歴史

ソヴィエト家族法について E・H・カー『ソヴェト・ロシア史1924―1926経済』から(2)

 1923年にトロツキーが指導した党活動家のシンポジウムで、彼は、「「同志コロンタイのテーゼ」は「父親と母親のその子供に対する責任」を無視し、子供を見捨てる―モスクワで増大しつつある弊害―ことにつながる」「われわれが『自由恋愛』の概念を誤って強調したために、国内戦期に党員は子供が将来どうなるかを考えずに子供をつくってしまった。労働者は党の教えによってその妻との離婚を奨励された。女性党員は党活動のために妻や母としてのその任務をおそろかにした。他方、夫の強い要求から党を離れた女性の党員のいた例も引き合いに出された」(30頁)。エンゲルスから一部が取り出されて強調されたが、それは口先だけのことで、実際生活の上では、伝統的な家族の在り方へと戻っていったという。

 1924年までに、堕胎(中絶)の合法化も批判にさらされた。そして、ロシア保健人民委員セマシコは、「諸君の性的エネルギーを公的活動のなかにまぎらしたまえ。・・・もし諸君が性的問題を解決したいと望むならば、種馬や雌馬にならずに、公的に活動し、同志となりたまえ」(31頁)と言ったという。

 ブハーリンは、1925年12月の第14回党大会で、青年たちのあいだに「純潔くそくらえ」とか「恥なぞくそくらえ」という名前の退廃的で半不良グループが拡がっていると批判し、コロンタイを猛烈に批判した。

 革命と国内戦の時期に、孤児が大勢生まれ、流浪の犯罪者と化していたという。孤児院は不足していた。しかも、1918年の家族法第183条は、養子縁組を禁止していた。しかし、1924年10月には、「子供たちを住民に貸し出す」政策が出される。孤児たちは、家族によって養われることになったのである。1925年11月のロシア共和国中央執行委員会である発言者は、国家が結婚の制度に関心を持たざるを得ないのは、「社会にとって明らかな重要性を持つ多くの結果が結婚の安定性にかかっているから」と言い、孤児の問題を「家族の解体」のせいにしたという(33頁)。

 こうして、ロシア革命からわずか数年で、日本の保守派が聞いたら、喜びそうなことを、ソヴィエト政府の高官連中が公言し、そして政策化するということになったのである。

 また、農民は、因襲的な結婚の排他的な権利と義務を支持し、自動的な離婚の自由を制限することを支持さえしたという。そして、数年後、離婚権に制限が設けられる。

 こうして、家族や性をめぐるソ連の諸政策は、結局、資本主義国とたいして変わらないものになったのである。エンゲルスは、全女性の公的産業への参加や経済的不平等の排除、その他による、女性の経済的社会的地位の改善の後には、自由恋愛は、その言葉どおりの内容が実現されるということを書いている。彼は、当時、イギリスで、女性が工場や炭鉱などで働いて家計の主な柱となっていたプロレタリア家族では、夫の暴力を除けば、ブルジョア的ではない自由恋愛が実現していると見ていた。ただし、エンゲルスは、こうした改善の後の世代がどういう性愛関係を築くかは、その世代の問題だとしている。

 レーニン存命中は、家族法の領域では、明らかに、進んだ政策が取られた。しかし、ブハーリン、トロツキー、その他の後継者たちは、後退していった。アメリカのキリスト教右派などの保守勢力は、共和党支持を通じて、家族の価値を高め、堕胎の禁止や性道徳の再建・厳格化などを推進しようとしてきたのであるが、1920年代後半以降のソ連でも、似たようなことになったわけである。性や家族問題ばかりではなく、喫煙や飲酒なども含めて、国家が、それらをモラルの問題として取り上げたことも、共通するわけである。

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ソヴィエト家族法について E・H・カー『ソヴェト・ロシア史1924―1926経済』から

  E・Hカーは、『ソヴェト・ロシア史1924―1926経済』(みすず書房)で、第1篇「背景」の冒頭で、連続と変化という相対立する原理のあいだの緊張を、歴史の基礎だと述べている。そして、トクヴィルのフランス革命評を引用している。トクヴィルは、心をもって、革命というものを評価しようとし、それに、カーは同意する。「ロシアの過去の伝統は、ボリシェヴィズムがその成分中に潜んだ反西欧的要素を展開し、そのマルクス主義的メシアニズムを古きロシアのメシアニズムのなかに合併するものを容易ならしめるような土壌を創り出した(20~21頁)。なるほど、彼は、ロシアのキリスト教こそが、ボリシェヴィズムの魂だったというわけだ。しかし、ここは、その問題を取り上げようというのではない。第1篇2「変化する考え方」(a)家族のところで、そこに、「アメリカ現代思想理解のために」の補足となることが書かれていると思うので、見ておこうというのである。

 まず、カーは、西欧のロマン主義文学に発する性関係と家族についての急進的な考えが、ロシアに広まっていたとして、1862年の秘密組織「若きロシア」の宣言から引用する。それは、「著しく不道徳な現象で、両性の完全な平等とは両立しない現象」としての結婚の廃止、女性の自由のために、子供の世話と教育は社会の機能にするべきだと主張した。ボリシェヴィキは、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』のなかで、エンゲルスが、「女性の解放は、全女性が公的産業に復帰することを第一の先決条件とし」、女性は公共の食堂と公共の育児所の制度によって家事から解放され、そして、個々の家族が「社会の経済的単位」たることをやめるであろうという考えを表明していたことを言葉としては承認していた。この本は、エゲルスが、マルクスのアメリカのインディオの研究成果を出版したモルガンの著書についてのノートを下敷きにして書いたものである。その共同体において、家事は共同であり、女性の共同の仕事であったが、女性の地位が高かったということが書かれている。また、人類学の成果として、例えば、ピグミー族の共同体では、男性が家事に参加することが普通に見られ、逆に男性の仕事とされている狩りに女性も出かけているというフィールド・ワークの報告がある。とにかく、女性の男性への従属の根拠が、公的産業からの排除と家事の負担という分業にあり、つまりは、家族が「社会の経済的単位」化されていることにあるということが、エンゲルスのこの本の基本的主張である。しかし、マルクス・エンゲルスは、このような理論的分析から、実践的結論を引き出さなかったと、カーは言う。(ここまで、26頁)

 社会主義者べーベルは、『女性と社会主義』のなかで、「性的衝動の充足は、その他の自然的衝動の充足とまったく同じように各自の個人的問題である」と書いたという。社会民主党の指導者たちの個人的生活は、ブルジョア的道徳規準と変わらなかったという。ボリシェヴィキのイネッサ・アルマンドは、1915年に、女性の要求のパンフレットを書いて、「恋愛の自由という要求」を含めたことを、レーニンは、ブルジョア的考えだと批判した。この手紙を引用する。

 dear freiend ! 小冊子のプランをもっとくわしく書くよう切におすすめします。そうでないと、かなり多くの点がはっきりしていないのです。
 一つの意見だけは、いまでも言っておかねばなりません。
 第三節―「恋愛の自由という要求(婦人の)」は、全文削除するようおすすめします。
 これは、実際には、プロレタリア的な要求ではなく、ブルジョア的な要求ということになります。
 実際、この言葉を、どう解釈していられるのですか? この言葉を、どう解釈することができるでしょうか?
 1、恋愛問題のうえでの物質的(経済的)勘定からの自由か?
 2、物質上のわずらわしさからの自由か?
 3、宗教的偏見からの自由か?
 4、ローマ法皇などの禁止からの自由か?
 5、「社会」の偏見からの自由か?
 6、狭い生活環境(農民あるいは小市民あるいはブルジョア・インテリゲ ンツィアの)からの自由か?
 7、法律、裁判所、警察からの自由か?
 8、恋愛にむきになることからの自由か?
 9、子どもを生むことからの自由か?
 10、姦通の自由か? 等々。
 たくさん(もちろん、全部ではないが)のニュアンスを列挙してみました。もちろん、あなたが解釈しているのは、第8―第10ではなく、第1―第7か、でなければ第1―第7ふうなものでしょう。
 だが、第1―第7のためには、別の表現をえらぶべきです。なぜなら、恋愛の自由は、この考えを正確に表現してはいないからです。
 ところで、公衆、つまり小冊子の読者は、かならず「恋愛の自由」一般を第8―第10のようなものの意味にとるでしょう。―たとえあなたの意志には反しても。
 近代社会では、もっとも冗舌で、さわがしい、「高いところにいるように見える」階級が、「恋愛の自由」を第8―第10に解釈しているからこそ、これはプロレタリア的な要求ではなくて、ブルジョア的な要求なのです。
 プロレタリアートにとってもっとも重要なのは、第1―第2であり、ついで第1―第7ですが、これは、元来「恋愛の自由」ではありません。
 あなたがこの言葉を主観的にどう「解釈したいとおもっている」かは、問題ではありません。肝心なことは、恋愛問題における階級関係の客観的論理です。
                   Frendly shake hands !
                  W.l.(全集35巻、大月書店、182~3頁)

 ソヴィエトの最初の家族・結婚についての立法は、宗教婚の廃止と世俗的届出義務制であったという。宗教婚、これは、イスラエルにおいて実施されているものである。結婚を神の代理として公認し、それによって、民衆を教会の下に従属させているものである。それには当然、神への捧げ物というかたちで備えられるものを教会が手にするという現世的な物的利益が伴っている。ユダヤ教では、それは、ラビの仕事とされている。それから、一方または双方の配偶者の自由意志による離婚を認める離婚法、1918年秋に、これらの原則が婚姻法としてまとめられた。これには、両性の平等、非嫡子と嫡出子の平等、「事実婚」の公認が含まれていた。1920年11月には、堕胎(中絶)が合法化される。

 ボリシェヴィキのフェミニストのアレクサンドラ・コロンタイは、「家族というものは必要でなくなる。それは、家庭経済がもはや国家にとって有利ではなくなるがゆえに、国家にとっては必要ではなくなる。家庭経済は婦人労働者をより有用な生産的労働から不必要にも分離しているのである。他方、それは、家族の別の任務―育児―がしだいに社会によって引き継がれるがゆえに、家族の成員自身にとっても必要ではなくなる」(29頁)と言った。戦時共産主義下では、彼女のこうした考えは党内にも拡がっていたという。しかし、彼女が、「労働者反対派」に関係し、10回大会で非難されると、影響力が急激に低下した。1922年10月の第5回コムソモール大会で、ブハーリンは、「行動の準則の分野でアナーキー」が拡がりつつあることを攻撃し、過度の飲酒や喫煙とならべて性道徳の弛緩に言及し、これらの弊害を非難する決議を採択した。

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アメリカ独立革命小史

 

 まず、アメリカ独立革命に至る過程を見ておこう。

 北米大陸の人間の歴史は、言うまでもなく、もともとは、今ネイティブ・アメリカンと呼ばれるようになったインディオから始まる。この人たちは、氷河時代に、ユーラシア大陸と北米大陸がつながっていた時代に、ユーラシア大陸から移動してきたモンゴロイドとされている。これにも最近は別説があるようである。

 北米では、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在が近年の発掘で確認されている。

 1000年頃、北欧のノルマン人が北米大陸に到達していたようだが、定住はしなかった。

 1492年のコロンブスによる西インド諸島への到達以後、北米大陸は、イギリス、フランス、スペインによって、植民地化されていく。今のアメリカ合衆国では、南部のフロリダなどがスペイン、ミシシッピ川以東のルイジアナがフランス、東海岸の13植民地がイギリスである。今のカナダは、フランスとイギリスである。これら諸国は、北米大陸の分割をめぐって戦争をくり返していた。

 大陸で宗教戦争が起こると、カトリックに迫害されたピューリタン(清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をはじめ、旧大陸からの新教徒の移民が増えた。

 当初、イギリスは、北米植民地に対しては無関心で、税金も課さず、放置していた。そこで、植民地住民は、自発的に議会を作り、民兵を組織して、自治を行っていた。1619年にはヴァージニア議会が誕生した。

 北部では工業と自営農業が発展し、南部では、砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を奴隷貿易で連れてきた黒人奴隷を使って栽培するプランテーション農業が発展した。

 フレンチ・インディアン戦争(1754―1763)で勝利したイギリスは財政危機に陥った。そこで、イギリス政府は、この戦争で得たミシシッピ川以東のルイジアナを王の直轄地として植民地住民を締め出した。そして、その維持のためにイギリス軍常駐の費用を北米植民地に課そうとする。それをめぐって、北米植民地とイギリスの間の対立が激化していくのである。

 そのため、1764年に砂糖法、1765年には印紙法と、イギリス本国政府は、アメリカ植民地に対する新たな課税を行って、その脱出をはかろうとしたが、アメリカでの反対運動によって、撤廃される。1767年、イギリス本国議会がタウンゼンド諸法によって新たな植民地課税に乗り出すと、またも反対運動が盛り上がり、1770年、タウンゼンド関税も撤廃となった。だが、このとき茶に対する税が残される。1773年の茶法によって東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件に発展した。

 それに対して、イギリス議会は、懲罰的な立法を次々と行った。それに対する対策のために、第1回大陸会議が、北アメリカ13植民地中、12植民地の議会代表が、1774年9月5日から10月26日の間、フィラデルフィアのカーペーンターズ・ホールに集って、開催された。
ペイトン・ランドルフが進行役、ヘンリー・ミドルトンが10月22日から議長を務めた。会議では、10月20日に、イギリス議会の懲罰立法が撤回されなければ、英国製品のボイコットと輸出停止をする盟約が盛り込まれ、1775年5月10日から第2回大陸会議を開催することが決定され、12植民地に加えて、ケベック、プリンス・エドワード島、ノヴァ・スコシア、ジョージア、東フロリダ、西フロリダに招待状が発せられた。

 イギリスでは、1690年にロックの『市民政府論』が刊行されていた。フランスは、「百科全書」派などの啓蒙思想家が輩出した後で、近代ブルジョア革命への思想的準備がなされ、ヨーロッパの多くの王国で、封建制からの脱却を計ろうとする啓蒙専制君主が生まれていた。アメリカが独立した1786年に、イギリスでは、アダム・スミスの『国富論』が出ている。アメリカの独立からまもない1789年には、フランス革命が起きる。アメリカ独立戦争は、フランスの支持・支援を受けて闘われた。その後、イギリスで産業革命が始まる。

 イギリスとフランスの対立は、ヨーロッパ、インド、アメリカと、植民地での戦争として戦われた。イギリスは、アメリカでは独立を許して、敗北したが、インドでは、フランスとの戦争に勝利して、インドでの覇権を確立した。独立戦争に際して、独立派の側を支持支援したのは、フランス以外に、オランダ、スペイン、ロシアなどである。この時代は、世界同時戦争の時代であった。アメリカ独立は、そういう世界的な列強間の、直接的戦争や植民地での戦争と結びつく中で勝ち取られたものであった。

 したがって、米仏の戦争は、北アメリカでは、独立派に対して、土地を追い出され抑圧されたネイティブ・アメリカンたちにとっては、イギリス側で戦うことが、かれらの解放戦争になったのである。多くのインディオ部族は、イギリス側についた。それにたいして、「独立宣言」は、「国王はアメリカで内乱が起こるように扇動し、辺境の地に住む人々や残酷な野蛮人のインディアンを育成しようとしてきた。彼らのよく知られた戦いの掟は、年齢や性別や状態に関わらず無差別に殺すというものである」として、国王の専制の例としてインディオの自分たちへの反乱を捉えている。自分たちを、先住民の土地を奪い、抑圧・収奪した加害者だとはまったく思っていないのである。自分たちを、専制の被害者としてのみ捉えているのだ。その後、北米でインディオたちが、この連中にどんな酷い目にあったかは、歴史的に明らかにされている。

 第2回大陸会議では、独立後初代大統領となるジョージ・ワシントンを最高司令官とする正規軍の創設とその下での民兵に対する訓練が決定された。民兵は数は多かったが、訓練や装備その他で、イギリス軍に劣っていた。それにも関わらず、イギリス軍に勝利できたのは、一つには、フランスの支援があったこと、それから、イギリスとの間に大西洋が横たわっていて、イギリス軍の兵站に弱点があったこと、そして、平行して、ヨーロッパでイギリスの関わる戦争があったこと、などの要因があった。

 アメリカの独立は、主に北部の主導によって行われた。北部の工業・商業、自営農民の力である。南部の発展はまだである。イギリス出身のパンフレット作家でジャーナリストのトマス・ペインの『コモン・センス』が、1776年1月10日、フィラデルフィアで発行され、1年で約15万部が売れる大ベストセラーになったり、印刷業者で出版者でもありジャーナリストでもあったベンジャミン・フランクリンらが、まずは独立革命のイデオローグとして登場し、活躍する。かれらは同時に、発明家でもあった。それから、第2代大統領になるジョン・アダムスは、弁護士であった。初代大統領ジョージ・ワシントンは農場主であったが、北部の商工業の利害を代表するフェデラリストの支持を受けた。それに対して、第三代大統領になるトーマス・ジェファーソンは大農場主で、農民的利害を代表し、連邦主義的なレパブリカンの創設者となる。

 1790年代に、トーマス・ジェファーソンらは、民主共和党、別名レパブリカン党、ジェファーソン・リパブリカンを結成した。

 それと対立したのが、連邦党(フェデラリスト)は、である。1789年に初代財務長官になったアレクザンダー・ハミルトンを中心として結成されたアメリカ合衆国成立初期の政党である。ウィキペディアによると、フェデラリストに支持された初代大統領・ジョージ・ワシントンは、「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て共和主義者(フェデラリスト)だからだ」と述べたという。

 ウィキペディアによると、

 フェデラリストは主として商人・製造業者・政府債権所有者、相当の財産をもった人々、東部沿岸の都市や人口の多い地区を支持基盤としていた。フェデラリストは、一連の経済政策・外交政策を実施したが、それらは次のように要約できる。

   1.  各州の独立革命時代の債務肩代わりと公債制度の確立
   2.  合衆国銀行の設立
   3.  州紙幣の発行停止と連邦政府による健全通貨
   4.  アメリカ海運業の優遇と保護関税
   5.  フランス革命に伴う戦争では、フランスに対抗しイギリスと融和すること

 このうち、1の政策は少数の投機業者に債券の利子を払うために、大多数の債権を持っていない農民に重税をかける結果となる。これは全般の不満を引き起こし、民主共和党の1800年の勝利(ジェファーソンの大統領就任)を引き起こした。2と3の政策は連邦政府の財政面の強化をねらったもの。4と5は主にハミルトンが追求した政策といえよう。

 フェデラリストは当時から自営農民と大地主の犠牲において、都市商工業者の利益をはかったと見なされていた。一方、彼らは連邦共和国が自立する前に民衆の自然発生的な反抗によって転覆されることを警戒した独立革命の右派である、とする見解も否定しがたい。フェデラリストはジョン・アダムズ、ジェームズ・マディスンなどの政治家・識者を擁し、その後の政争に大きな役割を果たし、後のホイッグ党とともにアメリカ共和党の源流となった。

 つまり、独立革命の時点で、すでに、商工業と農業、都市と農村の対立が現れていたのである。それは、初代・第2代大統領がフェデラリスト、第3代・第4代大統領がリパブリカンという形で、後の民主・共和の二大政党制の先駈けとなったと言えるものである。それは、もちろん、後に南北戦争という形でも現れる。ただ、当時は、製造業といっても、まだイギリスでの産業革命が本格化する前で、職人的な業者であり、農民も家族経営で自給自足的な自営農が主である。その後本格化する北部の工業化の過程で誕生するアメリカの労働運動は、熟練工のクラフト・ユニオンの形を取り、フェデラリスト的な政治傾向を持つようになるのは、こういうことが大きいのである。他方で、リパブリカンは、南部では、奴隷労働に依拠するプランテーション経営の大地主層の利害を代表するようになる。南北戦争では、北部の産業の利害を代表して奴隷解放宣言をしたリンカーンは、共和党であり、奴隷制を維持しようとした南部のプランテーション経営層は、南部民主党に結集して戦ったのである。

 脱線した。脱線ついでに、オバマ大統領が就任演説で、ジェファーソンを自らの政治的起源と見なしているのは、民主党の起源であるリパブリカンの創始者だからだろう。だが、民主党は、南北戦争では、黒人奴隷の解放に反対したことを指摘しておく。彼は、就任演説で、アメリカの建国を神話的に語ったのであって、簡単に独立革命の歴史を見ただけでも、事はそう単純ではないことがわかる。NB! NB!

 

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ウォーラーステインの世界システム論によせて

  ウォーラーステインは、『近代システム』という本で、世界システム論というのを展開している。まことに壮大な作業で感心するのだが、その最後の方で、日本の鎖国問題について書いている。

 彼は、断言しているわけではないが、徳川幕府が鎖国するにいたった主な原因は、ポルトガルによる強引なカトリックの宣教活動のせいだと書いている。それに、徳川幕府を開く頃には、日本は自給できるだけの生産力段階に達していたとも述べている。もし、強引な宣教がなかったら、日本は、東南アジアまで交易圏としていただろうというのである。その宣教の中心はイエズス会であった。徳川幕府が正式に鎖国するのは、島原の乱の後の三代将軍家光の時代であるから、徳川幕府が当初から鎖国策を取ろうとしていたわけではないのは確かである。そして、キリスト教の抑圧・禁止は、鎖国とは直接関係はなかったのである。もし、ポルトガルが、宣教師の布教活動を抑制させて貿易関係を中心に幕府との関係を作ろうとしたら、鎖国しなかった可能性が高かったと言えるかもしれない。

 第二の点については、戦乱を収めた豊臣秀吉の刀狩と農兵分離、そして検地とそれを継承完成させた徳川幕府によって、本百姓を中心とした平等な農業経営の実現、それから「生かさず殺さず」の農民道徳の上からの押し付け、村請け制・五人組の連帯責任制による確実な年貢・貢租徴収システムの確立などによって、徳川幕府の財政基盤は当初は豊かであった。生産高は向上した。それが自給自足を可能とする水準に達していたというならそうだが、「百姓は生かさず殺さず」というようなレベルの生活水準の自給というのもどうかと思う。やはり、彼の世界システム論は壮大すぎて個別のことに正確さを欠くのは止むを得ないのかもしれない。

 もしポルトガルの宣教師たちの強引なキリスト教布教がなければ、鎖国はなく、海外交易を活発に行っただろうというのはどうだろうか? 室町から戦国期に、大名たちが先を争って海外貿易に乗り出していたのは確かである。中国地方の大内氏は、明との朱印船貿易で大きな利益を受けており、戦国期にはタイには日本人移民村さえあった。伊達正宗は、遠くバチカンにまで使節を送っている。キリスト教禁圧は、豊臣秀吉の時に始まったが、徳川家康は、海外貿易の利益に関心を持っていたという。戦国期には、キリスタン大名が何人もいた。それに対して、天下統一を成し遂げた秀吉は、自らを神格化して豊国大明神を祭った。徳川家康についてはその死後、明神とするか権現とするかで幕府中枢の意見が対立し、結局、権現で落ち着き、三代家光の時に、日光東照宮が建立される。家康自身がどう思っていたのかはわからない。本人は、浄土宗の檀家で、念仏をよく唱えていたようだ。徳川家の檀家寺は東京の芝増上寺である。

 ウォーラーステインによれば、世界史では、世界システムが太古から存在していて、それには二種類あり、一つは帝国システム、もう一つは世界経済システムというものだという。世界経済システムが崩壊すると帝国システムになる。世界経済システムは、経済が自律的で不安定であり、帝国システムは、政治的に統合されていて中央集権的だという。これらが相次いで交代してきたというのである。どうしてこういうことを考えたかと言えば、サミール・アミンやフランクらの従属理論が、周辺国の分析の経済分析に偏っていて、中心国の分析を無視したのに不満があったからだと言う。従属学派は、世界の中心国と周辺国の間に不等価交換があることを主張したのだが、それをウォーラーステインは、ローマ帝国と従属国や周縁地域との間に見出したわけである。それが、貢納関係である。

 しかし、最近保守派は、中華帝国による冊封関係を支配従属関係として単純化して描いているが、明と琉球王国の関係を見る限り、明の方が出超であり、海の民間交易を禁じていた明よりも琉球の方が海上交易を活発に行えた分だけ、経済的には得るところが大きかった。薩摩が目をつけたのもそうした琉球の貿易利権であり、それと琉球産の砂糖であった。1609年薩摩は琉球を侵略し実質的な支配下に置くが、琉球王国をそのままにして間接支配したのである。だいたい中華諸帝国の冊封体制は、中国側の持ち出しであったようである。それは経済的利益のためと言うよりは、政治的安定のためという政治的な動機によるものだったのではないだろうか?

 もう一つ彼に影響を与えているのは、ブローデルである。交換システム史観とでもいったらいいだろうか? マリノフスキーのトリブリリアント諸島のフィールド・ワークの研究結果であるクラ交易の影響があるのかもしれない。あるいは、マルセル・モースの贈与論か? まだよくわからない。
 

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エンゲルス黙示録論

 エンゲルスに『黙示録』という面白い論文がある。

 1883年にロンドンの『プログレス』という雑誌に載ったものだが、エンゲルスは、ドイツのヘーゲル左派のシュトラウスらが行っていた聖書についての歴史学的言語学的研究について述べている。

 「自分たちではできるだけ秘密にしておくことにこれつとめている、自由思想的見解をもつ少数の神学者たち以外には、知られていない学問があるが、それは、聖書を歴史学的にならびに言語学的に批判し、新約、旧約聖書を構成している種々の文書の年代、起源、および歴史的価値を究明する学問である」(マルクス・エンゲルス全集第21巻より)

 『聖書』学といえば、もっぱら、その教えの解釈をめぐるものという印象が強いが、例の映画『ダヴィンチ・コード』がヒットしたことで、恐らく、福音書には、現在あるテキスト以外に、『ユダ福音書』とか『マリア福音書』などがあったことは少しは知られるようになったもしれない。それは、死海文書の発見などをきっかけとしている。

 今でこそ、キリスト教は、紀元後に出きたいくつもの宗派があって、それぞれが独自の聖典を持ち、独自の教義を持っていたことは、知られているが、その大元の一つは、ヘーゲル左派にあったわけである。もっと前に、スピノザが、『聖書』の実証主義的な解釈に挑戦している。彼は、『旧約聖書』が、バビロン捕囚から帰還したエルサレムの改革派ラビのエズラらの手によって編集されたことを証明している。このとき、ユダヤ教の改革が行われ、旧約聖書が編纂されたのであり、事実上、この時代が、ユダヤ教の起源である。

 エンゲルスは、エルネスト・ルナンの「諸君が、最初期のキリスト教団はどんなものであったかについて、明確な概念を得ようと思ったら、現代の教区信徒会と比較したもうな。それはむしろ国際労働者協会の地方支部みたいなものであった。」という言葉を引いて、「そのとおり。〔当時の〕キリスト教は、現代の社会主義とまったく同様に、大衆をとらえたが、それは、多種多様の宗派と、なおそれ以上に、相争う個人的見解―わりあい明快なものもあれば、わりあい混乱したものもあったが、後者が大多数であった―のかたちにおいてではあったけれども、すべてが支配体制に、「現存権力」に敵対していたのである」と言っている。

 そして、一般にわかりにくいと思われている黙示録こそ、もっとも、明瞭だというのである。

 「この書は紀元六八年に、または六九年一月に書かれたものであるということ、したがって新約聖書のうちで、執筆年代が真に確定されている唯一の書であるばかりでなく、またいちばん古い書でもあるということである。さて紀元六八年のキリスト教の様子はどんなものであったかは、この書でこれを鏡に照らすようにはっきりと見ることができる」。

 黙示録こそ、最も古い文書であり、その後にできた他の文書には、アレキサンドリアのユダヤ人のフィロンの思想とストア派の思想が入っているというのである。黙示録には、それらと共通する思想は見られないという。

 「ここにあるものは、われわれのために保存された、最も生地のままの形態におけるキリスト教である。そこにはたった一つの支配的な教条があるだけである。すなわち、信者たちはキリストの犠牲によって救われた、ということ。しかし、どのようにして、またなぜか、ということはまったく不明である。そこでは、古いユダヤ人的、異教徒的な考え、すなわち、神または神々は犠牲によってなだめられなければならない、という考えが、特殊キリスト教的な考え、キリストの死は一度だけで十分な偉大な犠牲である、という考え(じっさい、これがキリスト教を普遍的宗教にしたのである)に転化しているだけである。
 原罪については痕跡もない。三位一体についてもゼロ。イエスは「子羊」ではあるが、神の下位にあるものである。じじつ、一つの章句(第一五章第三節)のなかでは、彼はモーセに等しい地位におかれている。そこにあるものは、一つの聖書ではなくて、「神の七つの霊」(第三章第一節および第四章第五節)である。殺された聖徒たち(殉教者たち)は神に報復を呼びかける。
 「主よ、いつまでもあなたは、裁くことをなさらず、また地に住む者にたいして、わたしたちの血の報復をなさらないのですか?」(第六章第一〇節)―
 のちにキリスト教の理論上の道徳律からは注意深く削除されたものの、キリスト教徒が異教徒を圧倒するやいなや、実際上はやみくもに発揮された一つの感情である」。

 黙示録というと何か恐ろしい予言が書かれている神秘的な書というイメージを持っているが、それはキリスト教の古い形を明瞭に伝えているものだというのだ。

 黙示録は、ユダヤ人の手で書かれ、多くの部分は、旧約聖書の預言書からの借り物であり、しかも旧約聖書には、「ダニエル書(紀元前約一六〇年ごろ。数世紀もまえに起こってしまったことを予言している)に始まり、紀元初頭に先だつことあまり遠くない時期にギリシア語で書かれた聖書外典式の作り話『エノク書』で終わっている」という予言の形を借りた過去の歴史記述があって、それからも借りているという。

 しかも、このヨハネを名乗る黙示録作家は、「時が近づいている、これらすべはすぐに起こるであろう」と述べているが、それは当時の歴史的な情況を反映していたという。

 「「ヨハネ」は、七つの頭と一〇の角(角のことはわれわれにはなんらかかわりがない)をもった一匹の獣が、海からあがってくるのを見る。
 「その頭の一つが、死ぬほどの傷をうけたが、その致命的な傷もなおってしまった。」
 この獣は、四二ヵ月間(聖なる七ヵ年の二分の一)、神と子羊に反対して、地上を支配する権力をもつことになっていた。そしてすべての人々は、この期間中は、この獣の刻印すなわちその名まえの数字をば、彼らの右手または額におびるように強制された。
 「ここに、知恵がある、思慮のある者は、獣の数字を数えるがよい。その数字とは人間をさすものだからである。そしてその数字は六六六である。」

 この部分ほど、これから起こるであろう危機の予言として、喧伝された部分はないだろう。これについてはくさるほどの解説本が出たが、これをエンゲルスはいとも簡単に解き明かす。

 ここで頭に傷を受けた獣とは、ローマ皇帝ネロのことであるとエンゲルスは言う。

 「紀元二世紀のイレナエウスは、次のことをまだ知っていた。すなわち、傷をうけたがなおってしまった頭とは、皇帝ネロのことであった、と。ネロはキリスト教徒の最初の大迫害者であった。彼が死んださいに、とくにアカイアおよびアジアじゅうに、次のようなうわさが広まった。すなわち、彼は死んだのではなくて、ただ傷をうけただけだ、そしていつかまた現われて、世界中に恐怖をばらまくであろう、と(タキトゥス『年代記』、第六巻第二二章)。と同時に、イレナエウスはもう一つ別の、非常に古い読み方を知っていた。それによると、名まえを示す数字は、六六六のかわりに、六一六であった」。

 前者は、タキトゥス『年代記』を読めば確かめられる。

 さらに謎のようなこのこと「あなたの見た獣は、昔はいたが、いまはいない。‥‥七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また七人の王のことである。そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりはいまおり、もうひとりはまだ来ていない。それが来れば、しばらくのあいだいることになっている。昔はいたがいまはいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人のなかのひとりである。‥‥あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」も以下のように解明される。

 「こうみてくると、われわれはここに二つの明白な陳述をうる。(一)赤の衣をまとった婦人は、地の王たちを支配する大いなる都、ローマである。(二)この書が書かれた時点では、第六番目のローマ皇帝が支配しており、彼のあとには、短期間、もうひとりが支配にくるであろう。そしてそのつぎに、「かの七人のなかの」ひとりの復帰がやってくるのだが、彼は傷をうけたがなおってしまっており、その名前は不可思議な数字のなか蔵されていて、それがネロであることは、イレナエウスはまだ知っていたのである。
 アウグストゥス帝から数えると、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、そして五番目がネロである。いまいる六番目は、ガルバである。彼の即位は、ガルバの後継者オトに率いられた、とくにガリア地方における諸軍団の反乱の合図となった。こんなわけで、いま問題の書は、六八年六月九日から六九年一月一日まで支配していたガルバの治下で、書かれたものに相違ないのだ」。

 次に、666という人を表す数字の謎である。それについて彼は、「紀元前三〇〇年ごろ、ユダヤ人たちは彼らの文字を数の記号として用い始めていた。思弁好きのラビたちはここに、秘儀的解釈すなわちカバラのための新方法を見た。秘密のことばは、数字、すなわちそれらのことばのなかにふくまれる諸数字の数値の加算によって生じた数字によって表現された。この新しい学問を彼らはゲマトリアーすなわち幾何学と称していた」ということ、そして、この方法を適用すると、ネロという名前と数字が一致することを示す。

 「この書は、彼らの仲間のひとりによって描かれた、ほとんど原始に近いキリスト教についての、信頼するに足る絵姿として、新約聖書中の残りのすべての書をひっくるめてくらべてみても、なおかつより多くの価値をもつものである」。

 これが黙示録についてのエンゲルスの評価である。ダヴィンチ・コードも真っ青の聖書の謎解きが、ドイツの1841年のベルリン大学におけるフエルディナント・ベナリ教授の連続講義ですでに行われていたわけである。

 「キリスト教は、どの大きな革命運動もそうであったように、大衆によってつくりだされたものである。それは、新しい諸宗派、新しい諸宗教、新しい予言者たちが幾百となく起こった或る時代に、われわれにはかいもく知られていない或るやり方で、パレスティナに起こった。じじつ、それは、これらの宗派のうちでわりあい進歩的なものの相互摩擦から自然発生的にできあがった、たんなる平均産物にすぎないものであって、それが、のちにアレクサンドレイアのユダヤ人フィロンの諸命題と、もっとあとではストア学派の強力な浸透とがつけくわわることによって、一つの教義となったものである」というエンゲルスのキリスト教論も興味深い。

 エンゲルスは、当時イギリスで流行した降霊術に興味を持って、霊が乗り移るという少女を使った見世物に出かけて、そのからくりを解き明かしたこともある。まるで、科学主義の権化のような探偵シャーロック・ホームズを創作したコナン・ドイルも、降霊術にはまったり、妖精の実在を証明しようとしたのは、それとそれほど遠くない時期だ。こういう態度が、当時の科学者に多いのは、科学者が科学の限界に気づいて、科学主義に対して反省したためだというようなことがよく言われるが、そうではないという。むしろ、それは科学主義の延長であって、未知の現象や法則の発見を目指して、SFなどに向かったのだという。

 交霊術というのは、その後、アメリカでも流行した。これは、あくまでも、別の世界が存在するなら、それと電信のように、会話が可能だという科学的という主張の下に行われたものだった。科学では次々と未知のものが発見されるのだから、今は仮説でも、明日は事実にならないとも限らないわけである。そういうわけで、19世紀末から20世紀の初め頃には、科学革命といわれるぐらいの大変化が起きていて、科学者自身が動揺していたのである。アメリカの交霊術は、大正デモクラシー下の日本にも入ってきた。透視だのテレパシーだのについての研究や実験が行われ、それを専門に研究する学者も現われた。テレパシーについては、もし人間に未知の能力が備わっていることが証明されれば、科学的な大発見であり、もしかしたらノーベル賞でももらえるかもしれない。それだけ、人々が驚くような大発見が続いていたので、科学者の中には、より大きな発見をしなければという気持ちに追い込まれた者もいたわけだ。

 黙示録を解読したとされるノストラダムスの大予言は有名である。とくに、2000年には、世紀末でもあるから、その予言が起こる日だとして、ブームになった。ところが、ハルマゲドンは起きなかった。オウム真理教の麻原もまたハルマゲドンが来ることを説いた一人だが、ハルマゲドンはなかったのである。黙示録が、ローマ皇帝ネロが蘇って、再び、キリスト教徒を迫害するという噂に対するものとして、ネロの次に皇帝となったガルバの時代のローマの諸軍団の反乱の兆し、不安定さ、後継者争いの陰謀や策略の渦巻く時代の中書かれたものである。ネロがキリスト教が広まっていたアルメニア征服のためにローマに集めた諸軍団がそのまま居残っていて不穏な空気をかもし出していたことをタキトゥスは書き記している。ネロの復活の噂に不安に陥っていた信徒たちに向けて、信仰を固めるために、勝利のヴィジョンを描いて見せることが、黙示録作者の狙いだったのかもしれない。

 なお、その後、ガルバが派遣した将軍が、ユダヤの地を攻撃し、やがてエルサレムも陥落し、ユダヤの神殿は破壊される。キリスト教は、迫害を受けつつも広がりつづけ、ついにローマ公認の宗教とされる。

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『沖縄ノート』をめぐって

 『沖縄ノート』をめぐる裁判が続いている。

 それに対して、保守思想家の山崎行太郎氏が、原告側に立つ保守派の主張を批判していることは何度も当ブログで紹介した。山崎氏の批判点の一つに、かれらが曽野綾子氏の『ある神話の風景』も大江健三郎氏の『沖縄ノート』もよく読まないで、一方的に大江批判を展開しているということがあった。

 『沖縄ノート』を実際に読んでみると、当該個所は、けっこう慎重な書き方になっている。

 「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)とともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた」(岩波新書208ページ)。

 少なくとも大江氏は、この人物が集団自決を強制したとは断定していない。そして、大江氏はこの旧守備隊長が発した「おりがきたら」という言葉が、日本人の倫理的想像力のあり方を象徴していると見て、そのような象徴的人物としての旧守備隊長について書いているのである。

 「僕は自分が、直接かれにインタヴィユーする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようと思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう」(同)。

 このように、大江氏は、想像力によって、この急守備隊長の言葉や行動から、日本人の意識構造を探ろうとしたのである。こういうことは、小説家なら普通にやっていることで、大江氏だけが特別なわけではない。だいいち、この裁判を支援する「新しい歴史教科書をつくる会」会長の藤岡信勝氏にしても、日本史は、日本人のプライドをつくるためにあるので、事実ではなく、神話や物語として書かれるべきだと主張しており、想像力の次元での戦いを大江氏に挑んだのである。

 だからだろうか、彼は、平気で、自分で立てた基準を自ら覆す。沖縄で歴史教科書からの沖縄戦での日本軍の住民集団自決への関与の記述を削除・訂正させた文部科学省の検定に抗議する県民集会が起き、年配の沖縄の人々が、改めで、集団自決への日本軍関与を証言し、また、再調査が始まったのに対して、年を取って記憶が曖昧になっているのでそれらの証言はあてにならないと批判しながら、なんと自らは、宮里秀幸氏という当時少年だった老人の証言をわざわざ現地入りして対面して、それみたことか、旧守備隊長は、その日、自決のための手榴弾を軍にもらいにいった住民たちに、武器は渡せない、自決するなと言ったということを確かめたと得意になって書いている。しかし、老人の記憶はあてにならないと言ったのは、藤岡氏自身だっだはずだ。この新証言だけが、強制はあったとする他の証言に比べて信用できるとする根拠はなんだろうか? それは藤岡氏の判断である。

 山崎行太郎氏は、この対面には不自然なところがあるとして、事前に示し合わせた上での演出された対面であったとブログ「毒蛇山荘日記」に書いている。

 おそらく、かれらが『沖縄ノート』を攻撃するのは、それが戦争責任や戦後責任や沖縄差別に正面から向き合わない日本人の象徴として旧守備隊長を取り上げたからである。そこに、戦争責任や戦後責任や沖縄差別から逃れようとする歴史修正主義者たちの姿勢が現われているのである。「日本国憲法」前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と、政府の戦争責任が明記されており、この点を具体化するという憲法の実現という課題が残されている。サンフランシスコ講和条約は、アメリカが冷戦本格化の中で、日本を反共の砦とすべく、単独講和を急いだことから、戦争責任を曖昧にし、アジア諸国の賠償請求を退けるという後に問題を残す形で締結された。これを機会に、国際部隊によって自衛するという吉田プランも拒否された。

 歴史修正主義者たちの沖縄戦の住民集団自決の責任者は、結局、独断で集団自決を命令したという村の助役ということになる。小林よしのりは、もっと美談化して、沖縄の人々が日本人化しようとしての悲劇だったということにしている。それを山本七平の概念を借りて、空気によるものと言う者もいる。池田信夫氏など(氏のブログを見よ)。さらに、沖縄での集団自決は、サイパン島玉砕で米軍に追い詰められて崖から身を投げたことと同じだと主張する者もある。

 しかし、沖縄において、独立論がずっと存在しつづけてきたし、独自の文化を持ちつづけてきたことの意味は、ヤマトへの同化の拒否であったろうし、ヤマト―沖縄の差別構造がある限り歴史認識の不一致もなくならないだろう。それに対して、歴史修正主義者たちがいくら彼らの差別的な歴史認識を押し付けようとしても反発されるだけだ。現に集団自決問題ではものすごい反発を受けているではないか。そうならざるをえないのは、歴史修正主義者が沖縄を差別しながら、それについてまったく自覚がないまま、受け入れない沖縄が悪いという傲慢な態度で歴史認識の押し付けをしているからである。かつて、中曽根元首相が、彼の歴史認識である日本単一民族説をぶち上げて以降、もともと融和的な面があったウタリ協会でさえ、アイヌの民族としてのあるいは先住民としての独自性を強く打ち出すようになった。アイヌは、融和するどころか、民族として発展しつつあるのだ。琉球は、琉球人の大地であって、琉球処分以前の日本としての歴史がない。そしてそのことは、『沖縄ノート』に引用されている敗戦後の折口信夫の言葉に示されている。

 あゝ蛇皮線の糸の途絶え―。そのやうに思ひがけなく、ぷつつりと―とぎれたやまと・ 沖縄の民族の糸―。

 今また、歴史修正主義者たちが、この糸をさらにとぎれさせようとしている。歴史修正主義者が、その大日本主義を捨てない限り、この糸をつなぐ端緒をつかめない。それは、沖縄においては、政治的立場に関係ない。左だろうと右だろうと関係ないのである。

 『沖縄ノート』で裁判で争われている部分は、倫理的想像力という概念を通じて、日本の戦争責任・戦後責任の取り方を、旧守備隊長の渡嘉敷島での慰霊祭参加行動を通じて追求していったもので、そこにある「罪の巨塊」という言葉は、その前の「慶良間の集団自決」という部分を受けたものである。その責任から、どのような事情があろうと旧守備隊長が免れないことは明らかである。この間、旧守備隊長が、集団自決を命令したのは、住民から恩給を受けるための理由がいるからと頼まれて嘘をついたと弁明し、逆に、集団自決を思いとどまらせようとしたし、武器の引渡しを拒否したと言ったことが事実として歴史修正主義者たちによって強調されている。たとえこれらが事実だったとしても、村民を止められなかったことに責任を感じなければおかしい。

 今月号の『世界』にある論文で、厚生省への恩給の請求以前にすでに旧守備隊長の自決命令があったことが住民の間で語られていたことが指摘されている。武器引渡しを拒否した理由は、武器を惜しんだのであって、自己保身の動機からであろう。藤岡が担ぎ出した新証言者については、その証言の真否はこれから明らかになるであろうが、60年ほども昔の記憶にしては、あまりにも多くを記憶している点に疑義を持たざるを得ない。むしろ、大昔の記憶であるから、多少の間違いや忘却した部分がある方が信用できるのではないだろうか。その点は歴史修正主義者が、あいまいで矛盾があるとして、信頼性が低いと批判した慰安婦たちの証言の信憑性は高いと言えるだろう。

 それにしても、元守備隊長の言葉や行動はなんとも見苦しい限りである。武士は言い訳するぐらいなら、切腹して名誉を守るという話をどこかで聞いたことがある。梅澤氏ば別に武士ではないから、切腹すべきだったという気はもちろんないが、それにしても、もう少しちゃんとできなかったものかと思わざるを得ない。今さら、裁判沙汰とは恥の上塗りだ。そう感じるのが、武士的な倫理感というものではないだろうか。武士は寡黙であり、いつでも死の覚悟ができていて、言い訳や泣き言を言うぐらいなら名誉の切腹を遂げる。そんな武士像をどこかで読んだ覚えがある。まあ武士道はまあ戯言だけれども、問題は、沖縄とヤマトとの差別的関係によって、歴史認識は一致することなどないし、それを想像力によって架橋しようとした大江健三郎氏に対して、歴史修正主義者が、曽野綾子なる「夷狄」の神を信奉する者の言と論理を無批判に受け入れていることのこっけいさを自覚していないことにもある。曽野氏は、カトリックの総本山バチカンの指令によって動いている世界支配のためのエージェントではないかとは疑いもしないらしい。これは冗談であるが。

 それはさておき、問題はやはり現在のヤマト―沖縄関係の差別性であり、それが歴史認識問題に反映しているということだ。差別関係は端的に経済格差や米軍基地の集中という姿で見えている。それに対して、保守派には、解決策がなく、ただ安保の負担に耐えよというのみである。それと引き換えに金をやるという話だ。保守派が中国脅威論や台湾海峡有事を強調すればするほど、沖縄はその最前線基地として重要性を増すのであり、結局、かつて日米戦争の最前線として、「本土」防衛の捨石にされたように、ふたたび戦争の最前線基地化を強化させられようとしているのである。それを沖縄自身の自発的意思として積極的に受け入れるようにさせることが、この間の歴史修正主義者の狙いである。いざ戦争となったら、これまでの発言から、藤岡信勝の孫は、軍人として戦闘に従事するはずである。

 かつて大日本帝国は、日中戦争が泥沼化していく中で、国民精神動員という精神主義的な国民教化つまりは洗脳から始めた。それに一役買ったのは、新聞などのマスコミであり、映画ニュースなどであった。それが完全に成功を収めるまでには当然時間がかかったのであるが、戦争以外に生活向上の望みがないという状態に人々の多数が追い込まれることが必要だったのである。田原総一郎氏は、まるで当時の新聞が民衆の戦争気分を反映して増幅したことが戦争を泥沼化した主原因で、日帝首脳部もそれに煽られたというような言い方をするが、そうなるには、大衆の生活苦や生活不安が背景としてあったことを忘れてはならないのである。

 田原氏は、現在でも、テレビやマスコミの影響力を過信しており、自分の番組での発言によって、内閣をいくつも潰したというような誇大妄想を平気で語っているが、それは時と場合によるし、大衆の状態による。田原氏は懸命に小泉―竹中の構造改革支持を強調するが、田原氏の願望を裏切って、大衆は竹中路線を拒否した。そうすると今度は大衆が馬鹿だというのであるが、田原氏の自己意識など大したものではないし、もちろん、田原氏が内閣を潰したなどというのは、妄想にすぎない。こうした神話化された自己意識の肥大あるいは自己神格化こそ、歴史修正主義者に共通する現代病であって、かれらの大国意識の基になっているものである。その害悪ははっきりしている。これでは誰とも仲良くなどできない。コミュニケーションなど不可能であり、ましてや良好な社会関係や人間関係を築くことなどできない。結局、かれらは自己意識同士をぶつけあって、泥沼の闘争にあけくれ、自滅していく。すでに始まっているように。

 スーザン・ソンダクの言う倫理的責任ということをめぐって、戦争責任の倫理的主体は誰かや責任の取り方とはどういうものかとか、様々な論点が形成されていった。大江氏は、アーレントが、ナチスの戦犯のアイヒマンの裁判での発言を引用して、彼がドイツの若者の間にあるナチスの行為に対する倫理的責任について、若者が直接関わっていない行為について責任を感じる必要はないと訴える責任を感じたということについて、偽の責任感であると批判している。

 結局、日本の場合、「日本国憲法」が「大日本帝国憲法」改正で成立したということや国体は変わっていないとして天皇制が継続されたということからすれば、国家の連続性があるということになって、つまりは戦前国家の責任は戦後国家においても引き継がれたということになる。戦争責任は戦後国家の責任として継承されているということだ。だとすれば、明治国家による第一次琉球処分の総括の責任も引き継がれているということになる。

 

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歴史修正主義の虚妄なること

 今月号の『諸君』は、沖縄戦での住民集団自決に日本軍の強制がなかったとするこのところの歴史修正主義者の文章を3本載せていた。

 その主張するところは、これまでと変わらない。ただその中で、保守派の山崎行太郎氏が、『月間日本』に書き、またこの間、氏のホームページ『毒蛇山荘日記』で繰り返し主張している曽野綾子氏の『ある神話の風景』が、大江健三郎氏の『沖縄ノート』の「罪の巨魂」を「罪の巨魁」を誤読し、それに基づいて、保守派が大江批判しているということについて、反論を試みている。

 この人は、山崎氏が指摘しているところを読み直してみたが、誤読は見当たらなかったと書いている。ただ、どこをどう読んだかの検証を書いておらず、氏の自己申告を確かめようがない。第何版の何ページ何行目にどう書いてあったのかを明記しなければ、われわれには彼の主張を検証できない。それに対して、山崎行太郎氏は、どういう本のどこそこにこう書いてあると明記していて、それを誰でも確かめられる。大きい図書館なら、『ある神話の風景』も読めるはずである。

 その他、自由主義研究会の藤岡信勝の文章もあったが、相変わらず、自分にとって都合のいい証言のみを真実として一方的に肯定し、そうでないものは事実と認めないという学者とはとうてい思えない自分勝手な論を主張していた。また、沖縄の左翼偏向二紙(『沖縄タイムス』『琉球新報』)の地域独占を問題にした文章もあった。それなら、例えば、福島県も二紙独占である(『福島民報』『福島民友』)。こういう二紙独占は、左翼偏向でなければ問題ではないらしい。この人が気に入らないのは、沖縄が左翼に牛耳られているということである。彼らの好む保守的歴史観を沖縄が頑として受け入れないことである。しかし、今や日本国内で、彼らの歴史観を受け入れるところなど、極少数である。

 もう一つのなんとかという雑誌は、佐伯啓志氏の近代化がニヒリズムに行き着いたとする主張をめぐって、西部邁、富岡幸一郎、などが行った座談会が載っていた。京都学派の「近代の超克」論なども取り上げられていた。しかし、西部は、東洋対西洋という対立ではなく、世界史の視点が必要などと述べ、結局、ヘーゲルと変わらないような感じのことを言っていた。ニーチェは、ニヒリズムから権力の意思が発生することを見抜き、よって、今日のグローバル化の世界の基本を予言したといったことも述べている。ヘーゲルを認めれば、フランス革命を認めることになり、ニーチェを認めれば、権力闘争を認めることになる。そうなれば、西部の保守主義は、事実上お終いだ。無節操この上なし。

 久しぶりに、呉善花氏と黄文雄氏などの対談が載っていた。内容に見るべきものはほとんどない。哀れなるかな。結局、この二人によっては、朝鮮のことも台湾のこともよくわからなかったということだ。わかったことは、日本人の中に朝鮮や台湾に対して、どういう偏見や差別観が根強く存在しつづけているかということである。台湾や韓国は、日本に奉仕し、従属すべきで、日本一流に対して二流国として満足せよということもその一つである。アメリカやヨーロッパ諸国が、日本を見ている目と同じである。横氏の儒教に対する偏見は、マックス・ウェーバーの偏見を内面化したものという気がする。しかしそれは、儒教圏で近代化が起きだことで事実を持って反証されている。キリスト教プロテスタンティズムのみが資本主義に適合的だとする彼の偏見は、根拠がなかった。

 アメリカではキリスト教がメガチャーチを軸に復興しているが、ヨーロッパ諸国では、復活したロシアや東欧諸国を除いて、人々の教会ばなれが進んでいる。ロシア・東欧・アメリカに共通しているのは、上層と下層の間に大きな格差が存在し、下層は明日をも知れぬ惨めな生活状態にあることである。そして、キリスト教は、そうした現実の惨めさを空想上の慰めを与えて、現実を受け入れさせ、今の支配階級の支配に縛りつけるものである。ニーチェはだからキリスト教倫理を奴隷化の道徳として批判したのである。それはもちろん、キリスト教ばかりではなく、儒教もそうだった。

 李氏朝鮮の儒教はそういうものだったが、ただし、それは両斑などの支配階級においてであって、民衆は別である。民衆の間では、民間信仰が盛んであった。それは日本の徳川体制下でも同じである。朝鮮では、儒教が民衆の間に広まるのは、李朝末期以降であり、そこで、民間信仰と儒教が混同した天道教が広まった。日本で儒教が民衆の間に広まるのは、徳川中期以降の寺子屋の普及以降である。この場合は、もともと仏教と儒教を合わせて学んでいた僧侶が広めたものである。

 宗教の性格は、時代によって、時とところによって違う。李朝末期の朝鮮で、農民運動と結びついていたのは儒教と結びついた天道教や民間信仰であった。儒者の中からも、抗日運動を起こす者もいた。その後、キリスト教徒から独立運動を起こす者が出た。次ぎに、アメリカ派とも言うべき李承晩などが出て、さらに、コミンテルン系統の社会主義者が出た。李朝はキリスト教を厳しく禁圧した。日本でも、明治時代に、列強の圧力に押されて、キリスト教を解禁したものの、神道を助けるなどして、妨害していた。また仏教側のキリスト教に対する警戒心も強く、キリスト教はあまり広がらなかった。明治期の自由民権運動は、西欧の社会契約思想やイギリスの急進派思想などの影響を強く受けていた。明治後期には、ようやく、社会主義思想が流入するが、その初期は、キリスト教社会主義であって、労働運動や都市民衆運動もキリスト教的救済思想に基づくものであった。その後、第二インター系、ロシア革命などの影響も受けつつ、本格的な労働運動が台頭してくる。

 自由民権運動の指導者の板垣退助は、征韓論者であり、自由民権運動そのものも、愛国主義的なものとなる。労働運動も、関東大震災を契機に全日本労働組合総連合友愛会は、キリスト教徒の改良主義者鈴木文治をはじめとする右派が台頭し、1924年頃には、日朝労働者の融和運動を展開することを朝鮮総督府に約束するまでになっていた。関東大震災は、ちょうど、第一次世界大戦による特需から始まった好景気が終わり、深刻な不況に陥っていた頃に起きた。不況下の不安な状態を反映して、根拠のない流言飛語が飛び交い、それが人々に伝染していく。そして、朝鮮人などの外国人が暴動を起こすなどの噂がもっともらしく広まり、朝鮮人虐殺・中国人虐殺事件が起きた。さらに、こうした混乱状態の中で、警察や軍によるアナーキストや労働組合指導者の虐殺事件も起きた。もちろん、こうした流言飛語がもっともらしく聞こえたのは、1910年の日韓併合以来、日帝統治への朝鮮人の反抗や独立運動が起きていて、特に3・1独立運動以来、朝鮮人が反日的であるという印象を持っていたためだろう。第一次世界大戦以来の好景気のなかで労働力不足が深刻化したので、朝鮮半島から、多くの労働者が日本に来て、働いていた。その数は、200万人に達したと言われている。そうなったのは、朝鮮半島での日帝統治下の農業政策が農村の人々の生活を向上させられず、逆に、多くを占める小作農の生活が困難になったためである。そうでなければ、どうして、わざわざ海を渡って働きに来るだろうか? これを自由意志による自発的な出稼ぎ労働者であるというのが、自由主義研究会などの主張である。

 生活苦によって選択肢がほぼない状態での選択は、自由意志による自発的行為と言えるのだろうか? 常識的には、そうは言えない。水戸黄門でも観てみるがいい。貧しさ故にやむをえず、身を売らざるを得なくなったり、望まない奉公に出ざるを得なくなる娘を助ける話はよく出てくる。貧者にとって、自由意思による自由な選択など贅沢な行為である。そうして日本に渡ってきた朝鮮人労働者が日本の労働者以下の労働条件下で働かされた。紡績工場の朝鮮人女工は、監禁状態に置かれ、現場の管理人によく殴る蹴るの暴力を受けたという。その経験談の聞き取り調査の記録があり、日本の敗戦後に朝鮮半島に帰らず残った60万人とも言われる在日朝鮮人の中には、こうした渡日労働者とその子孫がいる。

 朝鮮人と日本人は同じ皇国臣民だったはずだが、現実には差別があったのである。

 先の西部らの座談会では、農本主義右翼の大川周明などのことが出てくる。大東亜戦争がアジアを欧米列強から解放する戦いであるとする右翼思想がどれだけのものだったかといえば、後の右翼が喧伝するほどたいしたものではなかった。右翼の内田良平らが、大韓帝国の親日派の日韓合邦論を育成しようとしてでっちあげた「一進会」は、幽霊団体に終わり、しかもそれすら朝鮮総督府によって活動停止にされた。インドの独立運動を支援するためとして手を組んだボースは、日帝が敗北しつつあるのを見て、中国に支援先を変えた。大東亜戦争は、敗れ去った。そして、その観念だけが残り、大川周明はただその観念を教えるのみの教師となった。日本右翼の一派である農本主義は、朝鮮での農業政策に関わったが、大失敗に終った。言うまでもなく彼ら農本主義者は、東北を始めとする農村の窮状を救うこともできなかった。こうして、惨めな敗北と失敗した右翼が作り上げた観念を、その歴史的条件もすっかり違う現代日本において、頭でっかちの学者や知識人が再び取り上げたというわけである。そしてその結果は、見事な混乱であり、自滅の道である。

 小林よしのりについては、彼が感情移入の対象を特攻隊に選んだ時に自滅の運命が決まったといっていい。特攻隊は、敗北の美学であり、滅びの美学であり、最後のあがきであるからである。小林もまた敗北と滅亡と最期をその時に選択したと言ってよい。西部は、保守派の中にある処世術であって、それによって変節してでも生き延びようとするだろう。藤岡信勝は、つまらない近代主義者として、過去の遺物となるだろう。横氏や呉善花氏らは、日本のナショナリストの便利な下僕として利用されていくだろう。その対価として、日本の大学の椅子などが与えられることになろう。

 1924年の日本の労働組合運動の右旋回について、教訓化しておく必要があるように思われる。戦闘的で知られた葛飾労組幹部が虐殺されたことが関係しているのかもしれない。左派系の労組指導者が弾圧されたことによって、右派指導部が力を得たということだろうか? 関東大震災の混乱に乗じて朝鮮人が蜂起するという噂が流布されたことを右派指導部が本気にしたのか、それを利用して路線変更を企てたのか? いづれにしても、朝鮮人労働者・人民との連帯ではなく、融和に傾き、しかもそれを朝鮮総督府や日本政府の政策への協力として路線化したことは、その後の日朝労働者の関係にとってマイナスになったことは明らかだと思う。

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秦邦彦氏は年貢の納め時か?

 「Stiffmuscleの日記」 http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070817/p1
というブログが、ブロガーに協力を求めている。拙ブログは、この趣旨に賛同して、以下に当記事を貼っておく。

 従軍慰安婦問題で、軍による強制はなかったとする自由主義史観研究会の村山・河野談話を否定する言説が、保守派によって、流されており、それを根拠に、右派系国会議員や知識人らによるアメリカ下院での従軍慰安婦問題への謝罪決議への抗議文が、議会に送られ、またアメリカの新聞に広告されている。

 秦郁彦教授は、軍の慰安婦の強制連行はなかったことを実証したと主張し、それも上の動きに根拠を与えている。

 しかし、秦教授は、自らは、価値判断に捕らわれない客観的なデータを基礎とする実証主義という立場を標榜しながら、その実、自らの価値観を研究に持ち込み、データを恣意的に扱い、データをねつ造、都合の悪いことを隠蔽する、誤魔化す、等々のことを行いながら、従軍慰安婦問題に取り組む人々を厳しく批判してきた。

 さすがに、彼も、沖縄戦問題では、馬脚をあらわしているし、見え見えのでたらめを並べていることが簡単に暴露された。それについては、拙ブログでも取り上げた。

 しかし、秦氏の名前を一躍有名にした従軍慰安婦問題の領域で、資料ねつ造の疑惑が出てきたことは、いよいよ氏も年貢を納める時が来たということかもしれない。

 関連して、林博志氏の秦氏の批判文章を転載しておく。

 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判

『週刊 金曜日』290号、1999年11月5日   

 林 博史  

 この著者は時々、まともな仕事もするのですが、しばしば人が変わったように、ずさんな仕事、あるいは人を誹謗中傷するような、因縁をつけるようなこともやります。この本は、ずさんな仕事の代表的なケースでしょう。この小文でも紹介したような、写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などの例をリストアップしてみたのですが、膨大な量になりあきれてしまいました。どこかで公表しようかとも考えたこともありましたが、バカらしくなってやめました。それにしても人に対してはさんざん因縁をつけながら、自分の間違いを指摘されても無視して開き直るのには、驚くばかりです。なお前田朗さんがこの本の「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」などの問題点を詳細に批判されていますので御参照ください(『季刊戦争責任研究』第27号、2000年3月、『マスコミ市民』370号、1999年10月、に掲載された前田論文参照)。 2002.12.17

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 南京大虐殺の中で日本軍兵士によって地元女性に対してすさまじい強姦等の性暴力がおこなわれ、そのことが日本軍による組織的な性暴力である軍慰安婦制度を本格的に導入する理由となったことはよく知られている。南京大虐殺と慰安婦問題の認識は切り離せない。

 さて中学校の教科書から慰安婦の記述を削除させようとする運動の仕掛人は秦郁彦氏であった。藤岡信勝氏は一九九五年六月の南京事件についてのパネルディスカッションで秦氏から「次の企画として「従軍慰安婦」問題をとりあげることをサジェストされ」「その後も秦氏からは折にふれて慰安婦問題の情報をいただいていた」(『教育科学』一九九六年一一月号)と、秦氏の役割を正直に述べている。「朝まで生テレビ」(九七年二月)で秦氏が藤岡氏や小林よしのり氏らの側で登場し、「慰安婦」を「売春婦」とののしったのは記憶に新しい。その秦氏が『慰安婦と戦場の性』(新潮社)という本を出した。「事実と虚心に向き合う」(同書あとがき)と自分では言っているが、果たしてそうだろうか。この本は、内容以前に物事を研究するうえでの基本的なモラルに関わる問題、すなわち写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などが目につく。

 前田朗氏の『週刊金曜日』の論文から「国連の人権機構」図(三二二頁)が無断盗用され、しかも秦氏が改ざんした箇所が間違って直していることは前田氏がすでに批判している(『マスコミ市民』一〇月号)。また当時の慰安所などの写真や現在の人物の写真など出典がなく、本人の了解もなく、無断盗用であり、かつ肖像権の侵害だろう。

 資料の扱いもずさんさである。たとえば、一九三八年に内務省が陸軍からの依頼をうけて慰安婦の徴集の便宜を図った資料がある。この本では内務省警保局の課長が局長に出した伺い書が、内務省から各地方庁への「指示」に化けている。さらに五府県に慰安婦の数を割当てているが、その人数がでたらめで、資料では合計が四〇〇人になるのに、氏の数字では六五〇人とされてしまっている。引用も言葉を勝手に変えたり、付け加えたり、およそ研究者の仕事とは思えない(五六頁)。

 私がイギリスで見つけて本誌でも紹介したビルマ・マンダレーの慰安所資料がある。これらの資料は時期も違う四点の別のものなのだが、氏は混同して一つの資料であるかのように扱っている。それは置くとしても、氏はその中の規定の一部を取り上げ(これも適当に書換えているが)、「兵士の乱暴や業者の搾取から慰安婦を保護しようとする配慮が感じられる」(一二〇頁)と解釈している。しかし原文は「慰安所に於て営業者又は慰安婦より不当の取扱を受くるか或は金銭等の強要を受けたる場合は直ちに其の旨を所属隊長を経て駐屯地司令部に報告するものとし如何なる場合と雖も殴打暴行等の所為あるへからす」となっている(原文はカタカナ)。これを素直に読めば、業者や慰安婦が兵士に対して不当な取扱や金銭等の強要をおこなった時の対応の仕方について記した条文であることは明かである。慰安婦が軍によって保護されていたと言いたいために、原文を正確に引用することを避け、そう結論付けたのだろうか。

 引用の恣意性もひどい。西野瑠美子氏が下関の元警察官に聞き取りをし、済州島での慰安婦の狩り出しについて「『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した」(二四二頁)と元警察官がはっきりと否定したかのように書いている。この聞き取りには私も同席していたが、西野氏の本ではその引用された言葉の後に「しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」と続いている。証言者は、自分は知らないが管轄が違うから断定できないと謙虚に話しているのだ。ところが秦氏は後半をカットすることによってまったく違った結論に導こうとする。

 同様の手法はほかにもある。「慰安婦はどのように集められたか」という欄で、シンガポールにおいて、軍が慰安婦を募集すると「次々と応募し」「トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた」という元少尉(小隊長)の回想録を引用している(三八三頁)。ところが原文ではこの文のすぐ後に「ところが慰安所に着いてみると、彼女らが想像もしていなかった大変な激務が待ちうけていた」と続き、さらに部下の衛生兵の話として、「悲鳴をあげて」拒否しようとした慰安婦の「手足を寝台に縛りつけ」、続けさせたと話が続く。秦氏はなぜかこれらの部分はカットしてしまう。

 慰安婦の人数について「狭義の慰安婦は多めに見ても二万人前後であろう」(四〇六頁)としている。その一つの論拠として陸軍省の医事課長だった金原節三日誌を使っている。この日誌の一九四二年九月二日の項に計四〇〇ケ所の「慰安施設」を作ったという記述が出てくる(一〇五頁、四〇〇頁)。氏はこの四〇〇という数字が「所在地なのか軒数なのかが、必ずしもはっきりしない」と言いつつ、「一軒あたりの平均慰安婦数は、実例から見ると一〇―二〇人だから、四〇〇か所に掛けると」と言って計算をしている。慰安所が全部で四〇〇軒とみなすには少なすぎるが、それは別としても、“軒”か“所”が「はっきりしない」と言いながらすぐ後に“軒”と見なして計算してしまう。そうすればはるかに少ない数字が出てくるからだろう。

 記者会見などやっていないのにそこでしゃべったと書かれた上杉聰氏の例(二四二頁)や、吉見義明氏はそんなことは言っていないと否定しているが、朝日新聞で慰安婦史料の発見記事が出ることを事前に「旧知の吉見氏から………聞いていた」(一二頁)と書いていたり、秦氏が頭の中で作り上げた「事実」が一人歩きしているようだ。

 ここで紹介した以外にも単なるミスではすまされないような問題が数多くあるが、誌面の関係でくわしく触れられないのが残念である(別の機会にくわしく紹介する予定である)。

 秦氏の主張は結局のところ「強制連行はなかった」(三七七頁~)「兵隊も女も、どちらもかわいそうだった(伊藤桂一の言葉)」(三九五頁)、慰安婦の四割は日本人であり(四一〇頁)、「慰安婦の九割以上が生還したと推定」(四〇六頁)というものである。

 元慰安婦の証言は「身の上話」と呼ばれ、「女郎の身の上話」とダブらせたイメージ付けがなされている。「当の私自身も若い頃に似たような苦い思いをかみしめたことがある」(一七七頁)と正直に書いているので、「女郎の身の上話」に騙された原体験が、彼女たちの証言を頭から信用しようとしない、氏の慰安婦議論を規定しているのかもしれない。

 ところで一九九〇年から翌年にかけて中国新聞で「BC級戦犯裁判」という長期連載がなされたことがある。そこではマレー半島における華僑虐殺を正当化するための資料の改ざんなど膨大な「内容の改変」「事実誤認」があり、高嶋伸欣氏と私が抗議をした結果、中国新聞社は誤りを認めてこの連載を全面的に取消し、かつ総点検して約千五百箇所にわたる訂正をおこなうという誠実な対応をおこなった。このとき、膨大な「改ざん」のある連載を弁護する役割を買ってでたのが、秦氏だった(『正論』一九九二年八月など)。

 さらに付け加えると、秦氏はその『正論』誌上で、私が第三者に出した私信を無断で公表した。私は同誌上(同年九月号)で直ちに「研究者以前の市民のモラルに反する」と抗議をしたが、氏はいまだに知らん振りを決め込んでいる。そうした秦氏だからこそ、こういう本が書けるのだろう

2007-08-17■文書公開のお願い

 秦郁彦氏、尾形美明氏、加瀬英明氏に対し、" Composite Report on three Korean Navy Civilians List No. 78, dated 28 March 1945, "Special Questions on Koreans" (U.S. National Archives)というタイトルのついた文書の公開を切望する。

 お願いにいたるまでの経緯

 秦郁彦氏の『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)において、秦先生は、官憲が「強制連行」するはずがないとする主張の根拠を、米国国立公文書館(National Archives and Records Administration、以下NARA)にあるという文書に求めている。そのくだりを引用してみる。

 いずれにせよ、平時と同じ身売り方式で女性集めが可能なら、植民地統治が崩壊しかねないリスクをはらむ「強制連行」に官憲が乗り出すはずはないと考えられる。

 それを裏書するのは、四十四年夏、テニアン島で米軍の捕虜になったリー・パクドら三人の朝鮮人による陳述である。「面長は自由選挙でえらばれた指導力のある実力派の老人」とか「労務動員を拒否すると投獄される」と語ったあと、朝鮮人慰安婦について次のように述べている。(10)

 太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦 (prostitutes) は、すべて志願者 (volunteer)か、両親に売られた者ばかりである。もし女性たちを強制動員 (direct conscription)すれば、老若問わず朝鮮人は憤怒して立ちあがり、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう。

 尋問官が「今まで尋問した百人ばかりの朝鮮人捕虜と同じく、反日感情が強い」と評している朝鮮人軍属の証言だけに、何よりも説得力を持つのではあるまいか。

(10) Composite Report on three Korean Navy Civilians List No. 78, dated 28 March 1945, "Special Questions on Koreans" (U.S. National Archives).

(秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』、1999年 新潮選書、380ページおよび381ページ) 

 秦先生の他にも、この文書を引用し、強制連行がなかったことの傍証とする論がある。

The Truth about the Question of “Comfort Women”

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/24_S5.txt

Ogata Yoshiaki

Additionally, in 1945, in depositions of three Korean civilians in the employment of the Japanese Army, they stated “In the battle zones of the Pacific War, the Korean comfort women we met were all either volunteers, or women who had been sold by their parents. If any of the women had been victims of coercion, all Koreans, young and old, would have risen up in rage, regardless of whatever retaliation, and killed the Japanese.”

This is taken from “Composite Report Three Korean Civilians List No. 78,” dated 28 March, 1945, “Special Questions on Koreans” (U.S. National Archives).

慰安婦決議案提出者マイク・ホンダ議員への公開質問状

http://www.tamanegiya.com/maikuhonnda19.4.1.2.html

平成19年2月16日

史実を世界に発信する会

代表 加瀬 英明 

URL http://www.sdh-fact.com

「太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦はすべて志願か、両親に売られたものばかりである。もし女性達を強制動員すれば老人も若者も激怒して決起し、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう」(朝鮮人軍属の証言)などの情報は、正しくないということを貴殿は証明する義務があるということである。さもないとアメリカの公式記録を貴殿は最初から価値なき虚偽文書とみなしていることになるからである。

The second can be found in depositions taken from three Korean civilian employees of the Japanese army, who stated the following: In the battle zones of the Pacific War, the Korean comfort women we met were all either volunteers, or women who had been sold by their parents. If the women had been victims of coercion, all the Koreans both young and old would have risen up in rage, and regardless of whatever retaliation, killed the Japanese (from Composite Report on Three Korean Civilians, List No. 78, dated 28 March 1945, “Special Question on Koreans” in the U.S. National Archives).

 この3つの引用文を見比べてみて、腑に落ちない点があるので、それをまとめてみた。

著者(敬称略) 出版年月日 引用文献の英語タイトル
秦郁彦 1999/06/30  Composite Report on three Korean Navy Civilians List No. 78, dated 28 March 1945, "Special Questions on Koreans" (U.S. National Archives).
尾形美明   Composite Report Three Korean Civilians List No. 78,” dated 28 March, 1945, “Special Questions on Koreans (U.S. National Archives).
加瀬英明 2007/02/16 Composite Report on Three Korean Civilians, List No. 78, dated 28 March 1945, “Special Question on Koreans” in the U.S. National Archives).

three かThreeか?
Navyが原文にあるのかないのか?
Civilians List No. 78 か Civilians, List No. 78か?(カンマがあったほうが自然ではあるが)
3名に対する尋問調書なのに、"composite report(尋問調書集約報告)"というタイトルは不自然。

著者(敬称略) ___ 引用文
秦郁彦 英語 なし("prostitutes", "volunteer", および"direct conscription"の各語が原文中にあることを示唆)
  日本語 太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は、すべて志願者か、両親に売られた者ばかりである。もし女性たちを強制動員 すれば、老若問わず朝鮮人は憤怒して立ちあがり、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう。
     
尾形美明 英語 In the battle zones of the Pacific War, the Korean comfort women we met were all either volunteers, or women who had been sold by their parents. If any of the women had been victims of coercion, all Koreans, young and old, would have risen up in rage, regardless of whatever retaliation, and killed the Japanese.
  日本語 なし
     
加瀬英明 英語 In the battle zones of the Pacific War, the Korean comfort women we met were all either volunteers, or women who had been sold by their parents. If the women had been victims of coercion, all the Koreans both young and old would have risen up in rage, and regardless of whatever retaliation, killed the Japanese
  日本語 太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦はすべて志願か、両親に売られたものばかりである。もし女性達を強制動員すれば老人も若者も激怒して決起し、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう

 秦の引用文中で示唆されている"prostitutes"および"direct conscription"が、尾形引用文、加瀬引用文のいずれにも見当たらない。
秦引用文と加瀬引用文(日本語)は英語原文からの翻訳がほぼ同じであるの対し、尾形引用文と加瀬引用文(英語)は英語原文に細かな差異が複数ある(原文を引用するだけの作業で、これだけの差異が単なるミスとは考えにくい。)
英語原文が不自然である。
the Korean comofort women we met - 1945年に"comfort women"という表現があったのか? 原文の"comfort women we met"は"comfort women we had met"であろう。
either volunteers, or women - カンマは不必要
victims of coercion - 「強制であることの被害者」というのは意味がわからないし、 「強制動員」という訳にはならない。"victims of abduction" とか "victims of kiddnapping"なら理解できる。
regardless of whatever retaliation - 節として不完全 they recieved などがつくはずである。

 以上のような疑問から、このようなタイトルがついた、上記の内容のような文書があるかどうかを、2007年7月17日に、メールでNARAに問い合わせてみた。(問い合わせの英文はこちら)

 2007年の8月14日(日本時間8月15日)にNARAより返事が来たが、その内容は以下の通りであった。

Date: Tue, 14 Aug 2007 14:26:20 -0400

From: "WXXXXX MXXXXXX" <wXXXXX.mXXXXXX@nara.gov>

To: <XXXXXXXX@aol.com>

Subject: Composite Report

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August 14, 2007

(整理番号)

Dear Stiffmuscle(原文はわたしの本名),

We were unable to locate the report among the records in our custody.

Sincerely,

WXXXXX MXXXXXX

Modern Military Records

Textual Archives Services Division

 NARAが保管している記録文書の中にその報告書は見当たらなかった。

 ちなみに、「太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は」を検索語にしてGoogleで検索した結果、裁判の根拠資料、新聞記者のブログ内で言及、県議会議員の発言の根拠資料、としてすでに用いられていることがわかる。

Personalized Results 1 - 10 of about 137 for 太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は. (0.05 seconds)

http://www.google.com/search?q=%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%A7%E4%BC%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%AF&sourceid=navclient-ff&ie=UTF-8&rls=GGGL,GGGL:2006-22,GGGL:ja

-原告  石川の教育を考える県民の会会長  諸橋 茂一

http://www.kardia.biz/~jiyuu-shikan/042609kono.html

-「史実を世界に発信する会」は実に偉い 阿比留瑠比記者のブログ国を憂い、われとわが身を甘やかすの記 2006/10/22

http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/61303/

-県議会の活動 平成19年6月 和歌山県議会定例会会議録 第3号

http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/200100/www/html/gijiroku/0706/1906-03.html

 尾崎太郎県議

 今月号の「正論」で、茂木弘道氏が2件の米軍公式記録を紹介しています。米陸軍インド・ビルマ戦線所属の戦争情報心理班の報告は「慰安婦とは売春婦にすぎない*1」、「月平均1500円の総収入を上げ、マスターに750円を返還する*2」とあり、朝鮮人軍属の証言として、「太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は、すべて志願したか両親に売られた者である。もし女性たちが強制動員されれば、すべての朝鮮人は老人も若者も激怒して決起し、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう」とあります。ちなみに、日本の軍曹の月給は30円で、慰安婦は実にその25倍を稼いでいたことになります。

 もちろん、慰安婦は日本人も多数いましたし、戦後、焼け野原になった我が国で、米兵相手に春をひさぐ女性がいたことは周知の事実であります。日本人として愉快な話ではないですが、だれかの責任を追及するようなたぐいの話でもないでしょう。

 原文が公開されておらず、NARAがその存在を確認していない文書が、このような形で事実として流布している現状は、各人の主張云々以前に、事実に基づいて議論するという万人が納得する議論への姿勢を根底から破壊する危険性を秘めている。

 再度申し上げる。秦郁彦氏、尾形美明氏、加瀬英明氏においては、この文書を早急に公開することを切に希望する。

 この記事を読んでいただいて、ご賛同いただける方は、ご自分のブログで紹介していただくなど、多くの方に知らせていただけると有難い。 ご協力のほど、よろしくお願いします。

関連エントリー(元記事)
-どくしょのじかん 1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070716/p1

-どくしょのじかん 12
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070815/p1

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*1:文の一部を切り出した恣意的翻訳

*2:正確に翻訳していません

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日本の仏教についてのノート(21)

 近代の日本仏教(4)
 満州事変は、ちょうど、金解禁もあって、1929年に始まる世界恐慌が、日本に急速に波及し、とりわけ農業の受けたダメージが深刻化する過程で起きた。マスコミが煽ったこともあって、軍部に対する支持や期待が拡大し、政党への批判が人々の間に広まった。経済恐慌が深刻さを増すのに対して、浜口雄幸内閣は、緊縮財政・外債整理・金解禁準備をはかり、陸海軍予算を大幅削減しようとことが、軍部の反発を買い、1931年3月に軍部の倒閣クーデター計画が発覚した(3月事件)。さらに、同じようなクーデター未遂事件が10月にも発覚した(10月事件)。

 1932年2月9日、民政党の前蔵相井上順之助が、3月5日には、三井の理事長の団琢磨が、暗殺された。その捜査の過程で、財界暗殺を計画していた「血盟団」が摘発され、井上日生(日蓮主義者)ら14名が逮捕された。5月15日には、軍人らが、首相官邸などを襲って、犬養首相を暗殺する5・15事件が起きた。この後、元老の西園寺公望が海軍大将の斉藤実を首班にした官僚・軍部からなる「挙国一致内閣」が成立し、政党内閣制が崩壊する。1935年(昭和10)、美濃部達吉の「天皇機関説」排撃運動が起き、内務省は、出版法の「安寧秩序の妨害」を理由に、彼の著作の発禁と訂正を実施した。文部大臣は、「国体明徴」の訓令を発し、学校長にそれを徹底するよう指示した。1936年(昭和11)2月26日、皇道派将校に率いられた約1400人の兵士が、首相官邸などを襲い、斉藤内大臣・渡辺錠太郎教育総監・高橋是清蔵相を暗殺、一時、永田町などを占拠する2・26事件が起きた。

 1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発する。 1938年4月には国民総動員法が公布された。1940年、大政翼賛会が結成された。1941年12月8日、日米戦争が勃発する。そして、1945年8月15日の敗戦を迎えるのである。

 仏教界は、国家が仏教団体を統制しようとする宗教団体法案に抵抗してきたが、政府文部省は、何度も廃案になりながらも、ついに、国民総動員法が成立した翌年の1939年(昭和14)4月、宗教団体法を成立させた。宗教団体法は、それまでの教派神道の教派と仏教宗派に、新たにキリスト教を対象とする教団という規定を設けた。教団は、カトリックの日本天主公教とプロテスタントの日本基督教団(約30の団体の集まり)の二つだけであった。また、宗教団体の内部規則には文部大臣の認可が必要とされた。文部省は、宗派・教派の統合を指導し、仏教宗派は、それまでの56から28になった。教派は、13のままであった。文部省の宗教務課は、1942年(昭和17)11月、教化局宗務課になった。その狙いは、教化という言葉に明らかであろう。行政上は、新興宗教は、類似宗教と呼ばれ、宗教とは見なされていなかった。

 この過程で、1930年(昭和5)11月18日、牧口常三郎会長,戸田城聖理事長体制の「創価教育学会」が創立された。牧口会長が、日蓮正宗の信徒であったことから、宗教色が強いものとなった。その教義は、「美・利・善」を中心価値とし、その中で善を最高とするものだった。牧口は、柳田国男・新渡戸稲造などに支持された。牧口は、宗教の国家統制が強まる中で、日蓮正宗側から神札を祀るように指示されたのを拒否したといわれている。日蓮は、謗法ゆえに諸天善神は日本を離れていると書いているが、こうして、神道を一切拒否した「創価教育学会」会長の牧口は、1943年7月6日、治安維持法と不敬罪の容疑で逮捕され、さらに戸田以下20数名が逮捕・投獄され、1924年に、牧口は獄死した。

 大本教は「皇道大本」と名乗り、出口王仁三郎が教祖となって、神社神道を偽物とし、「皇道大本」こそ真の神道であると主張し、信者の浅野和三郎などが「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えるようになる。これらの動きを危険視した政府は、1921年(大正10)2月12日、不敬罪と新聞法違反の罪で、出口王仁三郎を逮捕した。第一次大本事件である。事件の審理は難航した上に、大正天皇の崩御によって1927年(昭和2)5月17日、免訴となった。この間に、出口は、『霊界物語』を口述筆記させている。この事件後、浅野和三郎・谷口雅春らの有力幹部が「皇道大本」を去って、それぞれ「心霊科学協会」、「生長の家」をつくった。釈放された出口は、内田良平・頭山満ら右翼と「昭和維新」を目指すようになる。

 1935年(昭和10)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の教団施設を急襲し、それを破壊した。出口教祖は、不敬罪と治安維持法違反容疑で逮捕された。「大本」のホームページには、この大本第二次弾圧で、「信徒3000余人を検挙。激しい拷問で16人が死亡している」と書いている。さらに、同ホームページには、1945年(昭和20)12月30日の「大阪朝日新聞」の鳥取県吉岡温泉での王仁三郎による談話が載っている。

 「自分は支那事変前から第二次世界大戦の終わるまで囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国4000にのぼった教会を全部たたき壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は再建せずして再建されている。……自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのために弾圧をうけた。……これからは神道の考え方が変わってくるだろう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。……日本敗戦の苦しみはこれからで、年ごとに困難が加わり、寅年の昭和25年までは駄目だ。いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。」(「吉岡談話」)

 「大本」は、戦争中、ちょうどこのような弾圧下にあったために、戦争協力しなかった、あるいはできなかった唯一の宗教だったといわれている。同ホームページは、絶対に日本国憲法を守ろうと主張している。出口王仁三郎の唱えた「万教帰一」の教えは、「成長の家」にも取り入れられている。出口はエスペランチストでもあった。

 「大本」を出て、「生長の家」を興した谷口雅春は、アメリカのニューソートの影響も受けつつ、1930年(昭和5)、「生長の家」を創立し、「善一元」「万教帰一(同根)」などの教義を唱える。彼は、明治憲法復興、天皇信仰などを唱え、その点で、国家神道を拒否した出口王仁三郎とは違っている。二代の谷口清超の代になると、徐々に変化しはじめ、三代目の次男谷口雅宣は、初代の教えを否定し、教義・教団改革を進めたために、それに反発する古参信者との間で、対立が現在続いている。基本的な教義を「大本」に負っている「生長の家」が、天皇信仰を接ぎ木する形で、当時の国家神道や戦前国家に迎合して、教団を拡大しようとしたことが、戦後半世紀以上立った現在において、無理が出たということだろうか。70年代には、「生長の家」学生連合、反憲法学連などがあった。新右翼だった現左翼の鈴木邦男や高橋史朗、日本会議の事務局長、元「新しい歴史教科書をつくる会」の新田均らのグループなど、がそれらの出身である。しかし彼らは、現在の「生長の家」の路線からははずれている。

 これらの唯心論的ニューソート思想などの受容の前提として、アメリカにおけるキリスト教のスピリチュアリズムと神智学の大正時代頃の流行があり、それと科学とを融合させた「大正生命主義」があったと云われている。スピリチュアリズムは、降霊術の流行に見られるような霊界と現実界の交通を目的とする科学であり、神智学もそうした傾向を持つ心霊研究である。ドイツのシュティルナーが有名。生命主義は、ヘッケルやデューイやジェイムソンやベルグソンなどの生命を基本とする思想やそれと仏教などを取り混ぜたような当時の流行思想であったという。ニューソートは、宇宙を生命とし、すべては心の現れとする唯心論である。谷口雅春は、物質はなく、心しかないと唱え、全ては元々は善なる心のあり方次第で決まると主張した。本来善なる心を汚すのも心であるから、心を元の状態に戻すことが必要で、それをするのはもっぱら言葉であるとした。ニューソートは、例えば、マーフィーの法則などの成功哲学や人生成功論で、意志しだいで人生が決まるとする主観主義を唱えている。これを生死即涅槃などの天台本覚思想と似ているとする人もいる。谷口雅春は、病気も心で治すと主張するという徹底した唯心論者である。「大本」を出た浅野和三郎は、心霊を科学するとして「心霊科学協会」を設立する。

 現在のPL教団の前身である「扶桑教ひとのみち教団」が1931年(昭和6)に出来た。この教団は、冨士講から生まれたものである。信徒数は一時期は信徒総数約100万人にまで増えた。1936年(昭和11)、不敬罪で開祖御木徳一とその息子・御木徳近が逮捕・投獄され、1937年(昭和12)には解散命令がだされ、開祖は獄中で病死した。「ひとのみち教団」は、現世利益主義で、二代御木徳一は、平和主義を強調した。

 「霊友会」は、久保角太郎らによって、1924年(大正14)に設立された。法華経による先祖供養などという日蓮主義と儒教を接合した教義をつくったが、次々と分派ができて、分裂していく。1938年(昭和13)には、元幹部の庭野日敬らが「立正校成会」を設立する。戦時中は、子爵の娘を総裁に迎え、毎月1日に教団行事として伊勢神宮に参拝するなど政府に迎合した。戦後、教団拡大に成功するが、脱税事件などのスキャンダルが相次ぎ、さらに、「仏所護念会」などが次々と分裂していった。久保角太郎の次男の久保継成が教団を継いで、インナートリップ運動を起こして、若者などに信者を広げたが、女性スキャンダルで失脚し、新たに「いんなーとりっぷの霊友会」を作って分裂した。

 「立正校成会」は、1938年(昭和13)、庭野日敬・長沼妙佼によって、設立されたが、1943年(昭和18)、二人とも逮捕された。基本的には「霊友会」の教義を受け継いだが、教義と本尊は次々と変わり、信者を統一教会に派遣して、入信させた。「お導き」と呼ばれる信者拡大に力を入れているようだが、それは、「万教同根」論を取り入れて、他宗教とだぶることを容認しているからである。したがって、信者といっても、信仰心が固くない者が多いようである。

 満州事変以降の戦時体制強化の中で、本願寺派をはじめ、仏教諸宗派は戦時教学化を進めた。「落在舎」のホームページに、元龍谷大学学長の信楽峻麿氏の『真宗における聖典削除問題』があり、「西本願寺教団における聖典削除」問題についての文書がある。

 「西本願寺当局は、1940(昭和15)年4月5日、宗祖親鸞の著作『教行信証』と『高僧和讃』および『正像末和讃』の中の一部、そして本願寺第三代覚如によって記述された親鸞の伝記『御伝鈔』のなどの一部の文言が、日本の国体観念に矛盾し、天皇神聖の原理に抵触すると認めて、国家への忠誠を表するために、それらの文を拝読し引用するについては、削除ないしは改訂すべきであると決定した。そして、その趣旨を示した『聖教の拝読ならびに引用の心得』というプリントを作成して、教団の下部組織である全国の教区管事および輪番あてに通達配布した」。

 当然、それに対して、僧侶や信者から反対の声が起き、全国運動に発展した。しかし、西本願寺当局はこれを無視した。この聖典削除問題の前史として、「1939(昭和14)年6月には文部大臣の名によって、龍谷大学の予科(旧制大学入学前の段階で旧制高等学校に相当する課程。東京商科大学、北海道帝国大学、私立大学などに設けられた)において使用されていた真宗学の教科書『真宗要義』の内容について厳重な注意を受けるということがあった。その中の「勅命」「教勅」「仏勅」という語は、すべて天皇に対する不敬の用語であって、その使用は許されないということであった」(同)という思想弾圧事件が起きたが、この時も西本願寺当局は、文部大臣の指示通り、それらの削除や訂正に応じていた。ついには、西本願寺当局は、「1945(昭和20)年5月21日(降誕会)には、「宗門決戦綱領」というまことに壮烈な方針を決定したのである。それは法主が一千万信徒の陣頭に立ち、住職を支隊長にみたてて戦力補給につとめ、坊守は皇国婦道(女の守るべき道)の堅塁(とりで)を死守し、親鸞の説いた念仏の教えは奉公に帰すると語り、念仏を捧げて皇国を護持するというものである」(同)というところまで、堕ちてしまったのである。

 1931年に結成された「新興仏教青年同盟」は、既存仏教を批判して、「仏陀への帰一,資本主義社会改造,大衆生活の利福をはかる仏教社会建設を目的に」「仏教界改造・社会改革の実践運動に取り組んだ.機関誌《新興仏教の旗の下に》(のち《新興仏教》さらに《新興仏教新聞》に).1933年頃から労働争議支援・水平運動との連帯・反ファッショ運動参加など無産運動(とくに合法左翼)との結びつきが深まり,同盟委員長妹尾義郎は《労働雑誌》編集発行人にもなった。1939年11月以降,治安維持法違反容疑で大弾圧を受けた」(法政大学大原社会問題研究所HPより)。

 1943年(昭和18)、「戦時国民思想確立ニ関スル文教措置要項」*が閣議決定される。

 *戦時国民思想確立ニ関スル文教措置要綱
     昭和18年12月10日 閣議決定
第一 方針
 国民思想ヲ国策遂行ニ凝集セシメ戦力増強ヲ阻碍スル一切ノ思想的原因ヲ根絶シテ必勝ノ信念尽忠報国精神ノ昂揚、戦時国民道義ノ確立ヲ図ル為全面的ニ教学ノ刷新振作ヲ行フト共ニ国民ノ思想指導ヲ強力ニ実施スルモノトス

第二 措置
 一 国体・日本精神ニ基ク学問、思想ノ創造発展ヲ図リ教学ノ全面ニ之ヲ浸透セシメ戦意ノ昂揚、戦力増強ノ根本ニ培フ為教育内容ノ検討刷新、訓育体制ノ強化、日本諸学振興委員会ノ拡充等ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
 二 国民思想ヲ混乱セシメ戦力増強ヲ阻碍スル虞アル学者ノ思想・学説ヲ究明是正シ及国民ノ思想、生活ヲ紊ル社会事象ニ付思想的究明ヲ行フ為文部省ニ所要ノ機関ヲ設クル等ノ措置ヲ講ズ
 三 学徒並ニ勤労青年ニ対シテ戦時思想指導ヲ強化スル為地方思想対策研究会ノ機能拡充、学校ニ於ケル思想指導体制ノ整備等必要ナル措置ヲ講ズ
四 宗教及宗教活動ノ醇化昂揚ヲ図ルト共ニ宗教団体及宗教教師ニ対スル指導ヲ強化シソノ活発ナル活動ヲ促ス
 五 教育団体、教化団体、文化団体等ノ活動ニ対シ真ニ日本的ナル思想、文化ノ根源ヲ確把セシメ之ヲ昂揚振作セシムル如ク関係官庁協力ノ上積極協力ナル指導ヲ行フ
 六 家風ヲ振起シテ我ガ国固有ノ家ノ本義ニ徹セシメ以テ戦時国民道義ノ確立、戦意昂揚ノ源泉タラシム
 七 本要綱実施ニ要スル経費ニ付テハ速カニ必要ナル予算的措置ヲ講ズ

 不敬罪・治安維持法などの弾圧を受けたのは、最初は、社会主義者などが多かったのだが、後には、国体明徴運動などの思想統合の動きが拡大するにつれて、宗教者・宗教団体がその対象とされて、大弾圧を受けることになった。他方では、既成仏教宗派は、国家統制が強まったとはいえ、戦争協力を強めていった。しかし、その中でも、教義をめぐる政府の削除・訂正圧力に対して、僧侶や信徒の間に、あくまで宗派としての教義を守ろうとする動きもあったのであり、それを押さえつけながら、内部統制をしつつ、戦時を乗り切ろうとしたのである。

 それらのことは、戦後にそれぞれの宗派内の反省が始まり、それが何十年にわたる改革運動の成果として明らかにされてきたことであり、それは今でも続けられているのである。東西本願寺派の基幹運動・同朋運動・門信徒運動と呼ばれる改革運動では、直接には、人権問題という差別の解決・人間解放ということがきっかけであったが、それは平和の問題をも含めて、「苦」からの解放としての念仏というところまで進み、戦争「苦」の問題にも向き合っている。その中で、戦時教学や戦前の浄土真宗のあり方についての批判的な見直しなどが進められたのである。曹洞宗においても、平和と人権は宗派としての大きなテーマとして取り上げられている。その他、全仏教寺院の9割を組織する「全日本仏教会」も、それらのテーマへの取り組みを掲げている。

 とりわけ、戦時教学などの反省にたった東西本願寺派では、同朋運動・基幹運動・門信徒運動などの教団改革の運動が起き、部落差別、人権、平和などの社会的課題を、「信仰の社会性」の視点からとらえ、これらの課題の解決を、浄土真宗再生の一環として取り組んでいる。2006年度から2011年度までの「基幹運動総合基本計画」は、以下の通りである(「坊さんの小箱」というホームページより)。

「基幹運動総合基本計画」
Ⅰ.目標 : 御同朋の社会をめざして

「御同朋の社会」とは、いのちの尊さにめざめる一人ひとりが、それぞれのちがいを尊重し、ともにかがやくことのできる社会です。
 
Ⅱ.スローガン : ともにいのちかがやく世界へ
 
Ⅲ.基幹運動の願い
 
 【基幹運動とは】
 浄土真宗は、あらゆるいのちをすくいたいとの阿弥陀如来の願いをよりどころとし、南無阿弥陀仏のはたらきによって信心をめぐまれ、お念仏の人生をあゆみ、私が浄土で仏に成る教えです。そして、いのちあるものが、如来の智慧と慈悲とに照らされ包まれた御同朋であることを知らされることです。そこから、如来のみこころにかなう生き方を志す私の新しい人生が生まれ、混迷する現代社会の課題に向きあい、乗り越えてゆく原動力となるのです。
 私たちの教団は、浄土真宗のみ教えのもと、基幹運動を推進しています。
 基幹運動は、門信徒会運動と同朋運動をその内容として展開してきました。
 門信徒会運動は、親鸞聖人700回大遠忌を契機として、形骸化した教団の状況に対する危機感から、「全員聞法・全員伝道」を願いに、自らが教えを聞き、教えに生きる門信徒・僧侶になることをめざしてきました。
 同朋運動は、部落差別を受けてきた門信徒や僧侶などが、差別からの解放を求めて自ら立ちあがったことにはじまります。そして、私と教団の差別の現実を課題とし、差別・被差別からの解放をめざしてきました。
 基幹運動は、教団に所属するすべての人びとが、私と教団のあり方を見直し、一人ひとりの苦悩に共感し、社会の現実に向きあって歩むことで、御同朋の社会の実現をめざす運動です。
 
 【社会の現状と教団の課題】
 今日の社会は、人間中心・自己中心の考えがいよいよ強まり、「環境破壊」「人権抑圧」など、多くの問題を引き起こしています。その結果、戦火の絶える日のない現実となり、多くの尊いいのちが傷つき失われています。科学技術の発展は、いままでの生命観を揺るがし、「生命倫理」という新たな課題を生み出しています。
 また、「少子・高齢化」「過疎・過密」といった社会構造の急激な変化は、私たちの生活に大きな影響をあたえています。さらに、「青少年を取り巻く問題」「虐待」など、さまざまな問題も抱えています。自らのいのちを絶つ人が増加していることも見過ごすことはできません。まさに、混迷する社会といえます。
 仏教は、老病死に代表される人間の苦悩の解決にかかわるものです。だからこそ、お念仏のみ教えをよりどころとする私たちは、このような社会の現実に向きあい、取り組んでいくことが大切な責務なのです。
 これまで、私たちの教団は、教団と社会のあるべき姿を実現するために基幹運動を進めてきました。しかし、いまだに差別事件が起こり、一人ひとりの苦悩や混迷する社会の課題にも十分には応えることができていません。これらの現状を踏まえ、さらに強力に取り組みをすすめることが大切です。
 2006年度から2011年度までの基幹運動は、これまでの運動の成果と課題をふまえ、次のことを基本方針として、重点項目で課題を具体化し推進します。

 【基本方針】
   基幹運動は、人びとの苦悩や差別・被差別の現実からの問いを課題とし、その課題を、み教えをよりどころとして、問い、聞き、語りあうなかで展開されなければなりません。教団の現状を克服するために、

○男女共同参画をさらに進め、 「門信徒と僧侶の課題の共有」をめざす。
○「御同朋の願いに応える教学(御同朋の教学)の構築」をめざす。

 この二つの点を重要なポイントとして位置づけ、わかりやすく広がりのある運動とし、学んだことを行動・実践していくことで、「同朋教団」としてのあるべき姿をめざします。

【重点項目】

① 親鸞聖人のみ教えに学び、全員聞法・全員伝道の門信徒会運動を推進しよう。
 
  「話し合い法座」中心の「門徒推進員養成連続研修会(連研)」「中央教修」を修了して、6500人あまりの「門徒推進員」が誕生しました。今後、連研を全組で実施し、より多くの門徒推進員の育成と、門徒推進員の活動が進展するための環境づくりをすすめます。 また、お寺に集うさまざまな立場の人が話し合う「門信徒会運動研修協議会」を継続します。門信徒と僧侶が運動を共有し、お寺や組の現状をふまえ、「開かれたお寺」にするための具体的な方法をみんなで話しあいましょう。
 さらに、各教化団体の活性化や、布教伝道のあり方、情報の共有・発信のあり方を課題とし、み教えをよりどころに、問い・聞き・語り、伝えていく活動を推進しましょう。
 また、『本願寺新報』『大乗』などの購読を広げていきます。

②過去の過ちと現実を直視し、差別と戦争のない社会をめざして同朋運動を推進しよう。

 部落差別を中心に「差別・被差別からの解放」をめざして取り組んできた「僧侶研修会」や「差別法名・過去帳調査」などから、差別を肯定してきた私と教団の現実の克服こそが課題であることを学びました。さらに、その学びを門信徒と共有するため、「第Ⅳ期同朋運動推進僧侶研修会」の内容を深めます。そして、ハンセン病差別、性差別、民族差別、障害者差別などへの取り組みも進めます。いのちの共感をさまたげているものを見抜き、「差別をしない・させない・許さない」ための取り組みを実践します。
 教団の戦争協力の歴史と事実を顧み、慚愧の思いをもって、過ちを繰り返さないため、「非戦・平和」の課題、信教の自由・政教分離の原則などの所謂「ヤスクニ」の課題への取り組みを進めます。また、仏教における、「仏の歩み行かれるところ…… 武器を取って争うこともなくなる」という「兵父無用」の願いを内外に発信します。
 差別と戦争のない心豊かに安らげる世界を築くため、差別の現実の克服と平和を尊ぶ社会の実現をめざして取り組みましょう。

③いのちの尊厳と平等をもとに、一人ひとりの苦悩に共感できる開  かれたお寺・教団にしよう。

 あらゆるちがいを尊重することができ、すべての人にやさしくあたたかな社会をめざして、一人ひとりの苦悩を共感できる開かれたお寺・教団となることが求められています。したがって、み教えをよりどころとして、さまざまな社会の問題に積極的に関わり、何ができるかを考え、具体的に実践して行かなければなりません。世界各地でおこる戦争や環境破壊の問題を自らの課題とすることや、ビハーラ活動など社会福祉や医療の現場での活動もそのひとつです。
 いのちの尊厳と平等をもとに、地域社会に根ざした幅広い活動を展開し、社会に貢献することのできるぬくもりと動きのあるお寺・教団をめざして取り組みましょう。

  【次代に向けて】
  2011(平成23)年には、親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えいたします。親鸞聖人は、混迷した世の中にあって、お念仏をとなえつつ「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と、苦悩する民衆とともに生き抜かれました。そのご遺徳を仰ぐことは、現代のさまざまな問題を自らのことと考え、また、み教えをわかりやすい言葉で現代社会に語りかけるなど、広く人びとと課題を共有できる私と教団になることにほかなりません。
 「ともにいのちかがやく世界へ」とのスローガンのもと、次代に向けて、門信徒と僧侶、男性と女性、大人と子ども、また、民族や国籍など、それぞれのちがいを尊重しあうことのできる私と教団となります。
 そして、教団内外のさまざまな課題に向きあい、すべての人びとが如来に願われたお互い(御同朋)として、支えあい、かがやきあいながら共にあゆむことのできる、活力ある教団を築くため、さらには御同朋の社会の実現をめざして適進してゆきましょう。

 さらに、曹洞宗でも1992年(平成4)11月20日、「懺謝文」を出して、曹洞宗の戦前の戦争責任を自己批判した。また、調査により差別戒名が続々と発見されると、同和問題への取り組み、人権問題への取り組みを人権擁護推進委員会をつくって、宗派として押し進めるようになった。環境問題にも取り組み始めている。そして、イラク問題の武力解決に反対する決議をあげた。以下は曹洞宗のホームページにある。

曹 洞 宗
わたしたちは平和的解決を強く求めます

イラクにおける大量破壊兵器問題の
平和的解決を求める決議文

 イラクにおける大量破壊兵器問題は、いまやアメリカ及びその立場に賛同する国々による武力行使が行われる情勢にある。
 武力行使によるこの問題の解決は、何をもたらすのか。人間として生きる権利や尊い人命を奪い、その地域の環境を微塵もなく破壊するだけのものである。
 過去の戦争や紛争は、何の罪もない人々が犠牲になり、貴重な財産が失われ、国土は荒野と化している。我々は、こうした過去の過ちを懺謝し、再び同じ過ちを犯さないことを誓願し、広く社会に向けて表明したのである。
 我々は、一佛両祖のみ教えにしたがい、争いのない慈悲と寛容に満ちた世界を構築すべく、また宗門の取り組む「人権・平和・環境」の実現のため、仏教徒として、かけがえのない生命を奪い、人権を著しく踏みにじる暴挙である戦争の廃止なくして真の平和はあり得ないことを主張し、いかなる目的のもとにおいても、尊い生命を失う武力行使には反対するものであり、平和的解決を強く求め、これを決議するものである。
 
2003(平成15)年2月28日

曹洞宗宗議会・曹洞宗宗務庁

趣 旨 文

 我が宗門は、1992(平成4)年11月20日、懺謝文を宗内並びに広く国内外に発して、懺悔と謝罪を表明いたしました。すなわち、20世紀初頭の不幸な時代にあって、時の政治権力に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害し、民族の誇りと尊厳を損なった、誠に恥ずべき行為を自省し、海外伝道の歴史のうえで犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し心からなる謝罪を行い、そのうえで、1945(昭和20)年の敗戦直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を行ったのであります。
 また、あるひとつの思想が、あるひとつの信仰が、たとえ、いかような美しい装いをこらし、たとえどのように完璧な理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を否定するとするならば、我々はそれに組みせず、むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶことを表明したのであります。なぜならば、人のいのちの尊厳性は思想、信仰や理論を越えて、まさしく犯すべからざる厳粛なものであるからであります。しかして、こうした懺悔と謝罪に基づき、二度と同じ過ちを犯さないことを誓願したのであります。
 さて、現今の世界情勢において憂慮すべき、イラクにおける大量破壊兵器にかかわる問題は、極めて重大な危機といわざるを得ません。現在、国連による査察が続けられている一方で、いまやアメリカ及びその立場に賛同する国々による武力行使が行われる情勢にあり、その緊迫度は、日増しに高まり、いまや一刻の猶予もない極めて厳しい情勢にあると認識するものであります。こうした武力行使によるこの問題の解決は、何をもたらすのか。疑問の念しか抱くことができないのであります。それはただ、人間として生きる権利や尊い人命を奪い、その地域の環境を微塵もなく破壊するだけであるからであります。
 こうしたときにこそ、我々は、釈尊のみ教えにしたがい、争いのない慈悲と寛容に満ちた世界を構築すべく、また宗門の取り組む「人権・平和・環境」の実現のため、教団としての時代的、社会的責務を果たさなければならないのであります。
 よって、ここに仏教徒として、いかなる社会においても、かけがえのない生命を奪い、人権を著しく踏みにじる暴挙である戦争の廃止なくして真の平和はあり得ないことを主張し、いかなる目的のもとにおいても、尊い生命を失う武力行使には反対するものであり、平和的解決を強く求める決意を表明するものであります。

 こうした人権・平和・環境問題への取り組みは、「全日本仏教会」に共通する基本姿勢のようである。新興宗教団体の方は、「大本」、「金光教」、「PL」、「天理教」などは、だいたいこれと同じような姿勢であり、「大本」は、現憲法擁護をはっきりと掲げている。

 「生長の家」内の谷口雅春を支持するグループや「モラロジー」などの上の教派神道から分かれた教団や「霊友会」、「国柱会」、「仏所護念会」などの日蓮主義系の新興宗教団体などは、「日本会議」に入るなどして、教育基本法改正、靖国公式参拝推進、反ジェンダーフリー、憲法改正などの右派運動の一翼を担っている。しかしそれは上記のことから明らかなように、宗派間の対立を反映してるともいえる。とはいえ、後者のグループはそれぞれ、内部対立や内部からの改革運動などにさらされており、さらにスキャンダルも起き、分裂を繰り返しているところが多い。分裂した「霊友会」は、「お導き」と呼ばれる信者拡大策に、内部で批判が多いらしく、実際には、名前だけの信者も多いという。教義はデタラメである。法華経と先祖供養は関係ない。「生長の家」三代目は、禅宗の不立文字という言葉を取り入れて、初代谷口雅春の教えを消し去ろうとしている。それぞれ内紛・危機を抱えていて、実際には、「日本会議」どころではないというのが実情だろう。その中心的存在である「神社本庁」(内務省の外局だった神祇院の事務を戦後引き継いだ組織で、民間間の神社関係団体であった皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の3団体が合同して結成され、現在全国約8万社が属している)でも、最近、最大の資金源であった明治神宮が離脱して、打撃を受けた。

 現在の宗教・宗派の動きの底には、戦争や差別などの歴史に対する姿勢や態度の違いが現れていて、それは、宗教的には、一つは、国家神道に対する認識と態度の違いである。あくまでも神道の本宗を伊勢神道におく国家神道に対する態度の違いである。諸宗の上に立つ超宗教の下に立つことを宗派として許容できるかどうかということである。浄土真宗の同朋運動・基幹運動・門信徒運動の巨大な運動が、静かだが確実に真宗再生の動きとして広まっており、曹洞宗においても、国際化と合わせて、人権・平和・環境などの価値を仏法と結びつけて、宗門の一大運動として展開しつつある。曹洞宗国際ボランティアの活動も続いている。それは新興宗教教団にも影響を与えることになるだろう。

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日本の仏教についてのノート(20)

  近代の日本仏教(3)
 日露戦争の勝利後、欧米各国は、日本との不平等条約を改める。1913年(大正2)年6月、内務省の宗教局を文部省に移した。神社局が内務局に残されたのは、神道は宗教ではないとされたからである。1940年(昭和15)11月には、内務省の神社局は神祇院になり、また形の上では復古体制になる。

 1912年1月1日、南京で孫文を臨時大統領とする中華民国が建国された。1914年8月、第一次世界大戦が勃発する。日本は、連合国側について、ドイツに宣戦布告し、青島、山東半島を攻撃した。1915年1月18日、日本政府は、中華民国政府に対して、21カ条の要求を提出した。その狙いは、日本が満州に持っていた権益の期限が切れるのを防ぐことにあった。1917年には、山東半島のドイツの租借地と経済的利権を日本に認める秘密協定を英・仏・露・伊と結び、さらに後には日本の満州・蒙古に関する秘密協定を結んだ。
 
 1919年戦後処理のためのパリ平講和会議が開かれると、同じ連合国側であった中華民国政府は、21カ条要求を暴露して、中国の主権回復を訴えたが、認められなかった。中華民国は、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。すでに、上のような秘密協定が結ばれていたのである。パリ講和会議の結果を知った北京の学生3,000人ほどが、5月4日、山東の権利回復を叫んで、デモを行った。その後、この運動は、全国に拡大した。1917年10月、ロシアで、「社会主義」政権が誕生した。

 パリ講和会議で結ばれたヴェルサイユ条約には、戦争責任に関する文章が含まれ、また、国際連盟規約になる文章が入っていた。国際連盟は、アメリカ大統領ウィルソンの14カ条の原則を下敷きにしていた。そこには、ヨーロッパにおける民族自決権の擁護、軍縮、秘密条約の禁止、などがうたわれていた。しかし、国際連盟には、アメリカが参加しなかった。

 日本はこの第一次世界大戦の戦場にならなかったこともあり、また新たに中国での利権を拡大できたし、そして戦時特需もあって、戦後しばらくは、経済は順調であり、それまでの輸入国から輸出国に転換した。さらに軍備増強した。パリ講和会議と並行して、日本・フランス・イギリスの間で秘密交渉が進められ、以下の秘密の分割協定が結ばれた。イギリスがインド・ペルシャ・アラビア・チベット・ビルマ・タイ西部・中国四川省・広東省沿岸地方・揚子江流域の商業の機会均等。フランスが、インドシナとトンキン(ベトナム)、タイ東部、中国雲南省・広西省。日本が、東シベリア、英仏勢力圏をのぞく中国全土。これは、中国全土からアメリカを排除する狙いを持っていた。

 アメリカは、こうした日米仏の中国からの排除の狙いに対抗して、軍備拡大を続けたが、シベリア出兵での各国の敗北や戦後恐慌を契機とする戦後経済の低調は、軍拡競争を重荷にした。さらに、英仏などの戦時国債を引き受けたアメリカがそれら諸国の債権国となったため、アメリカの立場が強まった。1921年ワシントン軍縮会議が開かれ、軍縮と同時にシベリア撤退、中国への山東省の主権返還が決められた。その後、日英同盟も解消される。

 日本の国内政治では、1918年米騒動が勃発し、寺内正毅内閣が倒れた後、原敬政友会内閣が誕生し、以後、護憲三派によって、政党による内閣が組織され続け、吉野作造の民本主義や普通選挙要求、美濃部達吉の天皇機関説が唱えられるなど、言論の自由などが定着したかに見えた大正デモクラシーと呼ばれる情況が生まれた。労働運動や社会運動が活発になり、在野の学者や知識人の言論活動・表現活動も活発に行われるようになった。

 1920年、戦後恐慌が起きると、小作争議はいよいよ活発となり、拡大した。日本初の、農民の全国組合の日農が、キリスト教社会主義者の賀川豊彦・杉山元次郎らによって組織された。1912年には労働団体の「友愛会」が誕生した。1921年には、友愛会は、日本労働総同盟になる。さらに翌22年には、全国水平社が結成された。この年、7月、非合法の日本共産党が結成され、11月にはコミンテルン支部に認められた。1914年には、日露戦費の負担のための諸増税に対する反対運動を組織する中で、小経営者たちが全国組織の実業組合や商工会などを基盤に団結して、増税反対運動に立ち上がった。1923年関東大震災。1925年、男子普通選挙法と合わせて「国体」の変革と私有財産の否定を目的とする結社を禁止する治安維持法が成立した。適用第一号は、朝鮮共産党だといわれている。しかし、当時、日本の共産主義者はそれほどおらず、やがて、その適用を受けるようになるのは、大本教などの宗教団体や右翼団体である。

 1924年頃には、20年恐慌の打撃からある程度回復して、相対的安定期に入った。ところが、1927年(昭和2)、台湾銀行の倒産を契機に、金融恐慌が襲い、中小銀行が次々と倒産した。1929年(昭和4)秋、アメリカで恐慌が勃発した。その頃、日本政府は、1930年(昭和5)1月11日、金解禁を実施した。

 その頃、満州では、関東軍が、1928年に軍閥の張作霖を暗殺したことから、その子供の張学良が、南満州鉄道に並行する鉄道を敷くなどして、満鉄の経営を脅かした。そこで、関東軍の石原完爾や板垣征四郎らの関東軍将校は、謀略を練って、作戦計画を秘密に作成した上で、1931年9月18日、南満州鉄道の一部を爆破して、それを口実に、中国東北部の各地を武力占領した。いわゆる「柳条湖事件」である。これに対して閣議で、南陸軍大臣は関東軍の自衛行為だと主張したが、外務大臣幣原喜重郎は関東軍の謀略説を主張した。9月24日の閣議で、「事態を拡大しない」ことを決定する。ところが、関東軍は、戦線を拡大した。それが国際的非難を浴びると、今度は、1932年3月1日清朝末裔の溥儀を皇帝に担いで、傀儡政権の満州国を建国した。なお、石原完爾は、日蓮主義の国柱会のメンバーだった。その構想は、満蒙に「五族協和」の「王道楽土」を建設するというものだったが、その中身は、日本人を上層指導民族として、中国人・満州族などを労働者や商人とする民族別の差別的分業を敷くというものであった。日本人が支配民族で、それ以外が被支配民族という民族差別的なプランである。

 この時、日本の新聞は、関東軍の行動を支持する主張を掲げ、「満蒙=帝国の生命線」などを叫んだ。

 政府は、神社神道を非宗教の国家の宗祀として、他の宗教団体を別枠で管理するようにした。さらに政府は、1913年(大正2)年6月、内務省の宗教局を文部省に移した。そして、この時、始めて、キリスト教が、その対象として公認されたのである。1899年(明治32)月、第二次山県有朋内閣のとき、はじめて宗教法案が貴族院に提出されたが、仏教界の反対で廃案となる。翌1900(明治33)年、国家の宗教統制に反対して「仏教懇話会」が作られ、さらに、それは「大日本仏教会」「日本仏教連合会」になる(現「全日本仏教会」)。

 浄土真宗においては、すでに江戸時代には、「真俗二諦論」を唱えて、俗世の権力や支配秩序に対して、迎合していく姿勢が理論づけられていた。それは、明らかに宗祖親鸞の教えにないものであった。しかしそれは、明治期以降も受け継がれ、1886年(明治18)に政府の監督の下で定められた宗則では、「一宗の教旨は、仏号を聞信し大悲を念報する、之を真諦と云ひ、人道を履行し王法を遵守する、之を俗諦と云ふ。是即ち他力の安心に住し報恩の経営をなすものなれば、是を二諦相資の妙旨とす」と規定している。ここではまだ、真諦=仏法、俗諦=王法とはまだ区別されているが、やがて、阿弥陀仏と天皇を重ね合わせるようになり、それが神道側から不敬と批判されると、今度は、神道の一部として仏法を崇めるなどと云うようになり、ついに、1938年(昭和13)には、それまでの神祇不拝の指導をくつがえして、伊勢神宮の大麻を受け奉安する。「真俗二諦論」が、王法と仏法を同等にとらえるかのようだと非難の声が起こると、ついには、仏法はいらない、皇国の道を遵守すべき、仏教の名前は国体に返す、などと、真宗の自己否定というべきところまで、行ってしまった。

   曹洞宗は、廃仏毀釈やその後の国家神道による圧迫に危機感を強め、大内居士がつくった『修証義』の草案を總持寺の畔上楳仙禅師、永平寺の滝谷琢宗禅師が校訂した上で、それを宗門布教の標準として1891年(明治23)に公布した。それは、曹洞宗の教えをわかりやすくコンパクトにまとめたもので、在家の化導に大いに役立ったという。『修証義』は、現在でも檀家などに配られている。座禅=悟りとする沢木興道禅師が出て、駒沢大学で教鞭を執るなどして、弟子を育成した。

 西田幾多郎は、臨済禅の体験や思想を西洋哲学と結びつける思索を続け、鈴木大拙は、鎌倉期の禅と念仏に日本的霊性の誕生を見た。

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