思想

フォイエルバッハ・テーゼをめぐって(第3回)

廣松渉氏と「フォイエルバッハ・テーゼ」

 「フォイエルバッハ・テーゼ」について何かを言うとなると、日本では、廣松渉氏の残した仕事を無視するわけにはいかないことはいうまでもないことである。もちろん、氏は、「フォイエルバッハ・テーゼ」についても、考察されている。ことに、第六テーゼを中心にした氏の論考は、人間論・存在論の次元での「近代的地平」の超克という氏の壮大な仕事の中で、中心的な位置を占めている。

廣松氏の『マルクス主義の地平』(勁草書房)は、一九六三年から六九年にかけて書かれた論文を集めたものである。ここに集められているのは、人間論を中心にしたものであり、そこで、氏は、第六テーゼを基本にして、マルクスの人間概念を論じている。氏は、この前後、六八年には『マルクス主義の成立過程』(至誠堂)、七二年には『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房)を出版しているが、これらは相互に関連している。ただ、ここでは、「フォイエルバッハ・テーゼ」に関係すると思われる部分に限って、多少の検討を試みるだけであることを最初にお断りしておきたい。

 廣松渉氏の『マルクス主義の成立過程』は、初期マルクスから後期におけるヘーゲル弁証法の転倒までのマルクスの思想形成過程を追った諸論考を集めたものであるが、その中の「初期マルクス像の批判的構成」という文書で、氏は、マルクスの初期の思想形成過程を、ヘーゲル左派との関係を軸に追っている。「フォイエルバッハ・テーゼ」について書かれているのは、主にこの文書なので、それから見よう(ただ、『マルクス主義の地平』には、この文書をめぐって起きた議論について良知氏に答えた「追記―良知力氏のご批判によせて」という文書があるが、これは『初期マルクス像の批判的構成』をめぐる議論なので、あわせて取り上げる)。

マルクスが「ライン新聞」の編集長になった一八四二年頃は、ヘーゲル左派の三極(パウエル、アーノルト・ルーゲ、モーゼス・ヘス)が分解状況にあった。マルクスは、最初にパウエル派と、続いて、ルーゲと決裂することになる。パウエル派とは、「ライン新聞」時代に、そして、ルーゲとは、四三年三月に「ライン新聞」が発禁されてから、パリに移って、同年の秋に「独仏年誌」を共同で一号出した後に、決裂した。廣松氏は、この時期に、マルクスに、ヘスの影響が入ってきたと言う。そして、マルクスは、四四年の春から秋にかけて、パリで、『経済学・哲学手稿』を書くが、それは、「着眼と発想だけでなく、数々のキャッチフレーズやレトリックに至るまでヘスの論稿と著しい一致を示している」(同前三四頁)という。廣松氏は、ヘスは、四一年から、「チェスコウスキーの指摘に則って「歴史をさまざまに解釈し説明してきただけの歴史哲学」から「歴史を変革する実践」「行為の哲学」への転換を図」(同前三一頁)っていたという。そして、ヘスの「行為の哲学」は、「固有の主体概念」、すなわち、「デカルト以来のコギトに代えて、人間を自己活動Selbsttat, Selbstbetätigungの主体として把え、しかもこの人間を本源的に社会的な存在として把える。ここにおいて人間の本質は協働Zusammenwirkenにあるとされる。「この協働こそが個人の現実的本質である。……思惟や行動も専ら協働から生ずる。……《精神》という神秘的な名で呼ばれているところのものも……この協働にほかならない。協働がはじめて生産力を現実化する、云々」(Ib.S.330f. Vgl. S.210. S.228. S.275. S.287)。ヘスは、人間を単なる類的存在、単なる共同体をなす存在Gemeinwesenではなく、協働をなす存在、協働存在として規定し、社会的な仕方で労働する存在というこの主体概念のもとで、彼のいう「自由」の概念、それの真の実現としての共産主義、これを実現するための現実的・歴史的諸条件、遡っては社会経済のメカニズム、等々を説くのである」(同前三一~二頁)。

廣松氏は、『経哲手稿』におけるマルクスの「この作業は、より大きな射程でいえば、旧来の姿勢―すなわち、市民社会的状態の不当性を恰も自明の理のごとくに扱い、これに対して「類が個として実存」する真の人間的共同体を対置するという姿勢―を蝉脱して、今や、 市民社会的状態の非本来性が奈辺にあるか、② この非本来的状態の成立した必然性、③ この状態の自己止揚の必然性とその行程、④ そこに招来さるべき人間の即自対自的な在り方、これを歴史哲学的なパースペクティヴのもとに解明していくという新しい視座の設定を意味する。いわゆる三つの源泉の総合的統一が可能となったのもこの視座のもとにおいてであって、ここに『経哲手稿』がマルクスの思想形成に対してもつ劃期的な意義があったということができる」(同前三四~四頁)と述べている。

 そして、廣松氏は、マルクスが、『経哲手稿』では、「フォイエルバッハとヘスとの中間の立場にあった」(同三六頁)とし、その標識を、主体概念の設定の仕方に見ている。すなわち、「マルクスもヘスも、人間を 社会的存在、② しかも自己活動、労働の主体として把握する点では慥かに一致する。しかしながら、③ マルクスは、人間が自然存在であるという面をも同様に強調し、しかもその際、「自然は人間の非有機的身体である」(Ib. S.87)という特殊フォイエルバッハ的な含意を残している(ヘスにはそれがない)。④ マルクスは「類的存在」が諸個人の代数和以上であるところから、とかく、類的本質をhypostatisieren(実体化)する傾きを残している(ヘスにはそれが稀薄)。 マルクスは、自然的・類的存在としての「人間」そのものを至高の価値とする趣きをもっている(これに対してヘスでは「自由」。尤も フランス的 なそれではなく、自己活動の主体という彼の人間規定に淵源するものであって、必然の王国に対する自由の王国というときの自由)」(同前36頁)と整理している。

 それから、廣松氏は、四五年春のベルギーのブリュッセルにおける「フォイエルバッハ・テーゼ」が書かれるまでのマルクスの思想的推転を、パリ時代の四四年八月の『批判的論評』、続くエンゲルスとの初の共著である『神聖家族』に見ている。

氏は、まず、『神聖家族』におけるマルクスの哲学的立場は、『経哲手稿』と同じで、マルクスは、フォイエルバッハ的な立場、すなわち、ヘーゲルの絶対精神を「人間」で置き換える立場で、自然と精神との統一たる「人間」、唯心論と唯物論との統一たる「現実的人間主義」に立っているとする。そこから、マルクスは、現実のナシ、リンゴ、スモモ、イチゴから作り出された「果物」という普遍的表象を、絶対的主体の自己活動とし、全過程を実体=主体の自己展開過程として示すパウエル派のヘーゲル的方法を批判したと言う。廣松氏によれば、ヘーゲル的弁証法は、「自己を外化しそして外在態から自己へと還帰するが、しかしその際同時に外在態を自己のうちに取り戻す主体としての絶対的な主体」(Ib. S. 167)、一言でいえば、全過程がそれの自己疎外と自己回復の行程であるごとき主体=実体、実体=主体を俟って初めて成立しうる」(同前四四頁)ものである。それを、氏は、「しかるに今やマルクスは、主語と述語の顛倒、そのことによる述語の実体=主体化を端的に斥ける姿勢をみせ、「パウエルにおいても、自己意識は自己意識にまで高められた実体、あるいは実体としての自己意識であり、自己意識は人間の述語から独立の主語に転化されている」ことを指摘し(Ib. S. 314)、パウエル派がいう意味での「自己意識」も『果物』にほかならないことを論断」(同)したと言う。しかし、この時点では、まだ、マルクスは、実体=主体の自己展開という発想のままで、フォイエルバッハの「人間」を自己活動の主体として、ヘーゲル的弁証法=自己疎外の論理を維持していたという。廣松氏は、それの自己批判的省察が、「フォイエルバッハ・テーゼ」で踏み出されたというのである。

 

 そして、四五年春に、ブリュッセルで、「フォイエルバッハ・テーゼ」が書かれるのであるが、それを、廣松氏は、「一言で性格づけるならば、この十一項からなる『テーゼ』は、マルクスが フォイエルバッハとヘスとのいわば中間の立場 から、ほぼ完全にヘスの立場に移行したことを告げる文書である」(同前四三頁)と位置付けている。

 そこで、氏は、マルクスが、第六テーゼにおいて、「人間的ヴェーゼンを諸個人の社会的協働関係におくヘスの線に則って「社会的諸関係の総体」として規定」(同前四七頁)して、自然存在としての規定から抜け出たと言うのである。第六テーゼが、氏が言うように、「人間的ヴェーゼンを諸個人の社会的協働関係におくヘスの線に則って」いるかどうかという点について、『マルクス主義の地平』所収の「追記―良知力氏の御批判によせて―」で、少し追ってみる。

良知氏の当該文章は、「ヘスは若きマルクスの発展の座標軸たりうるか―廣松渉氏の初期マルクス論によせて」(『思想』五月号)で、それは、「ヘスは、初期マルクスを縦断的に再構成するさいの座標軸たりえないのではないだろうか」という一文で結ばれているという(勁草書房 三〇三頁)。それに対して、廣松氏は、「ヘスを以って若きマルクスの思想発展の座標軸にしているかのような印象を受けられる方もあろうかと惧れる」(同)と述べられている。そして、「廣松としては、しかし、決してヘスを座標軸にしているわけではないし、…… ヘスは座標軸たりえない と考えている旨を記して、先ずはありうべき無用の誤解を防退しておきたい」(同)という。ただ、「マルクス主義の成立過程」所収の「初期マルクス像の批判的再構成」の記述からは、良知氏のような見方が生じるのもやむを得ないように思えるのだが。廣松氏は、そこでは、マルクスの思想の独自性よりも、『ドイツ・イデオロギー』に至るまでのヘスの影響の大きさを強調されているように思われるのである。「フォイエルバッハ・テーゼ」の多くの部分が、ヘスの書いたものと似ているとしても、違うところもある。少なくとも、その部分がどうなのかも含めて、一一のテーゼの全体の関連を一応検討してみるという作業がいるし、それと、廣松氏のように、ヘスなどとの思想的連関を総合して考え、検討する必要があることは明らかである。

 それから、廣松氏は、「良知氏は〈廣松氏の労作はヘス研究を一義的目的とするものでもなければ、ヘス=マルクス関係の解明を主テーマとしたものでもない。さらに、初期マルクスの批判的再構成ですら、おそらく氏なりの認識論を構築していくためのひとつの足がかりであろう〉と好意的に書いて下さっている」(同前三〇四頁)と書かれているように、それが、氏の認識論構築作業の一部として書かれたことを認めている。それが、六七年から七二年に書かれた論文を集めた『世界の共同主観的存在構造』の氏の認識論構築などの一連の作業を指すことは明らかである。

 そして、廣松氏は、良知氏のテーゼ当時の〈ヘスとマルクスとのあいだにある基本的な相違点〉を見逃しているという指摘に対して、それは基本的な相違ではないとして、それを三点に分けて答えている。氏は、まず、ヘスはフォイエルバッハ的な唯物論者ではなかったことに同意する。そして、「〈ヘスのばあい「活動」あるいは「実践」の概念は「感性的に人間的な活動、つまり実践として主体的に」とらえられているわけではない〉こと。―〈感性的〉ということに格別なアクセントをおけばまた別問題を生じうるが、良知氏も引用される通り、ヘスは「人間的に考えるだけでは十分でなく、同時にまた人間的に生きねばならない……」と言う。これに対して、氏は、〈ヘスは純粋思惟を排除しているだけであって「思惟が人間の自己活動である」ことにはかわりない〉とされる。これは廣松には理解しがたい。もしヘスが 人間の自己活動とは思惟の謂いなり とでも言っているのであればともかく、論理学の用語でいえば、氏は減量換位を施すべきところ単純換位を施して了っておられるのではなかろうか? 歴史の哲学から行為の哲学、実践の哲学への転換を標榜したヘスの「実践」概念は、この時点では『テーゼ』のそれと基本的には同趣であると廣松は考える。(なお、良知氏は「感性的印象や表象をもつさいには、私は本質的に受動的にふるまう」というヘスの゛唯物論的 な一句を引いて、『テーゼ』第九にいう「感性を実践的活動として捉えない唯物論」云々における感性の把握との相違を主張され、ヘスは〈みずから観照的に考えることになる〉と立論される。ここには、しかし『テーゼ』にいう「感性」とヘスが認識能力に即していっている感性との性急な同一視があり、遂には首肯しがたい)」(同前三〇六~七頁)。

 ここでも、第一テーゼの「主体的に」か「主体として」か、という訳の問題が、影を落としている。ここで言うヘスの実践と「フォイエルバッハ・テーゼ」の言う実践が同じなのかどうかという論点については、後で簡単に取り上げるので、ここではおいておく。続けて、氏は、次のように言う。長いが、引用する。

e)〈ヘスのいう社会自身、歴史的過程からたちきられて形而上学的にドグマ化し、ユートピア化してしまう。「歴史的経過を切り捨て、抽象的で―孤立した―個人を前提する」(第六テーゼ)というマルクスのフォイエルバッハ批判がヘスのいう「社会」にもたちかえることになる〉と良知氏は言われる。マルクスがフォイエルバッハの抽象的個人としての「人間」にさし向けた批判を、ヘスの「社会」に推及しうるかどうか疑問が残る。なるほど、ヘスの社会概念は極めて不十分であるが、しかし『テーゼ』当時のマルクスにも必ずしも十全な社会概念が見出されるわけではない。良知氏御自身、先行の個所で容認しておられるように、ヘスは「人間の存在は社会的存在であり、……さまざまな個人の協働であり、人間にかんする真の教義は人間の社会的状態にかんする教義である」と述べ、「人間的存在は……社会的諸関係のアンサンブルである」という『テーゼ』と同趣の思想を打出しているのであって、今問題の論点については、ヘスとマルクスのあいだに〈基本的な相違〉があるとは思われない。

四 良知氏は〈廣松氏によればマルクスはここで「人間的ヴェーゼンを諸個人の社会的協働関係におくヘスの線に則って『社会的諸関係の総体』として規定し」、社会経済上の「ヘスの先駆的業績を真に評価し」、「今暫くの間、ヘスの路線に従って『地上の秘密』の解明につとめる」〉という拙論を紹介されたうえで、〈廣松氏も再三指摘されているように、ヘスは鋭い問題感覚をもって疎外論を社会経済上の諸問題に適用した。だが、これらの分析は、ヘスが他面で追求した自己意識の弁証法とついに接合することはなかった〉。〈現実の経済社会もまた物神的な直接態のなかでしかつかまれない。その意味では「ヘスの路線に従って『地上の秘密』の解明につとめる」ことはありえない〉と書いておられる。―なるほど〈その意味では……ありえない〉かもしれない。しかし、廣松の文脈では次のようになっている。『テーゼ』におけるマルクスの転換にふれたうえで、「マルクスはフォイエルバッハから批判的に距離をとることによって、今やヘスの先駆的業績を真に評価し、それに従いうる地平に進んだのである」と書き、ここに註記して『ドイツ・イデオロギー』では「ヘスこそがフランス社会主義の展開とドイツ哲学の展開を綜合した」と言われている旨を紹介しておいて、そのあと、拙稿全体の論旨を総括的に辿り直していき、「こうして、ヘーゲル左派の三極を閲歴したマルクスは、今暫くの間、ヘスの路線に従って『地上の秘密』の解明につとめる。因みに、ヘスは当時すでに、協働、生産力、交通、土台、等々の概念を確立して一種の唯物史観を樹て、この史観によって共産主義に基礎づけを与えていただけでなく、独自の組織論、運動論を携えて共産主義的実践運動を展開しており、彼には学ぶべき多くのものがあった。四五年の春 亡命地 ブリッセルで相会したヘス、マルクス、エンゲルスは、翌る四六年にかけて、『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆することになった」云々、と続けている。―右の事情は措くとしても、良知氏は、廣松が「地上の秘密」という時括弧をつけた所以のもの、つまり『ヘーゲル法哲学批判序説』からの援用によって、その被限定性を表明しておいた点を無視されているのではあるまいか? だとすれば、氏と廣松とのあいだには、一点を除けばそれほど大きな見解の相違はないのではないかと考えられる。一点というのは〈これらの分析〔つまり疎外論を社会経済上の諸問題に適用しての分析〕は、ヘスが他面で追求した自己意識の弁証法とついに接合することはなかった〉とされる点である。この御発言は、それ自体として肯んじがたいだけでなく、氏自身の前言とも矛盾するように思える。ヘスが依然として〈自己意識の弁証法〉を追求していたのだとすれば、四三~四四年の〈急激な転換〉によって、フィヒテ=バウアー的発想からフォイエルバッハ的な発想に転じたとされる氏御自身の先の論点とどう整合するのであろうか?(同前三〇八~九頁)

 ヘーゲル左派については、よくわからないのでなんとも言いようがないが、ただ、ここには、疎外論、自己意識、協働、交通、生産力、土台、唯物史観、等々、現在においても議論となっている論点があることは明らかだ。しかし、それは、「フォイエルバッハ・テーゼ」だけからでは論じようがない。

マルクスは、ブリュッセルで、ヘス、エンゲルスと共に、四六年春には、『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆するが、氏は、この過程こそが、「ヘーゲル三派の三極を端的に総合・止揚しつつ、ヘスの思想的立場と水準から脱却する「自己了解」の過程となった」(『マルクス主義の成立過程』四九頁)というのである。要するに、廣松氏は、初期マルクスの思想形成過程の中で、特に、ポイントとされる主体概念の転換が、パウエル→ルーゲ→ヘスという順で進行し、ついには、『ドイツ・イデオロギー』において、これらヘーゲル左派の三潮流が、止揚・綜合されるにいたったというのである。そこで、廣松氏は、主体概念を、人間概念と見て、ここで、その変革があったとして、そこから、『マルクス主義の地平』においては、ハイデッガーの存在論を踏まえつつ、その「世界―内―存在」に対して、「歴史―内―存在」としての主体概念、人間概念とか、協働連関の世界の四肢的構造論の提起へといたるわけである。それは、『世界の共同主観的構造』において、詳しく展開されることになる。

 「フォイエルバッハ・テーゼ」には確かにヘスの影響が強く見られるとして、廣松氏は、「テオリーに対してプラクシスを特別な含意で対置してきたチェスコウスキー・ヘスの立場がそのまま採用されるに至っていることを銘記し(第二、三、五,八,九テーゼ、殊に「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ、世界を変革することこそが肝要であろうに」という最終テーゼを参照)、マルクスにおける「人間」把握の転換を確認すれば足るであろう」(同前四五~六頁)と述べ、対照のためとして、ヘスの当該論点、「フォイエルバッハは神のヴェーゼンは人間の……ヴェーゼンであり、神的ヴェーゼンに関する真の理説は人間的ヴェーゼンに関する理説だという。これは正しい、がしかし……人間のヴェーゼンは社会的ヴェーゼンであり、諸個人の協働である」。因みに「人間間の交通、これが人間の現実的ヴェーゼンであり……この協働が、生産力をはじめて現実化する……各個人の現実的ヴェーゼンである」(同前四六頁)をあげている。

この部分を見る限りでは、ヘスの思想、行為の哲学などはわからないが、この時期に、マルクスにその影響があったことは確かなようだ。廣松氏は、ヘスの、この引用に見られるような社会概念が、「フォイエルバッハ・テーゼ」の時点では欠けていると言う。確かに、「フォイエルバッハ・テーゼ」では、社会概念が展開されているわけではない。ただ、前回、アルチュセールが、第六テーゼの「人間的ヴェーゼン」という部分を、マルクスの不徹底さを示すものというように主張していることを見た。第一テーゼが、感性的人間活動、実践を主体としているということを、加藤正も、アルチュセールも、バリバールも言っているが、私は、ここで、すでに、マルクスは、実践を主体とすることで、ヘス的な人間概念とは異なることを言っていると思う。また、「マルクス主義の地平」第一章でもふたたび取り上げられている「人間の本質は社会的本質である」と第六テーゼの「人間的本質は社会諸関係のアンサンブルである」という命題に違いがあり、この時点でも、「フォイエルバッハ・テーゼ」が、完全にヘスのライン上にあったということではなかったように思える。

 廣松氏は、第六テーゼを、人間概念、社会概念の転換、主体概念の転換を、ヘスの路線の受容、それから、『ドイツ・イデオロギー』にいたるそれまでのヘーゲル左派の綜合の途次の命題として捉えている。それから、廣松氏は、デカルト的コギトという近代的主体概念、「思惟する我」を主体とする認識論を根本から覆す新たな主体概念の形成を課題としていくという氏の思考の歩みのポイントに第六テーゼを置いている。氏は、第六テーゼの主体概念の転換が近代的地平を根本的に変える契機を切り拓いたという。そして、第六テーゼで人間的本質と言われているものが、主体としての人間のことであり、それが社会諸関係だという。このことは、一九六〇年代から七〇年代初めという時代に、廣松氏が、第六テーゼを大きく取り上げたこと自体、その時代が主体を問うていたことを示している。廣松氏はもちろん、フーコーもまたそれを追及した人であるが、それが、今日、ふたたび問われているのである。

そのことと関連して、本稿のテーマからは離れるが、廣松氏のその他の論考の一端を少々見ておきたい。廣松氏は、『マルクス主義の成立過程』所収の「弁証法的転倒はいかに可能であったか」では、ヘーゲル弁証法の唯物論的転倒について、そして、『マルクス主義の地平』では、近代的人間概念を超えるマルクスの人間概念、そして、疎外論から物象化論へという後期マルクス思想への転回を詳しく論じられた。例えば、「附論Ⅰ マルクス主義の地平と物象化論」という文章では、「後期マルクスのいう「物象化」は、個々の主体と事物とのあいだに直接的に成立する客体化の現象なのではなく、人間相互間のインターズプエクティーフな媒介を経てはじめて成立するところの本源的に共同主観的な現象なのであります。対象性として現われるところのものは、実は、単なる即自存在なのではなく、人々のある種の共同主観的な関係、即自的な協働が「物象化」されて現象するものであること、後期のマルクスは、なかんずく価値対象性に即して、このことを究明したのであります」(同書二七〇頁)と述べている。さらに、氏は、マルクス主義認識論の構築にも向かう(「附論Ⅱ マルクス主義認識論のために」など)。

それから、これらの廣松氏の論考が、論争の中で遂行されたということを強調しておきたい。「附論Ⅰ マルクス主義の地平と物象化論」や「追記 良知力氏の御批判によせて」などで、氏の論考が論争の形態を取って行われたということである。フォイエルバッハへの論争の形態で書かれている「フォイエルバッハ・テーゼ」には、実践的唯物論の開放性、相互交通性、発展性、等々の性格を示されていると考えるが、それが、廣松氏の論考の基本にあると捉えておきたいのである。それから、廣松氏は、「近代世界了解の構え、すなわち、資本主義時代に照応するイデオロギーという意味でのブルジョア・イデオロギーの地平―この特質については別著(『マルクス主義の地平』第一部)で論じておいたので、ここでは式述しないが―、このブルジョア的世界観の地平がもはや桎梏に転じ、破綻に瀕していること(それは単なる ゛西洋の没落 などというものではない)〔氏には、学術的と見なされるようなこのような文書に、ビラのように、゛を入れるような実践性がある―引用者〕さりとて、人々はまだ、それに代わるべき新しい発想法の地平を、明確な形で向自化しうるには至っていないということ、今日の思想的閉塞情況は、要言すればこれに起因するものであると看ぜられる」(『世界の共同主観的存在構造』勁草書房五頁)という問題意識をもって、そこから、近代的「主観―客観」図式の超克という認識論的課題を追求するという壮大な試みへ踏み出されたのであるが、それは、第六テーゼにおけるマルクスの思想転回を受け止める中で、そしてそれを引き継ぎ発展させるという試みの持続の中で遂行されたが、それが、今日においても問われていることは明らかだと考える。とりわけ、「フォイエルバッハ・テーゼ」の実践、感性、などの諸概念をめぐって、氏が提起したものは、今、アクチュアルなものとして再浮上しているのである。

| | コメント (1) | トラックバック (2)
|

フォイエルバッハ・テーゼをめぐって(第2回)

   和辻哲郎の第六テーゼ解釈

 おそらく、「フォイエルバッハ・テーゼ」の中で、第六テーゼほど、議論を呼び起こした部分はないだろう。第六テーゼが、人間論・社会論として、新しかったからである。それは、人間的本質は、社会諸関係のアンサンブルであるという短い一句に集約されている。これが、どれほど大きなインパクトを与えたかは、例えば、倫理学者和辻哲郎が「西田幾太郎先生にささぐ」と扉に記した『人間の学としての倫理学』(一九三一年)で、わざわざ、第六テーゼを肯定的に取り上げて、マルクスの立場に立つように見せかけつつ、骨抜きを図ったことにも示されている。和辻は、「マルクスのフォイエルバッハに対する批判は、類の概念や我れと汝の共同態の概念においていまだ人の本質すなわち人の社会的存在が把捉されていないことを明らかにするにある。フォイエルバッハは抽象的孤立的な「人」という個体を仮定し、かかる個体を仮定し、かかる個体から抽象せられた普遍性としての「類」を取ってそれを人の本質を見た。だから人の本質は個々の個人に内在する抽象的なものとせられてしまう。それによって人の全体性を捕らえたとするのは思弁哲学への逆戻りである。孤立せる人などというものはどこにもない。人は常に社会的関係において有るのである。だから人の本質は社会的関係の総体にほかならない。フォイエルバッハは人を社会的連関の中に置くことをしなかった。彼が人を「感性的対象」としたことは「純粋な唯物論者」よりも非常に優れている点であるが、しかし彼は人がまた「感性的活動」であるという洞察にまでは達し得なかったのである」(岩波文庫一六六~七頁)と書いている。ここで和辻は、第六テーゼを、フォイエルバッハの認識形式論を退け、人間の本質を存在ととらえ、主体を「感性的活動」という存在として捉えたものと解釈したわけである。
   彼は続けて、第一テーゼを引用して、「フォイエルバッハが人の特徴を意識において見いだしたときには、対象の意識が人の自己意識であり、対象において人の本質が現れるとせられた。だから感性的対象が人自身なのである。しかし彼はそれを直観、感覚、愛というごとき認識の形式において、すなわちあくまでも観照的に捕らえようとした。だから彼が感性的世界すなわち自然を絶対化し、それが産業や社会状態の産物であることを見得なかったとせられるのも道理である」(同一六七頁)とマルクスの述べたことをほぼそのまま踏襲している。しかし、彼は、「人は常に社会的関係において有る」という一句を入れることで、実際には、第六テーゼを骨抜きにしている。また、和辻は、この後で、関係を「間柄」と言い換え、それを人間関係共同体とした上で、感性的活動を人間化し、それを主体化してしまう。「間柄」としての人間関係共同体を人間本質として主体化するのだ。しかし、第六テーゼは、社会諸関係のアンサンブルを人間的本質と規定していても、それを主体化していないことは、加藤正の第一テーゼ解釈を検討して確かめた。和辻が、実践的行為的連関としての我と汝の「間柄」共同体を、フォイエルバッハの物言わぬ「類」の代わりに、抽象的主体として立てたことは、テーゼ全体からみて、誤りであることは明らかだ。彼は、特定の主体としての近代ブルジョア社会の底に人間共同体を置いて、それを、より根底的なものと意味付与した上で、それを人間化し主体化することで、マルクスのテーゼの思想を捻じ曲げたのである。

 それが誤りであることは、マルクスが、一八五四年の『経済学批判のための序説』の経済学の方法の章において、「実在する主体は、相変わらず頭の外でその独立性を保っている。〔頭の外で〕というのは、頭がただ思弁的に、ただ理論的にふるまっているあいだのことであるが。それゆえ、理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象として浮かんでいなければならない」(国民文庫二九五~六頁)と述べていることで明らかである。ここで言う「実在する主体」は、第六テーゼの人間の本質としての社会諸関係のアンサンブルのことであるが、ここでは、それは特定の社会、主体、感性的人間活動=実践のことである。マルクスは、それは、非思弁的な思考の活動によって、つかむことができると言っているのである。マルクスは、それができるのは、抽象という方法であると「資本論」序文で言っている。ただ、ここで注意しておかねばならないのは、この「経済学の方法」に書かれていることを特殊な方法論として体系化するということを、例えば、梯明秀という人が試みているけれども、それは、マルクスの唯物論的弁証法を誤らせるということである。この部分の前には、「この思考する頭は、自分にとって可能なただ一つの仕方で世界をわがものとするのとは違った仕方で世界をわがものにするのであって、この仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものとするのとは違った仕方なのである」と書いているように、マルクスは、哲学的意識の種差性も指摘している。すなわち、「主体、社会」は、対象として、様々な仕方で我がものにしうるし、それは、それらの多様なものや多側面のアンサンブルとしてあるが、それを、哲学的思考は、それ特有の仕方で認識するのである。そのことは、「およそどの歴史的、社会的科学の場合にもそうであるように、経済学的諸範疇の歩みの場合にもそうであるように、経済学的諸範疇の歩みの場合にもつねに次のことが銘記されねばならない。すなわち、現実界でそうであるように頭のなかでも主体が、ここでは近代ブルジョア社会が、あたえられているということ、したがって、諸範疇は、この特定の社会の、この主体の諸定在的形態、諸存在規定を、しばしばただその個々の面だけを、表現しているということ、したがってまた、近代ブルジョア社会は、科学的にも、それがこのようなものとして問題になるときにはじめて始まるのではけっしてないということである」(同三〇二~三頁)と述べていることで明らかである。直観と表象の概念への加工の産物は、範疇という形態で存在しているが、それは、存在諸規定の一面や部分を表現しているにすぎないのである。ここでも、マルクスは、主体を、対象的人間活動、すなわち実践として捉えるという第一テーゼの思想を貫いて、哲学という認識実践の理論的形態を批判しているのである。だから、梯明秀のように、「資本論」をヘーゲル論理学で体系化するなどというのは、マルクスの考えからはありえないのである。

   和辻は、第六テーゼを、「マルクスにおける社会の強調は、人を主体的人間に転ずることにほかならない」(同168頁)、「それが「人間存在」を人の意識の根底に置く考えである」(同)と解釈して、感性的人間活動=実践を主体としてとらえるという第一テーゼの思想を、人間主体や人間関係共同体の存在論という抽象のうちに解消してしまうというとんでもない間違った解釈をやったのである。それに対して、バリバールは、「主体、それは実践である」(『マルクスの哲学』法大出版局四一頁)という定式を提示しているが、そっちの方が正しいのである。

 

   アルチュセールの第六テーゼ解釈

    まず、アルチュセールの第六テーゼ解釈を考えるために、それに資すると思われる彼の考えを簡単に見ておきたい。
   一九四五年、フランス共産党に属するアルチュセールは、一九六〇年以降に共産党系の評論誌に書いた論文を集めて六五年に出版した『マルクスのために』(平凡社ライブラリー)で、マルクスの諸著作を、一八四〇―一八四四年-青年期の著作、一八四五年―切断期、一八四五―一八五七年―成熟期の著作、一八五七―一八八三年―円熟期の著作、に分けている。アルチュセールは、マルクスが、『経哲草稿』から『ドイツ・イデオロギー』の間に、初期のヒューマニズムから断絶し、新たなプロブレマティック(問題設定)に移行したと述べている。彼は、一八四五年の「フォイエルバッハ・テーゼ」は、ちょうど、マルクスが、哲学的(イデオロギー的)な自己の古い意識の批判を遂行し、古い意識と言葉の中で、平衡を失った曖昧な概念と定式の中で、新しい理論的意識の出現地点を示すという「認識論的な切断」を実践したというのである(同四八頁)。
   彼は、この本が、国際共産主義運動に大きな影響を与えた二つの事件によって生まれた新たな事態に対して書かれたと述べている。一つは、ソ連共産党二〇回大会におけるスターリンへの個人崇拝批判、フルシチョフ秘密報告書の公開であり、もう一つが、中ソ論争の勃発である。前者の事件の後、ソ連のフルシチョフ首相は、階級対立の終焉と全人民国家化入りを宣言し、ヒューマニズムを公式のイデオロギーとした。同様に、西欧共産党は、「社会主義への平和的移行」、「マルクス主義的社会主義的ヒューマニズム」、「対話」などのスローガンを掲げるようになった。それに対して、毛沢東と中国共産党は、修正主義批判を展開し、継続革命論を対置した。アルチュセールは、同書の六七年一〇月付の「日本の読者へ」で、これらの一連の研究ノートが、こうした歴史状況の中で書かれたものであることを強調している。
 そこで、彼は、そうしたイデオロギー的、理論的状況に対して、次のような二重の介入を行ったと言う。

「第一の介入は、マルクス主義理論と、それを危うくし、脅かす哲学的(および政治的)主観主義の諸形態、なかんずく経験論とその古典的または近代的変形物であるプラグマティズム、主意主義、歴史主義等々のあいだに「境界線を引く」ことを目的とする。この第一の介入の本質的な諸契機は、革命的な階級闘争にとってのマルクス主義理論の重要性、さまざまな実践の区別、「理論的実践」の種差性の解明、マルクス主義理論の革命的種差性についての第一次探求(観念弁証法と唯物弁証法とのあいだの明確な区別)等々である。
 この第一の介入は、本質的にいって、マルクスとヘーゲルの対照という地盤のうえに位置づけられる。
 第二の介入は、一方におけるマルクス主義歴史科学およびマルクス主義哲学の真の理論的基礎と、他方における「人間の哲学」または「ヒューマニズム」としてのマルクス主義にかんする現代的解釈が基礎をおく、前マルクス主義的で観念論的な観念とのあいだに「境界線を引く」ことを目的とする。この第二の介入の本質的な諸契機は、マルクスの思想史における「認識論上の切断」の解明、青年期の著作のイデオロギー的「プロブレマティック」と、『資本論』の科学的「プロブレマティック」とのあいだの根本的差異、すなわちマルクスの理論的発見の種差性についての第一次的検討である。
 この第二の介入は、本質的にいって、マルクスの青年期の著作と『資本論』とのあいだの対照という地盤のうえに位置づけられる」(同一七頁)。

 ここで、プロブレマティックという概念が登場するわけだが、それを、彼は、註で、『ドイツ・イデオロギー』中のマルクスのドイツにおける批判を引用して説明している。

「それらすべての問題はある特定の哲学大系、すなわちヘーゲル体系を地盤として生じさえした。その答えのうちにのみならず、すでに問いそのもののうちに一つのごまかしがあった」(大月版、一四ページ)。哲学をつくるものは答ではなく、哲学によって提起される問いそのものであるということ、そして、問いそのもののなかに、つまり、ある対象を反省する仕方のなかにこそ(この対象自体ではなく)、イデオロギーのごまかし(あるいは逆に、対象にたいする真の関係)を探らなければならないということを、このマルクスの文章以上に的確に指摘することはできないだろう」(同一三七頁)。

 同書には、六七年一〇月七日付けの彼の「批判的・自己批判的ノート」が訳出されていて、そこで、彼は自己批判を行っているのだが、それは訳者の市田良彦氏が解説で指摘しているように「真空」をそのまま残している不思議なテキストになっているが、そこで、彼は、『マルクスのために』と『資本論を読む』という二つの著作に、二つの政治的誤りから来るいくつかの誤った定式、修正すべき定式があると自ら指摘した上で、しかし、自分ではそれを行わないと言い、「この修正は、我々の言い落としと誤りを知った読者が、自ら労を取って行うにたる批判作業でありうると思う。実りは多いだろう」(同四八六頁)と、読者に投げ出してしまう。どうやら、このへんに、彼が言うプロブレマティックという概念の、問いを問うというプロブレマティックな実践そのものが示されているようだ。そして、彼は、この自己批判の重点を、「日本の読者へ」では、二点、指摘している。

(一) わたしは革命的実践のために理論が必要不可欠であることを強調し、またそれによってあらゆる形態の経験主義を告発したのであるが、マルクス―レーニン主義の伝統のなかできわめて大きな役割をはたしている「理論と実践の統一」の問題をあつかいはしなかった。たしかに、わたしは「理論的実践」のなかでの理論と実践の統一について語ったけれども、しかし政治的実践のなかでの理論と実践の統一の問題には触れなかった。正確に言おう。わたしはこの統一の一般的な歴史的存在形態、すなわちマルクス主義理論と労働運動の「融合」については検討しなかった。わたしはこの「融合」の具体的存在形態(階級闘争の諸組織―組合、政党、これらの組織による階級闘争の指導の手段と方法、等々)を検討しなかった。わたしはこれらの具体的な存在形態のなかでのマルクス主義理論の任務、地位、役割、すなわち、マルクス主義理論は政治的実践のなかのどこに、いかにして介入するのか、政治的実践はマルクス主義理論のなかのどこに、いかにして介入するのか、といった点を明確にはしていない。
経験のしめすところでは、これらの問題についての沈黙は、わたしの試論についてのある種の(理論家的)」「読み方」にとって影響なしとしない。
(二) 同様に、わたしはマルクスの発見の理論的に革命的な性格について力説し、またわたしはマルクスが新たな科学と新たな哲学の基礎を築いたことを指摘したのであるが、哲学を科学から区別する差異を漠然としたままに残した。だが、これはきわめて重要なことである。わたしはなにが科学とは異なる哲学に固有のものを構成するのか、すなわち理論的学問として、またその存在形態と理論的要求の範囲内においてさえ、あらゆる哲学が政治とのあいだにもつ有機的な関係をしめしはしなかった。わたしはこの関係の性質―マルクス主義哲学においては、この関係はプラグマティックな関係とはなんのかかわりあいもない―をしめしはしなかった。したがってわたしは、この点で、マルクス主義哲学を先行する哲学から区別するところのものを明確にはしめさなかった。
  経験のしめすところでは、これらの問題についての半-沈黙はわたしの試論についてのある種の(実証主義的)「読み方」にとって影響なしとしない。(同二〇~一頁)

  ここで、アルチュセールは、理論主義と実証主義を批判対象としながらも、それに成功しておらず、そうしたイデオロギーが占める余地を試論において残していることを公然と表明している。自分たちの陣地に「穴」が空いているというのだ。これは、アルチュセールが仕掛けた罠ではあるまいか。彼は、自己批判において、これらの課題を読者に投げ出し、大衆的な共同作業を提案するが、それは、彼が述べているように、ただ時間がなかったからというだけのようには思えないのである。このテキストそのものが、政治闘争であり、党派闘争であることを示しているように見えるのだ。それは、まさに、レーニンが、『唯物論と経験批判論』で、理論の党派闘争として提起したことのアルチュセール流の実践なのではないか。それは、また、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第二テーゼが、「人間の思考に対象的真実がとどくかどうかの問題は、全く理論の問題ではなく、一つの実践的な問題である。実践において、人間は彼の思考真理性、すなわち現実性と力、つまり此岸性を証明しなければならない。思考が、現実的か非現実的をめぐる論争は、純粋にスコラ的な問題である」と述べたことの実践であるとも言えまいか。彼は、ここでは、政治というものを、敵が占領しようとする「穴」を、多数の人間たちによって埋める大衆的「戦闘」実践としているように思える。「理論と実践の統一」は、労働者階級が哲学実践へと介入し、その戦線に加わることで実現され、此岸性を証明されるべきものとして、提示されていると思えるのだ。つまり、彼が言う革命的理論実践と革命的実践、理論と労働運動の「融合」という課題は、政治的実践としてあるので、構成という作業を必要とするということだ。彼は、政治的実践過程の性格を次のように述べる。

「非常に図式化して言うと、政治的実践過程の種差的性格(理論的実践過程とは異なる性格)は、マルクス=レーニン主義理論と労働運動の統一が具体的、歴史的に実現されるのはいかなる現実においてかを見ることによって把握される。その現実とは次の三種であり、それらは一体でありかつ同時である。まず、労働者階級の前衛、労働者階級、大衆と獲得されていく政治的かつイデオロギー的意識。次に、プロレタリア階級闘争を指導しなくてはならない組織。そして、そうした組織による(労働者階級と大衆の)階級闘争の指導の形態と手段。上記の統一はこれら三つの現実において、同時進行でなされるが、労働運動の歴史における時代区分や所与の条件にしたがって、三つの要素のうちのどれかが、ある時点での「決定的な環」を構成する」(同四七九~四八〇頁)。

  このように、彼の「自己批判」は、理論と実践の融合という課題を、労働運動という特定の領野に限定して提起しているが、それは、階級意識と階級指導組織と指導形態と手段という三つの現実の要素の組み合わせであり、時代状況の中で、どの要素が「決定的な環」であるかを見ることで把握されるわけである。だから、その問いは、その後も彼の試みの中で、問われ続けていると考えざるをえない。それは、党派闘争として継続されたはずである。それは、科学の専門家固有の哲学的イデオロギーとしての実証主義、「理論家」のテクノクラート主義(同四七五頁)と社会構成体の発展史についての科学としての史的唯物論と弁証法的唯物論という哲学の差異に関する「言い落とし」を取り戻す闘いでもあったはずである。そのために、例えば、彼は、理論の実践への適用という言い方を実証主義への転落であるとして、使わないことを意識的に実践する。それは、「人間が、世界と歴史における自分の位置を自覚するのは、イデオロギー(政治闘争の場としての)において」(同414頁)だからである。だから、このような「言い落とし」の修正自体がイデオロギー闘争を構成することになるのである。この時点では、アルチュセールは、三つの現実のうちの「政治的かつイデオロギー的意識」を「決定的な環」と把握していたようである。

  では、アルチュセールは第六テーゼをどのように解釈したのか。彼は、第六テーゼ自体は文字通りには意味はないと述べ、それを、「人間とかヒューマニズムとかの概念に適切に対応していないが、その概念において間接的に関連づけられている現実とはなんであるか、それを知りたければ、それは抽象的本質ではなく、社会的諸関係の総体のことである」(同四三六頁)と言い換える。それは、第六テーゼの概念の関係は、定義からはわからないし、定義上、認識上の関係ではないからだという。しかし、彼は、この不適切な関係には意味があると言う。それは、「もはや抽象的な人間ではなく具体的な人間を探求する場合に暗示されている現実に出会、それを見出すためには、社会へ移り、社会的諸関係の総体の分析にとりかからねばならない」(同)ことを示している。彼によれば、それは、具体的現実的な社会諸関係のアンサンブルを科学的に認識するには、人間という概念を捨てなければならないことを意味する。そして、抽象的なものから具体的なものへの位置の移動と基礎概念を変える概念の移動を同時に行なう、長い回り道、迂回、いわば長征を行なわねばならないというのである。彼は、だから、マルクスが、その後、理論的概念としては、人間やヒューマニズムではなく、生産諸力、生産諸関係、上部構造、イデオロギーなどの新しい概念を使ったのだと言う。確かに、先に引用した「経済学批判への序言」において、マルクスは、社会を主体としていて、人間を主体としていないように、概念の変更を行なっている。彼がテーゼの不適切な関係に意味を認めていることは、精神分析学から来ているのかもしれないが、それは、「人間の思考に対象的真実が届くかどうかの問題は、全く理論の問題ではなく、一つの実践的問題である。実践において、人間は彼の思考の真理性、すなわち現実性と力、つまり此岸性を証明しなければならない。思考が、現実的か非現実的かをめぐる論争は、純粋にスコラ的な問題である」(第二テーゼ)を踏まえているのは見て取れる。社会的諸関係の対象的真実は、実践的に与えられるが、それは、その真実についての新しい概念を生み出す実践の問題であり、それは、位置と概念の移動という実践を伴うのは確かである。しかし、人間という概念は社会諸関係の科学的概念ではないとしても、イデオロギーとして機能し続け、それは、政治的実践の中では、価値を持つし、政治闘争のイデオロギー的焦点となる。その闘いは、第六テーゼが示した移動によって基礎付けられるのである。アルチュセールは、そのことについて、例えば、「ヒューマニズム重視のどんなイデオロギーにも深く刻みつけられている、道徳への依存は、現実上の諸問題を空想的にとりあつかうという役目をはたしやすいのである」(同四四三~四頁)というかたちで述べている。だから、マルクスは、位置と概念の移動を行ない、テーゼ後には、移動して、社会諸関係の解明に向かったというのだ。

  市田氏は、「しかしそもそも、アルチュセールはその後、理論と実践の関係について、マルクス主義理論と労働運動の統一について、何を考え、何を言っただろうか。生前に刊行されたテキストの中で、彼が再びこの問題を主題的に取り上げたことは、ない。彼は政治的実践の理論さえ、作り上げることはできなかった。少なくとも、できた、とは判断しなかった。ここにも「真空」videが存在している」(同五〇三頁)と述べているが、これは、「フォイエルバッハ・テーゼ」にも言えるのではないだろうか。マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』では、『経哲草稿』で使った「疎外」という概念を、哲学者にわかるように言えば、という但し書きを付けて使い、すでに、それまでのドイツ哲学の世界とは別の地点に立っていることを示している。それは、第六テーゼの言う人間や社会諸関係やアンサンブルという概念が、移動の後の新たな地点から再構成されねばならないことを意味するが、アルチュセールが、それを、我々に投げたとすれば、それに応えるには、彼が、マルクスが哲学の中で獲得したと言う、「批判精神」、「臨床感覚」、「科学的な理論構築に不可欠な抽象化の感覚と実践」、「理論的な総合と過程の論理の感覚と実践」は、少なくとも必要だろう。

 
 
                                                                                     

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

フォイエルバッハ・テーゼをめぐって

 かつて、フランスの哲学者アルチュセールが、フォイエルバッハ・テーゼを、一八四四年の『経済学・哲学草稿』から、一八四六年の『ドイツ・イデオロギー』の間のヒューマニズムからの「認識論的断絶」、「一つの切断の「前方の端」として提示し」(バリバール)たことが議論を呼び起こしたことがある。それが、スターリン主義に対して、初期マルクス、主に『経済学・哲学草稿』におけるヒューマニズムを対置してきた反スターリン主義的マルクス主義者たちの猛反発を受けたのである。それから、日本では、廣松渉氏が、第六テーゼの「人間的本質は社会的諸関係の集合である」というところを、疎外論から物象化論へという人間観・社会観のパラダイム・チェンジを示すものと位置付けたことが、初期マルクス派、疎外論派との論争を引き起こしたことがある。

 また、 日本では、戦前に、和辻哲郎が『人間の学としての倫理学』で、そして三木清が『人間学のマルクス的形態』で、このテーゼを論じている。また、唯物論研究会で、加藤が引き起こした党派性論争の焦点となったことがある。戦後には、三浦つとむ、そして、戦後主体性論者の中心人物で和辻哲郎に学んだ梅本克巳が『唯物論と人間』で論じている。アルチュセールと協働したエチエンヌ・バリバールは、テーゼ全体を「一連のアフォリズム」(『マルクスの哲学』 法政大学出版会 二二頁)と呼び、また、第一一テーゼについては、ハンナ・アーレントが、「フォイエルバッハ・テーゼは、哲学者が世界を解釈したからこそ、またその後だからこそ、世界を変える時代が到来したのだと、明快に述べている」(『政治の約束』 筑摩書房 一〇六頁)との解釈を示し、あるいは、廣松渉氏の『マルクスの根本意想は何か』(情況出版)のあとがきで、的場政弘氏は、「世界を変えるということは、これまでの哲学をそのまま現実社会に応用することで解決することなのか、それとも現実を変革する新しい哲学を創始することなのか、それが今ひとつ不分明である」と疑問を呈している。このように、メモにすぎないこの短いテーゼをめぐって様々な議論がある。それだけ、テーゼが重要なことを述べているということである。

 一体、唯物論とは何であり、それにマルクスがこのテーゼで古い唯物論をどのように変化させたのかを確かめることは、現代資本主義や現代社会をしっかりと理解するのに必要である。それは、例えば、物象による現実的社会諸関係の転倒や学問的形態をもまとっている支配的イデオロギーからの解放につながる。例えば、計量経済学の最初に出てくる収穫逓増の法則に示されているような功利主義的人間観念・イデオロギーからの解放の武器となる。人は功利主義者として生まれてくるわけではなく、現存の歴史的な社会諸関係によってそうならざるを得なくなっているのである。それも、四六時中、損得勘定をして、生き、生活しているわけではない。功利主義的価値観・人間像は、現実の一側面を現象として固定化して作り上げられたもので、唯物論の対象として見れば、そんなことはけっしてないことがわかる。功利主義は、教育・啓蒙・宣伝・経験などによって、人々の頭に擦り込まれるのである。また、テーゼは、宗教や観念論の重苦しい空気からの解放につながる。近年、心霊科学などの科学の形態を被せた宗教イデオロギーや詐欺が横行しているが、テーゼの唯物論は、それを見抜く武器を与える。それは、このテーゼを見ていけばわかる。

 フォイエルバッハ・テーゼの成立事情と背景

 マルクスが亡くなってから五年後の一八八八年二月二一日付で書かれた『フォイエルバッハ論』の序文で、エンゲルスは、『新時代』(ノイエ・ツァイト)の一八八六年の第四号、第五号に掲載されたシュタルケの本の批評を単行本にする際に、一八四五年から四六年にかけて、マルクスとの共同作業で書かれた一連のノートを読み直したと書いている。それは、『ドイツ・イデオロギー』と題して出版するための準備ノートであった。エンゲルスは、それが、フォイエルバッハについての章が未完であること、出来上がっているのは唯物史観の叙述であり、それは経済史についての当時の二人の知識の不完全さを示すものであること、そして、フォイエルバッハそのものの批判が欠けていると述べている。彼は、読マルクスのノート類の中に、フォイエルバッハに関する一一のテーゼを発見したと述べている。彼は、それを、「新しい世界観の天才的な萌芽が記録されている最初の文書としてはかりしれぬほど貴重なものである」(『フォイエルバッハ論』岩波文庫 一一頁)として、同書の付録に付けた。

マルクスが、このテーゼを書いたのは、フランス内務相による国外処分決定によって、パリから移ったブリュッセル時代である。マルクスとエンゲルスは、すでに、パリで関係ができはじめていた「義人同盟」と交流を深め、ヘーゲル左派のヘスも加えて「共産主義者通信委員会」を結成し、労働者の組織化に取り組むようになる。その後、マルクスとエンゲルスは、哲学的なものはほとんど書いていない。このテーゼは、パリで、『独仏年誌』がブルジョア急進主義者と言われるルーゲとの確執から破綻してから、ドイツ哲学の世界から経済学、歴史、政治・社会運動、ジャーナリズムへと移行していった転換点を示すものである。その後、マルクス・エンゲルスは、一八四七年六月、イギリスのロンドンでの「共産主義者同盟」の創設に参加する。翌年一月には、『共産党宣言』を刊行した。その直後、一八四八年革命が勃発し、マルクスは、ドイツに移り、『新ライン新聞』を創刊して、この革命の推進翼を担った。研究の中心は、市民社会の解剖学としての経済学に移っていった。しかし、マルクスは、経済学の研究の最中も、ヘーゲルを繰り返し読んでいる。マルクスが、ヘーゲルから主に学んでいたのは、弁証法である。

 フォイエルバッハは、ヘーゲル左派の中では、ヘーゲルの革命的側面を発展させようとした点で、抜きんでた存在だったし、唯物論者だった。マルクスは、プロイセン政府による「ライン新聞」に書いた記事への検閲と弾圧から逃れ、パリで、『独仏年誌』を発行する計画を立てた時、フォイエルバッハにも参加を呼びかけたが、彼は参加しなかった。彼は、教職を追われた後、田舎に籠もり、隠遁生活を続け、観照的な生活を送るが、晩年には、ドイツ社会民主労働党に加入し、マルクスの『資本論』を勉強している。エンゲルスは、同序文で、フォイエルバッハを、ヘーゲルとマルクスの中間に置き、本文中ではヘーゲルの革命的側面からさえも後退していると述べている。エンゲルスは、同書で、ヘーゲル哲学を、人間の思考と行為の全産物が、常に過程としてあり、究極的なものはないということを明らかにしたという点で、革命的性格を持っていたと評価している。

 パリ時代、ブルジョア急進主義者ルーゲとの決別後、エンゲルスの共同が本格化する中で、マルクスが書いた『経済学・哲学草稿』では、フォイエルバッハは高く評価されている。しかし、ブリュッセルでのエンゲルスとの『ドイツ・イデオロギー』の共同作業では、フォイエルバッハはドイツ哲学ヘーゲル左派の代表的イデオローグとして批判されているが、『ドイツ・イデオロギー』自体は、フォイエルバッハそのものの批判ではなかった。マルクス自身は、これを、「ドイツ・イデオロギー(フォイエルバッハ、B・バウアーおよびシュティルナーを代表たちとする最近のドイツ哲学の、そして種々の予言者たちにあらわれたドイツ社会主義の批判)についての著作」と呼んでいる。すなわち、フォイエルバッハは、ここでは、当時のドイツ哲学とドイツ社会主義の代表的イデオローグの一人としてあげられているだけである。それに対して、エンゲルスは唯物史観を対置したと述べている。彼は、このテーゼは、その新しい唯物論の萌芽を示していると言うのである。その新しさはどこにあるのか。それを、まず、加藤正の論考を手がかりに探りたい。

 テーゼの何が新しいのか―加藤正「「フォイエルバッハ・テーゼ」第一哲学の解釈」をめぐって

 加藤正が、一九三二年二月五日の唯物論研究で提起し、唯物論研究会の中で引き起こした党派性論争の中に、「フォイエルバッハ・テーゼ」をめぐる議論があった。

 唯物論研究会は、一九三二年一〇月に、長谷川如是閑らを発起人として創設された。その他、岡邦雄、梯明秀、古在由重、戸坂潤、永田広志、服部之総、森宏一などがいた。唯物論研究会は、治安維持法の弾圧を避けるため、広く唯物論の研究をテーマとしていたため、マルクス主義者ではない人も入っていた。エッセイストとして知られる寺田寅彦も一時関わっていたという。唯物論研究会は、一九三七年「人民戦線事件」後のいわゆる「唯研事件」で主要執筆陣に執筆禁止令が出され、さらに、会自体、治安維持法第一条第一項後段の未遂罪が適用されるなどの、治安当局の弾圧により、一九三八年には、一二号を印刷しながら、発行できず、解散した。名称を改めて再出発を期すが、それも弾圧によって挫折した。発起人の一人で会の中心人物の戸坂潤は、その後、捕らえられ、敗戦前に獄死した。

 唯物論研究会が創立された頃、日本共産党は、一九三二年五月に、コミンテルンが決定した三二年テーゼの二段階革命戦略を採用した。同年、宮上則武、朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺される。一九三三年六月には、佐野・鍋山が獄中転向。一二月には、宮本顕治による査問事件が起きる。権力による弾圧が頻繁に加えられたと同時に、党内での疑心暗鬼が高まり、スパイ狩りが頻発した。三五年三月には、獄外で活動していた唯一の中央委員袴田里見の逮捕により、共産党は壊滅した。古在由重は、「そのころは共産党のほうはもうほとんどないのですからね。もしあるとすれば監獄のなかで、昭和一〇年には、民間の地下組織としてはもうほとんどゼロになっていたと思います」(『暗き時代の抵抗者たち 対論 古在由重・丸山真男』 太田哲夫編 同時代社 一〇二頁))と回想している。唯物論研究会は、共産党消滅後、数年間に渡って活動を続けた。

 この当時、ソ連で、それまで主流であったデボーリン主義が批判され、一九二九末に始まったスターリンによる「哲学におけるレーニン的段階」キャンペーンの中で、ミーチン主義が台頭し、それが、唯物論研究会にも持ち込まれてきた。また、ドイツのフランクフルト研究所で研究して帰国後、その議論を持ち込んだ福本和夫の影響、それに、梯明秀、船山信一、戸坂潤など西田幾多郎に学んだ西田左派と呼ばれる人たちの影響もあった。唯物論研究会は、多様な傾向を含んでいたのである。会の外にも、三木清という西田派マルクス主義者として大きな影響力を持つ哲学者がいた。

 加藤正は、「「フォイエルバッハ・テーゼ」第一哲学の解釈」という文書で、このテーゼの解釈をめぐって、ミーチン、福本和夫、三木清、ルカーチ、船山信一、永田広志、山岸辰蔵、などを批判している。戦後、主体性論争の当事者の一人である三浦つとむが、ミーチンを批判しつつも加藤は、ミーチン以上に「哲学におけるレーニン的段階」を賛美していると批判しているように、加藤の引き起こした論争は戦後にも継承されている。戦前のソ連における唯物論と弁証法に関する諸論争、そしてそれに結び付いた唯物論研究会を舞台にした諸論争、あるいは、西田左派も加わった諸論争の中で、このテーゼは、一つの焦点となった。

 第一テーゼを、加藤正の「「フォイエルバッハについて」第一テーゼの一解釈」を主にしながら、見てみよう。

「従来のあらゆる唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)の主要な欠陥は、対象が ―〈つまり現実、感性が〉、ただ客体ないし直観の形式でのみ捉えられ、感性的・人間的な活動、実践として、主体的※に捉えられないことである。それゆえ、活動的側面は〈観念[論的]〉抽象的に、唯物論とは反対に観念論―これはもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らない―によって展開[される]。フォイエルバッハが欲するものは 感性的な―思考された客体から現実 的に区別される、客体である。しかし彼は、人間的活動それ自身を対象的活動としては捉えることをしない。だから彼はキリスト教の本質の中で、理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、他方、実践はただ、その汚らしいユダヤ的な現象形態において捉えられ、固定化されることになる。それゆえ、彼は、「革命的」活動、「実践的・批判的」活動の意義を把握しない」(『ドイツ・イデオロギー』 廣松渉訳 岩波文庫 二三一頁)

 ※従来、古在由重訳でも、エンゲルス『フォイエルバッハ論』松村一人訳でも、あるい は加藤正の訳でも、廣松渉訳と同じく、「主体的」と訳しているが、先日、表三郎氏から、ここは「主体として」と訳すべきところだとするお話を聞いた。氏は、自らの訳を、すでに『情況』(二〇〇一年七月号)に一度発表しているが、再度、新訳を公表する予定だという。以後、とくに断りのないテーゼの引用は、表氏の訳である。

 加藤は、第一から第五テーゼまでを並べ、「このテーゼを連絡的に読むと、第一句の対象を主観的に把握するということと、第二句の人間活動そのものを対象的活動として執えるとということとが内容的に同じ意味で言われているのが判る。これはこのテーゼの理解の鍵であり、文脈である。第一句の対象すなわち現実性、感性という言葉を、第二句の現実的感性的活動という言葉に代入すれば、第三句の対象的活動という言葉が誘導できる」(『弁証法の急所』こぶし文庫所収 七三頁 以下頁数のみ)と読んだ上で、「テーゼにおいては感性的人間的活動(実践)としてということが主観的にということと等置されている(第一句)」(七六頁)と述べている。これだと、ここは、「感性的人間的活動として」と同じく、「主体として」とするのが自然である。

 唯物論自体は、エピクロスのそれをはじめ、太古の昔から存在している。それに対して、加藤は、マルクスがテーゼで明らかにした唯物論の新しさは、旧来の唯物論が対象としたのが自然だけだったのに対して、それを、人間実践、すなわち歴史と社会における人間の活動に拡大した点にあると言う。それに対して、船山信一などの「実践の認識主観」論者は、フォイエルバッハを含めた旧来の唯物論が、対象を主体的に捉えなかったのに対して、マルクスがこのテーゼで、対象を主体的に捉える新しい認識方法を言ったと解釈した上で、さらに、彼らは、これを階級の特殊な認識の方法と解釈した。そして、プロレタリア階級やそれを代表する党だけが、対象の真理を認識することが出来ると主張した。加藤は、「主体」に、「実践する認識主観」などという特殊な意味を付与したり、「主体的に」を、認識手法を指しているように解釈したことを批判した。加藤によれば、ミーチンによる「実践的模写説」なるものも、模写に特殊な認識方法の意味を持たせたものである。認識を心的機能・能力とし、認識方法に決定的な重要性を付与するのは、カント主義の特徴であり、現象学派もそれを引き継いでいるが、それが、唯物論に粉飾されて持ち込まれたようである。

 エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』序文で、マルクスが『経済学批判』(一八五九年)の序文で「ドイツの哲学のイデオロギー的見解に対立するわれわれの見解に対立するわれわれの見解(すなわち、主としてマルクスによってつくりあげられた唯物史観)を共同でまとめあげるという仕事、実はわれわれの以前の哲学的良心を清算する仕事」と書いた部分を引用して、それが『ドイツ・イデオロギー』のことを指しており、そこで、マルクスが、唯物史観という新たな歴史観を開示したと述べている。マルクスは、唯物論の感性的人間活動の領域である歴史に対しても、「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える」(二六頁)という『資本論』第一版序文の言葉からうかがえるように、自然研究と同じ態度で臨んでいた。それは、マルクスが、『資本論』第二版後記において、「研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探りださなければならない」(大月書店 一分冊 四〇頁)と述べているなど、マルクスが、このテーゼで、従来の唯物論を人間実践領域への拡大したという加藤の解釈が正しいことを示している例は幾つもある。

 加藤は、永田広志の「「吾々が認識主観の社会的歴史的被制約性を云為するのは、認識主観における決定的なものを実践と見倣すからに外ならない。認識主観は先験的でもなければ、歴史の外にうづくまった抽象人でもない。それは社会的歴史的存在であり、かかるものとして階級社会においては階級性党派性を帯びている。理論の党派性は実践の、従って認識主観の党派性の不可避的帰結である」(『唯物論研究』六号二七頁)」(九八~九頁)という主張を、「それは、目前の現実的な対象そのものが、すなわち諸階層の相互関係の下に発展する人類の歴史的実践、およびその成果として生成しつつある全感性世界、全人類の全実践の現実的経験が、認識の基礎となっていないで、未来の生産力の高度な育成の担当者として期待される階層の実践という限定された実践が認識の基礎になっていることを意味する」(九九頁)と批判している。確かに、加藤は、別の論文で、唯物論的認識を階級と結び付けるのが党派の役割だと述べているが、彼の言うとおり、唯物論自体に、階級性・党派性はない。支配階級が、体制擁護のために、宗教や観念論を擁護する立場に立つから、それに対抗する立場が唯物論派として階級性・党派性を持つのである。『ドイツ・イデオロギー』では、プロレタリア(無産者)には、根本的革命への自覚(共産主義的自覚)が現れるが、それはこの階級の立場を洞察できれば他の階級にも形成されると述べており、やはり、唯物論自体に階級性・党派性はないことを示している。支配階級が階級性・党派性を持っている以上、それと根本的に対立する立場は、階級性・党派性を持たざるをえない。そして、この根本的革命の自覚(共産主義的自覚)の大規模な産出と目的の達成のためには、実践的運動、革命が必要だと述べている。つまり、自覚だけではなく、実践的運動、革命がないと、古い身の汚れをぬぐいおとして、新社会の基礎を作る力を身につけられない、感性的人間活動抜きに、理論意識だけでは新たな社会は出来ないと述べている。同じことだが、同書では、また、社会の諸条件ばかりでなく、生活の生産とその基礎にある総体的活動に反逆する革命的大衆の形成という条件なしには、この転覆の思想がいくら述べられても、実践的発展にはつながらないとも述べている。テーゼが、唯物論という場合に、弁証法がすでに入っており、支配階級が、それを本当に理解すれば、自らの没落を洞察することになるから、それはそうそうないことである。

 マルクスは、『資本論』第二版後記において、ドイツのブルジョア経済学が、ドイツ社会の特殊条件によって、フランスやイギリスの経済学の後追いしかできなかったのに対して、ドイツのプロレタリアートは、ドイツ・ブルジョアジーよりもはるかに明確な理論的階級意識をもっていたことを指摘した上で、「ドイツ社会の特有な歴史的発展は、そこでの「ブルジョア」経済学の独創的な育成をすべて排除したのであるが、しかしそれにたいする批判は排除しなかったのである。およそこのような批判が一つの階級を代表するかぎりでは、それは、ただ、資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とを自分の歴史的使命とする階級―プロレタリアートだけを代表することができるのである」(同前 三四頁)と述べたように、ブルジョア経済学は、ブルジョア階級の学的形態をとった支配的イデオロギーであり、それは、社会諸関係のブルジョアジーの頭への反映や分業によって独立化した専門家による幻想化の成果でもある。それは、ブルジョア社会(市民社会)を代表するのである。したがって、それを根本的に、弁証法的に批判する理論意識は、支配階級=ブルジョアジー(有産者階級)に全面的かつ根本的に対立する反対極にあるプロレタリアート(無産者階級)を代表する外はない。

 加藤は、知識における階級性や党派性を否定しないが、「自然および歴史の経験的科学は、全人類の総実践の歴史的限界によって制約されているとはいえ、それ自身として階級性、党派性の制限を止揚している。何故ならそれは階級や党派をも対象的に現実的規定の下で、全感性世界の歴史的発展の中にあるものとして把握することを知るが故である。階級や党派の意義を観念的に固定化し理念化して、それに実践の、従って、世界の、発展を当て嵌めようなどとはしないからである。真理は、真の知識は、ただ一つしかない―それは実証的経験的な科学である。すなわち唯物論である」(一二一頁)と主張している。では、テーゼが言う批判的活動とは何か。それについて、彼は、「唯物論がもし階級性をもっているとするならば、それは、それ自身の本性によって、人間活動を対象的活動として把握することを知り、実践的批判的活動の意義を領得する点にある。対象的現実の実践的批判においてのみ自己の解放の条件を持つ社会的グループがそれと結びつくからである。実践、対象的活動を、抽象化し観念論化し、実践的批判的活動の意義を認識の問題、ある視角からの評価または解釈の問題に昇華せしめるものが、そしてそれに対応して経験科学的認識を「批判的に」「指導」せんとするものが、当人の意図いかんに拘わらず、事態をどんなところへ導くことになるか、長い目で見ていたいような気がする」(同)と述べている。また、加藤は、「実践的唯物論という表現は二つの側面を含んでいる、すなわち実践の領域(歴史および社会における人間の活動)を唯物論的に経験的に現実に即して認識すること、この認識の指示する条件に従って実際的に現実の上で所与の人間社会を変化すること、これである。実践を主観の熱情として観念的に執えることなく、現実的対象として、対象的活動として、歴史的社会的現実の運動として、執えるもののみが、また現実を変革することを知る」(八二~三頁)と述べている。それは、対象的活動が、矛盾によって運動していることを頭脳に反映するから、「環境の変化と人間的活動あるいは自己変革との合致はただ革命的実践としてだけ把握することができるし、合理的に理解できる」(第三テーゼ)し、「この世俗的基礎そのものもまた、それ自体で、矛盾において理解されなければならないとともに、実践的に革命されなければならない」(第四テーゼ)というように、革命的、実践的・批判的な活動を生む。意志、意欲、目的というのは、矛盾によって生み出される。社会諸関係の集合としての人間というテーゼの規定は、人間は、関係、つまり、矛盾そのものだと言っているのである。『資本論』の中で、素材の生命の観念的反映とか、「ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創始者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これと反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換されて翻訳されたものにほかならない」(同前四〇~一頁)と述べているのもそういうことである。ここで言う観念的なものには、意志や目的、その表象ということが含まれているのである。意志と無関係な認識はないし、この連関をも唯物論は弁証法的に把握しなければならないのである。それは、第六テーゼが、「フォイエルバッハは、宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。実際には、それは社会的諸関係の集合なのである」と述べていることからもわかる。人間の本質は、対象の側、すなわち、意識の外部の対象たる社会的諸関係の側にあるので、いくら諸個人の主観的な抽象的意識を探しても出てこないのである。マルクスは、『資本論』の続く部分で、このような立場では、「個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(同前)と述べているように、最後まで、その態度を貫いている。

 加藤の言うように、弁証法的唯物論は、対象の連関を客観的に把握するものであり、それは自然科学と同じである。エンゲルスが、『自然の弁証法』で、弁証法を連関の科学と呼んでいるのは、連関は、矛盾そのものだから、経験科学への唯物論と弁証法の適用による科学の変革も、対象的実践であり、非唯物論的非弁証法的な科学は唯物論的弁証法的に変える科学領域における批判的実践が必要だということも忘れてはならない。感性的対象活動を対象として弁証法的唯物論によって認識した上は、それを変えることが肝要であることを知るからである。教育者自身が教育されなければならないというのは、そういうことも含めていると考えなければならない。

 マルクスは、市民社会の解剖学たる経済学の批判的研究を続け、『資本論』を書くが、その中で、ブルジョアジーがいかに自らの階級的利害によって、現実を見誤り、自己に都合の良い幻想を生み出し、それに科学的装いをほどこし、衒学的に学問化するかということや、物象が、現実の社会的諸関係から必然的に生み出され、その外観に人々がいかに騙されるかを繰り返し暴露している。例えば、「まさに商品世界のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(同前一四一頁)というようなところである。このような諸形態がブルジョア経済学の諸範疇をなしているので、批判抜きには、対象をしっかり掴めないのである。『資本論』第二版後記で、マルクスは、ドイツで、ヘーゲルがスピノザ同様「死んだ犬」扱いされているのに対して、ヘーゲルの弁証法を擁護した上で、「神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならないのである」(同前四一頁)と述べ、弁証法は、「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れのなかでとらえ、したがってまたその過ぎ去る面からとらえ、なにものにも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的である」(同前)と書いたが、これは、すでにテーゼの中で、言われていることである。最後に、マルクスは、「資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアには、近代産業が通過する周期的恐慌の局面転換のなかで最も痛切に感ぜられるのであって、この局面転換の頂点こそが、一般的恐慌なのである。この一般的恐慌は、まだ前段階にあるとはいえ、再び進行しつつあり、その舞台の全面性によっても、その作用の強さによっても、新しい神聖プロイセン-ドイツ帝国の成り上がり者たちの頭にさえ弁証法をたたきこむであろう」(同前 四二頁)と述べている。ここで、マルクスは、弁証法を、プロレタリアートという階級のみに限定されたものとして扱っていない。多くの人が、素朴な形での弁証法の意識を、例えば、喩えで知っている。ヘーゲルが、『小論理学』の「予備概念」で挙げている例に、「傲れる者は久しからず」や「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」があるように、誰でも弁証法を知り、理解できる(弁証法は、懐疑論のソフィスト論法と区別されないことがあるので、注意して区別する必要があり、ヘーゲルは『小論理学』の「予備概念」でそれをやっているので参照されたい)。恐慌はブルジョアジーの頭に弁証法をたたきこむにしても、かれらは、現存の社会諸関係の中で担っている役割や経済範疇の人格化などの障害物があるので、それを乗り越えて弁証法を理解するのは、通常は困難である。

 第一テーゼは、唯物論の対象が、古い唯物論の対象である自然に加えて、感性的人間活動実践、主体を加えたこと、そして、古い唯物論が、「革命的な」、「実践的・批判的な」活動の意義を概念的に把握しないのに対して、対象をその連関すなわち矛盾として掴む弁証法をもって、それまでの唯物論を変え、新たな唯物論を打ち立てる基本的な基準を示したのである。なお、加藤が引き起こした党派性論争での彼の主張は、一九三二年年一一月五日の唯物論研究会の討論で、公式に否定された。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (2)
|

唯物弁証法の資料

 以下は、ある資本論研究会に提出した資料です。

 普通、我々は、日常的に弁証法を使っているのだけども、そうとは自覚していないし、それを改めて研究しもしない。でも、事物が生成・発展・消滅の運動をしていることは、誰でも感じている。例えば、仏教弁証法などは、『平家物語』の有名な冒頭の部分、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・」などで、感覚的に、あるいは情感的に理解している。しかし、それと唯物論が結びつけば、唯物弁証法ということになるのだが、これ自体、研究し、考えなければいけないことである。そして、この弁証法論理学を身につければ、感覚と意識との間にリアルな結びつきを作れるのである。そうすると、感覚が解放されるということにもなる。

 ご参考までに。

 なお、流広志は、私のペンネームです。

唯物弁証法についての資料      by流広志


『フォイエルバハ・テーゼ』(古在由重訳 『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫2358頁)

今までのすべての唯物論(フォイエルバッハのもふくめて)のおもな欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとにのみとらえられて、感性的な人間的活動、実践としてとらえられず、主体的にとらえられないことである。したがって活動的な側面は、唯物論とは反対に抽象的に観念論―これはもちろん現実的な、感性的な活動をそのものとしてはしらない―によって展開された。フォイエルバハは感性的な―思想客体から現実的に区別された客体を欲する。しかしかれは人間的活動そのものを対象的活動としてはとらえられない。だからかれはキリスト教の本質のなかで理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、これにたいして実践はただそのきたならしいユダヤ的な現象形態においてのみとらえられ、固定される。したがってかれは『革命的な』、『実践的・批判的な』活動の意義をつかまない。

人間的思考に対象的な真理が到来するかどうかという問題は―なにも理論の問題ではなく、実践的な問題である。実践において人間はかれの思考の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思考の現実性あるいは非現実性についての論争は、―この思考が実践から遊離しているならば―まったくスコラ的な問題である。

環境の変更と教育とについての唯物論的学説は、環境が人間によって変更されなければならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、わすれている。したがってこの学説は社会を二つの部分―そのうちの一つは社会のうえに超越する―にわけなければならない。

環境の変更と人間的活動あるいは自己変更との合致は、ただ革命的実践としてのみとらえられ、そして合理的に理解されることができる。

フォイエルバハは宗教的自己疎外の事実、宗教的な世界と世俗的な世界とへの世界の二重化の事実から出発する。かれの仕事は、宗教的な世界をその世俗的な基礎に解消させることにある。しかし世俗的な基礎がそれ自身からうきあがって、一つの独立王国が雲のなかに定着するということは、この世俗的な基礎の自己分裂および自己矛盾からのみ説明さるべきである。だからこの世俗的な基礎そのものがそれ自身その矛盾において理解されなければならないとともに、実践的に革命されなければならない。だからたとえば地上の家族が聖家族の秘密として発見されたうえは、いまや地上の家族そのものが理論的および実践的に絶滅されなければならない。

フォイエルバハは、抽象的な思考には満足せず、直観を欲する。しかしかれは感性を実践的な人間的・感性的な活動としてはとらえない。

フォイエルバハは宗教的本質を人間的本質に解消させる。しかし人間的本質はなにも個々の個人に内在する抽象体ではない。その現実においてはそれは社会的諸関係の総和(ensemble)である。

 フォイエルバハは、この現実的本質の批判にたちいらないから、どうしても

(1) 歴史的な経過を無視し、宗教的心情をそれだけとして固定し、そして抽象的な―孤立した―人間的個体を前提せざるをえない。

(2) したがって本質はただ『類』(Gattung として、おおくの個人を自然的にむすびつける内的な、ものいわぬ一般性としてとらえられうるにすぎない。

 したがってフォイエルバハは、『宗教的心情』(religiöses Gemüt)そのものが一つの社会的な産物であるということ、そしてかれが分析する抽象的な個人が一定の社会形態にぞくしているということをみない。

 すべての社会的生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義へさそいこむすべての秘蹟は、その合理的な解決を人間的実践およびこの実践の把握のうちにみいだす。

 直観的唯物論、すなわち感性を実践的活動としてはつかまない唯物論が到達する最高のものは、個々の個人たちと市民社会との直観である。

 ふるい唯物論の立場は市民社会であり、あたらしいそれの立場は人間的社会あるいは社会的人類である。

 哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである。


流広志『フォイエルバッハ・テーゼをめぐって』

「第一テーゼは、唯物論の対象に、古い唯物論の対象である自然に加えて、感性的人間活動実践、主体を加え、そして、古い唯物論が、「革命的な」、「実践的・批判的な」活動の意義を概念的に把握しないのに対して、対象をその連関すなわち矛盾として掴む弁証法をもって、新たな唯物論を打ち立てる基本的な基準を示したのである」(『情況』09年6月号所収)


『資本論』第2版後記から。

「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。彼がその研究に携わっている諸現象の法則を発見することがそれである。そして、彼にとって重要なのは、諸現象が一つの完成形態をもっているかぎりで、また与えられた一期間のなかで考察される一つの関連のなかに諸現象があるかぎりで、また与えられた一期間のなかで考察される一つの関連のなかに諸現象があるかぎりで、諸現象を支配する法則、このような法則だけではない。彼にとっては、さらになによりもまず、諸現象の変化や発展の法則、すなわち、ある形態から他の形態への移行、関連の一つの秩序から他の秩序への移行が重要なのである。ひとたびこの法則を発見したとき、彼は、この法則が社会生活のなかで現われる諸結果を詳細に研究する。……したがって、マルクスが苦心するのは、ただ一つのこと、すなわち、精確な科学的研究によって社会的諸関係の特定の諸秩序の必然性を論証し、彼のために出発点および支点として役だつ諸事実をできるだけ欠陥なく確定するということだけである。このためには、彼が現在の秩序の必然性を論証すると同時に、この秩序が不可避的に、すなわち人間がそれを信ずるか信じないか、意識するかしないかには少しもかかわることなく、移行せざるをえない他の一秩序の必然性を論証すれば、それでまったく十分なのである。マルクスは、社会の運動を一つの自然史的過程とみなしており、この過程を導く諸法則は、人間の意志や意識や意図から独立しているだけではなく、むしろ逆に人間の意欲や意識や意図を規定するものだと考えている。……もし意識的要素が文化の歴史で果たす役割がこのように従属的なものだとすれば、文化そのものを対象とする批判は、ほかのなににもまして、意識のどれか一つの形態やどれか一つの結果をその基礎とすることはできないということは自明である。すなわち、この批判のためには、観念ではなく、ただ外部の現象だけが出発点として役だつことができるのである。批判は、ある事実を、観念とではなく、他の事実と比較対照することに限られるであろう。この批判にとっては、ただ、両方の事実ができるだけ精確に研究されて、現実に一方が他方にたいして違った発展契機をなしているということだけが重要なのであるが、なかでもとりわけ重要なのは、それに劣らず精確に諸秩序の系列が探求されるということ、すなわち、発展の諸段階がそのなかで現われる連続と結合とが探求されるということである。しかし、ある人は言うであろう。経済生活の一般的な諸法則は同一のものであって、人がそれを現在に適用するか過去に適用するかにはなんのかかわりあいもないのだ、と。これこそ、まさにマルクスの否定するところである。彼によれば、そのような抽象的な法則は存在しないのである。……彼の見解によれば、それとは反対に、歴史上の一つの発展期間を過ぎてしまって、与えられた一段階から他の一段階に移れば、別の諸法則によって導かれるようになる。簡単に言えば、経済生活は、生物学の他の諸領域での発展史に似た現象を、われわれに示しているのである。……古い経済学者たちは、経済的諸法則の性質を誤解していたので、これを物理学や化学の諸法則になぞらえたのである。……諸現象のもっと深い分析は、いろいろな動植物有機体と同じように社会的諸有機体も互いに根本的に違ったものであることを証明した。……じっさい、これらの諸有機体の全体構造の相違、その個々の器官の差異、これらの器官が機能する諸条件の相違などによって、同一の現象がまったく違った法則に従うことになるのである。マルクスは、たとえば、すべての時代、すべての所を通じて人口法則が同じだということを否定する。反対に、彼は、それぞれの発展段階にはそれぞれの固有の人口法則があるということを確言する。……生産力の発展が違うにしたがって、諸関係もそれを規制する諸法則も変わってくる。マルクスは、自分自身にたいして、この視点から資本主義経済秩序を探求し説明するという目標を立てることによって、ただ、経済生活の精確な研究がどれでもっていなければならない目標を、厳密に科学的に定式化しているだけなのである。……このような研究の科学的価値は、ある一つの与えられた社会的有機体の発生、存在、発展、死滅を規制し、また他のより高い有機体とそれとの交替を規制する特殊な諸法則を解明することにある。そして、このような価値を、マルクスの著書は実際にもっているのである。」

この筆者は、彼が私〔マルクス〕の現実的方法と呼ぶものを、このように的確に、そして私個人によるこの方法の適用に関するかぎりでは、このように好意的に、述べているのであるが、これによって彼が述べたのは、弁証法的方法以外のなんであろうか?」(大月文庫版3740頁)。

「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にとっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである」(同40~1頁)。

「ヘーゲルの弁証法の神秘的な面を私は三〇年ほどまえに、それがまだ流行していたときに、批判した。ところが、私が『資本論』の第一巻の仕上げをしていた…ときに、いまドイツの知識階級のあいだで大きな口をきいている不愉快で不遜で無能な亜流が、ヘーゲルを、…「死んだ犬」として、取り扱っていい気になっていた…。それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえした…。弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない…。/その神秘化された形態では、弁証法はドイツのはやりものになった。というのは、それが現状を光明で満たすように見えたからである。その合理的な姿では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとって腹だたしいものであり、恐ろしいものである。なぜならば、それは、現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れのなかでとらえ、したがってまたその過ぎ去る面からとらえ、なにものにも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」(同41頁)。


エンゲルス『自然の弁証法』

弁証法(連関の科学としての弁証法の一般的な性質を形而上学と対立させて展開すること。―したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、

量から質への転化、またその逆の転化の法則、

対立物の相互浸透の法則、

否定の否定の法則。

これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる思考法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている」(国民文庫(1)65頁)。


毛沢東『矛盾論』1937年)

「事物の矛盾の法則、すなわち対立物の統一の法則は、唯物弁証法のもっとも根本的な法則である。レーニンはいっている。「本来の意味からいえば、弁証法とは、対象の本質そのもののうちにある矛盾の研究である」。レーニンは、つねに、この法則を弁証法の本質と呼び、また弁証法の核心とも呼んでいる。したがって、われわれは、この法則を研究するにさいして、どうしても広い範囲にわたらなければならないし、たくさんの哲学問題をとりあつかわなければならない。これらの問題をすべてはっきりさせたら、われわれは根本において、唯物弁証法を理解したことになる。これらの問題とは、二つの世界観、矛盾の普遍性、矛盾の特殊性、主要な矛盾と矛盾の主要な側面、矛盾の二つの側面の同一性と闘争性、矛盾における敵対の地位である」(岩波文庫33頁)。


田辺元『哲学入門』

「…マルクスの物質というのは、もはや機械的な自然的な物質ではない。歴史的な物質、言葉を換えれば、人間の行為を通じて作為されつつあるところの現実の客観的な契機なのである。だからその物質は必然的な運動をなすとともに、同時に人間の自由を媒介契機にしておる物質でなければならない。……エピキュロスの原子が必然の運動をするとともに、いつでも自己を否定して、自己からそれる可能性、すなわち逸脱の可能という偶然性を含んだところの、自己矛盾的自己否定的な物質であるということにならざるをえない。……マルクスの物質もまた、自己自身の中に自己矛盾性、人間の自由な行為を入れておるような物質でなければならない。……物質にして物質でないという弁証法的性格は消滅してしまう……。もしそこに、具体的にマルクスの精神が、単に卒業論文に現われただけでなしに、いま述べたように『資本論』そのものの中にも現われているところの、観念的思考に先だつ人間の行為の突発性、行為の優先性を強調するようなそういうところにあるとするならば、その唯物論という傾向は、同時にいわゆる物質的というものではなくして、単に現実的客観的というものでなければならぬ。それは常に歴史的、したがって人間の自由行為を含んだものでなければならない。言い換えるならば、唯物弁証法ではなくして行為の弁証法でなければならぬ」(筑摩書房1924頁)


アルチュセール『マルクスのために』

「マルクス主義の見地における矛盾の種差的な差異は、矛盾の「不均等性」あるいは「重層的決定」であり、この「不均等性」は矛盾のうちに、その実在条件を反映している。すなわち、つねに-すでに-所与の複合的である全体―それが矛盾の実在である―の種差的な不均等性の(支配関係をもつ)構造を反映している。矛盾は、そのように理解された場合、あらゆる発展の原動力である。置換と凝結は、矛盾の重層的決定に基礎づけられていて、それらは自らの支配の性質により、複合的過程の、つまり、「事物の生成の」実在を構成する諸局面(非敵対的な、敵対的な、そして、爆発的な)を説明する。

弁証法というものが、レーニンがそう言っているように、事物の本質そのものにおける矛盾の概念、つまり、事物の発展とその非発展、事物の出現、事物の変容、事物の消滅の、原理であるならば、われわれは、マルクス主義の立場における矛盾の、こうした種差性の定義を通じて、マルクス弁証法それ自体に到達することになるはずである」(平凡社ライブラリー370頁)。


ヘーゲル『小論理学』

「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の認識の学的認識の魂である。普通の意識においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にもLeben und leben lassen(自他ともに生かせという意)と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをも認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのはなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(岩波文庫上246頁)

| | コメント (1) | トラックバック (0)
|

世界女性の日を作ったコロンタイ

 私は、フェミニストでは、ロシアのアレクサンドラ・コロンタイが好きである。

 下の記事は、ILOの広報に載っているものだ。ここで、1910年のコペンハーゲンの社会主義インターナショナルで「女性の日」(日本では国際婦人デーと呼ばれている)が設立された。そして、コロンタイは、社会主義インターナショナルのシュツッツガルト大会での社会主義女性インターについて書いた文書で、ブルジョアジーを恐怖させるだろう新たな危険である女性労働者の国際組織が誕生したと書いた。残念なことに、現在、コロンタイの邦訳や研究が少なくて、この文書も、マルキスト・インターネット・アーカイブスにある英文のものだ。ただ、近年、杉山秀子さんという研究者の「コロンタイと日本」というような題の本が出ているようである。

 その昔、昭和初期には、彼女の書いた小説が、「紅の恋」などと訳されて出て、それなりに一世を風靡したことがあるらしい。

 彼女は、最初、メンシェビキ派であり、後にボリシェヴィキになり、さらに、労働者反対派となったが、スターリン時代に、国内での影響力はなかったようだが、北欧諸国の大使などを務め、外国では有名であった。しかし、ブハーリンやトロツキーも、コロンタイを批判したことは、先に書いた。レーニンの考えは、前に、イネッサ・アルマンドへの手紙を紹介したが、当面、女性の経済的地位や政治的文化的な地位を改善することに力点をおくべきだというもので、彼女が主張した自由恋愛の要求を否定したものではない。それが本物になるための条件を作るのを先に進めるべきだというものである。条件がないのに、それを優先的に取り上げると、それは、経済的に力のある階級であるブルジョアジーの要求になるだけだからである。その点から言うと、現在の連立政権は、同一価値労働同一賃金などの男女の賃金格差の是正につながるような方策を掲げており、その他の男女差別的な諸制度の改善、そして文化的な改善などをあわせて推進すれば、多少今よりは自由恋愛実現の条件は揃うかもしれない。しかし、あんまり期待しすぎてもいけない。

 コロンタイが創った女性の日は、今や世界中の記念日となっている。しかし、アメリカの一部フェミニストのように、条件もないところに無理やり、自分のところの女性解放思想を武力によってでも押し付けるなどというのは、傲慢であり、帝国主義的なやり方である。おまけに情報操作やねつ造話が作られて流されているようで、そういう薄汚いやり方は、正義の感覚を麻痺させてしまう。

 余談だが、コロンタイを非難したご立派なトロツキーについて、ソ連東欧体制崩壊前は反スターリン派としては対抗上擁護することにはそれなりの政治的な意味があっったが、いまや、ソ連崩壊から20年となっている。国内の反体制派を情け容赦なく最先頭で殺しまくり、女性差別の公的発言を繰り返したような反動的な人物を持ち上げる理由は、今は、別にない。すでに、レーニン神話が解体されてしまった今日では、トロツキー神話が解体されたとしても、共産主義運動にとって、痛くもかゆくもない。それは、レーニンの場合、レーニン神話解体によって、それによってこそ、レーニンが甦るという逆説的な事態というものが、つまりはフェニックス型の再生があるからである。それはレーニンが自己批判を残していたからだろう。もっとも、レーニンについてはまだそれほどでもないが、マルクスは完全にそうなっている。ロンドンのハイドパークのマルクスの墓には、観光客が押し寄せており、並ばないと入れないし、おまけに、入場料さえとっているそうだ。トロツキーについてそうなるかどうかはわからない。フランスのトロツキー派が推進して結成された反資本主義党は、けっこうな数の支持を受けているらしい。かれらは、第4インターナショナルをやめ、今後も加盟する気はないという。トロツキーの文書はわかりづらくて、読みにくい。おまけに、マルクス、エンゲルス、レーニンと違って、自己批判が一つもない。スターリンの刺客ではなく、クロンシュタットで殺されたロシアの民衆の親族か友人の手で殺されていたら、そりゃ当然だと思ったかもしれない。

 

ILO広報誌よりの抜粋

 女性が多くの権利を手にする以前から、少なくとも女性の日というものはあった。国レベルの女性の日として最も古い記録は、1909年の米国に遡る。その翌年、コペンハーゲンで会合を開いた社会主義インターナショナルが、「女性の権利を求める運動をたたえ、普通選挙の達成を支えるため」に、「女性の日」を設立した(注1)。翌1911年、初めての「国際女性の日」がヨーロッパ全域で祝われ、仕事への権利、職業訓練、差別の廃止を要求する取り組みが行われた。

  この1911年の行事の席では、数々の情熱的な発言が主催者たちから聞かれた。そのひとり、アレクサンドラ・コロンタイはこの日について次のように述べている。「期待をはるかに上回りました。ドイツとオーストリアは(中略)沸き立ち震え立つ女性の海と化していました。いたるところで、小さな町や村でさえも、会合が開かれていました。どこの会場も満席で、(男性の)労働者には、出席をお断りしなければならないほどでした。男性たちは珍しく子どもたちと留守番し、専業主婦である奥さんたちが会合に出かけて行ったのです。」(注2)1917年、コロンタイとドイツの社会主義者クララ・ツェトキンの2人は、第1次大戦後のサンクトペテルブルグで3月8日にロシアの女性たちによって催された初めての「国際女性の日」に参加した。新しいソビエト政権の閣僚となったコロンタイは、3月8日を「英雄的な女性労働者」を祝うための公式な祝日にするよう、レーニンを説き伏せたのだった。ついにこの日は定着して世界中で行進が行われるようになり、1977年の国連総会決議は、加盟国に「女性の権利と国際平和のための国連デーとして宣言すること」を呼びかけた(注3)。

  今日では、「国際女性の日」を祝う行事、行進などの催しが、世界中の何百もの場所で行われている。ILOでは、1999年にフアン・ソマビア事務局長が、ILO事務局長として初めて理事会の「国際女性の日」に関する特別会合で演説し、ILOがジェンダー問題に関して「ペースを速める」ことを約束して(注4)、「国際女性の日」をILOの年間予定に組み入れて以来、この日を次第に大きく祝うようになってきた。このとき以来、自らの人権を求めて行進する女性たちの声は、多くの男性にも支えられ、ILOでも次第に大きくなってきている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

スピノザと唯物論

 スピノザは、『知性改善論』の冒頭で言う。

 一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験で教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した、我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。

 しかし、我々は、この社会・経済生活において、価値によって動かされており、基本的に、そうした価値基準に沿って行動していかなければならない。しかし、それは、実に、不条理なものである。スピノザは、「すべての幸福あるいは不幸はただ我々の愛着する対象の性質にのみ依存するという事実から生ずるように思われた」と述べているが、それは、この世で、それを求めるように駆り立てている価値物には、例えば、貨幣という、今では単なる紙の印刷物であって、ただ観念上、社会的に通用する価値物にすぎないものがあるからである。このようなものを愛着するように強いられているというのは、いかにも不条理であるが、それでも、そうせざるを得ないのである。スピノザは、したがって、愛着の対象が滅ぶべきものであるから、不幸や争いや嫉妬や悲しみや心の動揺は生じないだろうと言う。だから、永遠無限のものに対する愛なら、純な喜びをもって精神をはぐくみ、あらゆる悲しみから離れられるので、望ましいと述べるのだが、「しかし私が、ただ真剣に思量し得る限りという言葉を用いたのは理由のないことではなかった。なぜなら、以上のことを精神でははなはだ明瞭に知覚しながらも、私はしかしだからといって所有欲・官能欲から全く抜け切るというわけにはゆかなかったからである」と、その限界についても指摘している。

 そこで、彼は、「若干の生活規則」を立てる。

 しかし我々はその目的に至ることに努め、知性を正しい道に返すように努力する間も、必然的に生活しなければならないのであるから、その故に我々は、まず何よりも先に、次のような若干の生活規則を、良きものとして前提しなくてはならない。すなわち、

  1. 民衆の知能に適合して語り、且つ我々の目標達成に妨げとならないことなら、すべてこれを避けないこと。なぜなら、出来るだけ彼らの知能に順応すれば、我々は彼らから少なからぬ利益が得られるし、その上、こうしておけば、我々が真理を説く際、彼らは喜んで耳を貸すであろうからである。
  2. 快楽は、健康を保つのに必要な程度において享受すること。
  3. 最後に、生命と健康を支え且つ国の諸風習-我々の目的に反しない限りの-に従うのに必要なだけ、金銭その他のものを求めること。

 これは古代の唯物論者エピクロスが立てた生活規則と似ている。一見すると、これは穏健な規則のようだが、現代のように、功利主義が支配している状況の中では、守るのがかなり困難な規則である。例えば、食の快苦ということでも、美味美食番組が流されたり、大食い競争の類が流行ったり、同時にダイエット・ブームが引き起こされているというアンバランスな状態があって、極端に、ぶらされる。大食い競争では、食べることは、快を越えて、苦に転じても、それよりも大きな快としての賞金を得るために懸命になるという具合に。適度というのは、現在の経済社会の中では、維持するのが難しいのである。

 他方で、近代唯物論者のフォイエルバッハは、こうした知性に対して、感性を対立させ、後者に真実性を与えていて、有限なものへの愛・情熱・衝動・意志・欲望・幸福欲を対置しているが、それはスピノザのように対象の認識からではなく、自然としての人間の主体的本性から出てくるのである。それは、資本蓄積の欲望に駆られて、欲望の解放を要していた当時のブルジョアジーの幸福欲を思想的に代表するものだった。そして、彼は、社会を、たんなる我と汝の共同体としてとらえる。そして、彼にとって、苦悩は感性的存在に付き物の必然として現れ、後は、対立する感性の間のバランスによって、快苦は相殺されるとされている。つまり、快苦のバランスゲーム、力関係が現れる。例えば、熱さの苦には、水のような冷たさの快が、対置される。また、共同体における我と汝の間の争いの苦は、愛という快によって消されると言う。対象の性質ではなく、主体の態度が感性を規定するという具合になってしまうわけである。スピノザの場合、快苦は対象の性質から来るのであって、対象性を持っている。つまり、それは外部に原因を持つ。そこで、対象的活動ということが出てくるのであり、それを指導するのは、明瞭な観念であり、完全性という目的への意志であり、そのような明瞭な観念が与える喜びなのである。

 フォイエルバッハは、結局のところ、我と汝の共同体を、感性的宗教的紐帯としての愛の共同体と思考的共同体としての国家に二分化している。それは、「われわれ」の構成において、基本を自我と他我という我-汝の二者関係に基礎を置くからである。彼は、明瞭なる観念としての他者を含む社会関係を捉えられないので、排他的な愛の共同体の限界を超えられないのである。人々は、社会関係の中で、個別的なものばかりではなく、抽象的なものをも愛する。つまり、価値という抽象に愛着を持つ。守銭奴、その他フェティシズムの存在は、それを証している。それが頭の中にしかない観念であろうとも。それは、同時に、価値の具体化としての富としての金銀や商品などの生身の表象として思い浮かべられるだけにすぎないとしても、愛着の対象となるのである。それは社会的な価値であって、個人的な価値ではない。

 それに対して、スピノザのように、この世のあらゆる価値を空しいものと感じてしまい、それに対して、別の生活規則を立てて、別の価値を追い求めることは、大変なことだ。

 なお、これは、宗教的と思われるだろうし、フォイエルバッハはそう言うのだが、そうではない。現代の、現代化された諸宗教は、すでに、「利」を中心価値にしていて、実質的には、宗教団体は、この世で富を追求するなどの現世利益を得るための人脈や資本獲得の手段として利用し合う利益共同体になっている。つまり、その実質的教義は、効用主義なのである。日本の新興宗教の大部分は、創価学会を始め、ほぼ、そうである。信仰には、必ず、現世利益、例えば、病気が治るなどの功徳という効用があるという具合に説いているのだ。

 スピノザは、ユダヤ教の一派やカルヴァン派の一派などから、無視論という非難を受けて、迫害されたために、屋根裏部屋に隠れ住むはめになった。フォイエルバッハも、1848年革命のフランクフルト国民議会に参加するが、反動が勝利した後、大学教職の道を絶たれ、田舎に隠棲することになる。しかし、ビスマルク反動の「社会主義者取締法」体制の中で、ドイツ社会民主労働党と労働組合は発展し続けており、彼もまた晩年にはドイツ社会民主労働党に参加するが、唯物論的な言辞をまき散らしたにも関わらず、基本的には、観想的生活を続けて、生涯を閉じた。これは、エピクロスが、当時の諸宗教と闘いつつ、一つの団体を形成し、共同生活を築き、残されているものは少ないが、膨大な文書を書いたと言われているのとは対照的である。スピノザが、隠棲を余儀なくされたとはいえ、レンズ磨き職人として働きつつ、大部の『エチカ』や政治論文も書いているし、当時、オランダの新興ブルジョア階級を代表していた政治家ヤン・デ・ウィットと親しく交わったこととも対照的である。

| | コメント (0) | トラックバック (3)
|

アメリカ現代思想理解のために(35)

 冷戦の終了によって、自由民主主義の勝利が、謳われた。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり』(1992年)は、ヘーゲルを使って、人類史は終わったと宣言した。しかし、彼は、この段階で、人々が労働と闘争をやめて、主体性を失って、再動物化すると言ったことはあまり喧伝されなかった。「歴史の終わり」万歳! というわけではなかったのである。

 さらに、ハンチントンは、『文明の衝突』(1996年)では、西欧文明圏以外に、ラテンアメリカ文明圏、アフリカ文明圏、イスラム文明圏、中国文明圏、ヒンドゥー文明圏、ギリシア=ロシア正教文明圏、日本文明圏、の7つの文明圏があり、それらが西欧文明圏を凌駕しつつあるという図式を示し、「グローバルな多文化性」を持つ必要があると唱えた。

 ベンジャミン・バーバーは、『ジハード対マックワールド』(1995年)で、グローバル化に対する伝統的な価値や共同体的な信念を取り戻そうとする傾向が台頭しているという。そして、バーバーは、政府と民間セクターの中間を占める「市民社会」領域で、強制を伴わない形の「公共性」を創出するのを再活性化すべきだという。そして、緩い連合体としての、グローバルな政府を作るべきだと主張した。それを彼は「強い民主主義モデルの市民社会像」と言ったという。「それは、たとえ異なった価値観を持ち、利害対立があるとしても、共同の土台を造り、公共的な仕事にコミットし、共通の関係を探求しようとする活動的な民主的市民の共同体であるという」(230~1頁)。

 ロールズは、国際正義の問題について、「寛容」の限界をどこに置くかというをポイントにしているという。そして、「階層社会」という概念を作っている。「「階層社会」とは、政教分離がなされていおらず、宗教的性格を強く帯びており、階層制がある社会」(233頁)だという。

 ロールズは、「リベラルな正義」を受け入れることが可能な、「秩序ある階層社会well-ordered hierarchical society」の条件として、①平和を好み、外交や通商などの平和的手段を通して自らの正当な目的を達成しようとする社会であること、②「正義の共通善的構想に導かれた法体系」を有しており、国内の各種の集団の意見を政治に反映させることのできる代表機関や議会などの「道理に適った協議階層制 reasonable consultation hierarchy」がそれに伴っていること、③生存権、自由権、財産権、自然的正義の原則によって明示される形式的平等などの基本的人権を尊重していること―の三つを挙げている(233頁)。

 その上で、拡張主義的な無法国家に対しては、「万民の法」を支持する諸国民衆の社会が、自らの安全と安定を守るための交戦権を有するとして、「正戦」論を唱えた。彼は、民間人を標的にしないとか、兵士や民間人の人権を守らなければならないとか、正義に適った制度を作るための援助しなければならないとかいろいろ条件を付けているのだが、「正義」の戦争があるということを認めているので、非戦論者ではない。

 2000年、ネグリ、ハートの『帝国』が出る。この本で、彼らは、アメリカ的な憲法=国家体制(constitution)を利用することを企てたという。帝国としてモデルにしているのは、ローマ帝国で、「一定の条件を満たせば、他民族でもローマ市民権を獲得し、法の下での平等な扱いを受けることのできる開かれた法=権利の体系を備えていた」(239頁)。このような帝国モデルが、グローバリゼーションの進展によって、世界規模で生成しつつあるという。それは、国連、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)や国際条約によってできる国家間関係、多国籍企業、メディア、宗教組織、非政府組織(NGO)などのネットワークなどである。グローバリゼーションによって、ハイブリッド(異種混交)的なアイデンティティが形成されつつあるという。〈帝国〉の市民=臣民たちは、多様なアイデンティティを持ちながら、不定形な連帯関係を結んでいる、かれらを、スピノザにならって「マルチテュード(multitude:群衆=多数性)とネグリたちは呼んだ。しかし、『帝国』をざっと読んだ限りでは、マルチテュードにこうした性格を与えているのは確かだが、同時に、かれらは、これにアイデンティティを奪われた存在としてのプロレタリア性という性格も与えていることも見逃せない。

 さらに、仲正氏は、アメリカは、アーレントやトクヴィルが指摘した市民たちの自由な活動を保証する開かれた憲法=国家体制を創出したというのだが、しかし、やはり、憲法を作った「フェデラリスト」たちは、分権主義に対しては、セクト(宗派)と呼んで非難しており、あくまでも中央集権的な共和制、大統領制=行政権の優位ということを強調していたし、それが、かれらは妥協を余儀なくされたとはいえ、その後、その強化が、繰り返し行われてきたのであり、湾岸戦争やその後の一連の戦争は、そのことを如実に示したと思う。ネグリたちは、マルチチュードとしての人民が、相互作用によって、権力を在り方を想像/再想像する状態「構成的権力=憲法制定権力constituent power」が絶えず働いているという。それは、アメリカ的理念が、アメリカ合衆国の現実を超えて世界化している状態だという。しかし、2009年の今日、こうした議論は、多少、現実離れしているように見える。しかし、マルチテュードについて、「ボッセ」とか、いろいろ面白いことを言っていて、それはそれで、今日のグローバリゼーションに対する対抗運動の性格についての興味深い指摘だとは思う。一時は、保守的・愛国主義的な言説が支配的になったこともあるが、それが挫折したのは、「リベラル」の力によるものには見えなくて、むしろ、グローバリゼーションの中でのマルチテュード的な力によるところも大きかったように見える。その場合に、それが、「マルチテュード」のプロレタリア性という性格と関係があるように見えるのだが、どうだろう?

 9・11事件後、アメリカでは、あっという間に、愛国主義が広まり、ネオコン一派が台頭した。対テロ戦争としてのアフガン戦争に対して、リベラル系の知識人の中からもこれを支持する者が出、「フェミニスト・マジョリティ」も、これを支持した。2002年2月には、60人の知識人が連名で、「我々は何のために闘っているのか?」という公開書簡を出し、ブッシュの対テロ戦争支持を表明した。この中に、社会民主主義的な左派系知識人のウォルツァーが入っている。9・11事件については、その真相がわからないこともあって、いろいろな見方が流されているが、重要と思えるのは、世界貿易センタービルの性格であり、そこに入居している企業の性格である。ここには、アメリカ国債の多くを扱っていた金融会社など、金融の中枢を担う企業が多く入居していた。もちろん、そこで働いていたのは、エリート中のエリートたちである。それに伴う様々な雑業にはもちろんそうではない人々も大勢働いていたはずだが、基本は、そういう人たちである。この国債取引企業がオフィスを失ったために、数日間、アメリカ国債の取引がストップしたという。犠牲者の問題で言うと、消防士が多く犠牲となったことについては、果たして、当局の適切な判断と指示がなされたのかということを指摘する報道もあった。

 「リベラリズム」の黄昏という小題の下で、仲正氏は、リベラリズムの二大巨頭の一人であったドゥウォーキンの『ここで民主主義は可能か?』(2006年)で、彼は、「保守派」と「リベラル派」の不毛な対立を憂い、民主主義的な討論の「共通基盤」を再度見出すべきだとして、①あらゆる人間の生命に固有の潜在的価値があること、②各人には自らの生においてその価値を実現する責任があること、の二つを候補にあげているという(249~250頁)。つまり、生存権に基礎を置くべきだということだ。それを、民主主義の基礎に置かなければならないということなのであれば、それは、もはや、国家的権利としてではなく、非国家的権利の場に移されなければならないことを意味することは明らかであるように思われる。もはや、それは、民主主義という次元を超えたところの次元に歴史が到達し、その課題の前に立ったことを意味していると思うのである。アメリカにおける思想的な「保守派」と「リベラル派」の両方の衰退は、それを意味しているのではないだろうか?

 こうして見てみると、今、アメリカ現代思想は、「保守」、「リベラル」の衰退の中で、コミュニタリアンや「差異の政治」派など様々な潮流がある百花斉放的な様相にあるようだ。他方で、伝統的な近代経済学の中からも、アフマティア・センのように、厚生経済学的に、人間が、社会的に人間らしい活動をすることを可能にする「潜在能力」を問題にする者も出ている。

 これで終わりである。

 全体を通して言えば、土台が欠けた議論が多いという印象である。基本的に、戦後、波はありつつも、世界経済の右肩上がりの成長が続いてきて、そうした経済的な拡張の余地が増え続ける中で、アメリカでのこの手の議論が行われてきたが、今、アメリカは金融恐慌に見舞われ、また、世界経済の成長率が戦後初めてマイナスに転じる見込みとなり、自動車のビッグスリーの危機に象徴されるように、フォーディズム体制は崩れつつある。その中で、アメリカでの思想形成の営みがどうなっていくのか? 少なくとも、ローティ的な悠長な議論は後景に退くことになりそうな気がする。オバマもそうだが、アーレントやネグリ=ハートやその他が、いくらアメリカ建国期の憲法に体現された理念や構想に立ち返ろうとしても、あまりにも条件が違いすぎて、それはユートピア的すぎるだろう。思想やイメージとして、それを言ったところで、どうしようがあるというのか? そして、リベラリズム、である。戦争を求め戦争を支持し戦争によって、産軍複合体制、そして、人の交流も含めた国・独占資本一体となった国家独占資本主義を強化する傾向を固めようとするリベラル、しかし、それが黄昏れる中で、そこに展望はあるのだろうかと思わざるを得ない。では、どのような思想が人々の多くを捉えるのか。それは、これからの問題だ。

| | コメント (0) | トラックバック (5)
|

アメリカ現代思想理解のために(34)

 今度は、「プラグマティスト」のローティが登場する。

 それまでの現代哲学の「認識論的枠組み」から「言語論的枠組み」へのパラダイム転換を、「言語論的展開linguistic turn」と呼んだのは彼だという。彼は、「心=主体」を「自然=客体」を正しく写す「鏡」のようにイメージすることを批判し、このメカニズムを探求して、全ての知を基礎づけようとする哲学の態度を「基礎付け主義fundationalism」と呼び、批判した。さらに、彼は、哲学者相互の会話としての「哲学」という営みには、最終的真理への到達を目的とする「認識論epistemology」タイプと「会話者同士の合意を目指しながらも、意見の不一致もさらなる対話のための生産的な刺激と見なす「解釈学hermeneutics」タイプがあるという。そして、「解釈学」タイプをよしとする(199~200頁)。このタイプの哲学者として、デューイ、ジェイムズ、パースらのプラグマティスト、ハイデガー、後期ウィトゲンシュタイン、ガダマー、フーコー、デリダ、クワインらをあげているという。

 『哲学に対する民主主義の優位』(1988年)で、彼は、自由主義的な社会理論には、「人権」を非歴史的で絶対的なものと見なすものと、特定の共同体の中の合意の産物と見なす、二つのタイプがあるとしたという。前者のタイプとして、ドゥウーキン、後者のタイプとして、デューイやロールズをあげ、彼は、後者を支持した。彼は、アメリカ建国の父の一人ジェファソンが、宗教的価値観と政治を切り離したことを評価する。つまり、政教分離を評価したのである。そこで、「寛容」がテーマとして焦点となったという。ロールズは、『正義論』では、「無知のヴェール」の下で、リベラルと同じように考えるという「人間本性論」的な想定をしているが、その発想自体が間違いだというのである。ロールズは、哲学についても、「寛容」の原理を適用し、いろいろ違いがあっても、結果的に望ましい社会秩序について大体同じようなイメージを持っていれば、その重なり合った部分に限定して、合意すればよしとしたのである。結果オーライという意味で、プラグマティズムと似ている。

 「人間本性、自我の本性、道徳的動機付け、人生の意味などに関わる「哲学的人間学」によって、民主的社会のための社会理論を「基礎付ける」必要がない」(203頁)ので、デューイは、これを支持するという。「ジェファソンやデューイは、「アメリカ」を民主主義的自由主義のための共同の「実験」と考え」(同)たと彼は考えた。しかし、ここで、哲学者としては、二つのタイプを含む哲学の議論を前提として、こういう区別をすることを戦術的態度として選択することは可能であるが、しかし、価値観の問題を、私的領域の私事へと追放することは、それを哲学の対象から放り投げ、例えば、宗教にそれを委ねるということになりはしないだろうか。それは、プラグマティズムの提唱者であるジェイムズによって、哲学と宗教の間の分業というかたちで言われていたように思われる。

 ローティは、『偶然性・アイロニー・連帯』で、「リベラルな共同体」は可能かと問うている。イギリスの保守的な政治哲学者オークショットによる「統一体universitas」と「社交体societas」の区別を取り入れた。「統一体」は、共通の目標によって統一された仲間意識を持った集団であり、「社交体」は、互いを保護するために協力しているが、同調することは避けようとする人々の一団である(205頁)。「リベラルな共同体」の市民は、共同体の道徳性が偶然の産物であることを知っており、偶然性の感覚を身につけている。

 「リベラル・アイロニスト」は、近代市民社会で支配的になっている「自由」観さえも偶然の産物であるにすぎず、普遍性は存在しないと見なしている点で、ポストモダン的である(206頁)。これは、唯名論か?

 「アイロニスト」の代表として、フーコーがあげられる。フーコーは、近代市民社会が、理性の名の下に特定の文化パターンを強制し、抑圧することを告発し、それに「主体=臣民」として飼い慣らされすぎているので、リベラルな社会の自己変革は不可能だと考える。「新たな抑圧を生む可能性のある、いかなる制度的改革に対しても警戒し続けるという意味でのフーコーは、「アイロニスト」であるわけだが、それは彼が人間の根底に決して抑圧されるべきではない「何か」を想定するからだと、ローティは言う(206頁)。これに対して、ハーバーマスは、間主体的に発揮されるコミュニケーション的理性に訴えかけるという戦略を取る。それも、普遍的な理性を想定している点で、取り入れられないという。彼はどうも唯名論者みたいだ。

 ローティは、『わが国を達成する―邦訳タイトル『アメリカ 未完のプロジェクト』(1998年)で、「プラグマティズム」をアメリカ固有の左派思想と見なし、世界最初の階級制度のない協同的連邦国家(cooperative comonwelth)を実現した時には、愛国主義的な左派の言説が優勢だったという。ニューディールもそうだという。彼は、「改良主義的左翼」の伝統として、ハーバート・クローリーや、世界産業労働者組合(IWW)のデブスやデューイなどをあげる。ところが、60年代後半以降、「新左翼」が台頭したが、かれらは、文化闘争にばかり力を入れて、現実的な改革に関心をあまり持たなかったと彼は言う。それを、ローティは、「文化左翼Cultural Left)と呼んだ。彼は、「文化左翼」が、差別の構造や深層心理を暴き出し、告発することばかりに集中して、現実の経済的改革に関心を持たないので、実際にはただの傍観者に留まっていると批判した。つまり、現代版ヘーゲル左派ということか?

 ローティは、「アメリカ」を、民主主義の夢を完成する壮大なプロジェクトと見なす、詩人ホイットマンやデューイの思想を引き継ぐ、「改良主義的左翼」、そして左翼としての愛国心の必要性を説いたという。これは、「左翼と右翼の言説が交差するようになった“ポスト・モダン状況”をよく表しているように思われる」(210頁)と、仲正氏は言う。

 ロールズの議論は、『政治的リベラリズム』(1993年)になると、「異なる教説の間の関係を政治的に調整する役割に徹する“リベラリズム”を強調するようになったという。

 政治的リベラリズムは、その政治的目的にとって、各々が分別がある(reasonable)けれど相互に両立し得ない包括的教説が複数存在することが、立憲的な民主体制の自由な諸制度の枠内で人間的理性が行使されたことの正常な帰結と見なす。政治的リベラリズムはまた、分別ある包括的教説は民主的体制の本質的部分を拒絶しないと想定する。無論、一つの社会には、分別がなく非合理的で、狂ってさえいる包括的教説もまた含まれているかもしれない。その場合、問題は、そうした教説が社会の統一性と正義を掘り崩さないように抑制することである。(political Liberalism,Columbia University Press,1996,p.ⅹⅴⅲ)

 ロールズは、カントの公共的理性という概念を借りて、互恵的な関係のために他者と共存する意志がある者同士、そして、自由で平等な市民の「代表者」たちが、社会的協力のための公正な条件」をめぐって行う討議の進め方や条件付けの公正化を行うことを提案する。

 全ての理性=理由付けが、公共的理性=理由付けであるわけではない。教会、大学、そして市民社会の他の多くの連合体による非公共的理性=理由付けもあるからである。貴族制あるいは独裁制の政権では、社会の善が考慮される時、それは―そもそも存在しているとしても―公衆(the public)によってなされるわけではなく、誰であれ支配者によってなされることになる。公共的理性=理由付けは、民主的人民の特徴である。それは民主的市民たちの、同等の市民権(scitizenship)のステータスを共有する人たちの理性=理由付けである。彼らの理性=理由付けの主題は、公衆の善、つまり正義の政治的構想が、社会の諸制度の基本的構造、そしてそれらの制度の目的や目標に対して要求するものである。(Ibid,p.213)(213~4頁)

 ロールズの「公共的理性」とハーバーマスの「コミュニケーション的理性」は、ともに、カントに基づいている。これらは、立憲的な諸制度に立脚した民主的意思形成のルールを問題にする議論で、全ての市民に開かれた公開フォーラムでの憲法の本質的要因に関わる討論を行う場合のルールを問題にするということである。これは一見すると、ソフトに見えるのだが、例えば、ハーバーマスは、クリントンによるコソボ人の人権を理由にしたユーゴへの人権のための戦争へのNATO軍へのドイツの参加を支持した。あの時、コソボに対してユーゴ軍が軍事介入して、大量の避難民が発生したことは確かだが、即座に軍事介入しなければ、大量虐殺とかが起きたような状況だったか、今振り返ってみると、そこまでは言えない状況だったと思う。言い分はあると思うが、結果的に見ると、ドイツ軍の戦後初の域外派遣を求めたハーバーマスの主張は、愛国主義的な性格を持ったと言わざるを得ない。もっとも、彼は、その後、自己批判しているのだが。ローティが生きていたら、先のイスラエルによるガザ空爆からのパレスチナ人虐殺攻撃に対してどう言っただろうか? 多元的リベラル派のウォルツァーは、イスラエルの攻撃を支持した。それも、積極的に支持した。その現実の姿を見る時、「リベラル」な合理的人間・理性的人間、そういう思想を代表する哲学者の野蛮さや残虐性を感じざるを得ない。後で出てくるが、9・11事件後のアフガニスタンへの軍事介入に、「リベラル」な左派系知識人、60人もが連盟で支持を表明したり、フェミニストの「フェミニズム・マジョリティ」が、やはり、これを支持したというあたりの問題である。

 サンデルらコミュニタリアンたちは、政治の道徳化に向かっていったという。

 ウォリンらは、ジェファソンの民主主義推進論と対立した強力な政府を作ろうとしたフェデラリストとの対立を振り返り、アメリカ憲法の歴史で、人民管理をめざす中央集権的な官僚権力と、地方自治、脱中央集権的、参加型民主主義、平等主義的な感情などの対立と緊張関係がずっと続いてきたと指摘しているという。また、古代ギリシア・ローマの都市国家、マキャベリ、イギリスのハリントンらの共和主義と民主主義論を結び付けて議論する「共和主義的な民主主義論」の流れがあるという。仲正氏は、アーレントの公共性論をこのタイプに分類している。

 民主主義論としては、「討議(熟慮)的民主主義論」が台頭したという。それに属するのは、ハーバーマス、ベンハビブ、ジョシュア・コーエン、そしてロールズもこの系譜に連なるという。仲正氏の解釈では、「討議的民主主義」は、公共的討論によって結論の正当性を得ようとするものだという。それに対して、「差異の政治」を重視するラディカル・デモクラシーの一派は、民主主義的な合意の下で隠蔽される差異の浮上を目指しているという。例えば、ムフは、予め合意不可能な他者を排除した上での討論のフォーラムではなく、新たな他者たちを参入させる継続的な闘争が必要で、それを「闘技的多元主義」と呼んだという。また、同書にはないが、スピヴァクも、ハーバーマスやロールズを、サバルタンの排除を問題にしていないとして、批判している。

 最低限の「自由と民主」が確保され、かつ“共通の敵”がいなくなった状態で、「自由」と「民主」をそれぞれ充実させようとすると、対立が目立つようになってくる(222頁)。

 この過程は、同時に、公的領域が私的領域に浸透する過程である。一般に、公による私への統制とか介入というのは、軍国主義の問題と思われているために、この過程についてあまり気付かれていないが、家庭内暴力の問題では、まさに、この問題が問われているのである。ドメスティック・バイオレンスから家族を守るためには、公的あるいは準公的な監視や介入が必要だという議論が起きたのである。似たようなこととして、トクヴィルの『アメリカの民主主義』に描かれているような、ピューリタンのコミュニティで、学校に通わせない親から、コミュニティの長が、親権を取り上げることを合法化していたということもある。親権は、公にとって、不可侵の私的領域の問題ではなかったわけである。さらに、グローバリズムが、私的領域の市場化を推し進めたために、さらに私的領域は、公的領域に侵されることになる。一般に誤解されているように、私企業は、私的領域の存在ではないし、ましてや市場はそうではないということだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)
|

アメリカ現代思想理解のために(33)

 「差異の政治」潮流は、フーコやデリダなど「ポストモダン」の影響を受けた。

 1960年代公民権運動やフェミニズムは、近代市民社会の枠内の「市民」としての「平等」と「自由」を求めたが、70年代以降台頭した「差異の政治」は、「市民社会」自体が、白人男性中心文化の歴史的遺産であり、「マイノリティ」や「社会的弱者」のそれとの統合は、市民としての幸福につながらないと考えた。「差異の政治」派は、「市民社会」的白人男性文化によって「上」から与えられた自己の「アイデンティティ」を問い直し、再構成しようとした。「権利」は、市民社会が市民を統治しやすくするための権力装置にすぎないとかれらは考えた。かれらは、近代的理性にとっての「他者」の排除による「理性的な主体」の構成を問題にするフーコーや、同一性(アイデンティティ)を押し付けてくる西欧中心主義(男根ロゴス中心主義)に取り込まれることのない「他者」や「差異」に焦点をあてるデリダの考えを取り入れているように見えるという。

 これらの議論は難解で、政治的実践に繋がりにくい。しかし、76年に、「ポストコロニアル・スタディーズ」の旗手と言われるスピヴァクが、『グラマトロジーについて』を英訳した頃から、政治的に受容されるようになったという。彼は、デリダのテクスト分析の手法で、イギリスの植民地のインドで、男性中心の文化の二重に抑圧されてきた女性、特にカースト制度の外で、自分たちを語る言葉を持たなかった「サバルタン(被従属民)」の女性たちの物語をめぐる研究に結び付けた。パレスチナ人のサイードは、「西欧文明の他者」としての「東洋」が一面的で均一的に表象されていることを問題にした『オリエンタリズム』を78年に出した。

 こうして、アメリカでも「ポストモダン」の影響が浸透していき、それに結び付いた「差異の政治」は、「アイデンティティ」を問題にするという点で共通する「多文化主義的コミュニタリアニズム」派のテイラーの議論と親近性を持ったという。

 テイラーとウィリアム・コノリーとの間で論争が起きた。コノリーは、「革命による政権転覆のようなことを目指すのではなく、近代の自由主義の枠内で「自己」「正義」「共通善」についての理論を構築すえきと考える」(171頁)姿勢では、テイラーと同じだが、「共通善」によって、差異が抑圧され、不可視化されることを問題にした。そこで、差異のための抵抗の場を確保するするために、自由主義自体をラディカル化することを強調したという。両者は、84年から85年にかけて、フーコーの主体=権力論の理解をめぐって議論した。

 フーコーは、・・・露骨な暴力を振るうことなく、監視装置や医療制度、教育などの様々な「生のテクノロジー」を用いて、正常=規範化(normalize)された「主体」を構成し、その「主体」を“内側”からコントロールし、躾ているという権力論を展開している(172頁)。

 それに対して、テイラーは、それは一面的であり、市民社会の「自由」のメリットを各主体が、享受している面があるし、近代の「解放」的側面もあることを認めるべきだと言ったという。また、主体としてのアイデンティティは、臣民化(従属化)というばかりではなく、共同体の中での生活を通して獲得されていく真の「自己」のアイデンティティに至る一つのステップであることを主張した。しかし、それでは、他者性が排除されるとコノリーは批判した。コノリーは、「正常な個人」を前提としているので、「差異」を隠蔽してしまう、つまり、合理的人間という前提があり、それが、理性と同一視されているというのである。だから、それは、最終的には、大きな共同体による「予定調和」への信仰に陥り、信者以外を排除することになる。そういう共同体的なアイデンティティを固定して、画一的に正義を実行すれば、新たな抑圧や排除を生む。だから、「差異」の政治化、アイデンティティを固定させない、戦闘的なリベラリズムが必要だという。

 それに対して、テイラーは、「自己のアイデンティティ」を確定するには、他者からの「承認」、それも一人の人格としての「承認」が必要だという議論を展開したという。そして、以下のような興味深いことを述べているという。

 テイラーに言わせれば、各人の尊厳の平等な承認を、画一的なアイデンティティの押し付けを意味するものとして否定的に理解すべき必然性はない。それは本来的には、各人が普遍的に有しているはずの「自らのアイデンティティを形成し、定義する潜在能力」を尊重することを意味しており、文化間関係においては、他の文化に属する人々にも自分たちと同じ文化形成能力があることを認め、彼らの文化を自分たちのそれと同等に尊重することに通じている(175頁)。

 彼は、アイデンティティを形成することを、普遍的な潜在的能力と呼んでいるが、共同体毎に異なる神をシンボルとして掲げていた太古の日本の共同体のことを考えてみれば、それは歴史的な力というふうに言った方がよいだろう。「八百万の神」とは、無数の共同体ということであり、それらは、共存し戦争もする中で、相互承認し合っていたと考えられる。「他者」が別の共同体に入る時、まずは、その共同体の掲げる神や仏に詣るのは、承認の儀式であると考えられる。「他者」の敵対性の解除、相互承認があって、自己のアイデンティティが形成されるという彼の考えは面白い。

 つづいて、「公/私」二分論の問題である。公事と私事の区分は、明らかに、歴史的に変化している。それは、網野善彦氏の中世史研究からも明らかだが、問題を近代に限定すると、近代においては、「アーレントがモデルにしていた古代のポリスの「公/私」の場合とは違って、市場を中心とする経済活動のかなりの部分が「公的領域」に属する」(178頁)。一般に、古典的自由主義者、例えば、ハイエクのような人が言うのとは違って、市場の拡大に伴って、私的領域に公的領域が入り込むようになったのであって、それは、単に政治的な要因によるものではない。だから、これは、社会主義の問題ではないのだが、かれらはそうした現実から目を背けるのである。もちろん、ハイエクは、自由主義の祖国と見なしているイギリスにおいて、当時、公的領域が私的領域にどんどん介入していく事実を見て、それを全体主義への傾向であると憂慮した。そうなったのは、経済的理由と同時に戦争に備える必要があったからである。現代日本においては、例えば、根拠が曖昧なままに、事実上の禁煙法体制が敷かれている。ちなみに、たばこを悪とするのは、健康うんぬんと関係なく、すでに17世紀のアメリカのある州において法律化されたことがあるように、別の理由がある。禁酒法もそうである。フーコーなら、これは、「生」を管理するテクノロジーをもった権力の発動だと言うところである。また、今、子育てからなにから、公的領域が介入していない領域はほとんどないと言っていい状況にある。

 それに対して、「近代市民社会における「私的領域」というのは、主として「家」を中心とした親密な関係の人たちだけから成る、“公共性が低い”と見なされる領域である」(178頁)が、そんな領域は今ほとんど存在しない。市場に巻き込まれていない私的領域は少なくなった。もちろん、それでも、そういう領域は残されてはいるが。しかし、家庭内暴力の問題などを通じて、あるいはフェミニズムが、私的領域=家をめぐる権力関係=家父長制を問題の俎上にのぼせ、批判したことなどから、「公/私」二分論は、問い直されざるを得なくなった。

 「リベラル」が前提にしている「公/私」二分論を攻撃したのは、ラディカル・フェミニズムである。『性の政治学』で、ケイト・ミレットは、家は家父長的な権力関係の場であることを暴露し、ラディカル・フェミニストたちは、「私的なものは政治的である the pribate is political」というスローガンを掲げた。こうして、「私的領域」への国家の不介入を前提とするリベラル・フェミニズムとラディカル・フェミニストたちは分岐する。

 リベラル・フェミニズムが、「公/私」の境界線自体には触れないで、公的領域における職業生活などにおける差別撤廃と、機会均等という意味でのジェンダー間の平等を目指すのに対して、ラディカル・フェミニズムは、男性中心の経済を支えてきた近代的な核家族制度と正常=規範化された性の在り方を解体し、社会構造全体を変容させることを通して、新たなジェンダー・アイデンティティを産出することを目指す(180頁)。

 ここからが難問である。近年、「セクシャル・ハラスメント」や「ドメスティック・ヴァイオレンス(DV)が問題として浮上してきた。「これまで「法」の俎上に載せられなかった私的領域での親密な人間関係における権力・暴力の問題が、法的正義の基準によって判定されるべき問題として浮上してきた」(182頁)のである。その場合に、英米法では、合法/違法の司法判断は、「通常人=合理的人間reasonable man」の基準によってなされてきたが、この「合理的人間」こそ、白人男性中心主義として、ラディカル・フェミニストが批判するところのものであった。男性が多数を占める裁判官の想定する「合理的人間」の基準と、女性の常識的感覚が異なる場合がある。そして、ラディカル・フェミニストの急先鋒として、マッキノンが登場する。

 彼女は、『セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウーマン』で、セクハラは、「個々の女性に対する差別であるだけではなく、男性と女性の間の根本的な不平等を再確認・強化する公でもある」(183頁)と主張したという。

 「ポルノグラフィ」についても、猥褻性の問題としてではなく、女性に対する男性の暴力的な支配を、表象的に再確認する行為として位置付け、ラディカル・フェミニズムの活動家・ジャーナリストであるアンドレア・ドゥウォーキン(1946-2005)らとともに、人種、宗教、性による差別禁止を定めた「公民権法」に基づいて「ポルノ」を実質的に非合法化していく運動を展開している。

 このことは日本でも問題になったことがあるが、未だに、ポルノと性暴力の間の因果関係は十分に立証できていないように思われる。アメリカでは、ポルノグラフィの全面禁止と検閲を正当化しようとしたマッキノンと言論の自由という観点からこれを批判したロナルド・ドゥウォーキンの間で、議論が持ち上がったという。マッキノンの主張は、文化を基本的にプロパガンダと煽動、洗脳の手段と見ていることから来ていて、いわば、決定論的である。これは、ナチスの宣伝映画によって、ファシズムが広まり、戦争という結果を引き起こしたと言っているようなものである。もっと言えば、これは、表象あるいは意識が、人の行為を一義的に決定するという考えである。この場合、現実には、「ポルノグラフィ」の多くは、女性差別的であるのかも知れないが、表現としては、かつての男尊女卑的な、女性に、性的表現や言動や行為を、はしたないとか、女性らしくないとか、様々に規制してきた家父長的抑圧からの解放、あるいはその闘争を表現したものもあると思う。そこで、それに対して、ドゥウォーキンが、「言論の自由」が女性解放の闘いの武器となったことを指摘して、それを過度に制限するようなやり方を批判するのもうなずけるところはある。

 この類の問題は、フェミニズムばかりではなく、例えば、日本でも「ちび黒サンボ」問題とかいろんな形で問われたことである。こういうことの議論で、前提として、思想や観念や言葉などが一義的に人々の行為を規定するという観念論があることを指摘しておかねばならない。この種のことで、問題になっているのは、社会関係であって、それは意識が規定するというものではない。これと似た議論として、例えば、ローザ・ルクセンブルグやクララ・ツェトキンなどのドイツ社会民主党のフェミニストたちが、売春婦を組織したことをめぐって、起きた議論がある。売春は禁止されるべきか、それとも、労働者として権利を主張すべきかということである。いずれにしても、問題を性暴力に絞り、その原因を「ポルノグラフィ」に一元化し、それを国家暴力=司法権によって強制的に禁止することで解決することが、女性の解放をどれだけ前進させることになるのかは今のところ不確かだと思われる。

 歴史的に見れば、例えば、近代以前の日本では、性を私的領域における私事としてプライベートな領域の秘め事とするようなことは、一般にはあまりなかった。例えば、江戸時代、銭湯は混浴だったし、今は浮世絵などは、ヨーロッパの印象派に影響を与えたことなどから、たいそうな芸術作品としての扱いを受けているが、その中には春画もあった。廃仏毀釈で、仏像ばかりではなく、雑多な民間信仰の対象物まで破壊・撤去される前は、性器をかたどったシンボルが、平気でそのへんにあって、それを祀っていたのであり、近代になってから、それらが禁止され、タブー化されていったのである。性をめぐる「公/私」の区分は、歴史的に変化したもので、女性的なものとしての性的振る舞いや表現もまた、近代的価値観によって、規制されてきたのである。それは、いきなり近代から始まったアメリカでは理解するのが難しいことなのかもしれない。初期移民で優勢だったピューリタンたちは、極めて厳格な宗教共同体を築き、性に関する統制も厳格だった。そういう傾向は、ついには、禁酒法時代をももたらすことになるわけだが、そういう歴史的条件の下で、この問題を考えるのと、そのようなものが外から持ち込まれて変化したという歴史経過を辿った日本ではちょっと違うのである。初期のアメリカ移民の中での女性について書かれたアメリカ史を読んでみると、まず、女性で多かったのは、いわゆる家政婦で、それから、妻であり、彼女たちは、戦士の妻、銃後を守る愛国女性という位置を割り当てられた主婦だったという。

  なお、最近、性犯罪の問題が、マスコミなどで大きく取り上げられた際に、平行して少年犯罪の急増とか犯罪の急増とかいうことがさかんに強調されたが、これはデータ的に根拠がないことが明らかになっている。データ自体は、その時も、誰でも見られるようになっていたのだから、この時の騒ぎは、明らかに、政治的な狙いを持った煽動である。データ的根拠がないにも関わらず、少年犯罪に厳罰を科すことは、増え続ける少年犯罪を抑止する効果があると唱えられたが、それに世間は煽られたわけである。

 オーキンは、「リベラル」の土俵に乗ってジェンダー正義を唱えたという。彼女は、家庭内の不平等を、「賃金労働/非賃金労働」の配分という視点から論じているという。女性は、働いても男性より賃金が安いので、結婚して、家事労働を選択するが、それによって、稼ぎ手たる夫に従属するものとなり、それが家庭内暴力の原因にもなるという。離婚しても十分な収入が見込めないので、男性の横暴に耐えることになるというのである。それを正すには、ロールズと『正義論』とウォルツァーの「複合的平等」を組み合わせるのがよいという。しかし、彼女は、公的領域での緊張から解放されるために、親密圏としての「私的領域」は重要だという。しかし、女性にとって、「私的領域」たる家庭が、強い緊張をもたらす場であり、従属の場であるとすれば、それは、男性だけのための「私的領域」ということにすぎないだろう。

  それに関係するものとして、ドイツのフランクフルト学派がいる。「理性的な主体」のアイデンティティ形成の画一性や、人々に現実を見えなくさせているイデオロギー(虚偽意識)の生成をめぐる問題を探求したが、その後、ハーバーマスが出た。彼は、「アーレントの公共性論を取り入れて、市民的公共圏における民主的な意思形成のための条件を探求するコミュニケーション的行為論・正義論を展開」(188頁)した。それに対して、マッカーシー、ベンハビブ、フレイザーらは、彼の期待する市民的公共圏が、市民社会の主流であるブルジョア階級の白人男性中心主義的コミュニケーションから排除される人々を無視する傾向があると批判した。フレイザーは、公/私の境界線を流動化させることで、公共圏から排除されている人々を双方の領域で承認されるための道を開くのだという。

 仲正氏は、「「リベラリズム」が、アイデンティティ、価値観などに関わる問題に介入しないということはもはや全くの自明の理ではなくなった」(190頁)としている。つまり、「リベラリズム」が追求する平等や正義は、領域間で連関し、一方から一方へと波及していくことによってほり崩されてしまうので、介入せざるを得なくなったというのである。思うに、これは、「リベラリズム」が支配的思想になったためである。

| | コメント (0) | トラックバック (3)
|

アメリカ現代思想理解のために(32)

 新保守主義派のニスベットは、「新しい専制主義」で、個人間の差異を平準化する平等主義が、結果平等を求めるために、ソ連型の中央集権的権力機構をつくり出すだろうと言ったという。それは、ルソーの「社会契約論」を元凶として、ロールズの『正義論』にも受け継がれたというのである。彼が問題にしているのは、差異の除去であり、それは、テクノロジー、ソーシャル・ワーク、心理学などの手段で、人々の内面をコントロールしようとする「ソフト化」された権力の作用の結果である。彼は、「プラトンからルソーに至るまでの主要な政治理論家たちは、最大の権力は、個人の行為だけではなく、その行為の背後にある心までも形作る権力であることを言明している。テクロノロジー、あるいは他の手段を使って、文化、社会生活の小さな単位、そして心それ自体の奥底にまで浸透できる権力は、身体にしか到達できないような種類の権力よりも、その物理的な残虐さのことを考えてみても、遥かに危険なのは明らかである」twilight of authority,Liberty Fund,1975,p.207)(157頁)と言った。

 なるほど、これは、仲正氏の言うように、ミクロな権力構造を問題にしたフーコーの議論に一見似ている。あるいは、フランクフルト学派のマルクーゼの『一次元的人間』あたりとも。しかし、例えば、フーコーの場合、規律型権力と管理型権力というように権力形態を幾つかに分けて議論しており、さらに、自己への関わりというかたちで、アリストテレス的な自己統治の技術をポリスの公共性、それこそ、サンデルの言う「共通善」と共通するような自由としての倫理を打ち出している。そして、それらの権力は、種々の物的装置を通して作動するのであって、なにかしら、既に存在する個人の心なるものを言葉だけによって、操作するというものではない。権力は、形態としての主体を作り上げるのであって、心を作るわけではない。それに対して、ニスベットは、予め、心を個人にすでに存在するものとして前提していて、基本的に観念論、あるいは、プラトンからルソーに至るまでの観念論の基礎の立場を共有しつつ、ものを言っている。両者は、似て非なるものである。

 86年に出した『保守主義』では、ニスベットは、バークからトクヴィルからクリストルまでを総括して、保守主義は反国家権力的だったと述べているという(158頁)。彼は、「保守主義」は、近代国家が、平等の名の下の専制国家になっていて、「家族、血縁、近隣、共同体」などの絆を守る主張であるという。面白いのは、彼が、「リベラルな福祉国家」の権力の増大に反対して、“善き共同体”のモデルを「過去」に求める発想法を、「保守主義」と「マルクス主義的社会主義」が共有していることも認めている」(同)ということだ。

 続いて、『アメリカン・マインドの終焉』(1987年)のアラン・ブルームは、ユダヤ系ドイツ人で亡命者のレオ・シュトラウスの影響を強く受けた。シュトラウスは、新保守主義派の教祖的存在と言われている。ブルームは、個人の自由に重きを置く近代の個人主義的な自由に対して、人間としての卓越性や政治的徳を重視した古代の政治哲学を見直すべきことを示唆し」(159頁)たという。彼は、ロールズの『正義論』を、差別しないように強制する統治を提案していると批判したという。そして、彼は、共通善を追求してそれに適った人間像を探求したソクラテス、プラトン、アリストテレス、マキャベリ、ロック、モンテスキュー、ルソーらの古典的テクストをしっかり学ぶ人文諸科学の「教養」が重要だと言った。

 他方で、ラディカルな黒人解放運動やラディカル・フェミニズムは、支配的な「白人男性」(WASP)と違う、「社会の中で違ったあり方をする権利」を主張するようになった(161頁)。黒人らしく、女性らしく、同性愛者として生きる、そういった諸権利を主張する「アイデンティティ・ポリティクス(同一性の政治)」あるいは「差異の政治」と呼ばれる運動が台頭してきた。このような多文化主義が、教育に持ち込まれていく。それに対する反発として、ブルームの本が書かれたのだという。両者の闘いは、90年代に入って、ヒートアップし、「文化戦争Culture War」と呼ばれるまでになった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧