アフリカ

アフリカの植民地支配の問題など

 この間、『インド史』(山川出版)をざーと読み、インドの多様さに驚かされたけども、さらに、次回「難民講座」で、アフリカでなぜ難民が大量に発生するのかの理解を深めたいと思い、出たばかりの勝俣氏『新・現代アフリカ入門』(岩波新書)を読んだ。そこでも驚くべき多様性にぶつかり、めまいを感じた。ある時から、こういう多様なものに触れるのが好きになり、抽象的なもの、単純なものに対する興味が後退した。現象学的な抽象的なものへの還元というものに興味がいった時期もあったが、やはり現実的なものに対する興味の方が今は強い。『東北学』もそうで、表面的には似たり寄ったりになってきたかに見える東北の表層を探っていくと、思わぬ差異、多様性、豊かな具体性にゆき当たるということがある。これがマルクスが言う顕微鏡的方法なんじゃないかと思ったりする。だから、いま運動圏で流行りの「市民」という抽象物はあまり好きじゃない。そこでは抽象的な連帯性しかなく、生き生きとしたものをあまり感じないからである。「日の丸」も嫌いである。あんなマル印に価値を感じることは、自分の感性の豊かさをないがしろにするものでしかないと思う。俺は、あんな程度のデザインを愛でる程度の貧弱な感性の持ち主ではないんだという反発を覚える。右翼でも左翼でもないという抽象も嫌いである。右と左のどっちでもないという抽象的立場よりも、右と左という差異があるだけ豊かで具体性があるんだと思う。どっちでもないという抽象的立場はそれよりも後退していると思う。右でも左でもないというのは、元左翼(転向者)が転向という立場変化を自己表明し、総括した上でないと素直に聞けない言葉である。そうでなければ、かつて言ってきたことを思い出してもらって、その責任をとってもらわなければならない。

 ただ、並行して、ネグリが来日したこともあり、ネグリ、ドゥルーズなんかの現代思想も読みなおしているが、それには、岩波書店の雑誌『思想』で國分功一郎氏のドゥルーズ論がわかりやすくて、なるほどと思ったことがあった。最新号で完結したのだが、最後のところで、フーコーの権力論とそれへのドゥルーズの批判のことが書いてあり、さらに、根本的なところで違いがあるというのもわかった。それはコトとモノという古典的とも言えるテーマに関わる。物自体というテーマについては、カントの折衷的立場、物自体はあるかもしれないが、われわれは現象しか認識できないというもの、レーニンが不可知論への妥協的立場として批判したものがある。レーニンの『唯物論と経験批判論』はそれを主張したものだが評判がよくない。しかし、そこで、物は実在するという唯物論的立場を貫くことは、確信、態度の形成ということとして言われていた。最後のところで、それは党派的立場、党派の形成と実践的態度の形成の課題として提起されたのである。レーニンは、マルクスが『フォイエルバッハ・テーゼ』で言ったように、観想的立場ではなく、実践的態度で、理論・哲学・認識論の問題を扱ったのである。中身が多少お粗末であっても、この基本的立場と態度を貫き通したことが重要であり、これこそ継承すべきものである。理論は感性的活動の成果であって、感情、感覚、心理的態度、幻想、イメージ、意志、情熱、等々と切り離せない実践的主観(主体)としての人間活動なのである。主観か主体か、この点も議論があり、ここでは加藤正に従って、どっちもあまり違いはないということで、主観としておく(理論の党派性論争については、以前に、『情況』に2度書いている)。日本共産党は、それができず、絶えず、セクト主義的な党派性を基本にして、ブルジョアジーや帝国主義に屈服し続けている。唯一絶対正しい日本共産党は、傷つけたり、潰されたりしてはならないという自党派防衛(セクト主義的エゴ)が優先され、人民闘争の利害、階級闘争の利害、大衆運動の利害は、それに奉仕すべきもの、従属すべきものとされてしまうのである。そして、共産党一般党員は、ただ動員に従い、機関紙を配り、金を集めるだけの存在であればよく、歌って踊って、人集めをしていればいいというだけの存在におしとどめられるのである。社会矛盾を感じて大衆運動に参加してくる人は、そこで感じたものや得たものをさらに伸ばそうとし、知識も増やし、経験を積んで成長しようとするが、それが党の限界をはみ出すと、後ろから闘う者の足を引っ張ってきたのが、日本共産党の歴史なのである。かれらは、現存の社会関係を超える高い水準の社会関係を作ることはまったくなく、せいぜいがそれを現存のブルジョア的恋愛関係という低いレベルの社会関係に押しとどめる。その点では、フォイエルバッハと同じ限界を持っている。フォイエルバッハは、恋愛関係を最高の人間関係に祭りあげたが、マルクス・エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』でそれを乗り越えて、さらなる高度な社会関係の立場へと飛躍している。共産主義者は絶えずそれを超えようと努めようとしている。その努力をしない者は共産主義者ではない。

 アフリカ諸国の多くが、先のアルジェリアの人質事件でも明らかになったように、宗主国が親宗主国的で傀儡的な政権を軍事的や謀略的な方法でも常に維持し続けてきた相変わらずの植民地状態にあるということが顕になってきた。第2次世界大戦後の独立運動弾圧で、大虐殺もやっている。それが、ヨーロッパでの移民差別とつながっていることは、先日、日仏会館で観た映画『スカーフ論争~隠れたレイシズム~』やピエール・デヴァニアン氏の講演からもうかがえた。映画の中で、フランス共産党長老のレイシズム的発言が引用されていた。映画では、教職員組合員も含まれると思われる学校教師たちから、スカーフを着用しているという理由で、別室に隔離され、一方的に退学させられた元生徒の証言があった。イスラム原理主義=テロリズム=フランスの「進歩的」「民主」社会への脅威という図式、イスラム=家父長制=女性差別の象徴としてのスカーフというイメージは、左翼にも浸透し、フェミニズムも分裂したという。しかし、このことは、帝国主義を、明確に、批判・暴露し、解明し解くことが、インドでもそうだが、アフリカを理解する鍵になっていることを意味しているとしか考えられない。ポスト・コロニアルは、実際に帝国主義と植民地支配がなくならないと始まらないのである。

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エチオピア関係資料(3)

エチオピア史の中で、目に付くことの一つは、古くからの紅海を通じた中東・アラブ世界との交流関係の存在である。

アクスム朝は、エジプト、ギリシア、アラブ、インド、と交易し、象牙、金、皮革、奴隷、の取引をした。象牙と引きかえに、銅、鉄、銀細工の宝石、ガラス製品、上質の武器、が交換された。6世紀後半には、ビザンチン帝国と友好関係にあり、ササン朝ペルシアのホスロー1世率いる遠征軍に破れて、エジプトのアレクサンドリア総主教を頂点に頂くコプト教の一派(東方教会の流れを汲む)であるエチオピア正教会(1959年独立教会となる)が多く信仰されているキリスト教徒の多い国である。この伝説は、13世紀のソロモン王朝時代の、「国王頌詠」(ケブラ・ナガストKebra-Nagast)に記されている。エザナ王が、コプト教に改宗したのは、310年代とされる。5世紀には、キリスト教化が進んだ。ユダヤ教徒もけっこういたようだが、1974年の王政廃止後、多くはイスラエルに移住したようである。

伝説どおりなら、紀元前10世紀頃から、3千年の王国の歴史を持つことになる。スピルバーグの映画「レイダース 失われたアーク」で有名な、アーク(聖柩)伝説(モーセがシナイ山で神から直接授かった戒律(モーセの十戒)が刻まれた石を収めたとされる聖なる柩(契約の箱)。エルサレムの神殿に収められていたとされるが、その行方は不明となっているとされている)を持ち、それがアクスムの教会に納めてあるという。そのレプリカを各地の教会に置いて、信仰している。それから、キリスト教の宗教会議(公会議)において、ローマ・カトリックなどから異端とされるキリストの人性と神性は融合しているとする「単性論説」(451年の公会議で異端として排斥された)を取るとされる。また、エチオピア高原が原産地とされるコーヒーは、イエメンのモカという港町に集積され、船積みされたことから、モカが品種名になっているという。エチオピア東南部のオグデン地方は、砂漠地帯で、隣のソマリアと同じソマリ人が遊牧生活をしているが、イスラム教徒が多い。さらに、南部には、人口比では最多のオロモ人、その他、多くの少数民族が居住し、その一部は差別されていたという。

 エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれたが、帝政時代、支配階級である王族や貴族や軍幹部、高級聖職者は、大地主であり、小作人を使っていたという。1974年に、帝政を打倒し、社会主義宣言をしたメンギスツ臨時軍事行政評議会は、土地の国有化などを掲げてはいたが、実際には、土地改革はあまり実行されなかったようである。それもあってか、農業の近代化は遅れ、生産性が低く、農業が雇用約85%、国民総所得(GNI)の約45%を占めている農業国だが、貧困に陥っている。しかし、「アフリカの青い空」というブログの記事には、05年の選挙の争点に、ゼナウィ政権が進める国有地の民営化反対の野党との対立があったと言う。

  アメリカとの関係を深めるゼナウィ政権が、新自由主義的な民営化、構造改革路線を推進しているのに対する反発や不満というのが、反政府運動にはあるようだが、重要産業は国営化されているようだが、土地についてはどうなっているのか、今のところ、それがわかる資料を見つけていないので、わからない。また、エリトリアの独立を認めたが、国境紛争が発生すると、国内のエリトリア系住民を1998年から99年にかけて、5万2千名、国外追放したと言われる。エチオピア政府は、1992年以降、全国民に民族名を記載した身分証明書を発行した。エリトリア人は、市民権を否定され、財産を没収され、「侵略者」と呼ばれたという。

  2006年12月、イスラム法廷連合(ICU)勢力と対立するソマリア暫定政府を支援し、ソマリアに進駐、米軍と共に、首都モガディシオを空爆した上、市内で、市民を虐殺したと、ヒューマン・ライツ・ウォッチが批判している。2005年の議会選挙では、与党が勝ったが、選挙の不正を告発する野党支持者などの抗議活動を弾圧し、多くの死者、逮捕者を出した(註2)。また、ギンボット7(ginbot7)などの活動家を、暴力的政府転覆の陰謀などの罪状で、逮捕・起訴している。また、エチオピアでは、米軍が、対テロ戦争の過程で、テロ容疑者として治安機関が拘束した人々を、米国に輸送するための中継地を提供し、同国内の施設にかれらを留め置き、そこで、拷問などによる米国治安機関による尋問などを認めているとして、アムネスティ・インターナショナルが、エチオピア政府を非難している(「ケニア/エチオピア/ソマリア アフリカの角:「テロとの戦い」での人びとの違法な移送」(「アムネスティ・インターナショナル」 2007 年 6 月))。先のギンボット7の裁判での検察の求刑内容を見ると、死刑、財産没収があり、また、欠席裁判もやっている。ギンボット7は、現政権を、ethnic regim(民族政治体制)と呼んでいる。

 他方で、『新アフリカ史』(講談社現代新書)では、「浮遊するアイデンティティ」という小見出しの下で、「アフリカにおいても、新たな実験が始まっている。エチオピアでは、単一のネイションを前提としない国家が成立した。1991年に政権の座についた新政府は、徹底した多元主義政策を推進し、93年にはエリトリアの分離独立を円満に承認した(第10章3節参照)。94年に制定された憲法では、各民族に分離独立の権利を(名目的ではなく)保障した。国家は緩やかな統合体となったのである。これは近代市民社会の国家観と決別した、新たな国家形態の実験である。/こうした緩やかで単一でないアイデンティティは、実のところ、アフリカ社会が長年つくりあげてきた社会編成の原理でもある。それは柔軟で多元的なアイデンティティに基づく社会と言ってもよい。たとえばある民族に属する人間が、移住や生活上の便宜によって、別の民族に帰属することは珍しいことではなかった」(同書303頁)と、ゼナウィ政権を評価している。これが、先進国知識人の現実離れした見方であることは、事実が示している。

(註1)「この若き皇帝は、1974年、皇帝の座を追われ死亡するまで、近代的開明君主と封建的大領主という矛盾した二つの側面をあわせもちながら、長期間、独裁的な執政を続けてきたが、そのあいだエチオピアの社会構造は基本的には変わらなかった。それは、皇帝を頂点として、皇帝に任命された州知事、州知事に任命された藩主あるいは郡長官というピラミッド型の構造であった。藩主にはグルドと呼ばれる、各世帯から税金や労働力を調達する権利があり、恣意的に人々から余剰を奪い取った。さらに領主から臣下に与えられた広大な土地では、50~70パーセントという法外な小作料が課せられた。こうした封建的な貢納関係が、のちにエチオピア帝政を自壊させた最大の原因であった」(『新アフリカ史』講談社現代新書301頁)。

(註2)「エチオピアの総選挙その後 エチオピアでは選挙が5月に行われましたが、開票結果の一部で不正があったと野党が指摘し、一部開票結果の発表の先 送りと、一部の選挙区での再投票が行われました。そうこうしている内に、大学生などの若者の不満が爆発し、投石などによるデモがアジスアベバ市内で発生 し、治安当局がこれらの鎮圧を試みた際に死者が出て、少々物騒な感じになっています。政府は野党が企てた暴動だといい、野党は、政府が暴動を起こさせて野党の評判を落とそうとしているなどち主張しあっています。一般の市民は、前政権や戦争の経験もまだ記憶に新しいからか、混乱がこれ以上大きくなって欲しくないなあと、息を潜めて状況を見守っていると言う感じがします。政府と野党の話し合いもあったそうですので、このまま落ち着いていけばよいですが、選挙結果の発表は7月8日まで延期されていますので、その間に何か起こるかもしれません。私の住んでいるアダマは工科大学で少々の騒ぎがあったらしいですが、全体としては静かです。電話が通じにくくなったり、朝晩に停電があったりして、一部の人はこれを政府が意図的に野党の計画的な行動を妨害をしているのだと言っていますが、果たして本当かどうか?」。

先週の火曜日(111日)から、アジスアベバではちょっとした暴動がおき、治安当局の弾圧で死者が40名強出てい ます。5月に行われた総選挙の結果が不正に扱われたとして、野党側の議員が国会に出席しないでいます。与野党間で話し合いが何度か持たれたのですが、選挙結果を合意するには至っていません。こうしたことから、野党側はジェネラルストライキを市民に働きかけたとのことです。投石が行われたために治安当局が発 砲して死傷者が出ました。昨日あたりはだいぶ落ち着いたようですが、地方都市で学生と治安当局の間の衝突があったとのことです。周りの人に話を聞くと、多くは現政権には批判的で5月の総選挙の結果は不正なものだと信じています。何とかしたいとは持っていますが、武力ではなく平和な方法で政治が変わって欲しいと思っている人が多いと思います。他方で、いろいろと問題はあるが現政権は良くやっているし、それに協力せずに問題を起こすのはばかげたことだと考えている人もいます。反政府行動が投石やバスなどへの放火を伴うのはよくないですし、治安当局も、暴動の鎮圧に必要以上の武力を使うケースがあるようで、それも問題です。多くの野党側活動家が逮捕されていますが、野党第一党のリーダー(元人権委員会議長だったそうです)が死亡したとい う噂もあるようです。これが本当だと、反政府感情はさらに高まるのではないでしょうか。私たちのいる地方都市は何事も無く平穏です」。

「エチオピアで5月に行われた選挙は、与野党間で選挙結果に対する意見が食い違い、6月と11月の2度にわたる死傷者を出す市民と治安部隊の対立へと発展しました。多くの野党リーダーやジャーナリストが拘束されたままです。ここに来て、支援国からエチオピア政府の対応が 非民主的とする非難が高まっています。特に、国の一般財政に直接資金を支援している援助国・機関からは援助の再検討(つまり、援助を止める)を行うとの圧力が高まっています。支援国による直接財政支援は国の予算の1割を占めており、これがストップすると、国の開発事業に少なからぬ影響が出ます。エチオピア政府側は特に貧困層へのサービスが影響をこうむるとして、援助のストップはやりすぎと非難しています。直接財政支援をストップしても、そのお金は地方政府や国際機関を通じた支援など、他のルートを通じた支援に切り替えると援助側は話しています。しかし、政府が行う公共サービスが影響を受けるのは確実で、政府への圧力のしわ寄せが貧困層に及ぶことは避けられないでしょう。政治の世界は難しいですね」(ブログ「アフリカの青い空」エチオピアの総選挙その後http://blog.livedoor.jp/chekereni/archives/50275773.html)。

参考:ウィキペディア、外務省ホームページ、『エチオピアの歴史“シェバの女王の国”から“赤い帝国”崩壊まで』岡倉登史 明石書店)、『富の独裁者驕る経済の覇者:飢える民族の反乱』エイミー・ショア 光文社)、『アフリカ現代史Ⅱ』(山川出版)、『アフリカを知る事典』(平凡社)、諸サイト、等々。

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エチオピア関係資料(2)

 エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とシバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(紀元前5世紀~10世紀頃)が、現在のエリトリアにある沿岸の港町アドゥリスを通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀で、このころコプト教を受け入れ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝をしていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。周囲を征服し、首都をエチオピア北部のアクスムに置いた。インドとローマ(後に東ローマ帝国はアクスムに多大な影響を与えた)と主に交易した。象牙・鼈甲・金・エメラルドを輸出し、絹・香辛料・手工業製品を輸入した。また、アフリカで初めて硬貨を作り、使用したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにアガウ族の女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたザグウェ朝(ca.1137,ca.1150- 1270)に滅ぼされたという説がある。ザグウェ朝は13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。

 イクノ・アムラクは、シェバに都を置き、ソロモン朝(エチオピア帝国)を建てた。ソロモン朝は、イクノ・アムラクの孫であるアムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝と対峙した。しかし、16世紀以降その力は衰え、1679年~1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。これを制したのは、タナ湖北辺の諸侯(ラス)のカッサで、王国を再統一し、テオドロス二世となった。彼は、西洋式の常備軍創設、奴隷制の廃止、税制改革などの近代化政策を進めようとした。しかし、1867年、イギリスのインド兵主体のイギリス軍との「マグダラの戦い」で敗北して、自害した。この時、イギリスと手を組んだティグレの諸侯が、皇帝ヨハネス4世を名乗る。1889年マフディー軍との戦闘で、ヨハネス4世は戦死。ショアの諸侯メネリクが、皇帝メネリク2世となって、国力増強、近代化を図り、南方へ領土を拡大した。彼は、首都アディス・アベバを建設、郵便、銀行制度の導入、鉄道、道路の敷設などを急いだ。それから、軍隊の近代化を進め、ライフル銃、連射機関銃、大砲などの近代的装備を保有した。そして、彼は、イタリアの保護領化の要求を拒否し、1896年第一次エチオピア戦争を、「アドワの戦い」で破り、壊滅させた。その結果、エチオピアの独立が認められた。その娘が女帝として即位し、諸侯で摂政として政権を握ったタファリが、1930年に、ハイレ・セラシエ1世(註1)として即位する。エチオピア帝国は、第二次エチオピア戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となった。戦後、独立を回復した。1952年にエリトリアと連邦を組み、1962年にはこれを併合した。

 1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。しかし、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世は、ジャマイカのラスタファリズムなどで世界各地の黒人に大きな希望を与えた(レゲエのボブ・マーレー等)。軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC 議長就任。恐怖独裁政治や粛正により数十万人が殺害されたとされる。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。ティグレ人中心のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領、次いで1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。

 1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理はPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。1973年干魃による飢饉発生(約1万人死亡)。1974年の軍事クーデターによる王政廃止と社会主義国家建設宣言、その後、メンギスツ臨時軍事行政評議会議長による軍政が続き、この間、ソマリアとの戦争や1983-4年の飢餓(約百万人死亡)の拡大等により、多くの難民が発生した。1987年9月には、国民議会を最高機関とする人民民主共和国に移行し、メンギスツ議長は初代大統領となり、1990年3月、社会主義体制の放棄と混合経済の導入を発表したが、国民の支持を回復することは出来なかった。1991年5月、反政府勢力のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)の軍事攻勢により、メンギスツ政権は崩壊した。

 1991年7月、EPRDFを中核とした暫定政府が樹立され、暫定憲章に従い民族融和と民主化に注力した。一方、北部のエリトリア地方においてはエリトリア人民解放戦線(EPLF)が独自に「臨時政府」を樹立し、EPRDFは「同政府」を承認した。1993年4月に、エリトリア地方の独立に関する住民投票が実施され、99%以上の独立賛成票により、エリトリアは同年5月にエチオピアから独立した。エチオピア連邦民主共和国政府は、第1回国政選挙(連邦下院選挙及び地方議会選挙)より多数政党制を導入し、民主化を促進している。2000年5月、第2回国政選挙、2005年5月、第3回国政選挙が実施され、与党EPRDFが勝利している。次回の国政選挙は2010年に予定されている。連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成するオロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線、ティグレ人民解放戦線(TPLF)の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党メディン党、虹のエチオピア民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合(UDF)など。反政府勢力として、オロモ解放戦線(OLF)など4組織で構成された統一オロモ解放戦線(UOLF)やオガデン民族解放戦線(ONLF)がある。

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エチオピア関係資料(1)

  これは、「難民を支援し連帯する会」の集会に提出した資料です。

 基礎データ

エチオピア連邦民主共和国(Federal Democratic Republic of Ethiopia)は、面積109.7平方キロメートル(日本の約3倍)、人口7,910万人(08年世銀)、人口増加率2.6%(08年世銀)、首都アディスアベバ、オロモ族、アムハラ族、ティグレ族など80以上の民族がいる。公用語は、アムハラ語、憲法上は各州毎に公用語を決めることになっているようである。また、英語教育がなされている。宗教は、エチオピア正教Ethiopian Orthodox Tewahedo Church)、イスラム教など。グレゴリオ暦ではなく、エチオピア独自の暦を持つ(1月1日は、グレゴリオ暦の9月11日)。  象徴的な大統領制で、現在の大統領は、ギルマ・ウォルデギオルギス・ルチャ大統領(GIRMA Wolde-Giorgis Rucha)(2007年10月再任、任期6年、二期目)、現在の首相は、メレス・ゼナウィ(Meles Zenawi)。議会は、二院制(人民代表議会〔下院〕と連邦議会〔上院〕)。軍事力(2008ミリタリーバランス)は、予算330百万米ドル(2007年支出)、総兵力13.8万(陸軍及び空軍)(エリトリア独立に伴い内陸国となったことにより、海軍は廃止。) 経済(単位 米ドル)。主要産業は、農業(コーヒー、メイズ、テフ、ソルガム、大麦等)。GNI(08年:世銀):17,600百万米ドル。一人当たりGNI(2008年:世銀):220米ドル。経済成長率(2008年:世銀)、11.1%、物価上昇率(2008年:世銀)、16.8%。総貿易額(2008年:世銀)は、輸出が1,185百万米ドル、輸入が5,126百万米ドル。主要貿易品目(2008年度:世銀)は、輸出品が、コーヒー、油料種子、チャット、輸入品が、石油製品、穀物・穀類、自動車。主要貿易相手国(2008年度:世銀)は、輸出先が、中国、独、日、スイス、サウジアラビア、ジブチ。輸入先は、サウジアラビア、中国、米、印、伊、独、日。通貨はブル(BIRR)で、為替レート1米ドル=8.80ブル(2008年:IMF。2006/7平均)。主要援助国(2005年 単位:百万ドル)は、米625.1、伊86.9、英75.4、スウェーデン68.3、カナダ64.9、である。

 日本とは、1930年11月修好通商条約締結、1952年6月対日平和条約批准、1955年外交関係回復、1957年12月友好条約、1968年1月貿易協定、1971年11月、日本青年海外協力隊派遣取極、1997年5月、日・エチオピア航空協定発効。経済関係は、日本の対エチオピア貿易の貿易額(2008年)は、輸出が85.78億円、輸入が33.01億円。主要品目は、輸出が、自動車、バス、トラック、輸入が、コーヒー、原皮、加工油脂及びろう。日本からの直接投資は、1951年~1974年に13件計683万1千ドルあったが、1974年以降は実績なしである。在留邦人数192人(2008年12月現在)。」.在日エチオピア人は309名(2007年12月現在)。.日本の援助実績(単位 億円)は、有償資金協力(2006年度まで、E/Nベース)が37.0、無償資金協力(2006年度まで、E/Nベース)が754.52、技術協力実績(2006年度まで、JICAベース)196.882。

 1991年7月、国民会議において新たな外交方針((1)基本原則:主権尊重、内政不干渉、相互利益の促進、(2)旧政権の近隣諸国不安定化政策の停止と善隣外交への転換、(3)二国間合意の遵守)が採択され、自由主義陣営へ移行。

(2)第一回非同盟諸国首脳会議からの非同盟運動加盟国。

(3)アフリカ連合(AU)の前身であるアフリカ統一機構(OAU)の発足に尽力。アフリカ連合本部の所在国であり、AU等を通じた積極的なアフリカ外交を展開。

(4)エリトリアとは同国が1993年にエチオピアから独立して以来緊密な関係を維持していたが、1998年5月、国境画定問題を巡って武力衝突が発生した。2000年6月「休戦合意」が成立、同12月には包括的な「和平合意」が成立しているが、国境画定裁定に関する見解の相違から国境確定(杭打ち)には至っていない。エリトリアとの国交は不正常。

(5)2006年12月、エチオピア軍はソマリア暫定連邦政府の要請を受けてソマリアに進駐したが、2009年1月、撤退を完了している。2008年6月より政府間開発機構(IGAD)の議長国としてソマリア和平等を促進している。


 経済概況

 (1)農業が雇用の約85%、国民総所得(GNI)の約45%を占めている一次産品依存型経済である。主要輸出品はコーヒー、油料種子であり、国際市況や天候に影響を受けやすい環境にある。

 (2)1974年の社会主義革命後、内戦、計画経済による農業生産意欲の後退、旱魃等により経済は極度に疲弊した。

 (3)社会主義政権崩壊後、1991年11月に民間セクター重視、政府管理縮小及び統制撤廃、重点的再建分野策定等を原則とする新経済政策「農業開発主導の産業化政策(ADLI)」を策定し、市場経済への移行を開始した。1995年1月には、「開発、平和及び民主主義のための計画(略称「国家開発5カ年計画」)」を策定し、農業生産性の向上、教育、道路、公衆衛生等を重点分野に据え、以降、実質経済成長率は年平均約6%を達成し、インフレ率は5%以下に抑えられた。しかし、1998年に入り、旱魃による農業生産の落ち込みや、コーヒーの国際価格低迷により、GDP成長率がマイナスに転じた。更には、1998年5月に勃発したエリトリアとの国境紛争もエチオピア経済に打撃を加えた。

 (4)エチオピア政府は紛争後の経済復興に取り組むべく、「第2次国家開発5カ年計画」(2000年)、貧困削減戦略ペーパー(2002年)を策定し、2003年には「エチオピア新食糧安全保障連合」を設立した。2006年5月、「第3次5カ年国家開発計画」となる「貧困削減計画(PASDEP)」が議会で承認され、食糧安全保障及び貧困削減を最優先課題に据えた。

 (5)現在、エチオピアのGNI成長率はアフリカの非産油国としては最高水準にあるが、石油価格や食料価格の高騰によりインフレ率も2桁に達している。また、海外で働くエチオピア人からの海外送金が慢性的な貿易赤字による国際収支の不均衡を是正していたが、世界同時不況による雇用の悪化により海外送金が減少傾向にあり、外貨準備高の減少も深刻な状況にある。(主に外務省データによる)

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エチオピアでの反政府活動家への死刑求刑の記事

 The Reporter というサイトに、以下の記事が載っていたので、つたないものだが、訳してみた。ちょっと、調べてみると、エチオピアでは、数年前に、反政府の学生運動があって、それを政府が弾圧、野党および野党支持者を弾圧しているようである。

 日本だと、アフリカは、遠くて、身近な問題とは感じにくいだろうが、ヨーロッパでは、歴史的に関係が深く、現在、ヨーロッパで大きく問題になっている、移住労働者のかなりの部分がアフリカから来ている。現在、ドバイでの不動産バブル崩壊の懸念から、世界的なドル安、ユーロ安、そして、円高という為替の変動が生じ、さらに、アメリカの株式市場での株価下落が起きている。この発端になっている中東ドバイのバブルにともなって、インドやパキスタンなどのアジアに加えて、アフリカからの労働者も多く移住しており、さらに、イスラエルは、アフリカ系のユダヤ教徒を安価な労働力として、移民として積極的に受け入れている。

エチオピア:検察官、ギンボット7の被告に死刑を求める

2009年11月24日 タミル・トシゲ

 連邦検察官は、今日、暴力的に政府を転覆する陰謀、連邦高官の殺害、および、政府機関の攻撃の陰謀の罪で告発されていた46名のうち、38名に対して、死刑を求めた。46人の被告のうち、5人は、証拠調べの後に裁判所によって無罪とされ、1人は、証拠がかけていたため、当然、解放された。裁判所は、すべての起訴事実に被告の有罪を認めた。

 被告のうちの13人の起訴者には、ベルハヌ・ネガ、アンダルガチェウ・トシゲという、ギンボット7の議長と議長代理が、名指され、書類で、起訴され、不在のまま審理された。

 死刑に加えて、検察官は、また、裁判所に、被告のうちの8人の全財産を没収するように求めた。

Ethiopia: Prosecutor seeks death penalty for Ginbot 7 defendants
Tuesday, 24 November 2009 By Tamiru Tsige

The federal prosecutor today asked the Federal High Court to pass the death penalty against 38 defendants out of the 46 who were accused of plotting to violently overthrow the government, plot to kill high government officials and attack government institutions. Out of the 46 defendants, five were acquitted by the Court after hearing evidences and one was set free due to lack of evidence. The Court found the defendants guilty of all charges last Thursday

Thirteen of the defendants named on the charges filed including Berhanu Nega and Andargachew Tsige, who are chairman and deputy chairman, respectively of Ginbot 7, were tried in absentia.

In addition to the death penalty, the federal prosecutor also asked the Court that all the properties of eight of the defendants be confiscated.

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