歴史

朝田理論

 石井良助氏の『江戸の賎民』には、身分は町人であるが、大道芸などの仕事をするときは非人頭の支配 を受ける乞胸の話が出てくる。一般に身分は固定的に見えるし、そういうふうに教科書的には習い覚えさせられてきたが、町民から非人になったり、その逆もあり、また、町人からエタ身分になるケースもあったということが明らかになったという。身分間の移動があったということである。そして、乞胸のような二重の身分に属するようなものもあった。なかなか難しい。ただ、ここから、こういう差別は、多様でもあり、変化するものであるということを頭に入れておかないといけないということはわかる。
 封建制度下において、政治的に身分支配が規定されたには違いないが、その中身は時と共に変化しており、近代に入ると、資本主義化の中で新たな中身の差別に転化したのである。元部落解放同盟委員長の故朝田善之助氏の「三つの命題」の1番目、「主要な生産関係からの除外」という規定は、正確ではないし、概念は間違っているが、言わんとすることはわかる。現実を直観的にではあれ、真正面から向き合って、ちゃんと捉えており、したがって、解放運動を長く続けられるだけの思想としての力を持ったのは当然である。
 朝田理論は、都市部落で言えば、明治の不平等条約の下での開国によって、列強帝国主義との競争にさらされて、低賃金・低労働条件の下で後発資本主義化せざるをえないために、初期職工の一部を非人集落跡のスラムの失業者・半失業者・雑業層から調達もし、それが、今でいえば、大企業正規・本工労働者としてではなく、零細・中小・下請けだったり、そして、短期・不安定雇用(臨時・季節工・渡り職工)など、総じて、半失業者的な相対的過剰人口として形成されたと いうことを指しているととれる(もっとも、地主や企業家(部落産業)、商人、農民などもいた)、こういう労働階層としてあると共に賎業的な扱い、差別視・ 蔑視、その集住地域への地域差別視もされるようになる。江戸時代から、中心部からの強制的な追い出し、周辺化がくり返されたが、それは何度も形成されてきた。今現在もその運動は継続中であり、それは可視的である。関西は規模が大きくて、簡単に集団撤去はできないという点が違うけども。
 差別観念を封建的観念の残存とした点は、講座派的な封建遺制論の間違いを引きずったままで、今、沖浦和光氏などの研究成果などで、資本制近代の中でそれを引き継ぎつつ、新たなかたちで再生産されている近代的な差別観念であることがわかってきたので、直した方がよいと思う。昔の朝田理論見直しの議論の時は、差別観念の問題が強く押し出されて、制度や歴史、土台の方の議論があまりなかったように記憶している。しかし、様々な研究がその後進んだことから、現時点で、再度、議論をやり直せば、意味の多い議論ができると思う。
 朝鮮の「白丁」の解放運動である衡平社の本の中で、朝鮮戦争で居住地が破壊されたために、解消されたと言われているのはちょっと疑問である。明治4年の解放令以降、各地で、解放令反対一揆が起きており、被差別部落への農民などの襲撃事件が起きており、ずっと後になっても、1924年に群馬県の世良田村事件などが起きており、差別構造は、近代になってからもある。それは、自由民権運動のリーダーとなった豪農層(色川大吉氏が強調するところの)の意識にも反映している。つまり、封建制の差別構造が近代資本主義的な差別構造へ転化する過程があり、できたのである。それが、変化する運動であるということが、江戸時代の身分構造・身分関係の歴史からも言えるということがわかった。

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アベノミクスは大衆収奪、近代史その他

 安丸良夫氏『近代天皇像の形成』(岩波現代文庫)、赤坂憲雄氏『象徴天皇という物語』(ちくまライブラリー)、松浦玲氏『日本人にとって天皇とは何であったか』(辺境社刊 勁草書房発売)に入る。日本思想大系『民衆運動の思想』と『熊沢藩山』入手。

 安倍政権のアベノミクス政策で、円安が急速に進んだため、輸入原油価格が上昇、ガソリン、灯油などの値上がりが起きている。しかし、「連合」春闘は、ベア引き上げは見送りで、一時金をめぐる交渉になっている。かつては、生産性基準原理という労働生産性上昇分の賃金を引き上げるという基準があった。日本生産性本部というのもあるぐらいだ。この間、日本での労働生産性はかなり上がっているというから、その分賃上げとなるはずが、そうなっていない。アベノミクスによるインフレで、賃金水準が同じでも、実質的には賃下げと同じことになる。それを経済学で指摘したのはケインズである。彼は『一般理論』で、労働組合運動は、通常、名目賃金(貨幣賃金)の上下には敏感に反応するが、実質賃金の動きには反応が鈍いということを指摘している。一部のエコノミストは、景気上昇の局面で、賃金が上昇するのは最後になるという経済法則とやらを作り上げそれを物神化して主張している。こういうたぐいのエコノミストの言うとおりになったためしがなく、何度も予想が大きく外れてきたのに、懲りない連中だ。

 他方で、以下の記事に見られるような、アメリカの「対テロ戦争」の非人道的やり口に対して、人権活動家や人権団体も無反応で、もちろんアメリカ人も無関心で、むしろ、支持が多いという。聖書の言葉、「汝の敵を愛せよ」などというのは、今や空しい空文句となってしまっている。「目には目を。歯には歯を」のハムラビ法典がアメリカの刑法典となってしまったかのようだ。アメリカ政府は、法廷を開き審理することなく、ある事件の真相と犯人を特定でき、それは疑いようのない正しさを持っていて、誤りなく、その犯罪者の死刑を執行できるというのである。一言の弁明もなく、しかも、別の法体系を持つ他国においても、そうすることができるというのだ。2月16日付産経新聞に、アメリカ亡命中の中国人作家が、習近平中共総書記を、「民族主義者」「ナショナリスト」で、毛沢東の子供と呼ぶのがふさわしいと言ったと書いている。今、獄中で生き続けている劉暁波という超エリートの民主人士の人権を守れというのである。しかし、中国社会の矛盾を集中的に背負わされ、時に絶望的な小暴動を起こさざるを得ない境遇に置かれている農民工などの労働者大衆の人権には一言も触れていない。超エリートの劉に同情、大衆に無関心、ということか。あるいはこれは産経の姿勢の反映なのか。歴史は大衆が作り、大衆が動かすもので、その力を暴力的その他の手段でおさえつけ、あるいは騙しているのが、支配者であり、かれらが国家を支配しているという考えを持っているので、劉は、支配エリート内の非主流派の一員ではないのかという疑いを持っている。1989年6・4天安門事件の評価にしても、学生・エリートの民主化運動という性格ばかりが強調されるが、それはエリート内の主流対反主流の内輪もめとして事態を捉えるものではないのかという疑問を持ち続けている。

 古田武彦氏『真実の東北王朝』から、安日王・長脛彦兄弟が大和盆地で迎え撃ったというのは、古田氏が元々、邪馬臺国九州論者であり、神武東征も、筑紫を舞台とするものだから、神武対長脛彦の戦いも、筑紫を舞台にした話だと言っているということをお断りしておかねばならない。もちろん、神武を架空とする説もあるので、これを直ちに史実として認めるというわけではない。ただ、戦前の津田左右吉みたいに、記紀の神代の部分はすべて神話であり、史実として扱わないという態度が間違いであることは、古田のようにシュリーマンのトロイ遺跡の発見の例を引くまでもなく、今は正されていることである。実証主義は歴史認識の方法としては問題の多いものなのである。古田氏は、同書で、多賀城跡から出土された石碑に書かれた地理の解明にも取り組んでおられる。これについても、偽造説が強く、学会では捨て置かれているようだが、そこに書かれてあることには見逃せないことが記されている。この石碑の建立は8世紀だが、書かれてある中に、靺鞨が出てくる。靺鞨は、今の中国東北部、北朝鮮の北からシベリア南部にかけてあった国で、ツングース系と言われる人たちの国である。多賀城からそこまでの距離が書いてあるのだ。靺鞨の前は粛慎で、渤海とも近い。黒水靺鞨は、後には、契丹(遼)から、女真と呼ばれるようになったという。かれらは、1115年、遼から独立して金を建てる。古田氏は、中国の史書から、靺鞨は、渤海部とその東北の黒水靺鞨に分かれたとされている。石碑に書かれている靺鞨は、黒水靺鞨のことだと述べている。しかし、石碑の建立が、天平宝字6年(762年)12月1日とあることから、ウィキペディアは偽作説の一つとして、「碑には靺鞨国とあるが、靺鞨国はすでに国号をあらため渤海と号し、当時から2代前の聖武天皇の時代から日本との交通は頻繁であるのに靺鞨国とあるのはおかしい」という意見を記している。これは、淳仁天皇・孝謙上皇の時である。孝謙上皇はその後、淳仁天皇を廃位して再度天皇になる(重祚)。称徳天皇である。このときは、、女帝で、上皇にもなり、重祚するということ、天皇が生きている間に廃位されたり、退位するということがあった。現在の皇室典範には、そういう規定はない。

 ところで、靺鞨の前に同地方には粛慎があった。その粛慎との戦いのことが『日本書紀』に出てくる。以下。この戦があったのはどこか。渡島(おしま)後の蝦夷が島のことか。粛慎は、中国の史書などに出てくる粛慎と同じなのかどうなのか。他に、佐渡ヶ島に粛慎人がいたという『日本書紀』の記述もある。阿部臣が、陸奥の蝦夷をひきいて大河のほとりに着くと、その河口の両側で、渡島の蝦夷と粛慎が対峙していた。この記事では、粛慎国と記されているので、そこは他国という認識があったと思われる。そこは、日本海の対岸の今の沿海州の当たりなのだろうか。その海辺で、千人の蝦夷と粛慎の水軍が対峙していたのはなぜだろうか。渡島蝦夷が、粛慎に攻撃されたので、斉明朝に援軍を求めたのだろうか。粛慎国を攻撃しに行ったら、たまたま、渡島の蝦夷1000人が粛慎の水軍に攻撃されようとしているところに偶然出くわしたのだろうか。以下の訳では、この場所を渡島としている。しかし、その根拠も乏しい。粛慎が撤退したという弊賂弁嶋(へろべの島)とはどこか。宇治谷猛訳『日本書紀』ではこの部分(210~211ページ)に注がなく、どことも比定していない。『書紀』の斉明天皇のところには、蝦夷や粛慎などの記述が多く見られる。

 『日本文化の多様性 稲作以前を再考する』(小学館)で、佐々木高明氏は、日本で広まった水稲に二種類あって、伝来ルートが異なることを指摘している。一つは南方、東南アジアなどから来た熱帯ジャポニカで、もう一つは中国揚子江流域から朝鮮半島などと同じ温帯ジャポニカである。遺伝子分析から、日本列島では両者の交配種が広まっていることがわかったという。氏は、国立民族学博物館の館長を務め、また、アイヌ文化振興法(1997年5月)を機に創設をされた財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構理事長を2003年まで務めた人である。佐々木氏は、同書で、「日本文化は一つのものであり、日本の国民は単一の民族だという思い込みは、本当に根深いものがある」(8ページ)が、「……多文化国家の認識を十分に有することによって、日本の国家や国民が、多様な異文化の世界とわだかまりなく交流しあい、そのことによって日本の文化をより豊かにすることができると思うのです。日本人の豊かな感性の中に、日本文化の可能性を見出すことができる、と、私は思うのです」(12ページ)と述べている。日本列島の東と西に多くの点で違いがあることは、網野善彦氏が明らかにしたところだが、それ以前に、日本語学者の大野晋氏などの言語学的な研究もあった。それが、縄文時代にまで遡って見られるというのが佐々木氏の見解である。そして、柳田国男的な稲作中心主義を否定し、畑作農耕(焼畑や常畑など)、採集・狩猟・漁労の重要性、それらを多様に組み合わせた多様な生産・生活形態のあり方というものを浮かび上がらせる。あれもやりこれもやり、春は春の、夏は夏の、秋は秋の、冬は冬の生業を持ち、一日の中でも複数の生業をなすという山の民の姿を浮かび上がらせる。稲作単色の生業形態というのは、限られたものにすぎないのである。

 松浦玲氏の『横井小楠』(ちくま学芸文庫)は、徳川幕府公認の体制保守学に変形させられた朱子学を教条主義的に読み直し、幕藩体制変革の思想に変えた横井小楠の思想と生涯を丁寧に追って分析したものである。小楠の思想は、幕府に完全には取り入れられなかったし、幕府の面子を重んじる姿勢や権威主義などの妨げなどがあって、参勤交代の廃止などの少しの政策しか実現しなかった。しかし、小楠はこの激動期にあって、体制を超えて必要とされ、新政府のブレーンとされたが、1868年(明治2年)、京都で尊攘派によって暗殺される。君主も天の道具にすぎないという彼の考えは、天皇を否定するものとなりかねず、その点を後の弟子たちが恐れて、小楠の思想を天皇制支持論に粉飾し、改ざんしようとした。小楠には、西欧列強の覇道国家による近代化に対する中・朝・日の王道国家(仁政を基本とする)同盟による近代化での対抗、後者による世界=天下の和平と繁栄というヴィジョンがあったと松浦玲氏は言うが、そういうもう一つの近代化の綱領(テーゼ)があったというのは興味深いことである。それは、勝海舟、西郷隆盛などと共通するということだろう。西洋覇道国家による武力威嚇による不平等条約の締結、それの破棄、攘夷の断行を迫る攘夷派が、政権獲得後は、西洋覇道国家の後追いを始め、実力をつけての条約改正という、かつて幕府が取った道を踏襲したことは、アジアとの関係で様々な問題を引き起こすものであった。近代化が必ず資本主義的近代化であるというのは信仰にすぎない。ソ連も近代化しており、中国も近代化しているが、それらは資本主義が制限されたかたちで近代化している。手段はどうでもいい、とにかく近代化すればよいというなら、軍艦で乗り込んできて、幕府を開国させたアメリカのやり方も結果オーライでよかったということになる。原爆を落として大量無差別殺人を犯してもオーケーだと認め、その後、平和で豊かな国になったじゃないか、アメリカが原爆を落としてそれを早めてくれたのだから、アメリカに感謝すべきだということにもなりかねないわけだ。

都市戸籍を取れない「農民工」の生活 成長する中国の裏側
2013.01.14

 北京(CNN) 北京郊外で暮らすグオ・ジーガンさん(30)の家は、薄汚れた隣室との壁がガムテープで貼り合わされ、ベッド1つと色あせたテーブル、イスが詰め込まれた、約5平方メートルの小さな部屋だ。トイレは20~30人の隣人と共用。グオさんはここで妻と息子と一緒に住んでいる。

 質素な生活を送りながらもグオさんは、家族の生活は良くなっていると語る。

 グオさんと妻のグォ・ヤルさん(26)は、農村部を離れ都市部に移住した約2億人の「農民工」と呼ばれる人々に含まれる。過去数十年の間に何億人もの労働者が、農村部から都市部へ移住し、職を得て貧困から脱出したという。

 だが中国の戸籍制度である「戸口」制度の下では、農村戸籍の者が出身地の農村を離れると、医療、住宅、教育などの公共サービスを受けられなくなることが多い。仕事面でも、工場や建設現場、食堂などでの不安定なものが多く、農民工と都市戸籍の住民との間には大きな格差が存在する。

 中国共産党機関紙の人民日報系「環球時報」は、農民工の窮状について、「自国に住んでいるのに不法移民のような状態だと言われている」と紹介した。

 一部の学者は戸口制度を、以前、南アフリカで白人と比べ黒人の権利を厳しく制限していたアパルトヘイト(人種隔離)政策になぞらえる。戸口制度の下では、農民工は都市では一時的な居住権しか得られず、自治体の中には、その権利取得に多額の支払いを求めるところもある。

 高層ビルの外壁塗装工として毎日10時間働き日焼けした顔のグオさんの将来の夢は、いつか店を持ち、今2歳の息子を中学にやることだ。自分たちは一生高い望みは持てそうにないので、子どもに夢を託すという。

 グオさんの妻は第2子を妊娠中。中国の「一人っ子政策」に違反するものの、1500ドル(約13万円)の罰金を支払ってでも出産するつもりだ。

 グオさんらの出身農村では、都市とは異なり、高齢になっても年金をもらったり老人ホームに入ったりすることはできないという。夫妻が第2子を望んでいるのは、子どもだけが老後の頼りとなるためだ。養育費の負担は増えても最低2人は必要だと夫婦は訴える。

 農民工の不利な立場は教育でも現れる。農民工の子どもは、都市戸籍の子どもと同じ学校へは通えず、私立学校の学費負担を余儀なくされるという。

 このような私立学校の一つで教鞭(きょうべん)をとっている作家のデビット・バンダスキー氏は、都市戸籍の子どもが通う学校との教育水準の差が大きく、「私立学校」と呼べるような代物ではないと憤る。

 同氏は、教育や機会が与えられないため、農民工の子どもたちの多くが親と同じような仕事に就くという悪循環はほぼ4世代にわたり続いていると指摘。「この15~20年は、社会の流動性が低い」という。

 こういった状況が中国社会の不安定要素となっている兆候もみられる。広東省では昨年来、当局の人間による農民工への暴行をきっかけに、農民工による暴動や都市住民との衝突が発生した。

 一部の家庭では、子どもを大学へ進学させることでこの悪循環を脱しようと希望をつないでいる。だがバンダスキー氏によると、それが成功する可能性は非常に低いという。

 グオさんは、「子どもたちにそんなに多くを望んでいるわけではない。学校へ行って一生懸命勉強してくれさえすればいい。自分たちと同じような仕事や生活はしてほしくないだけだ」と胸の内を明かした。

斉明天皇6年(660年)3月 [ウィキペディア]

遣阿倍臣<闕名>、率船師二百艘伐肅愼國。阿倍臣以陸奥蝦夷令乘己船到大河側。

    阿倍臣<名前は不明>を遣わして200艘の船を率いて粛慎国を討伐させた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗らせて、大河のほとりに着いた。

於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。々中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣」。

    そのとき、渡島の蝦夷が1000人ばかり海岸にたまって、河に向かって、いついていた。その中の2人が進み出て突然叫んで「粛慎の水軍が多く来て私達を殺そうとしているので、河を渡って(朝廷に)仕えたいと思っています、お願いします。」と言った。

阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數。兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘」。即遣使喚而不肯來。

    阿倍臣は船を遣わし、2人の蝦夷を召し、賊の潜んでいるところとその船の数を問うた。2人の蝦夷は即座に隠れているところを指して、「船は二十艘あまりです」と言った。そこで、(粛慎に)使いを遣わせて呼んだが、来ようとしなかった。

阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去。俄而老翁更來脱置換衫、并置提布。乘船而退。

    そこで、阿倍臣は色とりどりの絹・武器・鉄などを海岸に置き、(粛慎に)欲しがらせようとした。そこで、粛慎は水軍を連ねて、羽を木にかけて、挙げて旗とした。(粛慎は船の)棹をそろえて近づき、浅いところに止まった。ある船の中から2人の老人が出てきた。めぐり行って、置いてある絹などのものをとくと見た。すると、単衣替えて着て、各々布を一端持っていった。(粛慎は)船に乗って帰っていった。にわかに、老人がまた来て、服を脱ぎ、あわせて持っていった布を置いた。船に乗って退却していった。

阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和、遂不肯聽。<弊賂弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登臣馬身龍爲敵被殺。猶戰未倦之間。賊破殺己妻子。

   阿倍臣は、いくつかの船を遣わして、(粛慎を)呼んだが、来なかった。(粛慎は)弊賂弁嶋(へろべの島)に帰った。しばらくして、(粛慎が)講和を請うたものの、ついにあえて許さなかった。<弊賂弁(へろべ)は、渡島の一部である。>(粛慎は)自分の砦によって戦った。このとき、能登臣(のとのおみ)馬身龍(まむたつ)が敵(粛慎)に殺された。まだ戦っていやにならないうちに、賊は敗れて自らの妻子を殺した。

ウォールストリート・ジャーナル(2013年 2月10日)

米、「殺害対象者リスト」拡大―アルジェリア人質事件首謀者も標的

【ワシントン】米政府高官は、3人の米国人を含む37人の外国人犠牲者を出した1月のアルジェリア天然ガス精製プラント襲撃事件の首謀者を殺害、あるいは拘束の対象とすることを検討している。

 アルジェリア人のイスラム武装組織指導者モフタール・ベルモフタール容疑者を米国の「殺害対象者リスト」に加えることは、ソマリア、イエメン、パキスタンのみで展開されてきた無人攻撃機やその他の殺傷力の高い武器を用いた米国の対テロ作戦の範囲を北西アフリカまで拡大することを意味している。

 米国はこれまで、ベルモフタール容疑者とそのテロ組織――アルカイダ北アフリカ支部からの分派――に関する情報を同盟国に提供することに注力してきた。この戦略は、イスラム系武装組織が避難地としてきた北西アフリカでの対テロ作戦において米国が一定の影響力を確保するのに役立ってきた。

 米軍と情報機関高官がベルモフタール容疑者を標的リストに載せようとしている背景には、アルジェリア軍の作戦拠点となるマリ北部で、その武装勢力がフランス軍とアフリカ軍を敵に回したゲリラ戦に突入する可能性に直面しているということがある。

 複数の米国高官によると、リビアから流れた武器で武装しているベルモフタール容疑者とその組織は、複数の独裁政権に代わってより無秩序な政府が生まれた「アラブの春」の結果として歯止めが利かなくなったテロ組織の野心と戦闘能力がいかに危険かを示す好例となっているという。

 ベルモフタール容疑者の追跡に関しては、無人攻撃機、その他の攻撃機、あるいは米軍によるより直接的な関与を求める米高官もいる。そうした作戦で頼りになるのは、米中央情報局(CIA)と軍の特殊作戦部隊だという。

 米国政府は2001年の同時多発テロ直後まで遡る期間、秘密の「拘束または殺害対象者リスト」を維持してきた。米国防総省とCIAはそれぞれ別のリストを維持しており、そこにはアルカイダの現リーダーであるアイマン・アル・ザワヒリ、イエメンを拠点とする「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」で爆弾を製造しているイブラヒム・アル・アシリ容疑者が名を連ねている。2011年に殺害される前はビンラディン容疑者の名前もあった。

 テロ容疑者を詳しく調べてそのリストに追加するのは、ホワイトハウスを代表する高官たちだという。CIAによる無人攻撃機作戦は現在、パキスタンとイエメンに制限されているので、ベルモフタール容疑者は統合特殊作戦コマンドが監督する米軍の標的リストへの追加が検討される可能性が高い。

 オバマ政権下で拡大した標的殺害計画は、人権団体の非難こそ浴びているが、米兵を危険にさらすことなくテロ攻撃を防ぐという国家安全保障戦略に対する幅広い政治的支持を反映してか、今のところ議員たちからの批判は少ない。

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東北史、山鹿素行、アルジェリアでの人質事件

 引き続き、『山鹿素行』(吉川弘文館)、『エゾの歴史』(講談社学術文庫)、『平泉の世紀』(講談社学術文庫)に入る。

 『民衆史の課題と方向』(三一書房)で面白かったのは、「延暦十一年、諸国軍団兵士制停廃の一考察」(村岡薫)、「東北民衆史の源流――東北における名神式内社の成立――」(奥野中彦)、「一向一揆と寺内町の解体――服部之総『蓮如』をめぐって――」(太田順三)、「奄美群島における島民の主体的な行動について――『道之島代官記集成』記事の紹介を中心に――」(三木靖)、「「国民的歴史学」における民衆史の構想」(阿部恒久)である。最初のものは、延暦十一年の古代軍制改革が、征夷、蝦夷地における戦争遂行の必要から行われたもので、蝦夷勢力の前に敗退を繰り返した古代軍団の再編成を企図したものであることを説明したものである。蝦夷に対して劣勢に立った律令国家側が総力戦体制とも言うべき戦時体制を構築する過程での兵制の変化があったというのである。それを氏は「国兵士」制と呼んでいる。それは雑徭として臨時徴発で兵士を調達するもので、それによって、大量の兵士を調達したというのである。「東北民衆史の源流――東北における名神式内社の成立――」は、「古代の民衆生活をとらえるためには神について語らねばならない。神を語ることなしには古代の民衆生活をのべることはできない」(43ページ)と述べている。「むすび」では、「古代国家にとって東北は不逞の徒の巣くうところとしてあった。古代国家は東北人を統合に服さないもの=蝦夷とし、そのなかで統合に服しはしたがなお警戒しなければならない民を俘囚とし、身分的には公民=百姓と区別されるべき一段と民度の低い民とした。しかして古代国家にとって東北人=蝦夷は凶暴な叛服常なき人々であり、それ故にこそ、その統合には、はじめ征討・鎮圧が不可欠とされた。古代国家は東北人を未開野蛮の異民族視したが、その統合のプロセスで、古代東北人の信仰が信仰的に同質のものであることを知らしめられ、かつその信仰に生きる民衆の意を迎えることなしには統合の実があがらないのを膚に感じていった。そのあらわれが統合のプロセスにみられる東北諸神の叙位叙勲であって、延喜式による東北の名神、式内社の制定は、その意味で、古代国家による東北統合策の一大転換を物語るものであった。もとよりそれは、東北人にたいする国家の認識が根底的に改められたというのではない。以後、国家の東北統合は、“蝦夷により蝦夷を征す”という巧妙な統治技術に導かれるものに代わったにすぎないけれども、従来のごとき未開野蛮な異民族観をもって対する居丈高な制圧策をもってしては、到底東北を統合し得ないという認識に到達するにいたったのである」(61ページ)。人々の信仰への介入は、明治維新の際にも行われたことである。廃仏毀釈、神仏分離、神社合祀、大本教の利用と弾圧、仏教各派やキリスト教の一宗一派への統合強制策、戦時中の浄土真宗への教義解釈変更強制、等々。

 掘勇雄氏『山鹿素行』(吉川弘文館)は、山鹿素行の『聖教要録』などを読むための下準備のつもりで読んだが、どうも素行を買い被りすぎたのではないかと思わざるを得なかった。「万世一系」思想の祖と言われていたのだが、そうでもないようだ。掘氏によると、山鹿の基本思想は、徳川幕藩体制を保守する思想で、「人倫之大綱は君臣を以て大と為す。君臣上下の差別する処、聊か力を以てするにあらず、天地自然の儀則也」(192ページ)(山鹿素行『武教要録』)とあることに示されている。掘氏は、素行が、「君臣の関係は天地自然の道、天の命ずるところで人間の如何ともなし得ぬもの、従って未来永遠に廃絶せぬものと考え、下克上及び放伐革命は「天地の倒覆するに異ならず。」(臣体)と強く否定し、君と臣と「各々其の分の定まる所は、義の因る所」であるから、臣は臣たるの分に安んじ、君恩の重きを思い「日々奉公恪勤の思入怠るべからざる也」(臣体)と説いた」(同)というのである。

 素行の思想が、忠臣蔵の赤穂四七士の仇討ちに思想的影響を与えていたのではないかと思っていたが、どうもそういうことはほぼなかったらしい。堀氏はそのように断定している。そうすると、幕末の吉田松陰が素行を師と仰いでいるのは、松蔭流の独特の解釈があったのかと疑問が湧いた。素行は儒学・老荘・仏教・神道の融合という立場から進んで、儒教が、周という国のあり方を理想とするように、易姓革命なき万世一系の王道の中世までの朝廷を理想として対置したようだ。そして、素行は、記紀神話の世界にそれを見出したというのである。「古学」といっても、記紀の記述をそのまま受け取って、テキストの吟味もあまりしなかったという。

 アルジェリアでの誘拐人質事件で、死亡者の中に、イギリスのメジャーのBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)の副社長、日揮元副社長・最高顧問が含まれていることが明らかになった。これらのエネルギー関連企業のトップが集まっていたところを武装集団に襲われたのである。日本人10人が死亡した大事件の割りには国内での反応が小さいように思う。それではすまなくなっていくだろう。無人島をめぐってあれほどの大騒ぎをしながら、死者が出た事件がこれほど小さく扱われるというのは不思議である。2010年から2011年にかけての「アラブ民主化」が、アルジェリアの隣のチェニジアから起き、エジプトで政権を覆し、最後はリビアへのフランスを先頭とするNATOの空爆とカダフィの殺害で一区切りされた後、北アフリカで何が起きていたのか。謎の多い事件だ。この間のフランスの北アフリカでの行動は、帝国主義的である。しかも、フランスで政権をとっているのは社会党である。かれらは社会帝国主義者である。

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民衆の力と物語の力

 『日本残酷物語5』、『忘れられた日本人』読了。中国、あるいは東アジア問題に入る。そして、『東北学』へ。また、『季刊三千里』も集めている。

 『日本残酷物語5』の解説は、ガヤトリ・スピヴァクのサバルタン論などを学んだカルチュラル・スタディーズ系の学者の人で、民衆は自己を語れるかという問いを立てている。ここに採取されている話は、膨大な聞取りの一部であり、それを編集したものである。当然、聞き手の問題関心や編集者の問題関心が反映したものとなる。記録そのものとそれから作られたものは当然違う。宮本常一は、物語を語り伝える人は、できるだけ聞いたままをそのまま覚えて伝えようとし、文書を使う人は、どうしてもそういうものから影響されて話を変えてしまう傾向があるという。しかし、語り継がれてきた物語も変化したり、伝承が絶えたりすることがある。例えば、『古事記』には、稗田阿礼という者が物語を沢山記憶していて、その語りを書き記すことで『古事記』が成立したように書いてあるが、実際には、朝鮮半島で書かれたものを参照にしていることが書かれている。

 3・11を人々はどう体験し、それを物語るか、福島第一原発事故の体験をどう物語るか、そこにこそ、これからの民衆の闘いの内容が生み出されているのであり、それと、安倍自民党が語っている「復興」物語との闘いが今後本格化するのである。安倍復興物語への拒否は、投票率の大幅低下として突き出されているのである。宮本常一からは、方法を含めて、民衆の力を発展させるものを学び取ることができると考える。

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柳田国男『海上の道』、『日本残酷物語5』

 柳田国男『海上の道』読了。『日本残酷物語5』(平凡社)と『忘れられた日本人』(岩波ワイド文庫)に入る。柳田の『海上の道』は、沖縄のことが中心だが、もっと広く、常世(トコヨ)の世界のことを扱ったものである。柳田は最初に童謡で有名な椰子の実の浜辺への到着のことから始めている。海岸に打ち寄せられる漂着物を寄物と言ったそうである。山の方の育ちなのでそういう言葉は聞いたことがない。『日本残酷物語』の方には、難破船の積荷を盗む海辺の村の話がある。目の前の海(磯)で難破して沈んだ船の荷物は、古来はその海浜の村のものとなったが、だんだんにそれは盗賊行為とされるようになったという。面白いのは、ネという言葉で、例えば、根の国と言えば、地下の国と思い、それは古墳の構造と関係があるという解説がなされてきたが、柳田の説はまったく違って、それは海の彼方の方のことだという。確かに、今日でも、根には、地下に張る植物の根という地下に通ずる意味もあれば、根本などという場合のように、元のところという意味もある。それから、言葉の変化もあれば、物語の変化もあり、それがどのように、また、どうして変わったかなどが追求されている。また、比較が重要であるとも言われている。そして推測という方法が重要であるとも言われている。仮説を積極的なものとして提示せよという。柳田は、まるで、ヘーゲル論理学が推理を重要としているのをなぞっているかのようだ。そして、一国民俗学の形成の必要性がなんどか指摘されている。この点が、批判の的となっている。その際に、水田稲作中心主義が基本となっていると思われるのは、「稲の伝来は、私は国史の第一章をなすべきものと思っている」(297ページ)というようなところであろう。

 解説で大江健三郎氏は、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の「おもろさうし」研究を継ぐ外間守善氏の琉球尚真王時代の大改革の意義を述べた文章を引用しつつ次のように言う。

 古代と民俗の古層にむけて想像力を働かせる。それを漫然たる空想におちいらせぬためには、想像力にダイナミックな力と指向性をあたえるための基盤がなければならない。そのような基盤として誰の眼もそれをとらえるのは、あらためていうまでもなく、神話と歴史のあいかさなる転換期の、それも歴史の側から科学的な確かめをおこなうことが可能な時期、わが国では天皇制国家の支配体制の確立期であろう。柳田はたとえば次のように書く、それはこの微妙な時期についての、科学性をもつ表現というにふさわしいものだ。《皇祖天皇が始めて中つ国に御遷りなされた時には、すでにそれ以前からの来住者の、邑里を成し各々首長を戴いている者が少なくなかった。国津神の文化のやや低級であったことは、大祓の祝詞からでも窺われるが、おそらくは語言はほぼ通じ、したがって相互の信仰は理解し得られ、烈しい闘諍をもって統一を期するまでの、必要はなかったかと思われる》。このような基盤をまず置いて、そこからわれわれの想像力が古代と民俗の古層にむかう時、そのようにつくられる思考の、「仕組み」は、想像力に指向性とダイナミズムをもたらすだろう。(322~3ページ)

 実際には歴史学が明らかにしたように、「烈しい闘諍をもって」統一が行われたのだが、ここで大江の言っているのは、そういうレベルのことではない。

 ……柳田のいう「なつかしさ」が、民俗の古層を指向して強く跳ぶ、心のあり様を示す言葉なのはあきらかだが、現在、自分がいる時間・空間の場所、その限界に閉じこめられている現状から、それを超えるところへ向けて跳ぶ、そのような指向性をそなえた心の動きに誘うことにおいて独特である。そのようにしてわれわれを民俗の古層へと、われわれの閉じこめられている時・空の限界を超えてゆかしめる勢いにおいて、独特に想像的である。(326ページ)

 このように想像力の問題として、柳田の言葉をとらえているのである。

 この度、極めて想像力に欠ける安倍自民党政権が誕生した。彼の選挙演説は、俗物趣味に溢れ、即物主義的で、それに「美しい国」などという無内容な飾り言葉を貼りつけただけのものであった。今度の選挙結果は、石破自民党幹事長が、あるNHK番組の中で認めた通り、「消極的な選択」の結果でしかなかったのであり、ただ安倍が公約したインフレ策が投資家に受けて株価をいたずらに引き上げたのはむしろ近々の失望の発生を予示しているに過ぎない。ちょうど、日本の一人あたりGDPがOECD諸国中昨年と同じ14位であるが、それは円高でドル換算するとそうなるだけだということを報じた記事を見たが、安倍政権はそんなようなものである。物価を政策によって完全にコントロールなどできようか。できるなら、とっくに他の国々でもやってるだろうに。

 いずれにしても、バブルを頂点とする戦後日本経済のピークは終わっているのであり、その後、20年もの間、停滞が続き、総中流幻想はとっくに破れ、階層分裂は進み、下層は拡大している。そうすると、『日本残酷物語5』は「近代の暗黒」というタイトルだが、それもリアリティを増している。ただし、ここには、マルクス主義者の一部に受け継がれた封建遺制の残存の強調(講座派)や悪の暴露にとどまりかねない傾きもあることには注意が必要である。そこから可能性をも見出し目的意識性を持たねばならない。そのためには、そこでの共同性のあり方や内容をつかむことが重要である。そして、想像力。例えば、「女工哀史」もあるが、1920年(大正9年)の富士ガス紡績の1800人の友愛会紡績労働組合押上支部の「組合権擁護」を掲げたストライキの話もある。逆に、柳田は、米の栄養源としての重要性よりも、それを人々が、常食とせず、ハレの日の食べ物として信仰と結びつけていた面を『海上の道』で強調して、水田稲作中心主義を唱えているように見えるのは、イデオロギッシュである。『日本残酷物語5』の方は、それを「女工哀史」を再生産する農村の封建制の基盤と見ている。

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宮本常一4

 『日本残酷物語4』(平凡社ライブラリー)を読み終え、柳田国男『海上の道』(ワイド版岩波文庫)に入る。『日本残酷物語4』は、「保障なき社会」というタイトルがついていて、社会保障などなかった時代の残酷な物語が次々と描かれている。共同体の相互扶助や保障というものもあったが、それは明治以降の私有制度の浸透、商品経済・貨幣経済の浸透によって崩れ去り、老人たちから「貧しくとも平和だった昔の方がよかった」という嘆息が聞かれるほどに庶民の零落は激しかった。同じような嘆きは、ソ連崩壊後のロシアでも聞かれたという。

 明治政府の零落者への救済策とは、北海道開拓などの開拓地や海外移民であり、それには「棄民」に等しいものが多かった。それと並行して、場所請負制の下で搾取・収奪され、抑圧され、人口も減少せしめられ、滅亡の危機に瀕したアイヌが、明治の「旧土人保護法」でさらに差別扱いを受け、さらなる苦難を強いられていた。他方、薩摩の琉球支配以来、琉球国府と薩摩の二重の重い搾取・収奪に苦しめられてきた沖縄の多くの人々が、海外移民になり、海外へ活路を求めていく。そこでは本土出身者(ヤマトンチュー)から差別を受けたという。最初の方には、山の所有権の明確化という明治政府の措置で、大きな土地を持つのは税金が多くかかって負担となるだろうから、国有地とするようにという役人の温情主義によって山の多くが国有化された場合があったが、たいてい逆の結果となって、かえって、後のち、山村の村人を苦しめることになった例が紹介されているが、今日も教訓として十分活かされるものと思う。一部右翼に見られる温情主義は、お上の温情にすがり、民の苦しみを軽減しうるかの幻想をふりまくものだが、結果はかえって庶民を苦しめることになることが多いのである。あくまでもそれは人々の権利として獲得すべきであり、権利として大事にすべきことである。唐の基礎を築いた二代目李世民を描いた中国の歴史ドラマを観ていたら、「天とは民である」と太宗李世民が述べるシーンがあった。天=民なら、天の声は民の声であるということになるのだが……。

 かつての自然条件の厳しさは半端なものではなく、例えば、青森県斗南地方は、官軍に敗れた会津藩旧士族が移住・開墾させられた地だが、ほとんど生計を立てるだけの作物の収穫もなく、多くの命が失われた。奈良県十津川郷が大水害に見舞われた後、再建不可能として、その地から多くの人々が北海道へ移住した。その北海道へ渡った移住者たちには、未開の原野での開墾で苦汁をなめつつの厳しいサバイバルを余儀なくされた者が多い。それをしり目に開拓利権をめぐる官僚や政商の争いが繰り広げられたのは、あさましい話である。もちろん、北方から南下しつつあったロシアへの国防上の備えということが明治政府の北海道開拓政策では強かったから、江戸期に水戸派の会沢正志斎が『新論』で主張した北辺の備えを兼ねた開拓農民である屯田兵が明治最初の北海道移住開拓者であった。こうした日本資本主義原始的蓄積物語は、今日の利ざや稼ぎに奔走する金融資本主義の姿とどこか似ているものがあるような気がする。   

 『宮本常一 旅の手帖〈庶民の世界〉』(八坂書房)に、東通原発の村の1963年の姿が書き留められている。

 下北の北部、とくに東通村は部落と部落の間の間隔がひろい。近くても一キロあまり、遠いところでは二〇キロもある。それに一つ一つの部落の戸数が少ないので、一つ一つの部落は孤立しがちであった。道の改修なども部落の力ではどうすることもできなかった。それに民有林は巨木がびっしりと茂って道はその中を細々と通っていたのである。まずクリの木が多かった。ひとかかえもあるようなクリの純林が何キロというほどつづいており、マツの大木の林があった。そうした林をぬけると牧野がひらけていたのである。原始林の中には獣も多かった。わけでもクマが多くて、それがときには牧野の牛を何頭もたおした。また、イノシシも多かったし、カモシカも多かった。イノシシは畑作をあらした。野獣の被害が大きくてどうにもならないときは恐山西麓にある畑というマタギ部落からマタギをまねいて狩をしてもらうこともあった。
 それほど生えていた巨木が明治、大正、昭和と時代を経て来る間にすっかり刈りたおされて、あとは雑木山になってしまった、そしてこのあらあらしい天地が妙に明るくなって来た。と同時に広い道も通ずることになった。それにしてもこの波野の樹海の中にある部落の一つ一つは今もなおいろいろの荷を背おわされている。学校をたてるのも、道をつけるのも、その費用の大半は部落自身での負担を要求される。部落がひろい共有林をもたねばならぬのもよくわかるのである。
 部落をしばり部落を統一し、また部落がきびしい掟の中に生きなければならなかったのは、その環境のきびしさによることが多かった。
 道がよくなり人の往来にエネルギーをそれほどつかわなくなると、人びとは村のうちのきびしい紐帯をといて次第に村をすてるようになってきはじめた。(同79~80ページ)

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宮本常一3

 『日本残酷物語Ⅱ』『日本残酷物語Ⅲ』『旅の手帖〈庶民の世界〉』を読了。『日本残酷物語Ⅳ』に入る。琉球弧の話が出てきたので、前から読もうと思っていた柳田国男の『海上の道』も読むことにした。Ⅲの解説は、京都部落史研究所の所長を長く務めた師岡祐行氏が書かれている。氏が亡くなってずいぶん時日が経つ。京都にいた頃、何度もそのお話をうかがったことがある。氏の『部落解放論争史』全5巻は、記念碑的な仕事としてある。たまたま友人が修士論文で使ったのをもらい受けたのを持っている。

 師岡氏の解説は、「希望の芽のなかに」と題されている。書かれたのは、この本が平凡社ライブラリーで再刊された1995年である。1995年は、2011年3・11が記したような時代の転換期を示した年である。師岡氏の解説は、以下のように始まっている。

 1995年。3月が終わったばかりだ。だが1月17日の阪神・淡路大震災、それに円高、さらに3月20日の東京の地下鉄におけるサリン事件、オウム真理教にたいする連日の捜査、同月30日の警察庁長官狙撃事件など、思いも寄らぬできごとが、つぎつぎと起こり、かつてない不安がこの国をつつんでいる。50年代末、このシリーズの編者たちが、はっきりと認めていた「異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱」の行き着いた先がこれであった。これが始まりでなければよいのだが、21世紀を前にして不気味な悲劇が私たちをおそっている(578ページ)。

  2011年3月11日、このシリーズの編者たちが指摘したことの行き着く先の「不気味な悲劇」が再びわたしたちを襲った。師岡氏があまりにも的確に今日の事態を予想していたことに驚く。しかも、わたしたちをさらなる「不気味な悲劇」に導きかねない選挙結果が出たことに二重に驚かされた。人為的なインフレ政策をとって、「異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱」を加速させることを公言する自民党安倍が大勝したのである。民主党野田も自民党安倍も共通して醸し出している楽天的ムードは被災地に「復興」話としてばら撒かれているが、根拠の薄いもので、師岡氏が95年の諸事件に感じたニヒリズムを基調としているように思われる。師岡氏は、部落に関する史実の誤りを指摘しつつも、60年安保闘争に示されたロマンティシズムをこの書に見出し、「その再現は望むべくもないにしても、少なくとも歴史をどのように捉え直すかの鋭い問いを発していることだけは受け止めたい」(同385ページ)と述べている。それは、実証主義批判としてあり、「歴史叙述とはいかなるものかを問いただすものになっている点は見逃せない」(同)と評価している。この書が刊行された1960年から30年たった時点で、氏は、「部落の生活はこの30年で大きく変わった。劣悪だった状況は改善された。そのなかから部落差別は解消しつつあるという主張もみられる。だが、いぜんとして差別事件はあとを絶たないのであり、新たな条件のもとで「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という「部落の民」の冒頭に引かれた全国水平社創立宣言の結びの言葉の実現をめざすことが求められる」(同)と述べている。そして時代を診断して次のように言う。

 世紀末、私たちは荒涼としたニヒリズムの世界のまっただなかに立ちつくしている。本巻が主題においた鎖国の時代とはちがって、国際化が市場の課題とされ、欲望の無限の開放を是とする市場原理が讃えられてきた。物質中心の世界、心は荒廃にまかされ、環境の破壊は列島ばかりか、地球をおおいつくしてなすすべもない。悲劇はこの絶望的状況のなかに生じており、かつての時代のそれよりも一層に深い。(586ページ)

 氏は希望を阪神大震災の際のボランティアや相互扶助で活動した若者たちに見出そうとしている。宮本常一もまた武蔵野美術大学で教えるようになって、「地理とか歴史とか、さらにこまかく美術史とか生活史とか、学問をこまかく分類してそれを身につけていく、いわゆる論理的であることにはそれほど興味を示さず、どうしたら人間の本質を知ることができるか、人間のエネルギーとは何であるか、人間の英知とはどういうものであるかを知りたがった。ただ衝動的にではなく秩序をたて実践を通して知りたがった」(『民俗学の旅』講談社学術文庫 201ページ)学生たちに希望を見出している。それから、彼にはこういう弁証法的な文明観もある。

 文明の発達ということは、すべてのものがプラスになり、進歩してゆくことではなく、一方では多くのものが退化し、失われてゆきつつある。それをすべてのものが進んでいるように錯覚する。それが人間を傲慢にしていき、傲慢であることが文明社会の特権のように思いこんでしまう。そういうことへの疑問は、現実の社会のいろいろのことにふれていると、おのずから感得できるものである。そして生きるということはどういうことか、また自分にはどれほどのことができるのか。それをためしてみたくなる。ところで今の日本ではそれすら容易にためすことができない。自分自身の本当の姿すら容易にみつけることができないのである。(同203ページ)

 「原子力ムラ」は傲慢で、自分自身の本当の姿をみつけることができていない。さらに。

 日本の古い支配者の中には「自分だけは別だ」という意識が強かった。今もその意識は強い。その中からほんとうの連帯感は生まれるものではない。しかも、その連帯感は、人間はみんな平等なのだ、生きるということ、生きなければならないということ、生きのびなければならないという共通の意識の上に立っていることによって生まれる。(同208ページ)

 「原子力ムラ」は、こういう連帯感をまったく欠いている。そういうことへの批判や疑問は古くから存在してきた。

 青森県上北地方の農家の主婦の手紙を読んだことがある。上北地方が開発されるということになって、その計画図を見せてもらった。その地図には地元住民の知らぬ間にたくさんの赤線がひかれてそれによって開発がすすめられようとしていた。そういうことが許されていいのか、自分たちが東京の町へ赤線をひいて改造計画をたててもそれはゆるされるのかという意味のことが書いてあった。なぜ地方は中央の言いなりにならねばならぬのか、なぜ百姓はえらい人の言いなりにならねばならぬのか、という主婦の訴えに対して正しく答えられるものがどれほどいるのだろうか。(同214~5ページ)

 福島第1原発事故後、再び鋭く問われたのはこのことではないだろうか。かつて成田空港反対闘争の中で、「三里塚を緑の大地へ」というスローガンが出されたことがある。それなら、今、「首都圏を緑の大地へ」というスローガンが掲げられてもよいのではないか。宮本常一は、「私は地域社会に住む人たちがほんとうの自主性を回復し、自信を持って生きてゆくような社会を作ってもらいたいと念願してきた」(同215ページ)という。これは未だに願望に留まっている。これは佐藤栄佐久元福島県知事の願望でもあった。

 宮本は、中央政府への地方自治体の依存が強まったのはシャウプ税制の実施以後だと指摘している。

 ……税収の中のもっとも大きい所得税を政府が掌握してこれを地域社会に分配するようになると地方自治体の責任者たちはその配分の多いことを求めて、眼が中央を向かざるを得なくなる。いま一つ地方自治体は住民税・固定資産税・事業税などによって運営されているが、税収をふやそうとすれば、大企業を誘致して固定資産税を取りたてることが一番安易な方法になる。しかし企業の経営主体は多く東京・大阪などの大都市にあって地生えの資本であるものは少ない。そのことが、地域社会に対して配慮の少ない経営をとることになる。乱開発といい、公害たれ流しといったような現象がいたるところに見られ、地域社会はかつての植民地そっくりの有り様になり、地方自治体は大企業の利潤のおこぼれで運営される部分が大きくなっていった、それが地域住民の自主性を失わせていった大きな原因の一つになるのではないかと思った。それを地域住民の自覚と実践力を主体にした振興対策がとられないであろうかと思った。(同216ページ)

 こうしたことが早くに実現していたら福島第1原発事故など起こらなかっただろうし、たとえ事故が起きたとしても、今のような「棄民」と呼ばれるような事態にはならなかっただろう。

 宮本は最後に以下のように述べている。

 私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。
 進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらが鈍っているように思うことが多い。
 多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかしなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。  
 大事なことを見失ったために、取りかえしのつかなくなることも多い。猿の調教を見ていて、今日の人間の教育にすら、何かが失われているように思えることがある。人間は人間であるとともに動物であるのだということを考えさせられた。 これからさきも人間は長い道を歩いてゆかなければならないが、何が進歩であるのかということへの反省はたえずなされなければならないのではないかと思っている。(同235ページ)

 「原子力ムラ」には「何が進歩であるのかということへの反省」が欠けている。これとレーニンの「アメリカ労働者への手紙」の一節を比べてみよう。

 ブルジョアジーとその下僕(わがメンシェヴィキやエス・エル右派をもふくめて)が世界中にむかってわめきたてているわれわれの誤り100にたいして、偉大な英雄的な行為は1000にものぼっている。しかもそれらの行為は単純で、目に見えず、工場地帯や片田舎の日常生活のなかにうもれており、成功のたびにそれを世界中にわめきたてることになれていない(またその機会もない)人々によっておこなわれたものだけに、ますます偉大で英雄的なのである。(レーニン全集 第28巻 大月書店 64ページ)

 レーニンは、無名の労働者や農民など民衆が実践する日常生活の変革行為を「偉大で英雄的」と述べている。宮本常一が、故郷の島(山口県周防大島)の対岸の光市で、猿回しの復活に力を入れたのは、人々の日常生活の変革という偉大で英雄的な行為をそこに見出したからだろう。宮本は、自らの農業経験を聞き取りに役立てると同時に農業技術の伝播・改良にも努めた。学ぶものが多い。

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宮本常一2

 宮本常一の3冊読み終え、次に、『塩の道』(講談社学術文庫)、『日本残酷物語Ⅱ』『日本残酷物語Ⅲ』(平凡社)、『宮本常一 旅の手帖 〈庶民の世界〉』(八坂書房)を読んでいる。『塩の道』は3時間ほどで読んだが、そこには、塩づくりの技術、運搬・流通、文化などが書かれている。西武・国土の創設者の堤康次郎が軍用地の払い下げを受けて作った塩田の跡地に、福島第一原子力発電所が作られた。『民俗学の旅』(講談社学術文庫)では、とくに、「16 雑文稼業」、「17 若い人たち 未来」というところで展開される宮本の思想は興味深いものであった。『日本残酷物語Ⅰ』もそうだし、『聞書 忘れえぬ歳月 東日本編』(八坂書房)もだが、固定観念が次々とひっくり返されていって、とても面白く楽しい。快=好(ハオ)。

 例えば、それらでは、米中心の食生活が昔から中心であったという固定観念が否定され、アワという作物が古くは多く食されていたことや、魚、木の実、畑作物、焼畑作物、獣肉など、多様なものを食していたことが明瞭に浮かび上がってくる。それから、善良なる「子羊」的な農民像や漁民像など、近代以降に作られた民衆像は、『日本残酷物語』ではひっくり返され、残酷であらざるをえなかった民衆の姿が明らかにされている。江戸時代の三大飢饉(享保、天明、天保)の際の飢餓のすさまじさは、身にせまるものがあるが、そこに人災の要素が強く働いているということも指摘されている。そもそも、年貢の負担が重いということがある。さらに、飢饉の救済を妨げ、拡大させた要因には、余裕のある藩が自藩内から食料が外へ出るのを防ぐ措置を取ったこともあった。

 また、『聞書 忘れえぬ歳月 東日本編』でも青森県下北の地の村の聞書で浮かび上がってきたことがあり、その土地に人が定住したのは比較的新しく、しかも鉱山仕事で来た人々は鉱山の閉鎖などによって他所へ行ってしまうなど、人の出入りもけっこうあったということである。土地所有制度、自然条件、生産物の変化などによって、住居の移動もあったという。むつ市、東通村など、現代の原発立地にいたる歴史的背景というものも垣間見えた感じがする。この本では、福島県白沢村(現本宮市)のことも書かれている。白沢村は、三春町と接していて、阿武隈山地の中にある。ここの村が開けるのも比較的新しく、養蚕農家が多い。養蚕業の盛衰は、自由民権運動と関連が強い。それは色川大吉氏が明らかにした三多摩自由民権運動の歴史からもうかがえることである。

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第1期東北学

 ようやく第1期東北学全10冊が揃った。編集責任者の赤坂憲雄氏の思考がすごいなと思うのは、以下のような考え方を持っているからである。それは、一言で言えば、方法論に関する弁証法的な考え方である。

 それに対して、歴史認識論争において、上野千鶴子氏が、歴史学の方法論の転換を強調してやや他の論者とずれた論を展開していた。歴史学における「言語論的転回」ということを上野氏は強調して、歴史実証主義を批判したのだが、実証主義批判としては、すでにマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュ―メル18日』などの著作による遂行例がある。それに、マルクスは、『資本論』序文で、研究の方法と叙述の方法が違うということを言っている。物語性・文学性ということと歴史学は結びついていて、それはカルロ・ギンズブルグの指摘しているとおりだと思う。それらを厳密に分け得るという信念が、近代実証主義歴史学を支配していたわけで、それが、あの歴史認識論争で俎上にのぼせられたのである。歴史の問題というのは、そうした学問上の方法論をつねに脅かす歴史的事実への存在感覚を基礎にしているということを忘れると、上野氏のように、「言語論的転回」という認識論上の新思想が歴史を見る場合の決定的因子になるように思われてしまうのだ。物語・歴史の中にリアリティを嗅ぎ取る嗅覚なしに、歴史学はありえないということである。ギリシア神話からトロイの存在を嗅ぎ取ったシュリーマンのような感覚が必要なのだ。「言語論的転回」のように、存在を言語に切り縮めてはいけないのである。上野氏は、『ナショナリズムとジェンダー』などで、吉見義明さんなどを歴史実証主義と批判したが、吉見氏の『従軍慰安婦』(岩波新書)を今改めて読むと、このような仕事があったおかげで、歴史修正主義を破綻に追い込むことが容易になったことがわかる。明らかに、この闘いにおいてこの書が左派の側に役立っていることを率直に認めるべきだ。

 「わたしたちはもはや、国境に閉ざされ、中心のシンボリズムや力学に呪縛されてあった、これまでの『日本の歴史』に身を寄り添わせることはできない。中心と周縁の構図の内側に封じ込められてきた、これまでの歴史観は無効を宣告されつつある。国家とは何か、民族とは何か、という根源の場所に立ちもどって、すべての歴史は改めて構築されねばならない。いま、どこかしこで、ひとつの中心に支えられた『ひとつの日本』が壊れていく。国境が沈んでいく。そうしてその屍を踏み越えて、『いくつもの日本』を抱いた、あらたな列島の民族史が、やがて姿を現わすだろう。古めかしい物語や神話への回帰では癒されぬ、救いがたい現実をこそ凝視しなければならない。これは『ひとつの日本』から『いくつもの日本』への転換の現場である」。
 注意しておきたいことは、「いくつもの日本」とは目的やゴールではなく、方法にすぎないということです。……「いくつもの日本」という方法的なベクトルは、それゆえに、いずれ乗り越えられていくものだと思います。(『東北学』VOL.8 作品社 4ページ)

 「「いくつもの日本」という方法的なベクトルは、それゆえに、いずれ乗り越えられていくものだと思います」

 素晴らしい!

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9月25日難民講座の案内

難民問題講座

「国連大前座り込みから7年 難民問題を考える」にご参加を!

 今も世界各地で新たな難民(亡命者)が生まれています。近年の難民発生数のトップ2はアフガニスタンとイラクで、アメリカが「対テロ戦争」を行っている国です。その他世界各地で内紛・人権侵害・経済困難などで難民が発生している国・地域があります。日本にも、世界各地から、多くの人々が難民認定を求めてやって来ています。

 難民条約(難民の地位に関する条約)は、その前文で、世界人権宣言に基づいて、「すべての国が、難民問題の社会的及び人道的性格を認識して、この問題が国家間の緊張の原因となることを防止するため可能なすべての措置をとることを希望」するとして、難民の庇護を全ての国に求めています。しかし日本政府は、1981年に難民条約批准国となりましたが、これまで年に数十人程度の難民認定しか行っていません(2009年は30人)。

 また、難民申請者に対する日本政府の支援は、まったく不十分です。さらに、入管当局や収容所の難民に対する取り扱いは、難民の人権をかえりみない、問題の多いものです。 日本に庇護を求めている難民申請者は、いつ入管に収容されるかもしれない恐怖、帰れば命の危険がある本国にいつ送還されるかもしれない恐怖と闘いながら、裁判の長期化などで生活難に陥ったり、健康を害したり、精神的苦痛に見舞われたりしています。 わたしたちは、政治的その他の理由で、祖国で迫害され、この国に庇護を求めて来た難民をサポートする活動をしています。9月25日、わたしたちは、難民問題への理解を深め、難民支援を広く呼びかけ、共に問題解決への前進をかちとるための集いを持ちたいと思っています。

今回は、豊富な石油資源を有しながら、多くの人々が貧困に悩み、武装勢力が反政府活動を行っているなど政治的にも不安定なナイジェリアの基礎知識を学び、ナイジェリア難民がなぜ日本にいるのかの背景を理解していきたいと思います。そして、難民への非人道的扱いを続ける入管の現状について、また、難民問題の基礎、そして何よりも難民の置かれている状況を知ること等々を通して、難民に冷たい日本政府の姿勢を正し、難民問題解決を前進させる一歩としていきたいと考えます。多くの人々の参加を訴えます。

◆9月25日(日) 1時45分~4時45分(1時半開場)
◆板橋区グリーンホール 502号室
板橋区栄町36-1
電話番号:03-3579-2221
東武東上線 大山駅下車徒歩5分
都営地下鉄三田線 板橋区役所前下車徒歩5分
◆報告
①日本の難民行政の現状
②入管収容所は今・・・
③ナイジェリア難民を生み出す背景
◆難民からのアピール
◆質問、自由討論
◆資料代500円

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