入管

スラジュ事件を知ろう!  難民講座のご案内

 ほとんどフェイスブックばかりやっていて、こちらはご無沙汰してますが、以下、難民講座の案内ができましたので、お知らせします。皆様のご参加お待ちしております。

 スラジュ事件を知ろう!
 難民講座のご案内
 ぜひ御参加を!

 2010年3月22日、ガーナ国籍の男性スラジュさんが強制送還中に死亡した「スラジュ事件」は、新聞やテレビでも報道され、皆さんもご存じかと思います。

 スラジュさんの遺族(妻と実母)は、入管職員のあまりにも乱暴な取り扱いがスラジュさんの死因だとして裁判に訴え、今年の3月19日、東京地裁は遺族の言い分を認めました。しかし国側が控訴したため、今後も東京高裁で裁判が続きます。

 今回の難民講座「スラジュ事件と入管・法務省」は、遺族を支えながら献身的に裁判を担ってきたAPFS(ASIAN PEOPLE'S FRIENDSHIP SOCIETY)の吉田真由美さんに講師をお願いし、事件のくわしい経過やその背景を報告していただきます。ぜひ、ご参加下さい。

:■6月1日(日) 1時半~4時半

:■新宿区立元気館(電話03-3202-6291)
・副都心線西早稲田駅のエレベーター口すぐ(徒歩0分)。
・高田馬場駅からバスで学習院女子大前下車。徒歩1分。
・高田馬場駅から徒歩15分。都立戸山高校となり。

■報告「スラジュ事件と入管・法務省」
吉田真由美さん(APFS)

■参加費300円
主催:難民を支援し連帯する会(℡:04‐2998‐5501 さかい)

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2012世界難民の日・東京集会 入管法が変わる! 難民の子供たちの未来は?無事終了です

 6月30日 2012世界難民の日・東京集会「入管法が変わる! 難民の子供たちの未来は?」は、当該のクルド、イラン、エチオピアなど多数の難民とその家族の方々も参加して、盛況に終えることができました。7月9日の改定入管法施行を前にして、その問題点について考え、批判する集会が持たれたことには大きな意義があったと考えます。第2部のクルドっ子たちの寸劇で、子供たちもがんばりました。

 入管改定の経緯を見ると、財界などの意向が色濃く反映していることは明らかです。当事者たちの意思・意見などはまったく無視されていて、かれらのあずかり知らぬところで、全てが決められました。財界の意見書などを見ると、まったく難民問題には触れておらず、かれらは難民の存在を見ていません。存在の認知すらしていません。どうしてそんなかれら一握りの人間たちが難民の生活や生存を大きく左右する入管制度を決定するのだろうかとその不条理を感じつつ、改定入管法施行後の混乱やトラブルがすでに目に見えているので、対応を急がねばならないと思いました。

 7月7日には、移住連などの改定入管法施行に反対する集会があります。7月9日施行日にも取り組みがあります。改定入管法施行後に様々なトラブルが起きることは確実です。情報を集め、実態を把握したうえで、適確に対応していかなければなりません。

 それから、難民性の理解を深めた上で、「在日」=「半難民」と難民(難民申請者も)との協同・交流・連帯を拡大、深化させる必要があります。そして、インターナショナリズムに基づく国際連帯の実践を拡大・深化させ、全国的連帯、国際連帯の強い絆を構築する必要があります。7・7は、盧溝橋事件の起きた日(1937年)であり、華青闘告発があった日(1970年)でもあります。そこから学ばなくては、国際連帯の深い内容を獲得できません。それから、差別・排外主義攻撃に対しては、勇気の徳を持たねばなりません。

 以下は、善隣学生会館事件の真相を探るhttp://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htmにある資料です。この時から、今日まで、この領域の問題をめぐって、例えば、抑圧―被抑圧関係や民族とは何かや責任とは何かとか、いろいろな点について多くの側面から様々な議論が行なわれてきました。その成果を総括し、今日における回答を出さなければならないと考えます。特に、新左翼系、ノンセクトも思想的後退が甚だしく、この領域について無思想のまま平然としている日本共産党並みの低レベルに近づいているのは痛恨事です。ただ誰かをスケープゴートにして悪口を言ってお終いとか、知ったかぶりしてみたり、売名行為に走ったり、自然発生性へのたんなる追随をこととしてみたり等々のことが広まりつつあるやに見えます。ここらへんでしっかりと過去から学び、教訓をしっかり自分のものにして、思想の再構築、自己点検を行わないと、ただただ自然発生性に流されて、とんでもないところに漂着することになりかねないと自戒しています。

 七・七集会における華青闘代表の発言

七・七人民大集会において華僑青年闘争委員会の代表が行った発言の要旨を次に掲載する。これはメモから再生したものなので不正確であることを免れないが、文責はすべて編集局にある。

 本日の集会に参加された抑圧民族としての日本の諸君!

 本日盧溝橋三十三周年にあたって、在日朝鮮人・中国人の闘いが日本の階級闘争を告発しているということを確認しなければならない。芦(ママ)溝橋三十三周年の問題と、在日朝鮮人・中国人の問題とは密接不可分であり、日本人民はそれを知るべきである。諸君は日帝のもとで抑圧民族として告発されていることを自覚しなければならない。

 今日まで植民地戦争に関しては帝国主義の経済的膨張の問題としてのみ分析されがちであったが、しかし日本の侵略戦争を許したものは抑圧民族の排外イデオロギーそのものであった。

 今日、日・朝・中人民が分離されたかたちでマルクス主義が語られており、日本国家権力と日本人民、日本国家権力と中国人民、日本国家権力と朝鮮人民という形での分離が存在し、そういう形で植民地体制が築かれてきたが、それは分離したものではない。日本人民は三者の中でどうするのか。抑圧民族という自己の立場を自覚しそこから脱出しようとするのかそれとも無自覚のまま進むのか。立場は二つの分かれている。

 なぜわれわれは、本日の集会に向けての七・七実行委を退場しなければならなかったのか。闘う部分といわれた日本の新左翼の中にも、明確に排外主義に抗するというイデオロギーが構築されていない。日帝が敗北したとき、ポツダム宣言を天皇制が受けたかたちになり、日本人民がそれを避けられなかったところに、 日本人民の排外主義への抵抗思想が築かれなかった原因がある。

 七・七集会を日本の新左翼が担うことは評価するが、それをもって入管体制粉砕闘争を怠ってきたことを免罪することはできない。七月三日の実行委員会に集中的にあらわれたように、七・七集会を全国反戦・全国全共闘の共催に使用(ママ)とする八派のすべてが、入管闘争の一貫した取りくみを放棄しており六九年入管闘争を党派として総括することができなかった。また各派は、なぜ六五年日韓闘争において、法的地位協定の問題を直視しなかったのか。六九年入管闘争を闘っていたときも入管法を廃棄すればプロレタリア国際主義は実現することになるといった誤った評価が渦巻いていた。しかもそれは大学立法闘争にすりかえられ、十一月闘争の中で霧散し消滅し、今年一月、華青闘の呼びかけによってようやく再編されていったのだ。

 このように、勝手気ままに連帯を言っても、われわれは信用できない。日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったのだ。日韓闘争の敗北のなかに根底的なものがあった。日本階級闘争を担っているという部分にあっても裏切りがあった。日共六全協にあらわれた悪しき政治的利用主義の体質を、 われわれは六九年入管闘争のなかに見てしまったのである。今日の日共が排外主義に陥ってしまったのは必然である。

 われわれは、このかん三・五の「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」と四・一九の「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」で声明を出し、その内容を諸君らが受けとめ自らの課題として闘っていくことを要求した。四・一九革命に無知でありながら国際闘争を語るようなことでどうするのだ。

 われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。

 われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。

 このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。

(中核派機関紙「前進」1970年7月13日3面)

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徐京植氏『半難民の位置から』について

 徐京植氏の『半難民の位置から』(影書房)を読み始めた。

 そこで、氏は、「在日」を半難民と規定している。しかし、「在日」の中には、難民そのものがいることは明らかである。日帝からの解放後、朝鮮半島は分割統治、朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国という分断国家が並立し、朝鮮戦争にまで至る内戦状態があった。米帝の後押しを受ける南の大韓民国李承晩政府は、国内の反体制派を徹底的に弾圧した。4・3済州島蜂起に際しては、「共産主義者の手先」とみなした住民を情け容赦なく殺した。住民の中には、半島へ逃げたり、日本に逃げた者もいた。政治的迫害による亡命者(難民)となったわけだ(国内に避難する国内難民もある。そして、ディアスポラという概念がある。それが、今、福島からの避難民の状態を表す言葉になりつつある)。この時、GHQも日本政府も、難民を人道的に保護することはなかった。戦時中には、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人難民を保護することが行われた。それが難民条約の元になる。

 帰国運動については、テッサ・モーリス・スズキ氏の『北朝鮮のエクソダス』(朝日新聞社)に詳しい。この時の帰国者には、南の出身者が多いことが指摘されているが、その背景に、この時代の日本及び朝鮮半島(韓国軍事政権の弾圧、経済的困難など)の状態があったことを踏まえておかなければ理解できないということが、わかった。

 徐京植氏の上記の本には、花崎皋平氏とのいわゆる徐・花崎論争の当該文書がある。花崎氏が、『みすず』(みすず書房)に書いた批判とそれに対す徐氏の反批判である。これは、1990年代後半に行われた歴史認識論争、あるいは歴史主体論争の一部をなしていて、戦後責任の主体をめぐる『敗戦後論』(加藤典洋)の評価や批判も載っている。この論争の決着は未だについていないように見える。そこに、現在の右派の跳梁跋扈の思想的背景があるのではないだろうか。

 花崎氏の批判が、「糾弾型」か「対話型」かというコミュニケーション・モードの対立というプラグマティックな方法論の次元で終わっているとしたら、この問題が解けないのも当然という気がする。高橋哲哉氏が責任編集した『「歴史認識」論争』(2002年 作品社)を読んだが、そこで、戦後責任に応答する主体としての「日本人」の政治的構築ということが言われていた。植民地主義の未清算、残存、あるいは現代思想風に言えば、「痕跡」の作用が続いているということだ。言い換えれば、それは、帝国主義の未清算ということだ。それが、「ダーバン宣言」が指摘、批判し、その清算を旧宗主国に求めたものだと考える。

 徐京植氏が1980年の難民条約締結後の出入国管理法(入管法)の出入国管理及び難民認定法への改定後の入管体制の変化を受けて、自らを「半難民」と位置づけたのには現実的根拠がある。

 これから、これらのことを少し詳しく考察していくつもりだ。

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ビルマの少数民族

難民講座に提出した資料の一部です。ビルマの少数民族問題は複雑で入り組んでいることがわかる。それから、アウンサンの「多様性の中の統一」という思想が、こうした民族的多様性と統一を同時にどのように実現するかというビルマの課題に対する基本理念としてあることもわかる。日本の場合、琉球処分以後の沖縄・北海道の植民地化が、近代的国民形成の時期にあったために、同化が行きすぎるまでに強力に進み、「ひめゆり」の悲劇をもたらしたように、ヤマトへの「統一」(=併合)が表面的にはかなり実現されたかのようになったのに対して、世界史が「ポスト・近代」へと向かう過程の中で、ビルマが日本と同じ道を辿る可能性は低いように見える。ビルマの現政権はその道を強引に推し進めているようだが、それは失敗する可能性が高いと思われる。

沖縄の場合、「国内植民地」という状態からの解放ということを、世界に広がっている沖縄出身者の国際ネットワークと結合しつつ展望するという一部の動きもあり、旧態依然とした近代ナショナリズムからする石原都知事みたいな「尖閣列島」領有問題への対応とはまったく違う発想が育ちつつある。石原は旧い近代帝国主義の抑圧民族の立場に立っているだけなのだ。石原のように近代をやり直そうなどという後向きのナショナリズムで、この地の人々の多数を幸福に導くことはできないし、それはもはや有害な妄想に過ぎないと考える。沖縄、アイヌなどを含めた具体的な多様性、差異に向き合い、「多様性の中の統一」という弁証法的な思想を深め、具体的にどう適用するかを考え、議論するべきだ。まずは、そこに向き合うことである。

『ビルマの少数民族』(明石書店)より

歴史的背景

一九八八年のSLORCの政権掌握以降激しさを増している政治的な利害対立に呼応して、ビルマの歴史と伝統の統制をめぐる争いも激化している。それでも、確固たる史実の不足や、多様な歴史観の存在にもかかわらず、ビルマの複雑な民族の歴史をつなぎ合わせることは不可能ではない。

モン族と、モン族と遠縁の関係にある山岳民族でシャン州に住むワ族とバラウン族が、一般に現存する諸民族のなかではビルマ最古の住民だと考えられている。おそらくカレン族とチン族が、次に中央ビルマに南下してきたのだろう。それは九世紀か一〇世紀になってビルマ北部へのビルマ族の移住が盛んになる前のことだった。シャン族もほぼ同じころに東南アジアへの移住を開始し、その後、カチン族やラフ族を含むチベット・ビルマ系の山岳民族が移動してきた。

一般的にいって、チン族やカチン族のような山岳民族は焼き畑農業を、そしてビルマ族、モン族、シャン族、ラカイン族のように河川流域や平野に居を定めた民族は、より大きな村落を形成して定住型の水稲農耕をおこなった。多くの戦乱や頻繁な権力交代の後、一八世紀後半になってようやく、ビルマ族の支配アラウンパヤーが、後に英領ビルマを形作る地域のほとんどを支配下に置くことに成功した。

しかし、多くの戦乱にもかかわらず、民族、文化間の交流は続いていたので、ビルマの歴史を人種や民族の観点からあまりに狭義に解釈しようとすると、その根拠や妥当性はかなり疑わしくなる。歴史的に、地方の生活共同体や社会の多くが多民族により構成されていた。このことは、民族間の寛容性や相互理解に関して、今後の合意のために参考になる重要な先例が多く存在したことを示している。

一九世紀のイギリスによる介入が、民族間の調和をすっかり乱してしまった。一八二四年と一八八六年の間に起きた三つの戦争の結果、ビルマはイギリスに併合された。今日のビルマがイギリス領だったのは六〇年程だが、この間、植民地政府がおこなった「分割統治」による分断は、民族間の歴史的な緊張をひどくあおる結果になった。

イギリス政府は、多数派のビルマ族によって占められる「ビルマ本州」と、少数民族のほとんどが居住していた「辺境地域」からなる二段階の行政システムを作り上げた。このような厳密な区分によって、各民族は非常に異なった政治的、経済的進展の道を辿ることになった。その結果、一九四八年に最終的に独立を勝ち取った新ビルマ連邦は、歴史上のいかなる国家とも趣を異にした。

ビルマ本州では、伝統的な君主制は廃され、一九二〇年代には限られた形ながら、議会制による自治が導入された。それでも、一九三七年までビルマは英領インドの一州として統治され、ビルマ人の増大する不安をよそにインドから一〇〇万人以上の移民が流入し、ヒンディー語がビルマ郵政公社の公用語になったりもした。

一九二〇年代から三〇年代にかけて、学生、労働者、仏僧らによって続けられた民族主義運動は、ビルマ人の大部分がイギリスの支配を望んでいなかったことを明らかにしている。しかし一九三〇年から三一年までと、一九三八年にはビルマ人内部で紛争が発生している。西欧型の多党制民主主義が一九四七年の憲法で取り入れられたが、はたしてどれだけビルマに根を下ろしたかは疑わしい。

反対に、少数民族によって構成される辺境地域はビルマ本州とはほとんど分割して統治され、たいていの場合、それまでの支配者や族長による支配形態が温存されたことは多数派のビルマ族を憤慨させた。このことからビルマ族の歴史家たちは、少数民族をひいきにしたとイギリスを非難してきたが、植民地支配は少数民族の希望を摘み取るような暗い影も投げかけられていた。少数民族の土地の多くがばらばらの政治区域に分割され、民族別の行政が実施されたことは一度もなかった。

このように不利な領土的立場に加えて、ほとんどの少数民族が経済的支援の欠如といいう一層の重荷に耐えなければならなかった。イギリスはビルマ本州での米の生産増加と、石油と木材を中心とする産業の拡大をすみやかに実施したが、辺境地域はおおかた忘れ去られていた。山岳地方のインフラストラクチャーの整備や経済発展に投資がおこなわれることはほとんどなかった。

イギリスによる分割支配にもかかわらず、一九三〇年代の後半になるとビルマ国内の民族間の関係には改善の兆しがみられた。しかし第二次世界大戦によって、それ以上の期待は崩れ去った。独立時に爆発した民族間の敵意の大部分は、大戦中の多くの悲惨な出来事に起因するといえる。破滅的状況の中で何万人もの人命が奪われたが、その状況が現在完全に修復されているとはいい難い。

アウン・サンの民族解放運動が、最初は日本側について戦ったのに対し、カレン族、カチン族、そしてイスラム教徒を含む少数民族はイギリスへの忠誠を守った。その結果、戦時中に多くの血なまぐさい民族間の衝突や、報復のための殺し合いが起き、少数民族にとって状況はますます不になっていった。戦時中の虐殺が、独立後自分たちの政治的要求が受け入れられなかった場合に武器を取る決意をさせたのであると、少数民族の指導者たちは繰り返し述べてきた。

悲しいことに、一九四七年七月のアウン・サンの暗殺と、ビルマからのイギリスの慌ただしい報道は、民族間の問題が結局は完全に解決されずに終わったことを意味した。今でも国の祝日として祝われている一九四七年二月の歴史的なバンロン会議で、ビルマ族と辺境地域の指導者たちは、ビルマの新憲法に関するいくつかの原則について性急な合意に達した。平等と自発的な合意による国家統一の象徴として、アウン・サンが「ビルマが一チャットを受け取るならば、あなたがたも一チャット受け取るだろう」と約束したのは有名である。しかし、カレン族、モン族、ラカイン族などいくつかの少数民族グループの代表が会議に参加しなかったのを、イギリス人も、ビルマ最初の独立政府を形成することになる反ファッシスト人民自由連盟(Anti-Fascist People's Freedom League: AFPFL)の構成メンバーも問題にしなかったのは、数あるあやまちのなかでも決定的であった。

バンロン会議の原則が、憲制議会の選挙の後に成立した一九四七年九月の憲法に盛り込まれた。この憲法は基本的に連邦主義の立場から起草されていた。新憲法によって民族議院(Chamber of Nationalities)の二院制の国会が設立された。しかし、民族の権利に関しては、この憲法は例外ずくめだった。シャン族とカレンニー族が一〇年間の試行期間の後、自発的な離脱権を与えられたのに対して、モン族とラカイン族っは離脱権を与えられずに終わった。また、カレンニー州とシャン州では、伝統的な王侯支配者であるソーボワに封建的な権力の維持がほぼ許される一方、国会では複雑な代表制の規定によりビルマ族が両院で多数を占めることが初めから決められていた。創設が派手に約束されていたカレン州の協会が未定だったことや、「民族州」、国会の「共同議席」。それに特殊な「少数民族権」の是非をめぐる議論が独立寸前まで続いたこともちぐはぐな結果を残した。

アウン・サンの「多様性の中の統一(Unity in Diversity)」(コラム参照)の思想にならい、和解の意思表示として新連邦の名目上の役職は民族間で分配された。ビルマ族のウー・ヌが首相に選出された後で、シャン族のサオ・シュエ・タイが大統領に、またカレン族のスミス・ドゥンが陸軍参謀長に任命された。しかし、このような措置も手遅れだtった。一九四七年の終わりには、NHKや他のいくつかの民族グループはすでに政治参加をボイコットし初めていた。またビルマ族の間でも、ウー・ヌのAFPFL政府に同じように不満を抱いていた共産主義陣営と軍を中心に、国中の明らかに動乱の兆しが見え始めていた。

ビルマの独立は流血から生まれた。第二党だったビルマ共産党(Communist Party of Buruma:CPB)が一九四八年三月に地下に潜行し、一九四九年にはKNUがそれに続いた。続いて国軍内ではビルマ族とカレン族の部隊の多くが同調して蜂起し、政府の勢力範囲は一時ラングーンから半径わずか一〇キロメートル以内にまで狭まってしまった。AFPFLは都市部の支配権を徐々に回復していったが、一九四〇年代の終りから五〇年代になると、カレンニー、モン、パオ、ラカイン、そしてイスラム教徒のムジャヒッド党など、いくつかの民族グループが地方で蜂起した。

このような動乱の時代を通じて首相だったのはウー・ヌだった。一九五八年にネー・ウィン大将が「軍による暫定政府」を組織して政権を一時掌握するが、一九六〇年の民主的選挙でウー・ヌが権力の座に返り咲いた。しかしこのウー・ヌの政権は一年しか続かなかった。

コラム

「多様性のなかの統一」と「ビルマ式社会主義への道」

ビルマで生まれた二つの理念が、過去五〇年間ビルマの政治体制を支えてきた。ひとつはアウン・サンの「多様性のなかの統一」で、もう一つはネー・ウィンの「ビルマ式社会主義への道」である。

アウン・サンは『自由なビルマへの青写真』のなかで民族主義と、共産主義、そして議会制の発想を織り混ぜ、国家統一の最善の方法として、すべての民族による同時独立と平等な経済発展を主張した。しかし、公には幾つかの少数民族の独立を承認したものの、アウン・サンは正式に「国家」という呼称を持ち得るのはシャン族だけだと考え、他のグループには程度の異なる地域自治権を与えようとした。アウン・サンはスターリンにならい、「少数民族」権の獲得には、その民族が少なくとも総人口の一割を占めていなくてはならないと考えた。アウン・サンは、タッマドーと呼ばれる近代ビルマ軍の創始者であったが、文民政治を信じ、政界にはいるときには軍を辞任している。

反対にネー・ウィンはビルマのような民族的に多様な国をまとめられる機関は軍隊しかないと考えた。「ビルマ式社会主義への道」は仏教、マルクス主義、民族主義の理念を適当に混ぜ合わせた中央集権的な発想だが、「人間とし人間を取り巻く環境の相互関係」という短い文章を除くと、ネー・ウィンが「ビルマ式社会主義への道」を詳しく説明したことはなかった。一九七四年の憲法は「民族、宗教、地位、性別によらず」すべての国民に明確に基本的人権を保障していたが、同時に厳格な一党制の下での「社会主義社会」建設が国家目標として掲げられた。

(同書3339ページ)

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6月30日 2012世界難民の日・東京集会

6月30日 2012世界難民の日・東京集会

入管法が変わる! 難民の子供たちの未来は?

English Announcement

賛同者の募集

日時:6月30日(土) 1時開場 1時30分~4時

場所:早稲田奉仕園 リバティホール
〒169-8616 新宿区西早稲田2-3-1
東西線早稲田駅 徒歩5分
http://www.hoshien.or.jp/map/map.html


参加費:500円(カンパ歓迎)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

7月から入管法が変わります、在日難民の皆さんは、不安でいっぱいです。
難民の子どもたちはどうなるのでしょうか?
私たちには縁遠いと感じられる入国管理法ですが、日本にいる移民や難民の方々にとっては、その運用次第で運命が大きく変わるほどのものです。

日本の企業はいま、海外での生産や販売を増やすことに活路を求め、政治も国際社会の一員としての存在感を目指しています。つまり日本は今後、国際社会の一員としてやっていくほかないということです。
しかし日本は、世界から見て「難民鎖国」といわれるほど、特殊で片寄った難民行政をやってきました。
そのため、これまで多くの在日難民が悩み苦しんできました。

さ て、この7月から、60年ぶりに改定された新しい入国管理法が施行される予定です。しかし残念ながら、とくに難民申請者の方たちにとっては「良い方向」へ の改正ではなく、さまざまな問題を引き起こしそうです。なかでも最大の犠牲者は、何の罪もない難民申請者の子どもたちでしょう。

皆さん、この改定入管法の中身を、ちょっぴりでも知っておいて下さい。
そして、難民の子どもたちがどうなるのかを考えてください。
日本人の人権感覚が、国際社会から問われています。

賛同者の募集

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全体の流れ

1時開場 1時30分開演

第1部 講演 民主党 今野東議員

     難民の証言

休憩 

第2部 子供たちのリレートーク

     演劇

     全体に関しての質疑応答

     歌(子供たちと参加者)

16:00終了

17:00完全撤収

難民の方々の手作りアクセサリーなども販売しております。


連絡先
酒井 042 998 5501
nankirensato@jcom.home.ne.jp

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プロレタリア国際主義で、改定入管法と対決しよう!

プロレタリア国際主義で、改定入管法体制と対決しよう!
流広志

 201279日、改定入管法が施行される。すでに、難民(政治亡命者)支援団体などから反対の声が上がっている。そもそも日本の入管体制は治安管理主義に貫かれた差別・排外主義的な国家主義を基本に成り立っている。それは、在日外国人の分断・差別・支配・管理によって、プロレタリアートを分断・支配するシステムでもある。そもそも、在日外国人管理を治安を担当する法務省が行うということが、在日外国人問題を治安マターとして扱うことを基本にしていることを示している。

改定入管法の狙い

 今次改定では年来のその狙い通り、在留カード導入で、在日外国人管理の法務省一元化が強められることになる。それは、「新しい在留管理制度は、外国人の適正な在留の確保に資するため,法務大臣が、我が国に在留資格をもって中長期間在留する外国人を対象として、その在留状況を継続的に把握する制度です」(法務省パンフレット)と述べていることに明瞭に示されている。すなわち、これまで、外国人登録制度によって総務省によっても管理されていた在留情報を、在留カードを入管が発行し管理することで法務省が一元的に把握することになるのである。それにともなって、外国人登録証は廃止される。そして、外国人登録制度は、住民基本台帳制度に組み込まれる。

在留カードは、空港や港湾などで、日本上陸の際に発行され、常時携帯義務が課せられている(違反の場合、20万円以下の罰金。提示拒否の場合、1年以下の懲役または20万円以下の罰金。懲役刑なら退去強制)。その他、居住地の変更届を14日以内にしないと20万円以下の罰金が課せられるなど、罰則が強化されている。

また、「配偶者として「日本人の配偶者等」、「永住者の配偶者等」の在留資格で在留する方が、正当な理由がなく、配偶者としての活動を6か月以上行わないで在留すること」が認められる場合、在留資格が取り消されるという「偽装結婚」対策と思われる不可解な処分まで規定されているのである。

入管体制の歴史的性格

 19475月の外国人登録令で日本は旧植民地人民の国籍を一方的に外国人にしたが、それは在日朝鮮人・台湾人などの歴史的具体的な関係のありようによって、その一般外国人化は未だに実現していない(「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」に基づく旧植民地出身者=特別永住者とその他の一般永住者の2者がある。ただし、特別永住権は在留資格の一つであって権利とされてはいない)。しかし、その狙いは、1952年サンフランシスコ平和条約発行の際の「平和条約の発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理」(昭和27419日民事甲第438号民事局長通達)で、「(一)朝鮮及び台湾は、条約の発効の日から日本国の領土から分離することとなるので、これに伴い、朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含めてすべて日本の国籍を喪失する」「(五)条約発行後に、朝鮮人及び台湾入が日本の国籍を取得するには、一般の外国人と同様、もつぱら国籍法の規定による帰化の手続によることを要する」と示されている。そして、この年、外国人登録法が制定された。同時に入管令(1951年ポツダム政令第319号)が公布・施行され、サンフランシスコ平和条約発効(1952428日)後、法律としての効力を持つ政令となる。この原型は、GHQのポツダム政令第二百九十九号「出入国の管理に関する政令」にあり、この時は、入管は、「外務省管理局に、入国管理部を置く」とされ、外務省の担当となっていたが、入管令では、法務省になった。以後、在日外国人管理は治安担当の法務省の管轄となり、1982年の難民条約批准に合わせた法改正で「出入国管理及び難民認定法」に変わってもその基本は変わっていない。

改定入管法の問題点

 今次入管法「改正」の問題点について、難民支援団体などから指摘されている。例えば、「改定入管法中長期滞在者のためのQ&A日本語改訂版2012・2(移住労働者と連帯する全国ネットワーク・入管法対策会議・在留カードに異議あり!NGO実行委員会)では、「新しい在留管理制度の下では、外国人ひとりひとりの最新で詳細な個人情報が、継続的に法務省入管局に集中されます。また、法務省はこのほかに、これまでの退去強制歴など出入国情報、入国・再入国した際の指紋・顔画像の個人識別情報、さらにブラックリスト情報も持っています」「その上、今回の改定法では、外国人の個人情報を継続的に把握するため、法務省に広範囲な事実調査権を付与し」たことを取り上げている。同パンフは、結局のところ「この改定法」は、「在留期間の最長が3年から5年に延長され、また「みなし再入国」を新設するという改善点があるものの、結局のところ「外国人いじめ法」となっています」と批判している。すなわち、「改定入管法は、外国人に対してさまざまな義務規定を設けて、その義務違反に対しては刑事罰、在留資格取消しという制裁を科す――その脅しによって、外国人にたくさんの義務を遂行させる、というものです。このような制度は、外国人ひとりひとりの尊厳と自由を奪うものです。この改定法は、日本人と外国人との「共生」を阻む悪法です。しかし、この日本社会に住む私たちは、次のことを想起しなければなりません」として、「自由権規約委員会『一般的意見151』」から次の規定を引用している。

「外国人は、ひとたび締約国の領域内に入ることを認められると、規約(国際人権自由権規約)で定められた権利を享受することができる。外国人は、法律による平等の保護を受ける権利を有する。これらの権利の適用に際しては、外国人と市民の間に差別があってはならない」。

日本の入管行政が在日外国人管理で実際に行なっていることは、これに反することが多く、入管職員の現場での適当な裁量権行使によって、在日外国人の生活や尊厳、人格が傷つけられる事例が数多く発生している。

難民問題への影響

 日本政府が難民条約を批准して入管法を改正し、難民認定法を加えて30年になるが、昨年の難民認定申請者数1,867人で、前年の1・6倍に増えて、過去最高になったが、難民認定したのはなんとたったの21人である。過去4年の難民認定数は、41→57→30→39人である。国籍別では、ビルマ(ミャンマー)18人、他2国で3人である。難民認定しなかったものの、仮滞在許可を出して、人道的な配慮が必要なものとして、特に在留を認めた者は248人であった。それも以前の4年で、88→360→501→363人であり、2年連続で減少している。
 難民条約加盟後の累計では、598人。国別では、ビルマ(ミャンマー)307人、イラン69人、ベトナム59人、カンボジア50人、ラオス48人である。日本の人口の約8分の1のオランダ515人、人口5,987万人で経済危機と言われるイタリアでも1,785人が難民認定されている(2008年)。

それに対して日本の昨年の21人という数字はほとんどゼロに等しい数字である(0)。これで難民条約締結国と胸を張って言えるわけがない。だが、法務省は、上の数字を堂々とホームページに掲げている。まるで、法務省は難民の保護などしなくて当然、難民の人権などどうでもいいと開き直っているかのようだ。

世界の難民発生国のトップは米帝の「対テロ戦争」の最前線のアフガニスタンである。政治的思想的等の理由で、祖国で迫害され、あるいはそのおそれのある外国人が庇護を求め、政治亡命を求めてくるのを、日本政府はこうして事実上シャットアウトしているのだ。

特に、難民申請者は一切の登録がなくなり、公的住民サービスもなくなる。また、先にあげた難民認定申請をして仮滞在が許可された外国人=仮滞在許可者は、住民票には記載されるが、在留カードは出さない。そのために、難民申請後の裁判が長期化している中で、生活のために労働せざるを得ない仮滞在許可者が生活の資が得られなく可能性もある。

ブルジョアジーの狙い

 今次入管法改定のもとになった「新たな在留管理制度に関する提言」の中で、日本経団連は、「外国人が我が国で快適に働き、生活し、年限がきたら本国に戻るというローテーション型の外国人材受入れを進めていくべきである。その前提として、在留管理、企業の就労管理はきっちりと行い、外国人に対し、日本では不法就労はできないということを明らかにする社会基盤を作っていく必要がある」と中長期在留者というカテゴリー創設とその管理のための在留カード導入を求めている。それに対して全国中小企業団体中央会は「入国管理局というと「取締り」のイメージが強く、市区町村は行政サービスの提供主体という色彩が強いという印象を持っている。今回の新たな在留管理制度では、入管に情報等を一元化し、取締りの強化ばかりが強調されている点が気がかりです」として、「不法」滞在外国人労働者の雇用に対する雇用主への罰則強化に懸念を示している。

そもそも、高度な技術を持つ外国人労働者の雇用を積極的に進めようとする大企業と「不法」滞在労働者や研修生の名目や「不法」滞在者も含む低賃金非熟練労働者を雇用したい中小企業との利害の違いが入管制度への要求の違いとして現れている。改定入管法は、明らかに前者の利害を強く反映している。

プロレタリア国際主義を貫徹し、改定入管法との対決を!

 今回の改定入管法は、外国人労働者を分断・管理・支配を容易にするための法制度を整備するものであり、その過程で、難民制度の不備を放置して矛盾を拡大するもので、施行後に様々なトラブルが発生することは目に見えている。

現状では、差別・排外主義による分断支配によって、日本の労働者で、同じ労働者でありながらも、その人権状態や労働条件などへの関心は低められてしまっている。しかし、このような非人道的に扱われる外国人労働者の劣悪な労働状態こそが、自らの労働条件や人権状態を下に引っ張っているのである。その関連を明確に理解し、それを改善することが、自分の状態を良くすることになるのは明らかである。

また、他国の労働者大衆の政治状況を理解し、圧政に苦しむ人民を支援し、連帯するのは、プロレタリアートの国際主義的任務である。それに対して支配階級は、互いを分裂させ分断支配することを利益としている。かかる支配階級の策動に対抗し、他国の同胞の境遇を理解し合い助け合い、プロレタリアートの国際的な団結を強めていかなければならない。まずは、他国の同胞の境遇を知ること、理解することから始め、そして互いに友愛の絆を持って交流し、連帯の実践を積み上げていくことである。それは、新たな国際的に開かれた共同体を形成することである。

改定入管法は、外国人労働者同士を細かく分断し、管理を強め、同時に日本人労働者との間の溝をも深めるものだ。これに対抗し闘う戦線を構築する運動を発展させなければならない。

それは、歴史的な帝国主義植民地支配の清算を果たす闘いでもある。

そして、ビルマのアウンサンが強調した「多様性のなかの統一」という言葉に含蓄されている多様な共同体の連合としての共産制社会の実現を目指すコミュニズム運動にも結びつく闘いである。

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ビルマ主要年表

5・20難民講座で提出した資料の一部のビルマの年表です。『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(田辺寿夫 根本敬著 角川書店)という本の年表に、2003年以降の分を足して作成したものです。

ビルマ主要年表

1044 パガン朝成立

1057 アノーヤク-王、モソの都タトンを攻略(上座仏教の受容)

1531 タウングー朝成立(以降そソやタイ王朝との戦いをくりかえす)

1752 アラウソパヤー、王朝を興す(コンパウン朝。以降、タイ、アラカソ、マニプールなどへも出兵~1885)

1824 第一次英緬戦争(1826)。テナセリウム、アラカソをイギリスに割譲。

1852 第二次英緬戦争(下ビルマのすべてが英領となる)

1885 第三次英緬戦争。コンパウン朝滅亡。

1886 ビルマ全土が英領インド帝国の-州となる。

1906 青年仏教徒連盟(YMBA)結成。

1911 ブローム県パウソデーでネウィン生まれる。

1915 マグウェ一県ナッマウでアウンサン生まれる。

1917 この年を境にYMBA急速に政治化していく。

1920 YMBAを基盤にビルマ人団体総評議会(GCBA)設立(10)。ラング-ン大学設立と同時に第一次学生ストライキ発生(12)

1923 両頭制施行される。

1930 サヤ-・サンらが率いる農民反乱起こる(32)、タキン党結成。反英独立をめざす。

1936 ラングーン大学第二次学生ストライキ(2月~5月)。下院総選挙実施(11)

1938 反インド人暴動発生、油田労働者ストライキなどから全国的な反英運動広がる( 39年)、ビルマ暦1300年国民運動に。

1939 アウンサンら、タキン党幹部逮捕される(1月)。マンダレ-で僧侶ら14人が軍の発砲で死亡(2)。バモオ内閣不信任案可決、ウー・プ内閣発足(2月)。この頃、タキン党に党内党のようなものとして人民革命党と共産党がつくられ、アウソサンは共産党の書記長に名を連ねる。コックレイン総督、英国が(将来のある時点で)ビルマを自治領とすることを言明(11)

1940 ビルマ防衛法公布。反英運動への弾圧強まる。ビルマ防衛法の適用により自由ブロック関係者の逮捕始まる(8月にはバモオも逮捕される)。日本陸軍大佐・鈴木敬司がラングーンに入る(6月)。アウソサンが同志とビルマを密出国するが、憲兵に捕らえられる(8月)。アウソサン、東京に着く(11)

1941 日本軍、南機関を設置(2月)。「三十人志士」が誕生しビルマを脱出(4月)、ビルマ独立義勇軍結成(12)。大日本帝国、対英米に宣戦布告。

1942 ウ一・ソオ、ティべリアスで逮捕され首相職から解任、日本軍とビルマ独立義勇軍、ビルマ進軍開始(1) 3月にはラングーン占領。全土に軍政を布告し(6月) 7月に南機関を解散させる。ビルマ中央行政府発足、長官にバモオ就任(8月)

1942 日本軍、ビルマ独立義勇兵と共にビルマ侵攻。全土を「平定」。ビルマ植民地政府、シムラへ撤退。日本は軍政施行。

1943 東候英機内閣、ビルマに「独立」を許容(国家元首兼首相バモオ、国防相アウンサン)

1944 日本軍、インパール作戦に失敗(7月)連合軍の反撃強まる。反ファシスト地下組織(のちのAFPFL、パサパラ)結成(8月)

1945 パサパラ、ビルマ国軍とともに対日反乱に決起(3月)。英軍ラングーン奪還(5月)。大日本帝国、ポツダム宣言を受諾(8月)。イギリス植民地統治復活。

1946 パサパラ(総裁アウンサン)、英国に早期独立要求。公務員ストライキなど広がる。

1947 「アウンサン―アトリー協定」調印(1月) 制憲議会はじまる(6月)。アウソサンと閤僚計7名らが暗殺される(7)

1948 ビルマ英国から主権を回復。 「ビルマ連邦」を国名として独立(1)。共産党武装闘争に突入(3)。カレン民族機構蜂起(7)。人民義勇軍の一部武装反乱へ( 7月)

1949 ネウィン、ビルマ国軍総司令官に就任(2)。ビルマ等、ラングーン北郊でカレン軍と交戦(1~4)

1951 第一回総選挙

1954 日本=ビルマ平和条約、賠償および経済協力協定調印(11)。翌年批准。

1956 第二回総選挙、パサバラ過半数を確保するものの、民族統一戦線(NUF)に得票率で追られる(4)。ウー・ヌ、一時首相職を退く。

1958 与党パサパラ二派(清廉派と安定派)に分裂(4)、ネウィン選挙管理内閣成立(604)、国軍の政治介入始まる。

1960 第三回総選挙、ウー・ヌ率いる「清廉派」(連邦党)大勝(2月)、ウー・ヌ、首相に返り咲く(4)

1962 ネウィン、クーデターで政権奪取(3月)、革命評議会結成。革命評議会「ビルマ社会主義への道」綱領を発表(4月)。軍がラングーン大学学生同盟会館を爆破、学生運送が非合法化される(7月)。単一政党・ビルマ社会主義計画党発足(7)、議長にネウィン。以降、企業の国有化などビルマ式社会主義経済済政策が実施される。

1964 ビルマ社会主義計画党を除く全政党に解散命令が出される(3) 1回目の高額紙幣廃貨令実施(5)

1965 4月に改正小作法施行、小・中・高校の国有化始まる(66年3月)。

1967 ラングーンで反中国人暴動が起る(6月)。

1971 新憲法起草委員会設置される(9月)

1974 新憲法公布、ビルマ連邦社会主義共和国となる(1)。ネウィンはビルマ社会主義計画党議長のまま大統領に。米不足から暴動発生(5月)。ウー・タン前国連事務総長の遺体の取り扱いをめぐって、学生たちが反政府運動を盛り上げる(12)

1975 学生・労働者による反政府ストライキ発生。

1976 タキン・コウドオフマイン生誕100年記念を機に学生たちの反政府運動(3月)。ネウィン暗殺計画に関係した青年将校らを処分( 7月)

1980 仏教全宗派会議開催。

1981 ネウィン大統領引退(党議長は継続)、後任にサンユ (11)

1983 殉難者廟爆破事件で韓国閣僚ら17人死亡(10)、ラングーン事件。ビルマ政府はその後北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)政府と国交断絶。

1985 2回目の高額紙幣廃貨実施(11月)。

1987 3回目の中、高額紙幣廃止令で学生運動高まる(9)

1988 学生たちによる本格的デモを軍が弾圧(ダダービュー事件=3)。ネウィン議長とサンユ大統領辞任(7)、ネウィンによる「次は当たるように撃つ」発言、新大統領にセインルウィン大統領就任(党議長兼任)。アウンサンスーチー民衆の前で初演説(8)9月に国軍クーデター、国家法秩序回復評議会(SLORC・議長ソオマウン国防相)全権掌握。国民民主連盟(NLD)結党(9月)アウンサンス-チーが書記長に。以降、政党がつぎつぎと誕生。民主化運動に参加した人びとへの抑圧、強制退職、逮捕などが続く。外国投資法制定(111月)、以降、ビルマ式社会主義から、市場経済へ。

1989 日本政府、ビルマ軍事政権を承認(2月)。以降、ODA継続案件順次再開へ。軍事政権が英語の国称をミャンマー(首都=ヤンゴン)に変更(6月)すると発表。アウンサンスーチー、自宅軟禁される(7月)。

1990 総選挙実施、NLD圧勝(5月)。軍事政権は政権委譲を行わず、NLDなどへの弾圧強化、支持者の大量逮捕を始める(6月~7月)。カレン解放国「ビルマ連邦国民連合政府」(NCGUB)樹立(12月)。

1991 アウンサンスーチーにノーベル平和賞授与される(決定10月、授与12月)。

1992 SLORC議長、ソオマウンからタンシュエに交代、政治犯の釈放始まる(4月)。

1993 国民会議始まる(1月)。このころから「民族和解」をめざす少数民族武装組織との交渉盛んになる。カチン独立機構との停戦協定成立(10月)。

1994 日本の経団連使節団、ビルマ訪問(6月)。ASEAN外相会議にオウンジョー外相出席(7月)。SLORC、アウンサンスーチーと対話(9、10月)。李鵬中国首相が訪緬(12月)。

1995 アウンサンスーチー、6年ぶりに自宅軟禁から解放される(7月)。NLD、国民会議をボイコット、軍事政権は全員を除名(11月)。米国・オルブライト国連大使訪緬(11月)。

1996 タンシュエ議長ら中国訪問(1月)。NLDの議員総会開催を阻止するため、軍事政権が議員・党員を260名以上逮捕・拘束、NLDは党員総会に切り替えて開催、独自に憲法草案づくりを進めることを宣言(5月)。タンシュエ議長らASEAN加盟申請のためマレーシア訪問(8月)、続いてカンボジア、(10月)、シンガポール、インドネシア(11月)訪問。国際観光年開幕(11月)。

1997 日本・高村正彦外務政務次官訪緬(8月)、軍政が国家平和発展評議会(SPDC)に名称変更(11月)、日本・橋本龍太郎首相、アセアン+3首脳会議に出席していたタンシュエ議長と会談(12月)。

1998 タンシュエ議長、フィリピン訪問(2月)、ベトナム訪問(12月)。

1999 タイでミャンマー大使館占拠事件(10月)。フィリピン・マニラで日本・小渕恵三首相とタンシュエ議長首脳会談(11月)、橋本龍太郎元首相訪緬(11月)。

2000 ラザリ国連事務総長、特使に就任(4月)。日本・深谷隆司通産省ASEAN+3経済閣僚会議のため訪緬。ウインアウン外相訪日し、高村外相と会談(5月)。日本・河野洋平外相がバンコクでASEAN+3外相会議時ウインアウン外相と会談(7月)。アウンサンスーチー再び自宅軟禁(9月)、10月頃から軍事政権と対話始まる。

2001 日本・田中眞紀子外相、ハノイでASEAN+3外相会議時にウインアウン外相と会談。ILOの訪緬団ヤンゴン入り(9月)。タンシュエ議長マレーシア訪問(9月)。アウンサンスーチーと軍事政権との対話再開(9月)。ウー・ソータ国家計画・経済開発相訪日(10月)。日本・小泉純一郎首相、ブルネイで開かれたASEAN+3首脳会議時にタンシュエ議長と会談。ウインミン第三書記ほか六閣僚解任(11月)。ヤンゴンでアジア開発銀行主催大メコン流域会議開催(11月)。中国・江沢民国家主席訪緬(12月)。

2002 軍事政権、ロシアに対して研究用原子炉の建設など原子力平和利用技術の供与を要請していると発表(1月)。アウンサンスーチー、軟禁中の自宅で国連人権委員会のピネイロ特別調査官と会談(1月)。KLO調査団、強制労働の実態調査のためヤンゴン入り(2月)。軍事政権に対するクーデター未遂事件発生、ネウィン元大統領の孫ら数人の将校を拘束(3月)。アウンサンスーチー、訪緬中のドイツ国会議員団と会見(4月)。ラザリ国連特使、数回にわたって訪緬、424日にアウンサンスーチーと、26日にはタンシュエ議長と会談。春以降、通貨チャットの下落急に。アウンサンスーチー軟禁状態から解放(5月)、前後して政治犯の釈放も行なわれる。米国・ブッシュ大統領がアウンサンスーチーの自宅軟禁解除について「解放がミャンマーの夜明けになることを期待する」と述べ歓迎の意向を表明。日本の外務省、田中均アジア大洋州局長をミャンマーに派遣。

 タイ・ミャンマー国境で軍事衝突(5月)。ヤンゴンの高級ホテルの一室で三菱商事ヤンゴン事務所所長刺殺、ホテル従業員が逮捕される(5月)。アウンサンスーチー、5月29日に日本の資金援助を受けたヤンゴンの病院を視察、6月14日にはカイン(カレン)州、22日以降は地方で遊説、ビルマ第二の都市・マレーシア・マハティール首相をはじめ、各国首脳がヤンゴン入り。3月に摘発されたクーデター未遂事件の判決公判が開かれ武装蜂起を共謀したとして、ネウィン元大統領の娘婿と3人の孫ら死刑判決、被告は控訴(9月)。オーストラリアのダウナー外相が訪緬、タンシュエ議長、アウンサンスーチーらと会談(10月)。NLDがアウンサンスーチーが訪れた西部ラカイン(アラカン)州で支持者と軍事政権とが衝突したと発表(12月)。

2003 タンシュエ議長訪中、中国・江沢民国家主席と会談、江主席はミャンマーの経済建設のため、2億ドルの特別優遇借款の供与を表明(1月)。ヤンゴン市内を中心に金融不安が高まり、銀行に民衆が殺到、取り付け騒ぎに。軍事政権は預金の引き下ろし制限を強制。

2005 11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始。

2006 10月、行政首都ネピドーへの遷都を公表。

2007 仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト長井健司を含める多数の死傷者を出した(9月)。1011日、国連安全保障理事会は、僧侶や市民らによるデモに対する軍事政権の実力行使を強く非難する議長声明案を、全会一致で採択した。民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任(1024日)。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。

2008 5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタンシュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している。

2010、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) 20035月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した(2月13日)。同年215日、国連人権理事会のキンタナ特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた。426日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日に連邦団結発展党を結成。国旗を新しいデザインに変更すると発表(1021日)。2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った(117日)。11月に政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除される。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ。新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された(117日)。軍事政権の翼賛政党連邦団結発展党 (USDP) は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) の分派である国民民主勢力 (NDF) は、140人にとどまった。NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された。総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得、NDFの議席は少数にとどまった。

2011 ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕(131日)。テイン・セインはミャンマー大統領に就任(330日)。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意。政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された(1012日)。テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認(1114日)。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した(1125日)。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。

2012 ミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された(41日)。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った。日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区の上下水道、道路、光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負った(2月)。実際の開発はミャンマー側が日本の企業を誘致し行う。ミャンマー側もかねてから日本に開発をゆだねたいという意思をテイン・セイン大統領が示していた。

 2008年に制定された新憲法により、二院制の連邦議会が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が44。議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。

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5・20難民講座終了

 難民講座は無事終了しました。

 ビルマ難民の方たちのお話はいずれもビルマの現体制の人権侵害状況をリアルに伝えるものであった。長老の方の話には、紀元前にはローマとの交易もあったというビルマの歴史的蓄積を感じさせるような深さを感じた。現在の急激な開発の波の中で、政治体制の変化も当然起るものと思うが、現政権の民主化が、少数民族には及ぼされておらず、早期の帰国は難しいということもわかった。シャン族に対しても最近、暴力的同化政策(国軍によるレイプなど)が取られるなどしており、少数民族の多くが自衛のために武装している。停戦合意は簡単に繰り返し反故にされているということだ。だから、日本の投資をひかえて欲しい、ビルマの民衆のためになるように考えた投資をして欲しいということを言われた人もあった。

 ビルマには歴史的地理的文化的民族的多様性があり、平野部においては、「アジア的生産様式」が認められる。そこからいきなり近代化がもたらされたことで、多くの問題が生まれていて、さらにイギリスの植民地政策(平野部の直轄支配と山岳地帯の間接統治―旧来の支配体制をそのままにした上で統治するという形態)の影響も残っている。このような多様性を持つ国の統一は軍事的暴力的統治によってしか実現できないと考えたのが、ネーウィン独裁政権だった。他方で、ビルマ共産党の創設者の一人であるアウンサン将軍(アウンサンスーチーさんの父)は、ビルマの詩人の言葉とされる「多様性のなかの統一」を理念として掲げたという。この「多様性のなかの統一」という言葉は実に深みのある言葉で、多様性というのは普通に考えれば、分散・分裂をもたらすものだが、そのなかに統一があると考えるのは、弁証法的である。その場合の媒介が何かがビルマの政治の鍵となるだろう。「多様性のなかの統一」を媒介するものが見出されねばならないわけだ。それが軍事独裁ではないということは歴史が明らかにしているとおりで、だからこそ、日本に多くのビルマ難民が存在しているのである。その時に、アジア性ということが一つの重要な概念となるのだろう。それから、ビルマは、東南アジアに属すが、それは、アジアの東の南であり、より大きくは東アジア史の中にある。ビルマのカレン族の人は、そのルーツは今のモンゴルのあたりにあり、そこから南下した民族だと語っていた。チベット系の諸民族もいる。そして、古くから、中国人、インド人もいる(最近、これらの人の数が増えているという)。ビルマの民族数は、政府によって操作されている可能性が高く、信用できないということであった。シャンの人の話では、ビルマ族と他の少数民族の比率はだいたい半々ぐらいだという。

 東アジアという視座をとって、改めて、ビルマや東南アジアの位置や歴史的情勢と今日の課題、その解決の仕方、関わり方などについて、考えてみたいと思った。

 なお、7月9日施行の改定入管法については別に書いたものがある。これは施行後、様々な問題が生じ、トラブルが起きることは間違いないもので、それに対する運動・闘争が起きることが今から確実に予想されるものである。

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5・20難民講座 どうなるビルマの民主化?

以下、訂正があります。開始時間は2時30分ですので、お間違いなく!

5・20難民講座
         どうなるビルマの民主化?
            ――在日ビルマ難民に聞く―

  日本で圧倒的多数割合で難民認定されているのはビルマ難民です。

  最近、ビルマ政府は「民主化」を開始し、例えば、長年弾圧してきた民主化運動のリーダーのアウンサンスーチーさんが国会議員になることを許容するなどしています。しかし、少数民族が多く住む多民族国家ビルマでかれらがどうなるかはよくわかりません。日本で最大のビルマ難民がどうなるかは、難民問題全体にも大きな影響を及ぼします。

 7月9日の改訂入管法施行と共に難民問題をめぐる大きな変化の兆しなので、今のビルマの「民主化」を当事者がどう捉えているのか、それが難民問題に与える影響はどういうものなのか、等々のことを、ビルマ難民の方から直接伺い、共に考えていきたいと思います。是非とも、ご参加下さい。

日時:520日(日)午後2時30分〜

場所:新宿区立元気館第1洋室(東京都新宿区戸山3-18-1  TEL 03-3202-6291

資料代:500(難民の方は無料)

内容:〈お話〉サイシーワンさ(在日シャン民族民主主義会)ゾーミンカインさん在日ビルマ少数民族協議会 議長)マイチョーウーさん(国民民主戦線(ビルマ)議長)、難民のアピール、等

           難民を支援し連帯する会

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国籍・民族差別撤廃と3・11

 先に、近代国民国家は多かれ少なかれ差別・排外主義的だと書いた。それに対して、多民族主義・多文化主義というのは、平等主義的で民主主義的なその解決の理念であると一般には思われているが、よくよく見てみると、そうではない。支配的民族の解体なしに、差別・排外主義はなくならないのである。朝鮮半島においては、分断から統一へという民族的課題があるということと植民地支配の清算という民族的課題があり、民族主義はまだ進歩的な役割を持っているが、それでも、資本主義的近代化の進展は、新たな課題を突き付けている。「閉ざされた民族主義か、開かれた民族主義か」というような民族主義の内容をめぐる課題もある。

  日本人の場合は、すでに資本の多国籍化がかなり進んでしまっており、民族主義は、もっぱら小ブルジョア的イデオロギーとなっていて、大ブルジョアジーはそれを適当に利用しているという状態になっている。いまさら、民族的統一だの団結だのをやり直すことを掲げても、それはもはや社会を進歩させるイデオロギーにはならない。そこで、高原基影氏が『現代日本の転機』(NHKブックス)で指摘するように、「失われた超安定社会」への幻想から来る「被害者意識」に根を持つ差別・排外主義ではなく、どう先に進むかということを考えなければならないのである。アメリカにおけるWASP(白人プロテスタントのエリート)の解体という課題と同じく、日本人の最上層の解体という課題の達成を通して、近代国民国家の終焉、国家ならざる国家へ、そして国家なき共同体社会へと進んでいくことが必要なのだ。しかし、そこに行くまでの過程で、その主体が作られねばならないが、それは運動を通して作られるしかないし、その場合に、以下のような具体的課題の解決の追求というような経験を通じて前進する他はないのである。

 右翼が「日本は滅びる」という時の日本というのは、支配者の日本でしかなく、多数住民の日本ではない。それらをしっかりと区別しなければならないのである。3・11は、支配者の日本というものとは違った日本を浮き彫りにさせるものとして、東北性(古代大和国家以来、征服・支配された土地と人としての)という歴史的性格、中央から「まつろわぬ民」と呼ばれたところの性格というものも浮かび上がらせてきている。赤坂憲雄氏(東北学院大教員、福島県立博物館長、福島県復興構想会議メンバー)の「東北学」の提起もあれば、沖縄の高良勉さんなどが言う沖縄と福島の共通性ということもあり、3・11は、この社会の様々な亀裂や問題性を浮き彫りにしている。そのような議論の蓄積をもとにして、政府が出しているような「先進的産業地域」としての復興なるふざけたヴィジョンでの復興ではない「もう一つの復興」のヴィジョンが生み出されるだろう。それについて考える素材として、中沢新一氏の『日本の大転換』(集英社新書)や『すばる』12月号「特集 フクシマを考える」などがいいと思っている。

国籍・民族差別撤廃に向けて
(流広志 2005年2月)

 1月30日のイラクの選挙は、予想通り、シーア派の勝利とスンニ派の棄権という結果に終わった。ブッシュのイラク政策を支持してきた『産経』も、さすがにカッコ付き「成功」と記すほかない惨めな結果であった。選挙が、国民の統合ではなく分裂を示したからである。そもそもファルージャ総攻撃は、選挙成功のために、その妨害を狙う「テロリスト」を掃討し、スンニ派住民を選挙参加させることが目的だったはずだ。『読売』『産経』社説はそう書いて攻撃を支持した。しかし、北部のスンニ派地域のある州の投票率2%などさんざんであり、スンニ派系政党の議席はないに等しい。選挙は「内戦」の火種を消せなかった。選挙に対する幻想はアメリカの国益のためにばらまかれたのである。ライス国務長官が自由・民主主義の基準は国益だと述べているように、アメリカ流自由・民主主義は、国益のための政治なのである。日本の民族問題の扱いは、同じことを示している。この問題の歴史的具体的な解決形態を生み出すのは、それとは根本的に異なる国際主義である。それをいくつかの事例を検討して明らかにしたい。

鄭香均さんの国籍条項裁判の最高裁不当判決を弾劾する

 2005年1月26日、最高裁大法廷は、保健師の鄭香均さんの昇任試験の受験を国籍を理由に拒否した東京都の判断を正当と認め、彼女の訴えを退ける判決を下した(2名の反対意見があった)。その理由は、「公権力の行使と国家(公)意思の形成への参画に携わる公務員になるためには日本国籍が必要なのは当然の法理」という1953年の内閣法制局見解を支持する近代国民主義に基づくものである。そして、それに当たらない範囲では、各地方自治体の裁量で、外国籍者を採用することは認められるとしている。判決は、特別永住者の歴史的特殊性を捨象した形式主義的で、あいまいなものである。
 判決を支持する藤田裁判官は、その見解の中で、鄭さんが「日本国で出生・成育し、日本社会で何の問題も無く生活を営んで来た者であり、また、我が国での永住を法律上認められている者であることを考慮するならば、本人が日本国籍を有しないとの一事をもって、地方公務員の管理職に就任する機会をおよそ与えないという措置が、果たしてそれ自体妥当と言えるかどうかには、確かに、疑問が抱かれないではない」と述べ、この問題の具体性・歴史性に向きかけている。しかし、彼は、「入管特例法の定める特別永住者の制度は、、それ自体としてはあくまでも、現行出入国管理制度の例外を設け、一定範囲の外国籍の者に、出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)2条の2に定める在留資格を持たずして本邦に在留(永住)することのできる地位を付与する制度であるにとどまり、これらの者の本邦内における就労の可能性についても、上記の結果、法定の各在留資格に伴う制限(入管法19条及び同法別表第1参照)が及ばないこととなるものであるにすぎない。したがって例えば、特別永住者が、法務大臣の就労許可無くして一般に「収入を伴う事業を運営する活動又は報酬を受ける活動」(同法19条)を行うことができるのも、上記の結果生じる法的効果であるにすぎず、法律上、特別永住者に、他の外国籍の者と異なる、日本人に準じた何らかの特別な法的資格が与えられるからではない」と述べ、入り口に立っただけで終わっている。
 彼は、特別永住者を、「あくまでも・・例外」、「・・制度であるにとどまり」、「・・にすぎない」と、消極的に規定している。それは、日本人に準じた特別の法的資格ではないというのである。しかし、朝鮮半島の植民地化、戦後における一方的な国籍剥奪、無権利・差別の歴史、暴露された日韓基本条約での日本の戦争責任回避、等々の歴史を見れば、「在日」に特別の扱いをするのが正当であることは明らかだ。特別永住者の制度により、日韓基本条約以来、日本の対朝鮮半島政策での「南」支持・優遇のために、「在日」の地位に分断をもたらしていた「協定永住」などの細かい区分が消えた。法律上、入管制度上の例外にすぎないというのは形式主義である。たとえ、法形式上そうであっても、内容上は、明らかに、それは、歴史的特殊性を考慮した制度であり、「日本人に準じた特別な法的資格」であり、公的権力の行使・公的意思形成過程への参画を含む日本国籍者と同等の権利付与まで進むべき過渡を示すものである。
 この最高裁判決は、1953年の内閣法制局の「当然の法理」としての国民主義を持ち出した。現在の憲法論議は、根本的議論を行うと口先では言っているが、国民主義を当然の前提として進められている。鄭さんが、最終陳述で述べているように、GHQの憲法草案のpeopleを日本側が国民と訳したことから、日本国憲法が国民主義を基本とする解釈が強められたのである。peopleには人民という意味があるので、鄭さんの言うように人民主義を基本とすることも可能である。現在の自民党の憲法調査会の議論では、憲法前文が無国籍的だとして、国民主義的に変えようという意見が出されている。自民党は先祖帰りして、すでに知っていることを思い出すことを議論と称しているだけなのだ。こんな議論もどきに一部マスコミが飛びついて何か重要なことであるかのよう騒いでいるのは、保守派の宣伝機関を務めているだけのことである。
 この最高裁判決は、特別永住者問題という歴史的特殊性の具体的評価を捨象し、古くさい国民主義を不動の前提として、国籍による差別のない新しい社会への前進を頭から拒否した不当なものである。

 (1)櫻井よしこ氏の個人主義・自由主義・エリート主義的支持論

 2004年2月1日「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会(確立協)」(李敬宰会長)設立記念集会が都内で開催された(参加者は、「JANJAN」では200人、ツルネン・マルティ氏の報告では100人、「高槻むくげの会」の報告では150人)。そこで、櫻井よしこ氏が講演を行った。「JANJAN」の記事によると、彼女は、参政権には日本国籍が必要だと述べ、届け出だけで日本国籍がとれる与党がまとめた「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律(案)」を早く通すべきだと述べた。彼女は、「差別があるのは当たり前、乗り越えていく障害は自分を育ててくれる材料である・・・・・・どの国にも差別があります。アメリカは素晴らしいところです。オープンな形は好きです。だからといってあの国に差別がないと思ったらとんでもない。日本の差別よりもっと根深いかもしれない」(同紙)。つまり、差別をなくすことは遠い理想であり努力目標であって、現実には差別はなくならない。日本よりも根深い差別社会であっても、オープンな形のアメリカ型の差別社会の方がいい。差別は、各人が努力してそれを乗り越えていく障害であり、自分を育ててくれる教育の役割をも持っているというのである。差別はあって当たり前なので、個人が強くなって、上にあがって、競争の勝者・強者として支配階級に入ればいいというのだ。彼女は、そうした強者として、サッチャーやライス国務長官のような女性を高く評価している。
 ライス国務長官は、エリートなることで差別から解放されると信じる親によって教育されたが、その結果、彼女は、9・11事件後のアラブ系住民への差別・抑圧・人権侵害にも無関心な冷たい人間になった。公民権運動の一部でこうした傾向が生まれたのだが、今は、こうした負の側面の反省が進められている。
 差別問題についての彼女の基本思想は、ブルジョア自由主義であり、それは、前稿で紹介したパット・ブレアーが右翼フェミニズムの台頭と表した現象の根本にあるものである。個人が絶対化され究極の責任主体とされる。しかし、彼女の描くような個人は、私有制の発展した特定の歴史的社会関係が生み出したものである。江戸時代の農村は連帯責任制だった。
 また彼女は、女性差別との闘いについて、自分が先駆者として後に続く女性の道を開いたと自画自賛しているが、この法制度の女性差別的側面にふれていない。この法と民族名の戸籍記載が容認がされても、夫婦別姓制度がないと、戸籍制度自体が女性差別制度である上に、どちらかの姓を選択できると形式的には平等に法文上はなっているが、実際には、家父長制の社会的慣習制度の力が強いために、男性の姓を選択する場合がほとんどであるような状況では、女性の民族名が消えていく可能性が高いという女性差別が絡んでくるのは明らかである。さらに、すでに批判があるように、問題を理性的に追求すべき人なら当然考えなければならない二重国籍問題にふれないのは不徹底である。
 差別をなくすことではなく、差別社会の中で、個人が強くなるという個人主義・自由主義・エリート主義が彼女の差別観と差別への関わり方を貫いている。彼女は、勇ましい言葉とは裏腹に、現行秩序を保守・絶対化し、それを変えることに消極的である。ただ一握りのエリートが個人として支配階級入りできる機会平等があればいいのである。それは問題のブルジョア自由主義的解決ではあるが、こんな多くの人にとって夢も希望もない解決は本当の解決ではない。彼女のような保守思想が空想的で非現実的なのは、個人・国家を見るが、社会や共同体を見ないせいである。だから、現実を変革して、実際に問題を解決することができないのである。それは、差別をなくすには社会・共同体を変革しなければならないが、それを呼びかけないで、差別に負けない強い個人になれという精神主義的説教でお茶を濁すということに現れている。差別に負けないと同時に差別をなくす社会性ある主体になること、差別からの解放の社会的共同の主体になることが、問題を本当の解決に導くために必要なのである。

 (2)坂中東京入管局長の同化主義的支持論

 坂中英徳東京入管局長は、90年代に、特別永住者が年1万のペースで日本国籍取得したため、このままだと約50年で特別永住者が消滅すると危機感をあおった上で、「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律(案)」を成立させるべきだと主張している。この人物については、この問題以前に、その管轄下で、入管が行っている数々の人権侵害や虐待行為などの「悪業」を直すべきだということがある。東京入管はつい先日もクルド難民二家族を強制送還するという「悪業」を働いたばかりだ。外国人を人間として扱わない入管行政を放置している責任ある大幹部が、どうして偉そうに「多民族共生社会」について語れるのだろうか。これは入管の実態を多少とも知るものに共通の思いだろう。まずは、足下の入管行政の改善に努め、責任を取るべきだ、と。例えば、彼は、2003年11月12日のアジア財団の国際シンポジュームで立派なことを述べている。「外国人を主として管理・規制の対象としてとらえる今の姿勢のままでは、「外国人を引きつける日本」「多民族が共存する日本」へと飛躍・発展できない。原則として外国人の権利を日本人と同等に保障するという基本的立場に立って、日本人と外国人の融和を図ることに主眼を置く、社会の少数者である外国人の立場に配慮する「外国人保護行政」への転換を図る必要がある」「民族や文化を異なる人たちと共に生きるという姿勢と外国人に対する偏見と差別のない社会を作ろうという気概が日本人に見られないのであれば、外国人の全面的な協力を得て経済大国と高福祉社会を維持してゆくという生き方をあきらめなければならない」(アジア財団HP)。まずは自ら率先垂範すべきだ。
 しかし、特別永住者の日本国籍取得が進んでいるし、日本人と結婚する者が8割を超えるというデータが示す現実があるのも確かだ。前者には、90年代の歴史的特殊事情がありそうである。後者の場合、日本人と特別永住者の子供が日本国籍を選ぶ場合が増えていることから、その急速な減少傾向が予想されているわけである。彼は、「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律」が成立すれば、それがさらに加速すると期待しているのである。入管データによると、韓国・朝鮮籍は、1994年に676,793人、2003年613,791人で、平均で1年に約6300人、10年で約6万3千人減少している。全外国人登録者に占めるその割合は、94年50%、2003年32.1%である。これに日本国籍取得者を加えると、「在日」の総数は約120万とも言われる。朝鮮民族が最大の在日少数民族であることに変わりはないが、他の外国籍の住民が増加しているために、全体に占める比率が下がっている。
 坂中東京入管局長は、アジア財団の国際シンポジュームで、8割(彼は9割と言う)を超える日本人との結婚や年に約1万ペース(この数字は一時的なものである)の日本国籍取得は、「在日」の同化が進んでいる証拠であり、その実態を法・制度に反映させることが必要だと述べている。また、特別永住者の制度は、在日外国人に対する法的地位としては最高のもので、それは日本国籍取得の前段階にすぎないと述べている。彼は、同時に、すでに同化している「在日」の民族名の戸籍記載を認め、在日コリアンとしての民族性を守れるようにすべきだと言っている。それは「国民という法的地位と、市民や生活者としての文化や民族は分けて考えるべきだ」(2003年12月14日『愛媛新聞』)という視点からのものである。彼は、同化が国民化と民族性の共存を実現している理想として、櫻井よしこ氏と同じように、法的地位としての国民(市民権)としては統合されているが多民族社会であるという形の移民国家アメリカ型の国家・社会を思い描いている。彼は、日本人の人口減少が、移民国家化をもたらすので、移民との共存の仕方として国民(法的地位)と民族性を分けようというのである。これは単一民族国家論に対する批判のように見えるが、やはり彼が言う同化は民族的同化を意味している。
 同シンポジュームで彼は、「今日の世界秩序の基本である国民国家体制の下においては、「外国人の地位」と「国民の地位」の間には越えられない壁がある。外国人の地位のままでさらなる権利を要求しても、例えばすべての政治的権利と無条件の居住権を求めても、これらの権利は国民固有の権利とされているので、決して外国人に与えられることはない」「時の経過とともに民族意識が風化し、朝鮮半島からの民族離れが進むのは自然の成り行きだ。/しかし、少なくとも名前だけは民族名であってほしいと思う」「その時(多民族社会化する時―筆者)、日本人に求められるのは、自らの民族的アイデンティティを確認するとともに、アジアの諸民族その他すべての民族を対等の存在と認めて待遇する姿勢を確立することである」と述べている。民族性は自然風化で消滅するものだし、「在日」の同化はきわまっているので、せめて名前だけには民族性を残そうというのである。しかし、名前だけでなく、民族的アイデンティティを獲得しようという運動が各地にある。同化がだめなら、そういう運動を支持・支援し、「在日」の民族性を育てるような具体策を示し、民族学級や民族学校などの民族教育を積極的に支援すべきだろう。しかし彼はそう言わない。わけがわからない。彼は、3世・4世は同化しきっていると見ているのに、これからは民族性を取り戻さなければならないという。そうしないと移民としてのコリアン系日本人にならないというわけだ。移民国家化のさきがけとしてのコリアン系日本人化の理念先行のエリート主義的主張である。
 また、今、日本人の間に民族性についての共通理解などない。それは自民党の憲法論議で、日本の伝統とは何かという問いに一致した答えが出せないことにも現れている。日本人の民族意識も風化した。彼は、日本人が自らの民族的アイデンティティをあえて確認し直さなければならないと認めたことで、民族的アイデンティティが自然風化に逆らって人為的に作られることを認めたことになる。彼は、「人類を、それぞれ独自な生活原理と独自な目的をもつ単子〔モナド〕へ解消すること」「社会戦争、すなわち万人の万人にたいする戦争」「人々はたがいに相手を役に立つ奴としか見ない。誰もが他人を食いものにする」「強者が弱者をふみにじり、少数の強者、すなわち資本家があらゆるものを強奪するのに、多数の弱者、すなわち貧民には、ただ、生きているだけの生活も残されない」(『イギリスにおける労働者階級の状態』1国民文庫83頁)という資本制社会の利己的個人化と民族同化を混同しているのである。
 彼は、移民国家アメリカには、民族的人種的な差別的ヒエラルキーがあり、民族・人種が同化することなく、民族・人種集団としてのアイデンティティを強弱の波があるが保持し続けている差別社会への転換を目的として「在日」の日本国籍取得推進を主張していることになる。アメリカでは、WASP(白人プロテスタント)を頂点とし、第二位の民族・人種、第三位の民族・人種・・・・という形での差別的序列があり、それがそれらの力関係の変化に応じて、時に順位が動く。例えば、アメリカ社会でユダヤ人は長く劣位におかれた民族であり、差別的ヒエラルキーに組み込まれていることには変わりはないが、今はずっと上昇している。ブッシュも南部出身という点が強調されるが、東部エシュタブリッシュメントとしての高等教育を受けている。
 また、彼は、「多民族社会における日本人と日本国は、アジアの諸民族その他すべての民族を自分たちと対等の存在として受け入れ、待遇するという基本姿勢を確立することが求められる。その上で、さまざまな民族集団を日本国という一つの国民国家秩序の下にいかにしてまとめてゆくかという困難な課題に立ち向かわなければならない。/そのときには、日本人と固い絆で結ばれ、民族名を名乗り、朝鮮系日本国民として生きる在日韓国・朝鮮人は、まさに多民族の国民統合の象徴として日本社会で重きをなすであろう」(同上)と述べていることで明らかなように、「在日」に対して、日本国籍を取って、「国民統合」し、日本国家を支える第二位の民族になるように勧めている。

 (3)国籍による差別撤廃方策の選択肢の一つとしての賛成論

 両者とは異なる観点からこの法案の趣旨に賛同を示しているのがフィンランド系日本人で民主党議員のツルネン・マルティ氏である。その基本は「国籍による差別のないことが国際社会の理想の姿である」(確立協HP)というものである。その上で、選択肢の一つとして届け出だけで日本国籍を取得できるようにすることに賛成している。しかし同時に、在日外国人の地方参政権も必要であり、「日本人と同様に地域住民としての権利と義務を持ちながら日本国籍を選ぶか、それとも母国国籍のままで日本に暮らすかという選択」権を持つべきだとしている(同上)。また2002年4月の「多民族共生社会への提言」では、「帰化したのは、日本人になればこの社会で生きていく上で、非常に便利だから。例えば国政選挙にも参加できる、社会保障や老後の問題なども国籍を取得すれば解決する。しかし、帰化しないと今の日本社会ではこれらの問題は解決しない。帰化と共生とは別問題であり、帰化してもしなくても日本社会で共生ができることを願う」(氏のHP)とも述べている。つまり、氏の場合は、国籍は自由意志による強制のない選択行為だったということである。「在日」の場合は、歴史的経緯などによって、そうなりにくい。氏の根本は、国籍に関係なく在日外国人に地域住民としての平等の権利が与えられるべきだというものであり、したがって、彼は、日本国籍積極的取得推進派ではなく、それを自由意志による選択肢の一つとするという立場である。この場合の自由意志が形式的外見的なものでないことを意味することは文脈から明らかである。

 多文化主義からする日本国籍取得積極推進論批判

 すでに述べたように、日本国籍取得によって、「在日」の問題は、国籍問題とは切り離されて、同一国籍内の民族間の関係の問題に移行する。それを多民族共生社会化と言うのであれば、その限界はすでに見えている。『火花』207号(1998年11月)「マルチカルチュラリズム(多文化主義)のゆくえ ―オーストラリアの人種・エスニック問題をめぐって3」は次のように指摘している。
「ところで、マルチカルチュラリズムの推進者たちは、それを「国民統合」の中心理念におくことを主張している。だが、マルチカルチュラリズムは、古い区切りに基づく秩序を自律的な結合に基づく新しい社会秩序に置き換えようとする実験ではないか。それが歴史的概念としての「国民統合」とすっきり結びつくとは思えない。/さらに、次のような問題を指摘しておかなければならない。/先に触れたとおり、資本主義のもとで階級・階層分裂が不可避に進行している。それは社会諸集団の地位の変動や分解・序列化とも結びつく。この現実を脇においた形での「国民統合」は全くの幻想である。そして、本稿ではとりあげなかったが、オーストラリアの国家(権力)機構をどうするのか、という問題がある。それは、資本主義的秩序を維持するために構築されたものであり、不断に境域を越えようとするマルチカルチュラリズムに対する「たが」としての役割を果たし続けるだろう。また、それは帝国主義の世界支配体系の一環として存在する。オーストラリアの国際政治でのふるまいがストレートに多文化社会内の政治的緊張につながることは想像に難くない(注5)」。
 すなわち、民族は、歴史的にブルジョアジーによって国家と結びつけられてきたが、それは「国民統合」の差別的ヒエラルキーとして構成されてきたのであり、同時に、階級・階層分裂と絡む形で形成されてきたのである。また、「在日」の存在は、朝鮮半島をめぐる国際関係を反映する。それらを捨象して、現象のいくつかの特徴を取り出して強調することは抽象的である。たとえそういう抽象的な考えの実現として、なんらかの制度が作られたとしても、現実の矛盾の解決形態としてマッチしなければ破綻する。そうなれば、歴史的解決形態に到達するまで、さらに運動が必要となるだけである。
 国民化と多民族共生社会化を結びつけることは、同時に、国民と民族を切り離して二重化することを意味する。坂中東京入管局長は、近代国民国家の支配民族である支配階級=国民の一員で、そんな二重化を生きたことなどないのに、それが進むべき道であると強調する。それを日本人に適用するなら、日本人は新たに民族的アイデンティティを確立し民族として形成し直さなければならないことになる。それは日本人を多数支配民族として形成し直すだけであり、民族間の平等化の反対である。それに、近代国民国家とは、国民として組織された支配階級のことに他ならないのであり、被支配階級・階層は、形式的には国民であるが実質的には国民ではない。彼の言う多民族共生社会化は、国民としての同化、「国民統合」が前提なのであり、それは、多民族から競争で選抜された一握りの勝者を支配階級=国民へと組み込み、その他を被支配者にするだけで、民族間の差別を解消するための具体的方策もないアメリカ型の新たな差別社会への移行を意味するにすぎない。法的地位の平等は形式的平等にすぎない。
 これにはフェミニズムをめぐって起きている混乱に似たところがある。内容上対立している主張が、部分的に、あるいは抽象的なレベルで一致していたりする。パット・ブレアーは、拙稿ではラディカル・フェミニストに分類したドウォーキンとマッキャノンをカルチュラル・フェミニズム(文化的フェミニズム)としているが、彼女たちが、歴史の無知ゆえに、19世紀のエリート主義的道徳主義的な立場をフェミニズムに引き入れ、男性すべてを潜在的レイプ犯と見なす機械主義的決定論的観点から、分離主義的で社会純化主義的な方策を主張するようになったが、それはナチスの思想に似ていると指摘している。機械主義的な決定論は、社会の平等主義的な変革を不可能とする主張になり、それが保守主義者の消極的な自由観に結びつく。したがって、彼女たちは、社会・国家の根本的な変革や権利の積極的な獲得ではなく、消極的な自由としての法の執行、「小さな政府」の中心的な治安機能の発揮を、積極的な対策として押し出す。彼女たちの主張では、ポルノグラフィーの公的規制は、暴力犯罪の予防・規制であり、治安対策なのである。それは、パット・ブレアーが指摘している通り、新たな抑圧と差別を生むだけだ。しかし、男性の女性へのジェンダー支配を批判し、性暴力をなくそうとしている点では、他のフェミニズムと共通する。

 さいごに

 坂中東京入管局長や櫻井よしこ氏のような「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律(案)」を支持する日本国籍取得推進論は、前者が同化主義的で後者が個人主義的自由主義的という違いはあるが、近代国民国家の国民=支配階級という共通の立場に立っている。しかし、この問題では、ツルネン・マルティ氏の言うように、基本は「国籍による差別のないことが国際社会の理想の姿である」ということであり、鄭さんに下された最高裁不当判決は、それに反するものである。国籍条項はまず特別永住者については全廃すべきである。特別永住者の権利拡大は、在日外国人の権利拡大の道を切り開く。国籍と民族性の結合は歴史的なものである。同国籍内での日本の民族=国民=支配階級による民族的抑圧・差別が、アイヌの民族的団結と復権を促進したように。また、支配階級の影響によって形成されている被支配階級階層の差別性をなくす変革が必要である。
 支配階級=国民=支配民族に対する被支配階級階層の解放運動の当面する任務は、自らを別の支配階級・別の国民に形成することである。しかし、形態はそうでも、内容は国際主義であり、国境に左右されないプロレタリア的利害である。それは、支配階級=国民に対する別の国民なのだが、形態も内容も国際的なプロレタリアートへの成長の過渡を示すにすぎないし、そうすべきである。
 諸民族の強制によらない自由な接近・融合とプロレタリアートの国際文化の発展を支持するという立場から、プロレタリアートが内容において国際主義的になっていくこととして、「国籍による差別のないことが国際社会の理想の姿である」を基本に、「国民統合」をうち破り、国籍条項などの民族差別のあらゆる現れをなくす運動の発展を支持する。そして、この領域をめぐって、上述のような日本型差別社会からアメリカ型差別社会への転換を求めるような批判を要する議論も含めて、運動内から、新しい社会の内容や質を求める議論が出てきていることに注目し、それを「未来の創造」への飛躍と結びつけることが必要である。

民主労働党など進歩政党が統合 新党結成へ=韓国

【ソウル聯合ニュース】「進歩政党」を掲げる韓国野党の民主労働党、国民参与党と新しい進歩統合連帯の代表は20日、国会で記者会見を開き、3団体を統合し、新党を結成することで合意したと発表した。

 統合の理由については、「新しい政治を望む国民の熱望に応え、来年の総選挙と大統領選挙で勝利し、政治を根本的に改革するため」としている。

 また、福祉国家の実現に向け、労働者、農民、庶民の生活が保障され、社会的弱者と少数者に配慮する共同体を目指すとともに、朝鮮半島の平和を定着していく方針を示した。

韓国留学の外国人、68%が「学校内と外でいじめ経験」(東亜日報2011・11・21)

「9万3232人」

 2011年現在、韓国に滞在して勉強している外国人留学生の数だ。最近5年間の傾向を見ると、来年には10万人を上回るものと予想される。 2004年、政府は「スタディコリア・プロジェクト」を立て、「2012年までに国内大学に外国人留学生10万人を誘致し、留学・研修の収支を改善して、 韓国文化を世界に伝える」と発表した。量的目標値は事実上達成された。では、外国人留学生が体感する韓国での教育と生活の質はどうか。

 東亜(トンア)日報は、「外国人留学生10万人時代」を目前にして、今月14日から20日までの1週間、ソウル、忠清北道(チュンチョンプクト)、慶尚南道(キョンサンナムド)、慶尚北道(キョンサンプクト)、全羅北道(チョンラプクト)地域の23の大学で、外国人留学生125人にインタ ビューした。

 調査結果、回答者の68%にあたる85人は、「学校の内と外でジェノフォビア(外国人嫌悪症)による差別を受け、のけ者にされる体験をした」と話した。10人中7人が外国人という理由で不公平な扱いを受けているのだ。

 学内で差別を受けたと答えた44人中31人は、「韓国語が下手だったり皮膚の色が違うという理由で、朝会や授業でのけ者にされたことがあ る」と語った。教授が「外国人いじめ」を助長するケースも少なくなかった。「教授が最初の授業の時に中国人は皆出ていけと言った」、「不当にFをつけられ たが、理由は説明されなかった」、「外国人という理由で発表の順から除かれた」など、11人が自分の差別経験を打ち明けた。

 外国人留学生は、キャンパスの外でも差別を受けた。アルバイト経験がある留学生70人のうち32.9%にあたる23人は、最低賃金(1時間 当たり4320ウォン)以下の給料を受け取っていた。漢陽(ハンヤン)大学に通うある中国人留学生(29)は、大学前のコンビニエンスストアで休日もなく 1日10時間働いたが、時給4000ウォンしかもらえなかった。病気になって入院すると、社長は「約束を守らなかった」と1ヵ月分の給料120万ウォンか ら40万ウォンしか渡さなかったという。留学生の中で、労働基準法や最低賃金制について知っているのは22人しかいなかった。

 亜洲(アジュ)大学心理学科の金恵淑(キム・ヘスク)教授は、「韓国人は自分のことを外国人に比べて高く評価する『自集団への偏愛』が非常に強い」とし、「外国人のそばには座らなかったり、外国人を卑下する発言をするのも偏愛の症状だ」と説明した。中央(チュンアン)大学社会学科の申光栄 (シン・グァンヨン)教授は、「米国で学ぶ留学生の多くが、米国社会の排他主義によって反米主義者になって帰ってくるという研究結果がある。韓国社会の行きすぎた差別は、韓流のような肯定的な理由で韓国を訪れた若くて賢明な外国人まで背を向けさせることになる」と憂慮した。

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