ドストエフスキー『未成年』の共産主義話
これは、ドストエフスキーの『未成年』の中で、主人公の語り手、私の母の法律上の夫のマカールという人物との会話の一部である。この後、マカールの共産主義とは何かという質問に、「私」が答えるということが書かれているが、知識がぼんやりしていて、うまく説明できなかったという部分が出てくる。
ペレヴェルロフという人の『ドストエフスキーの創造』(1912年)という評論を読んだら、19世紀ロシア文学には、ゴーゴリ系とプーシキン系の二つの流れがあって、文体からして、明確な区別がつくという。ゴーゴリとドストエフスキーに共通する特徴の一つとして、こうした長い告白があるということがあるという。
ペレヴェルロフによれば、ドストエフスキーは、プロレタリアート登場前の革命心理を的確に深く把握し、描いた作家である。マカールのこの発言は、キリスト教共産主義的なもの、キリストが修行した荒野の宗教共同体、あるいは、フランチェスコ派の修道院を想起させるものだ。それに対して、ロスチャイルドを理想とする主人公が、共産主義をあいまいにしか説明できなかったのは、あるいは、ペレヴェルロフの言うように、プロレタリアが登場する前の、当時のロシアの階級階層関係からして、当然だったのかもしれない。主人公は、領主階級の父親と農奴出身の母親とを持ち、世界的な富豪のロスチャイルドを理想とする青年であるから、共産主義について明確に認識しえなかったというふうにも言えるかもしれない。でも、知識としては、十分それを得ることは可能である。
しかし、巡礼者のマカールが、夢想主義を退けて、金を半神と言って、富の分配、贈与というようなことを主張しているのは、サン・シモン主義的にも聞こえる。
「それはなるほどそのとおりだが、でもそんなふうにちゃんと自分をおさえて、溺れずにいられる者は、そんなにたくさんはいないのじゃないかな? 金は神ではないが、でもやはり半神みたいなものだ―大きな誘惑だよ。そこへもってきて女というのもあるし、自意識と嫉妬というのもある。そこで大きな目的というものを忘れて、目先のつまらんことにかかりあうようになる。ところが荒野ではどうだろう? 荒野ではなにものにもわずらわされることなく自分を鍛えぬいて、どんな偉大な功業にでもそなえることができるのだよ。アルカージイ! それに世間にはなにがあるというのだね?」とかれはさも腹立たしげに叫んだ。「夢ばかりじゃないか? まあ砂粒を岩の上にまいてみるんだな、その黄色い砂粒が岩の上に芽を出したら、世間の夢想で定まるだろうさ、―わしらのあいだではこんなふうに言われてるんだよ。キリストさまがおっしゃっておられるのは、そんなことじゃない。『行きて、汝の富をわかちあたえよ。そして万人の僕となれ』こうおっしゃっておられる。それでこそ誇りや、羨望で幸福になるのではない、限りなくひろがる愛によって幸福になるからだよ。そうなれば十万や百万ぽっちの少しばかりの財産ではなく、世界中を自分のものとすることになるのだ! 今はあくことを知らずに集めて、ばかみたいにやたらにまきちらしているが、そうなればみなし子も、乞食もなくなってしまう、だってぜんぶが自分のもので、ぜんぶが自分の親類だからだよ、ひとつのこさず、ぜんぶを買いとってしまったからだよ! 今は、どんな金持も自分の高い者も自分の命数というものにすっかり無関心になってしまって、どんな楽しみを考え出したらよいのやら、もう自分でもわからんというようなことが珍しいことではないが、そうなると自分の日々と時間がまるで千倍にもふえたようになる、それというのも一分でも無駄にするのが惜しくなり、一分一秒を心の悦びと感じるからだよ。本からばかりでなく、万象から知恵をくみとって、いつも神と向きあわせているようになる。大地が太陽よりも輝きをはなって、悲しみも、溜息もなく、ただ限りなく尊い楽園だけがあるようになるのだよ・・・」
こうした感動的な言葉をヴェルシーロフがひどく好んだらしい。そのときは彼もちょうどそこにいあわせた。
「マカール・イワーノヴィチ!」とわたしはすっかり興奮してしまって、いきなり彼をさえぎった(わたしはその晩のことをよくおぼえている)。「じゃああなたは共産主義ですね、そういうことを説くなら、それは完全な共産主義ですよ!」(『未成年』工藤精一郎訳、新潮世界文学14 404~5頁)
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