さない。一方、政府配信の動画は「天皇陛下」の音が消え、一部「なかったこと」になっている。

 28日、会場に用意された高良副知事の席は、他府県の知事を差し置いて筆頭の位置だった。次に小笠原諸島がある東京都の猪瀬直樹知事、その次に奄美群島を含む鹿児島県の伊藤祐一郎知事。高良副知事は「政府は相当に配慮していた。式典自体も厳粛でいい雰囲気だった」と振り返る。

 最後の万歳は、唱和しなかった。「なぜそうなるのか理解できない。アジアや沖縄への戦争責任に向き合えない、柔軟性を欠く日本社会を表している」

 沖縄国際大学の石原昌家名誉教授も、テレビで見て衝撃を受けた。「4・28は沖縄戦の結果を反映したもの。式典での『天皇陛下万歳』に、体験者や遺族は脳天を殴られた気持ちだったのではないか」と語る。

 「為政者は既成事実の積み重ねのパワーを熟知している。安倍晋三首相は自ら天皇・皇后の前で万歳し、戦争国家に向けて最初のくいを打ち込んだ」

 菅義偉官房長官は30日、首相らの唱和について「自然発生的であり、政府として論評すべきではない」と深入りを避けた。

 式典の模様を伝える「政府インターネットテレビ」。出席者の1人による「天皇陛下、万歳」の声は聞こえず、それに続く「万歳」の唱和から音が戻る。

 内閣府は「式典が終了したので、運営業者が会場のマイクのスイッチを切り、万歳に気付いて入れ直した。意図的な編集ではない」と説明する。ただ、テレビのニュースでは三唱の声が流れており、なぜ政府のカメラだけが音を拾えなかったのか、疑問も残る。(阿部岳)

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難民講座のご案内

スーチーさん来日を機に考える

ミャンマーの現状とこれから

 難民講座のご案内

ぜひ御参加を!

 やっと良い気候になってきましたね。皆さま、お元気でしょうか。

13日から1週間、ビルマのアウンサン・スーチーさんが、日本政府の招きで来日しています。

「民主化」政策の「実現」で、日本をはじめ各国が、「アジア最後のフロンティア」としてのビルマへの経済進出に色めき立っていますが、

その裏側で、ビルマ難民の帰国は厳しい状況が続いています。また、少数民族間の武力衝突も続いています。

 私たちは、ビルマの現状や、アウンサン・スーチーさんの果たしている役割について、もう少し知る必要があります。

そこで、下記のように難民講座を開催しますので、お気軽にご参加くださるよう、お願いします。

 

4月21日() 1時半~4時半

新宿区立元気館(電話033202-6291)

副都心線西早稲田駅、エレベーター口すぐ。

高田馬場駅から徒歩15分。明治通り。都立戸山高校となり。

報告「ビルマの現状と今後」/自由討論

■参加費300円

 

主催:難民を支援し連帯する会(℡:0429985501 さかい)

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福島の精神的被害について、その他

 丸山真男『現代政治の思想と行動』(未来社)、色川大吉氏『明治精神史』(講談社学術文庫)、『明治の精神』(筑摩書房)、『明治の文化』(岩波書店)、『東北学』2010年に入る。

 友常勉氏『戦後部落解放運動史』(平凡社)の最初に、わたしが第2の故郷と思っている東九条のことがでてきて懐かしかった。ことに、わたくしが散逸しかかっていたのをコピーを取ってまわりに配った『九条思潮』のバックナンバーを取り上げられたことには、感謝したい気持だ。『九条思潮』には、東九条解放運動主体の形成史の一端も記録されている。これは是非とも残さなければと思いコピーを取ったのである。東九条松ノ木町40番地実態調査報告書のタイトルも、反対意見もあったが、『九条思潮』と決まった。そんなことも思い出した。もっとも、後の部分もあり、それはこれからである。

 天皇制論3冊は、それぞれ、力の入った論を展開されており、天皇制論の内容については極めて豊富化されているということがわかった。そして、課題はどこかということも指摘されている。そこのところの解明も今は進んでいるはずである。どこまで到達したかという到達段階の確認と総括も必要だろう。

 以下、WHOには文句があるが、福島の健康被害について、精神的被害についても述べているので、貼っておく。それと、警官不祥事があまりにも多いので、それも。ひどすぎだ。それと、沖縄での米兵のレイプ犯罪に那覇地裁が、9年と10年という懲役の判決を下したという記事も。このような事件の背後には、沖縄への米軍基地の集中、不平等条約と化している日米安保条約とセットにある日米地位協定の問題があるということをしっかりと認識しなければならない。

福島原発事故の心的外傷、がんリスクより大きく WHO(2013.03.01)

(CNN) 世界保健機関(WHO)は28日、東京電力福島第一原子力発電所の事故が健康に及ぼす影響についてまとめた報告書を発表した。少数の住民などについて、放射線を浴びたことにより特定の種類のがんにかかるリスクがわずかに高まったと指摘したほか、被災者の心的外傷にも言及している。

 放射線の影響については、特に事故現場で対応に当たった若い作業員について、高濃度の放射性ヨウ素を吸入し、甲状腺がんの発症リスクが高まる恐れもあると予想した。ただし甲状腺は比較的がんにかかりにくく、こうした作業員にとっての全般的なリスクは低いと指摘している。

 福島第一原発周辺の地域で放射線を浴びた子どもについては、一生のうちに白血病、乳がん、甲状腺がんを発症する確率が、一般に比べてわずかに高まるとした。

 それ以外のケースについては、原発事故による疾患の増加は「検出可能な水準以下にとどまる可能性が高い」との見通しを示した。

 報告書ではさらに、被災者の恐怖、不安、うつといった心理的影響にも焦点を当て、心身症や精神疾患に至る可能性も指摘した。放射線は目に見えず、どの程度影響があるのかも分かりにくいことから、こうした症状は深刻化する恐れもあると解説。被災者が偏見の目で見られ、一層厳しい状況に追い込まれる可能性にも言及した。

 報告書をまとめるにあたり、調査員は被災者への面接調査も実施した。福島第一原発から40キロの距離にある福島県飯舘村は、約6000人いた住民が避難して、ゴーストタウンと化している。第2次世界大戦の直後から60年以上も同村に住んでいたというナカノ・ユキオさんは、同報告書の調査員に、仮設住宅での生活は厳しく、強い精神的ストレスを感じていると語った。

 妻のマサヨさんも孤独感や高齢であることの不安を訴え、この状況であとどれくらい生きていられるか、毎日考えていると話した。

 地震、津波、原発事故を一度に体験したことに加え、景気低迷も重なって、被災者の健康に複雑な問題が生じる恐れもあるとWHOは警告する。

 事故発生から1年間の福島県の住民の被曝線量は、最も高かった地域で12~25ミリシーベルトと推計した。

 米放射線医学会によると、これはCTスキャン(コンピューター断層撮影)検査を1回受けるのと同程度の線量だといい、たとえ25ミリシーベルトの線量を浴びたとしても、がんで死亡する確率が高まることはほとんどないとしている。

 福島県内のそれ以外の地域では1年間で3~5ミリシーベルトと、X線検査を1回受けるのと同程度の線量だった。

 WHOは、報告書は徹底調査を行ってまとめたとしながらも、原発事故の最終的な影響は、ずっと後になってからでなれば分からないとしている。

49歳警部補、女子大生を恐喝容疑 京都、身分隠し交際(2013年3月1日 朝日)

 出会い系サイトで知り合い、交際していた女子大生(19)から現金5万円を脅し取ったとして、大阪府警は1日、京都府警亀岡署警務課の警部補・田中秀明容疑者(49)=京都市西京区桂徳大寺北町=を恐喝容疑で逮捕し、発表した。「間違いありません」と容疑を認めている。女子大生は約80万円支払ったと説明しているという。

 捜査4課によると、田中容疑者は昨年2月、大阪府内の女子大生に復縁を求めて携帯電話でメールを送った際、「誰ですか」と返信されたことに立腹。「うそをついたので、民事裁判を起こす。2人の関係が両親にもばれる」などと脅し、訴訟依頼を取り消すための費用と称して、同12月20日に5万円を銀行口座に振り込ませた疑いがある。

 田中容疑者はほかにも携帯メールで、「弁護士の調査で(女子大生の)住所が判明した」と脅したり、「弁護士への取り消し料200万円は、私が毎月10万円ずつ返している」とし、折半を迫ったりしていたという。女子大生は大阪府警に、5万円を振り込んだ以前にも、手渡しなどで複数回、現金を渡したと説明しているという。

84人盗撮容疑、巡査長を書類送検 警視庁(2013年3月1日 日経)

 警視庁は1日、東京都内の量販店などで女性のスカートの中を盗撮したとして、田無署地域課の男性巡査長(31)を東京都迷惑防止条例違反容疑で書類送検するとともに停職3カ月の懲戒処分とした。巡査長は同日付で辞職した。

 送検容疑は昨年10月、池袋や新宿の量販店で、バッグに隠した小型カメラを使い、84人の女性の下着を動画で撮影した疑い。警視庁によると、巡査長は通勤の電車内などでも盗撮を繰り返し、職務中に撮影していたこともあったという。

 一方、警視庁は同日、酒気帯び運転をして茨城県内で物損事故を起こしたとして、第9機動隊の男性警部補(58)を停職3カ月の懲戒処分とした。警部補は同日付で辞職した。

集団強姦事件、2米兵に懲役9年と10年 那覇地裁判決(2013年3月1日 朝日)

 沖縄県内で昨秋あった女性への集団強姦(ごうかん)致傷事件の裁判員裁判の判決が1日、那覇地裁であった。鈴木秀行裁判長は、米海軍兵のクリストファー・ブローニング上等水兵(24)に懲役10年(求刑懲役12年)、同スカイラー・ドジャーウォーカー3等兵曹(23)に懲役9年(求刑懲役10年)を言い渡した。

 鈴木裁判長は2人に「厳しい判決と思っているかもしれないが、被害者や裁判員の『県民としての感情』はもっと厳しい。裁判員と裁判官は、冷静に検討して判断した。自分の犯した罪に向き合ってほしい」と呼びかけた。補充裁判員も含めた8人の裁判員のうち、3人が女性だった。

 判決によると、2人は昨年10月16日未明、帰宅途中の女性を共謀して襲い、地下駐車場まで連れ去って首を絞めるなどして強姦。首に約2週間のけがを負わせた。ブローニング被告は現金約7千円を奪った。

 鈴木裁判長は「何ら落ち度のない被害者の苦痛は察するに余りある。同種の犯罪のうちでも比較的悪質な部類に属し、相当長期の実刑は免れない」と述べた。

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革コンのお知らせ

革コンというイベントのお知らせです。以下、完全版PDFは下にあります。

全国の叛乱分子(候補、集まれ(`・ω・´) =〇
「デモに行ってみたら周りが中高年ばかりで孤独を感じた」
「行動している(過去にしたのだけど手くいかない、もっと拡大したい」
「現状に対して不満・危機感があるのだけど、行動することが怖い」
「何か行動をするための同志を募りたい!」
こんな経験を持つ全国の意識の高い(?)若者諸君、大注目!
この度、まだ見ぬ同志たち、または顔は知っているけれどちゃんと話したことが
ない、ツイッターで知ってるけど直接会ったことはない同志たちと交流するナウ
いイベントを開催します!!
その名も、革コン!!
全国に点在するであろう仲間たちと、出会って、交流して、今後ますます混
迷を極めるであろう21 世紀を共に生き抜く方法を考えよう!
革コン!

日時3 月3日14時.17時(終了後打ちげあり
場所早稲田大学16 号棟308 教室
呼びかけ人
菅谷圭祐(法政大学六年、ゆとり全共闘
小川竜弥(自主乾杯祭実行委員長、ソーシャルワーカー
砂希矢エリカ(某カフェ労働者、フリーター全般労働組合
岩井佑樹(首都圏学生、闘う学生
東洋鍋子(首都圏学生、シェアスペース運営員

「kakukon.pdf」をダウンロード



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